音に溺れる konsonanzのお話

Pianoのpedalによる音の濁りとviolinのbowの押さえ付けによるキシミの音




音に溺れる!
(konsonanz共鳴音のお話=楽器を響かせるという事について)

日本人が西洋音楽を学ぶ上では、音に対する感性で、とても困った問題(性質)が二つあります。
それぞれが、日本のヨーロッパの音楽を学習する上でのneckになります。
その一つがnoiseに対しての感覚です。
noiseというと、雑音や騒音だけを考えてしまいますが、noiseには下記に説明をする音楽上のkonsonanzの音も含まれます。楽音とは一定の波形を持つ音とされますが、その場合には打楽器は楽音を出す打楽器と、noiseによる音型やpitchを持たない楽器に分類されます。

日本人は世界中で唯一の左脳国民だと言われています。
その感性は、木の葉擦れの音や雨の音、風の音を、心象を表す音と感じることです。
つまり、日本人にとっては、木の葉ずれの音や川のせせらぎ、果ては夏の蝉の鳴く声にすら心象を感じて美と捉えるのです。・・岩に染み入る蝉の声・・という感じで・・。

俳句等で、古池や 蛙飛び込む 水の音・・・・日本人なら、誰でも知っている句ですが、西洋人には、意味が全く分からない。
そもそも時雨の音を聴いて、切なくなるという感情はヨーロッパ人にはないのですよ。
雨の音は、雨の音に過ぎないのであって、時雨の雨音を聴いたからといって、決して私のように、鬱を表す心象にはならないのですよ。つまり、雑音は雑音に過ぎないのであって、noiseはヨーロッパ人にとってはnoiseに過ぎないのです。

だから、先ほどの芭蕉の句である「古池や・・」も、絶対的な孤独と無限の時間を切り裂く一個のpoint(所謂、音)という概念は、西洋人にはないのです。
それでnoiseのお話をすると、今度は音の中に含まれる音を豊かにするnoiseも雑音と解釈してしまう。
アメリカの法律とは違うのだから、「赤ちゃんを電子レンジに入れるな」という注意書きがなかったからといって、赤ちゃんを電子レンジで暖める人はいないと思うよ。
音はnoiseがあって始めて個性を持つ音に成りうるのであって、noiseのない音は時報の音ぐらいでしょう??
私が言っているnoiseとは、音楽の音を阻害する雑音の事を言っているのです。
楽器の音に本来含まれるnoiseを私達音楽家はnoiseとは言いませんよ。

アメリカ人やヨーロッパ人の間にも、俳句が流行しているし、それどころか、日本人が自分で英語やドイツ語で俳句を作るという事もよくなされていて、私も見る事がありますが、作った俳句を見ると、根本的に、日本の俳諧とは、心象の受け取り方に、感性の何かが違っているのが分かります。
明治の乙女である祖母が、「即物的」と言っていた、物事に対する受け止め方が、逆の立場で、日本人特有の左脳型の情緒的な受け止め方とは、現代俳句の世界でも、そのsomethingが根本的に違って来るのです。

この事が、西洋音楽を学ぶ日本人の感性の問題になった途端に、大変、困った事を引き起こしてしまうのですよ。
つまり、音楽を学ぶ日本人の多くが、Pianoのpedalを踏んだ時に、音の響きが限りなく濁っていくwhitenoiseに対して、無神経なのです。
Pianoのpedalによる音の濁りを、汚い音、(noise)という風に認識しないのです。
逆にそういった、濁りのない音楽を、「心もとない」と感じてしまうのです。

だから、「日本人の持つ音の感性」というPageにも、書いているように、日本人の音楽家や音楽を学習する人達は、pedalを踏みっぱなしして音を濁らせて弾いていても、それを汚いとは感じないで、「背景の音」としか感じないのですよ。
私達が聞いていると、いったい、何の曲を演奏しているのか分からないぐらいに、 pedalでゴワゴワと音を濁らせて弾いているのに、本人たちは自己陶酔してしまっていて、全く無感覚なのです。

それは、Pianoを学び始めた最初から、「教室のmethodeで厳しくpedalingを学んで育ったはずの生徒達」でも、ほんのちょっとpedalに対してのcheckをおろそかにしていると、すぐに音の濁りを聞き取ろうとしなくなります。
自分が打鍵した瞬間の音だけを聞いて、響いている残っている音を聞こうとしないのです。
ヨーロッパの人達はこういった、unsichtbar(不明確)なnoiseを極端に毛嫌いします。
それは、unsichtig(不確定性)の音楽であるDebussyの霧に漂う光景のようなpedalingですら、そこに本来あるべきでない音の要素、unsichtig(不確定的)な要素が加わるとヨーロッパの人達は極端に嫌がります。

音の洪水に溺れていても、ヨーロッパ人の場合には、klar(=clear=澄んだ、透き通った、濁りのない、ぼやけていない)音を求めます。
そこが日本人の茫茫としたunsichtbarを求める国民性と基本的に違います。

もう一つの音の感性は、Munchen時代の私の師匠であるGenzmer先生が、「耐え難い!」と言っていた、浪花節などの喉を締め付けて発声する日本独自の発声法です。
ヨーロッパ人にとって、耐え難い音なのに、日本人には、極普通に聞こえてしまう、というアジア人達の発声法、・・・これは高温多湿の、木と紙の家に住んでいる日本人独自の感性であります。
高温多湿で、しかも石造りでない家の場合には、部屋に残響が全くありません。
フリュートのような管楽器を、畳の部屋で演奏すると、実に情けない音になってしまいます。
つまり、同じ笛族の楽器でも、ヨーロッパの管楽器と、日本(アジア諸国)の管楽器では、根本的に構造が違います。
勿論、篠笛のような、単純な構造を持つ管楽器は、世界中どの国でも同じ構造です。
それは楽器の成り立ちの歴史から、当然の事です。

高温多湿の竹の国では、日本の笛のように唄口とトーンホールの間に、喉と呼ばれる穴を絞め上げた場所を作り、空気の流れを鋭くした方が音の飛びはより良くなります。壇ノ浦の海上の合戦の時のように、海の上では通常の音は届きません。日本の笛のように喉のある笛を使うと、海の上の離れた船に対してでも合図を正確に送ることができます。ほら貝の音と能管の音の違いです。
そういった高温多湿の国の独自の発声が演歌や民謡などのコブシなどにも普通に使用されるようになっていて、それがヨーロッパ音楽を学ぶ音大生や日本で活躍する声楽家たちのネックになってしまっています。

日本人の音楽家たちが出すキンキンカンカンした音や、明治の中ごろに生まれた祖母がいみじくも、いつも言っていた「鶏の喉を締め付けられた時の声のような、キーキー苦しげな声」とか、金槌で鋭くカンカンぶったたいた音や、じゃらんじゃらんしたピアノの音、ギーギーガーガーと引き裂くような押さえつけた弦楽器の音が、日本人の本来の持つ固有の音である事は否めません。
それが高温多湿の国の音の特徴であるからです。

アジアの楽器の基本は、モンゴルの馬頭琴や中国の二胡のように、共鳴させるための胴を持つ必要は無いのです。音を響かせて出すわけではなく、弦をこすって音を絞り出すというimageなのだからなのです。
テレビで流れて来る日本人のヴァイオリニストやチェリストの音を、聞くとはなしに聞いていて、何時も感じる違和感(不自然さ)にある時にふと気付いた事があります。「ああ!これは二胡の音だ!!」「馬頭琴の音だ!」・・と!!

良い楽器の条件は、勿論、より美しい音を出せるのか?この或いは一見するとこのTheseと矛盾しているように思われてしまいますが、どれぐらいの表現力を持つのか?という機能的な特性が優れているか?が、大きな条件でしょう。
しかし、もう一つ重要な要素は、その楽器がどれぐらいの音量を出せるのか?という事も非常に重要な楽器選びの条件となります。

良い楽器を探す時に、その楽器がどれぐらい将来的に音量を持つのかをkonsonanzを当ててその楽器の可能性をtestします。
一流のsolisteが結構広めの部屋で楽器を鳴らすと、部屋全体が音の洪水になって、音で溺れるような感覚になります。
しかし、2流のsolisteの手によって鳴らされた楽器は,・・・非常にお粗末なもので、目の前に綱引きの細い綱が一本、見えるだけなのです。

もし、日本人の演奏家が強い音で演奏出来たとしても、音が部屋全体に溢れて洪水になる・・という事はなく、目の前に、チョッとぶっと目の綱が見えるだけなのです。

音が見えるとか、洪水になるとか、これはすこぶる感覚的な情緒的な表現ですが、全く初歩の段階から弦楽器でkonsonanzを作る作業をしていると、結構簡単に直ぐに身に付く能力です。
Konsonanzがより大きく響いていく過程は情緒的というよりも直ぐに直感的に理解出来るようになります。
また、良い楽器を買うと、音量的にも、より大きな音が出るように思われていますが、それは大きな間違いです。
より高価なviolinになればなる程、音を出す事が難しくなります。
だから、proの演奏家は、10億以上もするStradivari等の名器を買った時には、その楽器の音を出す(その楽器から音を引き出す)ために、半年も掛かって、作音をします。
良い楽器は、半年ぐらいで楽器店の工房にメンテナンスに出しますが、通常は半年掛かってやっとその楽器が音が出るようになるのです。

一般のviolinの学習者は、楽器(弦楽器)が音が出なくなったら、楽器店にメンテナンスを出して調整をして貰って、「音が出るようになった!」と言って喜びますが、私達は「やっと楽器が鳴るようになったのに、またメンテで、音が出なくなってしまった!」と嘆きます。
そこは、楽器を鳴らせるようにする事が出来る技術を持っているか否かの違いです。

日本人の演歌の発声では、音を発声した後、その音に力を加えて行きますが、日本人の弦楽器奏者には無意識に出した音を後押しする癖があるようです。
勿論、弦楽器の奏者だけではなく、当然、日本人の歌手も同じです。
前、ベルリンフィルのconcertmasterであるSchwalbe先生は、芸大の*教授門下生の出す後押し奏法が、何度日本に来ても、直されていないのに頭に来て、その後押し奏法の事を「エイズ奏法」とよんで、「あなたもエイズに罹っている!」と言って、その患者のレッスンを拒んでレッスンしようとはしませんでした。

Baroque音楽では、その「エイズ奏法」によく似た「後押し」のような奏法があります。
baroque音楽を演奏する時に、「Baroque時代の音楽では、長く伸ばされる音はそう演奏しなければならない。」との勘違いで、まるでエイズ奏法のように、後を膨らまして演奏する人達を結構、よく見受けます。
しかし、それはkonsonanz奏法の勘違いです。
楽器が大きくなればなる程、konsonanzの音は大きくなります。
弦楽器の中でも小さな部類に属するviolinは、konsonanzを響かせるのが難しい楽器でもあります。

私達がKonsonanzの奏法を、オーケストラ等の複数の生徒達に同時に説明する時に、violin等の小さめの楽器では、konsonanzが生徒によく聞き取れないために、viola da gambaやcelloぐらいの大きな箱(共鳴箱)を持つ楽器で説明した方が、分かりやすくてよいので、violinのレッスンの時にも、チェロ等の楽器を持ってきて、「共鳴音の後鳴り」の説明をします。
本来、弦楽器は、その箱で共鳴する音を増幅するために作られています。
この話も、当たり前と思われるかもしれないので、もう少し詳しくお話しをすると、同じ共鳴の箱を持つPianoやギターのような楽器では、その残響を響かせるだけなので、撥弦した音を増幅する事は出来ません。
弦を張る駒が共鳴板に直接触れていて、魂柱で、その振動を直接伝達する事が出来る弦楽器族は、弦の振動する何倍もの音を増幅して行く事が出来るのです。
それがviolinやcello族の大きな特徴なのです。
しかし、この振動だけでは、弦楽器の大きな、しかも柔らかい音を出す事は出来ません。そこに魂柱と板の振動のpointが作り出すkonsonanzの増幅された音を、弦楽器に教え込むことによって、始めてその楽器が素晴らしい美しい音を出す事が出来るのです。

共鳴音の特徴は、本来の弦楽器の元の音が鳴ってから、その音に共鳴して音が広がって行きます。
ですから、viola da gambaやcello等で、音が正しく正確にkonsonanzに当たると、少し遅れて共鳴音が広がってきます。
それが一般の人達には、ちょうど、後押しをするような感じに、遅れて音を膨らましているように聞こえてしまうのです。

弦楽器を育てるという事ですが、violin等の楽器も、最初はkonsonanzがありません。
一番最初のstageでは、先ず、同度やoctaveの共鳴音をkonsonanzとして、楽器に教え込んで行きます。
小さく響くkonsonanzに音を正確に当てて、その音をどんどん共鳴させていきます。最初は弓でゴシゴシと強制的に響く音を作らせますが、楽器が鳴り始めた時から、その響きを残したまま、芯となる弓のアルデンテな糸の音を消して行きます。
そうすると響きの残響の音だけが楽器に残り持続します。
そうすると柔らかいbaroqueの独特の響きが作れるようになります。

勿論、主音と属音、下属音を持つ調は、violinの場合にはD Durやd mollです。A Durやa mollもその全てを開放弦にkonsonanzとして持っています。
弦楽器をよく響かせる・・・つまり、弦楽器の時代という事が出来るbaroque時代や古典派の時代の曲に、D Durやd mollの曲が多いのは、konsonanzの関係なのです。

先ほどの楽器に対してのkonsonanzを育てる事が出来たと言う時、つまり、同度の開放弦が大きなkonsonanzを出すようになると、今度は、その5度や4度上の音もkonsonanzを持つようになります。
また、Tartini音と呼ばれる、Tartiniが発見した差音と加音と呼ばれるものもあります。
音にはそれぞれに倍音を持ちます。
良い楽器というのは倍音が多い楽器であるといっても良いでしょう。2つの音を同時に鳴らすと、その二つの音の倍音間で、差音がなります。
もし、それを演奏する人が聞き取れなかったとしても、楽器の音量しては、明らかに異なってくるのです。
完全に響く3度には、独特の倍音が派生します。
それが聞き取れるようになる事が、proになれる第一の条件となります。
でも、しか、自称proではなく、本当の意味でのproの演奏家になれる・・という事です。

先程も言ったように、Baroqueの作曲家達は自分の曲に楽器のkonsonanzの音が最大に引き出せるように作曲をしました。
歴史に名を残す作曲家や、弦楽器の名工と呼ばれる人達が、konsonanzのために、優れた技術の粋を尽くして、作り上げたものを、日本人の持つ東洋的な感覚で壊してしまうのは、いただけないのですが、力で弾いた音が強いより良い音・・・という感性や、noiseに対しての無関心、それが日本の音楽家達の音楽に対する感性の主流であり、また、日本の音楽の教育界の常識なのです。

baroque時代や古典派の時代は弦楽器の時代とも言えます。
violinでは、konsonanzの基本である開放弦の音は、e,a,d,gの音です。当然、それ等の音に一番konsonanzが含まれます。ですから、Tonikaの音、dominanteの音、subdominantの音を持つ調性はAとDの調になります。Gの調はsubdominantの音は持ちませんが、E調のように、dominanteがない調よりも、subdominantのない方が有利です。
という事で、殆どの曲が以上の調で作曲されています。

初めてviolin等の弦楽器を習う生徒は、konsonanzを学びます。
開放弦の音がある別の弦の音で、極めて短くピッ!ピッ!と、弓で弦をはじきます。開放弦の音と同じ音になると、ピーン、と余韻の音がなります。それをkonsonanzの音だと言います。
初心者に関しては、konsonanzの指導は私達の教室でも同じように指導します。
しかし、本当は、その音を幾ら正確にあてて演奏しても音の広がりは、ある程度以上は出ません。
それは、弦の共鳴であるだけで、本当のkonsonanzとは言えません。

実際のkonsonanzの音はその音よりも低い位置にある事の方が多いのです。
注意深く、音を出しながらpitchを調整していくと、もわ〜!というnoiseのする場所があります。
そのもわ〜!というnoiseを可能な限り響かせて、最初のアルデンテの音の芯を抜いてvibratoをかけていきます。
そうすると、今度はもわ〜!ではなく、ぼわ〜!!という唸りの塊の音がして、一気にviolinの音量が2倍、3倍と大きくなって来ます。
これが本当のkonsonanzの音なのです。
その倍音が出始めたら、vibratoをしながら、共鳴するぼわ〜の位置を上に少しずつ持っていきます。
無理をして、一気に上げようとすると、ぼわ〜が一瞬で消えてしまいます。
そしたらまた、最初のもわ〜からはじめなければなりません。
もわ〜をぼわ〜にして、それから少しづつ、ぼわ〜の位置を上に上にと持っていきます。
通常、そうして望みのpitchになるまでは、半年は掛かります。
楽器が鳴るようにするための、楽器へのトレーニングです。
それを通常は作音という言い方をします。
安い楽器は、ピッ!ピッ!しか、しません。
高価な楽器になればなるほど、もわ〜からぼわ〜への楽器のトレーニングが必要なのです。

Stradivariのような天文学的に高価な楽器であったとしても、最初から音が出るわけではありません。良い楽器になればなる程、このトレーニングからは逃れられないのですよ。

私達が対外出演をする度に、「小、中学生の子供達で、人数もこんなに少ないのに、どうして大orchestraのような、音が出せるのですか?」と不思議がられる事がよくあります。
一人一人が、自分の楽器の作音をして、余韻をフルに響かせるから、小人数の子供達の分数の楽器であっても、それだけの音量を出す事が出来るのです。
しかし、konsonanzの事を、分かるようにちゃんと説明するのは難しい。
だから、「violinのmethodeが違うからですよ。」といって、お茶を濁す事にしています。
konsonanzと言っても、意味が分からないからね。
八千代の対外出演Corelli=Geminianiのla folia

音楽を勉強していても、その「もわ〜」とか「ぼわ〜」という事を、幾ら説明しても聞き取れない人が多いのですよ。
Cembaloの調律の時も、低い音になると、pitchが分り難くなるので、音を聞き取って正確にtuningするのは難しいので、倍音のうなりを聞いてtuningします。
でも、人によっては、それが聞こえない人も結構いるのですよ。
そうすると、Cembaloの最低のoctaveは音が合わせる事が出来ない。
そこは、慣れですかね??







日本の常識は、世界の非常識と言ってね・・・???
困ったものです・・・!!!