Veracini  sonate accacemiche  Op.2Nr.12 d passacaglia


index
まえがき

Facebookよりの抜粋

Veracini Lebenslauf

Veraciniのpassacagliaとの出会い

Cembaloの調律の練習風景

古典調律のお話


FacebookT

2014年9月30日古楽器の演奏(period奏法)について



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2018年2月23日Veracini sonate accacemiche Op.2Nr. 12 d mollのCiacona
Lupi版からの訂正譜作成と更なる改定にあたって

2018年2月28日「教室のpipeOrganについて」


2018年6月4日「pipeorganの調律と絶対音感と和音感のお話」

2018年6月12日やった〜あ!!Veraciniのpassacagliaのoriginal-versionのorchestrationが

2018年6月13日まだ、トヨタで車の整備を待っている所です。

2018年6月13日トヨタの半年点検の続きです。

2018年7月23日「BeethovenのDuoについて」
偽作と擬古典について

2018年8月11日昨日(8月10日)は、またまた35℃の猛暑でした。


2018年8月18日「動画の編集作業に関してのコモゴモ」



2018年12月23日「periodとは違うbaroqueや古典派の音の出し方」

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2019年1月9日Handel-Ashizuka passacaglia 2台のflute versionパソコン音源

2019年2月26日VeraciniのPassacagliaについて

2019年2月26日Veraciniのpassacaglia 「続き」




2019年7月20日 3:59「摂眠障害」

まえがき

Veraciniという作曲家は、violin音楽にとっては、多大の貢献をしたのにも関わらず、正当な評価をされていない作曲家の一人です。
彼は、膨大な数のviolinの作品や室内楽の作品を作曲しました。
出版されている楽譜や出版されていない楽譜を頑張って3分の1程度は集めましたが、経済的理由から、それ以上の手に入る全作品の楽譜を集めるのは諦めてしまいました。

出版されていない・・という楽譜を集める・・という事について、不思議に思われるかもしれませんが、これは、netの発達で、出版されない大作曲家の手による無名の作品を、その楽譜を所有している図書館が、無料で世界配信しているからです。
これからも出版の予定がないのなら、図書館として、広く世界に広報する必要があるという事です。
それは素晴らしい文化的な貢献で、net社会になったからこそ始めて出来た事で、パソコンを通じて、世界と結ぶ事が出来たからの、今の時代(2015年以降)だから出来る素晴らしい事なのです。
日本でも、否、世界でも、未だよく知られていない作曲家の作品を研究してその作曲家の真価を問う事が出来るのです。


日本ではVeraciniのsonate accacemiche Op.2Nr. 8 e mollは、鈴木メトードの教本に掲載されているようですが、originalとは違ったFerdinand Davidのarrangeによる 擬古典versionです。
(しかし、linkは、baroqueviolinのperiod-versionによる演奏です。)
Ferdinand Davidのversionは、学生コンクールの小学生部門の課題曲になった事もあります。
You Tubeで、e mollの曲を探しても、Ferdinand Davidのversionしか見つかりません。
上記の演奏は、余り好きではないのですが、なけりゃあ、しょうがないもんね〜ぇ??
蛇足ですが、Ferdinand Davidは、Vitaliのchaconneのarrangeでも有名ですよね。


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Facebookよりの抜粋

2015年11月1日の花園の練習風景です。
You TubeではRoberto Lupi=F.M.Veraciniの演奏の動画が見つからなかったので、Primavista(初見練習)ですが、芦塚先生の諸注意を、この動画でよくcheckしてください。

https://www.youtube.com/watch?v=hHJ__ShcJIA

2015年11月15日の練習風景です。

2回目の練習で、練習のpointを中心にlecturelessonをしています。


baroqueの音楽の場合には、演奏上の慣習として、書かれたrhythmと実際に演奏されるrhythmが、違って奏される場合が多々あります。
PurcellのChaconne Cを演奏するときには、2012年の4月1日の千葉の発表会では出版されている楽譜の譜面通りに演奏して、・・その2ヶ月後の2012年6月24日の八千代の対外出演の演奏では、同じ曲をbaroqueの慣習に従って、当時のrhythmを再現して演奏しました。

同じpurcellのchaconne gの譜面は、楽譜を注文する時に、Benjamin Brittenの
「多分、擬古典の作品ではないのかな?」と思って、Benjamin Britten版で練習を開始してみたのですが、何と、Britten版は、purcellのoriginal版のbaroque時代の演奏の慣習を譜面に起こした演奏譜版でした。

また、Britten版は著作権が派生するので、
「演奏上の慣習を譜面起こししただけの楽譜でも、著作権が派生するのか??」と、納得が行かず、八千代の本番では、Britten版は使用しないで、急遽、Ashizuka-versionをfinaleで作成して演奏しました。

今回のVeraciniのpassacagliaも新曲なので、10月25日の曲の紹介から、奏法の説明をしたのですが、baroque時代の慣習なので、覚えれば良いだけなのですが、11月15日の自主練習の時に、復習してみたのですが、
「corelliであろうと、purcellであろうと、Veraciniであろうと、chaconneはchaconneなので、弾き方は同じなのだよ!」と、説明をしたのですが、未だよく分かっていない生徒が多かったので、15日の練習の風景をYou Tubeにuploadしました。

しかし、・・・・・
同じ日の同じ練習を、同じvideocameraで撮影したAlbinoniのadagioの練習は、問題なくupload出来たのですが、Veraciniが、3日間掛かっても、3回、4回uploadし直しても、uploadがどうしても出来ません。

・・・という事で、(今もパソコンでは、upload中なのですが、)動画は諦めて、昨日、まるまる一日を使って、Veraciniの譜面をfinaleに入力して、演奏譜を作りました。

Albinoniの奏法は、擬古典の作品なので、曲の雰囲気の違いでもあるので、演奏のstyleは生徒達にとっては、分かり易いのですが、Veraciniの場合には、曲の優美な優しい部分とpatheticな部分では、記譜上は同じrhythmであっても、rhythmを違えて演奏しなければならないので、そこの奏き分けが、中々上手く出来ないのです。

春の発表会では、間にクリスマス会も入るし、オケ練習の時間が少なくって、しかも殆どの生徒が受験年次でもあるので、余り細かく練習出来ないので、You Tubeを諦めて譜面を作る事にしました。

まあ、過保護すぎるわね??優しい事!!


Facebookは、ステータスから、通常通りに文字の入力すると、相変わらず、打った文字が消えてしまい、悩まされてしまいます。
という事で、何度も繰り返している間に学習した経験則なのですが、・・まず先に、軽く文章を入力しておいてから、兎にも角にも、投稿をしてしまいます。
それから、投稿された文章に「編集」で入力すると、なんの問題もなく普通にサクサクと入力出来ます。・・・そう言ったprotocolを事前に済ませるのも、なんか、正道ではないようで、気持ち悪いし、また、面倒くさいので、ヘルプを参照にしたり、netで同様のbugを調べても、今現在、そう言ったトラブルが発生している事例は数多く見受けられるのですが、それが、何らかの手順で「改良された」・・という記事は見当たらないようです。勿論、computerの機種との相性もあるのかもね。という事で本文に入ります。この「前振り」は削除しても良いのですがね。一応、残しておくことにします。



VeraciniのLupi版のpassacagliaの楽譜は、50年前に留学先のMunchenの行きつけの楽譜屋さんで購入した楽譜なので、もう、ボロボロの楽譜なのですが、その楽譜で、10月と、11月の2回、生徒達に初見演奏をさせたのですが、意外と演奏は、難しかったようで、響きが不響和過ぎて、音が取れない所や、書かれている(記譜されている楽譜と演奏のrhythmが違うという)baroque様式の約束(定型)のrhythmが守れない箇所が多くて、受験生である生徒達のstressの発散にはならないようです。

You Tubeで実際の演奏を聞く事が出来れば良いのですが、Veraciniの手によるoriginalのtriosonateの演奏は、幾つも見つかるのですが、このLupi-Veraciniの擬古典版は流石に、幾ら探しても、見つからないようです。

・・という事で、生徒達のために、11月の15日の2回目の私のlessonの風景を、You Tubeにuploadして、生徒達が復習出来るようにしておこう・・と、3回も4回もYou Tubeにuploadをしたのですが、upload迄は、何とか出来るのですが、それからが、どうしても、出来なくて、動画を見る事が出来ない・・という所迄は、前回のFacebookにも、不平タラタラ書いた通りです。

 この際、「練習のvideoを、生徒達が見て復習する事が出来ないのならば」・・という事で、2日掛りで、notationのsoftであるfinaleで、演奏譜を作成しました。しかし、やはり、Lupiさんのarrangeでは、音が変な所や、上手くない箇所が、結構、在って、
「Lupiさんの意図は理解出来るのですが、それにしても・・」という事で、ついでに手直しをしながら、練習用に、新たにOrganのpartも追加しました。

 私が何時も言っている言葉なのですが、Hennry purcellのtriosonateの時のコメントで、
「basso continuoを作るだけの技術、技量がない学者先生達は、弦のmelodieをなぞるだけのarrangeをして、それを「basso continuoだ!」と曰わっている。」と、「出版されている楽譜の、basso continuoのRealization」を頭から馬鹿にしていましたが、な!何と・・今回は生徒達が音が取れなくて、四苦八苦しているようなので、「弦のpartをなぞりながら」・・・・Organのpartを作りました。
勿論、basso continuoという意味ではありませんがね。
 でも、決して、技術が足りなくって、弦のpartをなぞった分けではありませんので、間違えないように!!
誰かに馬鹿にされたら、ちゃんとOrganのpartを作り直しますが、その場合には、生徒の手助けには、全くならないので、悪しからず・・・  アッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハ!!



 「参考までに、音源を載せておきます。これはどうなるのかな?勝手にFacebookでは、startされてしまうのかな? 映像は付けていません。」・・・と思ったら、な!な!何と、音声だけでは投稿出来ないようです。
・・そりゃあ、面倒くさい!!等と言いながら、早速、homepagebuilderの中のsoftを使って、音声に絵を貼り付けています。

いや〜ぁ、、それにしても、マメだよね〜ぇ!!
少し、ノンビリとお茶でも出来ないのかね〜??


2015年11月21日

 な!な!何と、4回、5回uploadしていた練習の動画が、(やって見るもので)・・何と、突然、uploadが出来ました。
trimmingをしたり、Titleを変えたり色々とやっていたのですが、何故か、突然出来たのです!!
 どうも、よく分からん!

 この練習はoriginalのLupi-Veraciniの譜面を使用して、擬古典の曲で、baroqueの慣習的な演奏法を指導していたのですが???
・・・、小、中学生には、そのbaroque奏法の理論が難しく、理解が中々出来ないので、練習をuploadして、理解して貰おうと思っていたのですが、いつまでも、You Tubeにuploadが出来ないので、仕方なく、演奏譜を作成する事にしました。

ここまでは前回のFacebookで説明していますが、その過程で、いつものように、楽譜の訂正、修正が始まって、原譜は見る影も無くなってしまいました。

・・・という事で、明日の日曜日(11月22日)の練習には、新しい全く別の曲になってしまったAshizukaversionのVeraciniのpassacagliaの楽譜を配る予定なので、今更、このを動画をupする意味はなくなってしまったのですが、無意味ではあったとしても、取り敢えずuploadします。
  
「えっ〜?!何で〜ぇ!?」「もったいないから!・・ですよ!」折角、You Tubeに、upload出来たからね・・?! 
そんな理由??
そんな理由です。アハッ!

https://www.youtube.com/watch?v=cw_1GI99A7o



2016年2月1日12:28
先週、一週間は千葉の教室ではlessonがない週だったので、昨日のオケ練習は一週間ぶりの千葉行きでした。
ここの所の厳しい寒さが、昨日は和らいでいたのでオケの練習はストーブも焚かないで練習しましたが、夜は深夜になるに従って、流石に、急速に冷え込んできました。
東京に戻ってから、いつものように事務所から自宅にバイクで戻って、自宅で、オケ練習の楽譜等の後片付けをしようとしていたら、パソコンの椅子でまたぞろ眠りかけてしまいそうになったので、慌てて、全ての雑用をそのままにして布団に潜り込みました。
寝室が余りにも寒いので、普段は点けないエアコンのヒーターをつけて寝たのですが、2時間、否、1時間おきに、目が覚めてトイレに行きます。
それが体が凍りつくように寒い。
「これはおかしいな??」と、体温計で計って見ると、やはり7度超と微熱があります。
エアコンのヒーターは喉に良くないので、『灯油のランタン』にしようと思ったのですが、体が芯から凍えてしまって、隣の部屋にある暖房器を取りに行く勇気が出ない。
結局、朝まで寝たのか、寝てないのか?
寒〜いお話でした。
yahooによると練馬の外界の気温は2°だそうです。
写真は部屋の窓からの如何にもどんよりとして、寒そうな眺望です。
時間は午前5時半頃です。
5時は未だ暗かったので、写真の撮影は無理でした。

それはそうと、先週はVeraciniのsonate accacemiche Op.2Nr.12 d passacagliaのbaroqueviolinのversionをfinaleに入力する作業をして、更に、その譜面を演奏譜に改編して土曜日迄には完成させました。
とても長い曲なので、orchestraversionでは3分の1程にカットしていますが、baroqueviolin-versionでは、カットの場所を少し減らして、もう少し長めになるようにカットしています。
それでも、かなりの長さになります。
そして出来たversionをたたき台にして、更に、ornamentや即興を書き込んで、Ashizuka-versionのpassacagliaを完成させて行きます。

上記のpassacagliaのお話は、Veraciniのpassacagliaでも、violinsoloのversionのお話なのですが、同時進行で、orchestra-versionの方もarrangeをしています。
昨日の練習は殆どの生徒達が、受験のために生徒の集まりが悪く、練習が今一でしたが、私のAshizuka-versionのVeraciniの新しく訂正になった部分を確認しながら練習しました。
流石に八千代組(専科生)の生徒達は、難曲である私のarrangeの曲を上手に弾き熟(こなし)ます。
中々の腕です。
後に続くはずの中級の生徒達が全員学業中心になったって、続かなかったので、後進の生徒達は小学生迄下がってしまいますので、専科生の間で一緒に練習するのは、非常に難しいし、チョッとかわいそうです。
困った! 困った!!(?????)

それは兎も角、練習をしている過程で、どうしても気にいらない部分が出来てきます。
Pachelbelの時も、原曲がorgelのための曲なので、3声で書かれています。
それをオケに書き直す時には、どうしても音痩せをしてしまいます。
だから、新しい4声部目のpartを作らなければなりません。
Veraciniの場合には、Lupiさんというアレンジャーが現代の人なので、必要以上に、強烈な和音を使用したり、弦オケの編成を大きなorchestraに想定しているので、室内弦楽オケでは、やはり音痩せをします。
室内オケでも、ちゃんとした音が出るように・・とか、現代風の強烈な不協和な音を訂正しながら、徐々にAshizukaversionを作り上げて行くのですが、練習の過程で、どうしても気にいらない所とか、弱い所が出て来ると、手直しをしたくなってしまいます。
楽譜は既に、生徒達にも配ってしまっているし、教室用のscore等も、何度もコピーし直しを要求すると、
「発表会が終わってから最終稿を作ります。それまでは、赤入れで、指揮用のscoreも作らない!」とか言われて、「それは違うだろう!」と癇癪を起こしてしまいました。
発表会が終わっても、訂正し続けているのですからね。
このFacebookも同じです。
Facebookを立ち上げた最初の文章だって、未だに訂正しているのですから。


2016年2月6日
2012年の11月の26日の八千代のコンサートでは、PachelbelのchaconneをMueller-Hartmannのarrangeの曲で演奏しました。
しかし、Pachelbelの原曲がpipeorganのために作られていて基本は3声部に書かれているので、それを忠実にarrangeしたために、なんとも、薄っぺらで納得が行かなかったので、翌年の13年の12月22日のクリスマス会でAshizukaversionとして改訂版を作って、Probeとして演奏しました。

同様に、Hennry purcellのchaconneやMarin Maraisのla folia、その他多くの擬古典の作品を改訂して演奏し直しました。
勿論、全ての曲を改訂し直した分けではありません。
Corelli=Geminianiのla foliaやVitaliのConconeは、そのままの版で演奏しています。
arrangeするpatternとしては、これまでは、出来る限り元の版をそのままに演奏して、その後、どうしても納得が行かなくって元の曲のarrangeのし直しをしたのですが、今回の4月の発表会で演奏予定だったLupi版のVeraciniのpassacagliaに関しては、練習の段階で早々と、納得が行かない所(というよりもarrange上のミスが)続出したので、最初はその誤りの部分を訂正するだけ、と思ったのですが、その箇所が余りにも多かったので、
最初からAshizuka-versionの改訂版を作った方が訂正するよりも早い・・という事で新しい版を作る事になりました。

そこでAshizukaversionの改訂版の第一稿を皆に配って、練習に入って(初稿の初見練習(Primavista)はYou Tubeにupしています。)
その後、第二稿が更に大幅に変更になって赤入れだらけになったので、私が
「scoreを新しくして欲しい!」と言ったのですが、「どうせ、本番まで改訂が続くのだから、本番が終わってからprint outすれば・・?」と言われてしまいました。
「partは赤入れでも構わないけれど、scoreはそれでは指揮は出来ない。」という事で、新しくprint outする事になったので、「どうせ、作り直すのなら・・?」という事で、print outするまでの間に、更に、大幅に改訂しました。

皆に訂正用のpart譜を見せる前に、その旨を伝達したら、
「どこをどういう風に改訂したのか?」と言われたのですが、これまでの練習の時にもう、既に決めていたarticulation等々演奏上の留意点等を実際のscoreに書き込んだり、入りの位置やpizzicatoを新しく加えて、弱いpassageに別の旋律を付け加えたり・・と、かなり大幅な変更をしたので、全てを思い出す事が出来ません。
scoreとlayoutをしていないpart譜から赤入れをする事になったのですが、
「出来るかな??」と、心配です。
それに楽譜を見て変更箇所をすぐに見つけられる程、今までの楽譜を覚えてはいないと思うので、貴重な練習時間が、変更pointのcheckのそれだけで終わってしまうと思うのだけど・・と、心配しています。
楽譜を新しくprint outし直して配り直す手間と、変更箇所を生徒達に書き直させる手間では、失う時間の膨大さは分かりそうなものなのだけどね。
まあ、しゃ〜ないか??

テレビで、こないだ道義さんが
「楽譜に忠実に演奏するのがClassicですよ!」と言っていたのを聞いて、考え込んでしまいましたが、確かに一般の音楽を勉強する人達の場合には、楽譜を忠実に演奏するだけで、楽譜をkritikするという事はありません。
勿論、私もoriginalの曲をkritikする事は、(余程の誤りでもない限り)ありませんし、その楽譜上の誤りも放置する事にしています。

だから、kritikして改訂する曲はoriginalから制作された擬古典の曲に限っています。
時々、伴奏等が難しいので、簡単versionを書いて欲しいとか、この曲をオケに直して欲しいとか言われて改訂する事はありますが、それは、how-toなので別の次元の話です。
兎に角、私の方針で、演奏が終わった後でも、納得が行くまで改訂を続けます。
でも、結局の所、死ぬまで納得する事はありませんよね。
endlessなのですよ!   当然・・!!

それがproというものだ!という事が中々分かって貰えないのですよ。
amateurとproの境目がそこにあるのにね??

取り敢えず、分かっている所だけ、書きます。

T8T14Org.9小節目viola、melodieの変更24~25cello+Kb.、T29B2、T35viola・articulationT41cello+Kb.articulation、53viola+Vc.T53 tempoT73viola 86~87Org.88T116Kb.org

取り敢えず此処まで!!
後は自分で探してください。

      2019年4月29日(月)春の発表会 Ciacona d F.M.Veracini=Y Ashizuka 
           上の文字をclickすると、You Tubeの演奏風景にlinkします。

   


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Veracini Lebenslauf 

Wikipediaより
Francesco Maria Veracini,フランチェスコ・マリア・ヴェラチーニ (1690年2月1日 - 1768年10月31日)はイタリア後期baroque音楽のviolinist 作曲家。

Lebenslauf(生涯)

フィレンツェに薬剤師の家庭に生まれる。
叔父アントニオにヴァイオリンを学び、しばしばともに共演するようになる。
1711年にヴェネツィアで《8つの楽器のためのコンチェルト》を作曲し、神聖ローマ皇帝カール6世のための祭礼で演奏される。
伝説によると、1712年にタルティーニがヴェラチーニの演奏を聴き、感銘のあまりに自分の演奏技巧を不甲斐なく思い、アンコナに逃げ帰って自宅に閉じこもり、室内で練習に励んだと言う。

1714年にロンドンに行き、王立劇場でオペラの幕間にヴァイオリンの演奏を行なった。
1716年にヴェネツィアに戻り、ザクセン選帝侯の王子フリードリヒ・アウグストに献呈されることとなる《ヴァイオリンまたはリコーダーと通奏低音のための12のソナタ》を作曲。フリードリヒ・アウグストの居城に室内楽奏者として迎えられ、ドレスデンの歌劇場のために、イタリア人歌手の補充を仰せ付かった。
1721年に、王子に献呈されたもう一つのソナタ集《ヴァイオリンと通奏低音のための12のソナタ 作品1》を作曲。不幸にも、宮廷内にはヴェラチーニに対する敵意が渦巻いており、1722年に舞台上でヨハン・ダーフィト・ハイニヒェンや歌手セネシーノとの口論に巻き込まれ、三階席の窓からヴェラチーニは飛び出してしまう。それからヴェラチーニは一生片足が不自由なまま歩くことになった。1723年に郷里のフィレンツェに戻り、教会音楽の演奏に加わり、オラトリオを作曲した。この間、悪評を頂戴し、「頭がおかしい奴"capo pazzo" 」とあだ名された。

1733年にロンドンを再訪し、多くの演奏会に出演した。歌劇《シリアのハドリアヌス帝Adriano in Siria 》を作曲するが、長すぎるとの批評を受けた。
1737年には、ピエトロ・メタスタージオの筋書きを焼き直したコッリの台本によって、《ティトゥス帝の慈悲La Clemenza di Tito 》を作曲(メタスタジオの台本自体、モーツァルトが作曲に用いたマゾラの台本の焼き直しだった)。
1738年に、シェークスピア劇『お気に召すまま』に基づき、最後の歌劇《ロザリンダRosalinda 》を作曲。
1744年に(オラトリオ《L'errore di Salomono 》の上演と同年に)上演されるが、失敗に終わり、ロンドンを去ることになった。

ドーヴァー海峡で海難事故を生き延びた末にフィレンツェに戻り、サン・パンクラツィオ教会と、(叔父が仕えていた)サン・ガエターノ教会の楽長に任命され、教会音楽に専念することになる。後半生はほとんど指揮者として務めたが、たまにヴァイオリニストとして出演することもあった。フィレンツェで他界した。

音楽[編集]

ヴェラチーニはヴァイオリン・ソナタや歌劇、オラトリオのほかに、ヴァイオリン協奏曲やリコーダーと通奏低音のためのソナタ、「序曲」こと管弦楽組曲も作曲した。6つの「序曲」は、ドレスデンのフリードリヒ・アウグスト王子のために作曲され、そのうち最後の変ホ長調の「序曲」は、ユニゾンで演奏されるメヌエット楽章が挿入されて目立っている。対位法に関する論文も著している(『音楽の実践の勝利Il trionfo della pratica musicale 』)。他の作曲家の作品の校訂もしており、その際に独自の「改良」を加えている。

ここまではWikipediaからの転載と、抜粋ですが、この解説はとても良く書けているようで、私の訂正補筆は、殆どひつようは無いように思います。補筆訂正は小さな変更だけに留まるのかな??と思っています。
補筆訂正は折に触れて、機会を見て徐々に訂正して行きたいと思っていますので、気長にお待ちください。



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Veraciniのpassacagliaとの出会い

Facebookより転載



2015年11月2日 ・

このお話をしようとすると、どうしても、チョッとお話があちこちに飛んでしまって、散漫になってしまうのですが、先ず、教室の発表会の曲のrepertoryのお話です。教室では、レパートリーがマンネリ化しないように、常に新曲を加えるように心がけています。

また、私が課した発表会のルールとして、一つの発表会の中では、生徒達が同じ曲を演奏する事がないようにしているのですが、同じくらいの生徒達が多くなると、同レベルの曲が、見当たらないという事になって、選曲に大変困る事にもなりますが、それも先生達の曲のrepertoryがマンネリ化しないように、新しい曲の開拓のためでもあります。

常に、新しい曲を演奏するという事は、古いbaroqueの曲だけでなく、近現代の曲も、幅広く知らなければならなくなって、本邦初演の曲も結構数多く出てくる事にもなります。  


という事で、これから先は、今回、演奏するVeraciniのpassacagliaのお話になります。 

今は昔、私が未だ若かりし頃、つまり、50年近くも前の頃のお話ですが、よくMunchenのMaria教会の近くの楽譜屋に、学校帰りに寄って、古い楽譜を漁りに行くのが、一つの趣味でしたが、その頃、その楽譜屋さんで、orchestraversionのVeraciniのpassacagliaの古〜い楽譜を見つけて、買い求めて来ました。結構、曲が難しいし、大学を離れてしまったので、orchestraとの関係もなくなって、また指揮をする事にも、興味が無かったので、日本に帰って来てからは、その曲を一度も顧みる事もしないままに、楽譜は、お倉に入ったままの状態でした。

Veraciniは結構好きな作曲家の一人で、Munchen時代には、既に、このorchestraversionのVeraciniのpassacagliaの元曲であるNo.12のd mollのpassacagliaの入っている全集である、sonate accacemiche という曲を、全曲を揃えて持っていたのですが、それはbaroqueviolinの曲なので、これも演奏をする機会に恵まれないままになっていました。

私が、自分の生徒である教室の先生達にbaroqueのperiod奏法を教えるようになったのは、それから20年近く経った後のお話なので、baroque楽器を買い揃えたり、演奏法を指導したり・・して、period奏法での演奏が可能になったのは、この10年ぐらいのお話なのでね。
(それでも、世界の最先端を走っているのですがね。)  

前回の発表会の時に、小学6生のひかりちゃんがYou Tubeで、Veraciniのpassacagliaを聴いたらしく、「violinでVeraciniのpassacagliaを弾きたいな?」と言っていたので(ひかりちゃんはPiano専科の生徒ですからね。)、そのVeraciniのpassacagliaの楽譜をひかりちゃんにpresentしたのですが、その曲はbaroqueviolinの曲の中でも、非常に高難度の曲に属して、斉藤先生達が1年掛りでchallengeをしなければならない程、難しい曲です。

勿論、難しい・・という意味は、baroque奏法としての意味だけではなく、技術的にも難しい・・という意味です。 

また、orchestraversionの方の曲も、当然、原曲が難しい分けなので、orchestraの曲も異常に難しいので、演奏を試みないままに、40年以上、否、50年近い歳月が過ぎてしまったので、自分の齢も考えて見ると、このままでは、この曲は、一度も日の目を見る事がないままに、お倉の中で、ゴミになってしまうかもしれない、という事で、今回、意を決して、発作ついでに(このお話は別項でします。)擬古典versionのVeraciniのpassacagliaを、今回の発表会の教室の新曲として演奏する事に、急遽、決めました。

この曲は譜ヅラと実際の音のimageが全く違い、とてもenergischな曲なので、生徒達は曲がとてもカッコ良いので喜んではいたのですが、「最後まで、演奏の体力、気力が持たない!!」と悲鳴を上げています。

この曲は当然、本邦初演になるはずですが、それ以上にYou Tubeでも、このorchestraversionのarrangeの曲が見つかりません。ですから、世界的にも演奏されるのは、遠慮して、世界初演ではないとしても、今回が何回目・・というぐらいの演奏回数だと思っています。   

(それはそうと、またまたまた、Facebook上で、入力した文字が片っ端から消えてしまう・・というbugが起こって困っています!!なぜでしょうか??取り敢えず、一度編集を終了させて、ログアウトしてから、もう一度、書き始めてみる事にします。) 

下の楽譜は、今回の発表会で演奏するVeraciniのorchestraの曲の原曲である「Veracini sonate accacemiche Op.2Nr.12 d moll passacaglia」の冒頭の部分です。とても長大な曲で1冊が1曲になります。元曲の方は、You Tubeで、聞くことが出来ます。  
https://www.youtube.com/watch?v=Vg1ZzYblmeM


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Cembaloの調律の練習風景



2015年10月21日 ・

以前に掲載していたHennry purcellのChacony gの 「short・octave」についての補足説明です。

右の写真は、生徒達のCembaloのtuningのlecture風景(練習風景)です。

これは花園に置いてある私のspinetで、下の音がCまでしかありません。
今現在椎名町教室に置いてあるspinetよりも、低音域はキーが1個少ないのです。


前のHennry purcellのtriosonateのChacony gのbasso continuoは、b(♭)が最低音なので、この曲の場合には、低音域の音では、c(#)の音が使用されないので、「short・octave」では、C(#)をb(♭)にtuningする方法と、C#をCにして、Cをb♭にtuningする2通りの方法があります。

私の場合には、short・octaveで、keyの音を本来のpitchから変えてしまうと、次に元のpitchに戻す時に、pitch安定し難くなってしまって、音が狂いやすくなってしまいます。


そのために、「short・octave」にしたkeyを、何度もtuningして、pitchの手直しをしなければならなくなるので、非常に面倒くさいので、riskが起こるkeyを一個(最小限)にして、c#をb♭にtuningしてしまいますが、その場合のriskは、半音ずつ下げるtuningよりも、大きなpitchの移動をしなければならないので、次に本来のC#に直す事は困難になってしまいます。

そういうriskを避けるために、一般的な「short・octave」ならば、半音ずつのpitchの変更で、c#をcにして、cをHに、Hをb♭にする方が、keyの順番に従っているので演奏上のミスが起こり難いし、pitchの移動の幅が少ないので、、一般的な「short・octave」になります。

それから蛇足ですが、別のコンテンツでも書いているように、今回の10月の発表会では、tuningを平均律ではなく、純正律のmeantoneのbaroqueの調律法で調律しています。


meantoneで調律をした場合には、AsとEsが、Wolf-ton になってしまいます。


平均律の場合には、octave上の音は、その倍音上のpitchになりますが、それを私達は、閉じたtuningという言い方をします。
正しい倍音では、octave上の音は少し高めになるので、同じ音にはなりません。
つまり、蚊取り線香のように、段々と開いて行くのです。

この原理が日本人の音楽家に分かっていないので、日本人の取るpitchは常に低めになってしまうのです。

それを矯正するために、baroque時代には、開かれた音と基音のpitchを同一鍵盤上に作りました。
それを分割鍵盤といいます。
写真の例は、2つに分割された例ですが、もっと、複雑な場合には、3っつに分割されたCembaloすら存在します。

つまり、PurcellのChaconne gでは、gのNapoliのchordが、重要な和音として出て来ますが、実際には一つの鍵盤(分割されていない、閉じた調律の鍵盤)では、基本的には、gのmeantoneは使用出来ません。
と言う事で、baroque時代には、(HandelのCembalo等も)分割鍵盤というkeyで調律をします。
Mozartも、meantoneの調律を好んだので、彼のPiano-Sonateでは、meantoneの調律を想定したSonateもあります。
参考までに、写真は実際のbaroque時代の分割鍵盤のCembaloの鍵盤の写真です。

開かれた5度圏の調律のお話を、Facebookから、このVeraciniのPageに挿入しようと思ったのですが、超、面倒くさくなってしまいました。と言う事でlinkを貼る事にします。アハッ!

開かれた5度圏と閉じた5度圏と、5度圏時計のお話


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古典調律のお話

baroqueの音楽を演奏しようとすると、必然的にCembaloのbasso continuoのpartを演奏しなければなりません。
という事でCembalistを育成しなければなりませんが、Cembalistというのは、Cembaloが演奏出来れば良い・・というものでは、ありません。baroqueの音楽で出版されている楽譜には、Cembaloのpartが書かれていて、それに従えば、ある程度の楽譜は演奏可能にはなります。しかし、baroqueの曲に付けられているCembaloのpartはあくまでも、参考程度であり、amateurの人達を除いては、proが弾くに足り得るものではありません。
当然、Cembalistが自らCembaloのpartを付けて演奏する事を要求されます。
continuoの右手のpartを即興で付けていくのは、和声学の勉強をちゃんとすれば、ある程度は出来ます。(勿論、即興のpartを書くことは容易ではありませんがね??)
ちなみに、Cembaloのsoloの曲にornament(装飾音)を付けるのは、今の日本では感性で付けているようですが、それは正しくありません。
ornamentを付ける場所は、articulation(拍節法)の原則に従わなければ、ならないのです。
ですから、日本では常に、速くヒステリックに演奏されるtrillやmordentは、強拍のaccentを表すtrillやmordentと、弱拍を表す柔らかなtrillやmordentと奏き分けをしなければなりません。
当然、その原則に従って、曲にornamentが付けられるのですよ。


Cembalistの条件は、それだけではありません。Cembaloのフレームが木で出来ている以上、演奏する度に、演奏会場に持って行く度にtuningをしなければなりません。
periodで演奏する場合には、古典調律で調律する必要性も出てきます。
つまり、Cembaloを演奏するためには、調律にも堪能でなければならないのです。

という事で、古典調律のお話になるのですが、・・・・
このお話を真面目に説明しようとすると、まるで、数学の論文のような数式の羅列になってしまいます。
私の古典調律のメモ書きのPageだけでも、100Page以上あって、出来るだけ、数式をの羅列を消して、簡単な説明が出来るように努力はしているのですが、難しい理論を簡単に説明するのは、並大抵の事ではありません。

という事で古典調律の原稿は、print outすらしていない、未だパソコン上のdataとしてしか残っていません。(そのdataも、パソコンがぶっ飛んで、工場修理に出した時に失われてしまいました。)
先ずは、基本的な古典調律のお話として、「どういった調律法があるか?」だけは押さえておかなければならないのですが、その調律法の説明(調律の違い)を説明するだけでも、並大抵の事では無いのですよ。



調律法の色々

(1)Pythagoras音律
(2)純正律
(3)中全音律(アロンのmeantone)
(4)Kirnbergerの第3調律
(5)Werckmeisterの調律法
(6)平均律

「一般的に有名な調律法として」、だけでも以上の調律法があります。
しかし、この調律法の一つ一つも、一つの調律法ではなく、更に、色々な調律があるのです。

何故、平均律のように一つの調律だけではないのか??と疑問に思われるかも知れませんが、その理由を先ず、meantoneで説明しようと思います。

baroque時代に色々とあった古典調律ですが、その中でも特に有名な調律法であるmeantoneで言えば、先ずmeantoneの基本的な調律法には、「meantone E♭」や、「meantone D#」と呼ばれる調律法があります。

「何故、同じmeantoneなのに、そんなに沢山の調律法があるのか??」と言う事ですが、純性の3度を美しく響かせるように調律すると、必ず、何処かの音にしわ寄せが出て、その音を含む和音の響きが汚くなってしまうからです。
この唸りをWolftonといいます。
つまり、唸りのWolf-ton を含んだ和音は、響きが汚くて使用出来なくなるからです。
そのために、同じ基準音のmeantoneの調律法でも、演奏出来る調性を増やすために、2つの調律法を作りました。

私の場合には、普段は、Aを基準として、「meantone E♭」という調律をしますので、Wolf-ton はE♭(D#)とA♭(G#)に集まります。
その場合には、As(G#)やE♭(D#)を含む和音は使用不可能になります。

という事で、Hennry PurcellのChaconne gでは、調がg mollなので、何度も出て来る「g mollのU度のN♭6の和音(ナポリの和音)」はmeantoneの調律では、使用不能の和音になります。
purcellのChaconne gでは、N♭6の和音は頻繁に使用されているので、meantoneの基準音を変えるか※)、別の古典調律を用いるか、しなければなりません。
「meantone E♭」では、#3つの調性と、♭2つまでしか使用出来ません。
meantoneで使用出来ない音を省くためには、調律をする主音をAからn別の基準音にずらせば良いのですがね??
Cembaloのproの調律師の人にそれをお願いしたら、私の言っている事が理解出来ないようでした。

それでは古典調律は出来ないよな??

そういった、meantoneのWolf-ton を避けるために考案されたのが、Kirnbergerの調律法です。
純性の3度の和音の美しさは失われてしまいますが、その分、調性を選ばなくても良くなっています。

Werckmeisterは、J.S.Bachの弟子であるKirnbergerよりも古い人ですが、不思議な事に、より平均律に近い調律法になっています。

Cembaloの調律のためには、基本の調律法がありますが、Wolfをある特定の(その曲で使用しない音)に寄せるために、アナログで調律をする事はありますが、普段は古典調律が出来るtunerを使用して調律しています。

私の場合には、会場で調律をする場合にも、30分や精々1時間ぐらいの調律時間しか、貰えません。
Cembaloの場合には、事前に教室で前日に調律したとしても、当日の車の移動で、pitchは狂ってしまいます。

という事で、会場でCembaloの調律をやり直すのは、絶対条件なのですが、丁寧に調律をする時間は全くないので、会場では、古典調律の出来るtunerを使用して、調律をします。
私は調律師ではないので、その方が楽で、正確だからです。※)

しかし、特定の調の曲を古典調律で調律して演奏しなければならない時には、演奏する曲の調性からWolf-ton をずらす必要があるので、その場合には耳でアナログの調律をして、Wolfの位置をズラします。
※)とは言っても、tunerを使って、古典調律をするのは、(いつも言っているように、)基準となるoctaveの音だけです。
後は、機械で調律をしたら、octaveの誤差が出来るので、耳でその誤差を調整しながら調律します。上の音に行く程広く、下に行くほど狭い・・という原則は機械の数値では表せないからです。
以前、何気なくNHKの音楽番組を聴いていたら、新人の演奏なのですが、使用されていたPianoが機械のoctaveで調律されていました。天下のNHKともあろう所がなんという調律をするのだ??と憤慨してしまいましたが、別に抗議等はしていません。
音楽番組を聴く事自体が稀なのでね???


Pythagorasと音楽の関係は、中々面白いものがあります。
音を数学として捉えているので、自然界の理論上の説明が多くなるのは致し方はありません。
一般的によく知られているのは、弦長とpitchの関係です。弦長の半分の所を押さえると、octave上の音が出るし、3分の1では・・・云々です。
調の時計で直角三角形を描くと長三和音と短三和音が出来ます。

しかし、Pythagoras音律とは、そんな単純なものではなく、Pythagoras、commaと呼ばれる修正された音律を持っていて、melodieを歌う時には非常に美しく響きますが、しかし、残念ながら和音としては美しくはありません。
3度が純性に響かないからです。

以下、古典調律のお話を書くのは、疲れてしまったので、以下は「略」にします。
また、気力が戻った時に書く事もあるかと思いますので、その時まで、気長にお待ちください。
(2019年1月20日紙のdataから手入力による修正 勿論、OCRが出来ればそれに越した事はないのですが、print outされた文字がプリント代の節約で、機械が読み取れない程、小さいのですよ。音声入力のdataも全部ぶっ飛んでしまったしね??パソコンはろくな事はない!!)



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2018年2月23日Veracini sonate accacemiche Op.2Nr. 12 d mollのCiacona

次の譜面はVeracini sonate accacemiche Op.2Nr. 12 d mollのCiaconaの銅板印刷の抜粋の部分である。

・・と思ったら、楽譜の順番が入れ替わってしまったので確認をします。
1枚目の楽譜はPeters版の原典版です。



2枚目は、上の説明通りのVeraciniの初版で銅板印刷の楽譜です。マジ美しい??



3枚目の楽譜は、今日朝私が入力したfinaleの譜面です。



「原典版の bezifferten Bas(数字付きバス)の問題点」
98小節目と102小節目の bezifferten Bas(その数字付き低音)が和声的に論理的に理解不能であります。

しかし、単なるミスではなく、98小節目と全く同じ繰り返しの箇所である102小節目も同様に同じ数字が付けられているので、Veraciniの意図と思われるのだが、やはり、不自然な事は不自然に変わりはありません。

Veraciniが間違えている(或いは勘違いをしている)とは思えないので、解釈上の問題だと思われるので、(Veraciniの数字付きBasには、非和声音が出て来ないので、和声音のみを書いている・・と思われる節があるので・・、131小節目を参考にして・・97小節目の3拍目のCembaloのAの音をtieにして、次の1拍目の音を繋留音にして、2拍目で解決音のGに持って行くと和声上の問題はなくなる。・・・と言う事で、)数字の6の位置をずらして、非和声音を入れて見た。

和音学的にはこれで一応美しく整っているのだがね。

もう少し時代を下ると、同じ銅板印刷であったとしても、 bezifferten Basに関しては、もう少し細かく丁寧に非和声音まで丁寧に作曲家の皆さん達は書くのですが、Veraciniさんは、数字付き低音の数字は、非和声音は「見りゃ分かるだろう??」てな感じで、なんともはや大雑把(和声音のみ)で、付けられているのでね??

「何と、何と・・、」
今日訂正、入力した楽譜をfinaleのfolderのVeraciniのfileに保存しようと思ったら、Veraciniのfileの中には、もう既に、passacagliaのdataが3つも保存されていた。

曲が三つというのは、passacagliaの曲が余りにも長大で、finaleに入力すると、50Pageにもなるので、finaleの入力時にbugが出ないように、前、中、後の部分の3つに分けて保存していたのだよ。

修正改定が終わったら、3っつの曲を一つに纏める予定なのだがね。

「Lupi版のお話」
2016年の4月3日の千葉の発表会で、Veracini-Lupi版の演奏をしたのだが、そのLupi版のオケ練習では、余りにも楽譜上のミスや編曲上の間違いが多くて、その都度、訂正、修正していたのだが、本番前には、とうとう、全面改訂をせざるを得なくなってしまったのだよ。

勿論、その時には、先ず最初に、Veracini-Lupi版のstrings-orchestra用の楽譜からfinaleに入力して、それから、全面改訂の作業をした。

・・が、そのfinaleの入力の作業の時に、同時に、ついでにVeraciniの原曲であるPeters版のoriginalの譜面もfinaleに入力して、Peters版に書いてあるCembaloの右手のpartは抜いて、同時にその右手のCembalo-part(cembaloのpart)も、一緒にAshizukaversionとして作っていたのだ。(まあ、なんとマメな事だろうか??)

・・とは言っても、その時に一気に力任せに作った分けではなく、Veracini-Lupi版を改定する時に、折に触れて、その都度その都度・・虫食い式に、思いつくままに作って行ったのが、何時の間にか完成形になっていたのだよ。

16年4月3日の演奏のorchestra-versionのLupi版では、originalの曲を全体から1/3程度に割愛して作ってあるのだが、実際のVeraciniの原曲であるoriginal版をfinaleに入力するにあたっては、全部の部分をノーカット(=uncut)で曲を入力した。

「Lupi版の弱点」
発表会でのorchestra-versionであるLupi版の演奏を聴いてみて、生徒達は、それなりに上手な演奏をしているのだが、理想とする演奏としては、とても満足の行くものではない。

・・・・とは言っても、それは生徒達の演奏の出来不出来の問題ではなく、Veracini-Lupi版のarrangeの問題なのだよ。

その一番大きな原因は、passacagliaのthemaが、何度も新しく繰り返されるのだが、その繰り返しの都度、pianissimoの部分とfortissimoの頂点を作ってしまうので、所謂、頂点の見えない、怒鳴り散らすだけの曲のようになってしまって、曲の流れが見えない・・という所に、説得力が欠ける大きな原因があるように思われる。

※)Lupi先生のために、敢えて弁解をしておくと、Lupi版でも、前半部が155小節、後半部が140小節と、約半分の小節数なのですが、後半部はtempoが非常に早いので、感覚的には前半部が曲の7割り程度、後半部が残りの3割の時間であるように構成されていて、balanceから見ると、なかなか良い楽曲構成になっています。

それなのに、pointがズレて感じるのは、themaの入りがfugaやCanonのように入って来るので、その都度、単旋律で何度も入り直しているからなのです。
実際の曲で言うと、勿論、冒頭の4小節、2回目は73小節目、3回目は133小節目、4回目は156小節目で、この小節が後半部の開始と思われるのですが、この入りの後の163小節目にLupi先生はkadenzを書いています。
その後、166小節目から5回目の入りが始まるのですが、そうすると、166小節目の5回目入りが後半部の開始に感じられてしまいます。

そうなると、前半部166小節と後半部の49小節になって、曲のゆっくりした部分を考慮したとしても、約3:1のbalanceになって、後半部は「追い出し」部としてしか成り立ちません。

これが、Lupi版の盲点であり、弱点にもなってしまっているのです。

発表会の後で、後日改めて、大幅改定と削除をしてLupi版の半分程度の長さで、約2:1ぐらいのbalanceにしようと思って、曲の構成を改めて纏め上げようと考えていました。

つい先日、16年の発表会から2年振りに、改めて16年の4月の発表会の演奏を聞き直して、問題点をもう一度改めて考慮して見ると(※orchestra-versionでの演奏はLupi版として探しても私達の演奏しかYou Tubeでは見つける事が出来ませんでしたので・・。)、Lupi版では、5回も繰り返されるpassacagliaのthemaの入りが、その都度、曲が新しく入って来るように感じられて、それが全体のbalanceを壊す元になっていると言う事を、前回の演奏の時に感じていたので、そこの構成を手直ししなければ・・と考えていました。

今回、改めて、発表会の演奏を聴いて見ると、編曲上の手直しではなく、何回も新しく入りが、入って来るのを、(演奏上のtechnikで)、入りとして・・ではなく、演奏上で2声部に対して、1声部で呼応しているような演奏にして、曲全体の構成を大きく2部構成になるように強弱を全面的に付け直して・・演奏するだけで、Lupiが書いた構成上の脆弱性は直るのでは・・、と思うに至りました。

Lupi版では、冒頭のunionからfortissimoで切り裂くようなimageで演奏するのですが、そこを逆にpianissimoで内省的(innerlich)に演奏する事で、曲の中心を後半に譲る事が出来る・・と、思いました。

originalの曲は、violinと bezifferten Basのcello(若しくはviola da gamba)の2本の弦楽器で演奏します。
勿論、和声を充填するCembalo(若しくはtiorba)が入りますが、それはmelodieではなく和声なので、声部には数えません。
つまり、2声部のduoと考えて良いのです。と言う分けで原曲では、繰り返される1声部の入りは、新しい曲のabteilung(分割)ではなく、2声部の内の1声部が入りを開始したに過ぎないのです。

なまじ、orchestraにarrangeしたために、その入りが意味不明のものになったのです。ハイ!
※)ですから、当然、originalのperiodの演奏では、その入りのpassageは、なんの不都合もなく、問題なく演奏されます。

orchestraの演奏者に取っては、冒頭から恰もsolo楽器のように、pianissimoで演奏をする事は、途轍もなく大きなpressureになるのだが、それはそれで良い勉強にはなるだろうと思います。(可愛い子は、千尋の谷から突き落とすか、旅をさせるか??ですからね??)

と言う事で、眠れぬままに、forte-Pianoのdynamikを付け直した所・・迄は、取り敢えずは終了しました。
参考までに::

曲の構成

A:0〜133・・・・・・・・・・passacaglia
B:134〜174・・・・・・・・Capriccio Cromatico
B:175〜312・・・・・・・・・fuga
・・・・・・・・・・・・・・・・
C:313〜340・・・・・・・・intro
C:341〜505・・・・・・・・D Dur
・・・・・・・・・・・・・・・・
D:506〜588・・・・・・・・reprise


「baroque時代の音楽形式である教会ソナタ(kirchen-sonate)について」
前回と同様に、今回はこのVeraciniのviolin-sonateのoriginalのversionも是非、公開演奏の機会を設けたいとは思うのだが、曲が余りにも長大であり、且つ、宗教的な真摯な曲であるので、そこいらの課題を日本の一般の聴衆に、どうappealするか、どのような企画として公開するのかの問題も、解決されないままに、残っている。
つまり、こう言ったgenreの曲は、聴衆を選んでしまうからだ?

Veraciniのこのpassacagliaは、音楽様式としては、教会ソナタ(kirchen-sonate)という音楽形式のgenreになって、その形式の名前の通りに、教会で演奏される事を想定した曲であるからである?

つまり、宗教行事の中の一貫として、Gottesdienst(宗教の事はよく分からないのだが、礼拝の事なのだろうか??)の中で演奏される曲として作曲されているからなのである。
くどくどしくなってしまったが、つまり、日本ではそういった場所はないし、また教会でこういう曲を演奏する習慣も無い。
歴史と社会慣習の違いと言ってしまえば、それ迄なのだがね。

若し、これが私の故郷の長崎ならば、教会の幹事をしている友人も、大きな教会も多いので、何時でも、何処でも演奏する事は、可能なのだがね??
また、神父さんを抱き込んで、本当の日曜礼拝の時に、ヨーロッパの本当の古いstyleのGottesdienstを再現すると、面白いとは思うのだが、幾ら、クリスチャンでも、日本人は日本人なので、やっぱり、ついては行けないかね?

それはそうと、basso continuoはCembalo用に書いてあるし、私も同じようにCembaloの為に書いたのだが、教会を想定するのならば、Pipe-Organが普通だよな??
Organ用のpartも作るかな??

検見川教室のPipeorganも、何時でも、演奏出来るように、そろそろ調律をしておかなくっちゃネ。
でも、教室のPipeorganは、baroque-orchestraのbasso continuo用に私がorderをしたPipeorganなので、soloとcontinuoとでは、少し音量が強すぎるかも知れませんよね??
(baroque-orchestraとは、基本的には10〜13名ぐらいの編成が一般的です。 余り人数が多くなると、純正の響きが取れなくなるからです。)

このPipeorganの特徴は、多分、このPipeorganが閉管で作られている事で、これは世界でも例を見ない事だと思います。

日本に帰国したばかりの頃、文部省から笛に付いての論文の依頼を受けました。

音楽関係の人達でそういった論文を書ける人が見当たらなかったので、音楽大学からの紹介で私に回って来たのです。

その論文の中で、理論気柱の話を書いていますが、それがこのPipeorganを作る時のヒントになっています。

positiv organだとしても、低い音域用の大きなpipeは3bを越してしまうので、55鍵ともなると、有に500`を越してしまいます。

と言う事は、自前でOrganを運ぶ事は不可能なので、そこで思いついたのが閉管と言うわけです。

このpipeのsizeならば、本当はoctave上の音が出るのですが、閉管にする事で、実音が出せるのです。

言い換えると、このPipeorganの左側のpipeは、本来ならば、3bを越す長さのpipeになります。

閉管にする事で、半分の長さのpipeにして、西日本でも演奏出来るように、Organの肺の部分は弁が入っていて、空気圧の調整をして、東日本と西日本の電圧の違いでpitchが上がら無いように調整をしています。

バンを想定していたので、pipeは3っつに別れて、勿論、台も取り外す事が出来ます。
ついでに譜面台も取り外し可です。

普段は取り外した状態で置いてあります。






「なんで、今回の発表会に関係のない曲を勉強しているの??」といわれそうなのですが、生徒達にも、よく今回の発表会とは関係のない曲をlessonしたりしています。
(昨日は、紗來ちゃんにVitaliのchaconneのDavid版のlecture-lessonをして、伴奏に来ていたひかりちゃんに初見で伴奏をさせていました。つまり、普段からlessonはそんなものなのですよ。あまり、発表会のlessonを真面目にしている分けでは無いのですよ。

私が研究中のこのVeraciniのoriginal-versionの研究も今回の発表会とは、全く関係がないし、次回の発表会に乗せる予定もないのです。
(何故なら、この曲はノーカットで演奏するのは余りにも長大で深刻なimageだからである。)

Veraciniのお話とは無関係のお話なのですが、昔々、音楽家の人に、「この曲を練習したいのだが?」と言うと、「その曲は何時演奏予定ですか?」と聞き返されて、「今の所、演奏の予定は無いのですが??」と答えると嫌な顔をされたので、演奏の依頼を断ってしまいました。

そういう人達とは練習をコツコツとしていくのは、辛いと思ったのでね。

・・でも、こういった考え方は殆どの音大生達も同じだ・・と思います。

というよりも、コンサートが決まってから練習を開始するのが一般的な考え方なのですよ。

だから、教室のように、repertoryとして曲を勉強する事は無いのですよ。
そこには、大きな考え方の違いがあります。

普段、自分が演奏したい曲を練習しておいて、その曲の演奏水準、所謂、Niveauが演奏に値するlevelに達した時に、演奏会のrepertoryとしてprogramに載って来るのです。

そこには、発表会に間に合わせようという考え方は根本からありません。
そこが私と一般の音楽家達との大きな違いかな??

https://www.youtube.com/watch?v=iBWEdG2Py2Q&t=915s



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「教室のpipeOrganについて」
2018年2月28日 ・

私が日本に帰国して直ぐの時には、弟子達にviolinやcelloの演奏法の他にも、歌の生徒に、cantataの特別な呼吸法を指導して、その生徒が或る程度、cantataが歌えるようになると、他の私の弟子達と一緒に、solo-cantata(※)で、教会でのcantataの演奏をして回っていました。
勿論、Bachのcantataだけではなく、VivaldiやPergolesiやHandelやその他多くの作曲家達のcantataです。

(※)cantataはドイツの村々では、毎週日曜日に村の教会の楽団がGottesdienst(日曜礼拝)の時に、演奏をしていました。Bach先生は1年、365日のそれぞれの日のGottesdienstに合わせて、曲を作曲しようとしていましたが、2百数十曲を書いた所で、寿命が尽きてしまいました。Bachの作品目録はBachの作品番号としてBWV(Bach-Werke-Verzeichnis=バッハ作品目録=そのままの意味ですが)1番から216a番まで・・(作品には小文字のaが付いている番号がありますが、後で、発見された曲を足すために、小文字のaが付いた曲があります。)と、後日、完全に「偽作である」と証明された曲があります。

cantataはミサ曲や受難曲とは違って、曲も比較的(ミサ曲や受難曲は演奏時間が有に4時間を超えるものも多くありますし、orchestra等も大orchestraで、演奏には、非常に多くの人数を要します。とても、村の教会で、その村の教会の専属のorganistがこなせるものではありません。本来ならば村々では、毎週の日曜日毎に、cantataが演奏されたはずなのですが、そこはその教会に所属しているorganistの力量によります。

baroque時代の多くの作曲家達がcantataの作曲を手掛けましたが、弦楽orchestraとsoloの歌だけで演奏出来るsolo‐cantataというgenreがあって、多くの演奏家達を所有していない小さな村の、小さな教会に取っては、非常に貴重な演奏可能なcantataのgenreになります。

私が日本に帰国したばかりの頃は、未だ本物のPipeorganを所有している教会は非常に少なく、ヤマハのエレクトーンや、黒田さんの黒田Organと言う電子楽器が、Pipeorganの代用をしていました。(ヤマハやカワイ、黒田オルガン等の教会用の電子楽器は、通常のエレクトーンや、電子楽器とは違って、ただの電子Organと言うものではなく、世界中のPipeorganの音や、世界のHallのacousticを出せる非常に高価な楽器でした。つまり、教会で使用するための専用の電子楽器だったのですが、やはりPipeorganの音に比べると、本物には比べるべきものではありませんでした。)

その当時は、兄貴は北区の一軒家に住んでいました。そのご近所さんにお願いをして、中学生の子供を、指導の勉強にhome‐lessonに場所を借りていました。
だから兄貴の家には、時々、生徒の指導の様子を見るために、訪れていたのですが、その帰り道に、気が向いたので、「歩きの散歩」をしながら江古田の事務所に向けて、散歩をしながら帰っていた時に、偶然に黒田Organの工房を見つけて、アポなしに工場見学をしました。

その時に、私が、「cantataに使用する、そんな楽器があったら良いな??」と思っていたideaを色々と披露して、「個人でも運べる positiv organ」の話をしたら、工房の人達が面白がって、それで、社長の黒田さんが「pipeの実費を出すのならば・・」と言う事で制作を引き受けてくれました。
Organを作る作業料とか技術料は、私の30数項目のidea料と相殺と言う事でpipeをドイツに注文する費用だけで作ってくれました。
・・とは言っても、Pipeの材料費だけでも、ウン百万はするのですがね??

当時は、世界的にも、未だperiodという言葉さえ無かった時代で、単に「現代の解釈で、baroque音楽を演奏する」・・という事が、総て・・だったのでですが、Organを作るに当たって、「pitchをbaroqueにするか、modernのままのpitchにするか??」と言う事を悩んでいましたが、当時は未だbaroque-pitchが一般的ではなく、それ以上に、pipe organの利用頻度、演奏回数を考えると、「baroque-pitchは、通常は、有り得ない」と言う事で、modern-pitchを採用する事にしました。
まあ、pitchはmodernでも良いとしても、次には音量の問題です。
利用頻度から考えると、solo楽器に対しての、basso continuoのOrganというよりも、20名ぐらいの小編成のcantataの為のorchestra用のcontinuoの楽器としてのneedsを考えていたので、baroque編成のorchestraのbasso continuo専用のOrganと言う事で、音量は、soloの楽器としての、音量よりも、少し強めになっています。
ですから、演奏会でviolinの伴奏と言う事で、持って行くとしても、solo-violinの伴奏用の楽器としては音量が強すぎるという問題が派生します。
soloの弦楽器の為だけではなく、4名で演奏する、(2台のviolinとcontinuoのcello(gamba)Cembaloの為の、)triosonateの場合にも、少し、強すぎるかも知れません。
でも、それは演奏会の会場の場合の話で、録音をする時には、PAのmikeの位置を調整する事で、録音用には何とか音量の調整が出来ます。
まあ、いずれにしても、このPipeorganは、当時演奏に回っていた教会での、solo‐cantataの演奏用を想定してorderしました。

その後、教室を開設してからは、教会にcantataを演奏しに行く事はなくなりました。その理由は、教室の発表会と、教会でのcantataの演奏のDouble‐stageでは、私の負担が大き過ぎたからなのですがね。

発表会では、車でCembaloとOrganの二つの楽器を会場に持って行くのはとても、負担が大きいので、2,3度、発表会会場に持って行っただけで、後は、Organは演奏の場が無くなってしまい、単に、教室のdisplayになってしまっています。

世界でも稀な positiv organなのに、displayとしてしか、使われていないのでは、余りにも勿体無いので、今回は、斉藤先生に、baroque‐violinとOrganの演奏を公開する目的で、Veraciniの「passacaglia sonate accacemiche Op.2Nr. 12 d moll」を、16年の4月3日の発表会での演奏のために、orchestra用に、arrangeしたついでに、折角、同時並行で作り上げたCembalo用の譜面を、今度はOrgan用に書き換え始めました。

Organ譜の作成は、今日、18年2月28日、(2月の最後の日)からになります。
Cembalo譜の場合には、Cembaloという楽器は音量が弱いので、右手の和音を厚めにして作曲します。
しかし、Organの場合には、逆に、音量が強すぎるので、なるべく音を薄く作ります。

また、Cembaloの場合には、basso continuo(左手のmelodie=基本的にはcelloと同じmelodieになります。)に対して、右手は、和音として演奏しますが、Organの場合には、右手は「和音として」ではなく、「melodie(旋律)」としてbasso continuoに対しての対旋律(Kontrapunkt)を作ります。

基本、優しい柔らかいpassageでは、音量を弱くするために、対旋律は、1声部の、都合2声部の書法で書きます。
元気なfortissimoのpassageでは、3声部や4声部と必要に応じて、声部を増やして音量を増やして行きます。
Organのpartに、和声学上の禁則を書くのは、言語道断の事なのですが、海外の権威のある楽譜でも、Cembaloとsoloのpartが引き起こす禁則に付いては無頓着です。
異種楽器なので、同じ声部間の禁則のようには、目立たないからなのですがね。
しかし、禁則は禁則なので、異声部間の禁則も厳密に対処するのが本当なので、Organとviolinのpartとの禁則が起こるとまずいので、細心の配慮が必要になります。
取り敢えずの叩き台の楽譜は、edition Petersの版を使用していますが、やはり、basso continuoのaussetzungは素人っぽくって、とても上手なaussetzung だとは言えません。

どっちみち、書き直すので、私に取っては、関係はないのですがね???
まあ、いずれにしても、この曲のvortragsのコンサートの日にちが決まっている分けではないので、のんびりやって行きます、・・と言っても、もう3部に分けた内の、T部を完成させてしまいました。(2月28日の内にです。)
finaleのsoftの悪口を何時も言っているのですが、オモチャにしても、実際の音でcheckが出来るのは、とても楽です。
但し、notationのsoftなので、音量とかは自由にchange出来ないので、そこいらは、やはりヘボいのですがね??
・・・てな事を書いている間に、未だ、2月1日の朝の9時前なのですが、V部も完成させてしまいました。
U部は、チョッと、身構えなければならないので、今日はもうやらない事にします。
目が限界に差し掛かって来たので、今日は目を休めないといけないからね??



と思って、2月中には、風呂にでも入って寝る予定でだったのですが、chatが入って来てしまったので、chatの相手をしながら、平行で一緒に作業をしていたら、(まあ、次いでに、)残りのU部の校訂も終わってしまいました。
・・と言う事で、F.M.Veraciniのpassacagliaは、丸々1日掛かりで、第T部から、U部、V部と全部終了してしまいました。(28日の深夜から1日の朝に掛けての、18時間ぐらいの時間です。今年は閏年ではないのでネ??)
バテたぞよ??
今から頑張って寝込むぞよ??

ちなみに、叩き台にしたPeters版の元の譜面は、Cembalo用の譜面です。
私が入力したfinaleの楽譜には、右手のpartは入力されていません。ですからPeters版を見ながら、それを叩き台(※)にして、Organ用の譜面を作って行きました。

(※)今、ふと「『叩き台』・・という意味が一般的には別の意味で解釈されるよな??」と思い付きました。
一般的には、「敲き台」というのは、それを元にして、その上に改定を重ねて行くという事になるのでしょうかね??つまり、元の形をarrangeして推敲をする・・という意味ですよね??

それならば、basso continuoの「 bezifferten Bas」の場合には、「叩き台」という言葉は使えませんよね??
何故ならば、数字譜の場合には、basso continuoの上手な人に拠る右手の回答は、答えが同じになってしまうからなのです。

baroqueの鍵盤partの bezifferten Bas(所謂、数字付きBas)なのですが、一々、音符を書かなくても良い為の、作曲家の速記法なのですが、ジャズやrockのような自由さはありません。jazzの場合には、chordは指定されていても、その配置迄の指定はないからです。
和音が決められているだけでなく、同時に、和声進行や、非和声音等の動きも細かく指定されているので、誰が解いても、大体同じような楽譜が出来上がります。
上手な人になればなる程、模範解答に近づくので、上手な人の書くbasso continuoは、誰が書いても、同じ楽譜になってしまうのですよ。

しかし、下手な人が書くと、それこそ、面白い回答集が出来上がります。
ヨーロッパの権威のある楽譜と言えども、この bezifferten Basに関しては、碌な回答はありません。
音楽学者やCembalistが回答を書くので、間違いが多くて困ります。また、演奏効果も然程ではありません。
元来はperiodの演奏家達は自分で作るので、それこそ、叩き台にもしない場合が多いのです。
proの演奏家の場合には、baroque音楽の譜面は、出版されている楽譜を演奏する事はありません。
period奏法の場合には、それぞれの演奏家達が自分の演奏をするのがruleなのですからね。
出版されている楽譜に書かれているCembalo‐part等の楽譜を使用して、演奏するのは、一般の音楽愛好家か、未だ未熟な音大生ぐらいだけなので、proの演奏家達が参考にする事はないのですよ。

・・と言う事で、今、私が参考にしているPeters版でも、Petersの校訂者がちゃんと模範解答として、正しく回答出来ている所は、私が回答を作成しても、全く同じような譜面(回答)になります。

しかし、今回は、Cembalo譜として・・ではなく、Organの為の bezifferten Basなので、そのPeters版の bezifferten Basの回答が正しい回答だとしても、Organ用には使用出来ません。全く新しく、編集、回答し直さなければなりません。

練習の過程で暫時、またまた、修正していくので、仮に、Peters版を参考にして bezifferten Basを書いたとしても、Peters版の面影は全くない、完全なAshizuka‐versionが出来上がる事になります。
叩き台があろうとなかろうと、 bezifferten Basの場合には、回答の違いはないのです。
編集または削除


今日は3月3日、雛祭り兼満月の朝9時前です。
朝の体重測定を終えて、Veraciniのpassacagliaを書き上げました。
Veraciniが書いているviolinのsoloのmelodieと対旋律のcontinuoのmelodieに対して、更にもう一声部を書き加えるのは、作曲家の腕が確かな場合には、その作曲家の書き下ろした声部が非常に強いので、非常に難しくなります。
作曲家の腕がそんなに確かでない場合や、多作で、書きなぐった兆候がある場合には、その声部は弱いので、新たに声部を加えるのは比較的楽です。
Veraciniは、BachやHandelに劣らない非常に優れた作曲家なので、もう一声部を書き加えるのは、至難の業でした。
なんと、3日も掛かったぞよ??
生音が撮れる迄の応急処置として、何時もの様にfinaleの音源でも、載せて起きますかネ??

https://www.youtube.com/watch?v=HzmyhX_iV7I




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2018年6月13日まだ、トヨタで車の整備を待っている所です。
Veracciniのorchestrationを、しているのですが、soliとtuttiの対話がarticulationの単語で一々書き込むのが、超、七面倒臭くなってしまいました?
トヨタからハイツに戻ったら、baroque-concertoの形式に、scoreを直そうと思います?



という事で、ハイツに戻って、大急ぎで、Vivaldiのviolin-concertoと同様にsolo-violinとcontinuo-celloを独立させて、baroque-styleのTypische Musikalische Formen(基本的な音楽形式)として、書き直してみたのだが、やはり、oloとstuttiの対比が見にくい。


・・という事で、更に、Concerto Grossoの形式に直したのだが、それでも、チョッと違うよな??

ここ迄やったのなら、もう一度、challengeして、(「3度目の正直」という事で、)Quartett-concertoという、超、珍しい形式で書く事にした。
う〜ん!! これでどうだ!?




soloの譜面とorchestraのpartが同じ5線上で書かれている・・という見難さはなくなったので、・・・取り敢えずは、これで良し・・とするか??
限が無いもんね??


血糖の初注射をした。
おう!クラクラする!!
結構頭がボケる!! 
結構、顔に、クワ〜っと来るぞ!!



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2018年6月13日トヨタの半年点検の続きです。
朝起きて、Veracciniのorchestrationとlayoutをして、1時頃に遅い朝食を食べて、バイクで薬局に注射器を貰いに行って、そのまま、椎名町で車をとって、トヨタに半年点検に出している所です?
点検の間だ、一時間程、お店で待つので、楽譜のcheckをする事にしています?
点検は、3時からの予約だったのたけど、2時50分には着いたのだけど、直ぐに、作業に入ってくれたので、その10分は早くなるのかな?

(否、時間通りの4時過ぎに終わりました。)

パソコン音源
Veracini=Ashizuka Op 2Nr 12 d passacaglia Quartett concerto version



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2018年6月12日やった〜あ!!Veraciniのpassacagliaのoriginal-versionのorchestrationが
やった〜あ!!
Veraciniのpassacagliaのoriginal-versionのorchestrationが終わった!!

取り敢えずのlayoutもやったけれど、それでも、55Pageにもなる。
曲が長大で、演奏人数も、それなりの技術も必要なので、教室で演奏出来る可能性は極めて少ないのだけど・・・生音で聴いてみたいな??
もしも、教室の発表会で演奏するとなると、オケの??が、何人ぐらい必要になるのかな?

弦5部が4,3,3,2、とOrganが最低人数かな?
それでも、1stは常時、soloがあるので、continuo-celloと2人は常に抜けるのだよな??
soliで抜けたら、3,3,2,2で、まあ、それでも何とかbalanceは良いのかな?

これからの作業は、楽譜上の「間違い探し」とミスのcheckです。
articulationの細かい指示がよく落ちるのですよ?
それに、finaleで演奏させるために、Metronomのtempoの設定を細かくやらなければならないし、celloにKontrabassを被せるか?・・という演奏指示の判断も結構大変です。

これ以上は、endlessの作業になってしまうので、取り敢えずは、finaleの作業をお終いにして、先ずは次の仕事をしなければなりません?
・・という事で、薬局迄、バイクを飛ばして、注射器を貰って、それからdirectに、事務所迄、更にバイクで行って、claimの付いたdiskのcheckをやる予定だったのですが、大雨でバイクを出すのは諦めて、池袋の外回りにしました。
池袋ならば、地下街なので、雨には濡れないので、池袋周りの雑用を先に片付ける事にしました?

昨日は、病院の診察が終わってから、光が丘から、頑張ってdirectに池袋迄行ったのですが、未だ7時半なのに、眼鏡屋のシャッターが閉まっていて、メガネを持って帰る事が出来なかった。

という事での、再challengeなのですが、大雨でバイクが出せないので、電車での池袋へ行きました。
な、な、な、なんと・・池袋に着いたら、雨は上がっているのですよ??
眼鏡屋で眼鏡の合わせをして、眼鏡屋を出ようとすると、今度はまた、大雨なのです。
つまり、台風性の雨という事かな??

・・という事で、今日の行程は、再度、池袋に行って、眼鏡を貰って来て、それから、ビックカメラに行って、江古田のハイツの毎朝の工事対策で、noisecancelerのイヤホンと、検見川教室のオケ練習を撮影するための、video-cameraからmonitorのテレビにつなぐ配線コードを買って、今は、お蕎麦の田中屋で、遅い朝食をしています?
「遅い」…とは言っても、もう、6時半だよな??
幾ら何でも、朝食が夕方の6時半では、遅すぎるよな?

しかし、それでも、仕事は熟せていないのだよな??
未だ、薬局に薬を貰いに行っていないし、椎名町にclaimのdisc を取りに行ってもいない。
何がclaimなのか??checkをしてからの話なので、1日遅くなると、ズルズルと行き兼ね易いのです。

それに、明日の水曜日は、車の半年点検に出す予定だし、結構忙しいのだよ!!
不思議な事に、体調不良になって、「注射だ!!」と言いながら、毎日外回りをしているよ。

池袋に2日連チャンで行くのは、5,6年ブリになるのだよ。
ここ数年は、池袋に行く事自体、1年間で1,2回だったに過ぎなかったのに・・・ネ?? (この文章は、書いていたはずなのに、いつの間にか削除されてしまっていて、FacebookのPageには反映されていませんでした。おかしいなぁ〜??という事で編集履歴を見たら、一箇所に見つかりました。コピペしておきます。)



You Tubeの演奏は、16年4月3日 「passacaglia d fur Streichorchestra Veracini=Ashizuka-version」の発表会での演奏です。
最初は、私がMunchen時代に購入したorchestraへのarrange版でもあるLupi版の楽譜で演奏する予定だったのですが、arrangeが余りにもヘボい・・と言うか、ミスの音が多すぎるので、オケ練習が成り立たなくなってしまったので、已む無く全面改訂をしました。
曲としては、劇的で、強い音楽表現が必要な曲なのですが、演奏する人数が2,2,2,2,のKb.1とOrgan1の10名の編成で、余りにも音が弱わ過ぎるので、arrangeを更に変更して、少人数でも大きな音量が出るように編曲をしています。
これは教室の生徒の人数が減って、大orchestraの音量が出せなくなってしまって、Barberのadagioや、Pachelbelのchaconneの曲を演奏する時にも、同様な演奏人数の問題が起こってしまったので、orchestraとしては、音量的に、人数には辛いものがあるので、arrangeで、大きなorchestraと同じ音量に聴こえるように、編曲をしています。
・・という事で、全楽章のversionを今の人数で演奏するのは無理なので、教室の発表会のために、曲をarrangeをするのは無駄だ・・と言う事で、教室の生徒達が人数的にも、技術的にも、演奏するのは無理・・という事で、Veraciniの全楽章版のarrangeはずっと、保留にしていたのですが、何を思ったのか、突然、今回、全曲版のarrangeに挑戦し始めました。
勿論、教室で生徒達が演奏するのを、想定している分けではないので、かなり、大掛かりなarrangeになっています。
編成はQuartettのsoliのgroupと、弦5部とOrganのための編成です。
血糖値が悪化して来て、「何が何でも、second opinion」に行かなければならない・・という事で、ひかりヶ丘の病院に行く事になったので、・・そのpressureへの反動なのですよ。
アハッ!
少なくても、arrangeをしている時には、鬱では入れないからね??
https://www.youtube.com/watch?v=mbl6Wy7LoSs




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2018年6月4日「pipeorganの調律と絶対音感と和音感のお話」

「こもごも」
今日の3日は、お久しぶりの日曜日のお休みだったので、検見川教室のpipeorganの調律 写真Cと、violinとbaroque-violinとOrganの音のbalanceのcheck 写真@とB、Organのvideo撮影のための、spot-liteとback-liteの色合わせ写真 写真@、オケ練習のためのvideo撮影の位置決め、Christmasやおさらい会用の道具をユーカリが丘へ三代目ニャンコ号での移動等々、春暉君も手伝ってくれて、頑張って一日掛かりでやりました。

どこをどう片付けたのか??は、大して(見た目的には)あまり変わっていないかもしれませんが、教室としては大変な大掃除と模様替えになりました。


ユーカリが丘に荷物を運んでから帰って来て、12時近くになって、やっと、プリドルの散歩になったのだけど、チョッと疲れ果ててしまったので、半散歩も出来ない状態で大急ぎで事務所に戻って、遅い夕食を食べて、大急ぎでバイクでハイツに戻って寝ました。

明日は糖尿外来への紹介状を今の病院に貰いに行きます。(と思っていたのだけども、日曜日の次の日の月曜日に、外回りをするのは、やはりちょっと体力的には無理でした?)
「以上、今日こもごもでした。」


「Vitali=Guerrini版のPiano伴奏譜作成と和音感の育成の話」
前回のchaconneの練習が、余りにも酷かったので、一昨日の金曜日ぐらいから、finaleで、chaconneのVitali=Guerrini版のPiano伴奏譜を作り始めています。
(実際のオケの練習風景は、「5月27日のオケ練習」としてYou Tubeにuploadしています。)

violinやOrganのような鍵盤楽器と違って、弦楽器は単旋律楽器なので、和音感が育ち難い楽器です。

一般的な人達が、弦楽器を学ぶ場合や、弦楽器のlessonや練習では、発表会直前のrehearsal 等で、1回2回ぐらいしか合わせるchanceはないし、弦楽器の人達が、練習の過程で、Pianoと伴奏合わせをして練習をする…という事は、極めて珍しい事なので、多くの弦楽器の奏者の人はconcerto等の練習をしていても、orchestraの伴奏を感じて弾く事はありません。
弦楽器では、melodieを弾く時に、和音を感じて弾く人は、極めて珍しい存在なのですよ。


orchestraでProとして演奏活動をしている人達であったとしても、同じ楽器同士で音を揃えるという練習はするのかもしれないけど、それは単音の練習に過ぎないので、和音感は育ちません?
同族の楽器でensembleを組むのならば、和音感は勿論、育ちます。
その例としては、string-Quartettの練習等です。

優れた絶対音感の持ち主であったとしても、それと、和音感の能力とは、全く別の次元の能力になります?

講師面接の時にも、某有名音楽大学の卒業生で、全音楽大学の演奏会で大学の代表として演奏した程の学生なのですが、教室での面接の時に、大学のコンサートで演奏したその曲を途中から半音低いままで弾いて、その事を指摘しても、本人は分からないのですよ。

一般的には、作音楽器では絶対音感は育ち難いと言われています。
それは常に自分のpitchの狂った音を聴いたり、弾いたりしているからです。
日本では、弦楽器で正しい音を取る練習としては、Pianoの鍵盤に一音づつ、Pianoの音と楽器の音を合わせる練習をさせます。

教室的に言うと、Pianoの音を叩いて、violinの音取りの練習をする所からは絶対音感は、絶対に!育たないのですがね??

Aの音を一万回、pianoで弾いて覚えようとしたとしても、絶対音感、絶対和音感は勿論の事、正しい音程も身に付く事はありません。
日本の音楽大学の通念として、正しい音はPianoの音(調律されているか否かは問題ではなく・・)で、それ以外に正しい音(pitch)を知る術はないのだそうですよ。
つまり、弦楽器で正確な音を求める場合に、その拠り所となるのが、Pianoの鍵盤という事なのだそうです。
・・・まあ、おそ松な事???
呆れたネ??

絶対音感に限らず、人生としても、「物事を知る」という事は、意外と簡単な事なのです?
それは、その違いを知れば良いだけなのですから?

仮に、音大のpianoが「正しく調律されているのか、否かはさておいた」としても、※1)
※1)「正しく調律されているか否か・・という前提は、練習する前の段階で、「pitchが合わない」という前提にもなってしまうので、論旨が成り立たなくなります。
現実的には、正しく調律されていないPianoの方が90%以上になりますので、このお話を前提にすると、論文が成り立たなくなります。
・・という事で、このお話は「無視」です。

※2)音楽大学の先生達の大きな間違いは、Pianoを正しく調律した場合には、その音は正しい唯一の音(pitch)を出す・・という思い込み・・です。
原則として、平均律で調律されたpianoは全て同じ音(pitch)であるべきなのです(?)・・が、それは、少なくとも理論上は・・・という話に過ぎません。
それで、絶対音感が養われると思い込むのが、音大の先生方が犯す過ちの最大の間違いになります。

ここには大きく2つの問題があります。
その一つは、音大にPianoが何台あるかは知りませんが、そのPianoが総て完璧に調律されているという事は有り得ません。
ましてや、狂っているPianoで音取りをやる事の意味は、間違えた辞書で訳をしている子供達のようです。

二つ目のお話が肝心なのですが、一人の調律師が2台、3台のPianoを調律する場合に、同じpitchに調律が出来る事はありません。
教室のように、部屋に2台のPianoがある場合には、1台目を調律してから、そのpitchをもう1台のPianoに移すのです。

ならば、どこかの大手の企業の調律師のように、tunerでpitchを取って、Pianoに移せば正しい平均律が出来そうですが、それでは、正しいpitchを取る事は出来ないのです。
理論的な数字に拠るpitchは、「理論の世界のpitch」なので、実際に音楽に使用するpitchは全く別のpitchなのです。

機械が取るoctaveのpitchは、Aが440だと仮定して、octave上のpitchでは、880cycleになり、そのoctave下の音は220cycleであるはずなのですが、人間の聴覚の感覚では、同じ音のoctave上の音は、正しいpitch(倍倍の)では、高音域は低く、低音域では高く感じてしまうからなのです。

調律師は自分の感覚で、その差を耳で調整(補正)するのですよ。正しい音程を耳の感覚で狂わせる事が調律の技術なのです。
これは人間の感覚のお話なので、平均律でも、純正調でも同じ話なのです。

平均律ですら、Pianoが2台あってそれを同じ調律師が調律したとしても、調律した場合には、それぞれのPianoが微妙にpitchが違ってしまうのですよ。

Pianoの調律は平均律で調律しますが、本当の正しいpitchは純正調のpitchにあります。

このお話に踏み込む事は、 labyrintha に迷い込むような事で、それはとてつもなく大変なお話ですので、興味のある人達は私のhomepageを参照してください。※)
※)以前、テレビでNHKの音楽番組を見ている時に、Pianoの調律が高音域になるに従って、凄くflatになるので、驚いてしまいました。この調律をした人は、octaveのpitchを機械のmeterで合わせたのでしょうね??
教室には4台のCembaloと、pipeorganがあるので、生徒にも調律のやり方を指導します。Cembaloは、温度や湿度で狂いやすいので、弦楽器と同じように、演奏する前には、常に調律が必要なのです。Cembaloを購入する・・という事は自分で調律をする・・という意味でもあります。
Munchen時代には、今のような高性能のCembalo用のtuner(古典調律の出来るもの)は無かったので、Pianoや当時愛用していたReise-Clavichordの調律は、一般の調律師に人達と同じように、5度調律や3度調律の技術を駆使して、やっていました。しかし、実際の演奏会では、教室で事前に丁寧に調律をしても、車での移動で、微妙に狂ってしまうので、会場で大雑把に調律をし直します。
また、普段のオケや室内楽の練習では、そんなに丁寧に調律する時間がないので、tunerを使って、20分ぐらいで調律をしてしまいます。しかし、tunerで、丁寧に調律をするのは、基本となるoctaveだけで、後は、そのoctaveの音を耳で広げて行くだけです。基音となるoctave以外の音に対してはtunerは使用しません。
もし、まかり間違えて、全ての音をtunerで調律した場合には、NHKの音楽番組を調律した調律師のように、octaveが低い気持ちの悪い調律になってしまうでしょうね。

純正調の調律は、通常、古典調律と呼ばれて、それぞれの調律法で、meantone調律や、Werckmeister、Vallotti、Kirnberger等の調律法が色々とあって、それ等のpitchは古典調律の出来るtunerに有名所の古典調律として、10種類ぐらいは普通に入っています。

古典調律の場合には、渦巻き状に音が高くなって行くので、octave上でどうcycleの倍のpitchになる事はないので、開かれたoctaveという言い方をします。
それに対して、平均律は12個の音を一周したとしても、同じ音に戻るので、「閉じたoctave」と言います。
baroqueの時代には、そういった開かれたoctaveに対応出来るように、ラ#とラ♭を区別して演奏出来るように鍵盤が2つに分かれているものも多く存在しました。写真D

純正調では、「転調が難しい」という根本的な問題があるので、melodieはPythagoras律という平均律に非常に近いmelodie-lineで演奏しながら、和音は所謂、pure-sound、純性和音で演奏するという方法があります。
所謂、折中案です。

melodieは通常の調性を死守しながら、和音はpure-soundを使用する方法でperiodの団体の多くはこの方法を使用しています。
また、同族の楽器で構成される演奏の場合にも、pure-soundを使用する事が普通です。

純正調のpitchでは、同じドの音でも、ハ長調のドの音と、イ短調のドの音は、pitch(cycle)が違うのですよ?
オケ練習では、pure-soundを学ぶために、「その音は導音の音だから、もっと高めに?」とか、「基音から2octaveだから、もっと高めに?」とか、純正で、取った音を更に狂わせる技術を学んで行きます?

先生達や上級生の場合には、本当の古典調律でperiod奏法(ornament等を入れながらの・・)period instruments(所謂、baroque楽器)で演奏の勉強をします。
日本ではperiod奏法というと、baroque楽器を使用して、pitchを415cycleにするともうperiodのような気で、演奏会を開いているようなのですが、それはbaroque-楽器で440の半音低いpitchで演奏するmodernな演奏なのです。

八千代の対外出演では、以前からの演奏でも少しづつperiod奏法を取り入れて来ましたが、昨年の八千代では小学生達もperiodの演奏に挑戦しました。
(modern楽器に拠る、modern-pitchでの、period奏法による演奏です。)アハッ!一般のperiodの人達の真逆だよな??

この手の学習(正しい音律を学ぶ事)は、間違えた音感を学んできた音大生を指導しても、もう、手遅れなのですよ?
極々稀にはproとして活躍しているplayerでも、high-octaveのpitchが低い演奏家はいます。
勿論、一流になれる事はありませんがね。
音楽大学は、基本4年制なので、一生懸命に指導したとしても、「後、余命3年」とかね??

そんな間違えた勉強をして来たとしても、教室で根本から学習し直す気があるのなら、指導する事自体は、やぶさかではないのですが、音大生は実力は兎も角としても、prideだけは人並み外れたものを持っているので、おいそれとは、教室のmethodeを学んでくれはしません。
「巷の音楽教室風情(ふぜい)が何を言う!!」と言われてしまいます。ハイ!

以前も、教室に入会しに来た人から、「homepageを読んで教室に来たのに、指導内容が全く違う!!」とcreamが付いてしまって、困ってしまいました。
近場の教室だから習いに来た・・という事ならば、音大生つ業の先生の方が、「若くてピチピチして良い」と思うのですが、色々と教室を探して求めて来た人は、やはり芦塚メトードで指導しないと、そういうふうなcreamが付いてしまうのでね。
という事で、音大を卒業しただけの人を講師として雇う分けには行かないので、先生がいなくて、困ってしまうのですよ。
私達の教室でも、教室(部屋)はいっぱいあるのにね??
そうでしょう??

愚痴はそれぐらいにして、絶対和音感のお話に戻りますが、教室でオケ練習の時に、「一般の弦楽器の演奏家には、和音感がない」・・という話をしても、教室の生徒達は、それを誰も信じないし、「絶対音感を持っている生徒は数少ない」という話をしても、誰も信じないのですが、それは教室のcurriculumで、練習が未だ出来ていない状態の時から、伴奏合わせをしたり、オケや室内楽等で音を和音の中に合わせる・・という事で、いつの間にか、知らず知らずのうちに和音感が身に付いてしまっているので、「そんな簡単な事が音楽を専門に勉強している人達に取って、出来ない分けはない!!」と思い込んでいるのに過ぎません。

一般的に、弦楽器を学ぶ場合には、先生と生徒が1対1でlessonをします。
lessonや練習の途中の段階で、「伴奏が付く」という事は一般的には、有り得ないのです。
一般通念では、完璧にsoloも伴奏も弾けるようになって、始めて「伴奏合わせ」が始まるのですからね。

だから私が、未だ練習も出来ていない、曲も完全には弾けない状態のその段階で、伴奏合わせをしたり、初歩の生徒に、オケや室内楽の練習に参加させたりする・・という事の意味から含めて、子供同士で伴奏合わせをさせますが、その意味は、中々、一般には理解される事はないのですよ。

「早い時期から子供同士で伴奏合わせ等のensembleをさせると、楽しくて良い!」と、賛同してくださる先生達が時々います。また、自分も同様な事をやりたいので・・と楽譜を所望された事もあります。

しかしながら、本当は、子供同士でensembleをさせる・・という事は、curriculum的にも、指導力的にも難しく、異種楽器の場合には特に、指導上の難しさがあるので、proの人達を指導するよりも、子供達を指導する事は、非常に難しいのですが、そこの所は中々、分かって貰えません。

私の作曲した子供のためのPianotrio集ですが、簡単な童謡のthemaでVariationで作られているので、譜面だけを見ると、子供達への指導も簡単なような気がするのかもしれませんが、実は「音大生が弾けない」・・ぐらいのlevelの曲である・・という事を知っていた??
それぐらいの難曲なのですよ。

子供達は、子供のためのPianotrioが「難曲だ」と言っても、誰も本気にはしませんが、有名音楽大学の学生(卒業生)が教室に来て、その曲を弾けないのを見て、「なぜ弾けないの??」と素朴な疑問を投げかけて、しかし、体験学習に来た学生達は、有名音大生としてのprideが傷ついて、よく泣かなかったよな??えらい!!えらい!!
その代りにそれっきりで、二度とオケ練習の見学に来る事はありませんでしたよ。

人間は、努力をしないで、自然に身についたものに対しては、価値観を持ちません。

例えば、一般的な通念では、「絶対音感」は「神様が、音楽を学ぶ子供達の中から特別な生徒だけに与えたもの」と言われています。
アメリカのCNNのテレビでは「神からのGift」として音楽家の2万人に一人の割合で持つ事が許される・・とされて、絶対音感を持っている人達のdocumentが世界に放映されました。

日本でも、絶対音感を付けるための日本唯一の音楽教室が椎名町にあるのですが、全国から毎週高い交通費とlesson代を払って、時間を掛けて、熱心な子供達がlessonに椎名町迄、通って来ているそうです。ハイ!
勿論、私達の教室ではありませんよ!!

その椎名町に幾つもある絶対音感を身に付ける事を売りにしている教室(と言うかビル)の前を毎日、プリドルのお散歩をしているのですがね。アハッ!

私達の教室では、教室で学んでいる生徒の殆どは何の苦労も無く絶対音感を所有しているのですが、それも私のmethodeに因って絶対音感が身に付いているのだ・・という事を理解出来ている生徒や保護者の人達は殆どいません。

教室の生徒保護者の感覚では、「音楽の練習をしなくても、普通に教室に通えば絶対音感程度!!は身に付くのだろう??」てな感覚ですよ。一般の音楽を学ばせている親にとっては、絶対に信じられない事ですよね〜ぇ??

教えても有難味を感じなければ、ね〜ぇ??

ヨージーの法則:
「苦労をして得たものは、どんな些細なものであっても大きな価値があり、苦労しないで自然に身に付いたものに対しては、殆どその価値を誰も感じない」
・・・という事なのですよ。

蛇足:
絶対音感を持っている事で天狗になっている音大生がいたので、「では、キラキラ星を私の伴奏で歌って見てください。」とPianoで伴奏をしました。
ハ長調で歌ったのですが、2小節として、歌えませんでしたとサ。※3)

※3)世界ではありとあらゆる記憶をする方法はあるのだが、忘れるためのmethodeは無い・・という事から、私の記憶法の原理が編み出されました。
同様に、正しい絶対音感を如何にすると、狂わす事が出来るのか??・・という考察をして・・・そこから編み出されたのが教室で誰もが気が付かない間に指導されている絶対音感の訓練法なのです。

ただ、絶対音感の原理をそのままで使用してしまっては、非常に習得する事が難しくなるので、それを非常に簡単に身に付くように、色々とmethodeで改良したのが、現在の芦塚methodeなのです。
(どうするの??って・・それは論文を参照してください。簡単にその原理を説明する事は、難しいのでね!)

(それから何故、このchaconneの編曲のお話に飛ぶのか・・の関連性を説明するのが面倒くさいので、絶対音感の勉強の一貫として・・Pianoの伴奏譜を作成しているのだ・・とご理解ください。)

沢山のVitaliのchaconneのPiano伴奏譜の譜面が出版されていますが、Charlier版を始めとして、基本的にはDavid版を踏襲していて、今回のorchestra-versionのGuerrini版のPiano譜は勿論、出版されていません。
ちなみに、arrangerのGuido Guerrini さんは(1890-1965) An Italian composer, conductor and critic, Guerrini studied with both Torchi and Busoni at the Bologna Liceo Musicale, going on to direct the Florence Conservatory (1928?47), the Bologna Conservatory ぐらいしか資料がありません。

教室の作業の中には、オケ合わせの練習のために、伴奏譜を作る・・という作業は含まれていないので、私の作業の時間には組み込まれないので、暇に任せての作業になります。(楽譜が出版されていないという事は、まあ、当然、と言えば当然なのですが・・)という事で、折に触れて、時間がある時には、1小節、また、次の仕事との合間には、他の1小節と、気長にarrangeをしています。
(私が待たされる事が大嫌いなのは、その待たされている時間に幾つかの仕事が熟せるからなのです。30分も待たされれば、一つ2つの仕事は終わらせる事が出来ます。)

これは、単純作業に過ぎないので、結構finaleの入力の勉強になるので、本当は生徒達にやって欲しいのですがね。(昔は、智子ちゃんや美帆ちゃん達が中学生の頃には、Stamitzや他のCembalo-part等を作ったりしていたのですがね??)それも、「今や昔」の話になってしまいました。

それはそうと、検見川教室で部屋の模様替えをしている最中に、楽器の移動のために集めていたcelloのendpinで足を怪我してしまいました。
勿論、endpinには、capはしていたので、普通の人なら怪我はしないし、何も無いはずなのですが、糖尿病のために足のふくらはぎの部分が完熟トマトの薄皮のように薄くなっていて、プリがおねだりで前足でチョッとふくらはぎを引っ掻いただけでも、血が出てしまうのですよ。
そして、超痛くて、しかも、治りにくいのです。

深夜、ハイツに戻って大汗をshowerで流したかったのですが、足の傷が痛くて、髪を洗う事も出来ませんでした。
一晩寝て、次の日の朝になっても、その傷跡は痛んでします。
糖尿病の場合には、痛みは継続するのですよ。????



照明を取り付けるadapterが無かったのと、video-cameraを取り付けるadapterの蝶ネジが紛失していたので、ハイツで壊れたPartsから残しておいた蝶ネジがあったので、取り付けて見たらぴったりでした。つまり、規格品なので、大概は合うのですよ!! cameraの3脚に取り付けるadapterのネジが8_以下のを探したら、そういうadapterがあったので、それを検見川教室行きにして、video-cameraの取り付けadapterと一緒に日曜日に持って行く事にします。壊れたPartsでも、使える物は保存しておくと、camera-adapterの部品は売っていないので、書い直しになると、数千円の出費になります。殆ど企画なので、もしものときには便利です。でも、何に使うPartsなのかが分からないと、保存しても無駄かもね??


後は、spotlightを回すネジが超熱くなって、火傷をするので、それを改造するのですが、未だ良いbestな解決法が思い付きません。



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2018年7月23日

「BeethovenのDuoについて」

前々から、感じていた事ではあるのだが、violinとcelloのC Durの二重奏曲のscoreを作りながら、改めて「この曲は、Beethovenの真作ではない。」という事を確信した。
Stamitz風の典型的な初期の古典派のstyle自体は初期のBeethovenであっても問題はないのだが、Beethovenにしては、曲の構成が全くなっていない。Beethovenがまだ修得期の稚拙な時期であったとしても、構成力は将来を想像させる実力がある。しかし、この曲にはそれがないのだよ。特に繋ぎの部分が弱い・・というだけではなく、稚拙でもある。
所謂、kindereiなのだよな〜あ??...
紛れもない偽作である。
時代考証的にも少し逆行している。
しかし、themaや繋ぎ以外の部分は、意外としっかりと作曲されている。それなりの実力も見受けられる。
これだけの力量を持っているのならば、繋ぎの部分もちゃんと作曲出来たはずなのに・・・??
締切に間に合わなかったのかな?



  • ええ〜?いったいどなたが作ったのでしょうね?
  • 偽作を書く人の名前は普通は分かりません?
    通常は、分かったらその人の作品になるからです。
    しかし、Bachのcantataのように作曲家が分かってもそのままになっている場合や、「おもちゃのsymphony」のように、未だに、作曲家が未定の場合もあります。出版社に取っては、の方がそ売れるからです。本当の作曲家の場合には、誰も楽譜を買ってくれないからです。
    それこそ今回、秋の発表会で演奏予定のVitaliのchaconneのように、本当は作曲家不明なのですが、誰も作曲者を調べる事のないままになっている曲の場合もあります?

    それは、誰もが「Vitaliが作った」、という事を信じて疑わないからですが、Vitaliのchaconneと書かれた写本を、Ferdinand Davidという人が、教育教材として、Piano伴奏とviolinのためにarrangeして、その曲が世界的(歴史的)に知られるようになった時に、Vitaliの作品として定着してしまったのです。(そして、その誰が書いたのか不詳のままの写本がVitaliの真筆として定着してしまったのです。残念ながら、そのfacsimileの楽譜には、もしTommaso Vitaliが書いたとしたら、絶対に犯さないであろうkindereiな間違いが余りにも多く見受けられます。楽譜の書記自体はとても美しいのに、余りにも素人的なミスが多く見受けられます。)

    今回、教室で演奏する予定のorchestra‐versionのchaconneは、Davidの教育教材用のchaconneを定本にして、現代の作曲家であるGuerriniがarrangeをした版なのですが、殆ど同世代の有名な作曲家のRespighiのarrangeした版もあります。(GuerriniもRespighiも現代作曲家なので、当然擬古典の作品になりますよね!!)

    またviolinとPianoのためのDavidの楽譜なのですが、Chalrieのように「自分が作った?」という人も現れて、困ってしまいます。
    Charlierはviolinのpartにbowingを付けただけなので、それでは、「更訂」とも言いません。
    後、DavidのPianoの伴奏のpartを少し弄っただけで、編曲と口にする人もいて困ってしまいます。

    先程も書いたように、出版されているVitaliのoriginal版は、写本であってTommaso Vitaliのoriginalの手稿ではありません。
    Tommaso Vitaliのchaconneの楽譜は無いのですよ。

    という事で、一般的にTommaso Vitaliの定本と言われている手稿は、残念ながら写本に過ぎないので、basso continuoの和音の数字が間違いだらけで、前回16年の11月の23日の千葉のさや堂ホールでのbaroque‐concert用に編曲をし直す時に、原本を正しい数字に訂正しながらの作業だったので、original版の作成をするのには、大変な手間暇が掛かってしまいました。

    Ferdinand Davidは、この写本を参考にする程度で、自由にarrangeをしてPiano伴奏のchaconneを作った分けなのですが、彼は他の作曲家の作品に関しては、少なくともviolinのpartだけは、原曲を忠実にcopyして、伴奏のpartのみを、彼の時代であるロマン派風に(擬古典風に)arrangeしたのですが、この「Vitaliのchaconne」に関しては、violinのpartもmelodieを或る程度、要処要処にmelodieを参照したに過ぎません。
    曰く、Vitaliのchaconneによるhommageとか、Paraphraseとかの名前でも良かったのですがね??

    Davidは、彼のviolinの生徒達のために、baroqueの多くの作曲家の作品を、Davidの生徒達のための教育教材としてarrangeをしているので、Vitaliのchaconneもその中の一環としての曲に過ぎません。
    本来ならば、「Tommaso Vitaliの主題によるchaconne」というTitleでも良かったのですがね。

    私が今年、挑戦した、「F.M.VeraciniのpassacagliaのOrgan‐partの作成」は、Veraciniの書いたbasso continuoの数字が、かなり大雑把な書き方ではあったのですが、論理的には間違いではないので、非和声音の処理をちゃんとすれば、良いだけだったので、その処理は楽でした。
    (殆どの演奏家達は、basso continuoの数字の和音と、melodieの和音のぶつかりを無視して、恰も「Veraciniがそう書いたから・・そのように弾かなければならない」・・という風に、間違えたまま、演奏していましたが、それは、Veraciniが、後世の作曲家達のように、非和声音を数字で書き表さなかったからです。
    非和声音を真面目に bezifferten Basとして書くか否かは、その作品を作曲家以外の人達が演奏するか否かに掛かっています。
    私のbasso continuo Aussetzung des bezifferten Bassesでは、非和声音の処理をちゃんとしています。(譜例参照:)

    でも、Vitaliのchaconneの場合には、原本ではなく写本に過ぎなかったので、その数字が間違いだらけだったので、拠り所がなかったのですよ。
    古曲を扱うには、そういった難しさがあります。それも楽しい事ではありますがね。
  • 参考までに:Veraciniのpassacagliaの原譜です。ちょうど、その非和声音処理の場所のoriginalの箇所が読み取れます。



  • 参考までの次いでに、Vitaliのchaconneのoriginal譜です。原譜のインクの色は褪せて殆ど見えないように薄かったので、補正をして見えるようにしています。(・・私が、・・です。)
    原譜では数字も殆ど判別不能ですが、色補正によって判別可能になっています。パソコンがあると、ここ迄出来るので助かります。
    市販されている楽譜では、勿論、こういったcomputerの処理はされていないので、original譜は超、見難いので、楽譜起こしされた譜面も同時発売されています。
    そちらの譜面はとても見易くて助かるのですが、数字が読み取れ無くって、数字の上に?が幾つもついた箇所が多く見受けられます。(しかも、その数字自体が間違えていたりして、演奏不能な箇所も多く見受けられます。)
    David版を見て、originalの版を想定するのは無理!!というものですよ。
    全くの別の曲です。(最初の十数小節を除いては・・ね??)





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昨日(8月10日)は、またまた35℃の猛暑でした。
(ここの文章は8月11日土曜日に書いた文章です。)
台風の時には、21℃まで下がったりして、超寒かったのだけど、気温差15℃では、死人が出るのも当たり前だよな〜ぁ??
今日も大雨で、25℃まで下がっていますが、湿度が高いので、空気が蒸れて息苦しいです。
毎日10℃以上の気温差では、本当に身が持ちません。



(ここからは昨日の10日(金曜日)の文章です?同じ、昨日という単語が出て来るから紛らわしい!!)

明日(11日)は「山の日」とかいう休日らしく、お盆の帰省の大渋滞が山の日の前日である10日の今日に始まってしまいました。

という事で、お盆の入りの帰省ラッシュの大渋滞の中を、千葉の検見川教室まで車で2時間半も掛けて、Veraciniのpassacagliaの positiv organ-versionの練習と録音をするために出掛けました。

video撮影のangleのために、検見川教室にオケの練習用に置きっぱになっているKontrabass2台やKeyboard類、五線のwhite‐boardや、その他の細々した物の置き場所(部屋のlayout)を変えて、video-cameraのangleに入らないように、位置決めをしたり・・等々、準備が色々と大変だったのだけど、その最中に、video-cameraの配線のコードに足に絡まって、転倒してしまいました。
膝が痛くて、暫らく立てなかったのだけど、時間が無いので、諦めて録音に入りました。

本来的には、オケ練習の後は、lessonやこういった収録に教室を使いたいので、KontrabassやKeyboard等の片付ける位置を邪魔にならない場所にしたいのだけど、どうしても、オケ練習の開始に便利なようにその場に置きっ放にしておきたいようで、lessonの時などはその片付けとlesson出来るようにするのに30分近く掛かってしまいます。
超、困るので、毎回文句を言うのだけど、そこは譲れないようで、毎回練習が終わると片付けの事でぶつかってしまいます。

配線のコードに引っ掛かったのだから、片付けとは関係はないように思われるかも知れないけれど、KontrabassやKeyboardの移動から始まったら、練習が開始出来るまでに、時間が掛かるので、ついつい焦ってしまったのですよ。
ハイツに帰ってから、改めて、膝を見たら、お皿の上の方が、紫色に腫れ上がっていました。
超、shock!
歳を取ると、チョッとした段差等でも、コケてしまって、骨に傷が付くと、そこから毒が出て、余命は半年以内になるのだそうです。

特に、糖尿病の場合には、足の指をチョッと引っ掛けただけでも、壊死してしまい、足を切断しなければならなくなるので、医者や、薬局に、「絶対に怪我をしないように・・!!」と厳しく注意されているのだけど、毎日のように、何処かに引っ掛けて、いつの間にかに怪我をしているのよね〜ぇ??
そりゃあ、「絶対に怪我をしないように?」と言われても、無理な事だわさ!!

今回のVeraciniのpassacagliaの収録は、曲がとてつもなく長くて、結構技術的にも難しいので、録音は2日に掛けて行います。
次の予定はお盆明けの16日にもう一度撮り直します。

本当は、今日の収録は予備的な録画で、本格的には、16日の収録分を中心にして、編集をする予定だったのです。
今日の今回の動画は、収録のための場所作りや、angleのcheckや音声の編集や、余分な画像の削除の練習も兼ねた予備的な録画なので、公開するつもりはなかったのですが、演奏した当事者がビデオのcheckを出来るように、lineかmailで送ろうと思ったのですが、ギガ便で送るにしても、結構手間なので、めんどくさいので、You Tubeにupする事にしました。

オケ練習で使用している部屋でも、撮影用には、狭くて、どのようにangleを工夫して撮影しても、入って欲しくない邪魔なものがangleに入ってしまうので、Organとviolinを別の場所で撮って、編集で合成するつもりだったのだけど、なんだか先生達には、却下されてしまって、私としては、angle的には不本意なlayoutです。
ゴチャゴチャしたものが画面に入っているのは、分かりきっているのだけど、それを省いて撮影すると、演奏している上半身しかangleには入りません?
という事で、organとヴァイオリンを分割して撮影して、編集で合成するのがbestなのですが、分割して撮影するという意味がどうも理解出来ないようなのでね。

Organの解説については、Organを作る事になった経緯や、Organ自体の説明や、Veraciniの曲の制作というのは、何を作曲したのか??というお話を書くように言われているのですが、楽譜制作上のお話やorganについてのこもごもは、videoの最終稿の編集が出来てから、改めて詳しくお話することにします。

passacagliaは、曲がとてつもなく長いので、譜面のPage捲りが間に合わないので、4部に分けて、録音しています。
(練習風景ではないので、commentは入りませんよ!!演奏風景ですよ!!)




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2015年10月9日


余談ですが、私が留学時代に住んでいた Furstenfeldbruck村にあるアザム教会はドイツの誇る国宝の教会で、その教会には、OrganのStradivariと言われるジルバーマンのOrganがあって、誰も触れる事は出来なかったのですが、教会からの依頼で、その門外不出のOrganで演奏会をするchanceがあって、そのOrganで演奏をする事が出来ました。

J.S.Bachのpassacaglia等の曲を演奏したのですが、passacagliaの低音がその鍵盤よりも低く、本来なら演奏は出来ないのですが、実はこのSilbermannOrganも、実は、その低音域がshort・octaveでしたので、問題なく演奏出来ました。

しかし、とても複雑なshort・octaveで、覚えるのは大変でした。
本文に戻って、Hennry purcellのChaconyの最低音のシ♭ですが、つまり、H(シ)の音をshort・octaveで、B(シ♭)にtuningをするのです。


これは、Kontrabassの場合も、scordaturaと言って、最低弦のミの音をレにtuningして弾くのと同じになります。


      


写真@ コラdol!なんで、lesson室に入って来ているの?? lesson室は出入り禁止でしょう!! 




写真A 二段鍵盤の大型のCembaloは業者を頼まないと運ぶ事は出来ないし、運送料とレンタル料が変わらないので、二段鍵盤のCembaloを使用する時には、私の自宅の二段のCembaloではなく、業者のレンタル用のコンサートCembaloで演奏します。しかし、兎に角、それなりに金額が高いし、しょっちゅう、発表会や演奏会でも使用するので、という事で、



B一段のコンサートCembaloをオーダーメイドしました。
「何で一段のCembaloか?」と言うと、女性の先生達が自分達で運べる重さが、一段二列が限界だからです。
いずれにしても、復刻のRuckers-modelなのでそれなりに高価ではありますが、結果的にはその方が安いので。
それが今生徒達が発表会で使用しているCembaloです。
先生達が自分で運ぶのですが、段々とそれも大変な作業になって来ました。
今は、発表会の朝、晩のCembaloの搬出搬入の作業は男の子達に手伝って貰っています。







Cこのspinetは今は椎名町のlesson室に置いてあります。(今現在(2018年以降は、ユーカリが丘の教室に置いてあります。)
江古田教室から、椎名町、ユーカリが丘と引っ越しを重ねています。

椎名町のlesson室でbaroqueの練習をするために、spinetの音域の広い方のspinetのtuningを426から418に変更しました。
(花園にも全く同じspinetが置いてありますが、そちらのspinetは少し音域が狭いのです。)発表会で子供達が443で演奏するので、簡易のbaroquepitchが418になるからです。

実は、このspinetは、一段の大型Cembaloよりも音域が広いのですョ。
でも、spinet-typeだと、音域が小さく感じるから不思議ですよネ。


それでも、大型2段よりも遥かに音域は狭く、一段の Lucasmodelもspinetも下の音は同じ音のHまでしかありません。

ですから、今回演奏するHennry purcellのChaconyのcantus firmus(ground)で、左手でoctaveでmelodieを演奏する事が出来たとしても、音域が足りないので、groundをoctaveで演奏する事は、出来ないのです。





という事で、baroque時代の特徴的演奏法である「short・octave」のお出ましです。


前のHennry purcellのtriosonateのChacony gのbasso continuoは、b(♭)が最低音なので、この曲の場合には、低音域の音では、c(#)の音が使用されないので、short・octaveでは、C(#)をb(♭)にtuningするか、C#をCにして、Cをb♭にtuningする2通りの方法があります。

私の場合には、short・octaveで、keyの音を変えてしまうと、次に元の音に戻す時に、pitchが狂いやすくなってしまいます。


そのために、short・octaveにしたkeyを何度もtuningし直さなければならなくなるので、その度にtuningをするのが非常に面倒くさいので、riskのkeyを一個(最小限)にして、c#をb♭にtuningしてしまいますが、一般的なshort・octaveならば、c#をcにして、cをb♭にする方が、keyの順番に従っているので、一般的なshort・octaveなのです。


basso continuoのoctaveは、わざわざoctaveにしなくても、8feetに16feetのregisterを入れれば、後は単音を弾いても8+16feetの合わさった音がして、それで良いのですが、baroque時代の大型Cembaloでは、木の枠がそれだけの(16feet)の荷重を支えるだけの力がないので、楽器全体に歪みが出てしまい、大型のCembaloでも、一般的には16feetを加える事はありませんでした。modernのCembaloでは16+8と8+4という音列(register)が当たり前なのですが、baroqueのperiod奏法としては、16feetをプラスする事は例外になります。
通常は、baroqueのpitchは435ぐらいから425ぐらいまでが相場です。
それ以上下げると、弦楽器にとっては音の鳴りが悪くなるからです。という事で、このspinetは426に調律されている事は以前お話しましたが、A=443の演奏会pitchの「なんちゃってbaroquepitchの418にpitchを下げるにあたって、椎名町のspinetは、baroqueでしか使用しないので、先生達がmasterclassとして演奏するだけなので、どうせtuningをし直すのなら、という事で、meantone temperamentで、調律する事にしました。

J.S.BachのWohltemperirte Clavierは、本来の意味はWohl(完全に)temperirte(調律された)Clavierという意味で、こんにちで言う平均律という意味ではありません。

だから、一般的には、ヴェルクマイスターの調律か、meantone temperament(中全音律)の調律をして演奏をした・・とされています。
ミーントーンで調律された、Mozartの演奏や、Bachの演奏はとても美しいですよ。
是非、一度聴いて見てください。 

残念ながら、発表会では子供達が普通のpitchで演奏するので、平均律のtuningになっています。

・・と、思ったのですが、明日のオケの曲の調性を先生に聞いたら、aが1曲と、dが2曲と、gの調だそうなので、急遽、meantone でtuningする事にしました。

小さな変更なので、会場の舞台での微調整でtuningが出来ると思います。
何かしら、難しいお話になってしまっているようなので、難しさついでに説明しておきますと、曲のmelodieをmeantoneで演奏する事は出来ません。

melodieはピタゴラス音律に近い型で歌う方が美しく聞こえます。
しかし、ピタゴラス音律では、3度は濁って汚いので、和音には純正を使用します。
melodieと和音は別の音律を使うのですよ。シ⇒ドやミ⇒ファをかなり狭目に取りますが、それを本当はピタゴラス・コンマと言います。
教室では私は、説明するのが難しい(高校生以上じゃないと理解不能な)ので、導音処理と(簡単に)言っていますがね。
雨の中を発表会の持ち込んだので、楽屋を余分に借りて貰って、午前中からmeantoneのtuningをしました。
しかし、舞台袖に置いている間に弦がまた狂ってしまい、もう一度お昼休みに完全にtuningをし直しました。
baroqueも湿気で鳴らないので、困っていたら、子供達が「violinが鳴らない!」と文句を言っていました。
勿論、前日の95%の湿度の性もありますが、舞台のgrandが442にpitchが下がっていたので、楽器を442にtuningした性もあります。
一応会場は空調で湿度は65%に調整されていたのですが、楽器は微妙で困ります。
だって、前々日は湿度25%で湿度注意報が出ていたのですよ。
天候の差だけでなく、湿度の差も酷いのですよ。
楽器だけでなく、私のような湿度に影響される人間にとっても、この天候の激変では体が付いていけないよね。
この天候は、天候の変化というよりも天変地異と言った方が良いぐらいで、やっぱりそろそろ地球の終わりですかね〜ぇ??


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2014年9月30日古楽器の演奏(period奏法)について


古楽器(その曲が作曲された当時の楽器)で、その当時の様式による演奏をする事をperiod奏法と呼ぶ事があります。

baroque時代や古典の時代の現代楽器(modern楽器)による現代的な解釈(interpretation)と、区別するためです。

当時の演奏、と言ってもよく言われる事は、
「baroqueや古典の時代には、まだ録音機器はなかった分けなので、どうしてその当時の演奏が分かるの?」と言われる事があります。

しかし、その当時の著名な作曲家達(C.P.E.BachやCouperin、fluteのQuantz等多くの作曲家)は、ornament奏法や、basso continuoの奏法のlecture(教科書)を作っています。

その中には、baroque特有の奏法等を、かなり詳しく説明してあるものも、多数あります。

ただ、勿論、演奏が録音されている分けではないので、文字を読み取るだけで、その当時の演奏を忠実に再現しようとすると、どうしても、文字に書かれている演奏を過剰に表現してしまって、period奏法をしている演奏団体の多くの演奏が、eccentric(エキセントリック=奇妙)な演奏になってしまう傾向があります。

どうしても、現代(modern)楽器の奏法での影響を脱する事が出来なくて、頭の中で考えたeccentric(奇妙な)奏法を、
「文献にはそう書いてあるから・・」と信じて疑わない奏者も多いようです。

普段何気なく見過ごしているような、当たり前の事でも、言葉だけで説明しようとすると、なかなか伝わらないという経験をお持ちの方も多いのでは?・・・とおもいます。

私の古典派の奏法やbaroqueの奏法を、曲の演奏法の解説として、文章に書いて、homepageにupしていますが、実際には、その弾き方を動画に録画してupすれば、一瞬で説明出来る事が、文章にするととんでもなく難しい事のようになってしまいます。

音楽の演奏表現を言葉で伝達する事は、それが当たり前の事だとしても、難しいのですよ。
その当たり前の一つの例として、swingの奏法(=notes inegales奏法)を、period奏法の演奏家達が拡大解釈をしてしまって、オーバーに演奏している例を、数多く見受ける事が出来ます。

舞台芸術という意味で、
表現をオーバーにするという意味と、文章をそのままに表現するために結果として表現がoverになってしまう・・・という事はその意味が全く違います。

舞台での表現方法としてのoverさは、舞台芸術におけるホール効果・・・、ホールが大きくなって、聴衆の人数が増えれば増えるほど、表現はオーバーに表現せねばなりません。それが、言葉で演技を伝達する上での、neckになるのです。
歌舞伎が被く(かぶく)理由の一つでもあります。

ですから、逆の読み方で、先ほどのnotes inegalesの奏法にしても、non-vibrato奏法にしても、言葉と表現上の問題ですから、
「その言葉の表現がどういう風に表現すれば自然になるか?」という事に着眼点を移して、書かれている文章を読み直すと、意外と、当たり前の事しか、書かれていない・・という事に事に気づきます。

notes inegales( inegales奏法)と呼ばれる奏法なのですが、C.P.E.Bachによると、同じbeatが単純に繰り返されるpassageの場合には、その拍をskipして、(正しくは、swingして)奏する・・・という原則があります。

特にMenuettの場合に出てくる8分音符の例等です。
参考までに:「la folia」 chaconneとla foliaについて


また、baroqueの弦楽器の場合には、「vibratoをかけないで演奏する。」という事が、一般的なのですが、実は、楽器の演奏に留まらず、声楽、それも複数の人数で合唱するオペラやcantata等の、chorusの部分も、弦楽器と同様に、vibratoをかけないで歌うのが普通なのです。

それに対して、baroqueの音楽を演奏しているにも関わらず、modernviolinと同じように、或いはそれ以上に、vibratoをして演奏している演奏家も、たまにいたりして、
「まだ、まだ、だなあ?」と思う事もあります。
しかし、その理由は、「baroque音楽で、何故、vibratoをしないのか?」という理由が分からないままに、当時の慣習として、non-vibratoで演奏されていると思い込んでいるからなのです。

人々の勘違いが、ただ単に、「vibratoを用いないという理由」を、当時の慣習とするならば、それでも許されますが、もっと酷い例では、音楽技術は時代と共に発展して来たという思い込みから、「何故、baroque音楽では、vibratoを用いないのか?」という理由を、「baroqueの演奏家達は、未だvibratoが演奏出来る人が少なかったから・・・、」とか、「vibratoが未だ一般的でなかったから、」等と主張するperiod奏者も、(日本のperiod奏者のみならず、世界的に見ても、)未だに多くいて、baroque音楽の研究者としての私の立場としては、甚だ困ってしまいます。
「おお、神よ!許し給え!!彼らは自分のしている事が、分からないのです。」


baroque時代にも、vibratoは使用されていたのですが、その使用法は、
「全ての音にvibratoを掛ける」というこんにちの奏法とは少し意味合いが違います。
こんにち、使用されているvibratoの意味は、
「音を膨らます」・・・「音量を出す」・・「音を豊かにする」、・・・という意味に他なりません。

しかし、baroque時代の奏法で、「音を膨らます」・・「豊かにする」・・という役割は、vibratoではなく、konsonanzがその役割を担っていました。

このkonsonanzによる奏法は、viola da gamba等の大型の楽器でよく聞き取る事が出来ますが、それを小型のviolin等の楽器でkonsonanzを表すのに、
歌の奏法である、messa di voceの奏法を使用して演奏します。

小型の弦楽器では、どうしてもkonsonanzの響きが弱いので、その感じを演奏で真似をして演奏します。
それで、通奏低音のviola da gamba等のkonsonanzに整合させる分けです。
つまり、
音を膨らます、豊かにする・・という役割は、vibratoではなく、messa di voceの奏法でしていました。

vibratoの役割は、本来のvibratoの他に、特定の音を強調したい場合(accentvibrato)や、上手に収めるための表現(句読点の表現ゆっくりしたvibrato等)をする時に、vibratoでその表現をしたのです。
Cembalo等のvibratoが出来ない楽器では、trillやmordent等がその役割を担いました。

それが、当時のvibratoの役割でした。


必要最小限で最大の効率を表す事・・・それは、歌舞伎や能の世界にも、・・或いは茶道や華道にも、相通じる世界です。


強勢を表すvibratoや弱拍や収めを表すvibrato、・・・つまり、vibratoの掛け方は、trillerやmordentの奏法に準じます。

ですから、modernviolinの場合のように、音量を求めて、常にvibratoをかけ続けるような雑な演奏のstyleではなく、必要最小限の場所に必要、最小限のvibratoを使用したのです。

それが、こんにちのvibrato過多の演奏に慣れた人達に取っては、vibratoを演奏出来なかった、という風に誤解されて来てしまったのです。

何故に必要最小限にしか、vibratoやornamentを用いなかったのか??という事は、baroque時代の音楽の様式からその理由を見出す事が出来ます。

今ご説明して来たように、一般のviolinの奏者達は、vibratoは、音を豊かにする・・・という意味だけを捉えて、vibratoを掛ける事でのマイナス面を、理解していないことも、baroque音楽を、non-vibratoで演奏する・・という事が、vibratoをするという事よりも、劣っていると見做してしまう要因になっています。

これも、コロンブスの卵に過ぎない理由なのですが、それが一般的に言われた事は、こんにちまでないのですが、
「baroque楽器の演奏(period奏法)では、原則としてvibratoをかけない」・・という事の理由については、baroque時代は、弦楽器のensembleは、殆どの曲で、純正調で演奏した・・という事をしっかりと抑えておけば、分かる事なのですよ。

曲を純正調で演奏すると、vibratoを入れてしまっては、純正調の和音の美しい響きが壊されてしまいます。
vibratoを入れて演奏したら、純正調も平均律もあったものではないのですよ。
それぐらい、音の響きが乱れてしまうのです。

MunchenのKarl Richter教授が率いるミュンヘナー・カンマー・コアーは、chorusの歌い手達がvibratoを入れて歌うと、純正調の美しい和音の響きが失われてしまうという理由から、音楽大学の声楽科の卒業生を採用しなかったので有名です。
このお話は、Karl Richter教授が、Munchenの音楽大学の食堂で、彼自身が、私に直接話してくれた(説明してくれた)事でもあります。

このPageからもYou Tubeにlink出来ますが、私の率いるAshizuka-Kammer-Streichorchestraの、「Corelli=Geminianiのla folia」の演奏では、orchestraで
vibrato無しの純正調のharmonyから、vibratoを入れたmodern奏法に突然、changeするという、純正調と平均律の対比の極めつけの演奏をしています。

曲の至る所で純正調のvibrato無しの響きのpassageと、通常のmodernviolinの奏法でvibratoを入れて演奏しているpassageを対比させて演奏しています。

曲の途中で、soliの人達以外にも、
orchestraを演奏する子供達も含めて、現代の弓の持ち方から、baroqueの弓の持ち方に変えたりして、演奏をしています。(流石に、音楽が趣味の生徒達なので、baroquebowを全員に買わせる分けにはいかないからね!!)

基本的には、一つの曲の中で、こういった時代を超越した、時代錯誤的な演奏をする事はありません。
古式豊かに、period奏法で演奏するのなら、常に純正の和音でbaroque奏法で演奏するし、modernの奏法をするのなら、baroque奏法を途中に持って来る事はありません。

という事で、この演奏は定石を覆した演奏でもあります。
でも、今のところ、誰も、その演奏を疑問に感じてくれた人はいません。
まあ、しかたないか???


結論的に言うと、勿論、baroque音楽でも、必要なpassageには、vibratoは入れますし、ensembleではない、soloの楽器の演奏の場合には、vibratoはもっと多用されます。

だから、
「baroqueの時代は、未だ弦楽器の黎明期なのだから、vibratoの奏法が出来なかったのだ」・・という主張は、「今の演奏が古典の人達の演奏よりも優れている」・・といったような無知蒙昧な演奏家達の「baroqueの人達よりも、自分達の方が、技術的にも音楽的にも優れている」・・・と言った、自己満足的な自惚れの考え方なのですよ。

音楽の歴史は、様式の歴史でもあります。
近現代の曲を、何気なく演奏出来る技術を持った奏者が、baroqueを演奏して、その難しさにあたふたしているのを、よく見る事があるのです。

演奏の技術はそれなりに時代、時代で難しいのですよ。

音楽のinterpretationでは、至極、当たり前の事ですが、
「何故、baroque音楽ではvibratoをしないの?」という事について、その理由となる根本を見出すことが出来なければ、その演奏表現は、eccentricな演奏になってしまうのは、当たり前の事です。

また、baroque音楽を演奏する人達の、もう一つの大きな勘違いは、音を伸ばす時の大きな不自然な膨らましがあります。
しかし、その奏法はbaroqueviolinだけではなく、日本人の演歌の弾き方とも相まって、まるで小節のように不自然な奏法として、日本人の音楽家の間に蔓延してきました。

Berlinフィルのconcertmasterであり、ベルギー派の名手でもあるSchwalbe教授は、以前から注意しているこの誤りの演奏法が、20年経っても改善されない事から、この誤った弾き方の事を
日本の音楽家達の治療不可能な奏法として、「エイズ奏法」と呼んで、「あなたはエイズに罹っている!」と言っていました。

「G線上のaria」とか「タイスの瞑想曲」とかの冒頭の音を、膨らまして演奏する方法は、常套手段としてよく見受けますが、それと、不自然な膨らましによる、所謂、エイズ奏法とは根本的に違います。

それとbaroqueの音の伸ばしの時にも、よく膨らましをしますが、その場合の膨らましは、作為的に弓の力で膨らますのではなく、konsonanzの倍音の膨らみを利用して膨らますのです。
この奏法を、
messa di voceの奏法と言います。

元来は、声楽の奏法だったのですが、baroqueの早い時代に失われてしまって、今は、声楽の世界ではこのbaroqueの特有の奏法は、voicetrainingの方法として残っています。

勿論、viola da gamba等の楽器でも、このmessa di voceの奏法は頻繁に使用されていて、声楽のみならず、弦楽器の世界に於いても、膨らましの奏法として演奏されています。

多くのbaroqueviolinの奏者が実際に演奏でやっている膨らましと、
「baroqueのviolinとは、長い音符は膨らまして演奏するのだ。」と、思い込んで、あたかも演歌のように押さえ込んで膨らましている奏法とでは、音楽上の演奏表現としては、言葉としては、全く同じような「膨らます」・・・という言葉で、表現されはしますが、その表現は、「似て非なるもの」の代表のようなもので、正しい膨らましと演歌っぽい不自然な力んだ膨らましでは、月とすっぽん程は違うのですよ。

しかし、その誤った奏法の意味の違いを知っている日本人のviolin奏者は少ないのですよ。
師匠から学んだその誤った奏法を、ひたすらに
「それが正しいbaroqueの奏法だ!」と信じている・・・今流行りの、変な新興宗教に凝り固まっている人達に似ているのかな??
しかし、それは、所詮、無知のなせる業なのですがね??
アハッ!









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2018年8月18日

「動画の編集作業に関してのコモゴモ」
もうそろそろ深夜の3時である。
深夜の3時というのは、金曜日の夜の事か、土曜日の明け方の事なのか定かでは無いのだが、もうかれこれ24時間近く、たった1曲、15分程度のVeraciniのpassacagliaの動画を延々と編集をしている。

もう既に、同じVeracciniの動画を5本も完成稿として、作ってしまって、You Tubeにも3回も、uploadと削除を繰り返している。
勿論、同じVeracciniのPassacariaの動画の話である。

その後、4日経っても未だに、色々と編集とcheckを繰り返していて、今日はOrganの傍で音を拾っているmicからの音声を削除して、violinの音を拾っているmicだけにして、編集をやり直したのですが、編集の段階では中々上手く行っていて、「今度こそ!!」と思ったのですが、mp4にupした途端にビビり音が出て来るのですよ!!
マジ参ったな!!

動画の編集で、四苦八苦している原因は、「音割れ」や「音の歪」である。
何度、音声の編集のsoftで、手直ししても、「歪」や「ビビリ音」が取れないのだ。

外付けのmicで録画している時には、勿論、headphoneでちゃんとmonitorをして収録したのだが、その時にも、それから編集の段階でも、編集softの中ではそれほど気になるような歪や音割れは出ていないのだよ。

しかし、最終的にMP4にした途端に、何回挑戦し直しても音割れや歪が出てしまうのだよ。
根本的な原因は、編集softの問題ではなくって、displayの液晶画面のせいではないだろうか??・・という事で、bluetoothのearphonesで携帯で聴いてみたのだが、やはりビビリ音や歪は出ているようだ。

確かに、液晶画面の共振は出ているので、Double-punch・・どころではなく、triple-punchになっている。

noiseを取るための、動画の編集作業は、私の技術力や編集softの良し悪しを除いても、手間暇が掛かる割には、思ったようには上手くは出来ない。
noiseの編集に関してのadviceをnetで調べても、良いsuggestは見つからない。
netでのadviceとしては、基本的には、最初のcameraでの収録の時に、編集作業が要らないぐらいまでに、angleや音声をしっかりとcheckしておく事だそうな・・。それが出来ればそりゃあそうだろうよ!!

普段、私のlessonの場合には、通常のlessonの場合のみならず、オケ練習や室内楽の指導に関しても、毎回撮影している。
検見川教室での、これまでの撮影の位置では、オケ練習に参加している生徒達全員がangleに入らないので、狭い部屋を目一杯撮影するために、広角レンズ(wide-conversion-lens)を取り付けて撮影してみたのだが、画面を目一杯にwideにすると、画面が円形になって、四隅が切れてしまう。
これをケラレというのだが※)、これを編集作業の時にいちいち取るのは結構、一手間なのだよ。
撮影をする時にケラレが画面に入り込まない位置までwide画面を少し戻すと、その一手間が無くなって、仕事の効率としては良いのだが、最初にvideoのangleを決める時に、誰かがその作業をしなければならないのだが、結局の所、その作業も私がやる事になるので、とてもとても無理な話だよ。

オケ練習の下準備の作業を私が指図をしなくても、皆が自主的に準備が出来るようになれば、私は、そういったチョッと難しいきめの細かい作業をすれば良くなるのだけど、今の段階では、生徒達に任せてしまうと、準備に30分以上も掛かってしまう。
それでは1曲分の練習がぶっ飛んでしまうからね。
それならば、「子供達が自主的にちゃんとオケ練習の準備が出来るようにすれば良い」と思われるかも知れないが、それはそう簡単な事ではない。

時々、親からの教育相談を受ける時に、「うちの子供は非常に特殊な子供なので、先生達も始めての事と思いますが・・」という前置きで始まる生徒の相談がある。

学校教育でもそうなのだろうけれど、私達のような音楽教室でも、毎年、その特殊な生徒で、「うちの子供だけ・・」を指導しなければならない事は、とても多いのだよ。
親にとっては、初めての子育ての経験でも、こちとら所謂、指導者は毎年似たような生徒達の指導をしているのだよ。

事、教育に関しては、学校の新入生でも、社会人の会社の新入社員でも、0からのstartには変わりはないので、毎年、0からの指導になるのだよ。
それに、問題のない生徒で、教室のcurriculumにちゃんと乗っている生徒達は親も子供も相談に来る事はない。
教室のcurriculumや、指導のsystemに乗っていない生徒が、当然相談に来るのだが、curriculumに外れた事に対して、相談されるので、そのlectureは難しい。

オケ練習のhow-toに関しても、そういった初級教育を受けてきた上級生達のgroupならば、私が口出しをしなくても、自主的に準備も練習も出来る。
そこは当たり前の事なのだが、そこまで育てるのは容易ではないし、当然、時間も手間も掛かるのだよ。

学校や会社と同じで、オケのgroupは毎回新しいmemberになるので、生徒達にとっては、常に、色々な新しい事を、初めて学ぶ分けなのだよ。

指導されていない事が、出来ないのは極めて当たり前なのだよ。
そこを上級生がcoverして、後輩の指導が出来ると良いのだが、上級生は上級の曲にならないと来ないしね・・??
それ以上に、昔の生徒達と違って、中、高生の3年時になると、進学の問題でオケの練習にさえ、来なくなってしまう。

という事で、なにか新しい事をしようとすると、その全部が私の負担になってしまう。
先生達が手伝えば良さそうなもの・・と思うかも知れないが、先生達がオケ練習の下準備を手伝うと、子供達が準備に30分も掛かってしまうのだよ。
そこの教育も大切なので、そこを手抜きする分けには行かないのだよな??

orchestraの練習の最初と最後はどうしても、準備と後片付けが必要なので、その分の時間(loss-time)が必要になる。time-tableには、そのloss-timeを書くように言っているのだが、今の生徒達は、お迎えの時間が絶対時間としてあるので、そこから逆算して時間を出している。
しかし、幾ら、理想の時間をtime-tableに書いたとしても、現実は、そのlagは取り去る事は出来ない。
私の感覚では、lagを含んだtimeが現実のtimeであり、それをtime-tableに書くべきと思うのだが、板挟みになってしまっているようだ。
orchestraや室内楽は、集団教育の場なのだから、time-tableを先に書いて、出れない場合には、出なければ良い・・というのが私の考え方なのだが、少子化の現代では、人数が少な過ぎるので、無理が罷り通ってしまう。
少子化になると、個が大切にされ過ぎて、集団の教育が疎かになってしまうのは、今や学校教育のみならず、社会現象としても、問題になってしまっている。
しかし、そこで日本人は大切な事を忘れている。
そういった風潮は、日本が少子高齢社会である事に根ざしているのだから、globalstandardな世界的な視野では、成り立たないのだよ。
益々、日本が世界から孤立してしまうのだよ。

このお話は発表会のsettingでも同じ事なのだけど、・・Veraciniの音取りをするにあたって、先ず、オケ練習用に置かれているKontrabassやKeyboard、その他、video-cameraのangleに入ってしまうものを全て、angleの外の横に移動して場所作りをしなければならないのだが、その移動が一手間なのだよ。それだけならば、作業をするのは先生達なのだから、れでもそ一瞬で終わるのだろうけれど、その間に、全く新しい作業をしなければならない。

つまり、その間にはvideo-cameraのangle決めは出来ないのだからね。
本当ならば、PAはPAだけを担当する人がいなければならないのだよ。
発表会でもvideo-cameraのsetや、編集まで私が一人でするのはとても無理なので、業者を雇っていたのだが、発表会の出演者の人数も減って、予算的にも無理になって来たので、私がvideoの編集までも、代わりにやる事になってしまった。video-cameraのsettingだけではなく、CembaloやPianoの位置決め、近頃は大人楽屋の整理まで、一人でやっているのだよ。
教室の生徒の人数が減って、ベテランの生徒達が少なくなって、下準備に子供達の手が回らなくなってしまったからだよ。
少子化は、教室としてはモロだよな〜ぁ!!

それでも、少子化!、少子化!と言って、小学校のclassが10classから、僅か2classまで減っても、小学校が閉鎖統合されても、教室はあまり影響なくやって来れたのだけど、今の教室の問題は子供達というか、親の教育に対する考え方が変わってしまった事に根本的な原因があるように思われるのだよ。

原発の問題でも、年金の問題でも、それが表沙汰になった時には、もう既に遅いのだよ。
日本人は、それが分からない。
教育の崩壊も、文科省は、もう既に予測しているのだよ。
一般の学校の先生達が知らない・・・知ろうとしない・・だけの事なのだよ。だって、今更、全く違うsystemを勉強しろ!」と言われてもね〜ぇ??
でも、後2年後にはそれが現実の問題になって来る。
もう、否応無しに・・だよ。恐!!

      

micの位置が悪くて、音の歪が取れなかったので、編集の段階でnoiseを取ろうと試みたのですが、何度やっても、うまく行きませんでした。You Tubeにuploadを、3回もやり直してしまいました。それだけではなく、編集をしている液晶の画面とpipeorganの音が共振をして、headphoneで編集をしたのですが、それでも、中々上手く行きませんでした。
8回目にはOrganの方のmicを諦めて、violinの方のmic1本にしてnoiseを取ったのですが、やはり、編集softの中ではnoiseは取れるのですが、mp4にした途端に歪が出てしまいます。流石に、諦めてしまいました。
・・という事で、編集では無理で、生録の状態からやり直しをしないとダメだという事が判明したので、次回機会を見て撮り直しをします。
新しく収録するまでの暫定的に、この動画と前回の動画はupしたままにしておきます。
新しく録音を済ませたら、両方のVeraciniの動画は削除します。
何時の事になるかは分かりませんが、暫くご辛抱ください。
data: F.M.Veracini sonate accacemiche Op.2Nr.12 d passacagliaのpipeorgan‐versionです。
basso continuoはAshizuka Yojiの作曲です。basso continuoのRealisationは、日本語の訳がない言葉なので、説明に窮してしまいます。baroque時代のsolo-の曲は伴奏のpartがbasso continuo(通奏低音)しか書かれていません。cello、(若しくはviola da gamba)がmelodieに対しての対旋律を演奏して、Cembalo(若しくはOrgan)等は、左手のpartをcello等のpartを演奏しながら、右手の和音をBasの音符の上に付けられた数字に従って即興で演奏します。その右手を書く事をRealisationと言います。)また、随所に即興で演奏しなければならないepisodeがあり、それも本来は演奏者が即興で演奏しましたが、今では参考として書き込まれた楽譜が出版される事もあります。その他に、装飾を即興で入れる事も必須なのですが、これは一般的には、感性で入れるように見做されているようですが、それは誤りで、articulationの必然性に従って入れなければならないので、感性ではありません。数学的に入って来ます。未だに、baroqueの演奏では、そういった無知に拠る誤った演奏が一般的になされている事が多いのです。失われた技術とでも言うのでしょうかね??
「pipeorganについて」
ちなみに、basso continuoはOrganが伴奏する場合には、continuoの低音楽器は入らない事が普通です。Organの左手が非常に強いから、必要がないからです。
日本ではpipeorganの伴奏というと、教会等のconcerto-Organを想定する場合が多いようですが、実際には、baroque-orchestraのための、continuo-Organというものがあります。
こんにちではbaroqueのorchestraでも、大編成で演奏される事が多いのですが、実際には、baroqueのorchestraは、cantataでも、kammer-orchestraでも、弦楽器は最大でも20名程度の編成です。
basso continuo用のOrganは、所謂、 positiv organと呼ばれるOrganで、最大でも、stop(音列)数が4’、8’、8’、16’の二段鍵盤で、通常はstopが2個の4’、8’の一段鍵盤がorthodoxでした。
日本ではこう言ったcontinuo-Organ、所謂、 positiv organというものが全く知られていなかったので、日本の帰国したばかりの当時、私が黒田Organの黒田社長にお願いして作って貰いました。(とは言っても、pipeorganのpipeは西ドイツのクライス社製です。)
日本初(世界初??)の移動式 positiv organで、非常にcompactなのですが、映像で見られるpipeは私のideaで、閉管にしてあるので、実際のpipeの長さはこのpipeの長さの倍の長さになります。(理論気柱と言います。)
閉管にする事で、pipeの長さが半分にする事が出来たので、重さもかなり軽量にする事が出来ました。

演奏はviolin、斉藤純子、 positiv organ、萩元美紀2018年8月16日千葉市京成検見川の教室での収録です。



sab‐cameraのmicの位置がpipeorganに近すぎるので、howlingしているのかな??と思ったら、mainの4K‐cameraもtestしてみたら、よく聴いてみると既に音割れしていた。
sub‐cameraのmicの性だけではなく、pipeorganの音が近場で収録すると、そうなるらしい。
そうなると、撮り直しても無理だという事なのかな??


またまた、文字の入力が出来なくなってしまった。Facebookは本当になんとかならんのかね??

パソコンの音の歪や音割れは、動画の編集以前にパソコンやテレビのmonitorの液晶と共振しているのが大きいようだ。
液晶画面に共振しているので、音割れや音の歪がよく分からなくなってしまっている。
pipeorganの音と液晶画面とが、共鳴してしまっているのだよ。
これは超困った!!
という事で、earphonesを出して、音をcheckしてみた。
確かに歪は出ているのだが、差ほど気になる程度ではない。
音声のsoftを使用しないで、映像のtrimmingだけをして、testをしてみた。編集softの段階では、音の割れは出ていない。
しかし、mp4に変換した途端に音の歪と割れが出てしまった。
つまり、編集softや音声softのせいではないという事なのだよな??
それなら、やっぱり録音のし直ししか解決法はない・・という結論だよな?
これはとんでもない事になってしまっっった。(これはkeyのreleaseが遅いと、勝手に同keyを連打した事になってしまう現象です。)((((((((((((((てな具合に・・・・・・・・・・・・・))))))))))))




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2018年12月23日 3:35

「periodとは違うbaroqueや古典派の音の出し方」

violinという楽器が出来たbaroque時代から、古典派の時代まで、弦楽器の音の出し方、否、pianoや管楽器に至るまで、音の出し方は、今日の弾き方とは、全く違う弾き方をしていました。
言い方を変えると、音に対しての考え方、感性が、今日の日本の音楽家とは全く違っていた・・・という事なのです。
その事は当時の作曲家の曲の調性の好みからも知ることが出来ます。...
baroque時代から古典派の時代までは、弦楽器の音が、konzonanzで、よく響くような調で、曲が書かれていました。
Beethovenの次の時代からは、楽器の響きよりも、曲のimageを活かすための調、調の持つ音の色の特性を生かすように、曲の調性が選ばれるようになって来て、必ずしも、楽器がよく響く・・という事は、二の次というどころか、ロマン派の作曲家達は、寧ろ、弦楽器の響きを抑えて、霧にけぶったようなunsichtbarな音を求める事も多くなって来ました。
つまり、それまでの明確で明るく輝かしい音から、より渋味のある音へと、音に対しての考え方が、変わってしまったのです。

しかし、そういった時代背景とは裏腹に、ヨーロッパの人達の多くには、脈々と伝統としての音に対してのimageが残っていて、往年の大家と呼ばれる人達は、そういった伝統的な演奏も、極めて、自然に演奏する事が出来ました。
これが、ヨーロッパの音楽を、伝統的なgroundから追求する事の出来ない日本の音楽家との多きな違いかも、知れません。
とは言っても、元祖であるヨーロッパの演奏家達にしても、音楽のルネッサンスは1990年辺りからに過ぎません。period奏者と言えど、未だにエキセントリックな非常に不自然な奏法がperiod奏法として罷り通っているのですから?





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全く眠れない日々が2,3日続くと、今度は惰眠のように、起き出してパソコンの椅子に座った途端に、意識が飛んでしまう日々がまたまた2,3日続く・・という、困ったroutineを繰り返して、病気療養のbalanceが全く取れません。
昨日、今日は眠れないroutineで、療養中という事で、仕事が全く手に付かないので、激しい自責の念(つまり鬱という事ですかね?)に襲われてしまって、何とか「療養中なのだから・・」と自分自身に言い聞かせてはいるのですが、夢の中で迄、自分自身が、苛まれてしまいます。

仕事をする気力が出ないのなら、せめての事で、気力、体力を使わない軽作業という事で、16年の1月の14日にarrangeをした Handel-Ashizuka-versionのpassacagliaという曲なのですが、パソコンの音源として16年の1月にYou Tubeにuploadしましたが、1年後の、17年の4月の発表会で、やっと教室の生徒達の手によって、演奏をする事が出来ましたが、パソコンの音源の音とは違って、曲の後半部で擬古典のstyleになった所から、オケが...分厚く成り過ぎてsolo(soli)の旋律が活かされていなかったので、2台のfluteと、continuoのcelloとcembaloのversionに、今日、眠れぬままに、深夜にオケバックのpartを簡明に訂正をし直して、そのままYou Tubeに新しくupしました。
但し、使用している写真は、以前、パソコン音源としてYou Tubeにuploadした長崎への旅行の時の写真をそのままに使用しています。
つまり、音声だけの変更です。
Passacaglia Handel-Ashizuka Concerto Grosso fur 2flute2019年1月11日PC音源


2017年の4月の発表会でのHandel=Ashizuka-versionのPassacagliaの演奏 You Tubeです。


しかし、まあ、それにしても、baroqueのpassacagliaはなんと、patheticなのでしょうか??
パソコンの音源と分かっていても、ついつい心打たれてしまいます。
fluteを弾いてくれる人が二人いるのなら、音人の会で演奏したいのだがね?後は、弦5部とcembaloの6人が居れば室内楽として演奏可能だけどね?

更に、1月9日と11日に改定renewalしました。

https://www.youtube.com/watch?v=jDHMuxT1t9w&fbclid=IwAR35eXOjdDPciH5z9NLXWhTVV1BSUKT7BTmImK3flPPJM91iCVWiRYNdSj8
Handel-Ashizuka passacaglia 2台のflute version2019年1月11日パソコン音源



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2月26日VeraciniのPassacagliaについて
今回の発表会のprogramのオケ・トリの曲であるVeraciniのpassacagliaなのだが、その曲に初めて巡り会ったのは、私がまだ若かりし頃、25,6歳のドイツ留学中の頃に、Munchenの中心の聖マリア教会の傍の楽譜屋で古いLupi=ルピ版の弦楽オケの楽譜を見つけた時に・・・である。
楽譜を見て、その曲を気に入って購入したのだが、その時には楽譜は既にもう充分古く、既に楽譜の紙は黒く変色し始めていた。
その楽譜は、曲としてもstoicで、演奏も難しいので、私の蔵書の中で、45年近くも、一度も陽の目を見る事もなく、休眠したままになっていた。
その長い眠りの間には、その曲のoriginalの曲(元曲)である「violinと通奏低音」の楽譜も手に入れたのだが、余りにも重厚な曲であるために、その曲を演奏するのは、発表会は勿論の事としても、periodのbaroqueの演奏会としてのrepertoryとしても、演目に載る事はなかった。

私が、超、super、ultra重厚な鬱々の・・「この曲を演奏してみよう?」という気になったのは、私の生徒の一人が、このVeraciniのoriginalのPassacariaの曲を彼女の「好きな曲」として、教えてくれたからである。
「そうか?この曲の良さが、中学生でも分かるのか?」と、生徒に後押しされて、早速、楽譜棚の肥やしになっていたLupi版のオケの曲を、発表会で演奏する事にした。

Lupi版は、Veraciniの原曲の1/3の長さにcutされていて、発表会という舞台であっても、堪えられる長さになっているので、それも、この曲の選曲の後押しをしたのだ。

生徒達に楽譜を配って、練習に入った段階では、「曲が暗い!」とか「かったるい!」とか、非難ゴウゴウであったのだが、練習が進むにつれて、曲の良さが分かって来て、曲に対しての評価はすこぶる良いものになって来た。

そこまでは良しとしても、実際にLupi版のpassacagliaの練習を始めて見ると、余りにも楽譜の間違いが多い事に辟易させられてしまった。

擬古典にするために、わざと不自然に鋭い音にしているのか?・・それとも、単なる楽譜の間違いなのか、それも出版社の間違いなのか?編曲者の間違いなのか??・・悩まされる事が余りにも多く、この手の楽譜の常として、訂正に次ぐ訂正の連続になってしまって、ついに、全面改訂版を作成せざるを得なくなってしまったのだよ。

生徒達の頑張りで、何とかLupi-芦塚versionとして、1年後の16年の4月3日の千葉の文化センター・アートホールの発表会で、演奏を果たしたのだが、Lupi版の編曲に納得が行かなくなった事!
original版の出版されている曲の楽譜が、全てcembaloと通奏低音の編成で、基本的にsolo-violinと通奏低音のCelloの二声部に、和音が書き加えられただけの書法なので、曲のimageに対して、音楽の厚みが薄っペラいので(・・でも、それが通奏低音の書き方なのだけど・・・??)出版されている楽譜のCembaloのpartの作曲に納得が行かなくて(・・いや、それが通奏低音でしょう!!)、それとは、別の・・全く関係のない理由なのだけど、・・私のoriginalのpipeorganが、何時までも使用される事が無く、一般の人達の目に触れる機会がないので、Veraciniのpassacagliaを、pipe-organの伴奏で書く事を思いついた。

最初に斉藤先生に、そのideaを話た時には、斉藤先生からは、「violinとpipeorganの音量的に無理?」との反対があったのだが、positive-organの意味を説明して、折衷案として、baroque-violinではなく「modern-violinで演奏をする」という事で納得して貰った。

このOrgan-versionの一番originalに近いと自負しているpassacagliaの公演は、発表会等での公開演奏としての企画では、曲がstoicで、重過ぎて、一般の聴衆を対象にする演奏会しては、ととても舞台に乗せるのは無理なので、検見川教室の私のpositive-organで、萩元先生の伴奏で、YouTubeにupする事で、演奏会の代わりにする事にしました。

私のこのpassacagliaのorgel-versionは、原曲のままの全曲版なので、四部に渡る大変長い曲になります。

録画録音の時のvideo-cameraの位置と、organとviolinの音量の兼ね合いが非常に難しく、violinの音量をmainに録音すると、Organの音が割れてしまって(videoの映像では音割れはないのだが・・)、mp4に変換した段階で、どうしても音割れしてしまうのだよ。
2回のvideo撮影にも関わらず、Micの位置の設定等に失敗してしまって、もう再度の撮り直し(3回目)が出来ないままになっている。まあ、部屋が狭いので、録音が困難なのは当たり前なのだけどね??



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2019年2月26日Veraciniのpassacaglia 「続き」
originalの曲であるviolinとOrganの曲の、positive-pipe-organのorganのpartを書きながら、ほぼ、同時進行的に、弦楽orchestra用のscoreを書き始めた。
曲の全体的な構造は変わらないから同時に曲を作曲する事は、同じ手間なのだからである。

「演奏形態について」
一番悩んだのは演奏形態で、愛ちゃんが「オケsoloの曲が欲しい」というrequestがあったので、そこはちゃんと押さえた上で、「soloと弦楽オケ」や、「Concerto Grosso」のstyleや、幾つもの、演奏形体を試行錯誤し、書き直した。
結果的には、Quartett+弦5部という演奏形態の形式になったのだが、baroque時代には無かったstyleの音楽の演奏形態の形だったのだが、ViolaをCello(gamba)の代わりにcontinuoにする・・というのは、古典派の時代にはよくやられていたので、Vivaldiのa mollのdoppel-concertoの時にも、Violaをcontinuoに据えてやった事は、何度かあるのだが、流石に、「Quartettをsoliに置く」という演奏のstyleのversionはbaroque時代には、存在する事は無かったので、一度は躊躇した演奏形式だったのだが、これまで、とても良い状態で子供達のQuartettのgroupが育って行っているので、baroque時代としては有り得ない形式なのだが、それを無視して(承知の上で、教育的な意味合いを込めて)、quartet+弦五部という演奏形態にする事にしたのだが・・・、まあ、それはそれで、致し方ないか?

「音楽形式について」
baroque時代の当時の楽曲形式としては、originalのviolin・soloと通奏低音という音楽形式では、kammersonata(室内ソナタ)とkirchensonta(教会ソナタ)の二つの音楽形式がbaroque時代にはある。
kammersonataは、民衆の(と言うか、貴族階級の民衆という意味なのだが)音楽の形式なので、舞曲を中心として急緩急緩のtempoの設定で、それぞれの曲が組み合わされる。

それに対して、kirchensontaは、壯重な緩徐楽章から始まり、それぞれのpartが独立してmelodyを演奏する複音楽=polyphonyの音楽として演奏される。
当然このpassacagliaは、polyphonyのkirchensontaの形式の音楽である。

「Veraciniのblack-humorについて」
ただ、この曲の中間部(第二曲目)には、突然、民衆の音楽であるはずの、hurdy gurdyかbagpipeの伴奏で演奏されるような民族音楽の様式が突然、挿入されて、あるべきはずの音楽ではない音楽が顔を出して来る。
多分、Veracini先生の趣味=jokeなのだろうが、当時の人達はどういう顔をしてそのpassageを聴いたのだろうか??
笑える!!
「笑える!」と、いう意味は、kirchensonataであるこの曲が演奏される場所は、神聖な教会の中であるはずなのだからだ。
つまり、その音楽にとっては、教会で演奏するという事は、非常に不適切な場所であるからなのだ。
教会の神父さん達が、苦虫を噛み潰したような顔をするのが目に浮かぶ。
今では、・・と言うか、キリスト教の歴史の浅い日本では、このBlack-humorの重さは分からない!
・・・というか、当時からとすると、下手をすると十字架の刑(はりつけ)になって、命を失なったかも知れないBlack-humorなのである。

「練習について」
いつもの事で、悩んでも詮無い事ではあるのだが、練習の度にmemberが違って、前回や前々回に注意した約束毎を繰り返してlectureしなければならないので、非常にresponseが悪い。
前回のオケ練習(2月24日)では、この難しい曲のあらすじが、やっと、何とか曲(それぞれのpart)が聴こえるようになって来たのだが、未だそれぞれのpartの「入り」は、まだ少し不安ではある。
勿論、member不足という事だけではなく、曲そのものが非常に難しいからでもあるのだが・・。

尤も、今回の練習でも、練習に参加するのが、受験を終えて初参加の生徒や、member変更のために、今回突然に、secondからviolaに、楽器を変更してくれた美音ちゃんのように、楽譜を見る事が初めての生徒が多くいるからでもある。

やっと、「次回からは、それぞれのpartの音楽表現に入れるのかな?」と期待している所である。
しかし、未だ、全員揃った練習は一度もない事も事実ではあるのだが・・・



上の発表会の動画はLupi版を改定したものですが、下の練習中のVeraciniは、originalの元曲から、私が作曲作成したものです。Lupi版は1/3をcutしたものなので、当然、曲的には3倍の長さがあるので、練習も大変です。しても、しても、終わらないのですよ。アハッ!
https://www.youtube.com/watch?v=JiGe-5oMwpI

またまた、書き終えた文章が全部ぶっ飛んでしまった。ほんとFacebookの不安定さは腹が立つよな??

hurdy gurdy=ハーディ・ガーディと言ってもどんな楽器か分からない・・と言われたので、写真を載せて起きます。空を飛ぶdroneではないのですが、持続する音(drone)の上にmelodieを演奏するのは、bagpipeも同じです。Bachのイギリス組曲の第V番のト短調(g moll)のgavotteUや、第Y番のニ短調(d moll)のgavotteUにも、左手にdroneのpassageが出て来ます。第V番のgavotteUには、ou la Musetteと書いてありますが、Musette de cour 若しくはbaroque-Musetteとはbagpipeの事です。「農民の楽器」として知られています。



この楽器の場合には、右下の2本の弦がdrone弦で、上の鍵盤でmelodieを弾きます。真ん中の駒の後ろの大きな円盤はhandleで回転して持続した音を出します。
https://www.youtube.com/watch?v=Mpe8YQVkdYE

このhurdy gurdyという楽器は、Schubertの冬の旅のLeiermann(ライエルマン)という曲や、Beethovenの歌曲の中の「モルモット使い」という曲のLeiermannにも登場します。hurdy gurdyを持って旅をする辻音楽師の歌です。左手の保続する音はhurdy gurdyのimageです。
https://www.youtube.com/watch?v=sIIS-UgixGE

そういえば、梨紗さんのお友達(か先輩か単なる知り合いかよくわかりませんが)が、古楽器にはまって、ハーディガーディを演奏しまくっているようですよ。生の演奏は聞いたことが無いので、是非演奏会があるなら聞きに行きたいですね。

hurdy gurdyを演奏会場で聴く・・って??そりゃあ、有りえへんわ・・??

なんでんかんでん、芸術になるのは、どうもいただけんのやんねん!

確かに、そこら辺の道端でストリートパフォーマーとしてとか、お祭りでパレードしながらとかの方がしっくり来ますよね。




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2019年7月20日 3:59「摂眠障害」
深夜の2時に寝て、二時間も眠っていないのに、toilet-timeに目が覚めて、起き出してしまった?
部屋の温度が合わないし、鼻づまりと意識混濁状態で、体が動かないし、空気が重たいので、お風呂に入って、首を温めて、髪の毛を洗った!
クーラーは切っているのだが、なんとか、熱中症にもならないで、堪えているのかな??
「私の作品が紛失した。」
一昨日、金曜日の夜は、事務所のArchivに、私のViolinのduo集の導入の1,2巻や、他の作品が見当たらなくって、自宅のハイツの本棚の私のcornerを引っくり返して探す事になってしまった。
Violinのduoは演奏会用の難しい第4巻は見つかったので、今回のおさらい会には間に合いそうなのだけど、finaleに入力する前の時代のパソコンが無かった頃の作品なので、全部、手書き譜なので、間違って売ってしまったのか・・、単純に江古田からのお引越作業の時に紛失したのか・・、いずれにしても、俺の作品が段々と失われて逝くのは、慚愧の念に堪えない!
「homepageの再構築」
homepageはRental-serverで、芦塚音楽研究所のhome-Pageや、「芦塚陽二の闘病記」は、dataは欠損する事なく残っているので、後は、単純にlinkの落ちている所を復活させるだけの作業なのだが、「闘病記」は相も変わらず、serverに何度も設定を変えて送っているのだが、未だに公開されないし、「芦塚先生のお部屋」は論文は、結構、paperのdataが残っていたので、OCRの作業さえすれば、かなりのPageは戻って来ると思われる。
しかし、問題は、肝心要の「楽曲の解説と分析」のPage、所謂、interpretationのPageが殆ど全部がぶっ飛んでしまっている事だ!
こう言った論文的なものは、思い出しながら書く・・と言う程には単純ではない。
「VeraciniのPassacagliaの動画の編集作業と改訂版についての歩み」


昨日は、丸々一日掛かりで、VeraciniのPassacagliaの動画の編集をして、You Tubeにupする所迄やった。
VeraciniのPassacagliaは、MunchenでLupi版の楽譜を手に入れてから、なんとか初演をしたかったのだが、2016年の4月の3日の教室の春の発表会で演奏をした。しかし、Lupi版は原曲の1/3程にcutされたものだし、そのarrangeも酷いものだったので、originalの出版されている楽譜を探して見たのだが、少しはマシな、通奏低音の楽譜でも、所詮はCembaloとcontinuoを想定して書かれているので、imageが合わない。

教室には折角私が作った(この場合の作った・・という意味はideaを提供した・・という意味ですが)本物のpipeのorgelがあるのだから、そのOrganのための楽譜を作ろう・・と思いついた。音量のbalanceの点で、先生からは反対されたのだが、 positiv organではViolinのsoloの伴奏も可能である・・という事で、作曲を強行した。
本来的には、音響の優れたHallやfloorで演奏すべきなのだが、Organを移動させる苦力もいないし、・・という事で検見川教室で録音をした。

Organの伴奏譜を作成する時に、 bezifferten Basは同じなので、愛ちゃんが「自分もsoloの曲が欲しい」と言うので、愛ちゃん用に、室内楽の伴奏とorchestraの伴奏のConcerto Grossoよりも、もう一つ大きな形式で作曲をする事にした。

愛ちゃんにconcerto-soloの曲を決めなかったのは、当時は、まだ、入退院を繰り返していた時期だったので、発表会の当日に彼女が演奏が出来るか否かが不確定で、分からなかったからです。
勿論、soloの演奏の場合には、まあ、彼女が病気で発表会に出席出来なくなったとしても、それによって、被害を受けるのは伴奏者だけなので、soloの場合には、当日のドタキャンも可能出。発表会の進行にはなんの支障もないのですが、オケや室内楽では、一人欠けても、曲全体が演奏出来ない事になって、他の生徒達に多大の迷惑を掛けてしまいます。
オケや室内楽は集団活動の場なのですよ。ましてや、音楽の世界では、通常は、ドタキャンは絶対的に、有り得ないのですよ。
でも、「病気で発表会に出れない」と言う事は、本人のせいではないし、一番、可愛そうなのは本人です。

私達の音楽教室は、proの教室ではなく、巷の音楽教室に過ぎないので、「子供達の幸せを優先させる」・・という事で、「solisteが、本番に病気で出れなければ、当然、お姉さん達の誰かが代奏すれば良い」・・というおおらかな気持ちで、VeraciniのPassacagliaの上演を強行する事にしました。

楽曲を制作するに当っては、一般のPeters版にはよらず、非常に珍しい、originalのfacsimile版を底本にしています。
Peters版はUrtextなのだけど、それでも、Veraciniのcontinuoの数字の付け方が曖昧なので、間違えて和音を書いてある場所が数箇所あるからです。
originalのViolinと通奏低音のCello(gamba)とCembaloの曲からのtransposeは、中々上手に出来た・・と自負しております。
(写真はVeraciniのPassacagliaのoriginalのfacsimile譜です。)



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