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本当の勉強とはー勉強の意味

子供がりかいするのには時間がかかる

学校で指導されている勉強の不思議

図工のトラウマの話  その一

図工のトラウマの話は続く

将来の仕事のための基礎を勉強する事が学校教育なのだ

社会と教育

日本の教育界、一般社会に於ける甘えの構造

環境と勉強のあり方

安定志向について

寄らば大樹の音楽社会

お仕着せの民主主義

幸せすぎる子供達

教育の真の目的とは

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[本当の勉強とは―勉強の意味

今までにも「音楽の勉強について」や、「人生の目的」などに関しての、色々な論文を書くにあたって、「本当の勉強とは何か」と言う、この問題に触れて来た。

しかし、残念ながらこの問題が正しく理解されたことは無い。

それどころか私が学校や塾の競争教育という問題について取り上げると、あたかも私が学校や塾の勉強そのものを否定しているように誤解されてしまう。

しかし、実際には、私が勉強そのものを批判した事はないし、成績を上げる事を目的とする事を批判した事もない。

何ゆえに一般の人達が私の話を誤解するのかというと、その根本になる原因は、一般の人達にとっては、今の学校で行われている教育そのものを勉強であるとか、或いは塾で指導していることそのものが勉強であるかのように、誤解していることにある。

塾や、困った事に学校ですら、即父兄から成果を出す事を強要される。成果をあげると言う事は、即生徒の成績を上げると言う事である。

成績を上げることは、困った事に、勉強を理解させることにつながっているわけではないし、勉強に興味を持たせる、或いは勉強そのものを好きにさせるということに結びついているわけでもない。

ただひたすら「設問に対していかに回答すべきか」ということに始終しているにすぎない。

それは単に問題を解答するための技術であり、テクニックに過ぎない。

そういったものは、本来は勉強ではないのだ。

勿論、これが大学受験を直前にした高校生であればいざ知らず(というか、仕方がないというか?必要悪というか?)であるが、成長期で人格形成の、所謂、人間としての心の成長の最も大切な小学生や中学生の子供達に対して、そういった「心の発育を伴わない」技術のみを教えるのは、百害あって一利もない、という事は自明の理であろう。

 

この話は別に学校教育に関してのみを批判しているのではない。

音楽教育に於いても然りである。

受験生と同様に、中学生や高校生になって音楽大学受験と言う身近な目標があるのならいざ知らず、ただ音楽が好きで音楽を習いに来ている一般の子供達に、ハノンやスケール、或いはCzernyなどのEtudeを詰め込んで、音楽をすっかり嫌いにしてしまう教育に何の成果が認められるのであろうか?

「それは上手になるための必要悪では・・?」  

否、そんなものは必要悪ではない。 
上手になるためには、Etudeも要らなければ、scaleさえも、要らない。scaleなんてものは、直訳すれば尺度という言葉で表されるように、fingeringの原則論にしか過ぎないのだ。だから、子供達にその原理を説明し、その種類を理解させれば、闇雲に練習を積み重ねていくような無駄な練習をする事はない。
ヨーロッパの人達はEtudeも学生への出来ない技術への薬として、Etudeを勉強させる。
総ての曲を網羅して順番にEtudeをさせても、逆に不自然さを学ぶだけである。
その生徒に必要な、本当のTechnikを習得させるために、数有るEtudeの中からそのTechnikが効果的に使用されていて、しかもその生徒の無理のない段階の曲をselectして、丁寧に半年1年かけて習得すればよいのだよ。
いつも言うように日本流のEtudeの通り一遍の勉強法ではなく、そのEtudeの課題を完全に習得するために、半年のintervalが必要であるとして、1回のlessonに3,4曲のEtudeを課題として練習したとしても、その課題を完全にクリヤーするためには、Czerny30番は30曲、40番は40曲、50番は50曲あるのだから、cramerやMoschelesのEtudeに寄り道をしなかったとしても、単純計算で60年掛かるのだよ。
これは、キチンと丁寧に音楽の勉強をした場合の話で、年金の話と同じで、如何に有り得ない不合理な事を信じてやっているのか、チョッと引いて考えてみれば分かる事なのに、それを誰も分かろうとはしない。
学校教育等で勉強する日本の学校にしかない特有のgenreがある。合唱というgenreである。
学校教育における合唱で使用されている独特の発声は、Classicの世界では聞かれた事のない日本独自の奇妙な発声法である。しかし、日本人はそれがClassicの発声法であると信じて疑わない。
テレビでWien少年合唱団等と共演する日本の子供達の歌を聴いて、Classic音楽とEnyaの共演のような不思議な違和感を覚えたのだが、まわりの日本人達は、なんの違和感も感じないようだった。
音楽大学の声楽の先生達はどう感じているのだろうか??聞いてみたいものだ・・・!!
この話をしていた時に、私の話を聞いていた芸美出の小学校の絵の先生が、「小、中学校の絵の授業のcurriculumも同じですよ!」「一般の絵画の世界では全く通用しない
学校にしかない特別なgenreの世界のcurriculumで、子供達を指導するのですよ。」と教えてくれた。
それは、どのgenreでも、同じらしい。
英語だって、フィリピンやカンボジア等の山岳の小学校で、校舎もなく、土の上に座って黒板すらないような小学校の3年生、4年生の生徒達が、ネイティブの先生から英語を学んでいるのだが、ものの半年もしないで、通常の日常会話なら喋れるようになっているのだよ。
それなのに、教育機材や環境の整った、教える先生達も勉強を積んで研鑽してきたはずの先生達の指導の下で、10年間学んでも、カタコトも喋れないのはどうして??
それで、なんで英語の勉強に、塾や学校にお金をかけているの???
不思議だ??!!!

現に、私達の教室では、子供に音楽の素晴らしさを指導しながら、コンクールや音楽大学、果ては留学と着実に成果を上げている。

又教室から直接プロになった人達も数多くいる。

そんな無駄な努力をしなくっても、しっかりしたカリキュラムさえあれば、そういった実績をあげることが出来るのだ。

 

学校教育でも同じである。

実は、私自身は、実際に幾つかの小学校で、そういった私の考え主張するカリキュラムによる授業を実践して、教育関係の人達から、それ相応の評価を戴いている。

ただ、その後、私が音楽教室を立ちあげてしまったので、音楽指導上のカリキュラムに専念しなければならず、学校教育のカリキュラムをすべての学年、一年生から六年生までに満遍なく作り上げる事が出来なかったからである。

残念ながら、要所、要所のピンポイントのカリキュラムになってしまっているのは、音楽教育に専念しなければならなかったので、如何せん仕方がない事であった。
(その頃、育てていた私の生徒でもある若い実力派の小学校の先生達が、やはり結婚と子育てで、教育の現場から離れてしまったので、そういったカリキュラムを中座しなければならなかったのである。)

(ホームページ教育論文より 「音楽と勉強の両立は可能か?(U)」を参照)

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[子供が理解するのには時間が掛かる]

私自身は、実際に、若い小学校の先生達に私のmethodeを指導してみて、実際に子供達の確実な成果を見る事が出来たのであるが、それが他の先生達に認めてもらえないのは、指導要領に書かれているカリキュラムの進度の問題である。

一つの事を教えるのに、ある事を本当に子供に理解させるのは確かに時間が掛かる。

しかし、一旦理解してしまうと、後は自分達で出来るので、逆に進度はとても速くなる。

結果としては時短になるのだが、その勉強を子供に理解させるまでに掛かる時間が、トラディショナルな先生達に取っては、文部省のカリキュラムと整合しなくて、時間が遅れてしまいそうで、「もし、間に合わなかったら・・??」と、恐ろしくってたまらない。

理解させるのに掛かっている時間が、そのままに永遠に続くように思えるからだ。

幾ら、一度理解してしまうと「その後は、時短になるから」と言っても、勉強が理解出来ない子供を目の当たりに見ると、幾ら「後では、時短になる。」と言われても、信じられないのだ。

 

しかも、そういった魔法のような事が出来るとすれば、それは革命的な冒険と思われるからだ。

それで結果として時間の掛からない、詰め込みの教育をしてしまう。

子供達はわからないままにやるのだから、だんだん勉強が難しくなると、更に能率が悪くなる。

悪くなれば、また叱咤する。勉強の時間を増やす。それで、一時的には、改善する事もあるのだが、結局の所は、又悪くなってしまう。

・・・・・その繰り返しである。

 

というわけで、私は学校教育や塾の勉強の重要性を否定しているわけではなく、その「方法論に問題がある」という主張をしているのにすぎないのに、あたかも私が日本の教育制度そのものを否定しているように誤解されてしまっているのだ。

 
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[学校で指導されている勉強の不思議]

私が考える学校教育の基本は、小学校や中学校(いわゆる義務教育)の勉強は、勉強する上での基礎となる勉強でなければならない。

日本のことわざに「学校教育 校門を出ず」という言葉がある。

学校の勉強の内容の特殊性である。

一般教科となるとちょっとわかりにくいので、英語を例にとってお話すると、アフリカやアジアの経済後進国のように、学校の校舎すらなくって、子供達はノートや鉛筆さえ持たず、土の上に子供達が直接座って勉強しているような小学校でも、3ヶ月、4か月経つと、ちゃんと子供達は日常の英会話が出来るようになる。

日本では、ちゃんとした大学を卒業して来た先生達が、冷暖房の完備した立派な学校で指導している。

しかし不思議な事に、たとえ中学校、高校の6年間、英語を習ったとしても、片言も喋れるようにはならない。

(勿論、プライベートで民間の会話の学校に行って習っている子供達は別ですよ。あくまで、学校教育としての話ですから。)

それ以上に大きな問題は、英語を指導する先生自身が、英語をしゃべれない事だ。昔は、学校では英語は中学1年生からカリキュラムに入ってきた。しかも町に外人さんを見かける事は、まずなかった。英語を学んだとしても、一生使わないままだろうと思われた。(今からだと考えられないだろうが、当時はそういう時代だったのだよ。)おじいさんの英語の先生が、当時の私達から聞いてもとても変な発音で英語の教科書を読んでいた。英語の先生と言えども、多分一度も外人さんと英語で喋った事が無かったのだろうな?

私が大学生になった頃には、さすがに外国人の旅行者なども増えて来た。ということで友人の英文科の女の子が外人さんに飲みに誘われたということで、私もボディーガードとしてついてきてほしいと同行を求められた。サロンのカウンターで外人さんは友人の女の子とおしゃべりをしていたのだが、さすがは英文科である、流暢に会話をしていた。 …と思ったら、外人さんが私の方へ、ヘルプを出してきて「彼女が何をしゃべっているのか、よくわからないのだが?」と言って来た。仕方がないので、私の自己流(通常、金釘流という)の英語でたどたどしく喋ると、「貴方の英語はとてもわかりやすい。」と喜んでくれた。

少なくとも、当時の英文科の学生たちの英語の発音では、外人さんには通じなかったようだ。

私は英語に関しては、大学卒業するまで、勿論、万年赤点だった。

今では考えられないことだろうが、それが当時の英語の学校教育の実情だったのです。

 

[図工のトラウマのお話 その一]

またこういった当時の学校教育の抱える問題点を話す時に、私がよく引き合いに出す私の体験談がある。

それは現在も私が絵を描くと言う上で苦手意識、つまりトラウマともなっている図工の授業のことである。

私は小学校の時から中学を卒業するまで、図工の授業は実技は常に赤点を取っていた。

「実技は…」と言うのは、理論では常に百点を取っていたからである。

トラウマになった原因というのは、私がまだ小学校の2年生の頃、授業で写生があった。

当時は、まだ戦後の復興中で、クレヨンとかいうものがやっと12色くらいまでは手に入るようになってきた頃の時代である。

クラスにはとても絵の上手い生徒がいた。先生も、また同じ小学生のクラスの生徒も感心するぐらいに本当に素晴らしい絵を書いていた。私は昔から不器用で、一時間と言う授業時間内に絵を仕上げる事は出来なかったのだが、それでもそのクラスメイトに習って兎に角一生懸命に書いて、それなりに自分の満足のいく絵が描けた。

そのときの担任の先生は女の先生であったが、一人一人が教壇の傍に立っている先生に自分の書き上げた絵を手に持って先生に渡すのだが、その先生は私の絵を一瞥すると、クラスの皆に見えるように上の方に高く上げてこういったのだ。

私はてっきり先生が私の絵を褒めてくれるものだと思っていたのだが、先生は「皆さんはこんな暗い絵は書かないようにしましょう!」と大きな声で言った。

私のうれしそうな顔は、一瞬でこわばり、体中が冷たく凍りつくような気持ちであった。

それ以来、絵を書こうとしても、自分が思うように上手に絵を描けた事はない。

小学校の1,2年生の頃の話であったろうか?今でもそのときの光景をはっきりと思い浮かべることが出来る。



二回目のトラウマは、中学1年生になった時の話である。

水彩の絵の具を水に溶いて、霧吹きで画用紙に色を吹いて、それを提出するという授業があった。
しかし、誰がやって見ても、その頃の水彩絵具は所詮12色ぐらいの色しかないのだから、私にとっては、皆の絵が、同じようにしか見えない。(少なくとも私にとっては・・。)
そこで私は画用紙にインクのチューブから直接色を出して、もう一枚の紙を合わせて、ぐるっと回転させて、ちょうど色々な色の星が回っているような絵を作って「星座」とかタイトルを付けて提出した。

勿論、赤点だったよ。

先生の言う通りにしなかったからね。

でも、もう一枚、先生の言う通りの絵も提出したんだよ。

そんなの・・1分もあれば出来るからね。

しかし、それでも先生は頭にきて赤点だよ。

絵の授業には色々といいたいことが沢山ある。


三回目のトラウマの話だ。

中学3年生の時の絵の先生は、教頭先生を兼任していて、教育者で人格者でもあったけれど、その頃の私は既にすっかりヒネていたね!
自分の好きなthemaで石膏のレリーフを作るという課題があった。

全員が自分の考えるレリーフを作って皆に発表するという課題だった。

皆、教科書に載っているようなつまらないオオソドックスな葉っぱなどのレリーフを一生懸命作っていた。

私は、「皆、何でそんなつまらないものを作るのだ?」と素直に、素朴に疑問を感じた。

保健の教科書に少女のヌードの絵があった。

それはロダンの作品で日本名は「息吹」とか、「春の目覚め」とか言うらしい。

石膏の中から少女が今にも産み出されていくような、素晴らしい作品である。

私はそれを真似て粘土で作った。

先生が飛んできて、「こんなにリアルに作る必要は無いんだよ!」と言って、一生懸命つぼみのようなおっぱいをつぶして、少女のヌードである事を分からないようにしていた。

先生が他の生徒の所に指導に行ったので、直ぐに元の通りにリアルに戻したよ。

でも、一応、学校の教科書、つまり保健の教科書にロダンのレリーフの少女像が載っているので、絵の先生としては、駄目出しが出来ない!つまり、怒れないのだよ。

文部省が認めた写真であると言う事だからね。

先生は困った顔をしていた。

しかし、幾らひねた私であっても、本当に先生を虐めたかったわけではない。

最終的に本当に学校の廊下に陳列したのは、皆と同様、ただの葉っぱのレリーフさ!

先生をからかいたかっただけだからね!

 {図工のトラウマの話は続く}

高校に進学して、図工が選択教科になったときに、内心「これで赤点を取らないで済む!」と、安堵した。

そこで、画材屋に行って、水彩の道具のセットを買い求めた。

すると若い女性の店員が「筆は何にしますか?定着液は?インクは?」と質問して来た。

その質問のすべてが、生まれて初めて聞いた質問である。

石器時代の人間が突然、東京の大都会に一人ぼっちで置かれたようなものである。

カルチャーショックとでも言うのかな?

私が9年間勉強して来た学校で習ってきた水彩は一体なんだったのだろうか?

せめて画材の種類、筆の種類だけでも分かるように教えて欲しかったものだよ。

「何号の油絵」と言われても、実際にそのサイズが分かる人は少ないと思うよ。

いったい、9年間も絵画の授業で私達は何を習ってきたのだろうか?

田舎の町の画材屋に行って、買い物すら出来ない。

そのときに私の絵のトラウマは最高潮に達したね。

その頃は、まだ知らなかったのだが、本来的には私は画材屋ではなく、文房具屋に行くべきだったのである。

そうすれば、全てはイミテーションで、本当の本物は売っていないからね。

「油絵ではなく、水彩ならば、文房具屋でも、画材屋でも同ぐらいの値段だろう・・・と思ったのが甘かったのだよ。

本物の水彩と学校の水彩は根本から違ったのだよ。否、全くの別物なのだよ。

 

私がまだ小学生の頃、歳の近い金持ちの従兄達は小学生の時から、プロの絵書きの先生について油絵を習っていたからね。彼等にとっては、筆のことや画材の事すら、知っていて当たり前の事なのだよ。

実にプロフェッショナルだよ。

学校との落差!

所詮、水準が違うね。

 
本当の絵画との出会い

高校は習字や絵画、と音楽は選択で、何か一つ選択すればよかった。

当然、私は音楽を選択したので、絵画は二度と描かされる事はなかった。

そこで、何の制約もなく、町の古本屋などに通って、絵の本を買いあさった。でもその本は、今の人達が見たら何と思うだろうか?

本当にお粗末な印刷で、本当の色とは全く違っていて、色あせた、情けない印刷であったのだが、それでも、私のそれまで学んできた学校の教育的な絵とは全く違う世界がそこにあった。

その中でも、ワトーの奏楽などの古典派の絵画、アングルの泉、等のオオソドックスな古典派やそれこそ、ルーベンスやダ・ビンチ、或いはミケランジェロやラファエロ等のバロックの絵画と、それとは別に、それまでの学校の教科書では一度も見た事のない、超前衛的なキリコやエルンスト、ダリなどのシュールレアリスムスの絵画にめぐり合う事ができて、本当の絵画に傾倒することが出来た。

高校2年生のときには、私は大病をして大学病院に入院した。

そのときに友人がユリの花束を持ってきたのだが、病院のベッドの上では何もすることがなかったので、仕方なく時間を潰すために12色の水彩鉛筆でそのユリの花を写生した。

病床での事なので、時間の制約も無く、生まれて始めてのんびりと時間をかけて、丁寧にゆりの花を描いた。

別の友人がその絵を「欲しい」と言ったので、そのままプレゼントしたのだが、その人は(勿論、私の名前で)その絵をコンクールに出品した。

な、な、なんと、その絵は、一般人の絵画コンクールで西日本部門まで行ったらしい。

全国大会までは、行けなかったらしいが・・。

勿論、「…らしい。」と言うのは長期入院と、腎臓を1個摘出するという大手術で、大学病院から外出が出来なくって、自分で実際に会場に飾られている所を見れなかったからである。

 

それにしても、絵の授業では、万年赤点を通した生徒の絵が、(学校のではない)社会人の一般の部の西日本コンクールで入賞を果たすなんて考えられないよね!

しかしまあ、学校の音楽の授業のことを考えると、似たようなものだけれどね!


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[将来の仕事のための基礎を勉強することが学校教育なのだ

私が考える小、中学校の教育とは、子供達に色々な分野の教育の基礎を指導するということである。

私が水彩に興味を持って、画材屋に行ったときに、画材屋の店員に同情されることなしに私が買い求めるべき筆の種類ぐらいの知識は持っていたかったし、そういったものが学校で教える基礎知識というものではなかろうか?

算数の塾に行っていても、スーパーの買い物で今幾らになったのか、さえ分からず、ついつい買いすぎてしまう。

「だから算盤(ソロバン)を勉強しなさい!」と言ってるのではない。

ソロバンであったとしても、算盤なしで暗算が出来るようになるには、相当の努力をしなければならない。

しかし、日常生活には、四捨五入によるアバウトな計算で十分なのである。

198円と540円を足さなければならないとする。

私のアバウト計算は10の桁と四捨五入の0と5だけで充分なのだ。198円は四捨五入すると、200円だし、540円は四捨五入して500円と50円で充分なのだ。
という事で、200円+550円で750円だから、お金は750円を準備すればよいのだ。
勿論、アバウト計算にするために2円と10円を足したわけだから足した分の12円がおつりで帰って来る。
こういう計算が出来るようになると、相当な量の買い物をした時も、品物と金額を見るだけで暗算が出来るようになる。
日常の生活はそれで充分なのだよ。

これで、スーパーのレジで他の人達に迷惑をかけないで済む。

これは日常生活の算数の知識である。

日常生活の中にはちょっとしたことで算術的な配慮をすると人に迷惑かけず非常にうまく行くことがよくある。

年金の問題にしても然りである。
政府の年金の話を始めて聞いたときには、私はそれは「ねずみ講だ!」と思ったよ。
つまり、人口が増え続けるという前提の元に成り立つ、経営と言うものは絶対にありえない。
人口が爆発的に増加していけば、必ず次にはパンデミックが起きる。
それが、増え過ぎたねずみの理論なのだよ。所謂、ネズミの集団自殺の伝承なのだよ。

それが自然の摂理なのである。

それはほんのちょっとした数学の知識があれば当たり前に分かる、「人口増加率」の考え方ですよ。
人口は無限に増えていくわけではないのだからね。

パンデミックのような急激な大爆発(人口の増加)をした後、急速にしぼんでいくものなのだ。
では、それは何時か??
それも簡単な話である。
日本の国土面積(これは人が住める面積の事で、森林や沼等を含んだ面積ではない)に対しての人口の増加率で大体分かるので、パンデミックが起こるタイミングは事前に分かる。
日本の場合には、国土に対して、1億2千万から、3千万ぐらいが関の山なのだろう。
その後は急激に人口は減少するはずである。その時には今は一人の老人を支えるのに20人の年金の納付があるので、年金を納める人が、それぞれ1万円づつ収めたとしても、老人には20万の年金が支払われている。だが、パンデミックが起こって人口が急激に減少し始めると、一人の老人に対しての支える人間の数が急速に減って、最悪の場合には、1人に対して、5人、4人となってしまう。そうなると、一人の年金を納める額を増やすか、年金の支給額を減らすかの問題になってくる。そうした場合には、自分が収めた年金の総額は自分には戻って来ない事になるはずである。

こんな、簡単な自然の論理が、一般大衆には理解出来ない。

私がその話を色々な人にしたときに、「お国がやる事に間違いはない!」とか、「自分達はちゃんともらえているから・・・」とか、私がお国を信じていない事を散々文句言われたよね。

お役所に言った時も、「自分が払った(積み立てた)金額を全部返却してもらうのには何年かかるのか?」という質問をしたら、「そう言う事を聞いてきた人はいません。」といわれてしまった。
ましてや、「日本の人口が減少する」とかいう話をしたら、「頭おかしいのじゃあないの??」と疑われてしまった。

区役所の人達の言う事には、皆、お国のやる事だから、何も考えないで、言う通りにするのだそうな。(ちなみにその話を区役所の人達としていた頃は、年金は希望する人だけが入ればよかったのだよ。年金のお金が有り余って、困っていたからね。)

 

しかし、そう言ったうまい話が長続きするわけはない。
バブルでもそうだったように、そういった作為の伴ったものは、必ず崩壊するのだよ。
本来、学校の勉強というものは、そういうものを、正しく見る目を養う事でもあるはずなのだ。

 

塾に莫大なお金をつぎ込んで来たはずなのに、一般的な常識を何一つとして持ち合わせてない若者たち、・・では彼等は勉強として、一体何を学んで来たのだろうか?

 

「今の若者たちは考えようとしない。」とよく言われる。
しかしそれはちょっと違う。
本当は「考えてはいけない。」という教えられ習って来ただから。
考えて正しい答えを導き出すには、大変な時間がかかる。
それならば、何も考えさせなくって、反応だけさせれば、正しい答えを瞬時に導き出す事ができる。
ロボットやコンピューターのように、反応させれば良いのである。
下手な考え休むに似たり・・なのだよ。
塾のノルマや学校のcurriculumをこなすには、生徒に理解させ考えさせていては、間に合わないのだよ。
だから、学校や塾は問題を理解させ、答えを導き出させることよりも、答えを出すtechnicを指導する。
コンピューターのように、ただ単に正しい答えを出せば良いのだ。

コンピューターが、考えて、正しい答えを導き出しているとでも思うのかい?
考えないで正しく答える事が出来て、考えて答えたのが間違いならば、子供達は当然考えようとしなくなる。
その事が子供が大人になるに従って、だんだん教育の崩壊を生み出す。
だから、子供に「何故そうしたのか?」と聞くこと自体が無駄なのだよ。
考えちゃいけなかったのだからね。
親や社会に対して、そう反応しただけなのだよ。
「血がドバッと出るところが面白い」とか、金属バットで親の頭を思い切りたたいたら、「壊れちゃった!」のだよ!

確かに昔も、そういった昆虫型の人間はいたのだよ。
しかし、それは非常に例外的なcaseであったのだよ。

しかし、今は普通に若者がそう考えるのだよ。
それは、そういう風に育てられたから、当たり前の事で、何も特別な事ではないのだよ。


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[社会と教育]

人間は動物と違って、子供達が大人として、社会人として、成長するために、10年を超す長い年月を経なければならない。

それだけではなく、特に「小学校の高学年から、中学校の体と精神の成長期の時期は、人間形成、人格形成に及ぼす重要な時期でもあるのだ。
むしろこの時期に形成された人格が、その後の人間の一生を左右すると言わねばなるまい。
現実的には、アスリート達や音楽やバレー(踊るballet)等の芸術を学ぶものにとっては、この時期に塾等の学業を優先させてしまうと、幾ら高校生になって、自らが積み上げてきた技術を取り戻そうと頑張ったとしても、所詮は無理な話である。
一度、手放した意識が再び戻って来る事は有り得ないのだから。
所謂、「覆水盆に返らず」ということなのだよ。
意識を持たないままに、技術が上がるという話は、学校教育では有り得たとしても、芸術の世界には、そんな話はない。
世の中にそんな、うまい話があるわけはない。
職業を勉強しようとする人間にとっては、成績だけを上げるための、塾教育や学校教育は、勉強という意味ではなく、精神性を育てるという意味に於いて、致命的な弊害となる。

そういった意味で、教育に対しての両親の考え方と言うのは、子供の一生を左右する重要な要素である。
日本古来の諺の「三つ子の魂、百まで」というのは、幼児期の教育の重要さを示唆するものとして、意味深い言葉である。

教育というものの指針は、その時代の社会の考え方(為政者の都合)に左右されることが多い
今日の教育の崩壊というものは、(私が論文の中で何度も述べて来たように)すでに30年前にその萌芽を見ることが出来る。

それから幾度となく子供達が社会問題を起こすたびに、教育の改革が叫ばれてきて、なにがしかの試みがなされて来たのであるが、残念ながら何一つ事態の改善に貢献するものは無かった。

むしろ、社会の現状と教育界の考え方の落差が、より開いていってしまっている、という実感を受けるのは私だけではなかろう。

テレビなどでは有識者を集めて親や教育者たち、或いは学生たちを同一会場に集めての討論会などを企画したりして、それなりに努力はしているようであるが、不思議なことに、勉強その物のあり方がテーマになることは一度もない。

私自信は、私の教育や勉強のあり方に対しての考え方はそれほどユニークなものであるとは思わないのだが、それを主張する有識者が一人もいないという事は、やはり私の理論は分かり難い、理解されがたい理論であるのかもしれない。
これも、日本の常識、世界の非常識なのかもしれない。

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日本の教育界、一般社会に於ける甘えの構造

儒教的な思想の影響であろうか、日本社会では子供はいたわるもので、子供が出来ないのは当たり前という風潮がある。
つまり、日本の教育界では、子供は「出来ない」という前提で教育のcurriculumが作られている。
先ほども、お話をして来た、図工や音楽の勉強だけではなく、英語にしても、或いは全ての授業に関して、子供は「出来ない」という前提で指導される。学校には文部省のcurriculumの縛りがあって、何が何でもそのcurriculumに従って授業をしなければならない。
ましてや、塾は企業であり、基本的には教育産業ではないので、成績を上げたり、受験に合格をさせなければならないというノルマがある。
そのためには、子供に学業に興味を持たせたり、指導の内容を理解させていては、与えられたノルマを果たすことは出来ない。
という事で、勉強の内容を理解させることよりも、指導内容が、問題を如何に早く回答するかの、technicに始終する事になる。
という事で、今の子供達は一般常識を、驚く程知らない。
父親の仕事を理解させて、父親としての尊厳を取り戻すための、社会科見学というようなcurriculumが実験的に行われるようになった。社会人としての擬似体験等で、社会のsimulationをやるのだが、これがまた、lacherlichで笑える。
教育楽器の簡易楽器や、学校教育の合唱の発声法や、私がトラウマになった図工のcurriculumの内容を見ているようで、eccentric(エキセントリック=奇妙な)な内容なのだ。
いやあ、これこそ、学校教育校門を出ず・・のそのものである。
世界でトップと言われている数学ですら、計算問題が、応用問題に変わった途端に、世界でも80番とか90番ぐらいの、お粗末な成績になってしまう。
おおよそ、実用性がないのだよ。
だから、学校を卒業した途端に、学校で学んだことは、全て忘却の彼方である。
いじめ等で、不登校の生徒にadviceをする事がよくあるのだが、私の信念としては、「自分が将来やりたい事があるのなら、学校には敢えて行く必要はない。弟子入りするなり、専門の先生に指導をしてもらって将来に備えればよいのだよ。」「しかし、目標もなく、不登校なら、勉強をするのではなく、将来の目的を探すために学校に行けばよい。」といつもadviceをしている。








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[環境と勉強のあり方]

学校に行くことが子供達のあこがれであり、勉強が人生の最大の目標であるということは、貧困の国や発展途上の国では、その貧しさから抜け出し、「生きて行くための唯一の手段」として当座の目標になって行くのである。

私たちの国も、私の小学校時代、どこの小学校にも校庭に二宮金次郎の像があった。

背中に薪を背負って仕事をしながら勉強をしている姿、NHKのドラマ「おしん」にも見られるように、苦境の中で努力をして成功をつかむ−そういった姿が日本人の心をつかむ努力をする人間像の理想像であった。

子供の教育をより難しくしている所は、親が子供の教育を考えるときに、現実ではなく観念論で考えてしまう所にあるからである。

現実に今の親達が子供の頃は、経済発展の時期とバブル期を体験してきて、教育の崩壊が起こり始めの時期でもある。

だから今の親自身が現代教育の抱える問題点、矛盾点を実際に体験して来たはずなのである。

自分の子供時代を振り返ってその時に抱いた感情をよく思い起こせば、自分の子供に対しても正しい教育は、絶対に出来るはずなのである。

その時には、「自分が大人になった時には自分の子供だけには、そういった教育は受けさせない。」と思ってきたはずなのですが。

 

しかしながら、不思議なことに親達は、自分が親になって、自分の子供の教育の問題になった途端に、自分が幼い時から感じていた教育の矛盾や批判を全て忘れてしまっている。

それどころか一般的な社会通念上の観念論が、自分の教育の総ての正論になってしまって、自分が学生時代までに抱いていた感情は、自分が大人として未成熟であった結果だと考え直して、そういった若い時期には自分自身でも批判していたはずの、過去の教育界が犯してきた誤った教育法を、それ以外の選択肢がない社会通念として、信じ込んでしまい、再びその過ちを繰り返すことになるのだ。

叱られて、怒られて、しかし、どうしてもその努力が実らなくって、辛い思いをしてきた。

しかし、自分の子供ならばきっと達成できるに違いない、と自分の子供に過剰な期待をする。

自分は、もしあの時、あそこでもう一踏ん張り出来たら、今の自分はきっと違ったものであったろう!?

だから、自分の子供にその努力をもう一度させて・・・・、と自分のトラウマを、自分の子供に託すのです。

そういったトラウマが今日、勉強で成績を上げることが幸せをつかむための唯一の目標であるように錯覚をさせる原因にもなっている。

この話はまだ後進国であった日本の国が外国に追いつき追い越して、経済大国として世界に君臨するまでには大切な要素であったのだ。

 

私たちの国日本でも、経済復興の時代においては成績をあげてよりよい大学、よりよい会社に就職することがエリートになる最良の方策だとして、塾ブームなどを生み出す原因にもなった。

近年、お隣の国の韓国でも塾ブームが起こり、その過熱ぶりは我が国のそれを上回るものがあった。

しかし近年はそういった塾ブームは徐々に沈静化しつつある。

しかしながら相変わらず我が国では、子供の教育を塾にゆだねるという考え方がいまだに教育界の主流を占めている。

こういった教育産業に対する過熱は、戦争などによる飢餓のトラウマに深く根ざしている。

私たちの世代は、戦後の復興の世代でもある。この間テレビを見ていたら、世界の国が革命や戦争で国情がとても不安になり、日本を含めた世界の企業が、ある国への企業進出を諦めて、撤退しようとしているのに、韓国の企業戦士だけは「命を賭しても、会社を守り抜く」といって悲壮な覚悟でその国に残っていた。1社だけになれば他の大手企業と競争する事なく、その国に地盤を完全に作ることが出来るからだ。

お隣の韓国の企業戦士が、革命が起こって世界の企業が撤退している中で、「世界が撤退している時にこそ、我々の国の企業がその国に根付くチャンスである。」と命がけで、戦火の国で働いている姿を見て、私自身の若い頃の姿である、団塊の世代の「会社、命!」の企業戦士たちを見るようで複雑な気持ちであった。

 

しかし、もはや世界の先進国となった日本の若者達にはそういったハングリィーな精神の持つ意識付けは成り立たないのです。そういった現代の若者の事には、社会は考えが及びません。理解することが出来ないのです。

そのために子供達と大人の意識の格差がどんどん開いてしまい、結果として教育の矛盾が起こってしまう。


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[安定志向について]

日本社会の教育の根幹を成す物は、安定志向である。徳川家康は自分の為政が未来永劫続くために、一切の改革を禁止した。河川が幾ら氾濫して、何人の犠牲が出ようと、お城が崩壊しようと、釘一本を打つのにも、政府に許可を求めさせた。発明、発見などをしようものなら即刻死罪になった。

それがどんなに民衆のためになるものでも、絶対に許さなかった。

そういった家康の改革を望まない安定志向の為政は、それ以降300年、400年と続く日本の封建制度の基礎を固めるのに充分であった。

現代の音楽社会にも残っている家元制度の口伝に拠る一子相伝は、子弟が師匠を追い越し、追い抜かないための手法である。

新しい物を否定し、完全に師匠のコピーである事を求める。

そうすれば家元制度は崩壊する事はないからである。封建制度が一般大衆に受け入れられて、現代の日本人にもしっかりと根付いている、その最たる理由は、大衆は常に安定志向を求めるものであるからだ。

家元制度が今日でも認められているのは、「家元制度で上位に位置した者に対しては、それ相応の収入を確約されている」からである。

つまり「流派を襲名する事」や「お店ののれん分け」などによって確実に新しい顧客層を得ることが出来たからである。

自分に自信がなければ、「寄らば大樹の陰」でも生活は成り立ったのである。

 

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[寄らば大樹の音楽社会

しかし、そういった意味では、クラシックの音楽界では家元制度は無意味である。

音楽の勉強をしている学生が、一旦一般の社会に出てしまうと、**先生の弟子という肩書きだけでは、顧客層を得ることは出来ないし、それで演奏会をやってもお客様が集まる事はない。

高々100年ぐらいにしか過ぎない、それもお上からの押し付けの音楽の教育界ではそんな家元制度と言えるほどの、土壌は成立してはいない。

ましてやオーケストラなどに、就職しようと思っても、全くの実力の世界であって、学閥などは存在しない。ましてや**先生などという人脈もないのである。

寄らば大樹などと言うものは、音楽の世界に限ってはないのだよ。

プロオケには東大や、早稲田、慶応などの一般大学の卒業者が意外と多いんだよ。N響等を調べてごらん??

音楽学校を卒業した途端に、有名教授達の抱える教育音楽界の縁故は、全く通用しなくなってしまう。
それなのに、音楽のproを目指す学生達にとっては、proになる道は相も変わらず、音楽大学の教授に師事をして音楽大学を卒業して、りゅうがくして・・・というコースしかない。それにプラスアルファー・コンクールにでも入賞していれば、万全だと信じている。
こればっかりは、「信じる者は、救われない」のだよね。困ったことにね!!

 
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[お仕着せの民主主義]

本来、儒教の国であるべき中国よりも、日本や韓国に儒教の影響が強く見受けられるのは、今日の社会制度が日本人が自ら勝ち取った制度ではないからである。

つまり、日本の歴史上の改革は、明治維新にしても、昭和の戦後の憲法にしても、日本人が自らの手によって得た物ではなく、常に外国から与えられたものであるからだ。(現代の日本国憲法はアメリカ軍のGHQが作ったものであるのは、周知の事実である。)

そういった意味合いにおいて、世界の歴史学者は、「日本の国の民主主義は未成熟である」という、一致した見解を持っている。第2次大戦の時に、日本に被害を被ったアジア諸国が、日本に対して過敏なまでに恐怖感を示すのは、日本の民主主義があくまで外国からのお仕着せであり、本来の日本人たちは、戦前の儒教の精神をいまだに失っていないからである。

 
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[幸せすぎる子供達]

親の要求にこたえて、青春の時期をただひたすら、勉強に励んで来た若者たちとは違って、こういった厳しい受験戦争に見舞われることもなく、すべてに満たされて育って来た子供達もいる。

塾や学校の成績についても、親達はそれほどムキになるわけでもなく、部活やお稽古ごとにも人並みに活動して来た子供達である。

親の経済力の力で、成績はよく、お稽古事も非常に優秀である。

幸せすぎて、それ以上望むものもない。

しかし、そこには何かが欠けているのである。

つまり日常生活の中で、すべてが満たされているので、何に対しての要求がないのである。

今が幸せだから、将来の夢や希望が全くないのである。

親から与えられるもの以外は、何も求めない。

お人形のように従順で、よい子である。

人生、しあわせすぎても不幸せなことだ。

人間、満たされすぎると、人生の目的を見失ってしまう。

それは若者にとって最大の不幸せな出来事である。

しかし一般の親達は、それが人間として1番大切なものが欠けている、欠落した危機的状況の子供であることを理解しようとはしない。

 

そういった安定志向の考え方は、グローバルな、常に変革を求める現代の世界にはすでに通用しない。

学校教育のあり方、塾教育のあり方自体が、既に世界の波から否定されているのだ。

嫌なことを一生無理してやることよりも、好きなことを苦労した方がどんなに幸せだろうか?

 

北海道の朝日山動物園の園長さんの言葉を引用すると、「いまの若者はやりたい事が見つからない・・・と言うより、やりたい事が無い。」のだそうな!

 

私自身も常日頃、生徒達には「幸せとはやりたい事をやれる瞬間である。」と教えている。

自分の夢を持てない社会、やりたい事を見出せない社会は、不健全で不幸せな社会である。

 

目的の無い人生、それこそが人生最大の不幸である

 
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[教育の真の目的とは]

他の論文でもたびたび私が語っているように、有名大学に入学するための勉強や、いや、その大学自体すら何の人生の目的にもなりえないのだ。もっと究極的にいえば、会社の就職ですら人生の目的とはなりえない。それはあくまで生活のための手段にしかならないのだ。

成績を上げることが人生の目的ではない。

そういったことは一般にはなかなか理解してもらえないことではあるのだが、そういった人間の根源的矛盾が、引き篭もりや心身症を現実的に生み出して行って、私たちの若い頃のような、それは特殊なものではなく、今日ではごく一般的な、しかも重大な社会現象となっている。

繰り返し言うように、小、中学校の勉強や大学に入学する事、強いて言えば会社に就職することすら、人生の本当の目的を得るための手段であり、目的そのものではない。

人はいつの間にかそういった原点を忘れてしまって、何時の間にか、目的と手段を取り違えてしまっているのだ。

「強いて言えば、就職をすること、会社に入ること、それも人生の目的とはなりえない。」という言葉の意味は、より良い会社に入る事は、本来的には、安定した日常を得るためである。

しかし、安定した収入を得るために、或いはより高収入を得るために、非常に競争の激しい会社に就職して、燃えつき症候群のようになってしまう人たちも多数見受けられる。

つまり、今の社会の状況で高収入を持続することは、自分の命を削っているようなものにも思える。本来は就職は、安らかで安定した日常を求めるためではなかったのであろうか?

では、安定した日常では、何を目的とするのか?

そこのところがなければ、真の意味での目的にはなりえない。

勉強とは、本来は人生の目的を得るための手段にしかすぎないである。

しかし、今日は勉強そのものが人との比較、差別化として、若者の目的となってしまっているのだ。そうして、一番身近で親しくならなければならない、自分の友人を作ること、そう言った対人関係を作れるような思いやりの心を持つことを勉強することはなく、ただいたずらに人と自分を比較する事でしか自分のi dentityを見出せない。

そういった矛盾が今日社会のひずみとなる、色々な問題を引き起こしている。

音楽が好きな人ならば、誰でもBeethovenの第九は聞いたことがあるだろう。

その歌詞は・・・

Wem der gross Wurf gelungen,eines Freundes Freund zu sein,

Wer ein holdes Weib errungen,mische seinen Jubel ein!

Ja,wer auch ner eine Seele sein nennt auf dem Erdenrund!

Und wers nie gekonnt,der stehle weinend sich aus diesem Bund.

「一人の友を真の友にするという大きな難事に成功した人、

また優しい女性を得ることの出来た人、

そのような人々は彼らの歓声をあげよ。

そうだ、地球上において、一つの魂でも自分のものと呼びうる人もまた歓声を上げよ。

しかし、これの出来なかった人々は、涙を流しながら、この団結から立ち去れ。」

(諸井三郎訳)

Beethovenが歌っているのは、人間の幸せとは、金銭的なことではなく、人を愛し、人から愛される事であると歌っている。

子供が幸せになるための方法を教え、導く事が、真の意味での教育と言う事ではなかろうか?

そうすれば、孤独になることも、不幸せになることも、飢える事すらない。

 

08年 12月 第三稿脱稿
江古田一静庵の寓居にて
一静庵庵主 
芦 塚 陽 二 拝






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