(1989年7月16日)
           ``子供との出逢い"

今日はいつもの論文とは趣を変えて、多分、教室を開設する切っ掛けになったかもしれない 『私と子供達との出会い』の思いで話を中心にしてお話しをしてみたいと思います。

「音楽大学時代の子供達との出会い」

今となっては、随分昔々の事となりましたが、私がまだ音楽大学の学生だった頃、養父の家の隣に、ピアノを習っている姉妹がいました。
ちょうどその頃は、私は音楽を学ぶに至った境遇が比較的に近いシューマンにsymbthyを感じていて、彼の伝記に夢中になっていました。それで、シューマンがよく幼いクララやクララの弟達を呼んでピアノを弾きながらおとぎ話を即席で作って、語ってあげるという話に感動していましたので、私もシューマンの真似をして、シューマンの子供の情景を弾きながら、その姉妹にお話をしてあげました。
姉妹は目を輝かせながら、「お兄ちゃん、ピアノのお話しをもっとして。」とせがんできました。
それから夏休みや冬休みに里帰りをする度に二人の女の子がうちに飛び込んできて「お兄ちゃん、またピアノでお話しをして。」とせがまれるには閉口したものです。
そういうこともあって、音楽学校に在学中に子供の為の練習帳と題した小さな子供の曲集を作曲したのが、子供達を対象にしたピアノの作品の始まりです。
その作品は、(その当時には、子供の為に作曲されたピアノ曲集というのが、まだほとんど出版されていなかったので、)先輩や同級生達の教室で、けっこう発表会などに使って貰いました。


1966年8月作曲のスケッチブックです。15〜6曲の小曲の集まりです。

「ドイツ留学時代の子供との出会い」

私は大学卒業後、すぐにミュンヘンの国立音楽学校に入学したのですが、ある時、私の教授であるゲンツマー先生から「何か小さな作品はないのかね。」と言われて、子供たちのために作った曲集を思い出して、ゲンツマー先生にみせると「これはとてもいい。このシリーズで少し曲を続けてみよう。」ということになりました。その作品は、“昔語り"と題され一連の「子供達の為の作品」をドイツ滞在中に作り続けました。
もちろん正規の作曲課題の作曲の合い間合い間の時間を盗んでの作曲ですけれども。



それからミュンヒェン留学も終わりの頃、北イタリアで子供達の為の作品を世界中から募集する国際作曲コンクールが催われていると言う話を同じ大学の作曲の友人(ゲンツマー門下生ではなく別の先生の弟子でしたが、)から聞いて、「僕も出品するから、きみも一緒に出してみないか。」と誘いを受けました。
それで彼と共に作品を北イタリアに送ったのです。
それがどういう訳か一位に入賞することができ、イタリアの有名な出版社から出版させてもらうことになりました。(残念ながらドイツ人の友人の作品は落選したのですが、彼は自分の事のように私の入賞を喜んでくれました。)これが私の初めての音楽作品の出版であると同時に、初めてのコンクールー位入賞ということになったのです。


それからその作品をガラ・コンサートで演奏してもらうことになったのですが、その時子供のための作品という事で、イタリアの天才少年少女が集められて、その中でもトップの13才のとても美しい少女が私の曲を演奏することになりました。


13才とはいっても、ピアノコンクールの入賞歴は三つも、四つもある少女でした。初めてその少女に会ったのは、私がイタリアに着いてリハーサル会場である音楽大学を尋ねた時でした
ホールでリハーサルをしていたその少女が私に気付いて、とても嬉しそうな顔をして僕の方に近付いて来たので、「さて私はいったい何語でこの子に話かけたらいいのだろうか。私はイタリア語はまるっきり話せないぞ。」とちょっと戸惑いをおぼえました。そうするとその女の子が微笑みながら、とても流暢なドイツ語で「私は英語もドイツ語も話せますので、どうぞお好きな言葉でお話しください。」と話かけてきました。
そしてその子が私のピアノの楽譜を差し出して、「これにサインをしてください。」と恥ずかしそうに言いました。何とその表情の愛らしかったこと!


演奏会も好評に終わり、ドイツに帰る前に、その子とお母さんが北イタリアののどかな郊外の古城やリンゴ園に案内してくれました。その子はリンゴ園のリンゴ樹の中からこっそり一番ちっちゃなかわいらしいリンゴを取ってきて、私にプレゼントしてくれました。(これがドイツの大人の女の人なら一番大きくておいしそうなリンゴをプレゼントしてくれたことでしょう。しかし、バンビーノのRobertaちゃんはこっそりとリンゴ園から、リンゴを盗むには、一番小さなリンゴが精一杯だったのです。その子供心の初々しさをとても素晴らしい物に感じている私でした。)


それからすぐ日本に帰ることになった私は、飛行機の中でそのリンゴを大切に手に持って見つめていました。イタリアの天才少女と出会う機会を得たことが、子供の音楽教育に興味をいだきはじめたきっかけではないかとおもっています。



日本に帰って、私は日本の音楽教育の最高の水準というものを知りたくなって、学生コンクールを聞きに行きました。コンクールに出た子供達に、「どの位練習するの?」と聞くと、どの子も「最低4,5時間はやっています。」と礼儀正しく答えていました。「小学校一年生の時から毎日4,5時間の練習を欠かさずして、この程度のレベルなのはなぜなのかな」と懐疑的になったりしたものです。

帰国後私は、教育大学と音楽学校に勤めることになりました。音楽学校では、子供科というのがあって、大変力を入れていたので、学院長から「主任待遇の給料を払うから、子供科の中で色々難しい問題をかかえている子供達を預かってくれないか。」という相談を受けました。その子供達とは、ピアノに嫌気がさしている子や、1小節として同じテンポで弾けない子、家庭内の問題をかかえている子、譜面の全く読めない子、等々他の先生が扱いかねている子供達が大半でした。主任待遇という甘言につられて二つ返事でひきうけた私は、最初の給料日に給料袋を手にして腰をぬかさんばかりに驚いてしまいます。「えっ!これだけ。!」こっそりと、主任の先生に給料を聞くと主任の先生より確かに3千円も給料が多かったのです。「だまされた、だまされた。」と言い続けながらその学校に一年間も通うこととなります。
なぜ子供達が伸びなやんでいるかということで、子供科の教育の体制を調べて見ると、スケールの試験や、バッハの試験、エチュードの試験、曲の試験と、殆ど一月に一回試験が行われている為に、先生達が試験に追われてしまい子供達の基礎をつくるゆとりがないということにまず気がつきました。それで、批判を覚悟で子供達には試験曲はまったく練習させないで、基礎だけを教えることにしました。ですから試験会場で試験曲も知らない生徒がいるということが、半年に渡って続きました。その為会議の度に「芦塚先生はめちゃめちゃな指導をする。」ということでやり玉にあがって、手厳しい批判を受ける事になりましたが、五ヶ月目の9月頃には、辛抱したかいがあって子供達にだいぶ基礎が身についてくるようになりました。そしてちょうどその頃のことですが「先生、あと一週間で試験だよ。」「じゃあ適当に自分で課題曲の中から選んで弾けば。?」相変わらずそういう調子で試験を受けさせていたのですが、それでも私が教えていた生徒の半数までもが、各試験で上位を独占するようになってしまいました。
その後では、その生徒を前に自分達が教えられないといって放出した生徒であるにもかかわらず、「芦塚先生だけが特別に学長から優秀な生徒をもらったんだ。」と周りの先生方がうわさをするようになりました。昔彼らを自分達が教えていたことすら覚えていないようでした。それからしぱらくして、大半の子供が群を抜いてうまくなり始めたとき、学院長の先生がやって来て「他の先生方の生徒達とレベルの差がつきすぎると、学校としては、何かと問題がおこるので、他の先生と同じような教え方をしてほしい」ということを相談されたので、「私の『問題児を何とかしてほしい』という役割は終わったと思うので、これで学校をやめさせてほしい。」ということを申し出て、一年でその学校はやめました。


ある先生が有名なバイオリンの先生の所から、二人の生徒が「この子達は、コンクール向きの生徒ではないから。」という理由でまわされてきました。自分たちが放出されたと感じた両親とその二人の子供達が、「どうしてもコンクールに出場したいから」というので、私の所に相談があって、夏休みとか、色々な休みなどの時に、不定期ではありますが、その子達のレッスンをみることとなりました。
その子供達は私がレッスンを始めて一年半位で学生コンクールの2,3位を、姉妹でとることが出来ました。

さて先ほどお話をしていた音楽大学とは別に、もう一つの教育大学の方に話を 戻すとして、大学の方では、初任給ということではなく、前任者の引継ぎということで7年間の実績を頂いたのと、私の著作出版数が多いということで、文部省には「助教授のB」という査定で登録されることとなり、その為に非常勤講師でありながら非常に高額の給料をもらうことになりましたので(専任の教授のCランクを頂きました。)、そのため5年間もその大学に居続けることになりました。そしてその大学に勤務中には、「創作音楽劇の作り方」とか「バイエル研究」など、色々な本を出版する下地をつくりました。「創作音楽劇の作り方」の本が出版されると、大学の卒業生達が、就職している小学校や幼稚園などで実際にそのテキストを使って音楽劇を子供達と一緒に上演しました。




そこで実際に現場で働いている教え子達と、ディスカッションをしたり、あるいは上演に招待される機会も数多くもつことができました。又、卒業生たちは、都内や関東各都県に就職したので、その子達が各学校で若い先生方のリーダとなって、カリキュラムの立て方の実際や、教育、指導について研究をし、その結果出てきた諸問題を、私を招いて定期的に色々相談をするという会が出来上がりました。そして実際に見聞きした学校教育における色々な問題点は、新聞や本で語られている以上にもっと根深いものがあり、自分が大学で教鞭をとっていた時に危惧していたことが、実際にはよりもっと深い問題となっていたことをあらあためて知らされました。
学校の先生達のための教育相談は、私が大学をやめたあともしぱらくの間続けられました。しかし、教育界から身を引いて著作活動に専念したいという私個人の希望で、それも2年後位には完全に手を引いてしまう形となります。

さて音楽教育の方に話しをもどすとして、その教育大学を教えていた時の生徒でピアノの生徒を70数名教えている学生がいて、在学中からもその生徒から「自分で教えられなくなった生徒を教えてくださいませんか。?」と頼まれていました。「私は絶対子供は教えない主義なんだ。」と断り続けたにもかかわらず、その生徒は卒業後2年間も、めげずに私に説得し続けていたので、その熱意に負けて、またその学生の教室が大学から車で帰る道すがらの所にあるということもあって、「じゃあ、その為にわざわざ行くということでなくて、大学に通う途中で寄り道することで良ければ、ついでに寄ってレッスンをしてあげよう。」ということで、その学生の生徒を4名ほど教えることになりました。
ほんの2,3年でその4名の生徒達がみちがえるほど上手になりました。が、その時に、逆にその先生の兄弟や妹夫婦やお母さん達まで、「教え方が違うと、生徒の伸びがこんなに違うものかしらね。」とその先生が批判されるようになってしまったのです。そういうこともあって、その4人の生徒を教えることを4年間でやめることになります。
さて話しを先に進めることにしますと、教育大学に勤めた事で、現場の学校教育に触れる機会を数多く持つことができ、その結果として学校教育に対し、かなり批判的にならざるを得ませんでした。その頃はまだ登校拒否、いじめ、心身症などという言葉は口にされておらず、過保護などという言葉すら文献を調べても出ていない時代でしたが「多分これからは、5年ないしは10年後にそういうことが社会的に問題になってくるに違いない」という仮説を立てて論文を書いていました。私的な研究なので、それを大学等公的に発表することはまったくなかったのですが、その論文はかつての同級生であった大阪在住の友人の目にとまることとなったようです。私個人としては大学をやめて全く再就職をしないでフリーで著作活動に専念していた時でありますし、又教育関係の論文については誰にも見せたことが無いので、友人から「君の教育関係の論文を読ませてほしい。」と電話があった時にはまったくの驚きでした。東京の渋谷で友人と会うことになりました。彼は、大阪の教育委員会や文部省関係の仕事をしていることと、それから私が書いていた、いじめの問題、校内暴力の問題、その他危惧していた諸問題がすでに現実に新聞沙汰になりつつあるし、又それら諸問題に対しいかに対処すべきかということに対してなすすべを知らないということどもを滔々と述べて、教育こそが今日一番必要とされているものではなかろうか、ということを私に説き、私の教育論こそが現代の教育上の諸問題を解きうる最良の方法論だとした上で、その私の教育理論が論文だけであれば「『それはあまり
に夢物語りにしかすぎない』とか或いはrそういう教育は現実には有り得ない』とか『
机上の空論である』とか批判されるのが落ちであるから、是非それを実行し、証明してみせてほしい。そういう教育の現場を見ない限り、一般には理解されないのだから。」と、私に対して熱っぼく説得をしました。彼の教育に対する情熱に私は心を動かされ、その一ヶ月後に千葉の花園教室をスタートすることにしました。

花園教室は、数人の弟子達と、毎週、夜遅くや時間が出来た時に車でかけつけて、手作りで半年もかけて教室づくりをしました。つまり半年間は、殆ど生徒もいないままの材木だらけの教室だったわけです。教室を開催した後も、教室自体は先生がたに任せて、私自身はその後2年程は(教室で実際に子供の指導にあたることはなく、)著作活動に専念しておりましたが、実際に教育というものは理論だけでなく身をもって指導しなければ各先生方につたわらない部分も多いということを痛感して、開設3年後から数名の生徒を私自身も教えることにしました。そういったことから芦塚音楽教室とは、一つの教育の理想というものに対しての試みであり、実践の場であるわけです。
研究室の内容は、音楽教育のみにかかわらず教育全般に渡っての膨大なものであり、これをある程度マスターする為には数年の勉強が必要となりますので、内容的なことの説明については又、次の機会にゆずって、私が音楽教室を作るにいたったまでの昔語を、ここまでで終わりにさせて頂きます。

1989年5月23日
江古田の寓居にて
一静庵座主芦塚陽二拝記

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