Lessonmanual

先生の質問のメールより

「頭ごなしの教育の危険性について」

音楽を指導する先生方へ

[返信メールより]

芦塚メトードの根幹となる重要な課題を、こともなげにピアノを指導している先生から質問されてしまったので、そのメールの返事を延々と長い時間をかけて書き続けています。

・・・と言う事で、そのきっかけとなった、メールから紹介します。勿論、匿名ですが・・。

 

ピアノの先生から私への相談のメール

 

先日、コンクールが終わって、音大卒業のピアノの先生たちが、生徒のことについて、集まって話をしていました。私の生徒もコンクールに出た関係上、他の先生と一緒に話を聞かなければならない状況になり、仕方なく話を聞いていました。

 

その時に話し合われた話自体は、子供を叱ると言う事について、先生達は「ピアノのレッスンで子供を叱っても、本人が練習をしてこないのだからしょうがないでしょう?」とか、子供を叱る事、怒る事について、話をしていたようですが、私自信にとっては、つい2,3日前にも同様な事件がありました。

 

この文章はメール交換中の文章なので、それまでの人間関係や話の内容が分かりにくいので、私のト書き入りです。青色の文字が私の説明になります。

まず、H先生と言う人が、私の弟子で、このメールの相談相手です。

K先生は、H先生の年下の同僚で、生徒を頭ごなしに叱った張本人です。

保育園の先生と言うのは、K先生の生徒の父兄でH先生の子供が通っている保育園の先生でもあります。

そういった、ややこしい人間関係があるのですが、地方の音楽教室では狭い世界なので、これぐらいのややこしさは当たり前の事です。

H先生の子供と、K先生の教えている生徒の親の子供(兄弟)は、保育園で一緒のクラスです。

と言う事もあって、時々そのK先生のご父兄から、K先生のlessonについての、相談を受ける事があります。

これから先の話の内容と、この複雑そうな人間関係は全く関係がありませんので、無視していただいてもかまいませんが、とりあえず、そういう前提の下にこのメールを読んでください。

 

K先生の生徒の父兄(このメールの差出人のH先生の子供が通っている、保育園の先生)と話していたら 「『今日、**君(その父兄の子供)を泣かしときましたから・・。』 と K先生から言われました。」と、笑顔で話していました。

 

それで、次にどういう事件に発展したかは、個人的な話になるので、この際避けますが、その問題を惹き起こした原因だと思われる、「叱る事に対しての意識のなさ」について、質問をしたいと思います。

 

私の感想としては、そういうことを平気で言うK先生は、「悪いのは、練習をしようとしない子供本人であって、それを監視して、口うるさく「やりなさい!」とお尻をたたくのが母親の役目で、先生は生徒がやってこないと声をあらげて、厳しくおどしながらも、一緒に弾けるまで、何度も同じところを手で教えて覚えこませるのが、仕事と思っているということでしょうか?

 

それでも、まだ一緒に練習してくれる先生はましです。

私が不思議だったのは、結局の所、音楽の指導内容に関しては、何も教えてくれなくって、怒鳴って、威張りまくっているだけの先生を、「厳しくて良い先生だ。」と思う親がいることなのです。

それはどうしてなのでしょうか?

 

小さい子を教えていて、親に尋ねられる事が多くて、返答に困るのが、「レッスンでは先生の言う事は聞くのですが、親が家で練習に口を出そうとすると子供から拒絶されるのですが。」という言葉です。

こういった事を言われた時、どういう風に返せばいいのか分からなくなります。

そういった事を言う親は 先生に対してジェラシーを感じているのか、それとも先生の子供に対しての扱いの上手さを褒めている方にとってよいのか、はたまたそれらとは別の意味があるのかが、分かりません。

 

そういった事がよく分かりません。教えて下さい。

 

 

 

この話についてお答えする前に、質問の内容を整理しておきますと、

A:「何も教えていなくて怒って、いばっているだけの先生が、厳しくて良い先生だ。」と思う親がいることなのです。と言う点と・・・・

B:「親が家で口を出そうとすると子供から拒絶されるが、レッスンでは、どういうわけか先生の言う事(おっしゃる事)は聞くんです。」と言う点の二つに分かれます。

 

第一点のお話

[厳しい先生はえらい先生?!]

まず第一点の「何も教えていなくて怒って、いばっているだけの先生が、厳しくて良い先生だ。」と言う話ですが、儒教の影響からか、日本人の多くは「厳しい先生」がえらい先生であると言う錯覚を持った人が多いのは事実です。

此処には日本人の持つ大きな勘違いがあります。それは「厳しい=レベルが高い」という勘違いです。

「本当の厳しさ」とは内容の水準の事で、「指導の方法」ではないのですが、そこの所を皆さんが勘違いしてしまうのです。

「偉そうにしている」のと、本当に「偉い」のは違いますが、一般の人達は判断基準を持っていないので、それを役職(肩書き)に頼るのです。自分が本物を見分ける能力が無いのだからいたし方ありませんよね。

 

と言う事で、一般の考え方は

*「簡単に習得できる事は価値が無い」・・・・いかにも難しそうで、大変な事はレベルが高いことだが、簡単に分かり出来る事は,レベルが低い。

*「子供が楽しんでやっていることは、所詮、遊びだ」・・・・「楽しんでやっている事は、勉強では無い。」・・・という考え方は日本ではパピロマ・ウイルスのようにはびこっています。

 

[子供の感じる厳しさと、大人の感じる厳しさの違い]

この質問をぶつけてきたH先生がまだ小学生のときに、初めて私の教室を訪れて来て、体験レッスンで私のレッスンを受けました。

初めての私のレッスンを見ていたHちゃんのお母さんが、Hちゃんに「芦塚先生、厳しいね。」と言ったら Hちゃんは「ううん・・、芦塚先生、やさしいよ!」と言いました。

と言う事で、後日 お母さんが 私に「子供と大人では、厳しいという感覚が違うのですね。」と言ってこられた事がありました。

Hちゃんのお母さんのように、lessonの密度が濃いと、「厳しい」と感じる人はとても稀な人で、殆どの人は、態度や言葉遣いがきついと、「lessonが厳しい。」と感じるようです。

特に音楽大学生の場合には、「levelが高いと、人当たりも厳しい。」と感じる人が多いようで、そこが役職による肩書きが分からない、直感型の子供との感覚のずれになるようです。

子供の場合には、内容が面白く、楽しく笑いながらlessonが運営されていると、難しいことを習っているとは感じません。

ですから、教室の生徒などは、楽しくlessonに来て遊んで帰って、家でもそんなに練習もしないのに、音楽大学に入学したり、コンクールで全国大会に入賞したりしてしまいます。

しかし、世間一般では「音大に行く事はとても大変だ」と言われているので、コンクールで全国大会に入賞したような生徒であっても、毎日4時間5時間の練習はあたりまえで、一日でも欠かすと、音楽大学には入学出来ないなどと言われてしまうと、コンクールに入賞する事よりも、音楽大学に入学する事の方がlevelが高いような錯覚に陥ってしまいます。

そこで私が、幾ら 「このままののんびりしたペースででも、ずっと勉強を続ければ、プロとして充分に通用出来るよ!音楽で食べていく事が出来るよ。」と言っても、私の言っている言葉を信じられなくなって、一般で言われているような「音楽のプロであるためには、「兎に角、辛い受験のための勉強をして、音楽大学に入学して、更に毎日何時間もの辛い練習をこなさなければプロになれない。」等とそういった一般的な考えの方が正しいように思い込んでしまいます。

日本人は儒教的な社会通念からは、なかなか抜け出す事が出来ないのです。

教室で私に師事して10年以上習っている生徒達ですら、そうなのですから、ましてや教室には関係のない一般の人達が、私達の「学ぶと言う事に対しての考え方」を理解できないのは、極々当たり前のことでしょうね。

 

[ヨーロッパと日本の違い]

しかし、日本の常識は世界の非常識と言う言葉があるように、勉強をすると言う事・・・、その事に対して、ヨーロッパやアメリカ諸国では、「生徒も先生と対等の大人の人間である。」と言う風に考えます。

ですから、ヨーロッパの先生は生徒の事を、自分と対等に敬称をつけて呼びます。「Mr.Ashizuka!」とかです。

生徒は先生の事を「Herr Professor!」とよく呼びますが、HerrもProfessorも両方とも敬称ですから、昔風に「先生様!」とかいっているようなものですかね。

ヨーロッパでは肩書きが優先しますから、「Professor Genzmer!」で「ゲンツマー先生!」になります。

Prasident(大統領、学長等)も、Herrの敬称よりも優先します。

ですから本当は二重に敬称をつける必要は無いのです。

私はドイツ留学中には、ドイツ人のファミリーに家族同様にとても可愛がってもらいました。その家庭には、私よりも少し若い兄弟がいて、特に中学生ぐらいの弟(15歳、ドイツはギムナジウムなので、中、高一貫で6年制です。)が、大学生の私の面倒をよく見てくれました。と言う事で、男の子達は私と親しいduと言う言葉で呼び合っていましたが、お母さんやお父さんには、敬称のSieで話していました。1年が過ぎた頃、お母さんが改まって、私に「Yoji, あなたとduでしゃべっていいかしら?」と恥ずかしそうに、話しかけてきました。私はこう答えました。「勿論ですよ。でも、日本では目上の人に、duで話す慣習は無いので、私がお母さん達をduで呼ぶのはちょっと難しいのですが。」と言うと、ドイツのお母さんは「それは、良く分かるわ。ドイツも戦前まではそうだったのよ。」と教えてくれました。ちょうど、同じ頃、学校の食堂でも、ドイツ人の友人達が、やっぱり、とても恥ずかしそうにして「duでしゃべってもいいかい?」と聞いてきました。「当然!Warum nicht!?(当時のくだけた言い方で、何故駄目なの?)」結構、皆シャイでしたね!

 

下世話な事を好む人達は、ブラームスとクララが恋愛関係にあったと言う人もいますが、その場合には、誰も見る事のない私的な手紙では相手に対しての呼びかけはSieではなくて、より親しいduに変わってしまいます。

ブラームスが晩年になって、クララにお願いをします。

「お願いですからduでしゃべってください。」 と申し出る手紙が残っています。クララはブラームスの希望を聞き入れて、ブラームスに対してduでお話しするようになったのですが、ブラームス自身はクララに対して一生(死ぬまで、尊敬の)Sieでしゃべっていました。

生涯を尊敬するシューマンの奥様であり、尊敬する母親のような存在のクララに対してのブラームスの態度は生涯変るものではありませんでした。もし本当にブラームスが下世話な人達が言うように、クララと愛人関係にあったのなら、二人の私的な手紙はお互いを「du」で呼び合わなければならないのです。

それが敬称のSieに現れているのです。

もっとも、クララの娘のユリアには少なからず恋心を抱いたようですが・・・。(それが、年齢的にはちゃんと合います。)

 

ちょっと話が横道にそれてしまいましたが、ヨーロッパでは威張ってlessonをする先生の方が珍しいです。

Genzmer先生との授業風景

本当に世界的に名前の売れている先生も、初対面とか、ちょっと挨拶するだけでなければ、とても丁寧に接してくれます。そこは日本人の先生とは大違いです。

私は日本人が威張るのは、自分に対して自信がない事の現れであると考えています。

兎角、中身のない人間は威張りたがるものです。

トラの皮さえ着ていないのにね・・・。

私の場合には、小学生までの子供達には基本的には**ちゃんと呼びます。勿論、大人(高校生であっても)の場合には**さんと呼びます。

しかし、私の直接の弟子は、名前の呼び捨てです。

子供の場合も、Cオケ(専科生のオケ)の生徒については、呼び捨てになります。

それは子供の音楽に対しての意識の差を表しています。

また、先生と生徒の音楽に対しての密度と厳しさを表現しているのです。

私も弟子に対しては決して優しくはありませんから。

但し、だからと言って感情的に怒る事は絶対にありません。

私が感情的に怒った時には、逆にとても優しく丁寧になります。つまり私にとって部外者になるからです。

育てる気がない人に対して、怒った所で、自分のエネルギーの損失になるだけですからね。

 

[叱る事と怒る事]

まずここで、誤解しないように、はっきりとさせておかなければならないことは、「叱る事」と「怒る事」の言葉の違いです。

私は「叱る事」は、ちゃんと目的を持って、子供の姿勢を正す事と把握しております。

それに対して、「怒る事」は、自分の感情を感情のままに子供にぶつける事だと思います。

 

[叱ったり、怒ったりするその前に・・・]

Lessonを終えたピアノの先生が言います。

「子供が間違えたから、(或いは、弾けなかったから)・・・叱った(或いは怒った)。」

でも、ちょっとそれはおかしいですよね。

叱ったり、怒ったりする前に、子供は間違えた事を知っているのですか?

何処のところを、如何して、どういう風に?

それをcheckするのが先生の役目ではないでしょうかね。

子供に間違えて弾いたから「家でちゃんと弾けるように練習して来なさい。」と言うのは酷だと思いますがね。

 

[音楽大学でも・・・]

私が音楽大学の学生の頃には、音を出すので(ピアノの練習は一般の人達にとっては騒音なので、音大生は普通の安いアパートに住む事は出来ません。それで、同じ安アパートでも、音大生専用に、少し家賃を割高に設定してある)音大生ばかりが住んでいるアパートの一階に住んでいました。私の部屋の真上の二階に住んでいる女の子はとてもまじめで、朝早くから練習をしていました。ドビュッシーの曲です。私はいつも昼頃起きるので、午前中は殆んど寝ています。それが、2階の女の子が練習を始めると、目が覚めてしまうのです。眠れないのです。それは彼女が2箇所音を間違えたままで練習しているからなのです。「いつかは直すだろう。」そう思って、じっと我慢をしていました。でも、1月経っても、2月経っても、2箇所音の間違いを直してくれないのです。それが気になって、朝眠れません。とうとう頭にきて、2階まで上がって行って、ドアをノックしました。「一階の芦塚ですが、頼むから、音を直してよ!」女の子は、ビックリして楽譜を持ってきて「何で学校の先生は直してくれなかったのだろう。」と驚いていました。その日の内に彼女は音を直してくれました。また、安心して寝る事が出来ました。

確かに人間には、思い込みと言うのがあります。しかし音の間違いは、レコードを聞いて自分と違っていたらわかるはずですし、ましてや音楽大学の先生が2月、3月も聞いていて、気がつかないでは、済まされません。しかし、それはそんな珍しいことではないのです。私の生徒が音大に入学して「演奏するので聞いて欲しい。」と言われて聞きに行った事が何度かあります。その時ですら、音の間違い、リズムの間違い、がいっぱいあって、それを指摘したら、やはり音大の先生が何故気付いて訂正してくれなかったのだろうと言う話になりました。

ラベルのピアノ曲のような超有名な曲を、ですよ。音大の先生ですら、音の間違いを見つけきらないのだから、音大生が「何処を直せば良いのか分からない。」と言うのも、しょうがないかもね。

ましてや、ピアノの初心者の子供達が、何処を直せば良いのか分かっているのだろうか?

或いは、どういう風に練習すれば良いのか、それは知っているのかな?

子供が、そういったことを全く知らなかった場合、あなたは「私はそう教えたはずだけれど」というのですか?

私が、公開lessonで日本中の音楽教室などを回って、子供達の演奏を指導しcheckしている時に、読譜やリズム等の間違いなどを注意していると、よくその生徒の先生が「私はそこのところはちゃんと教えました。」と弁解します。

ところが子供は、「初めて聞きました。」とか「まだ習っていません。」と、先生に逆らって、よく言うのですよ。

勿論、どちらが正しいか等問い詰める気はありません。

なぜなら、いずれにしても、子供が理解出来ていないのは本当なのだからです。

どうしてそう言う風に、先生と生徒の見解が違ってくるのか、分かりますか?

つまり先生が説明したつもりになっていても、子供は本当には理解していないということなのですよ。

「説明した。」ではなくって、本当に理解したのかどうかは、先生がちゃんとcheckをしなければなりません。

「教えたから、わかっているはずだ。」と言うのは、先生の驕りなのですよ。

 

[厳しいと小うるさい]

「叱る」と「怒る」によく似た言葉ですが、もう一つよく勘違いをされる言葉があります。「厳しい」と言う言葉と、「小うるさい」と言う言葉のニュアンスの違いです。

「人当たり」がやさしくても、水準に対して、とても厳しい先生がいます。それと反対に、ぶつくさ、小うるさくても、基本的(内容的、水準的には)には甘い先生がいます。

あなたはどちらのタイプですか?

先ほども述べたように、子供がlessonを楽しいと感じるのは、lesson自体のlevelや内容の高さではありません。分かりやすく、しかも先生自身が上機嫌でlessonをすると、子供は内容の高度さとは無関係に、lessonを楽しむ事が出来るのです。

 

Hさんの同僚のK先生は、「厳くって、自分で子供と一緒に練習するわけでもなく叱るだけだ。」と言う事だそうですが、しかし、それ(子供を叱る事、うるさく厳しくする事)が先生にとっても、親にとっても極普通の日常的な当たり前のlessonになっているから、(子供が泣こうとわめこうと)いと涼しげに(普通のこととして)報告出来るのです。

 

[子供の側からの捉え方]

もう一つ興味深い問題があります。

それは、厳しいと言う事は、必ずしも、生徒にとって同じ重さではないのです。

ある生徒にとって、極、普通に指導されたと思うことでも、別の生徒にとっては厳しく注意されたと思えることがあるのです。

生徒が、「先生が叱った事」を日常的な事として捉えるか、自殺したくなるほどショッキングな事なのかは、決して話の内容ではありませんし、先生の態度でもないのです。

よく自殺した子供に対して、親や先生が「私はそんなきつい(疲れたと言う意味ではありません。厳しいと言う意味の方言です。) 事を子供に言った覚えは無いのですが・・」といっているのを聞きます。

違うんですよね。

「きつい事か、否か」を決めるのは、話し手の親、先生ではなくって、話された方の子供なのですがね。

 

[芦塚先生のお説教タイム]

私はよく子供達に対してお話をします。(子供達へのお話集としてホームページにも掲載していますので、興味がおありなら是非ご一読ください。)

子供の成長に役立つお話をなるべく子供に分かりやすく、楽しくその場でお話を創作しながら、話していますので、結構子供受けは良いようです。

ところが、私がいつもの通りに、普通に雑談として、子供に対しておしゃべりをしていても、新しくメンバーに入った生徒(先生が雑談をする事に慣れてない生徒)にとっては、それを先生のきついお説教として捉えてしまうことがままあります。

それまで習っていた先生が、一度も生徒と、(普通のお話さえも)したことがなく、生徒に対して口を開く時には、いつもお説教だったりしますと、先生が自分に対しておしゃべりをする事、すなわちお説教と捉えてしまいます。

時間の限られた中で、子供と会話をする事は時間の無駄と考える先生が多いことは残念です。(先生が雑談すると、怒り出す父兄もいるそうです。父兄自身は先生とおしゃべりしたがるのにね。)

 

追記

Lesson時間での子供との雑談から、子供を集中させたlessonに切り替えていく、と言う事は、結構苦手な先生が多いようですね。

子供が日常からlessonと言う集中した時間に意識を切り替えるための雑談なのですが、先生自身がその切り替えが上手くできないで、あたふたしているのをよく見かけます。

 

教室のオケ練習などで雑談を聞くことを訓練された子供達は、いつの間にか私の話は「話し好きの芦塚先生のお話」として、お話の時間は、息抜きの時間か楽しいお話の時間として捉えてくれます。私自身は子供達との会話によるスキンシップをとても大切にしています。

子供が音楽を好きになってくれるかどうかは、その前に先生の事を好きになってくれるかどうかにかかっています。子供達が「芦塚先生、大好き!」と言ってくれる事は、私にとって子供からの、最大の賛辞として受け取っています。

しかし結構雑談を嫌う先生や、父兄の方が多くいらっしゃるのも事実です。

先生がそういった全く雑談をしたことのない生徒の場合には、私のまじめな雑談は、とても怖いお説教のように聞こえるようです。

私の話を興味深い面白い話として受け取ってくれるようになるには、結構時間がかかるんだよね。(つまり、子供達に対して、そういった雑談をする大人達が全くいなくなっていると言うことなのですよ。本来は学校の先生がすることなのですがね。)

 

[子供の嫌がるレッスンと、先生が普通と考えるレッスンの違い]

一番多い「問題のあるlesson」は、弾けないところを捕まえて、「ここのところをやっといて!」と子供に丸投げをするlessonです。

しかし、子供と一緒に弾いてあげるレッスンは、子供が先生のコピーをする癖が付いてしまう危険性がありますので、(勿論ある程度は必要なのかもしれませんが)あまり進められたものではありません。

本当に子供と一緒に練習して欲しい事は、練習の仕方のlessonです。

「こういう練習をすれば、一瞬で上手くなるんだよ。」と言って、一緒にその練習法を練習してあげると、子供は家でも練習をしてくるようになります。

練習の仕方を子供と一緒にする事が、一番ベストなlessonなのです。

 

ヨージーの法則

悪いところを「悪い!」と言うのは簡単である

 

 

[第二点のお話]

B:「親が家で口を出そうとすると子供から拒絶されるが、レッスンでは、どういうわけか先生の言う事(おっしゃる事)は聞くんです。」

第一点で話が長くなりすぎたので、第二点に関しては簡単にお答えしておこうと思います。

父兄が、何故その話をするのか?

先生の力量を褒めているのか、或いはジェラシックになっているのかは、ケースバイケースでいろいろな事が考えられるので、その場に居て状況がよくわかっていないと分かりません。

あまりにも子供が先生になついたりして、「先生が私の親だったらよかったのに・・。」とか言い出したりすると、(当たり前の事ですが)父兄が子供を取られるような感じがして、それが原因で父兄が教室をやめさせたりする場合もごくまれにはあります。それは、先生の不注意ですから、やはり先生のせいです。それを「子供になつかれたから。」などと自惚れて、自慢してはいけません。子供が挫折した結果には変らないからです。

子供が親の言う事を聞かなくなるのは、いくつかのケースがあり、一概にお話するわけにはいかないのです。例えば、単純に親が口うるさく注意するので、嫌気がさして、親の注意を聞かなくなったりするのは極普通の事ですよね。それに対してのアドバイスは、担当の先生が、子供の練習で無視して良い事と、きちんと注意をして欲しい事を、親に指示することです。

そうすればやがては、親自身がどこを見て、どこを見なければ良いのか、pointが見つけられるようになります。要するに親を育てればよいのですよ。

思春期で自立の時期には、親はおろか、先生の言う事さえ聞かなくなってしまう時期もあります。そういった時期でも、ちょっと注意深く子供との距離を保つと、子供は「年の行った友達」として、いろいろな事を相談してくれます。

よくある問題は、親が子供が中学生、高校生になってきた時に、突然、「あなたは大人なんだから(中学生なんだから)自分でやりなさい。」と子供に丸投げする事です。本来的には、自立とは大変難しいものです。子供のライオンが最初は親のそばから1m離れるのも、びくびくで、そこから少しずつ、少しずつ距離を伸ばしていくものです。幾らライオンの親でも、突然、千尋の谷底に突き落とすわけではありません。ちゃんとトレーニングをして、それから子供がある程度自立する事に自信を持てるようにしてから、つまり、独り立ち出来る様にしてから、初めて子離れするのです。

子育てに関しては私のホームページに結構書いてありますので、それを父兄のアドバイスの参考しにしてください。

 

[第一と第二のお話のまとめ]

今までのお話で分かったと思いますが、Hさんが 「K先生が、生徒に対して、厳しく叱るだけでなく、子供と一緒に練習して欲しい。」と考えたのは、それは必ずしも一般的な指導法ではありません。

それは芦塚教室の芦塚メトード独自の指導法なのです。

そしてHさんが、よく理解しておかなければならないことがもう一つあります。

それは、一般の先生がただ単に、子供と一緒に練習してあげたからといって、それだけで子供が練習を好きになったり、だんだん自主的に練習するようになってくるという分けではないということなのですよ。

子供と一緒に練習をすると言う事は、子供が何処でつまずいているか、今何を教えなければならないか、そういった技術上の問題点や音楽表現のさせ方、などのほかにメンタルな部分もしっかりと見て行かなければなりません。子供のメンタルな部分を上手に指導するためには子供を取り巻く環境、親や兄弟などの家庭環境や学校などのこともしっかりと抑えておかなければなりません。子供が中学生や高校生になって、学校や塾などの学業中心になったとしても、子供のよき相談相手で理解者になっていれば、全く子供が全くピアノの練習をしなくとも、父兄はちゃんと月謝を払ってくれます。それぐらい、今の子供を取り巻く環境の中では子供の理解者は少ないのですよ。(勿論、これも本来は学校の先生の役目のはずですがね。)

そういった総合的な、理解が出来て初めて、よき指導者といわれるようになるのですよ。

 

[まとめのまとめ]

大学の卒論のために、ある大手の音楽教室を見学に行った生徒さんが、そのレッスンの様子を伝えてくれました。

そこでは先生が

「どうして弾けないの?」

「何が難しいの?」

「そこ、できてないでしょう?もう発表会間近なのにどうするの?!」

ただ先生は子供を叱りまくって、あげくのはてには

「私はあなたがなんで弾けないか全然分からないわ!ちゃんと練習してきなさい!」

と、生徒に丸投げです。

その見学をしていた大学生は、見ていて恐れをなしながら、「私が幼い頃、近所の先生について習っていたときもそうだった。」と私に昔を思い出して話てくれました。

 

その生徒が言うには、「どうして弾けないか」「何が難しいか」「できていないところはどう練習すればいいか」それを教えるのが先生の役目ではないでしょうか?と言う事です。

世の中にはそれが分からず生徒のせいにして怒ってばかりの先生があまりにも多すぎます。どうしたら弾けるようになるのか、それが分からないから怒るしかないのかもしれませんね。それはまぎれもなく先生の勉強不足なのですが、逆にそれを「先生の水準が高いので、子供の演奏が辛抱できないんだ。」とか「家(うち)の子は才能がないから先生に叱られるんだ。」と勘違いする、方達があまりにも多くて、日本人の儒教的な体質には本当に驚かされます。

この歳になると私よりも年配の師匠達だけでなく、同年輩の友人達が相次いで定年退職をします。

その中には音楽大学などで長年指導をしてきた友人達も含まれます。

この話も私の友人から直接聞いたことなのですが、それまで受験生や生徒をこれ以上(人数的に)受け入れる事ができないと言って、断ってきていた(超売れっ子の)先生が、定年で音楽大学を退職した途端に生徒の申し込みが全く無くなって、生活に困って、自分の昔の生徒に「生徒を回して・・・。」と言う電話をしてきた、と言う話でした。

 

昔々、読んだ事のある本ですが、内容はすっかり忘れてしまったのですが、その本のタイトルだけはよく覚えている本があります。「下手でもいいから音楽の好きな子供を・・」とか言うタイトルだったと記憶しておりますが。

頭ごなしの音楽教育を受けた子供は、「音楽(ピアノ)など二度とやるものか。」と考えるようで、私が「子供を教えている。」などと言うと、恐怖で引きつった顔をして私の事を見ます。私はドラキュラでも狼男でもないのにね。

もっと深刻な子供は、コンクールなどを目指して頑張っていた子供達です。私の大学時代の同級生には精神病院に入退院を繰り返している人もいます。

ピアノのlessonがトラウマになって、心身症から分裂症へとなった人です。

チック症ぐらいは可愛いモンですよ。

そういったトラウマを持った人達が私の教室のlessonを、見学して「えっ!」と言ったきり絶句してしまいます。

「lessonって、こんなに楽しくっていいの?」

 

そうです。「私が子供の頃、こういうlessonをして欲しかった。」

或いは「こういうlessonの環境があればよかったのに。」

そういったものを、私の生徒達に与えているのです。

私が子供の頃には、そういったものは無かったから・・・。

 

「pointさえ、きちんと押さえておけば、lesson自体はどんなに楽しくてもいいんだよ。」と言うと、見学に来た先生は「私も子供の頃、こんなlessonを受けておれば・・・。」と独り言のように言います。要は、音楽大学に進んだ音楽の先生が、音楽が嫌いでは、その子供達が音楽を好きになれるわけがありません。

だから、音大を卒業した方が先生志望で面接に来られると、次のような会話になってしまいます。

私が「音楽の楽しさを子供達に教えてください。」と言うと、

「音楽は楽しいものではありません。もっと厳しいものなのです。上手くなろうと思ったら、その辛さに耐えてこそ達成があるのです。」

と返されてしまいます。

 

それはちょっと違うよね。音楽が好きで、好きでたまらないから、どんな厳しさだって耐えられるのでしょう。

それが「楽しい」も、「好き」も無しで、いきなり「音楽は厳しいもんだ!」と言われてもねぇ〜?!

それを頭ごなし教育って言うんだよ!

 

別に政府の役人の話を引き合いに出さなくとも、日本人は役職で人の価値判断をします。**先生につくのは、その先生が**大学の教授だからで、人、或いは個人に対して弟子入りするわけではないのです。

だから退官してしまって、教授という肩書きが無くなった先生には、その価値が無くなってしまうのです。

私自身も大学で働いていた時期には、某国立音楽大学の学生や超有名私立音楽大学の学生達が何処からか私の事を聞きつけて入門してきましたが、大学を辞めて音楽教室を作った途端に、逆に生徒が上手くなって将来的にプロを目指せるような技術になると、音楽の事や私達の教室の事を全く知らない父兄の知り合いの人達が「音楽大学に進学するには音楽大学の先生につかなくっちゃ!」と言ってきます。

おいおい、私も音楽大学で教えていた事もあるんだよ!

そう言っても、「あなたは巷の音楽教室の先生でしょう?」と言って、私の言う事は耳に入りません。

 

そういった事は、子供が教室に来て、音楽を学び始めた全くの初心者のときから、「子供が上手くなると、周りがそう言う事を言ってくるから注意をしなさい。」と注意し続けていることなのですが、やはり身近な人達からそういったアドバイスを貰うと、幾ら素人の話であったとしても、ついついそのアドバイスを鵜呑みにして、一般の音楽大学の先生に付いたり、音楽大学に進学したりして、折角今まで身に付けていた技術さえ失ってしまって、音楽を諦めてしまった人達をたくさん見てしまいました。

教室はそういった無駄な無意味な教育に対抗して、作ったものなのに、結局は日本人は親方日の丸、寄らば大樹に憧れてしまう、或いは信じてしまうのですよ。

でも、本当の本物をと言って、10年以上も勉強してきた子供達はたまったものではありませんよね。

 

「プロを目指すから」と言って、生徒が集まってきた時の私と、音楽教室を始めた時の私に、変わりは無いと思うのですが、大学の先生と音楽教室の先生では一般の人達にとっては大きな変わりがあるようです。

しかし、音楽教育に関しては、音楽大学の役職は何の役にも立ちません。私が留学をした当時は、ミュンヒェンの国立音楽大学に入学出来る生徒は芸大の院の卒業生の中から4人に一人ぐらいしか合格しませんでした。ですから私学の私が、ミュンヒェンに留学する時に、学校は何一つやってくれませんでした。海外留学の経験のある親しい先生から、アドバイスを受けて一人で頑張って留学の準備をしました。ミュンヒェンの大学に合格して晴れて大学生になった時に、日本の母校の掲示板に「当大学より出向した作曲科の芦塚陽二君がミュンヒェンの音楽大学に入学した」と張り出してあったそうです。私は大学の看板を背負って留学したわけでは無いのにね。

この話は一般の人達が役職を持った音楽大学の先生に対して抱く価値観のお話ですが、反対に音楽大学の先生も同様の間違いをしています。音楽大学の講師と言う役職や、教授と言う役職が自分自身の価値であるような錯覚をしています。

しかし、それは会社やお役所のように、人が役職に対して価値を求めているのに過ぎないのです。

音楽教育は技術教育なので、技術を向上させると言う事においては、役職は何の価値も持たない、ということを分かっている人だけが正しい価値観を抱いていると言えるでしょう。そういった日本人は非常に少数に属します。

先ほどの音楽大学の先生のお話では、「音楽大学の教授に付けば、その音楽大学に入学することが出来る」、と言う通説もありますが、それはちょっとした勘違いです。

音楽大学の受験のための申込用紙に師事している先生を書く欄があります。そこに音楽大学の先生の名前を書くと、入学試験に何かと便宜を図ってもらえるように思っている父兄の方が多くて困ります。しかし、現実には、その欄に師事している音大の先生の名前を書くと、その先生の審査しているグループからはずされてしまうのです。その先生は審査する事も、採点に口出すことも出来ないのです。それが公平です。当たり前の事でしょう?

コンクールと入学試験は違うのですよ。コンクールは受ける前から、既に、誰が一位になるか決まっています。

それは当たり前のことなのですよ。私の師匠のPringsheim先生が、コンクールの審査員長をやっていた時に、ある人を一位にしようとしたら、主催者の方から「先生、一位の人は既に決まっていますから・・。」と言われて「日本のコンクールは不思議だ!」と言っていました。そんなモンですよ。しかし、入学試験もそれでは困るでしょう?

入学試験は文部省の管理下にあるということをお忘れなく。

コンクールにはそういった資格や権限は無いのですよ。

履歴書の賞罰の欄に一つ情報が増えるだけなのですから。

 

[頭ごなしの教育]

頭ごなしの教育とは、

*生徒からの質問を受け付ける事がなく、

*生徒に如何してそうなるのかを説明する事もなく、

*一方的に自分の考えを押し付ける教育の事を言います。

確かに子供や(父兄の質問でさえも、)とっぴな質問をされて、答えに窮する事もあります。しかし、lessonで子供のした質問に先生が答えられなかったときには、私達の教室では、先生は生徒に「宿題にさせて。」と答えさせて、次の週までにちゃんと答えられるようにさせています。

中には、一生懸命、先生が調べても分からない質問があったりして、私に丸投げされる事もあります。

基本的には私が担当の先生に説明をして、先生がlessonの時に生徒に説明をするのですが、極稀には難しい理論を知っておかないと、説明できない質問もあります。

その時には仕方がないので、私が出しゃばって、生徒に直接、出来る限り易しく、説明することもあります。

生徒から質問をされる事を嫌う先生の中には、「生徒の質問に答えられなければ、馬鹿にされるのでは」、と言う恐れを持っている先生もいらっしゃるようですが、実際には教室の経験上、先生が「一週間、宿題にさせてね!」と言っても、「先生、知らないんだ!」と馬鹿にしてくるような生徒は、今まで一人もいませんでしたよ!それどころか、生徒も父兄も、「先生もこつこつ勉強しているのだ!」と、尊敬の眼差しで見られることのほうが多いのです。

 

頭ごなしの教育とは、音楽を指導する先生が「ピアノの技術さえ教えていれば良いのだ。」という勘違いに原因があることが多いようです。子供が音楽を好きになることも先生の優れた指導力の賜物なのです。決して、(よくピアノの先生が、自分の指導力の無さの言い分けに、口にするように、)子供の家庭環境などではないのです。幾ら子供を取り巻く家庭環境が優れていたとしても、駄目先生に習えば、やっぱり駄目な生徒になってしまいます。子供と先生が笑いあって、楽しいlessonを演出できるのなら、そこには「頭ごなしの教育」などという、古めかしい教育は既に存在しません。

あなたの傍にいるのは、聡明で快活とした、非常に優れた生徒である筈です。

 

1998年6月某日

東京江古田の一静庵にて

一 静 庵 庵 主 拝