A子ちゃんは小学5年生です。ある日、A子ちゃんは、レッスンを無断でお休みしてしま
いました。自分のレッスン時間を随分過ぎてから教室に電話がかかってきました。「学校で居残りで宿題をしている友達を手伝っていて、レッスンに行けなくなってしまいました。」という連絡でした。
「宿題をやって来ない子の勉強を手伝ってあげた。」というとても良いお話しなので学校の先生もお母さんも、A子ちゃんのことを褒めてくれました。でも芦塚先生はA子ちゃんのお母さんに何かを注意をしました。そして次の週、レッスンのかわりに芦塚先生はA子ちゃんにこんなお説教をしました。


 居残りをしてお友達を手伝ってやったのはすごくいい事だけれども、A子ちゃんはヴァイオリンのレッスンを休んだ事と、レッスン時間を過ぎてから連絡した事だけがよくないと思っているんだね。でも、それはちょっと違うんだよ。そういう風に思ってしまうと君自身が将来困ることになるんだな。
 こういうこともね、幾つかの問題に分けて考える事ができる。難しい言葉になっちゃうけど「状況を分析」してみると・・・・

●レッスンを休むということ

 まず一つは、ヴァイオリンのレッスンを休んだという事。これは、A子ちゃん自身だけの問題になる。それは休んでもA子ちゃん本人が損をするだけで、別に悪い事にはならない。レッスンをさぼったという事はいいか悪いか、という事はそれはA子ちゃんだけの問題なのね。A子ちゃんが休んだ時間は先生達はレッスン代を貰っているわけだから来ても来なくても、その時間は働いていることになる。だから、先生たちにとってはA子ちゃんがレッスンを休む休まないというのは関係ない。学校の勉強と違って音楽の勉強は習いたいから、来てる訳だから、やりたくなけれぱ来る必要はない訳なのよ。病気で熱が出て休んだとしても、ただ単にさぼりたくて休んだとしても、理由はどうであろうと構わない。それで私達の教室で叱られることはないのだから。
 しかし、お休みをします。という連絡は、遅くてもちゃんとレッスン前にしなさいよ。事前に電話などで連絡があったとしたら、もしA子ちゃんのレッスン時間が最初だったら先生は、教室に遅く出勤して来ることが出来たし、最後であれぱ早く家に帰ることが出来たし、真ん中であったとしても、A子ちゃんの前の生徒がレッスンをのばして教えてもらうことも出来るし、次の時間の生徒が早くレッスンに来ることも出来る。おさぼりというのは本人にとってマイナスになるだけで、決して回りの人にとってもマイナスになるわけではない。
 他に一生懸命練習して来た子が居たら、A子ちゃんの時間をもらってレッスンを受けられるかもしれないから、だから逆に他の人にとってはA子ちゃんが休んでくれると、とても嬉しいことになっちゃうかも。ははは。(先生笑う。A子いやな顔をする。)

●思いやりとは何か
 
 それよりも、これからのお話が本当に大切なことなんだよ。それはね、「思いやりとは
何か」ということだ。A子ちゃんは、居残りをしているお友達に思いやりをもって手伝ってあげた。そのこと自体は良いことだよね。だけど、一生懸命お友達の手伝いをしてあげたことによって、逆に他の沢山の人達に心配させて、迷惑をかけたりしたんじゃないかな。お母さんは、もうレッスンに行かないといけない時間なのにA子ちゃんがまだ学校から帰ってこないから、心配になって学校の方にわざわざ迎えにいってみた。そこでまずお母さんに迷惑をかけてしまっているね。それと、先生はレッスン時間になっても来ないから「どうしたのかな。」って思って心配してしまう。A子ちゃんのレッスン時間がおわった頃に電話がかかってきて・・。それもおかしいね。先生はA子ちゃんの為の時間を作ってあるのに、それを無断ですっぽかしたら、それは先生にも迷惑がかかっているね。良いと思ってしたことで、逆に回りの人に迷惑を掛けてしまった。という事しかしこれだけが今日のお話だったら、時間より前にお母さんや先生に電話で連絡をすれば良かったんだよね。しかし本当は問題はそれだけではないんだ。

 思いやりっていう事の中で一番大切な事は何かって言うとね。まず、その思いやりをやる前に、目分がやらなくちゃいけない事がきちんと出来ているか、という事がまず一番最初に必要な事なんだ。そして、その上にもうちょっと余力があるんだったら、色々な人にその余力の分で思いやりをしていく。それはどうしてかって言うと、人間って一人一人がそれぞれ自分のやらなくちゃいけない事、そしてしていかなくちゃいけない事が決まっている訳ね。で、それを放っといて、人にいろいろとやっていると、今度は別の人に迷惑がかかってしまう。この事はとても難しいから物語で説明してみよう。

●田子作さんの思いやり
 
 昔々、田子作さんというお百姓さんがいました。田子作さんのお隣には与作どんが住んでいました。与作どんが、畑にまく種のまき方が分からないって言うから、田子作さんは、それはそれは一生懸命につきっきりで種のまき方をおしえてあげました。そして、ふと気がついたら、種をまく時期が終わってしまい、田子作さんの畑は全く手つかずになってしまっていました。そのおかげで、田子作さんは、小さい子供と奥さんと一緒に飢え死にしてしまいましたとさ。「え〜!飢え死にしちゃったの?」うん、それは少し可愛そうかな。じゃあ、さて、ここでたごさくさんが飢え死にしたくないから、与作どんのところにお米を分けてもらいにいきました。田子作さんはこう思いました。「自分は隣の与作どんに米の作り方を教えてあげたわけだから、当然自分は与作どんからお米を分けてもらってもいいはずだ。」はたして、与作どんは喜んでお米を分けてあげたでしょうか?「だって田子作さんに教えてもらったわけだし、きっと喜んで分けてあげたと思うよ。」うん、きっとそうだよね。しかし昔昔のお話で今のように機械も何も無かった頃だからお米が出来たとしても、与作どんの奥さんや子供が食べるだけの分しか作れなかったんだよ。人の良い与作どんや奥さん、子供達も、それから田子作さんもお米が足りなくなって、結局皆飢え死にしてしまいました。めでたし、めでたし。「ちっともめでたくないわ。やっぱり分けてあげない方がいい。」そうすると、こんどは田子作さんが飢え死にしてしまうわけ。「どうしたらいいの?」こまったね!つまり言いたい事は、田子作さんのした事は本当の思いやりとは言えないってこと。

 で、田子作さんの田圃の隣には、五作さんという人がいて、その五作さんはとっくに田植えを済ませていたんだよ。その人は暇で遊んでいた。田子作さんは与作どんに五作さんに種蒔きの仕方を教えてもらうようにアドバイスした。五作さんは暇だからつきっきりで与作どんにお米の作り方を教えた。そうしたら、五作さんも田子作さんも、与作どんも皆自分達のお米を収穫することが出来た訳だ。五作さんは、自分達の家族を養うだけのお米を収穫出来るし、与作さんも教えてもらった代わりに米を渡さなくても済んだし、めでたしめでたしだよね。
 田子作さんは、五作さんを紹介したし、五作さんはお米の作り方を教えたし、それぞれが自分の出来る思いやりをしたわけだ。このお話で今回の事が、少し分かったかな?


●A
子ちゃんの場合

 
 で、A子ちゃんがやったことは、この田子作さんがやった事と同じ事なのね。A子ちゃんがお友達に教えてあげたって事は素晴らしい、凄くいい事なんだけど、それでA子ちゃんはお母さんに心配かけたり、先生に心配かけたり、色々な人に迷惑かけている。じゃあ、これは思いやりというのかしらって言うと、言わない。それは思いやりではないのだよ。まず思いやりをするためには、自分が自分のしなくちゃいけない事をきちんとやる事が一番最初。五作さんみたいに先に収穫がおわっている人がいたら、その人がやるべきなの。五作さんに頼むということは、お友達でもう宿題が終わっている人が居たら、「代わりに貴方、教えてあげて。」という事だね。
 まあ、どうしても田子作さんが手伝ってあげたいのなら、こういう方法もある。「田植えは一週間以内にやらなきゃいけない。だから、貴方に二日間だけ教えてあげましょう。でも、残りの五日間は、自分でやりなさい。私は徹夜で頑張って残りの五日間で自分の方の田植えを終わらせることにしよう。」ってのが一つは出来るかもしれないね。A子ちゃんの語で言えぱ、「レッスン時間は何時からだから、何時迄だったらお手伝い出来るけど、その後は自分でやりなさい。」と約束して手伝ってあげるってこと。

●迷惑をかける思いやり

 でもね、田子作さんというのは、お友達を心配すると同時に、やっぱり自分が健康でなければいけない。それも大切なの。本当に五日で自分の畑を仕上げてしまうっていう事がいい事なのかな?五日たってみたら、今度は病気になっちゃって、奥さんとか子供から看病してもらうっていうんだったら、それも結局迷惑な訳よね。
 だから、思いやりの心を持っことは非常に大切な事なのだけど、とても難しいことでもあるんだよ。
 まず、それは、自分がしなければならない事をきちんと出来た御褒美に、人に対して思いやりの心を持っということが初めて出来るんだ、という事をわかっておかなくてはいけない。ね。まず自分の事を一生懸命やる事が、逆に、人に迷惑をかけない事な訳。結局そういうきちんとしたルールを守らないで、ふぁ一っといろんな事をやってしまうと、一番損をするのは、自分。飢え死にしてしまうのね。

 与作さんが間に合わないっていうから、田子作さんが田植えを手伝いに行って、今度は田子作さんが間に合わなくなったからって、ごんべえさんが手伝いに来た。そしたら、ごんべえさんが今度はまた間に合わなくなったから、今度はだれかが手伝いにきた。これでは、一人のひとが思いやりを履き違えたばっかりに、みんなに迷惑が掛かってしまうね。で、結果的に最後の一人が、その間に合わなかった分を背負わなくちゃいけなくなる。こういうのって思いやりと言える?思いやりとは自分のことがきちんとできている人が余力で人の為に何かをすることであって、自分を犠牲にして行う思いやりは、結局他人に迷惑をかけてしまうんだよ。


●おもいやりの見返り


 それにね、自分を犠牲にして思いやりをしている人はね、必ず見返りを期待する。「あ
なたの為にわたしが自分を犠牲にしてまでこんなにしてあげたんだから、あなたはそれに応えるべきよ!」ってな感じでね。たま一にいるでしょ。そういう人。そういう人とはあんまりお友達になりたくないよね。
「うん。」
 正しい思いやりはね、自分を犠牲にするんじゃなくって、自分を向上させるものなんだよ。自分が向上できる思いやりは、見返りを期待することがない。だってその人の為にしてあげていることではあるけど、目分の為にもなっている訳だから、それ以上なにかしてもらう必要なんてないでしょ。

●間違えた思いやり

 おもいやりの使い方をちょっと間違えてしまうとね、逆に「してくれるのがあたりまえ」って思われてしまうことだってあるんだよ。う一ん、例えばね、そのお友達はA子ちゃんが手伝ってくれたから、その次の宿題の時もまたA子ちゃんが手伝ってくれると思うかもしれない。「宿題って自分がやる物だから、貴方が自分でやりなさい」って、思いやりのつもりで言ったら、今度は逆に「A子ちゃんって意地悪ね。」って言われるかもしれない。一つやり方を間違えると、そこからいろんな問題が起こってしまう。だから世の中って結構難しくって、「これは正しいな」って思う事をやっても、最初を間違えてしまうと沢山の人に迷惑をかけたり、自分が損をしてしまうこともあるんだよ。

●時期をのがしてしてまと・・・・・・・

 それにね、田植え話で言うと・・・・まず種を蒔いて、芽が出たら田植えをして、その次は田圃の草取りをしてというふうに、その季節とかお天気なんかにあわせて作業をしていかなければならない。「このときにこれをしなければならない」っていう時期を逃してしまうと、もう稲は育たなくなってしまう。人間も稲と同じなのね。五年生なら、五年生の時にしか学べない事があるし、六年生なら六年生の時にここまで努カをして達成しなくちゃいけないという事がある。それをきちんと一つ一つやっていく。これがまず一番最初に 学ばなければならない大切な事。だから、他人に対する思いやりは、まず、自分自身がきちんといろんな事が出来るようにしなくちゃいけない。それが本当の意味での思いやり。そうすれば、先生たちも、ああ、A子ちゃんって素晴らしいなあ。とか、お母さんたちも、さすがはうちの娘だとか。皆の心がハッピーになる。そういうのが本当の思いやり。
 A子ちゃんの体は、ご飯を食べて成長していくよね。じゃあ、A子ちゃんの心は何を食べて成長すると思う?心というのは、お勉強を食糧として生きているのだよ。'うん。分かる?そのお勉強が心の中に入って来なければ、心っていうのは死んでいくの。だんだん、パープリンになっていくの。ピーポーピーポーってここに鴬がね、(頭を指差して言う)回り出すのね。(ドイツのジェスチャー)蔦が回り出して来たら、大体人間って馬鹿になるのね。
 馬鹿にならないようにする為にはどうしたらいいかって言うと、「自分はこれだけは勉強したい、一生懸命努力したい。」という事をきちんと守る。それが、人生哲学のコツであります。ハイ。


 



 この、「おもいやり」のお話しは、決してこのA子ちゃんだけに対しての特別な話では
ありません。
 オーケストラの中で団体活動の訓練を受けた子は、小学5〜6年生ぐらいになるとリー
ダー的存在になってきます。すると、学校などでも自然に優れた統率力を見せるようになります。それは、オーケストラのカリキュラムの中におもいやりの訓練、年下の子を面倒見るなどのリーダーシップの訓練が含まれているからです。コンサートマスターや、年上の子がまだ弾けない子の面倒を見るようにさせたり、靴はきちんと並んでいるか、楽譜の準備、筆記用具の準備はできているかなどもリーダーの子がチェックをします。段階に応じてそういった細かいことを少しずっこなせるようにしていきます。そのような蓄積があって初めて細かい心配りができるようになったり、年下の子供をひっぱっていくというリーダーシップの心が育っていきます。それは、子供にいきなりやらせても出来ることではなく、きちんとしたカリキュラムの中で徐々にできるようになってくることなのです。
 そのような子供たちに対して、学校の先生などが必要以上のことを要求し、あてにして
しまうことがあります。例えば、A子ちゃんのように成績の遅れている子や間題児の面倒を見させられる、もっと極端な例では、崩壊したクラスのまとめ役を頼まれた子もいます。学校の雑用をクラスの中で一番器用な子に手伝わせる先生もいます。するといっも同じ子ばかりが雑用の手伝いをやらされることになります。そして、子供の心に、また、体にまで大きな負担がかかり、体調をくずしてしまう子もいます。以前、インストラクターになることを希望する生徒がいました。まだ中学生でしたが、ワープロの使い方を指導していました。その子に対して学校の先生は、「○○ちゃん、ワープロも打てるの?」と言って、学校のクラスのパンフレット作成を手伝わせました。それが上手にできると、次にはその先生個人の論文、しかも1OOぺ一ジ近くもあるものを任されてしまい、勉強や練習をする時間がないといって根をあげていました。勿論、先生に対しての上手な断り方をアドバイスをして、事なきを得たのですが・・・・・。
 子供は友達などの面倒をみることはできても、まだ自分自身の身を守るところまでは成
長できていません。その為に、オーバーワークになったり、自分目身の勉強のぺ一スを乱してしまったり、もっとひどい場合には子供目身の心に強いプレッシャーを受けて、精神的動揺を引き起こすこともあります。それでも子供の教育を子供に押しつける先生というのは、子供の精神的ケアや指導力に所詮問題のある先生なのです。もし、そうでないとすれば、一人の子供の重要な間題に子供の手を借りることはないからです。そのような指導力の無い先生は、子供が自分の身を守る為に「できません」と断ると、子供に対して「あなたは自己中心的だ、おもいやりがない。」などと言うのです。でも、「おもいやり」というのは、飽くまで子供が余力の範囲内で行えることでなければならないのです。「おもいやり」をすることによって、ピアノやバイオリンの稽古、ひいては本人の学力に悪影響を及ぼすようなことは、正しい「おもいやり」でもなく、ましてや正しい「教育」でもないのです。だからといって、学校等の一人一人の先生に対して正しい「おもいやり」の理解を求めることは困難です。しかし、私たちは子供たちを守っていかなければなりません。そういった意味でこの「田子作さんの話」は、子供たちにとっても、親御さんや我々指導者たちにとっても重要な話となるのです。

(本当のおもいやりとは)
芦塚先生のお説教
後書き