Sonata In G Minor Op.1 No.10 Didone Abbandonata
捨てられたティドーネのソナタ
『kirchensonta(教会ソナタ)について』
sonateとは言っても、baroque時代のsonateは古典派時代のsonateとは、全く違った音楽形式になります。
『Tartiniの曲の構造上の問題点』
grandsonate Op.1Nr.5 e moll
グランド・ソナタ
『auftaktの8分音符と拍頭の4分音符の拍節法について』
拍頭が弱拍になるという当たり前のお話
単なる蛇足に過ぎないのだが
音大時代にgrandsonateと始めて巡り会ったお話
Sonata in G minor Devil's Trill
悪魔のトリル
Devil`s Trill Sonataの音楽形式について
baroque時代の場合には、sonateと言っても、こんにち知られている所謂、sonate形式のsonateとは全く意味が違います。
『Urtextのfacsimile版に最初から書かれている音の間違い』
Tartiniの悪魔のトリルの場合には、facsimileの楽譜が二種類存在します。
その二種類で音やrhythm等が微妙に違っているので、どちらを底本にしているのか・・という事が直接的な問題になってしまいます。
『period-versionの悪魔のトリルの芦塚versionを制作するにあたって・・』
Urtext(原典版)と呼ばれる権威のあるBärenreiter Urtext版等でさえも、明らかに間違いと思われるpassageが多くて、また、
bezifferten Baßの出来も然程は良い出来とは言えないので、今回、美音ちゃんがperiod版で演奏するにあたって、版をkritik・renewalする事にして、
bezifferten Baßも私が直接、continuo譜から新しく製作しました。
『kleinigkeitのお話』
日本流に言うと、『違いが分かる・・』、とでも言うのかな??
『 bezifferten Baß数字付きバス』
通奏低音という言葉の意味の説明です。
『拍に入らない音符の問題』
「そりゃあ、ないよ!!」という話
『Tartiniの曲の構造上の問題点』
原典版(Urtext版)とfacsimile版と、はたまたKreisler版における『segue』の意味の違い
『お久しぶりの対面lessonと楽譜のお話』
『TartiniのDevil`s Trill Sonataの原典版のお話』
蛇足のお話:finaleの上書き保存のtrouble
Giuseppe Tartiniのviolinのsonateは、baroqueのsonateとしては、corelliのviolin sonateや、Vivaldiのviolin
sonateに比べても、演奏技術的にも、難易度的にも非常に難しいので、一般的な趣味の生徒達へのcurriculumで、生徒達への課題曲として与える事も、指導する事もありませんが、専科の生徒達で、baroque様式の音楽の勉強のために、敢えて、有名な副題のある三部作を演奏させる事があります。
その3部作を学ばせる事で、Tartiniのcurriculumとしています。
勿論、baroque-sonateの技術の頂点を極める作品という事で、専科生を対象にした、上級生用の曲になります。
Tartiniのviolinーsonateへのinterpretationのapproachは、originalのperiodーversionによるapproachと、通常、日本等の音楽の世界での擬古典version、所謂、Pianoの伴奏によるapproachがありますが、そのどちらを習得させるか??については、生徒のその段階での勉強の課題と学習をさせる内容の方向性で、その都度、決めているので、一般的な擬古典onlyのcurriculumのように、定型がある分けではありません。
一般的な音楽大学の教授の指導では、periodーversionの指導は音楽大学を卒業した後に、個人で研究するもの・・・と決められているようなのですが、私の教育方針ではrootsを知る事が、音楽指導の王道(早道)と言えるので、小学生のような早い段階でもperiod奏法の1分を指導する事は良くあるからです。
また、このTartiniのviolinのsonateに限った話ではありませんが、baroqueのsonateを演奏するにあたっては、period-versionの演奏に関しては、全く同じ楽譜でなければならない、現存しているfacsimile楽譜と、所謂、Urtextの楽譜に於いても、著しい違いがあって、Urtextを信用に値する楽譜として認める事は出来ません。
・・・それ以上に困った事に、原曲とされているfacsimile版の譜面にも、誤りの音符を数多く見つけ出す事が出来ます。
(私的に言わせて貰うのならば、)このTartiniの自筆譜だと言われているfacsimile版も、Vitali同様に写譜屋の手に寄る写本であると類推しています。何故ならば、作曲家本人ならば、careless
mistakeはあったとしても、根本的なmisは有り得ないハズだからです。
但し、このTartiniのfacsimile版に、mistakeが数多く見受けられるのは、写譜屋の所為だけではなく、Tartini本人の性格上の大雑把な処理が随所に見受けられるのですが、これはTartiniの性格の問題で、自分が演奏家であったから、楽譜の重要性を感じなかったのだと言えます。
こんにちからすると、不思議な事に見えるかも知れませんが、銅板で楽譜を残す作業はBachやHändelがそのために失明をしたぐらいに負担の大きなものであって、こんにちのようにホイホイと出来る作業ではなかった・・という事が一つと、もう一つの理由は、baroque時代には、未だ著作権が無くって、作曲者の作曲の技術が守られていない時代だったので、作曲家に取っては楽譜を残すという事は、こんにちの作曲者のようには、余り都合の良い話ばかりでは無かったという事なのです。
特にTartiniはviolinの名手として名を馳せた人なので、 Paganini同様に、自分の技法を楽譜に書いてひけらかす事は、技術の流失にも繋がり兼ねないので、慮られる事だったのでしょうかね??
(初めての技術を耳で盗む事は、それ以上の技術力が必要なのです。でも楽譜に記譜してしまうと、その技術は簡単に盗まれてしまいます。そこの違いなのですよ。)
また、Tartiniは即興の名手でもあったので、「楽譜を書く」・・という、とんでもない時間を浪費する事は、余り・・というか、やはり、面倒くさかったのですよ。
だから、折角の、素晴らしいviolin-sonate集なのですが、至る所に投げやりなpassageが含まれているのは、・・・・何と言って良いのか・・、私も『finale』というnotationのsoftが無かったら、とうの昔に音楽なんてやめていたかもね??アハッ!
・・でも、その『finale』も、そのfinale以前の廉価版のnotationのsoftでも、初期versionは結構酷いもので、折角入力した音符も失われてしまったものも多いのだよな??
技術の発展なんて、そんなもんよ!!
それに私がfinaleを購入して入力の技術を覚えたのは、40歳を過ぎてからなので、私の作曲をしていた時代とはダブらないのだよ。
今の子供達には、携帯なんて、産まれて来た時からあった、当たり前の生活必需品かも知れないのだけど、私の時代には携帯や電話は勿論、radioがやっとこの時代だったのだよ。
小学生の時に初めてテレビが出来たのだよ。
Pianoもuprightpianoが、田舎の町の小学校と中学校に1台ずつあっただけ・・ぐらいの時代だったのだからね??
TartiniのこのSonata In G Minor Op.1 No.10 Didone Abbandonataという曲のTitleの意味は、殆どの日本人は知らないままに、演奏をしているようですが、この「捨てられたティドーネ」というTitleは、Europaの人達に取っては、スサノヲの神話のように身近な『ギリシャ神話』の物語の中に登場するお話なのです。
トロイの木馬で有名な、トロイア戦争のお話なのですが、トロイアの王子パリスは、ゼウスとネメシスの娘であるヘレネーに恋をして、スパルタ王メネラーオスの妃となっていたヘレーネをトロイアに連れ去ります。これに激怒したメネラーオスが、兄であるミケーネ王アガメムノンと、アテネの寵愛を受ける英雄オデュッセウスとともに、ヘレネーを奪還するために遠征軍を組織して、有名な「トロイアの10年戦争」が始まります。戦線は膠着状態。この状況を打開するために遠征軍のオデュッセウスが考案したのが、よく知られている「トロイの木馬」です。
陥落したトロイから逃げ出す事が出来たトロイの王子エネアスはカルタゴの女王ディドの元へ身を寄せます。神の命に寄って再びトロイの再興のためにカルタゴを去るエネアスに、絶望したディドは王宮に火を放って死にます。有名な作曲ではHennry
Purcellのヴェルギリウスの叙事詩【アイネーイス】に基づく、ネイム・テートの戯曲【アルバのブルータス】があります。
この物語をthemaにした曲は、無数にありますが、こんにち演奏される事は稀なので、敢えて列挙はしません。
1995年7月9日 芦塚音楽教室 夏の発表会 1部オケ室内楽の部 開始から第15番まで
1995年7月9日の夏の発表会からのomnibusです。14番目の曲がDidone abbandonataです。
Tartini Sonata, in Sol Minore(Didone abbandonata )萩元美音(小6)芦塚音楽千葉教室 - YouTube
(You Tubeの解説の文章を転載しました。)
2020年の春の発表会のコロナで、二度も三度も延期になった後の発表会の演奏光景です。
伴奏はお母様です。
コロナ自粛で開催出来なくなった4月5日の発表会を6月28日に取り敢えずsolo組だけ発表会をしました。
勿論、当然、美音ちゃんのlessonも3ヶ月間はlessonがお休みで、また、私は後期高齢者で基礎疾患も全部当て嵌るので、部屋に缶詰になった状態で、全く千葉にlessonに行く事が出来ませんでしたので、美音ちゃんに直接指導する事は出来ず、しかも、Teleworkのlessonが1回出来たかどうかに過ぎませんでした。
また、諸事情で昨年の9月から半年の間、美音ちゃんはViolinを手にする事が出来なかった上の、コロナなので、本当に踏んだり蹴ったりの状態が1年間続いてからの、久し振りにViolinに触れる事が出来た(1年振りでviolinに触れる事が出来た)・・という最悪の状況下での演奏になりました。
そういった逆境の中でも、1年前からのblankで、violinの技術levelを、そんなに落とす事もなく、この難しい曲をそれなりの水準で演奏が出来たのは流石だと感心しています。
Didone Abbandonata Giuseppe Tartini 芦塚音楽教室lesson風景 美音小5)
芦塚音楽研究所千葉音楽教室lesson風景
2020年3月26日花園教室 萩元美音(小5)violin、Piano古川紗來(中1)指導芦塚陽二先生 斉藤純子先生class
Sonata In G Minor Op.1 No.10 Didone Abbandonata Giuseppe Tartini
コロナのためにlessonが2週間お休みになるので、lesson-videoをuploadしますので、よく参考に学習しておいてください。
Didone Tartini 伴奏lecture lesson芦塚千葉音楽教室芦塚陽二20年3月12日
20年の四月の5日の芦塚音楽研究所千葉音楽教室の春の発表会はコロナの影響で開催出来るか否かは、未だに不明なままなのですが、曲のlessonは発表会の有る無しに関係なく普通にあります。
3月の12日の芦塚先生のlesson風景です。
lessonはDidoneを演奏する美音ちゃんとの伴奏合わせのlessonが出来ないままで、rehearsal になってしまったのだけど、伴奏合わせのlectureの時間が取れないので、斉藤先生が代奏をして伴奏だけのlectureをしました。
violinのsoloのlessonは、soloだけで先生のlessonで指導する事になります。
・・という事で大変珍しい、伴奏のためのlessonになります。
Tartiniのこの有名な曲はあたかも対話をするようなimageで音楽が流れていきます。
冒頭の8分音符のthemaなのですが、continuoのpartを見ても分かるように、一つのMotivに見えますが、実はレミレシの前半部とレミレの後半部に分かれます。
つまり、中世からの有名なFormであるbogen form、つまり、a+a'(1+1)、b(2)のbogen formで作られています。
次のStollen(節)は、a+a'、cと続きます。
対話の手法は、それに準じます。
そのためには、主題の対話としての受け答え、所謂、微妙なtempoの揺らしがとても大切な要素になります。
この微妙なtempoの揺らしが日本人はとても下手なのです。
・・という事よりは、日本人の場合には、「tempoの揺らし」そのものを、毛嫌いする傾向があって、Metronomを「非音楽的な道具だ」と言っている割には、情緒的に感情的に揺らす揺らし方しか出来ません。
古典派の時代の、Haydnのsonateのthemaでも同様に、いつの時代の音楽でも、ちゃんと揺らしの法則に従って緩急をつけなければならないのです。
それはロマン派の時代の「揺らし」とは根本的に意味が違っているのです。
またこの時代のsonateとは、Haydn時代のsonate形式に寄る所のsonateとは違うので、もっと、節、節の独立した音楽的な表現が出来なければなりません。
また、その揺らしも、小さな細かい揺らしと、Stollenを分ける大きな揺らしの使い分けがとても大切で、このDidone AbbandonataのⅠ楽章には、その全てが網羅されているのです。
この楽章を自由に弾き熟すには、とても繊細なtempo感覚が必要になります。
Ⅰ楽章は歌い込みのためのtempoの感覚なのですが、最終楽章には舞曲としてのrhythmの感覚があり、その舞曲のrhythmを表現しなければなりません。
その最終楽章であるⅣ楽章のrhythmは、gigueのrhythmであって、baroque時代のkammersonataの最終楽章に良く用いられた、独特のrhythmなのですが、その構成は、大きなbogen formのような形式で作られていて、分割された前半部の前半と、完結する後半に寄ってStollenが出来ています。
大きなbogen formの後半部は、分割されない長い大きな一つのStollenで作られている事が、一般的です。
例外的には、Händelのgigueの場合には、前半部は分割された2部で書かれているのですが、後半部は逆に細かい節を恰も展開部のように、畳み掛けて作曲するというstyleを取る事もあります。
a(1)+a'(1),B(2)=A
a(1)+a'(1),B'(2)=A'
C(8)のように、bogen formは際限なく大きくして行く事が出来る形式なので、baroqueから現代の作曲家までが、良く使用する音楽形式なのですが、不思議な事に日本では未だ全く知られていません。
これまでの日本人は、Europaの音楽形式を勉強してきたのかね??
不思議だ??
とは言っても、殆どのbaroque時代のgigueはそのような形式で書かれているのですがね??
『kirchensonta(教会ソナタ)について』
Tartiniは、短調の重厚なviolin-sonateを書く時には、基本的な楽曲の形式としては,、kirchensonta(教会ソナタ)の緩急緩急の形式で書いているのですが、Ⅰ楽章のMotivには無伴奏のような対話形式が使われていて、Motivが対話の緩急の形になっていて、頂点で突然遅くなったりするのは、恰もロマン派の曲のような演奏styleになっているのだよな??
kammersonata(室内ソナタ)とkirchensonateの違いは、kammersonataが舞曲を用いて作られているのに対して、kirchensonateの形式では、対位法的なpolyphonyの様式で、緩急緩急の楽章で書かれる事が多い。
Tartiniのsonateからselectしたこの3曲はいずれも短調の重厚な曲なので、形式的には、kirchensonate(教会ソナタ)の形式である緩急緩急の楽章によって成り立っているのだが、Tartiniの作曲法は、自由で奔放なのだ。
virtuosoらしく、作曲家としては縛られてはいないのが特徴的である。
勿論、baroqueのversionでの演奏ならば、節度を持って対話をしなければならないので、Piano伴奏程の表現は必要はないのだが??
『Tartiniの曲の構造上の問題点』
parallel-octave(並行8度)
無伴奏の様式と言えば、violinのsoloでBaßの音を演奏するのだが、その時に、continuoの楽器も同じBaßの音を演奏する。
つまり、octaveの平行8度の動きが出るのだが、Tartiniは、他の曲(例えば悪魔のトリル)でも同様な、演奏をしている。
私的に言うと、その部分はcontinuoの楽器とviolinのBaßの音が重なるので、どうしても「音痩せ」をしてしまうのだが、Tartiniは意識して結構、そのoctaveの平行のpassageを使っているのだよな???
不思議だ??
・・・というか、Tartiniの場合には、basso continuoのpartをあまり意識して書いてはいない。
basso continuoを演奏する人がいなければ、無伴奏でも演奏した・・と思われる節があるのだよな??
(それは、悪魔のトリルのfacsimileによく現れている。)
次の譜例は、Didone AbbandonataのⅡ楽章の譜例なのだが、殆どのPiano伴奏のversionではこのようなarrangeになっているのだが、これではモロに、soloのviolinのBaßの音とPianoの低音(左手)が平行8度(parallel-octave)になる。
しかし、実際のfacsimile版では違う。
facsimile版の同じpassageでは・・・・continuoのpartが遅れて入って来ているので、octave-parallel(平行8度)にはならないのだよ。
つまり、原曲の方は平行8度にはならなくて、新しいarrange版は、みんな楽典的に間違えているのだよ。
『絵画風なtempoの変化』
Ⅱ楽章は通常の速いpassageなのだが、その速いpassageの中に、突然、recitativo風の箇所が出て来るのだが、Vivaldiのrecitativoを思わせるような自由さで、且つ、見事なのであるのだが、演奏はその分難しくなってしまう。
いずれにしてもDidone Abbandonataの曲は全体に渡って、細かいtempoの変化が見受けられるので、自由な即興風の演奏をしていたのかも知れない。
『Ouverture nach Französicher Art』
Ⅲ楽章は、France風overture(フランス風序曲)のような鋭いskipで荘重に演奏される。
恰も教会ソナタの緩急緩急の形式の緩の部、そのままなのに、Ⅳ楽章になった途端に、なんと、kammer-sonateの形式に使用される舞曲である『gigue』が始まってしまうのだよな??
これはズッコケてしまうのだよ。
この曲が「gigueのtempoで演奏されなければならない。」という意味は、単に「8分の12拍子であるから・・」という意味ではない。
gigueである条件には、そのrhythmのpatternがgigueのrhythm-patternである、所謂、日本のお祭りの3:3:7拍子と同じrhythm-patternで演奏されるからである。
質問と答えの1+1と次の1+1小節で次は、切れない2小節+2小節のpatternが続く。
所謂、bogen form(弧の形式)と呼ばれる中世の時代から存在する作曲形式の一つである。
gigueは曲の性質上、その弧の形式で作曲される事が多いのだよ。
多分、danceのstepがそのstepのpatternになっているからだと思われるがね??
しかし、まあ、なんで突然、kirchensonate(教会ソナタ)がkammersonata(室内ソナタ)に変わるのだ??
教会の中で、神様を前にして、盆踊りかい??
まあ、冗談はさておいて、Tartiniには、この曲に限らず、他の曲にも、そういった形式的な枠を無視した作曲法がよく見受けられるのだよ。(勿論、kirchensontaの形式で作曲をした場合の話なのだけどね??)
という事は、取りも直さず、Tartiniという人は、結構、物事や社会のruleに囚われない自由人だったのかも知れないよね??
grandsonateは言うまでもなく、典型的なkirchensonta(教会ソナタ)として書かれている。
Ⅰ楽章は、Didone AbbandonataのⅢ楽章をそのまま移調して借用しているので、「??」という感じなのだがね??
まあ、どちらが先なのかは分からないのだけど。(いずれにしても、Op.1のseriesのsonateの中の一曲ではあるので、曲の借用はバレバレなのだけどね??ちなみに、Op.1のNr.5がこのgrandsonateのe
mollであって、Op.1のNr.10がDidone Abbandonataとして知られている曲になる。)
参考までに:発表会での演奏風景と、lesson風景です。
grandsonate e moll 全楽章 Giuseppe Tartini 萩元美音
2021年5月9日の芦塚音楽研究所の春の発表会の演奏風景です。
Violin萩元美音 Cemb.萩元美紀 cello山本珠加
grandsonate No.1 e moll Tartini web lesson萩元美音 21年3月31日千葉南花園教室
芦塚音楽研究所千葉音楽教室の2021年3月31日のweb-lessonです。
受講者は萩元美音(小6)lecture-lessonは芦塚陽二先生です。
assistant-instructorは斉藤純子先生です。
grandsonate Op.1e moll Tartini Aussetzung des bezifferten Baß und ornament von Yoji Ashizuka(パソコン音源)
16年10月16日芦塚音楽教室秋の発表会Tartini grandsonateOp.1Nr.5e moll全楽章
2016年10月16日(日)芦塚音楽研究所千葉音楽教室秋の発表会での演奏風景です。
曲はTartiniのgrandsonateOp.1Nr.5e moll全楽章です。
演奏は七星ひかり(中1)伴奏は岡村智子(高2)です。
ひかりちゃんはpianoの専科生なので、violinは副科です。この難曲に挑戦しました。
教会ソナタの面目躍如のⅡ楽章のfugaのようなpassageは見事である。
当然、basso continuoの低弦はcontinuoのpassageと、fugaとしての対旋律を奏き分けなければならないので、同じ8分音符で会っても、continuoとしての8分音符の奏法と、対旋律としての8分音符の奏き分けの勉強にはとても良い練習になる。
『auftaktの8分音符と拍頭の4分音符の拍節法について』
また、4拍目の裏のdominanteの8分音符と次の拍頭の4分音符の音の強さを間違えて演奏している日本人が多いので、これは拍節法の常識としては、注意すべき事である。auftaktとなる8分音符と解決音となる4分音符では、殆どの日本人が4分音符を強めに弾くのだが、auftaktは必ずdominanteになっているので、auftaktの8分音符の方が強拍であり、拍頭の4分音符の方が解決音なので弱拍になる。
これは古典派のHaydnやMozartのsonate等にもよく登場し、多くの日本人が無意識に演奏しているのだが、それが守られていないのは、拍節法の原理を全く理解していない・・という意味で、音楽以前の問題である。
Mozartのpiano・sonateの曲を、私のlecture-lessonに持って来た音大出身のpianoの先生に、「拍頭は弱拍で演奏しなければならない」という音楽の理論上の原則論を説明したら、「そんな事は産まれてこの方、一度も習っていない」と固まってしまって、次のlessonが入らなくなってしまっていたよ。
Bach以前の時代から拍頭はmelodieの終わりの音になるのだから、強拍で奏く事は有り得ないのだけどね??
その原理が分からないなんて、日本の音楽のlevelなんて、たかがそんなlevelなのだよな??
呆れてしまうよな??
『Ⅲ楽章』
Ⅲ楽章のadagioは、壮大な2楽章の後では、少し短いのかも知れないのだが、音楽的な深刻さでは、曲の品位と構成を損なうもの程ではない。
冒頭のviolinの8分音符がcontinuoのcello(gamba)に受け継がれて、あたかもechoのように演奏しなければならない。
『Ⅳ楽章』
4楽章は打って変わって、愉しいcoquettishな曲である。
寧ろ、舞曲と言っても過言ではない。
kirchensonta(教会ソナタ)には、本来は、舞曲は使われないので、敢えて舞曲の名前は指定されてはいないが、どの舞曲に該当するのかを、類推するのは容易である。
私とこのTartiniのgrandsonateの始めての巡り合い
私が音楽大学に入学をした時に、作曲科の学生は1年から4年生まで私一人しか居なかったので、管弦のclassに同居させられて、授業等を受ける事になった。
だから科は違うのだけど、一応、同級生とでも言えるのか、同じclassのviolinの女の子から試験での伴奏を頼まれた。
その音楽大学では、成績がtopの生徒一人を1年生から外人教授に特待生として、師事させるのだが、その管弦classでのtopの生徒が、私に伴奏を頼んで来た女の子であった。(2年生になる時には、該当者がいれば2名、3年次には、3名、勿論、該当者がいればだが、外人教授に師事出来るのだが、その6名、7名の以内に入れなければ、外人教授にみて貰える事はない。その音楽大学で、1年生の時から、外人教授の下で勉強出来ると言う事は学年で一番の優秀な生徒だ・・という事が出来るのだよ。))
勿論、私も作曲科としては、1年から4年生までで、ただ一人の生徒なので、1年次から当然、外人教授であるPringsheim門下である。
まあ、そんな自慢話は兎も角として、その彼女が教授から1年生の時の課題として、与えられたのが、このTartiniのgrandsonateであったのだよ。
勿論、当時にはperiodのversionの楽譜は存在しないので、権威のある版と言っても、たかがPeters版ではあるのだが、Tartiniのviolin・sonateと言う事さえも、超rareな事で、珍しかったのだからね??
学内試験は、広い教室で、審査員の先生達が10人程がgroupになって、生徒の聴講も認めない非公開の試験をする場合と、小Hallや大Hallで、学生を入れて公開で演奏するProbe型の試験があるのだが、当然、外人教授の生徒なので、試験はProbe型の公開試験になる。
所謂、模範試験になるからだよ。
彼女がこの曲の練習を苦労していたので、この曲の伴奏を頼まれた時に、この曲の感想を聞いて見たら、「violinの事を全く知らない人が無理矢理に書いた曲のように、難しい」と言う事だった。
しかし、私の生徒達で小学生であろうと、中学生であろうと、この曲の指使いが不自然で難しいという生徒はいないのだが、そこは何が違うのだろうか??
violinの指使いは、時折、効率的な指使いを指導する事はあるのだが、生徒達がこの曲が不自然な指使いである・・と感じる生徒はいないようだがね??
確かにfugaとして書かれているので、polyphonyの曲をviolinで演奏するのは、伴奏付きの無伴奏の曲を弾くようで難しいのだよな??
それと、「何故、私が伴奏なのか??」と、彼女に質問をしてみたのだが、Piano科の生徒では、幾ら指が回っても、この曲を合わせるのは無理なのだそうな??
曲に対しての理解力が欠如しているからだそうな??
fugaの入りと同じなのだから、そりゃあ、そうだわサ?? 入りの前のeinsatz・・・、ちゃんと、対話が出来ないとね??
いずれにしても、音楽大学の1年生の前期の試験に、このTartiniのgrandsonateのe mollを課題曲として貰うという事は、大変なtechnicianである・・という事だよな??
concours組であっても、この曲を演奏するのは難しいのだからね??
大学を卒業したら、渋谷の『東京ladiesの総長』・・・・?? 否、『東京ladies-orchestraのconcertmaster』をやっていたのだけどね??
当時としては、始めての女性だけの彼女のためのproのorchestraだったのだけど・・、作曲家の有名なH先生に認められて、彼女のために作られた女性だけのorchestraだったのだよ。
残念な事に、同級生のこの女の子は、結構、若くして病気で死んでしまったのでね??
年老いた母を一人残して・・・
最大の親不孝は、親よりも先に死ぬ事である。
いくら親不孝の私でも、それだけは守ったからね??
参考までに:「悪魔のトリル」Kreisler版での演奏です。
2009年4月5日芦塚音楽教室春のコンサートオケ・室内楽の部より抜粋
第4部15番がTartiniのSonata in G minor Devil's Trillの演奏です。斉藤純子の演奏です。
2010年4月4日 芦塚音楽教室 春のコンサート 第二部から第三部 抜粋
omnibusの中の1曲です。梨衣中2です。
2015年10月11日 芦塚音楽教室 秋のコンサート オケ室内楽の部 抜粋
2015年10月11日の演奏から、第5部11番がSonata in G minor Devil's Trillの演奏です。斉藤純子の演奏です。
Devil`s Trill悪魔のトリル Tartini=Kreisler Vl.古川紗來(13歳)七星ひかり(15歳)芦塚音楽千葉教室19年10月13日 - YouTube
この動画はビビリ音が入っているので、下に補正をした動画をuploadしています。
参考までに:
Giuseppe Tartini Sonata in G minor Devil's Trill 古川紗來(中1)ビビリ音の修正
音割れが少ないので、聞きやすいかも知れません。
Giuseppe Tartini=Fritz Kreisler Devil`s Trill Sonata芦塚先生lesson紗來Violin13歳
芦塚音楽研究所千葉音楽教室の10月13日の秋の発表会に向けての最終lessonの風景です。古川紗來Violin(中1)13歳Giuseppe
Tartini=Fritz Kreisler Sonata in G minor Devil's TrillとVivaldi Violin-concerto
in mi minore Il favorito RV277のⅡⅢ楽章のone point lessonです。Piano伴奏は七星ひかり(中3)lessonは芦塚陽二先生です。
Il favoritoの練習風景は9月30日の練習は非公開になっているので、この悪魔のトリルとIl favoritoの練習風景はお久し振りの公開になります。
明日は本番なので、uploadする必要は無いのかも知れないけれど、あくまでもlesson風景と言う事でupする事にしました。
Devil`s Trill Sonata Tartini Kreisler芦塚先生lesson古川紗來(13歳)8月22日花園教室
8月3日からの3回目のlessonです。
Tartini Kreisler Sonata in G minor Devil's Trill芦塚先生lecture lesson紗來(中1)
2019年8月3日芦塚音楽研究所千葉ユーカリが丘教室、
左側の写真はユーカリが丘教室での芦塚先生のlesson風景の写真です。
梨紗ちゃんが音が繋がらない箇所のlectureを受けていた時に、芦塚先生が昔のオケマン達との練習で、弓が足りなくなった時の逸話を話て、紗來ちゃんが笑い転げている所です。
それはそうと、videoの映像と音声がズレているのに、気がつきませんでした。
その内に編集のし直しをするかな??
lesson-videoなのだから、そこまでする必要はないのかな??
参考までに:「悪魔のトリル」原典版(Urtext)芦塚先生校訂版です。
bezifferten Baßとornamentは芦塚先生の製作です。
パソコン音源です。
Tartini Devil`s Trill Sonata 美音(中1)web lesson21年9月7日
コロナ下での、初合わせとweb-lesson風景です。
主に曲の譜読みとimageの伝達のlecture-lessonです。
violinとcelloだけのlesson風景です。
先ずは、弦だけがちゃんと出来ないといけないので・・
何度も書いている事なのだが、baroque時代のsonateの音楽形式には、基本的に『教会ソナタ』の形式と『室内ソナタ』の形式がある。
私が取り上げた3曲はいずれも短調の曲で、しかも大曲なので、『教会ソナタ』の形式である「緩・急・緩・急」の型で書かれている。(勿論、この場合の『緩』は緩徐楽章を意味し、『急』は速い楽章を意味する。
ちなみに、室内ソナタは、基本的に舞曲を使用して書かれているので、四楽章の形態を取る事の方が希で、通常は舞曲の数は一定ではなくて、六楽章以上にも渡る場合が多い。
基本的には、四楽章の形態の方が基本なのだが、Bach等の例では、その基本の舞曲を、 allemande(ドイツ風舞曲)、courante(フランス風の速い舞曲)sarabande(非常に遅い舞曲)gigue(飛び跳ねるような速いskipするrhythmが特徴的な舞曲)とする事が、一般的とされる。あくまでも、学校教科書的な室内ソナタの形式としてなのだがね??
室内ソナタが舞曲で構成されるので、Monophony的な要素が強いのだが、それに反して、教会ソナタでは多声部書法による複音楽的な書法で作曲される場合が多い。
この際、『多い・・・』と、口を濁らしているのは、Italiaのbaroque時代の作曲家達は、北ドイツのBachのように、頑迷で、生真面目に作曲のruleを守る作曲家の方が少なくて、教会ソナタであっても、最終楽章にgigueを持って来るような作曲家は結構ザラだったのだよ。Italia人は軽いから・・などという物議を醸すような事は私は言わないからね??
このDevil`s Trill Sonataも、一応は、教会ソナタの形式を取ってはいるのだが、その手法は、かなり自由である。
先ず、驚く事は、この曲は緩急緩急の形式では無くって緩・急の楽章と、「緩・急・急」を一つにして、それをABAの三部構成にした、Ⅲ楽章の、極めて希な構成をしている。
しかも、Aの朗々と歌うゆっくりとしたpassageと、非常に速くて鋭い8分音符から始まる速いpassageと重音奏法の組み合わせの部分に、更に所謂、「Devil`s
Trill」と名付けられたtrillerのpassageが、三部構成で演奏されるにだが、それが、大きくABA(つまり、g mollのAの部分⇒d
mollのBの部分⇒g mollのAの部分の三つに分かれて、大きな一つの楽章を形成するⅢ楽章から成り立っている。
所謂、Ⅲ楽章構成である。
その後に、多分、kadenzが演奏されたであろうsuggestの小節があって、それに短い4小節程度のCodaが付けられている。
そのkadenzに対して、Kreislerは、完全に独立した楽章とも充分に受け取れる長さのkadenzを作曲したので、それが恰も四楽章を構成しているようになっていて、とてもbalanceが良い。
Peters版等のkadenzも、比較的には長くはあるのだが、Kreisler版の半分ぐらいの長さしかないので、物足りないし、最短のversionでは、octaveのscaleだけの1小節に満たないkadenzさえもある。
Tartiniの時代でも、Tartini自身がそのkadenzの部分を即興で、意のままに演奏して周りの人達を驚かした事であろう。
多くのbaroque時代の作曲家達は、当然演奏家も兼ねていたので、自分が自分の妙技を見せる場所を予め準備していたのだよ。
また、時折見せる、Tartini独自の和声学的な禁則は、それはTartiniの本質的な性格にも拠ると思われる。
つまり、和声学的な手法でも、結構、平気で禁則を犯している所があるからである。
間違えて・・・や、技術不足で犯す間違いとは基本的に違っていて、確信犯である。
それが、後世の校訂者の判断を難しいものにする一つの要因にもなっているのだよ。
私が音大時代に読んで感銘を受けた本に、Schönbergの論文を集めた本があって、その講演の中で、分析をする場合に、作曲家が無意識に書いたMotivを、分析のthemaにしている論文が多い事を批判していて、意識して使用した技法と、無意識に似てしまったMotivを区別するべきである・・という一文に、それまで、色々な曲のAnalyseを読んで、疑問を抱いていたのだが、そういった課題が一気に解決した事がある。
SchubertやMozartのように、大天才が、サラサラと書いた作品に思いも掛けない技法のtechnikが隠されている事があるのだが、それは、Beethovenのように、或いはBachのように・・・考え抜いて、編み出された技法なのか、天からのgeniusなのか・・は、思い知るべも無いのだ。
しかし、mistakeに関しては、無知が齎したものであるか、破として、優れた天才の手に拠るものなのかは意図も簡単に見分ける事が出来る。まあ、天才でも緻密な人と、雑な天才もいるのだよな??
Ⅰ楽章は8分の12拍子と言う事は、4分音符と8分音符を一単位にした(付点4分音符の)4拍子であり、そのtempoはBarcaroleやsicilianoよりも少し遅い揺れるようなtempoの設定である。
Ⅱ楽章は一転して非常に速い楽章で、難しいviolinのtechnikを駆使して書かれている。
果てさて、問題のⅢ楽章なのだが、非常に遅い美しい冒頭のmelodieは7小節書かれている。
次のⅢ楽章の中の第二部は、更に、鋭い8分音符から始まる14小節で一旦完結する。
そこから速いepisodeが始まって、16小節の速いpassageと重音奏法による2声部の書法による所のpassageが続く。
それから、第三部の、所謂、悪魔のトリルの部分(Trillo del diavolo al pie del letto)が始まる。都合、18小節である。
全体の構成をABAとすると、最初にAの部分は7小節+14小節+16小節+trillの部分の18小節の合計の55小節になる。
次のBの部分は属調であるd molで、その構成は、ゆっくりとした部分が6小節で、次の鋭い速い部分は10小節である。それに続いて、2声部書法による重音の箇所が8小節と、単音のpassageが8小節続いて、悪魔のtrillの部分に入る。これも14小節と少し短い。
Bの部分の全体の小節数は、46小節である。
最後の第三部の冒頭のadagioは、主調のg mollに戻るのだが、意表をついて、4度下の音から始まる。
このadagioの部分は、同じ6小節で構成されている。
次の速くて鋭い8分音符から始まるMotivは変わらないのだが、短くcutされていて、8小節だけで、直ぐに、悪魔のtrillの部分に入ってしまう。このトリルの部分も短く8小節である。
次に速いpassageの部分が来て、14小節でkadenzに繋がる。
繰り返しのAの部分は36小節しかない。
A(55小節)+B(46小節)+A(36小節)となっている。その合計は137小節なのだが、Ⅱ楽章は136小節なので、とても良くbalanceが取れている。
ちなみに、Kreislerのkadenzは81小節で、Peters版のkadenzは45小節である。(まあ、それがどうした??という感じではあるがね??)
完全な小節ならば135小節前後なのだろうが、kadenzとしての意味もあるので、それでは長すぎるので、その楽章の3分の2ならば、約90小節で、半分ならば、68小節なので、Kreislerの81小節は実にlogischな小節数と言える。
名人と呼ばれるviolinistの中でも、kadenzの後半の10小節ぐらいをcutして演奏している人達が結構多いのだが、kadenzとしてのみのimageで演奏していて、楽章毎のbalanceという意味を考慮していないのだから、Kreislerの意図が理解出来ていないという事だよな??
まあ、しかし、70小節は弾いているので、何とか半分以上、3分の2以下には入っているので、良しとするか??
You Tube等のperiodの演奏では短いkadenzしか聴いた事はないのだが、HändelのOrgan-Concertoのように、繋ぎのchordだけを書いていて、後は即興で演奏する・・というのが当時としての常套の演奏のstyleでは無かったのではないだろうか??
kadenzの後に、短いCodaの結びが4小節程付け加えられて、この曲を終わる。
悪魔のトリルの楽譜には、originalと称されるfacsimile版と、所謂、Urtext版(原典版)とviolinistによる校訂版がありますが、超、困った事に、一番正確だと思われるfacsimile版にも、間違いが多くて、困ってしまいます。
『originalの版のⅠ楽章が二声部で書かれている事の意味』
悪魔のトリルは、Piano伴奏のversionでは、どの楽譜もこのfacsimileの楽譜から、低音の音を省いて単音のmelodieと、basso
continuoとして演奏されていますが、それは全く正しいと思われます。
つまり、この和音で書かれた楽譜は、basso continuoが無い、violinのsoloとして演奏する場合の低音のpartだと思われるからです。
また、そのように、無伴奏で演奏している演奏のYou Tubeを見つけましたが、なかなか秀逸な演奏でした。
秀逸な演奏という意味は、violinが無伴奏でこの和音を弾く時には、この曲があたかも通奏低音と二声部で演奏されるように演奏しなければなりません。
つまり、この楽章は和音として演奏するのではなく、あくまでも2声部の書法で書かれているという事で、下のpartは通奏低音の楽器の代わりのpartなので、独立性を持たせるために、少し前に出して演奏するのが一般的なのです。
melodieと当時に演奏をすると、単なる和音に聴こえてしまうからです。
『Urtextのfacsimile版に最初から書かれている音の間違い』
『facsimile版とKreisler版のお話』
悪魔のトリルを生徒に指導することにあたり、出版されている色々な版を購入して、checkをして見たのですが、Urtext版と称される版が、色々な出版社から出版されているのですが、その版ですら、facsimile版とは、色々と違って書かれている所が多くて、今一つ、信頼性に欠けて困ってしまいました。
せめて、facsimile版と同じならば、それなりに信用が出来たのですが、facsimile版とも違うので、一々、何故??どうして???とUrtext版のcheckまでしなければならなかったので、主客転倒も甚だしいかったのですよ。
という事で、私がcheckした数ある譜面の中で、一番、論理的に正しい校訂であると思われるのが、(なんと!!!)Kreisler版でした。
一般的には、Kreisler版の方が、情緒的な解釈で、色々とinterpretation上の問題が多い・・・と、思われていたのですが、originalと思われるfacsimile版とKreisler版を比較して見ても、そのfacsimile版での間違いを、Kreislerが正しく訂正しているので、論理的にもUrtext版よりも、より優れたkritik版になっていました。
但し、それはあくまでもviolinのpartに関してのお話で、伴奏のpartに関しては、近現代の和声法による作曲であり、且つ、interpretationなので、baroque-音楽としてのTartiniの悪魔のトリルとしての、interpretationからは逸脱してしまいます。
つまり、あくまでも、Ferdinand David同様に、近現代のPiano伴奏によるbaroque音楽というgenreの語法による擬古典の作品なのです。
という事で、TartiniのDevil`s Trill Sonataのperiodのfassungで演奏をしようと思ったら、なんと、なんと、暗中模索の中で、芦塚versionを作らなければならないという、とんでも無い無理難題の課題を押し付けられてしまいました。
『period-versionの悪魔のトリルの芦塚versionを制作するにあたって・・』
Kreisler版の伴奏譜は、近現代の手法で書かれているので、あくまでも、擬古典の作品になってしまいます。
・・・という事なので、Kreislerのviolinのpartが如何に優れてkritikされていたとしても、baroque時代のperiodとしての、悪魔のトリルとしては、Kreisler版を使う事は出来ません。
つまり、このTartiniのDevil`s Trill Sonataを、baroque-versionのperiodのstyleで演奏しようとすると、結局の所、一度、楽譜を原点の
bezifferten Baß(数字付きBaß)に戻す所から、始めなければなりません。
結局、最初から、「芦塚version」の悪魔のトリルを作る破目になってしまいました。
という事で、芦塚versionの悪魔のトリルを作るにあたっては、どの版を最終の版にするか??という事なのですが、通常ならば、facsimile版が一番正しい版のハズなのですが、実際には、facsimile版の余りにも多いミスを鑑みて、私の方針としては、facsimile版にある間違えた音は、可能な限り、より論理性が正しい方向に訂正する事にして、facsimile版の音を変更する事も、已む無しという事にしました。
本来ならば、学術的にも、「芦塚version」を作成するに当たっては、変更箇所を文章としてupし、その理由の詳しい説明をするべきなのですが、変更箇所が、結構、膨大な量になったので、homepageに掲載するか否かを考慮した結果、諦める事にしてしまいました。
別にkritik-Ausgabeを作るという意味ではなく、あくまでも、Cembaloの伴奏で古式豊かに演奏したいだけなのですから、kritik=Ausgabeでなくても良いのですからね??
kritik-Ausgabeのように、延々と、「**小節目の*の音を*の音に変更」と延々と数Pageに渡って書かれても、homepageとしての
読み物としては、全く面白くないからね??
まあ、それでも必要最低限の記述は必要だと思いますので、可能な限り、掲載してみようと思っています。
という事でfacsimile版とKreisler版の比較をしようと思ったのですが、冒頭の数小節で、頓挫してしまいました。
Peters版冒頭のPage
一般的なPeters版です。
所謂、Kreisler版とは違ったinterpretationの現代版、勿論、擬古典版です。
一般的に悪魔のトリルを演奏する場合には、このどちらかの版で演奏する事になるのかな??
他にも色々な版があるにはあるようなのですが、取り立てて、checkする事もないと思いますので、紙面の無駄にならないように、掲載する事はやめておきます。
Urtext版は一応はperiodーversionにはなっているのですが、権威のあるBärenreiter Urtext版にも関わらず、とても、演奏、公開、出来る代物ではありません。後の後悔先に立たず!ですよね。
仕方がないので、いつもの通りに、芦塚versionを作りました。
本来ならば、facsimile版を底本にしてperiod版を作るのですが、facsimile版にも、誤りが多過ぎて使い物にならないので、楽典的に論理性を優先して、kritikーAusgabeにしました。
勿論、Cembaloのpartもなるべく原型に近い形にしました。※)
※)近現代の作曲様式にならないように、baroqueの通奏低音の演奏styleを活かして・・・
上記のfacsimile版と下のPeters版の音やarticulationの色々な違いは、各自見て確認して見てください。
際限が無いので、私はやめてしまいました。
私は、checkしません。
美音ちゃんからの指摘で、70小節目の赤い丸で囲った音符Cの音なのですが、Kreisler版等のfacsimile版以外はDの音になっているようなのですが、芦塚versionでは、Sequenz進行なので、facsimile版ではなく、Kreisler版と同様に、『D』のSequenzを採用します。
『kleinigkeitのお話』
それにしても、同様に、次の譜面の丸で囲んだ音なのだが、facsimile版以外の版では、Kreisler版も含めて、全ての版が1回目と同じ、Sequenzにしているのですが、このpassageは、楽典的には決して間違いではないので、originalのfacsimile版でも良いのですがね~ぇ??
繰り返しでSequenzを演奏する場合には、VivaldiやHändel等のbaroqueの作曲家も、繰り返しのpassageを、kleinigkeit※)での変更をする事がよくあるので、・・・、このpassageの違いは、決して誤りにはならないのですがね??
この曲を校訂する他の人達が全て「同じSequenzだ」という解釈で音を訂正しているので、私としては、結構、悩んでしまうのだよな??
困った!困った!!
※)bogen formにしても、spielbarにしても、このkleinigkeitにしても、音楽用語に日本語の訳が無い場合が多いので困ってしまいます。
一々、私が訳語を作っても意味はない(一般的にはならない・・と言う意味なのです。)ので、教室で子供達に指導する時には、そのまま原語のままに指導しています。音楽用語はcrescendoやritardandoに至るまで、moderatoやandante等も全て原語表記だからです。
kleinigkeitはドイツ語で、『小さな事』ぐらいの意味になるのでしょうかね??『veranderung』、変化という単語もあります。だから『kleine veranderung』で小さな変化の意味ですかね??
『 bezifferten Baß数字付きバス』
Cembalo用の楽譜は、ornamentや即興を入れる前の、生の状態の楽譜になります。
つまり、古式豊かに、原型のCembalo-partに近いarrangeで、可能な限りSequenzを用いて作曲をしました。
sessionの過程で、少しづつornamentや即興を加えて行けば良いと思います。
『拍に入らない音符の問題』
また、問題点はⅢ楽章のadagio(facsimile版ではandanteになっているが・・)の部分であるが、4小節目の小節内の拍数が合っていないのだよな??
これはrhythmの単位の書き間違いなのだよ。
このpassageを芦塚versionでは次のように演奏する事にした。
上の段が演奏譜(ornament譜)になる。
以下、同様の変更をした。
下の段の4小節目は、「多分Tartiniはこう書くつもりだったのだろう」というrhythmの訂正の譜面になっている。
Tartiniの書いた譜のrhythmのままでは、finaleに入力するのは難しい・・(事もないのだが??)、幾らoriginalだとしても、敢えて、間違いをそのまま書く事に意義を見いだせなかったのだよな??
どっちみち音の間違いは、訂正した音符を掲載しているし・・・、facsimileの譜面を見れば分かる事なのでね??
ornament譜では、「Tartiniはこのように弾いたのかな??」という事で、間違いの譜面に近づけて即興風に揺らしを書いて見たので、演奏はどちらでも良いのだがね??
又、この楽譜上の2小節目では楽譜の記譜のままに演奏をすると、音楽的に弛れてしまうので、音楽の緊張感を持続するように、rhythmを変更して見た。
勿論、これ以降に登場する同じpassageも同様の変化を付けて演奏するべきである。
『これ以降の文章は、Didone Abbandonataの所で書いていた文章のcopyです。内容は悪魔のトリルに関しての説明だったので、同じ文章なのですが、コピペしておきます。』
Tartiniは、短調の重厚なviolin-sonateを書く時には、基本的な楽曲の形式としてはkirchensonta(教会ソナタ)の緩急緩急の形式で書いているのですが、Ⅰ楽章のMotivには無伴奏のような対話形式が使われていて、Motivが対話の緩急の形になっていて、頂点で突然遅くなったりするのは、恰もロマン派の曲のような演奏styleになっているのだよな??
『Tartiniの曲の構造上の問題点』
『paralleloctaveの例』
無伴奏の様式と言えば、violinのsoloでBaßの音を演奏するのだが、その時に、continuoの楽器も同じBaßの音を演奏する。
つまり、octaveの平行8度の動きが出るのだが、Tartiniは、他の曲(例えば悪魔のトリル)でも同様な、演奏をしている。
私的に言うと、その部分はcontinuoの楽器とviolinのBaßの音が重なるので、どうしても「音痩せ」をしてしまうのだが、Tartiniは無意識に、その間違いを犯しているのではなく、結構、そのoctaveの平行の禁則のpassageを、意識して(分かったままで)使っているのだよな???
不思議だ??・・・というか、Tartiniの場合には、basso continuoのpartをあまり意識して書いてはいない。
basso continuoを演奏する人がいなければ、無伴奏でも演奏した・・と思われる節があるのだよな??
(それは、悪魔のトリルのfacsimileによく現れている。)
次の譜例は、Didone AbbandonataのⅡ楽章の譜例なのだが、殆どの現代版のPiano伴奏の楽譜のversionではこのようなarrangeになっているのだが、これではモロに、soloのviolinのBaßの音とPianoの低音(左手)が平行8度(parallel-octave)になる。
しかし、実際のfacsimile版では違う。
facsimile版の同じpassageでは・・・・continuoのpartが遅れて入って来ているので、octave-parallel(平行8度)にはならないのだよ。
つまり、原曲の方は平行8度にはならなくて、新しい現代版のarrange版は、みんなoctave-parallelという楽典的な間違いを犯しているのだよ。
Devil`s Trill Sonataのとても困った問題箇所がある。
ありとあらゆる版が違っている箇所だ。
それは、所謂、kadenzの前のsegueと書かれている所の話である。
Bärenreiter Urtextで書かれている箇所には、segueの記号はないのだが、前のMotivを繰り返している。
この版で演奏をする演奏家達が多くて、これが困りものなのだよ。
Bärenreiter版では、ちょうどsegueと書いてある箇所の音型を前のMotivと同様に、繰り返しているのだが、私が調べた限りのfacsimile版では、そういった音符の変更はない。
Bärenreiterが、 Urtextを称するのならば、この変更は頂けない。
Bärenreiter版が、segueを「前と同様に・・」という音楽用語と勘違いをしたのだろうか??と思って、segueに似た単語で、そういった意味を持つ音楽用語を探して見たのだが、それは見つからなかった。
segueには、segue(セグエ=続く、中断しないで次へ)という意味はあったとしても、同じ音型を繰り返すという意味はないからである。
もしも、segue以外の音楽用語で、同じ音型を繰り返すという趣旨の音楽用語が使われていたとしても、それを8分音符から同じ音型の16分音符のMotivの音符に意訳すべき・・・直すべきではない。
Urtextならば、仮にそういった音楽用語が使用されていたとしても、書かれたfacsimileに忠実に書いてあった通りに表記しなければならない。
Tartiniのfacsimile版では次のようになっている。
問題は4小節目の書き込みのsegueである。
つまり、segueなので、2小節前と同じに弾いているのだ。
しかし、segueには同様な音型で演奏する・・という意味はない。
segueは本来(・・・に続く)という意味なのだから、segueがもし、ここで使用されるとすれば、segue la coda(ここからCodaに続く)という音楽用語になるハズである。
つまり、ここで書かれているsegueには、指示するべき意味は何もないのだよ。
Tartiniが、そこでsegueを書く意味は全く無いのだ。
その証明は、もっと古い別のfacsimile版(こちらの方が間違いが少ないので、よりTartiniの意図に近いと思われるのだが)では、次のようになっている。
つまり、Codaの前の小節にはsegueの表記はないのだよ。
私もこのsegueは無駄な表記であって、書かれていない版の方をより推奨する。
しかし、Kreisler版に至っては、小節の拍を間違えてしまっている。
これでは、3小節目では、4分の1拍しか無い事になってしまう。これは明らかにmistakeである。
Kreislerの自作自演を聴いて見たかったのだが、残念ながら、You Tubeで探しても、Kreislerの自作自演のDevil`s Trill Sonataの録音は未だに見当たらない。
もっとも、この譜面通りに弾いている人はいないとは思うが・・・
まさか・・・・日本の音大生ならば、居たりして・・・??アハッ!
2021年7月11日 ·
『お久しぶりの対面lessonと楽譜のお話』
今日は7月11日の日曜日です。
今日の気温も、相変わらず、連日、連チャンの32°~22°の11°差です。
いや、全く体が悲鳴を上げているよな??
今日は本来は専科の日なのですが、コロナの所為もあって、集まりが悪いので、(2年ぶりぐらいに・・)何と、対面のlessonをしました。
勿論、web-lessonでは毎週・・、対面としては、発表会でも直接顔を見てはいるのだけど、対面のlessonともなると、man-to-manなので、意識が違うのよね??
いやあ、久し振りの対面のlessonだと、やっぱ、生徒達のresponseが違うのよね??
webでは幾ら説明しても、出来ない事や分からない事が、対面だと意図も簡単に出来てしまうのだよな??
real-timeというのはやっぱ、何かが違うのだよな??
生徒達の曲の伴奏は本来は私がする分けではないのだけど、今日は突然のlessonだし、伴奏者の都合もあるので、今回は、「初合わせで曲のimageを作りたい」・・という事で、急遽、私が伴奏に入ってlessonをする事になったのだけど、そこで伴奏の楽譜に引っ掛かってしまった。
(伴奏を演奏する事に引っ掛かったのではないよ!伴奏の楽譜の音符に引っ掛かってしまったのだよ!!)
『Chopinのconcerto No.1 e moll』
一人目の智子ちゃんのlessonなのだけど、本番ではorchestraがoriginal版か、arrange版かを使うが決まっていないので、そのどちらの版を使用するのかが決まってから、その版用のPianoのscoreを買わなければならないのだが、勿論、それまでの間、練習しない分けにはいかないので、せめて、historical Editionを使うのか、arrange版を使うのかだけでも版が決まれば良いのだけど、それすらも決まっていないので、楽譜の注文が出来ないのだよな??
それに、どちらの版を使用するかが決まっても、取り寄せに時間が掛かるので、待っている事は出来ないので、応急的に智子ちゃんが全音版を買って練習をしているという事だったので、私も全音版を買って、その版でlessonをしようとしたのだが、結構、色んな箇所の楽譜が簡単な譜面に書き換えられていて、originalの楽譜とは譜面が全く違っていたのだよ。
それで、historical Editionである原典版のHenle版を発注したのだが、練習は智子ちゃんが全音版を買って練習を始めていたので、今日のlessonでは、私もその全音版で、lessonの準備をした。
ちょうど、昨晩、智子ちゃんのlessonの前日に、発注していたHenle版のUrtextの楽譜が椎名町の事務所に届いていたので、今日楽譜を見ながら、全音版の疑問に思った所をUrtext版と比較してみたのだが、全く無意味に書き換えられていたので、使い物にならないという事が分かった。
智子ちゃんも、Henle版で最初から・・楽譜の読み直しだよな??
でも、最終的には、orchestraのpart譜の版が決まってからのPianoの楽譜が決まるので、更に、もう一度譜読みのし直しだよな??面倒くさいよな??
全音版⇒ヘンレ版⇒orchestra版と、超面倒くさいのだよな?
『David版のla foliaのviola-versionのお話』
二人目の瑞希ちゃんのfoliaは発表会で演奏して、You TubeにuploadしているDavid版のHermannさんのviola-versionのla foliaを、引き続きlessonをするのだが、同じ曲の再挑戦は、演奏のNiveauを引き上げるための、再挑戦なので、それ自体は何の問題もないのだが、これもまた楽譜の問題で引っ掛かってしまった。
la foliaの伴奏の譜面は、元々のDavid先生の「Die Hohe Schule des Violinspiels」の中の1曲である「la folia」のviolin-versionの楽譜・・そのままなのだが、violaのversionでは、part譜だけがviolaに改訂されていて、伴奏にくっついているsoloの譜面は、元々のviolinの譜面そのままなのだよな??
そして、そのarrange(violaへのtranspose)がまたまた困った事に、David先生の意図を理解していないviolistの結構勝手気ままな編曲なのだよな??
「ここはこう弾かなければならない!」と瑞希ちゃんに説明するために、violaのpart譜を見たら、violaのpart譜では、そうあるべき和音とかpassageが、そのように書かれていないのだよ。
だから私が「私だったら、このpassageはこう書くけれどね??」と言って、実際のDavid版のviolinの譜面を見ると、ちゃんとそう書かれているのだよ。
つまり、David先生の方が、logisch(ロギッシュ=理論的)で書いていて、校訂版の方が、論理的ではないのだよな??
それにもっと致命的な事は、伴奏の譜面では、元のviolinへの伴奏の譜面のままで、violaの譜面はpart譜にしか書かれてはいないのだよ。
私がlessonをする時に、瑞希の伴奏をしながら、Pianoのscoreのviolaのpartをcheckするのだが、掲載されているのはviolinの譜面なので、violaのpartが分からないのだよ!!
勿論、その事は、前回の発表会の前のlessonの時から、困っていたのだけど、David先生の意図を説明する時に、マジ困ってしまうのだよな??
一見すると理不尽に難しいpassageのように見えるのだが、logischに(論理的に)考えて見ると、それは正論なのだ・・と言う事が分かると、突然、そのpassageは簡単に弾けるようになるのだよ。
それを教室の生徒達や先生達は「芦塚magic」と言っているのだが、そこがlogischでないと・・「突然弾ける」・・という芦塚magicが効かないのだよな??
・・・かと言っても、今からこの膨大な曲をfinaleに入力して、和音とかを正しく訂正し直して行く(というか元のDavid-versionに戻す)という入力作業をするのは、曲が膨大過ぎて、とてもかったるい。
瑞希達本人に入力させれば良いのだが、それでは時間が掛かって本番までに入力が終わるか・・否かなのだよな??
切り張り作業でなんとかならないのかな??
『TartiniのDevil`s Trill Sonataの原典版のお話』
「Tartiniの悪魔のtrill」の演奏をYou Tube等で調べると、その殆どの演奏がKreisler版での演奏で、baroque-violinの演奏は皆無です。
そのbaroque-violinと言っても、periodの演奏ではなく、結構意訳された近代的な解釈の演奏が大半でした。
当然、演奏には、原典版の楽譜が必要なのですが、その基本となる楽譜、所謂、原典版としての楽譜を手に入れてみたのですが、・・・語るに堕ちたのは、美音ちゃんのTartiniのDevil`s
Trill Sonata(悪魔のtrillの原典版(period-version)なのだよな)
出版社は、Chopinのconcerto等も原典版として出版している権威のあるBärenreiter Urtext版なのだが、それが信じられない事に超、間違いだらけなのだよな??もう一冊のUrtext-Ausgabeも、facsimile版とは全く違うのだよな??
lessonをしていて、「こんな音は有り得へんよな??」と、私の持っている原本(原典版ではなく、historische-facsimile版・・所謂、Tartiniの時代の銅板印刷の楽譜)をcheckすると、ちゃんと正しく記譜されているのだよ。(・・・なんでまた、子供の普通のlessonに、facsimile版を持って行くかね??)
超権威のあるBärenreiter Urtext版というのに、lessonが楽譜の間違い探しになってしまった。
なんだ!!そこから・・かよ??
lessonに成らなくって、超、Shockであった❢
・・・•という事は、またまた楽譜を全面改訂しなければならないのかな??
またまた、芦塚versionを作らないといけないのかよ??
度重なるVivaldiの訂正加筆で、校訂作業は、もうすっかり懲りているのだがね??
美音ちゃん、原典版のperiodの演奏やめて、普通のKreisler版にするか??
そっちの方が演奏は簡単だけどね??
(「どうせなら、両方同時に練習してみる?」と美音に尋ねたら、斎藤先生が、「細かい音が微妙に違うので、両方を同時に暗譜するのは無理だ❢」という事でした。)違いが分かって、面白いと、思ったのだけどね?
『今世紀最大の超、Shockな出来事!!』
・・・という事で、baroque-violinとしてのTartiniの演奏の仕方の説明をしたのだが、何故、和音になっているのか?という説明や、そのpure−soundの説明とか、motivとしての対話の分析等々を説明しようと、私のオバQ-violinを出したら、な、な、な、なんと!弓が安い弓になっていた❢
超Shockで、ヒョッとして??・・・と思って、オバQviolaも出してみたら、愛用の弓が安っぽい弓に変わっていた❢
超Shockになってしまった。
2年ぐらい新教室でlessonをしていないので、楽器は斎藤先生が時折弾いていたのだが、自分の楽器ではないので、気が付かなかったそうだ。
しかし、オバQ-violinの弓は、元々、斎藤先生の弓なのだよ❢
それを、気が付かない事はないだろうが??
それはそれとして、美音のlessonに戻ったのだが、実際に弾いて説明をしようと思っても、安物の弓では、音が出ないのだよ??
精神的な動揺が酷くて、lessonが上手く行かなかったのだよな??マジに心が動揺していたのだよ?? 動し揺??
(という事で、この続きは・・時間を開けて、またのお運びで・・・??•)
Facebookより
『finaleの上書きの問題』
この所、Ashizuka-versionのTartiniの悪魔のトリルの作成作業をやっているのだけど、何度も出来上がったdataを椎名町のパソコンに最終稿として、送っているのだけど、それが一度も上手くいかないのだよな??
以前にも、VivaldiのConcerto等の校訂の作業でも、Hysterieを起こした事が何度もあるのだが、毎回、その理由が、理解不能だ。
よくある原因の一つとしては、一日の内に最終稿を送った後で、更に訂正箇所を見つけて、送り直す事が非常に多いので、常に、最後に送った稿を最終稿として保存するように言っているのだが、それが最終稿でない稿を保存して、それ以外の稿を削除してしまう場合である。
まあ、考えられるSituation(状況)としての一番簡単なpatternは、私が送った稿を、訂正入力作業をしている間に、次の更なる訂正稿が来て、それを気付かないままに作業を進めてしまう事である。
でも、入力の作業が終わってからでも、mail、若しくは連絡は常にlineになっているので、lineのcheckをすれば、その場でのcheckは出来るハズなのだから、この場合も、ドタバタは起こらないハズなのだがね???
今回も、完成原稿としてprint outして貰った楽譜を最終checkしていたら、色々な箇所で音符が変わっていて、特にbasso continuoのCembaloの右手のpartは、楽譜の校訂上は、cantus firmusの定旋律になるので、最初に入力してから全く弄っていないハズなのに、色々な箇所が変になっているのが見つかった。
原稿を訂正する場合には、訂正箇所だけを上書きすれば良いのだが、訂正箇所が多い場合には、どうしてもmissを起こしてしまいがちになる。
それを避けるために、修正された稿を上書きすれば、missが起こらないように思えるのだが、実際には、パソコンなので、missが逆に起こり易くなってしまうのだよ。
これは困った事なのだよな??
それに一括して、上書き保存をすれば、事は簡単に思えるのだが、そうは行かないもう一つの理由は、layoutが或程度、終わっている場合には、上書き保存をすると、そのlayoutが全部壊れてしまうからなのだ。
その回避法としては、この曲の場合には、Cembaloのpartと、弦のpartを分けて、コピペすれば、元のlayoutは壊れなくなるのだよ。
先ず、上の写真なのだが、Cembaloの左手のpassageは、単純な音階上のSequenz進行なので、1小節毎に、ソ⇒ファ⇒ミ♭⇒レと、音階に従って降りて来るハズなのに、赤出囲ったpassageは前の小節のままである。
そこの箇所だけが、移調されなかった・・という事だよな??
何故、そのようになったか??という事を追求する事は難しい。
理不尽な事は理解不能であるからなのだよ。
最終稿で前の稿をrenewalする場合には、scoreの全部のpartをそのまま、上書きして良い場合は、逆に、あまり無いのだよ。
パソコンでは、修正を重ねれば重ねる程、人的、或は、機械的な故障、所謂、bugが出易くなるからなのだ。
だから、そういったriskを最小限に留めておくためには、変更箇所の無い段は、元のままに弄らないようにする事なのだよ。
layoutを壊さないで、新しい稿に修正するには、理論的には、Cembaloのpartと、弦のpartを二回に分けて、コピペすればよい事になるのだ。
だか、今回の場合には、その手順の中で何らかのミスをしたのだろう・・と思われるのだが、その原因を探す事は難しいし、また無意味である。
ただ、そういったmissを防ぐには、CembaloのBaßの動きは定旋律なのだから、本当は上書きはしてはいけなかったのだよな??
そうすれば、何度も上書きを重ねてしまう間に起きてしまう・・というパソコン上のbugは或程度は防ぐ事が出来るのだがね。
つまり、人為的なmissは、防ぎようが無いのだよな??
次の前打音に付けられた赤は、挿入していないハズの前打音が勝手に挿入されてしまった例なのだよ。
これは不可解だ!
全く弄られていないcontinuoのpartですら、bugが出ているのだから、violinのpartや他のpartは、推して知るべしで、もっと危なげで怪しい事になっているのだが、それは、どうしてなのだ??
理解不能だ!!
どうして、頑張って修正した楽譜が元に戻ったりbugったりするのだ??
そう言ったcomputer的なミスはどうする事も出来ないのだから、私として出来る事は、人為的なmissを最小限にする他は無いのだけど・・・果てさて・・・如何せん
最終稿は、結局演奏が終わったら・・と、言う事になるのだよな??