愚痴とぼやきとため息と  

(Lisztの)

 

私と音楽の関わり・・というか、Pianoとの関わりについての無駄話です。
私はPianoを学び始めたのが非常に遅かったのです。
祖母にピアノを買って貰ったのは、高校生の時です。

しかし、私自身が『音楽家になりたい』という夢を持った時代、『音楽を学びたい』という願望を持ったのは、小学校の低学年の時からであった。

当時、母親に連れられて、映画の「この道」という映画を見て、和波君のヴァイオリンを弾く姿に憧れたりした。小学、低学年の頃には、近くの大きな文具店の小さな子供がVivaldiのa mollのconcertoを弾いているのを見て、驚愕と驚異の念を持って、子供の心にも、羨ましく思ったものである。

小学5,6年生の時には、小学校の音楽の先生の所に「ピアノを教えてくれ。」とか言いに行って先生を困らせたりした。
当時はグランド・ピアノはおろか、アップライト・ピアノですら、人口5万人の市に小学校と中学校等の体育館に1台ずつしかなかったのだよ。
その音楽の先生が個人でピアノを持っていたかどうかは知らないが、音楽の授業でも、音楽室で先生がぶかぶかの足踏みオルガンで音楽の授業をしていた頃の話なのだから。

私の小年時代は江戸時代からそのままの本家のある祖母の家の諫早市で育った。
と言う事で、戦後の日本では音楽等の芸事を男子がやることは、許されない事が常識の時代であった。
「音楽なんて川原乞食がやるもんだ。」それが九州の田舎の常識であった。
当然、「私が音楽を勉強したい。」と、言い出したら、近親縁者も含めて「芦塚家の男の子が情けない。」と愁嘆場が展開したものである。

私の実父の原爆による死から、母親は私が物心ついた時から、疎開先の本家から長崎に働きに行って、長崎市に間借りをして住んでいた。
・・・と言う事で、私は母親の元と祖母のもとを転々と住むことになる。

江戸時代から、何も変わっていない産まれ故郷では、勉強をする環境はあまり良くない。そう言った教育上の理由から、本家と長崎の間借りした家を転々としていた私なのだが、最終的には中学生になった時から、長崎の母親のもとで暮らすことになる。(その頃には、母親は再婚していて、開業を始めたばかりで、再婚相手と暮らしていたので、私が長崎に転居した後でも、母親と住む事はなかった。病院を開業したばかりの頃は、母親も看護師として立っていたし、高校生ぐらいの看護見習いの住み見込みの子供達への指導で、母親も忙しかったので、私が引っ越してきたアパートに戻って来る事はなかったのだよ。つまり、私は母親と一緒に生活をした経験は全くないのだよ。)

子供時代の音楽的な環境・・、戦後のどさくさの男手が全員戦争で死んでしまった家系では、音楽的環境はおろか、子供の満足な教育すら与えて貰える事はなかった。
とは言ってもそれを悔やんでいるのではない。
それが別に私だけの家族の特別な事ではなく、極、どの家族でも怒り得る・・普通の・・当たり前の時代だったのだよ。
つまり、戦後の引き上げの時代に、戦場から男が引き上げて来た家庭と、戦争で夫を失った未亡人の家庭では、致命的な生活上の落差が生まれていて、私の家の家系では、伯母達全員が子供を抱えた未亡人だったのだよ。
何処にも、あの映画に語られているような素晴らしいAlwaysの世界は無いのだよ。あれは単なるnostalgicな世界であって、実際の戦後の現実は、もっと悲惨なものなのだよ。



写真は、当時、未だ、非常に高価な楽器であった、長崎の県営のアパートにあったブカブカ・オルガン(足踏み式の1列のリード・オルガン)です。

不思議なことに兄貴は、中学生の時には、当時住んでいた長崎の県営アパートの近所のピアノの先生についてBeyerをぶかぶかオルガンで習っていたはずなのだが(勿論、あくまで長男の教養としてではあるが)、勿論、次男である私にはそういう贅沢は許されない、Pianoを学ぶと言う事は、ただの贅沢でしかなかったのだ。

昔は、長男、長女と次男次女の差は大きかったのだよ。
それに、養父も長男で母親も長女だったので、その待遇の落差は非常に大きかったしね。

私がピアノを習うことを許されたのは、高校生の時に病気で1年間、入院して、腎臓を摘出する大手術をして、その後リハビリのために、通算、1年間の休学を余儀なくされて、その結果、周りの近親縁者が、私を医者にする事を諦めたからである。

母親は、別に何の期待もしていない、自由放任主義であったので、勉強の事や進学の事でなにか一言でも言われた事は無い。
それだけは、今でも感謝、感激である。
もっとも、金も出してくれなかったのだけど・・。
まあそれは、音楽への進学が決まってからは、月謝だけは払ってくれたので、全面的に感謝である。

私の高校生の1年生から、2年生に変わる時期は、文部省の学校教育制度にとっては例外中の例外の大改革の時期になる。
私の高校の1年から2年に変わる年に、文部省の指導要領が全面改訂される事になって、それまで学んできたcurriculumが全く役に立たなくなってしまったのだ。

と言う事で、次の年からは、例外措置として、浪人生達は、現役の受験生とは全く別の受験問題で、入試を受けなければならなくなったのだ。

ということで、事実上医学部の進学は、(私にとっては有難い事に)望むと望まぬとも拘らず、医学部の受験は諦めざるを得なかった。

祖母は、『音楽の方面に進みたい』という孫の願望を、『河原乞食』から「学者になる」と思い換える事によって、近親縁者の中では、一番最初に許してくれた。

そして、祖先伝来の土地の畑を1反売って、当時は天文学的に高価だったピアノを買ってくれた。
それが現在、花園教室でレッスンで使用している鍵盤が黄色くて汚い・・という悪評価の黒のアップライト・ピアノである。

そのピアノがいかに当時高価だったかは、ホームページに記載されているが象牙の鍵盤、レスローの弦、レンナー・アクション、宇和島の7回塗りと言えば、その価値が分かる人には分かるだろう。
当然、今でも、私が所有している全ての楽器の中では、一番高価な楽器になるのだがね??

そういった経緯を経て、晴れて、周りの承諾を得てPianoを習うことが出来た分けだから、年齢的に言えば、18歳、私の同級生達の高3の時に、Pianoを始めた事になる。

高校生という男子の一番情熱的な時期には、毎日Pianoの練習を12時間続けることが出来た。
・・・ということで、苦節1年間の直向きな努力で、BeyerからCzernyの50番迄の教則本をクリヤーする事が出来た。
なんとか、「ひた向きさ」と「闇雲練習」だけで、受験のPianoの水準迄、持って行く事が出来たのだよ。
その技術level迄に、辿り着く事が出来たのは、勿論、或る意味奇跡なのだよな?
・・だって、1年間の努力の賜物だよ?? 有りえへんわな??

しかしそれは、私のただの弁解に過ぎず、兎に角、私は指先が不器用である。

私がまだ超幼い幼稚園時代の、物心もおぼつかない頃の私に対して・・でも、周りの人達が「私の体が硬い」のを呆れている程であった。
しかし、それは現実の世界で、なにか困る事でなかく、・・という事で、小学校の時代、中学高校生の頃になっても、それが私のコンプレックスの原因になる事はなかった。
ただ、なんとなく自分は不器用なのだなと感じていただけである。

不器用という事を本当に身を持って感じるようになったのは、音楽大学に入学した後からの話である。

音大時代によく図書館を利用する人達だけで図書館の分類の作業を手伝った事があるが、他の先輩の諸氏が2回り目を分類している時に、私はまだ一巡目を終わりきれていない。(図書館を利用する学生達や先生達は、音楽大学のほんの一握りの人達に過ぎなかったからである。)

周りの先輩諸氏が「芦塚さんって、本当はぶきっちょだったのね!?」と、つくづく驚き同情してくれたものだ。
挙句の果てには、「ちょっと、どけて!仕事の邪魔になるから!!」と追っ払われたものである。

高校生迄には感じた事がなかった「自分が不器用である」というコンプレックスが、大学生になってから以降は、色々な場面で自分を苦しませる事になる。

そのコンプレックスが、後日、「時短のメトード」を作るきっかけとなるのだ。

しかし、「時短のメトード」は、あくまで仕事の効率を上げるメトードであり、指先を器用にするためのメトードではない。
指先の器用さがある程度必要なピアノを幾ら練習しても、「指が回らない」というコンプレックスはその後も改善されることはなかった。

音楽の中で演奏家になるためには、フィギアー・スケートの浅田真央ちゃん達のようなアスリート達やクラシック・バレーを学ぶ生徒達同様に、「体を作っていかなければならない分野」を目標とするのであれば、・・・やはり早期教育と迄は言わなくても、・・少なくとも小学校に入学する迄には、ある程度は勉強を始めておかなければならないという教育の分野である。※)
勿論、年齢だけではなく、指先の器用さや、やわらかさもその後の上達に関して、非常に大きな個人差が出て来てしまう・・という事も周知の事実であろうけれども・・。

つまり、指先をストレッチしただけで、やわらかくなる範囲が、ストレッチをするしないに関わらず、体の運動機能を必要とする分野の人間にとっては、致命的な落差になってくるのだよ。
と言う事で、一般の社会人の場合には兎も角としても、同じ音楽家同士では、その技術の上達に・・如何ともしがたい個人的な差が出てしまうのだよ。

しかしまあ、この個人差の問題については、こればっかりはストレッチで、なんとかなる・・という領域の問題でもない事なので、どうしようもないことだから、ここでは話を展開しない事にする。

 

しかし、一旦大学に入学してからは、憧れの音大に入学できて安心したのか、それとも、音大生達のあまりの現実感の無さ(仕事としてのリアリティの無さ)に呆れてしまったのか、生来(せいらい)の(自分本来の)怠け癖に悩むことになる。

つまり、毎日規則正しく時計のように定められた時間に定められた練習をする事が性格的に出来ないのだよ。
儒教的に自分の怠け癖を責め苛まれて、自分の障壁に悩み、コンプレックスを抱いて、自分自身を責めあぐみながら、人生の青春時代を送る事になる。

勤勉性は、親が、家庭での教育によって、唯一子供に身につけさせる事の出来る財産である。

しかし、生きていく事が全ての、その日、その日の食べ物を得る事が、日常の生活の最大の目的であった戦後の時代には、親が教育に対して目を向ける事の出来る家庭、そういった「生きるという事に直接関与しない・・教育という分野の事に配慮する事が出来る」家庭は、戦争の時代を遣り過す事の出来た・・余程、運のよい家庭であったのだよ。

だから、人生の大半をもう過ごして来てしまった今、現在でも、勤勉な弟子や生徒に対しては、未だに、コンプレックスを抱いてしまうのだよな。

音楽大学時代から、自分なりに研究し、日常の生活の改善を努めて来た私にとっては、自分の怠け癖を生かした「怠け者の勉強法」を確立するのは、なんと10年後、20年後の、30歳を過ぎてからの事である。
(勘違いをして貰っては困るのだが、私が言っている事は、『怠け癖を生かした』・・・という事であって、『怠け癖を克服する』・・・という意味ではないのだよよ。)
また、自画自讃ではあるのだが、・・・「そこが凄いんだよなぁ〜!」
 

「怠け者の話」はまた別の機会に譲ることとして、そういった分けで、私にとってPianoの演奏は得意とするところではなく、むしろ遅く始めた事で、非常にコンプレックスを感じている分野でもあったのだよ。

時々、プロのピアニストである私の友人達に「芦塚さんって、よく聴くとPiano、上手いのよねぇ??」と、褒め言葉ともけなし言葉とも取れる、よく分からない評価を受ける事があった。
その事と直接関係があるのかどうかは、分からないのだけど、生徒に対して「そこの所は、こう弾くのだよ?」と模範演奏をしようとすると、中々上手く弾けない事があって、何度も弾き直しをしてしまう事がある。それでも「じゃあ、弾いて見て??」と弾かせると、ちゃんと分かっているのだよな〜ぁ、これが・・・??不思議だ!! なんで分かるんだろう??

しかし、伴奏に関してだけは、ピアノの演奏とは別物らしく、私の音楽大学の学生時代から、私に「伴奏をしてもらいたい。」という学生が多かったので、(試験の時だけに限らず、教授の所のlessonへの伴奏pianistとしても・・・なので、)伴奏は突出して、上手かったのかもしれない。と言うか、人の演奏を聴けるpianistは今でも少ないのでね??

 

30歳を過ぎて、就職した音大の生徒達のlessonや、自分のプライベートの生徒のピアノの指導をするようになってからは、生徒の前で模範演奏が出来るように、生徒に出した課題の曲だけは、ちゃんと模範演奏が出来るように、事前に練習するようにしていたのだがね。

特にドイツ留学から帰国してきて、Pianoをどなたかに師事をして学ぶ事がなくなってしまってからは、「自分に縛りを作らないと」 生来の怠け癖で、「練習をまったくしなくなる」と思ったからである。

教室を立ち上げたりして、生徒数が増えてきてからは、生徒の曲を全て模範演奏するのは、技術的にも体力的にも、それにもまして時間的にも困難になってきた。

それに輪をかけて、大学で人様を指導する事をやめて、私設の音楽教室を作ったのは37歳の時になるのだが、私が子供達を指導すると、BeyerやBurgmullerからlessonを始めた生徒達や、弟子達が、私の演奏上の技術levelを凌駕して、LisztやRakhmaninovの曲を弾き捲くるのには、たった4年も掛からないからである。

それ以上の具体的な理由は、曲数である。
生徒達の半年毎に発表会で演奏する持ち曲は、専科生では20数曲にもなる。
週1回のlessonで、生徒の持って来た曲を、丁寧に練習のpointを説明すると、1時間、1曲では無理である。
その曲の練習のpointだけを、pickupしてlessonしたとしても、4曲の抜き出しのpointの説明をするのに、1月掛かる事になる。
勿論、一人の生徒の半年間の持ち曲の数は、20曲近くになる。

その生徒が10人も居れば、私が事前に準備しておかなければならない曲数は、優に200曲を超える事になる。
勿論、私が、それ等の全ての曲を事前に学習、研究する必要はないので、その半分か、超、少なく見積もったとして、4分の1曲としても、それでも、私が事前に学習勉強研究しておかなければならない曲数は、ゆうに50曲近くになってしまうのだよな〜ぁ?

それを、毎週、毎日、規則正しく、日常の生活の中で、練習する事は(・・私は、生徒を指導するのだけが商売ではない・・メインの仕事があるので、それに1日の大半の時間を裂かなければならないので・・・)それは、不可能であるのだよな〜ぁ?

それでも、「レッスンの時には、生徒の前では、良い顔をするために、模範演奏はしなければならない」ということで、生徒のひっかってしまうpassageだけは抜き出し練習して、生徒の前だけでは、お茶を濁す事になる。
まあそれで、普段のレッスンは何とか持ち堪えたのだよ。

 

音楽教室を立ち上げた30代の後半から40代後半までは、生来のリューマチに耐えて、指をいたわりながら、何とかレッスンをやってきたのだが、50歳の時に、ついにストレスと慢性疲労という事で2ヶ月程入院する。
それをきっかけとして、体調不良や心臓の手術とか何やらで、10年間以上全くPianoに触れる事が出来なくなってしまう。

勿論、生徒を指導する教育の現場からも、身を引いて、自宅での原稿書きだけを、メインの仕事にすることになる。
音楽教室を経営する時よりも、一人で生活をした方が、経済的には、随分、楽で優雅な生活が出来る。
人に対して、「持ち出し」のお金を使う事がないからである。
それならば、そういう生活を続ければ良さそうなものなのだが、そうも行かないのは、そういった創作三昧の日々を続けると、1月も部屋から一歩も出ない・・・、人を会話をする事が1週間一度もない・・というような、独居老人のような生活になってしまう事なのだよ。創作三昧の作家生活の人達は、半年、1年引き篭もって生活をして、本を出版する段階になって、突然、出版社の人間や原稿を書く時の助手等の、有象無象の連中と長時間付き合う事になる・・・。

その落差は、作家にとっては、非常なstressになるのだよな??
胃をやられるぐらいでは済まなくって、それで自殺をする作家もいるぐらいなのだから・・・??

人と付き合うtrainingのために、週1,2回のlessonは、大人、子供を問わず、気分の転換にもなる。
勿論、素人を相手にする場合には、stressが倍増してしまうのだがね??

現在、齢60代の後半を過ぎて、10数年のブランクを経て、再び自分の指回しのために、ピアノやヴァイオリンを再び練習するとなると、自分の体力や萎えて逝く気力との勝負になってしまう。

しかしまあ、ヴァイオリンやチェロのレッスン等の弦楽器の場合には、私が育てたサブの先生達が代わりに代弾きしてくれるから何とかなる。

しかし、PianoやCembaloの楽器となると、代弾きをしてくれる先生達は結婚や子育てで、すっかり教室からは居なくなってしまったので、自分で演奏しなければならない。

病との10年間のブランクのために、その間の弟子の育成が出来なかったのだよ。
私の指導したその間の年齢の生徒が抜け落ちてしまったということだ。

 

65歳を迎えて、体調を気にしながら、少しずつ現場に出てPianoの指導をしようと思ったのだが、全く指が動かないのだよね。
指先の油も老人性のぱさぱさ、つるつるで、指が鍵盤を滑ってしまって、misstouchを連発する。
抜き出し練習をしても、昔のようにすぐに表現出来るようにならない。
気持ちと指が結びつかないのだよ!
幾ら、歌いながら弾いても、指は別になってしまうのだな!?

私の弟子達でもう実際に生徒を指導している先生達が私のレッスンを聴講している。

基本、先生達の時間がある限り自分の生徒をone lessonで私にレッスンをしてもらうときは、当然として、それ以外の場合にも出来る限り聴講をするように進めている。

だから、自分の生徒が私に見てもらっているときには、先生が傍で聴講している。
それなのに、その先生達が私の代わりにピアノを弾かないのだな、これが!!

「そこの所をちょっと弾いてあげて!」と言っても弾かないんだな・・・?  ・・・というよりも、弾こうとしないんだな!
弾く事に消極的な先生は、弾き終わると直ぐに楽器を片付けてしまう。

『先生が生徒にピアノを弾いて聴かせる事で、コピーをさせる教育はよくない』という私の理論を局解して、(というか自分達に都合よく解釈して)生徒の曲を、練習しようとしないのだよ。

「人間、『昔は・・・』と言うようになったら、もう終わりだ!」とよく言うが、私が教室を立ち上げた時の生徒達は自分のlessonだけではなく、他の生徒の聴講も義務付けられていた。
そしてその時に私から「そこをちょっと弾いて!」と言われると、すかさず弾いたものだ。
今の子供達は学校や塾が(曰く、学校の勉強が)忙しいらしく、lessonにも急いで駆けつけるし、lessonが終わったら、挨拶もそこそこに教室を後にする。

それでは、先生とのcommunication等は、あったものではない。
『音楽の真髄の話』や『人生の心の持ちよう』などを子供に話をすする時間すらないのだよ。
そんなに急いで学校の勉強をして、・・・それが、生徒本人の将来に何のメリットをもたらすのかねぇ〜??

「怠け者の先生と忙しすぎる生徒」・・・、というキャッチコピーで、失われてしまった体力と気力を振り絞って、生徒のために、自分自身でピアノが弾けるように予習をする。

体調不良で鬱が酷い時や、起きている事すら辛い時には、ピアノに向かおうとする気持ちを引き出すことすら、ちょっとした悲劇である。
ましてや意識混濁状態の時や、鬱の酷い状態の時に「ピアノの練習をしなければならない。」 という事は、自分自身にストレスを引き起こす。

そういった状態の中では、指先に力が入らなくて、ユンケルの瓶の蓋すら開けられないのだな。
体中の力が萎えてしまっていて、指先に全く力が入らないのだよ。

元気ならば「老人用の蓋開け器」をシンクの引き出しの中から探し出して蓋を開ける事も出来るのだが、それを探すだけの気力がないから・・・と、堂々巡りのdilemmaに落ち込むのだな?しみじみと、自分に『ため息』をついてしまう。

それは、人生の中の大きな「ため息」である。

と言う事で・・「愚痴」と「ぼやき」と「ため息」と・・・、となる。

昨日のlessonで、保護者の人に「どんなため息なのですか?」と質問された。
curriculum的には、『愛の夢』の次の曲なので、「愛の夢の次のため息なのですよ!」と答えておいた。

勿論、Zyklusが違うので、音楽的な答えではないよ?? ただの洒落だよ??
但し、作曲的には、曲は同じ構造をしているので、ため息の部分は同じだよな??

 

 

Liszt 「ため息」

 

Lessonmanual

このmanualでは、生徒を指導をする場合に、実際に演奏して見せた方がよい箇所を中心にして、その留意点などの解説をする。

演奏をして見せる時には、その指導が初期の段階では分かりやすくパフォーマンスをよりオーバーにしなければならない。上級になるにしたがって、見かけのパフォーマンスは抑えて、実際の演奏に必要なmotion、というよりも必要最小限なmotionを表現するとよい。

この有名なLisztの「ため息」であるが、まず理論だけの指導ではなく、模範演奏をして生徒のimage作りを手助けしなければならないpassageは、冒頭のイントロの膨らましである。

その模範演奏のpoint3つある。

一つは全passageを支えるベースのDesの音の出し方で、「お尻のtouch」の指導である。
一番冒頭の左手のDesのベース音は、その一つの音が8小節目までを支える。
つまり、Desの音が繰り返し出て来るが、その都度、毎回bassの音を際立たせて弾くわけではない。
冒頭の音がStollenの前半部の終わりのphraseまでを支えなければならない。
これはimpressionの問題である。
間違えた弾き方としては、最初の2小節の繰り返されるDesの音で膨らましを作る演奏家がいる。
音の響きとして膨らまされるわけではなく、単音で強弱が繰り返されるのだから、しつこくてうるさい。
華麗とは言い難い演奏である。

という分けで、arpeggioの膨らましのスタートはベースのDesの音を省いて、次のAsの音から始められる。

膨らましの前半の1小節のcrescendopedalの踏みっぱなしでよいのだが、後半の2小節目のdecrescendoではpedalをハーフーの踏み換えで何度も踏み変えなければ、全体のdecrescendoの表現は出来ない。残響だけをpedalで取る・・decrescendo-pedalである。
しかし、小型のグランド・ピアノと大型のフルコンサートピアノでは響きの残量の関係でpedalの踏み換えの回数が異なって来るので、残念ながらpedalの踏み換えの位置を楽譜に正確に書き表すことは出来ない。
それは残響をしっかりと聞いてその音量と足のpedalingの感覚で覚えなければならないからである。concerto-grandは残響も大きいので、小型のgrandよりも、decrescendo-pedalは楽である。

このpassageで一番多い日本人特有の弾き方は、「Lisztだから!!」と言う事で、ガンガンと力任せに弾き捲くるpianistが非常に多い・・という事だ。
そんな人に、切ない『ため息』を求めても、詮無いことである。
甘いラブコメを期待しても、『年収は幾ら?』という質問しか、返って来ないだろうよ??
幾ら美人でもそんな人の演奏は聴きたくないよな??

 

次に、イントロのfiguration・・というか、こういった割れない粒粒のrhythmを弾く時には、一般的にはベースの音と一番高い音だけを聴いて、後は指先でなんとなく音の響きを聞くだけで弾き捲くるという、無茶弾きをしている人が多い。(それは典型的な誤魔化し弾きである。)

armonicoなのだから、大きな和音の呻りの様に粒粒をよく聴いて、和音の響きが近づいて来て、また遠ざかって行く様に弾かなければならない。

私は子供にこの和音の弾き方を指導する時には、子供が粒粒をしっかりと意識出来るように、冒頭の7連音を「きれいなおとで、ピアノをひこう。」と言葉で言わせながら、弾かせている。

 

 

 

このStollenの間の繋ぎの「膨らまし」がもっと難しくなるのは、次の(5小節目)最初のStollenと次のStollenの間の間奏の1小節のpassageである。

この僅か1小節で膨らましを完結しなければならないのだが、1、2拍のcrescendoは兎も角も、3、4拍目の、このdecrescendoを表現するのは、音量のtouchのみならず、pedalingの技術的にも至難の業である。
先生としても、生徒にこのdecrescendoがはっきりと分かるように模範演奏するのは楽ではない。

8小節目はA,Aphraseの終わりになるので、当然膨らましはない。静かに終わるのである。


補足説明なのだが、5小節目と8小節目の音は4分音符にsostenutoが付いている。melodieは、8分音符でportatoのstaccatoが付いているので、羽毛が空中を舞うように、手首をしなやかにして、抜きのstaccatoで演奏しなければならないのですが、この5小節目と8小節目の4分音符は、保持してStollenを収めてから手首を抜かなければならない。4分音符分は鍵盤上に指を置いておく事が重要である。


譜例は9小節目からの譜例である。
9
小節目から12小節目迄は、新しいStollen(A⇒A⇒BのB)になる。
AとBの小さなStollenではなく、大きな(AAB)のStollenの収めのpassageになる。

曲想もAAのpatternから、全く新しく、突然、Bのpatternへの変化で、(subitoで)激情的に演奏しなければならない。
と言う事で、ベースのCはこのaggressiveなpassageを支えるために、しっかりとお尻のtouchで芯のある音で演奏されなければならない。

ここの4小節間のpassagerubatoの「緩急」の原則が入ってくる。
当然9、10小節目が「急」で、11、12小節目がそのrubatoの返しの「緩」になる。

と言う事で、9小節目はsubitoで、激情的に演奏する。
そのpassageの頂点は10小節目の34拍目のAs、Gesの音に来る。
しかしそのsostenutoは、次に来る11小節目の「緩」のpassageの邪魔にならないように、sostenutorubatorit.の揺らしの範囲を超してはいけない。
春秋社版の井口版では、11小節目、左手の最後のソ♭の音にfermataが付いているが、私の場合にもpoco-rit.からfermataの前をpiu rit.にして、fermataで音楽を止めて、その後で右手のミ♭をタップリと弾いて、12小節目に入ってからtempoを戻す事にしている。

9小節目がdecrescendoで始まるのは、subitoforteで激情的に9小節目が始められたから当然のdecrescendoである。

滑らかなdecrescendoに従って、音量を少し落としてから、(10小節目から)次の頂点のAsの音に向かってcrescendoを掛けて行くのだが、次の11小節目は、9小節目からのrubatoの収めのpassageになるので、10小節目のAs、Gesのsostenutoを、必要以上に、やりすぎてはいけない。繰り返し同じ事を注意するのは、逆にAs、Gesで流れを止めて、11小節目をあっさりとまとめて仕舞う演奏家が意外と多いからである。楽譜を注意してみても何処にもそのような演奏はLisztは求めていない。演奏家が作曲家の意図に沿わない表現を勝手してはいけない。

2小節間の爆発を僅か11小節目の1小節で収めをしなければならないので、11小節目の1、2拍の膨らましは、後半の3,4拍目の収めのpassageのためと共にとても大切な要素になる。
この揺らしのrubatoは、言葉で説明するよりも、ピアノで演奏して教えるほうが分かりやすい。

溜めのpoco rit.の後のa tempo12小節目)は次のStollenの前奏(イントロ)にもなっているので、当然膨らましが入ってくる。

13小節目から17小節目までは(18小節目のkleinigkeitを除いて)全く最初の3小節目からのAAのmelodieと、同じmelodieである。

ただmelodieが3連音になったに過ぎないのだが、この3連音を無視して弾く学生が多い事には辟易させられる。皆、一様にこの3連音を16分音符のように素早く弾くのだよ? しかし、ゆったりと3連音で弾く事の方が遥かに難しい。勿論、15小節目と18小節目の3連音は収めの音なので、3連音よりも遅れて弾く事の方が望ましい。。

melodieをつかさどる3連音のは、accent気味で鋭いstaccatoとして演奏されていることが多い。
しかし、このpassagemezzo-staccatoで、しかもsempre dolce graziosoで演奏しなければならないのである。(少なくともLisztはそう書いている。)

と言う事で、このmezzo-staccatoは、portatoとして手首の抜きを使って、優しく演奏しなければならない。またoctaveの音はしなやかな手首の抜きを使って、反射して来たechoの音のように、pianissimoで抜きの音で、壁に反射して来た音のように演奏しなければならない。
「きれいな音で、弾いて」と、同じrhythmになるように演奏すると良い。

首のしなやかな動きの見せ所である。
しかし、残念な事には、この3連音は、実際には乱暴に(Lisztの指示を無視して)forteでしかも、accent気味に、3連音のrhythmを無視して、素早く、装飾音のように、演奏されることが多い。

Mezzo-staccatoとして書かれているのにもかかわらず、あたかもaccent staccatissimoのように乱暴に演奏される。
切なく悩ましい、情緒的な「ため息」ではなくって、現代風の「ブチ切れまくった」演奏である。
勿論、原因は「portato奏法のtouchと、staccatoをしながら手首を抜く。」というピアノの奏法を知らないという事がその原因である。


しかし、現実的に音大生の演奏等を聴いて見ると、まあ、このpassageを演奏する上での問題点は、『portamentoの手首の抜き』といったような高度な技術的なlevelの話ではない事を、改めて知ってしまった。
ようするにPianoの演奏法の技術を云々するような高度なlevelの話ではなく、
むしろ、低次元の単なるLisztの音楽に対しての感性の問題に引っかかってしまっている。

殆どの人がこの右手の3連音を素早く恰も、16分音符のように弾いてしまっているのだが、それは手の移動が怖いから・・という技術不足の問題に過ぎない。interpretation以前の問題であるぞよ。

両手の分散和音と3連音の受け渡しを、焦ってしまって、3連音のrhythmが全く3連音になっていない演奏をする人が多い。

指導者は、ゆっくりと手首を使いながら3連音を弾いたとしても、手の移り換えが十分に間に合うことを理屈だけではなく、生徒に実際に演奏して、手のmotion(動きの速度)が、如何にゆっくりな動きでも、ちゃんとテンポの中でshiftが間に合うのかを、演奏して見せなければならない。

ここまで来ると、実際に演奏して指導することが必要な箇所は殆どなくなる。
演奏してあげたとしても、曲のimageのsuggestだけで済むはずである。




次の課題は、21小節目の右手の3連音の弾き方である。
左手は6連音なので、当然、右手も3連音として、弾きがちなのだが、実際には、上のoctaveの音は、青のmelodieの音のechoに過ぎないのだから、Cの3連音のように・・ではなく、melodieを活かして、8分の9拍子のように弾かれなければならない。
しかし、当然、左手のfigurationは4拍子の6連音を堅持するのだから、ここではロマン派特有のpoly-rhythm(複リズム)が派生する事になる。
まあ、ChopinやLiszt、Brahmsを弾きたければ、このpolyrhythmの演奏法からは逃れられないのだがね??

22小節目は勿論、このStollenの収めの小節になるのだが、このシのoctaveのmelodieは、21小節目から引き続いた青の音の繋がりなので、下のシの音がmelodieであって、上の音はechoされた音に過ぎない。
同じ強さでこのoctaveを弾いたり、上の音をmelodieとして出して弾く事はlacherlich(物笑いのタネ)である。

27小節目の3連音は、間違えて弾く人は、このlevelではいないはずなので、次の課題は29小節目のcon forzaの弾き方である。
まあ、楽譜通りと言ったら、身も蓋もないのだが、楽譜通りにこのoctaveを右手だけで、con forzaで弾く人達が殆どであろう。
それが同仕様もなく乱暴に聴こえてしまう。(本人達も乱暴に弾いていたりして・・・??)
まあ、そういったgewaltigな性格に人は、さておいて、con forzaでも美しく弾きたい人達へのadviceなのだが、このoctaveの動きは結構、速い速度で弾かなければならないので、右手のoctaveで演奏していては、どんなに練習を積み重ねたとしても、乱暴にしか、聴こえないだろう??そんな時には、octaveを両手に分ければ良いのだよ??
それで怒るLiszt先生はいないのだよ??アハッ!

特に右手のoctaveaccentDesから、次のoctaveCの繋ぎが不自然に演奏している人が多い。CからEs,Desへのcrescendoを忘れてはいけない。
そうすれば不自然なCを弾くことはない。


30小節目からは、8分休符のrhythmが、3連音になっているのを、正確に理解しておく事が大切である。
勿論、誰しも、8分休符が3連音と、同期していることは頭の中では理解しているはずなのだが、実際にMetronomを付けて練習させると混乱をして来る生徒も結構多い。

特に、31
小節目の左手の16分音符の引っ掛けのrhythmが、次のoctaveへの移動と、Doubleのミスで、音やrhythmが乱暴になってしまっている人が多いもの困り物である。

最初は16分音符のarpeggioを取って、ただの16分音符の和音として、右手の音符の何処に、その16分音符が入るのかを、正確にゆっくりと、練習するとよいだけである。
2:3の合わせの練習は、「トンカラリン」で「トンカとラリンの2つに分けて、16分音符が絡んで来るだけである。
3連音の16分音符のbeatを、最初はゆっくり目に練習を始めて、次のoctaveに行く迄に、充分な時間があるのを体感的に把握すれば、速度を上げて行くのは、簡単である。
つまり、どの音の粒を右手のどの音に合わせるかを、感覚ではなく、Metronomで正確に練習する事が、コツである。



次に34小節目からのaccent記号(∧)なのだが、Liszt先生の譜面を正確に読むと左手の上の音の単音が独立して書かれている事が分かる。つまり、下の和音と上のmelodieを同じ左手で演奏しているので、accentは上のmelodieにしか付かないのだよ?
そういう風に弾くと、このpassageもとても繊細で美しい響きになるのだよ。

特に、35小節目からは前に出す音符の数が変わるので、前の6連音の6個目ではなく5個半の所に入れなければならない音符と6個目に合わせなければならない音符がいろいろ出てくるので、楽譜上で生徒に対してきちんと確認させなければならない。

次に37小節目からは、kadenzになっているので、(本当はkadenzという意味ではなく、eingang挿入句という)通常は日常的には挿入という意味はeinschiebungという単語を使用するのであるが、文献ではeingang(入り口)という単語を使用している。
不思議だ!!


横道にそれてしまったが、まず、37小節目の二分音符の後の16分音符の6連音から、小さな音符に入った瞬間にテンポを無視して突然早く演奏する人が多いのだが、16分音符の6連音にaccelerandoが掛かっているのを忘れてはいけない。
つまり、16分音符の6連音がだんだん早くなって、自然に小さな音符のテンポ(速度)に持って行かなければならないのだ。
突然ではなくいつの間にか、kadenzに入っていたという感じになる。そこがfigurationの要なので、とても重要な事でもある。


このkadenzのfigurationは、左手が正確な指使いとbeatで演奏出来ているか否かが勝負の分かれ目である。先生が右手を弾いて生徒に左手を弾かせて見ると微妙にbeatが狂っているのが分かる。octaveであろうと、6度であろうと、3度であろうとscaleは必ず左手に右手を乗せて演奏出来なければならない。

長い37小節目の最後のdiminuendo e rall.と更にrit.の目的のテンポは38小節目のsotto voceの右手のAaccentからGis(強―弱!)の音である。
つまり、rit.38小節目の整合性がなく遅くなってしまってはいけない。



37小節目の後のDouble barからの、38小節目は、Chromatikな弱進行の和音の悩ましい音色の変化を経て、42小節目から、46小節目迄は、Bas-melodieとも言える、Bassfuhrungによって徐々にcrescendoされる和音が、46小節目で、爆発的なvolante(飛ぶような、軽快な、速い)figurationを見せる。
まさにLisztの面目躍如の印象的な素晴らしいpassageである。


46小節目の両手のarpeggioは幅が広いので、手を目一杯広げて演奏しようとすると、逆にmisstouchを誘発する原因ともなる。

親指の力が完全に弛緩して手首を柔軟に保つことが、この大きな開離体の和音を演奏するコツである。

実際上は、この曲の中で一番の難関のpassageは49小節目の4拍目から51小節目に掛けてのPPPのfigurationである。
両手で個別に練習をすると差程とは思えないのだが、両手になったら途端に難しくなるので、ここはひたすら練習の箇所であろう??
51小節目の4拍目は右手7連音に対して、左手6連音なので、左右が噛まないのだが、52小節目へのrit.を入れるので、差程難しいpassageではない。良く歌い回す事を練習すれば良い。






Un poco piu mosso53小節目からのphraseはよく誤解されて弾かれるpassageでもある。

Un poco piu mossoで左手が3連音で刻むので、Un pocoではなく、本当にpiu mossoに演奏されることが多い。

しかも、melodieが両手の親指になっていて、しかもaccentがついているので、必要以上にきゃんきゃんと、accentをつけて弾かれる事が多い。
このpassageはPianoで弾かれなければならないし、また、dolceとも指定されているのを忘れてはならない。

多くの日本人のpianistが、理解していない事なのだが、
Accentが、強勢を意味するcaseは実際の曲の中では、非常に少ない。
多くの作曲家達は、eleganceを美徳とするからである。

殆どの作曲家がstaccatoを使用する時には、figurationの中で音を際立たせる・・・・、melodieを浮き立たせて演奏すると言う意味を言い表しているのに過ぎないし、優美なmelodieを意識して弾くなら、このphraseにむやみな鋭いstaccatoを用いて、曲を乱暴な暴君的な曲にすることはないはずなのだがね??

しかもmelodieの最後の音のpassageである55小節目であるが、よく、2拍目の6連音からあたかも新しいphraseのように、右手の音を3連音のように新しく弾き直す人がいる。

つまり、melodie55小節目の1拍目で終わって、挿入された小節のように、新しく2拍目から大きな膨らましを(楽譜の下に書いたcrescendo記号のように)させて演奏する人がいるのだが、これは53小節からあるべき終止音のDesの音のない62小節迄の大きなphraseとして演奏する上では、形式上の統一性、これまでに出てきたphraseとの整合性の両面から見ても好ましくない。

53小節目からのthemamelodieの最後のDesの音が響き残った(laissez vibrer)様に、フェードアウトするような感じで弾くとよい。

61小節目の右手はmelodieがラ♭⇒ソ⇒ラ♭⇒ファの4分音符になりますが、このファ以降の細かい16分音符は、装飾のfigurationなので、小さな音でleggiermenteで弾きます。
そのファの音の解決先である4拍目の右手のmelodieの「ファ⇒ミ♭」の音は、上下を和音が隠してしまっているので、浮かび上がらせるのが、とても大切です。

赤で書いたように、和音の中のFEsと浮かび上がらせて演奏しなければならないので、右手和音のGes,C,Asの和音がmelodieFを邪魔することがあってはならないのは、結構難しい留意点であります。

しかも、62小節目の拍頭の「丸で囲った場所」のように、あるべきはずの「Desの終止音がなく」、その余韻を残したままトリスタン・コードを思わせるfinalepassageに入っていくという事は、なんともお洒落で天才的で、或いは、悪魔的とも言えるLisztの作曲技法を垣間見る事が出来ます。

62小節目から始まったfinaleのBassfuhrungのpassageは、68小節目から70小節目に向かってpoco a poco rallentandoでだんだん幅広くしてい来ますが、これは42小節目に既に、伏線が引いてあって、一度経験済みなので、Audienceの人達に、充分な期待感を与える事が出来ます。
Chromatikの3度の和音から始まるのも、38小節目と全く同様です。

70小節目ではarpeggioの中にthemaが隠されているのだが、melodieを浮かび上がらせるために、arpeggiobeatが不自然になったり、arpeggiobeatを丁寧に出そうとして、melodieの流れがなくなってしまう、という難しさがある。
arpeggiobeatの粒粒をしっかりと出してしかもmelodieが歌うように弾くのは、理屈ではなく感性の技術である。
70小節目の左手のベース音はT度、Y度、W度の3度サークルである。(青鉛筆で印をしている。)

71小節目の裏からは突然melodieが3octaveになるのだが、70小節目から単音でmelodieを持って来たので、例えoctaveになったとしても、melodieのlineは一番下の音にあるので、そのmelodie-lineの音の比重(厚み)が突然変わっては音楽的に不自然になってしまいます。
つまり、71小節目の2拍目の裏の8分音符からも、左手のmelodieのlineの流れと、octaveになった事でともすれば崩れてしまうoctaveの比重(厚み)を崩さないように、細心の注意を払いながら、右手のoctaveは飽くまでも、影の裏melodieとして弾かなければならない。

75小節目(終わりから3小節目)の4拍目でpedalの踏み替えをする時に、四分音符が単音としてだけが残らないように、finger pedalを使用して和音の量感を保持すること。
76小節目の4拍目も同様である。



後書きにかえて

音楽を指導する先生達の多くはピアノを演奏して、それを生徒に真似をさせてレッスンをする先生が多い。生徒は必然的に先生のコピーの演奏しか出来なくなる。

日本人の留学生の指導をされた外国のピアノの先生達がいつも言うことであるが、「日本人はその生徒がどの大学を出ていようが、どの先生に師事していようが、全く同じ音(音色)で同じ解釈で、同じように弾く。」と感想をもらす。

つまりピアノを弾く生徒の個性はおろか、先生の違いすらないのだ。それほど日本人の演奏は画一的で面白くない。というよりも、日本人の音楽大学の先生達は個性的である事を忌み嫌う。
「個性的に演奏すると言う事は100年早いのよ!」
「まず基礎をちゃんとやってからでしょう!」


しかし、歴史に名を残す名ピアニストであればあるほど、基礎の無さに嘆くものである。
ハッ、ハッ、ハッ!
小学生の**ちゃんが、意味不明と悩んでいたので、答えを教えます。
つまり、日本の音楽大学の先生は、「基礎を勉強すれば、基礎が出来る」と思っている・・という事です。
それに対して、死物狂いで基礎の勉強をして来たはずの超歴史的なproの人達は、幾ら頑張っても、幾ら時間を掛けても、基礎が完成する事はない・・と思っているのですよ。
学校の勉強のように、完成形があるのは、学校教育の場合だけなのですよ。
実際の社会では完成と言う事は永遠にないのです。
全ての芸術は、全て未完成なのですよ。
天が後、10年、否、後5年、寿命を与えてくれるのならば、本当に芸術の事が分かるようになるのだが・・と誰かが言っていたような記憶があります。アハッ!

私が言っている個性とは、自分勝手な演奏を意味するのではない。
私は全ての生徒に同じtouchの仕方、同じ曲の分析、同じ歌い回しを指導する。
しかし、私の弟子の演奏を聴いた人は全てが別の先生に師事している生徒のように、独自の演奏に聞こえるという。守らなければならない原則論をちゃんと守れば、後は自分の感じるままを演奏すればよいのだからである。
そこがコピーと理論の違いである。
私の場合には生徒が先生のコピーとなる事を避けるためと、理論として音楽を理解させるために、生徒が成長するにしたがって、演奏して指導するのを少なくする。
猿真似を防ぐためである。

しかし、それが指導を学ぶ先生が生徒に指導する曲を演奏出来なくてもよいという意味ではない。

事前に生徒の曲を予習してくる事無しに、生徒の前で何度もピアノを弾きなおしてその場で練習している先生もいるが、それは先生としては最低の先生である。
生徒の信頼をなくすだけでなく、父兄の信頼も失ってしまう。
生徒の曲を決めた段階で指導する先生はちゃんと生徒の曲を演奏出来るようにしなければならない。
私はone lessonで生徒を見るわけなので、「私が指導する生徒の曲を事前に知らせて欲しい。」と常に言っている。
また、その楽譜を必ず事前に準備して、私が予習できるようにと、いつも言っている。

私の生徒ではないわけなので、曲決めも私がするわけではないし、私自身が事前にその曲を練習している分けでも、準備出来ている分けではないからである。
それなのに、one lessonの時に、始めて楽譜を見せられたり、果てはその楽譜すら準備出来てないことすらある。
私自身はそういった、場当たりのレッスンをすることはない。
生徒に曲を渡す時から、曲を熟考して、研究してから選曲をする。場当たりの思いつきで選曲をする事は、私のポリシーがそれを許さないからである。私はそれを自分の恥と思っている。
そのポリシーが分からないと、生徒に対しての誠実なレッスンは出来ない。



2019年の8月の3日にユーカリが丘の教室でUn sospiroのlecture-lessonをしました。
その時に、この『愚痴とボヤキと・・』の解説に落ちている箇所を補足説明したので、Pageに追加して起きました。