啐啄(ソクタツ)の教育

(子供の年齢と指導のタイミング)

 

私が提唱する自然体の教育とは、「啐啄」の教育でもあります。

啐啄(ソツタク)(ソクタツ)(ソクタク)(ソツタツ)・・・読み方は様々のようです。

中国のことわざに「啐啄同時(同機)」と言う諺があります。

啐という言葉はきつつき(啄)が自分のたまごをこつこつとくちばしでたたく音だそうです。親鳥は、絶妙なタイミングで外から殻を啐!啐!啐!とつつき、無事に子供が自分の力で卵から羽化できるようにするのです。「啐!啐!啐!・・・」が早すぎると、子供が成長できていない状態で殻を割ってしまい、すぐにひな鳥が死んでしまいます。
また遅すぎると、成長したのに殻から出られず窒息死してしまいます。

この言葉は教育の真髄を表している言葉でもあります。
よく、未だ、そのタイミングでもない子供を、「自立させなければならないから、」と言って、ある日、決心して突然突き放してしまう親がいます。
そして、子供が不安に怯え、すがりついて来るのを見て、「やっぱり、私がついていてやらないと・・・!」と満足げに、子供を自分の殻の中に閉じ込めてしまいます。
或いは、「子供には親が必要だから・・!」と言って、中学生になっても、高校生になっても、子供にしがみついている子離れ出来ない親もよく見かけます。
そういった子供は、結局社会性が育たないので、結局はニートや引きこもりになってしまいます。
子供は社会から見捨てられてしまうのです。
「だから、親がついていてやらないと・・・」
でも、親は子供よりも、先に死ぬのですよ。その後は、子供はどうするのですか??
自然界の動物達は、子供が巣立ちの時期を迎えると、巣立ちのために餌を取るための訓練を徹底的に施します。そして、巣立ちの時期になると、厳しく子供を自分のテリトリーから追い出します。
それが自然なのですよ。
いつまでも、保護をし続けるのは、それは愛情ではなく、執着なのです。
子供にとっても、一人前の大人として社会に認められる事はありません。


子供には成長の過程で、その時期、その時期に年齢に応じて学ばねばならない事がありますし、また学び方も小学校の低学年のときと、中学年のときの教育指導方は変わらなければなりません。
ましてや、同じ小学校だからと言って、小学校低学年と高学年の指導法が同じでよい訳がありません。
他の子供がどのように進んだところを学んでいようと、他の子供と比較する必要は無いのです。
他の子供が自分の子供よりも数歩も先を歩いていたとしても、確実に一歩一歩を歩めば、必ず先を急いでいた子供を追い越す事が出来るのです。
もし同じ年齢の子供より、半歩も先んじていたとしたら、それは10年後には、千歩、万歩も先へ行けることになります。
何か矛盾しているように、聞こえるかもしれませんが、そうではありません。
基本をしっかりと、勉強すると、先は楽に進めるのだという事なのですよ。

例えば、ほとんどの人達は、自分の子供に音楽を勉強させる時に、「自分の子供は才能があるかどうか分からないから、安い楽器で、近所の先生でもいいわ!」「それで、音楽が好きなら、・・・才能がありそうなら、その時に先生を探せばいいわ!」と考えます。
勿論、趣味で、教養の一環として、音楽を学ばせるのなら、それでも良いのですが、しかし、音楽を例え趣味であったとしても、きちんと学んで欲しい!とか、音楽を職業に出来るぐらいまで育てたいとねがうのなら、それは間違いです。
基礎をちゃんと指導出来る先生に学ぶと、その生徒は100%、確実に伸びます。
後は、家庭の日常の考え方の問題です。
家庭が子供達と楽しく遊ぶ事が日常の方針ならば、学業も音楽も普通にしかなりません。
子供の教育を優先して育てるのなら、どんな希望も夢も叶うでしょう。

だからと言っても、教育について、
あせる必要は全くありません。
それよりも今の年齢(或いは、そのlevelやstage)で学ばなければいけないことを、確実にしっかりと学ぶ事が正しい教育のコツです。

「その年齢に合わせて学ぶ」と言う事には二つの意味があります。

一つは勿論「段階を踏む」と言う意味で、一つのグレードがしっかりとマスターできないと、上の段階が理解できなくなる、或いは出来なくなると言うstepに関することです。

意外と一般の方達に理解されない事は、適した年齢にならないと勉強出来ない事、或いはその時期にしか体に染み付ける事が出来ない事などがあります。

単純作業をこつこつできるようになる躾は、小学校の低学年までの方がより確実にまた無理なく身に付けられるし、音楽的な情緒表現は、小学生ではただ単に大人のコピーにしかなりません。

それよりも小学校の低学年から中学年までにある程度の技術的(メカニカル)な基礎になる部分を身に付けることをした方が、より自然な教育になります。
技術的な事をマスターするには、とても単純なコツコツと積み上げる練習が必要だからです。
中学生ぐらいの時期は(特に女の子は)社交性と情緒が身に付く時期でもあります。反対に先生のコピー的な表現は極端に下手になります。

学生コンクールを見に行くと、小学校部門で殆ど完璧に近いような演奏をしていた子供達が、中学生になったとたんに「いったいどうしたの?」のと言いたくなる位に、がたがたの演奏をして、下手になってしまいます。

それは小学生時代のその生徒の演奏が先生のコピーだったからです。

中学生になって来ると、子供達に自我が育ってきて、コピーをするということが下手になってしまいます。
巣立ちの時期に差し掛かると、先生が指導の仕方を、弾いて指導する口移し教育(コピー教育)から、論理的にちゃんと曲の奏法を説明して、理解させる方向に切り替えれば、子供達は自主的に、練習し、演奏出来るようになります。
それだけでよかったのです。

しかしある程度は小学生のときから徐々に自主性を育てる訓練を積み重ねて、自立の時期に備えるように、指導の仕方を工夫しておかなければなりません。

就学年次の前や、小学低学年の時には、ともすれば親は子供が「早く自立しないかな?」と思いがちなのですが、いったん子供が自立し始めると、これはなかなか寂しいものですよ。
望もうと望まずとにも拘わらず、小学校の高学年になると、親がそれを要求しなくても、それを望まなくても、もう子供達は巣立ちのための準備を始めます。
4年生、5年生が、親と子供のスキンシップ期の臨界点かもしれません。
正しい巣立ちが行われるとそれまでのスキンシップのような親子関係よりも、ちょっと距離を置いた友達のような関係の方がより自然な関係になります。それには親自身の子供からの巣立ちも必要です。私は親に「老後を目指して早く自分の趣味か、ライフワークを作りなさい。」といっています。

子供の巣立ちが、とても淋しいと思われるのなら、その前の本当に子供とスキンシップが出来る時期(時間)を大切に味合うようにしましょう。

 

2007年6月12日火曜日6:19 改訂版脱稿