このVivaldiの論文は、2018年の9月29日のcatastropheに寄って、indexのPageだけを残して、完全にぶっ飛んでしまって、再起不能になっていたのですが、なんと、斉藤先生がhomepageの中の一部分だけではありますが、VivaldiのOp.8のNr11から、.recitativo
soloに関する論文の一部と、次の非効率な音楽の練習に付いてのPageを、print outして、持っていてくれました。ということで、目下、シコシコと手入力で入力中です。
まえがきに代えて
入力中
VivaldiとVivaldi-methode
入力中
Vivaldi独特の奏法
純音楽と描写音楽
純音楽と舞曲
私の音大時代とbaroque音楽
1点支持と3点支持
violinや弓の改革
一般教育における体験学習
自然体メトードと奏法
baroqueの奏法から古典派の奏法へ
Vivaldiのrecitativosolo奏法 (verschobene TaktとQuerstand)
入力済み
非効率な音楽の練習について
入力済み
音楽と仕事
入力済み
音楽のお話に戻って
模範演奏と思ったのですが・・・
「VivaldiのViolin Concerto in D major Op.8 n.11」は、よく演奏されているので、探して見ると、結構、見つかりますが、modern楽器によるmodernの演奏が多いようです。
このURLの演奏は、一見すると、baroqueviolin(古楽器)によるperiod奏法(baroqueの奏法)のようにも見えますが、modernな要素が結構見受けられる、折衷的な演奏です。
弓もbaroque持ちをしているようですが、弓だけbaroquebowを使っているようで、violinはmodernのviolinで演奏しているように見受けられます。
だから、逆に教室の子供達がいつも演奏しているstyleに近い演奏なのかも知れません。
先生達の場合には、本当の古楽器のstyleで演奏するので、もう少し古いperiod奏法の演奏をします。
Microsoft Edgeになってから、linkのPageが上手く行かなくなってしまったので、然程、上手とも思えないので、このURLは削除しました。
子供達の演奏だけをuploadします。
芦塚音楽研究所千葉教室の発表会での演奏。
2014年10月12日の芦塚音楽研究所千葉教室の発表会の光景です。soloはひかりちゃん(小5)です。
https://www.youtube.com/watch?v=lx2U4oex0Go
https://www.youtube.com/watch?v=QVo80SYjSMQ
2011年10月30日八千代市生涯学習プラザ主催秋のコンサートの光景です。soloはかりんちゃん(8歳)です。
次ページ(これ以降の文章は全てindexのTitleに従って、新しく書かれたものです。
Vivaldiに関しての論文は、アチラコチラのPageに折に触れて書いているので、いきなり「Vivaldi独持の奏法」等と書き始めてしまいました。
この文章を初めて読む人は、baroque奏法と現代のViolin奏法の違いや、baroque奏法の中での、Vivaldiの独特の奏法の違いが分からないと、この文章は難解極まりないものになってしまいます。
baroque音楽とされる音楽が、baroque時代に演奏されていたものとは、大きく違うのは、源氏物語をアニメの映画で見るのと、古文で読むのとの違いぐらいに大きい隔たりがあります。
また、現代の日本での演奏でも、baroque-Violin等による演奏とされているKoncertでも、楽器はbaroque-Violinなのかも知れませんが、演奏自体は、こんにちのViolinで演奏されるbaroque音楽とは、大差がない演奏が普通なのです。
逆の言い方をすると、baroque楽器の復刻の楽器で、baroque-bowを使用して、pitchを415cycleで、演奏したとしても、奏法は現代の奏法で演奏しているので、時代考証的には全く、不可思議な演奏になっています。
さしづめ、関ヶ原の戦いに戦車と機関銃で戦っているような、時代錯誤な演奏が今でも一般的に通用しています。
本当の意味でのbaroque音楽のperiodの演奏が開催されるようになったのは、1990年代からでした。
それ以前にも、先駆的なperiod奏者はいたのですが、それは未だ、一般の認知を受けてはいませんでした。
・・という事で、私の指導の元に於ける、教室の先生達のperiod奏法での演奏活動も、同じ頃の1990年から始まります。
先ずは、江古田教室の直ぐ近場にあった珈琲のお店「珈琲館ブナ」を借り切ってのKoncertを、年に2,3回のpaceで開催しました。lectureと全くmaniacなprogramによるKoncertだったのですが、何時も、超、満席で、お店の外にPosterを貼る前の段階の演奏の日にちが決まった時点で、その日の夕方には客席が満席になる・・という盛況振りでした。
(verschobene TaktとQuerstand)
Vivaldiのこの曲の「recitativo solo」の部分です。
勿論、この「recitativo solo」という言葉は、一般的にはOperaやcantata等の舞台、若しくは教会音楽に対して使用される言葉であり、Concertoの場合には、recitativo soloという言葉が使用される事はありません。
この「recitativosolo」という言葉は、一般的な音楽用語・・・ではなくて、私の造語であり、教室専用の音楽用語なのです。
(Vivaldi等のConcertoに対して使用する場合に於いては・・)という意味です。
cantata等では、一般的にはrecitativo Ariaという言葉で呼ばれています。
そういったcantata等のrecitativoとは全く別の意味で使用しています。
このpassageをsenza vibratoで演奏する事は、演奏する側の生徒達に取っては、Horrorに等しい恐怖心が起こって来ます。
同じ、このOp.8のNr.11のT楽章の次のrecitativosoloの部分です。一見すると、そんなに難しい事をやっているようにはみえないのですが、実は二つの超難しい課題を熟さなければならないのです。
その一つの理由は、verschobene Takt(推移節奏)と言われる聞き慣れない音楽用語なのですが、要するに拍が半拍目にズレているからrhythmがとれないのです。(1,2,3,4と声を出しながらこのpassageを聴いて見ればその難しさが分かります。)
下の譜面に訂正して書き直したrhythm・・・、これが本来のrhythmで、このように3拍目にphraseの頭が来れば、極めて簡単に演奏する事は出来るのですがネ??
そこがVivaldiのお洒落なのですよ。
もう一つの難しさは、和声学で言う所のQuerstand(対斜)と呼ばれる禁則を・ワザと使用して、音を取れなくしているからなのです。
こう言った曲集は、Vivaldiの可愛い生徒達の中でも、上級のclassの生徒達が演奏するための曲です。
生徒達の音感を、より正確に向上させるためには、その逆の、音感を如何に狂わせるか・・というthemaで曲を作れば良いのです。
チョッとした悪戯なのですが、キラキラ星を対斜だけで作ってみました。
パソコンにはplug-inという昨日があって、そのsoftが入っていないと、音声や映像が再生されないようです。
この「対斜によるキラキラ星」は、netから直接開くと音声が聴けるのですが、Facebookのlinkから開くと「対応出来るplug-inが入っていません」というmessageが法事されて、音声が再生されません。これは「開いているパソコンによって、
なので、私のパソコンの設定ではどうにもなりません。もし、音声が表示されない場合には、netからダイレクトに開いて見てください。再生出来る場合には、この文章は無視してください。
melodieはハ長調のママで、なんお変更もしていないのですが、歌うのが超難しいとは思いませんか??伴奏の和音が変わるだけで、melodieはこんなにも変化してしまうのですよ。
Vivaldiがこの曲の中で、その対斜を使って書いたpassageです。(勿論、このpassageだけが、対斜を使用しているので、他の同じpassageには二度と対斜は出て来ません。)これこそがVivaldiの絶対音感のmethodeです。
点線で繋いである音符が対斜になる音符です。
和声学の原則では、同じ音が#や♭で変更される場合には、必ず、同じ声部の音で変更されなければなりません。こういう風に異声部間で音符を変更する事を対斜と言い、和声学では禁則とされます。(対斜は原語ではQuerstandと言います。)
このように、声部を違えて音を変化させると、音程が不正確になって、必要以上に演奏が難しくなってしまうからです。
もっとも、これを演奏が簡単になるように手直しする事は、作曲法としては、とても簡単です。
Vivaldiが演奏が簡単になるように、作曲しなかったのは、Vivaldiが可愛い生徒達のために、ワザと難しく書いたのであって、「いじめ」ではなくて、音感のtrainingの方法の一つであったからです。
私の場合の「子供のためのPianotrioの作曲法では、曲の入りが難しく書かれているのですが、それもtrainingのためであって、このVivaldiの曲と同じ理由なのです。
音楽の世界では、音楽を勉強する時に、「難しい??」「弾けない??」と思ったとしても、それにもメゲずに、一生懸命にひたむきに練習する事を、日本の音楽教育では良しとします。
日本の教育界では、(或は、教育界に留まらず、一般社会に於いても)努力そのものを評価する傾向にあります。
その努力が非効率であって、無駄な努力であったとしても、その努力を続けた事に対しての評価をする・・という傾向が日本の教育界のみならず、社会に於いても存在するのです。
しかし、その努力がどのように評価されようと、実社会では、そういう分けには行きません。
私が生徒達を指導する上で、「物事を正しく考える上での考え方の方法論」は4択マスです。
上の段の項目は、仕事が丁寧か、雑か?の選択肢です。
右側に来る選択肢は、仕事が速いか遅いかの選択肢です。
雑 | 丁寧 | / |
B | @ | 速い |
C | A | 遅い |
の順になります。
自分が@に該当する人の場合には、仕事のやり方は全く問題はありません。しかし、それが出来る人は多くはありません。
Cの人は、仕事をするには、向いていません。人生の考え方が少し、外れている人達なのです。こういったタイプの人は結構多いのですよ。
一般の人達はAかBのtypeになります。このtypeが一番多いのですが、雑でも速い方が良いのか、遅くても丁寧な方が良いのか??は、職種によります。
例えば、Aの仕事は丁寧だけど、遅い・・という人の場合には、timelimitのある仕事は、回して貰えません。endlessの作業のような根気のいる作業の方が向いているでしょう。
Bのような雑だけど速いという人の向いている職種もあります。超、忙して、仕事を回しているような安売りのようなお店です。それ相応に需要はあります。
音楽を指導していて保護者の中の子供への人生の選択が信じられない選択をする場合がよくあります。
音楽を好きで、子供がproになりたいという願望がある教室の生徒たちは、日本中の同じ楽器を演奏する子供たちの間でも、頂点の趣旨に入るほどの記述を音楽の表現力を持っているのですが親は、その子供たちが学校で大した成績を上げていないという理由でごく普通の学校の勉強をメインに勉強させて、塾に行かせて、好きでもない大学進学を目指して頑張らする…ということなのです。
せめて、その生徒の音楽のレベルと同じ水準で、例えば、東大などを目指して勉強する…というのならば、なんとか理解や納得ができるのですが、如何せんどこの大学か分からないような普通の大学を目指して勉強することで日本1級のレベルを捨ててしまうのです。
私たちにとっては、自分の子供たちのproとしての道を捨てさせて、どうして、どうでも良い一般大衆の中に子供を埋没させてしまうのか、その理由がわかりません。
「苦労をさせたくない」という事かも知れませんが、自分に合っていないことに対しての努力を費やすことほど、苦労をすることはないし、その苦労が自分に報われる事はありません。
それに「好きなことを努力すること」は、苦労にはならないのですよ。
一般の家の音大生が音楽に進むのは、むしろ親の夢を叶えるためです。
本人は、好きでもない音楽を、ひたむきに練習させられるから、その努力を送ろうと感じて、苦痛に思いながら練習をするから、その努力が報われることがないのですよ。
「音楽を好きでもない」…という事は、教室の生徒たちには、絶対に理解できないでしょうがね? ?
そこが、教室の生徒たちと、一般の音楽を勉強している生徒たちの根本的な違いです。
話を本題に戻して、練習の無駄を省くコツは、なぜ、それができないのか? ?を理解することです。
それが、理解できれば、その対処法も理解できるし、効率的な練習法も作り上げることができるようになります。
つまり、この曲の場合には、まずは、 verschobene Taktを理解し、その前の、本来のtaktがどういう風に移動したのか? ?をを使っ理解することです。
先ず、本来のtaktで練習をして、次にメトロノームを使って、 verschobene Taktの練習をします。 1247
次の音程の辛さですが、別の楽器が弾いているQuerstand (対斜)の音符を、自分でも聞いてみて、その音程が別の楽器とちゃんと同じ音になってるのかを確認することです。それで、音がどのように微妙にずれてしまうのかを理解できれば、音程を正確に取れるようになります。
神経戦の練習にはなりますが、しかし、時間を無駄に使う事は全くなくなるはずです。
でも、この練習はscoreが読めないと、できない練習ですよね。日本人の音楽家では自分のpartだけしか、勉強しようとしない人たちには、できない練習法ではありますよね。
そこのところが、日本人独特の無駄に対する考え方です。
violinの生徒がpianoを勉強したり、他の楽器で使用することを極端に毛嫌いするところも、基本的には儒教からの考え方に起因しています。
一兵卒は、なまじ色々な事をやらないで、言われたひとつのことをやれば良いのだ! !とゆ考え方です。
この考え方がこれまでの企業を支えてきたのです。
でも、それを終身雇用制度であったから成り立った考え方なのです。
現代のglobal standardな企業社会では、もう成り立たない…という事は企業サイドは良く知っている事実です。
しかし、企業に人材を送り込む学校教育の世界では、今までの教育制度をそのまま継承しているのです。教育界にglobalstandardは、まだ無い…からです。
教室の生徒たちが全く練習もしないのに、 pro並に迷走ができてしまうのは、ある意味すごいことなのですが、本人たちは、全く練習してないわけなので、自分がうまい…ということに、価値を見いだせなくて、しかも上手いとすら思っていなくて、練習量だけがすご人たちに対して、 「これだけの練習をするのだから、きっと上手に違いないと言ってcomplexさえ抱いています。
冷静に演奏を聴いて、その評価がちゃんとできたとしても、 「本当は、きっと上手いはずだ」と、思い込んでしまいます。
馬鹿げたことなのですが、それが一般社会の評価なので、先生に指導されて、上手なだけなので、信念を持って上手いわけではないのです。
「練習量がすごい」という事は、それ自体は社会的には何の意味もないことなのですが、学校教育場の評価で「すごい」って思ってしまうのですよ。子供たちの24時間は学校教育の中にどっぷりつかっているのですからね?
先ほども言ったように、仕事は「出来てなんぼ」のものなのに、時間をかけるという事は、社会ではマイナス要因とされるのに、学校教育場の評価では、良いこととされるからなのですよ。
学校で1番困った問題は、 「宿題」です。
昔は、生徒たちに、 「学校で出された宿題は、学校で済ませて、家に帰ると、家では音楽の練習に専念できるよ! 」と言ったら、学校の先生が「宿題は家での勉強のしつけのために出すものです。学校で宿題を済ませるのなら話、宿題を追加出すことにします。 」と言われて呆れ返ってしまいました。その先生達は学校の宿題以外は、勉強ではないと思い込んでいるのですよね。
学校が対象にしている子供たちは、家で全く勉強しない「のび太くん」のような生徒の話なのですよ。
athleteの真央ちゃんや、泣き虫愛ちゃんや、balletを勉強している人や、プロ野球を目指す人、絵描きになりたい人たちのように、自分の人生に目標がある人たちは、学校の勉強を家でやる程の時間はとてもないのですよ。
人生が忙しいのは、学校の先生たちも数倍も忙しいのです
それは一般人の学校の先生たちには理解出来ません。困ったものです。
そのために、多くの事例で2匹入れようとする子供たちが何度も何度もエンコを余儀なくされています。
しかし、世の中はそういった一芸を求める人たちに支えられているのですがね。
一般人は消費を通常消費をする人達に過ぎません。
世の中に何かを提供する人たちのすべての人達が一芸を、求める人たちであって、その人達からの恩恵を享受しているのですがね〜ぇ???
お話をしていても、その話が水掛け論になる原因の多くは、その課題となる定義が整合していないことが多いのです。
昔(とはいっても、2、 30年前のお話ですが… )いつものように、テレビをつけっぱなしにしたまま、パソコンの仕事をしていました。
NHKの討論番組で、学生社会人、経営者、男性と女性と、さらに年齢に分かれて討論をしていました。
女性の起業家の人が、 「同じ仕事をしていても女性では評価されない! 」と苦言を呈していたのに対して、同じ経営者の熟年の世代の男性が、 「もし、トラブルが起こった場合には、深夜であっても、駆けつけてくれるのか? 」とその女性起業家に対して質問をしました。
その起業家の女性は、 「ちゃんと、仕事は責任を持ってやっている! 」と答えるだけで、その解約100深夜にトラブルが起こった場合には、 、 、 」の質問には、答えようとしませんでした。
小学校の女の先生で、子育て中の女性であったとしても、学校の生徒が、家でもしたら(別に、遊びに出かけて、帰って来なかった場合でも、同じ事なのですが… )てんたとえ、深夜であったとしても、子供をさがしに出て、その生徒が、見つかるまで、徹夜で…でも、子供たちを探さなければなりません。俺は自分の教室の生徒ではなくても、その責任に対して分からないのですよ。
その女性起業家は、深夜に工場のラインが止まるとその会社にとっては死活問題である…ということが理解できません。
女性起業家の人は、自分が会社で働く時間内は、一生懸命に働いて、家に帰ると妻という立場と白おやっという立場が持っているので、その立場に責任を持って一生懸命頑張らなければなりません。つまりてん24時間本当に頑張らなければなるならないのです。その女性の起業家は、そこのところをしっかりと理解し認めるべきであったのですよ。
でも、熟練の会社経営者は、もし深夜にラインが止まって納期に間に合わなくなったら、従業員の生活の問題になってしまいてん最悪の場合にはその会社は倒産することにもなりません。
そうなると、一家心中ものです。
それならば、男性の従業員のいる深夜でも責任を持って駆けつけてくれる会社と契約するのが一般常識として当たり前ではないでしょうかね?
でも私たちは、それを「女性差別」とは言わないと思いますよ。
ヨーロッパの音楽大学と日本の音楽大学に大きな違いがあります。
ヨーロッパの音楽大学では、女性の音大生がほとんどいません。音大生のほとんどが男性なのです。
それにはいくつかの理由がありますが、 1番大きな理由は音楽を食用として捉えてるからであるといえます。日本の音楽大学の場合はてん音楽描くの女性の割合は95%近くもなります。
つまり女性の音楽大学なのです。
だから音楽を食用として捉えようという姿勢はありませんまん
単に、結婚に至るまでのstatusに過ぎないといっても過言ではありません。
小学生の頃から死に物狂いで、脇目も振らずにレスに通っててんコンクールや発表会に宣伝をして一流の音楽大学に入学をして、海外に留学をして、遅刻して、 2 、 3回もコンサートを自分でやったら、夢は達成されて、後は、もみ合いをして、結婚をして子育てに専念をします。そういった人生のどこにproがあると思いますか? ?否、それどころか、職業としての音楽があると思いますか? ?せいぜい、彼立場に自宅から音楽教室で生徒を教えるだけが人生でしょうね。
音楽大学の95%が女性である音楽大学に勉強して来た男性陣は、女性たちにも、もっと女性化しています。男性であるのにもかかわらず、音楽で生活できるとは思っていないのですよ。
「芦塚先生、音楽で生活していくのは無理ですよね? 」
40年以上、音楽で…しかもClassicだけで、生活をして来た私に聞くことですかね? ?
私は一体何をして生きてきたのと思っているのかね?
pianoの教室やviolinの教室で、自宅でできて設備投資も何もいらない音楽教室は、一般の音大生とっては何の苦労もなく稼げる場所です。
しかし、私たちのように、個人でオーケストラや備えなくなる事は一般的には不可能です。
だから基本は、市や県が主催して、それに先生たちの指導に行くことが一般的になります。
芦塚音楽研究所そういった音楽教室とは一線を画しています。
先ず、膨大な額や書籍類、古楽器類、パソコン等の機材やオーディオ機材、そこら辺の音学大学の資料と比べても見劣りはしません。
しかしそういった資料や楽器類機器類はてん音楽教師の植物ではありません。
音楽教室で、そういった機材を揃えるために出費する事は、法務局の認可が下りないからなのです。
ですからそういった資料や楽器類その他は、全部私の個人財産資産になります。ですから芦塚音楽教室は、私の個人的な趣味で運営されている教室に過ぎないのですよまん音楽教室は、私にとっては資材を叩いて経営している趣味の教室なのです。今現在も明日亀、指導できる先生が全くないので教室を拡大していくことが出来ないのが悩みです。
この世界にもまでの間競争が過去にするためには学校法人の認可を取る必要があるのです。私の考え方に同調する出資者が6名以上必要で指導する先生たちもそれを人数を雇わなければなりません
0明日亀凍土で指導をしてコンクールに合格させたり音楽大学に進学をさせたり、快楽に留学を支えるそことは、いとも簡単なのです。しかし、芦塚methodeで指導できる先生を育てる事は、不可能です。だれでも主婦になることはできます。でも、芦塚methodeで指導に駅に指導できる先生なることは、ラクダが針の穴を通ることよりも難しいのですよ。
音楽大学では、先生も生徒も、音楽を食用としては捉えていないのですよ。それで、音楽が職業になるわけは無いのは当たり前でしょう?
そんな、馬鹿げたことが… 、
実際にはてそんなばかげているのですよ。
だって、教えてる先生がもともとお嬢様で、いちども社会で働いた経験がないのですから、それで仕事としての音が…と言われても、その人たちにわかるわけがないのですよ。
でも内の音大は子供の教育に力を入れていて、先生たちが学生たちにその指導のlectureをしてくれているのですよ。
音楽大学の音楽教室に来る生徒たちは、ある程度、夢が叶うのならば、その音楽大学に行きたいと思っている父兄たち、あるいは音楽の勉強に対する意識が一般の音楽を学んでいる生徒たちとは全く違うのですよ。だから、小さな子供としても問題の先生も厳しいlessonにも対応できるのですよ。
親と子供が泣きながらlessonに通っているのをよく目にします。私の自宅は問題のすぐそばなのでネ。
一般の音楽教師で同じようなlessonもしたら、一瞬で生徒たちはやめてしまいますよ。
(以上、斉藤先生のprint outした論文の原稿からの入力です。22年12月の2日です。)