芦塚陽二  
プロフィールのPageです。
profileと言うと、一般的には履歴の羅列になってしまうようですが、例えそれが音楽歴であったとしても、人の履歴とは、実につまらないものです。
私の場合には、そう言ったprofileは、出版物に書き添えている履歴をそのままhomepageにも掲載していたのですが、それにしても、Pageとして成り立っていないつまらないPageなので、今回は、このprofileのPageを、読み物風に書き換える事にしました。 


                          



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産まれ故郷の思い出

中学生高校生の時代

音楽大学時代

Munchen留学時代

帰国後から大学講師時代

音楽教室を開設して

教室倒産の危機

音楽教室の再建

period研究室開設

神々の黄昏U

闘病記と音楽教室


人生の黄昏に


                    Mein Lebenslauf
mein Lebenslaufとは言っても、自伝を書く程の人間でも無いので、音楽に関係した事だけの思い出をpickupして、徒然にお話して行く事にします。

音楽大学時代の練馬区の旭ヶ丘のアパートでのportraitです。多分、around20の頃の写真です。
正装のsuitを着ているのは、Pringsheim先生のlessonの前で、lessonは正装で受けます。

略歴

1965年4月に音楽大学に入学し、長崎から東京へ移住(音大時代)して、4年間音楽大学で学ぶ。

音楽大学作曲科にて
1965年4月19歳で音楽大学に入学、
和声法 対位法 作曲をProf.Klaus Pringsheim氏(グスタフ マーラーの高弟 ブルーノ ワルターの兄弟弟子 トーマス マンの義兄弟)に4年間師事する。
Pianoを 外山準 奥田操 他 Cembaloを中川淘の各教授に師事する。
Mahlerの門下でThomas Mannの兄弟のPringsheim教授とHindemithの高弟でドイツの代表的作曲家であるGenzmer教授に師事しイタリアの国際作曲コンクールで1位に入賞した。
Munchen国立音楽大学作曲科にて

1969年卒業と同時にMunchenの国立音楽大学に入学し、Hindemithの高弟でドイツの代表的作曲家であるGenzmer教授に師事する。
1972年26歳の時に、イタリアの国際作曲コンクールで1位に入賞した。
作曲 orchestration generalbass scorereading
音楽理論 特殊音楽史 等を Prof.Harald Genzmer氏に師事する。
Otto Winkler教授に指揮法を、PianoをDiel教授に学ぶ
1972年の11月より、
1973年の10月までの、1年間、長崎にて療養生活を送る

大学講師時代
1973年の10月より、
1979年3月まで大学講師を務める
写真は大学講師時代の担当のclassでの音楽劇の発表の時の記念写真です。

(講師離任後のmoratorium時代)
1979年4月より、1983年7月まで(数名の生徒を指導)

1983年(昭和58年38歳)芦塚音楽研究室を千葉の花園に開設する。
芦塚音楽研究室附属花園音楽教室




         芦塚陽二のLebenslauf
産まれ故郷の思い出
子供の頃・・という事なのだが、所謂、就学年次前の幼い頃には、田舎の唯一の娯楽と言ったら、radioから流れて来る音楽で、田舎の家では祖母が外で庭弄りをする時にも、大きな音で掛けっ放しにしていた。
隣の家とは結構離れていたので、音が聞こえて近所迷惑になるという事は無かったと思うよ。
そんな田舎だったからね??

祖母は長唄が好きで、良く聴いていたのだけど、私には長唄や民謡は、難解で、耳に残る事はなかった。

しかし、Classicの音楽が流れて来る時には、一度聴いた曲がそのまま、頭の中で洪水のように何度もendlessでrefrainして、流れて来て、頭にこびりついてしまうので、結構、自分としては苦しいものがあった。

当時は、頭の中の音楽をどうして消せば良いのかを悩んだものである。
何とか他の事を考えて、頭の中の音楽を払拭しようと努めていた。

小学校に通うようになってから、長崎の学校から再び故郷の田舎の学校に転校した時に、前の学校の音楽の教科書しか無かったので、前の小学校の教科書に書かれている楽譜で歌ったら、一人だけ別の調で歌っていて、音楽の先生が驚いていて、「楽譜が違うからだ」だと、私に教えてくれたのだが、それが絶対音感であるという事は、知る由も無かったので、相対音感を身に付けるために(皆と同じ調で歌うために、)色々と苦労をしたのだった。

その発見は、自分一人で曲を歌う時に、同じ曲を色々な高さで歌えると言う事を発見した事だったのだが、それが相対音感で、移調という事である・・・という事は知る由もない、折角の絶対音感を自らの手で失うという・・哀れな小学生であった。

まあ、郷里の田舎の町には、Pianoが小学校に1台と音楽の先生が持っている1台だけで、後は全部の学校がブカブカオルガンの時代だったのだからね??
音楽教育とは言っても、ただみんなで、歌(=文部省唱歌)を歌うだけだったのだ。

私の幼い頃には、未だ、明治時代から、何一つ・・、・・・否、江戸時代から何一つ変わっていない時代だったのだよ。

五厘という小さなcoinを握り締めて、掘っ立て小屋の駄菓子屋に駄菓子を買いに行った時代で、若衆小屋があったり、もぐら叩きの風習があったりした江戸時代そのままの、古き良き時代だった。

洋楽なんていうハイカラなものは、産まれ故郷では知る由も無かった。

戦後の昭和の20年代というのは、一部の地方、つまり、東京や大阪のような、経済圏の都市を除いたら、まだまだ、江戸と明治と大正が同居するような時代だった。

「夕陽ガ丘」も「サザエさん」も、東京の下町だしね??



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中学生高校生の時代
中学生の時に家にあった足踏み式のブカブカオルガン

中学生になった頃には、「田舎の町では勉強が出来ない」と言う事で、お袋が働いている長崎の町に引っ越して、お袋が入っている「労音」という組織で、演奏会に連れて行って貰った事が何度かある。

proの外国人のpianistの演奏や、orchestraの演奏を始めて聴く事が出来たのだけど、やはり、子供にはClassicは、難しかったのだよな??

感想を問われれば、「良く眠れた」・・という感じかな??アハッ!


中学校でも音楽部というか、合唱部があったので入部を申し込んだら、女子しか居ないという理由で断られてしまった。
まあ、長崎の町でも、「音楽は女子の教養」・・そんな時代だったのだよ。


しかし、不思議な事に、高校に入学したら、合唱部では、先輩の男性達がいっぱいいたよ。
しかし、ブラスは私立の高校にしか無くて、音楽部は唯一合唱部だけだったのだ。

合唱部の男の子達は、みんな殆どが東大進学生で、東大の柏葉会合唱団が我々の高校の卒業生の集まりの合唱団なのだそうな??(音大時代に何度か、遊びに行った事があるのだけどね。)

当然、成績の悪い生徒は私一人だったのだが、それで差別される事も、イジメられる事も無かったよな??
「成績が悪いから」・・と言って、虐められるような時代では無かったのだよな??そもそも、イジメという言葉自体が無かった時代なのだよ。

合唱部のrepertoryは、Renaissanceのmadrigalから・・とか、石井歓等の近現代の作曲の物等、結構冒険的な曲が多かったよな??

勿論、成績が悪くても、特筆する物を持っていれば、それで、認めて貰える学校だったので、授業は退屈だったけれど、寝ていれば、先生からも、当然生徒達、友人達からも、文句を言われる事は無かったので、まあ、それなりには、住みやすかったよな??

女子バレー部のキャプテンの美女の女の子・・とか、パチンコ屋の倅とか、兎に角、勉強しない連中がストレートで東大に入学していた変な学校だったよな??


私の産みの親も、養父も医者なので、子供が医者になる事を望んでいたのだが、不思議な事に、優秀な私の兄貴ではなく、劣等生で引き籠もりの、私が・・当然、医者の道を継ぐものだ・・と近親縁者は思っていたようで、音楽へ進む事等は、小学校の時から言い続けていたのにも関わらず、誰一人としてそれを認めてくれる人はいなかった。成績も悪かったし、それなのに、何故??って言う感じだったのだけどね??

当然、医学部に進学するものと思い込まれていたのだが、高校1年生の後期に、重篤な病気になって、大学病院に緊急入院する事になる。
結局、1年間の休学を已む無くされた。

「その体では、医学部を目指すのは、もう、無理だろう?」という祖母の一言で、近親縁者達は、私が医学の道へ進む事を諦めてくれた。

そして、音楽の道に進む事を「河原乞食になるのか??」と絶対反対をしていた、祖母が「学者になりたいのだよね??」と、不思議な思い替えをしてくれて、音楽大学への進学を認めてくれたのだけど、それはあくまでも、自分で入学金や、授業料、生活費を稼いで・・の話だった。
つまり、「金は出さないけれど、自由にして良い!」という意味なのだよ。

しかし、そこで、祖母は私のために英断をして、祖先からの畑を一つ売って、Pianoを買ってくれた。
私が音楽を勉強したがっていたので、哀れに思ったのだろうか、「生前の遺産と思ってくれ」という話だったのだが、とても感謝だったよな??
それが、ボロボロのPianoと評価された、教室では一番高価な黒Pianoである。

音楽大学への勉強に対して一切の援助はしない・・というのは、つまり、養父なので、「病院を継がないのならば、高卒で充分だから、高校を卒業したら働きに出ろ」という意味なのだ。

それでも、音楽の道を諦め切れなかった私は、高校に復学して、僅か1年間で、Pianoや和声学や、楽典solfege等を一人で学ばなければならなかった。

つまり、浪人は認めて貰えなかったからだ。

Beyer教則本を3ヶ月でmasterして、残りの半年でCzerny教則本を40番まで終了させて、何とか受験に必要な課題曲を弾き熟すだけの技術を習得した。





その当時の、私の特技は、1回譜読みをすると、覚えて弾ける事だった。

しかし、その得難い特技は、受験のために新しい先生に師事する事に寄って失われてしまう。

暗譜でのlessonは禁止だったのだよ。

「ちゃんと譜面を見て弾きなさい!」と厳しく怒られたので、ネ???

その結果は、私の周りにいる他の人達と同じように、暗譜に苦労するようになってしまったよな??

いずれにしても、僅か1年で、音楽の技術を音大の水準まで持って行くのは、結構、大変だったよ。

但し、そのPianoの先生が和声も見てくれたので助かったのだけど、結構、東京で専門の教授に見て貰ったら、間違いが多かったよな??

Piano科の出身だから、和声が指導出来る・・というだけで、驚きなのだけどね???
その当時の長崎には、和声学の知識を持った先生など、居る分けは無かったのだからね??


果てさて、それからの問題は、受験に必要な課題である、一人での独学が出来ない・・「聴音やsolfege、楽典等をどうするか??」・・という問題なのだよね??

当然、地方都市の長崎から音楽大学を受験する人達はいないので、そういった主科以外の教科を指導出来る先生はいないし、もし、仮にいたとしても、それ以上のお金は、どこをはたいても出ないし、それ以上は何も、親に頼る事は出来ないし・・・ね??


当時は、私の高校からではなく、長崎市の全体の高校から音楽大学を受験する生徒が私を含めて3人しか居なかった。

それをどうして、知っているのか??・・というと、市や県の主催の全高校の合同の発表会等である。
そこで、極稀にしか居ない音大への受験生は、当然目立つのだよ。
という事で、楽に知り合う事が出来る。
普段ならば、絶対にお喋りをする事が許されないお嬢様学校の女生徒でも、知り合って情報を交換する事が出来るのだよ。

当然、音大を受験する生徒達の抱える問題は共通なので、私が、アパートで一人暮らしをしている私の部屋にみんなを集めて、solfegeや聴音、楽典やその他の必要な教科の勉強を皆で一緒にやった。
勿論、みんな喜んで参加してくれた。

rival高校の生徒で、東大受験100%合格確実・・というのを棒に振って、「音大を受験したい」・・という変わり者の彼や、教育長の娘で桐朋の先生に子供の時から遠距離lessonを受けていて、桐朋学園を受験するのが決まっている彼女との3人であった。

週一の集まりは、自主的な勉強なのでただで出来たからね??
アハッ!

それに、一人で勉強すると、兎角、無味乾燥になりがちな受験のための音楽の勉強が、友人達と一緒にやる事で、結構楽しく出来たぞよ!!

写真はみんなで夏期講習へ一緒に東京に行く時の写真です。・・とは言っても、東京に着いたら、受ける大学が違うので、東京駅でバラバラになってしまうのだけど、その道中も楽しかったよね??

そうした地道な工夫もあって、夏休みに東京に行った時には、rivalの女の子でお父さんが芸大の作曲科の教授で兄さんが芸大の作曲科に在学中という女の子が私の課題を見て、「未だ、そんな所をやっているの??」と言われてしまって、超、Shockであった。
でも、半年後の受験直前に、先生の所でlessonを受けていた時に、彼女の答案を見て、「未だ、そんな所をやっているのか?」と言って、長年の(とは言っても半年間の)溜飲を下げたのだが、まあ、なんと大人気ない事よ!!

彼女は当然、入学試験にも落ちた!! 
・・でも、俺の所為ではないと思うよ??多分・・・?? きっと・・??

音楽大学の合格発表を見に行って、無事にに入学が出来て、親に電話で、報告がてら、入学金を無心したら、「そんな金はない」というあっさりとした答えであった。

「まあ、当然、そんなもんかな??」と覚悟はしていたので、九州に戻ってから、叔母に入学金の無心に行ったら、「そろそろ言って来る頃だと思っていたよ。」と言ってポンと快く封筒を渡してくれたよな〜ぁ。

やっと、何とか期限までに振り込む事が出来て、・・・まあ、ホットしたね〜ぇ??
これで晴れて音大生になれる分けだよな??





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音楽大学時代
晴れて、音大生になった分けなのだが、果てさて、東京での生活をどうしよう??

何とか、お袋が義父に交渉してくれて、授業料だけは払ってくれるようになったのと、月1万円の生活費を仕送りして貰える事になった。

これは、最初は期待していなかった事なので、感謝!、感謝!!なのだが、住む部屋は、東京では、Pianoを持ち込むと音大生という事で、ボラれてしまうので、安いボロ・アパートでも、探すのは結構大変だった。

何とか、音大生アパートのPiano持ち込み可の6畳一間の部屋で、トイレ付きで、半間程のシンクとガス台が一個しか乗らない小さな台所のアパートを見つけて借りる事が出来たのだが、それでも当時、1万2千円はした。

昭和38年ぐらいの1万円と言われても、その金銭価値は分からないよね??
でも、当時の東大卒の初任給が1万5千円だと言ったら、想像付くかな??
ちなみに、今の令和では東大卒の初任給は、大体around20万だよ??
つまり、6畳一間のボロアパートが、今だと17万ぐらいに相当するという事だよな??
でも、それが相場だったのだよ。殆どの一般の大学生達は間借りだったのでね??
音大生だけ特別にボラれた分けでもないのだよ。


つまり、折角の仕送りなのだが、アパート代にはそれでも足りないし、電気水道代も払えないのだよな??
勿論、人間は空気だけでは生きてはいけない。
食費も生活費も無いという事なのだよな??


音楽大学ではPianoのlesson時間は、週に1時間なので、Pianoを極端に遅く始めた勉強不足の私には、チョッとlesson時間がもの足りないのだよな??

という事で、受験の時に師事をしたPianoの先生に、privateのlessonをお願いしたら、「学校先生の下見はしないので、別の曲のlessonになるけれど、それでも良ければ、lessonしてあげる」・・という事だったので、Pianoを学び始めたのが遅かったので、受験が終わっても継続して大学とは平行でlessonを受けていた。
大学の先生の課題曲と、homelessonの先生からの課題曲で、楽譜が20冊程度になってしまって、思い切り練習するために、大学の練習室の空き部屋で練習をしていたのだが、楽譜が重くて叶わないのだよな??
今のようにcopy機がある分けではない時代なので、自室で練習をして練習のpointの所だけを覚えて、譜面無しで学校では練習をしたのだよ。
それが私の暗譜のmethodeの始まりだよな??
それに忘れてしまって、学校で練習出来なければ、一日気になってしょうがないので、直ぐに暗譜が出来るしね??

home-lessonの先生に、日頃の生活苦の話をしたら、「男の子は、時々いるのよね〜ぇ」という話で、「lesson代を無しにしてあげようか?」と言われたので、「それでは申し訳無くてlessonに来れなくなってしまうので、生徒を紹介してください。」とお願いした。

大学の教授が生徒を簡単に他の先生にまわすのか??という事なのだが、これは恒例の事なのだよ。
大学の教授classの先生は、「どれだけの人数を大学に合格させたか??」・・・という教授同士の暗黙の競争があるからなのだ。

だから、合格率を上げるためには、確実に合格する生徒だけを受験させて、不合格の予定の生徒達は、自分の子飼いの先生達に、放出するのだよ。

だから、受験の半年ぐらい前になると、しっかりと指導すれば、間違えて合格するかも知れない・・という受験生を講師の先生達に回すのだよ。

次には、3ヶ月程前になると、「ヒヨっとしたら、合格するかも知れない。」という受験生を助教授へ回して、自分には確実に合格出来る生徒達だけを残すのだよ。

では、どうしても合格出来ない生徒は、基本的には教授classの先生達は、最初から受付ないのだよ。

そういった、箸にも棒にも掛からない生徒が、偶然二人居て、「この子達は、誰が指導しても100%不可能だから、破門にする予定だったので、あなたにあげるわ!自由にして良いわよ!!」と言う事で、取り敢えず、2名の受験生を貰った。

まあ、一言で言うと、見捨てられた生徒なのだよね??

お話をしてみると、何が何でも音楽大学に入学したいのだけど、浪人を重ねて、
もう後が無いし、誰からも見捨てられている事が自分でも理解出来ている高校生達だったのだけど、熱心さだけは人一倍だったので、「じゃあ、奉仕して見るか??」という事で、日曜日の朝の9時から、食事抜きで夜の9時まで二人一緒の全ての教科をlessonする事にした。

つまり、私の考え方では、その生徒達は主科の教科では、どんなに頑張っても、合格点の100点満点は取れないのだけど、もし、Pianoの試験でborder lineのホンのチョッと下まで取れるぐらいまで、持って行けるのならば、音楽大学の入試は総合評価点なので、それ以外の教科の試験を全て100点が取れれば、当然、大学に合格出来る事になるのだよ。

という事で、基本の勉強を3ヶ月で終わらせて、後の受験までの半年を、大学4年間の課程を全て教えた。

大学で学ぶ事が全て出来れば、受験なんて、チョロイものだからなのだ。

9ヶ月後の受験が終わって、二人の内の一人は、憧れの音大に総代で入学した。
もう一人も、憧れの音大に総代ではないが、無事に格下の短期ではなく、ちゃんとした4年制に入学出来た。
これは奇跡なのだよ??
勿論、合格のお礼の封筒は縦に立ったけれどね??アハッ!

教授が「何故、入学出来たのか不思議に思って彼女の試験をcheckしたら、私の指導した教科が全て100点だった・・という事で驚いていた。
それからは、信用されて、毎年、落ちこぼれの受験生(!)(そこは変わらないのよね??)を回して貰えるようになったので、生活はとても楽になったのだよ。


Pringsheim先生と
当時の音楽大学は、実につまらない女子大の花嫁学校に過ぎないものであった。

先ず一番に驚いたのは、学生の対外出演の禁止である。
学務に行って、「どうして??」と詰め寄ったら、「学校の恥になるから・・!!」という回答だった。

「そんなlevelなのかな??」と思ったのだが、そんなlevelなのだよな??
演奏の技術が・・というよりも、音楽に対する意識の問題なのだけどね??
お嬢様達なので、演奏の技術はそんなにも悪くはないのだが、まあ、なんともはや、音大生の生活臭の無い事!!

先ずは、学校の改革を・・というと、カッコいいけれど、自分の実力が社会で適応出来るように、自分にためになる事は全て学校を自分に合わせて改革をした。

先ずは第一に、事始めとして、自分一人しか居ない作曲科の作品発表の場を作った。

通論の授業や、音楽鑑賞の授業に押し掛け演奏は当然で、学内Koncertや文化祭も、私の作品発表の場所にしてしまった。

先ずは、私が高校生時代に作曲をした合唱曲やPianoの作品の作品発表を大Hallでやった。
講師の先生や、教授達でも小Hallなので、たかが1年生が音楽大学の大Hallで演奏をするのは、異例の事だったのだよ。

・・・なにせ、音楽大学に作曲科の学生は私一人だったのでね??
やりたい放題だったのだよな??

音楽大学では作曲科の生徒は神様なのだよな??
教授の次ぐらいの地位と権力の使い放題なのだよ。

なんと、練習も大Hallで・・です。
学校には指揮科が無かったので、(指揮の先生は居て、指揮の授業はあたのだけど、とても指揮の授業と呼べるものではなく、私達は壁塗り・・と言っていたけれどね。) 夏休みや、放課後に、Aオケに選抜されなかったmember達から有志を募って、私のprivateーオケを作って、文化祭等で演奏をした。
今のBオケの原型かな??

オケのmemberとしては、同級classの生徒達だけではなく、先輩諸氏や、院の生徒達や、大学の先生達も参加協力してくれた。
何故???
不思議だ!!
私の個人的なprivateなオケに過ぎないのにね??





勿論、楽譜は全部私の個人負担なのだけど、その分は勉強になったので、良しとしよう。


cantataの演奏の時に、basso continuoのCembaloのpartをCembaloの先生に演奏をお願いしたので、その先生にお願いをして、次いでに学校に未だ無かったCembalo科を作った。

Piano科の生徒達の第二楽器ではなく、第三楽器として大学に認めさせて、Cembaloのような古楽に興味を持っている生徒達を集めるために、20問、程度の知識のtestをして、合格者だけをCembalo科として入れた。
勿論、指導はCembaloの先生なのだけど、testの問題は私が作ったので、私がCembalo科の第一号の生徒なのだよ。アハッ!
楽器は残念ながら Neupertの機械actionなのだけど、当時は日本にCembaloが2台・・とか言う時代だったので、それでも画期的だったのだよ。
本物のCembaloでのlessonで・・・・という事で・・
本物のCembaloを見た事がある音大生が未だ数少ない時代だったのだよ。

1年生の時から、勝手気ままに大学生活をenjoyしていたので、私に好意を抱いてくれる先輩後輩達と、毛嫌いしている学生達とは、学校を二分していたよね??
私の弟子でも、私を嫌って逃げ回っている生徒もいたし、反対に私を慕ってくれる後輩もいた。
その当時は私は自分の将来の事で忙しかったので、こんな大学を卒業しても、社会には通用はしない・・という事は分かり切っていたので、音楽家として社会に生きて行けるように、着々と留学のためのplanを練っていたのだよ。





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Munchen留学時代
(Munchen時代)

実は、本当ならばMunchenに留学する気はなく、SuisseのBaselのFrank Martin先生に師事するつもりだったのだが、直前にポーランドの音楽大学に赴任されて、それから恐怖のソ連の進行があって、留学する事が不可能になったので、急遽、Pringsheim先生の故郷であるMunchenに留学先を変えたのだよ。

だから、Munchenの作曲科の教授でどなたが優れた教授であるか・・・・??・・という事を、全く知らないままに受験をしたのだよな??
司会をしてくれていた先生がGenzmer先生で、「あなたはどの先生に師事したいのですか??」と、一人一人紹介をしてくれたのだが、私は「もし、席に空きのある先生ならば、どなたでも・・」と答えてしまった。 
まあ、本音だけどね??
作曲のtape審査があって、演奏上の音の違いを指摘されたのだけど、「演奏者の間違いです。」と人の所為にしておいた。アハッ!
                                         右から2人目がHarald Genzmer教授

ここでも奇跡的に合格して、私を取ってくれたのは、司会をしていたGenzmer先生であった。
とても、厳しい先生で有名で、2年と続いた生徒はザラには居ないのだそうな??或る時には、ballet組曲とviolin-sonateとそれから・・これから・・と、作品がダブってしまって、周りの作曲科の学生に「お前、よく生きているな??」と驚かれてしまった事がある。
私も驚いていたのだけどね??

週に4時間ぐらいのlessonが、二つもあるので、作曲を幾らしても、一瞬で、lessonが終わってしまって、手持ち無沙汰になってしまう。
そこで編み出した私の手法は、Europaの大学は兎に角休みが多いので、その休みを利用して、曲を書き溜めて、小出しにlessonにちょうど良い長さで提出するのだよ。
ちょうど、stockが無くなった頃には、次の休みが来るという寸法だよな??
まあ、それで何とか、3,4年を乗り切ったのだよ。
いやあ、冷や汗ものだったけれどね??


私が提出したDeutschで学びたい作曲へのconceptは、orchestrationのやり方と、Europaではない日本独自の和声法の開発であった。
orchestrationは、Genzmer先生のPianoの小品を、指定された楽器でorchestrationする勉強であって、私の方法論は少し独自で、楽器の音を溶け込ませるために、「絡め合わせ」という手法を使う事であった。
Genzmer先生は私のorchestrationをとても気にいってくれて、lessonは問題が無かったのだが、作曲の方は、「あなたの語法を探すために、100曲の小品を書いてらっしゃい。」という課題を出された。
Genzmer先生の説明では、「100曲の駄作を書くと、その中の3曲はとても素晴らしいものが書けますよ。」という事で、私は何をどう書いて良いのか分からないので、インド音楽風のものから、中近東の音楽風のものまで、ありとあらゆる様式の曲を無数に書いた。
毎週、作曲のlessonに書いた曲を持って行くのだが、私のendlessの暗中模索のVersuch(実験試み)に対して、他の作曲のclassの生徒達は、その作品を面白がって、ケタケタと笑っていた。
そうこうしている間に、Genzmer先生が病気で入院、手術となって、作曲のclassは学長であるHermann Keller先生が見てくれる事になった。学長先生のlessonはただ書いて行った作品を初見で視奏されて、「フムフム!」と言われるだけで、なんのadviceも無かった。他のDeutsch人達の学生達に対しては、trendyな作品に対して、「君たちは音楽大学に何を望むのだ??」と懐疑的な質問をされていた。
半年程経って、Genzmer先生が大学に戻られて、lessonの初日に、先生は私に向かって「君は自分の語法を見つけたそうで、Hermann Keller先生がとても褒めて( gratuliere)いたよ。だから、Hochschule-Koncertで君の作品を発表しよう!」と女性の歌曲の課題を頂いた。
私には、「自分を発見した!」の意味が全く理解出来なかったので、それこそ、狐につままれたような気持ちだった。
ただ、shockingな事は、私に向かって賞賛の言葉を言っていたGenzmer先生が、他のDeutsch人の学生達3人に対して、「芦塚君が自己探求をやっていた時に、君達は人を嘲笑うだけで、なんの努力をしたのだ。音楽大学はtraditionalな事を学ぶ所であって、trendyな流行を追うだけの音楽に対しては、学校は似合わないのだよ。」と、その3人に放校を命じました。Europaの大学の制度では、退学はないので、別の大学に変われば良いだけなのですが、Munchenの大学では学ぶ事が出来なくなってしまいます。
後は、America大使の娘さんが作曲のclassに入ったのですが、Italiaの男の子と恋仲になってしまって、直ぐにGenzmer先生が大使を呼び出して、帰国させてしまいました。
という事で、殆どの期間が、私とGenzmer先生のman-to-man lessonだったのですよ。それは困った。

それでなくても、Genzmer先生はとても厳しい事で有名だったので、門下生は元々、少なかったので、作曲のlessonは殆ど、いつもman-to-manだったのですよ。一人で週に8時間は持て余すよね???

Munchenに留学して、最後の頃、友人の作曲家の学生であるビヤラス門下の人から、「Italiaのinternational-作曲concoursに出品しないか??」との誘いを受けて、私も試行錯誤していた頃の作品を出す事にしました。
時間が無かったので、そのために新しく作曲するのは無理だったので・・、試行錯誤していた頃の作品から12曲程を選んで、「昔語り」というTitleにして・・(日本語のTitleですが)

ところが、悪い事に、私の方が1位に入賞してしまったのですよ。
orientalな雰囲気が良かったのかね??
Bartok風とも言われたりしたのですが・・・、Bartokが私の真似をしたのですよ。
私の方がoriginalの東洋なのでね??

彼には本当に悪い事をしました。

それと平行して、日本の音楽作曲コンクールにMunchenからorchestraの作品を送りました。
その後、Pringsheim先生が審査員長をしているのを知って、Pringsheim先生にも作品を送った旨を手紙に認めたのですが、先生からは、「手紙が1週間前に届いていれば、君を1位にしてあげたのに・・・」とのお叱りのお返事を頂きました。
timingが悪かったのよね??

その話を岩城さんにしたら、「コンクールの一時予選で落ちるのは、よっぽどの駄作か否かなのだから、N饗で演奏してあげるから、part譜を作って持って来なさい。」と言われたのだけど、とてもとても、part譜を作る作業をするのが無理で、約束の日をすっぽかしてしまいました。
岩城さん、ごめんなさい。
今のようにfinaleなんかは(というかcomputerさえ)無かった手書きの時代だったのですよ。

そうこうしている間に、いよいよ大学を卒業するに当たって、Genzmer先生はMunchenの音楽大学の就職の口を二つ程、探して来てくれました。
つまり、Munchenに永住するか否かの決断を迫られたのですが、十字のくっついた石の墓に独り葬られるのは嫌だな??・・という事で、Genzmer先生の折角のお誘いをお断りしてしまいました。

そのお話を頂いて、一週間程、熟考した結果なのですが、ちょうど、その頃は、夕日を見て、私は強烈なhomesickに罹っていたので、丁重にお断りをしました。

まあ、祖母ももう歳なので、「祖母孝行のためにも、日本に帰るべきなのかな??」とも思ったからです。
私は残念ながら、とてもcosmopolitan(Cosmopolitanist)にはなれなかったのだよな〜ぁ??

やはり、日本の風土を離れては、私は生きてはいけなかったのだよな??
そこが私のworld-wideの限界でした。

Genzmer先生は快く、当時の芸大の学長に対して、推薦状を書いてくれたのですが、帰国のドサクサでその封筒を亡くしてしまいました。

あまり、大学に戻る気は無かったので、そんなに気にはなりませんでしたがね??
私の事を贔屓にしてくれる教授や学長達が立て続けにお亡くなりになったのは、その頃のお話です。

ここから以降は帰国してからのお話になるので・・・・、次のPageで・・・





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帰国後から大学講師時代

(帰国直後のmoratorium時代)

日本に帰国してからの約1年間は療養に努めるために、長崎に戻って、お袋の旦那の病院に居候をしました。

長崎を起点に就職活動をしたのですが、勿論、それでは無収入になってしまうので、それなりに仕事はしました。

先ず最初に、就職活動の中でお誘いがあったのは、ヤマハの音楽教室の指導講師という仕事でした。
前任の先生が「もう辞めたい」という事で、後釜の指導講師を探している最中だったので、私にお話を振って来られたのです。

給与はとても良いので、詳しくお話を伺うと、全国にあるヤマハの教室の先生達の指導と和声や楽典等のlectureをする仕事で、その地方にひと月程留まって、若い先生達の指導をする・・という仕事でした。

行った先々では、「若い実力のある先生が指導に来る」という事なので、上げ膳据え膳で歓待してくれて、とても良い触手の動く、甘い仕事だそうです。

しかし、そんな、モテモテで給料も良い仕事なのに、なかなかなり手が居ないのは、その仕事が、全国を行脚しなければならないので、東京の家に戻って来るのは1年間の内の1週間程度に過ぎないのだ・・・という事で、その先生も、東京での住所はhotelにしていたそうです。

「これは、もう、一飯無宿の旅ガラスだよな??」という事で、「homelessになってしまうよな??」という事で、丁重にお断りしました。

その先生は次の仕事先の芸大講師の職も決まっているし、仕事を変わりに渡す人の宛も無いので困っていましたがね??

『長崎でのリハビリ期間』
長崎に戻ったら、私の高校の時の同級生の女性がヤマハの大ボスをやっていて、「会いたい」との連絡を受けて、喫茶店でお話をしたら、その「ヤマハの若い先生達の講師をやって欲しい」という事で、それは個人lessonとしては、私の長崎の自宅で・・、集団のlessonはヤマハの教室で・・という事で長崎に居る間という条件でお受けしました。

長崎の町のヤマハの先生達ならば、全国股に掛けての旅ガラスは関係無いので、そのお話は勿論、お受けしましたがね??

後は県庁から講演の依頼や、テレビ局からの取材依頼等もあり、就職活動ばかりでは無くて、結構忙しかったのですよ。
それで、療養にはなったのかね〜ぇ??

東京に出掛けての職探しでは、NHKのanimationの、子供達への物語に音楽を付ける仕事が舞い込んだので、渋谷でmeetingをしたのですが、作者との見解の相違で、喫茶店で大喧嘩になってしまい、紹介をしてくれた友人の女の子に迷惑を掛けてしまいました。

『就職活動』
1年後には、長崎の生活に見切りを付けて、東京に転居する事にして、諦めて、二つ、三つの大学への就職をする事にしました。
一応、大学講師という職業は、世間体が良かったからです。

母校への就職のお話も同時進行で、Pringsheim先生が進めてくれていたのですが、学長派と、理事派の先生達の派閥争いで、大学が全くに分割されていて、私が未だ就職をした分けでもないのに、怪文書が届くというようなみっともない有様でした。

学長への面接と挨拶をする前日に、Pringsheim先生が突然、お亡くなりになって、母校への就職は、嫌になってしまいました。
だって、何故ならば、後ろ盾が居ないままに、派閥争いに巻き込まれるのは、私としては、あまり嬉しくない事なのでね??

その次に、新進の音楽大学の作曲家でもある学長先生が、私の事をどこで知ったのか??・・・不思議な話なのですが、その音楽大学に「日本で初の通奏低音科というのを作りたいので、日本で通奏低音の技術やornamentの知識を持っていて、指導出来る先生はCembalistとして有名な**先生と、あなたの二人しかいないので、あなたにその通奏低音の専科を作って欲しい!」と、いう事で、作曲科とは違うので、一瞬は迷ったのだけれど、「まあ、それも良いかな??」という事で、「日本に二人しか指導出来る人は居ない」という甘言に釣られて、お引き受けする事にしました。

いざ、学長先生と始めてお会いする前日に、突然、学長先生がお亡くなりになられて、なんの連絡も無く、怪訝には思ったのですが、一応、大学に行って、その話をしたのですが、誰もその話を知らない・・という事で、一般の講師面接の人達と一緒に並ぶように慇懃無礼に言われてしまって、prideの塊の私としては、講師の面接は、すっぽかして、頭に来てサッサと家に帰ってしまいました。

『或る音楽学校への就職』
その次の就職運動のお話なのですが、バイト替わりに、専門学校で、「主任待遇に+αで給料を出すから、講師の先生達が指導出来ない生徒達を預かって指導して欲しい!」という申し出があって、『主任待遇に+α』という甘言に釣られて、指導の先生達がお手上げの生徒達のlessonを、引き受けてしまいました。

初回の月が終わった時に、給料袋を覗いて、「なんじゃ、こりゃ、騙された!」と思ったのだけど、確認のために、主任に給料を聞いて見たら、確かに主任の給料に数千円だけは上乗せしてあったのですよ。
「え〜っ??それじゃあ、生活出来ないじゃん!!」

大学生から子供達までの12名の生徒を預かったのですが、その内の半数は学校を保育園替わりに使っていて、遊び捲っている親で、大人を全く信用しない子供達でした。(小学校の4年生の女の子の場合には、毎日違う父親が来るのだそうですよ。だから初対面で握手をしようと思ったら、汚い大人を見るような目で、私を睨みつけたのですよ。私も超Shockで、ビビってしまいました。まあ、しかし、それも人生・・・、1年掛かって、やっと私が手を触れても、嫌がらないで、普通に見てくれるようになる・・所までにはなったのですが、その後、私がその学校をやめてしまったのでね??)

残りの半数は、音楽への気持ちは熱心なのですが、何せ、何の基礎も学んでいないので、気持ちと技術が空回りをしているのですよ。

それに、そういった技術の基礎の教育の習得をより難しくしているのは、毎月、何らかの課題として出されている学内試験なのです。
毎月、Czernyの試験、scaleの試験、曲の試験に振り回されて、先生達は基礎を育てる所ではなかったのです。

4月から指導を始めて、5月と6月と7月の試験を、子供達に「勝手に自分で曲を決めて練習をして受けるように・・」と言って、私は子供達の基礎作りのlessonに専念しました。

lesson時間が一人一人がとても足りないので、level順に時間割を組んで、始まりと終わりの10分づつを前の生徒と後ろの生徒とを組んで、連弾や、Concertoのような2台のPianoの曲で指導しました。

当然、初見力やensembleの力が格段に付いて来ました。
一人一人の生徒達は都合10分づつ、時間が増えたので、lectureもとても楽になりました。
下級生と組む時には、或程度の面倒を見れるようにもなりました。
その間は、先生も自分の仕事が出来たしね??

しかし、生徒達のtestの出来が余りにも酷かったので、講師の研究会では、非難轟々と私がscapegoatのようになってしまいました。
勿論、想定内の話なので、笑って誤魔化していましたがね。


3ヶ月程経って、9月の大きな試験では、相も変わらず、試験の3日前になって、生徒から「明後日は試験だよ!」と言われて、「ああ、そうだったよね??じゃあ、好きなのを弾いておいて・・!!」と、いつものpatternなのでしたが、何と!!何と!!それぞれのgradeで、私の生徒達が全て、総代を取りました。

先生達は驚いて、「芦塚先生は特別に優秀な生徒を貰ったのよ!!」と、ほざいていたのだけど、その生徒が、自分が見捨てて放出した生徒だという事を気づく先生はいませんでした。

つまり、自分の生徒なのに、名前さえも覚えていなかったのよね〜ぇ??
それは酷いでしょう???

でも、世間の音楽教室の先生で教室の生徒を自分の生徒だと思っている先生は、自宅では教えていない先生なのよ。

自宅でも生徒を教えている先生に取っては、自分の生徒は自宅の生徒だけで、音楽教室の生徒はアカの他人なのよね??

だから、自分の生徒がそのように変わっても気が付きさえしないのよ。
それなのに、音楽大学という肩書きに頼るというのは、阿呆らしいよね??
現実を知らなさ過ぎるのよね??
You Tube等でも、音楽大学の現実や、大学教授の子供達への指導の現実をあからさまにしている動画を良く見受けるのだけど、音楽大学に子供を進学させようとする保護者で、You Tubeのそう言った動画を一度でも見る人はいないし、音楽の教育界への知識も、仲間内の一般的な風説を信じて、私達が音楽界の現実を幾ら説明しても、理解しようとはしません。
音楽教室を作った時からの、一般の人達の盲信なので、それについて啓蒙して行く事は疲れ切ってしまって、諦めてしまいました。
だからと言っても、私に実害が出る分けでも無いのでね??


その音楽学校は1年後に、学長先生から、「他の先生達と同じように、指導して欲しい」・・と言われてしまいました。
それは経営者としては、至極当然な事なのですが、一人の先生が突出して指導力があると、学校としては成り立たないからなのですよ。

勿論、私は、日本流の「でもしか教育」はprideがあって、出来ないので、学校を辞める事にしました。
学長先生も、私が学校を辞めるという事を、とても喜んでくれました。

こう言ったお話は、私だけの特別な話ではありません。
私の弟子達もみんな同じ経験をしているのですよ。

『芦塚methodeの始まりと大学講師時代』
私のmethodeで指導を始めると小学校のclassでさえも、そのclassが突出して来てしまうのです。
指導に慣れて、実力をお持ちのveteranの先生になればなる程、若い先生の生徒達が突出した成績を上げる事が出来るのか・・という、その理由が分からなくなってしまいます。

一つの例を上げると、・・・・・、class対抗で漢字を覚える競争をした時に、最初の間は主任の先生のclassがダントツの一位で若い先生達のclassを突き放していました。
相談を受けた私は、生徒達が毎週一個の漢字に対して、ノートに10個程度を書いて提出する宿題を見て、子供達が覚えられない理由を気付きました。

私が与えた宿題は、覚えるだけノートに書くという事で、書かなくても覚えられる場合には書かなくても良い・・という事でした。

子供達は最初はおっかなビックリだったけれど、最後には一個だけ丁寧に書いて覚えてしまいました。

その先生のclassが主任の先生のclassを抜いてダントツ1位になったら、その主任の先生は生徒達へ10題書く宿題を20個に、更にそれでもダメなので、毎週一つの漢字を50個書くように言って、父親や母親も手伝って漢字の宿題をするようになってしまいました。

これは芦塚methodeの小学校での実験だったので、その記憶の方法や原理を他の先生に言ってはいけない・・という厳しいruleを課したからです。

小学校での教育の実験は、recorderのお話や、県の先生達を集めての公開授業等色々と面白い話があるのですが、限が無くなってしまうので、これぐらいにして置きます。


まあ、取り敢えずは、どこかの田舎の大学講師をしながら、江古田の部屋で、数名の超少ない生徒達を指導していました。
殆どの生徒達が大学生の生徒なので、そのまま彼等を引き連れて演奏活動をしました。
主に、solo-cantataを私の少ないmemberで、教会を渡り歩きました。

その他にも、音大時代の友人の学校に弦楽orchestraを作るお手伝い等をしました。

大学講師時代のprivateな弟子達と相模女子大学賛助出演風景
そのウチの一つの写真がありました。

その時代の数少ない写真なのですが、soloを演奏している女性は都響のviola奏者で、私の売りカルのmemberの一人です。

大学講師時代は基本的には、around30から35歳ぐらいまでの5年間です。

それからは、moratoriumの時代に入って、2,3年間を特定の仕事はしないで、プラプラと、過ごしてしまいます。




『 positiv organのお話』
私の所有の、pipeorgan( positiv organ)を作ったのも、この頃のお話です。

その当時は兄貴の家が板橋区にあったので、遊びに行った帰りに、プラプラと、歩いて江古田の家に帰っている途中で、Organの工房を見つけたので、厚かましくも工房を見学させて貰ったのです。

その次いでに、私が折に触れて演奏して歩いている弦楽orchestraのためのcantata用の移動用の positiv organが欲しいというお話をしたら、工房の職員の人達が興味を持ってくれて、pipeorganのpipeはドイツへの注文になるので、それを買ってくれれば、制作費は無しで作って上げるというお話が纏まってしまいました。
私が当時はバンtypeの車で、楽器を携帯をするための方法等40項目に渡るideaを出して、提供する事で、工賃は無しでpipeorganを作ってくれました。

pipeorganの場合には、標準の音を出すためには、pipeの長さが低音域のoctaveでは、3メートルぐらいの長さが必要になって、重さも非常に重たい物になってしまいます。

一般の positiv organの場合には、総重量が500キロを超すものがザラなのです。
以前、江古田に住み始めた時に、「日本に書ける人がいないので・・」という事で文科省から回って来た「笛の科学」のお仕事の時に、理論気柱のお話を書いた事を思い出して、pipeを閉管にする事を思い付きました。
そうすれば、pipeの長さは半分で済むからです。
後は、関西圏でも演奏が出来るように、肺に弁を使って、関東と関西の電力の違いに対応する事にしました。
大きなpipeと、本体を3っつのpartsに分けるようにして、分解出来るようにしたのも、私が全くOrganに関しては素人なので、proの人達には思いも寄らいないideaだそうです。

後一つだけ、ideaが足り無かったのは、素人の女の子達が動かすには、本体部分に持ち手が付いていなかった事です。
重さ自体は60キロぐらいで女の子二人でも持てない重さでは無いのですが、持ち手が無いために、これを持って移動するのは難しいからです。
音は本物のpipeの音なので素晴らしいのですが、cantataやVivaldi等のbaroque-orchestraの通奏低音用に、木管系の優しい音にして、弦楽器の音によく溶けるようにしています。

baroqueの音楽では、orthodoxな音の選び方になります。
こう言った positiv organの事を、本来はcontinuo-Organとも言います。
日本では、organistですら、ご存知無いようですがね。











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音楽教室を開設して

私の年齢から言うと、36歳から37歳に掛けて、私の人生が一変する事になります。


それまでは自分本意の自己中的な勝手気ままな生活をしていたのですが、36歳から37歳を堺に人様の為の教育産業に手出しをしてしまう事になります。
私の人生の選択の最大の誤りの『pech!』の始まりです。


1980年頃から、教育大学に奉職をしていた頃に書いた教育論文の内容に感銘を受けた文部省関係の人からの「絶って!!」の説得を受けて、不承不承に、文部省関係の人達のgroupと、会社の経営に携わる人達が集まって、大阪に『芦塚methode研究会』という有限会社を設立して、月に何回かの、「芦塚methodeの教育法の研究」をする研究会のgroupを作りました。


その過程で、「理論だけでは『机上の空論』と言われてしまうので、実践の場を作って欲しい」という会員の人達からの、たっての要望があって、「実際に何らかの教室を作ってそこで先生達が指導、実践する場を提供する」というお話にまで発展してしまいました。

その時に出された条件というのが、『芦塚先生が生徒を直接指導しても、生徒達が目まぐるしい進歩をするのは当たり前なので、それがmethodeであるという証明になるようにするためには、芦塚先生が、講師の先生を指導して、、その先生が指導した生徒がちゃんとした成果を見せるか否かが、methodeとしての成果の基準となる』・・という事で、先ずは、芦塚methodeを学んでくれる先生を探して育成する・・という事であった。

つまり、芦塚methodeの理論を証明するためには、私のmethodeを受け入れてくれる人が必要なのだ・・という事になって、つまり、私のmethodeを学んでくれる先生を探すのが第一の課題となってしまったのですよ。

それに、私が勤めていた大学は教育大学であって、音楽大学では無かったので、論文も音楽教育の論文では無かったのですよ。
つまり、芦塚methodeは音楽教育のmethodeと思っている人達は、大きな勘違いをしているのであって、音楽の教育のmethodeは芦塚methodeのホンの一部に過ぎないのですよ。

だから、最初に探した芦塚methodeを伝える人材は、音楽家では無かったのですよ。アハッ!

しかし、現行の日本の教育systemを全面的に否定し、学び直すのは、学校で指導する先生達に取っても、自分が過去に勉強をして来た人生の全てを否定されるような物で、おいそれとは受け入れ難いもので、そういった先生を探すのは容易ではなかったのですよ。
いずれにせよ、切っ掛けを作る事は、非常に難しいのです。




その時に勇気と英断を持って、私の話を快く引き受けてくれたのが、津田順子というviolinistであり、昔、音大受験の時に私が指導した生徒でもあったのです。

もっとも、私の言う事を従順に聞いていたのは、受験生の時だけで、音大に入学して以降は、大学で私の顔を見かけると逃げて、見つからないようにしていた生徒なのだが・・・ね??

という事で、最初に私のmethodeの実験に名乗りを上げてくれた先生が、私が音楽大学時代に指導した音楽大学の受験生だったので、当然、その先生が指導する生徒達は音楽を学ぶ生徒達・・という事になって、音楽教室を作る事になってしまいました。

当然、私としては一般教科を教える学習塾でも良かったのだけどね??
学習塾で私のmethodeを学び指導する先生が見つからなかったのだよ。

という事で、『芦塚音楽研究所が音楽教室になった』のは、ほんの偶然なのだ。

・・・という事で、それから、先ず江古田の教室で、ホンの2,3人の子供達を、sampleとして、先生に指導の仕方を説明し、lessonのpointを説明するlecture-lessonが、double teachers systemとして、lessonを開始した。

当時は千葉から習志野に掛けて、violinの先生達が集合して過当競争になっていたので、西千葉の音楽教室で1年間、実際のlessonをやったのだが、他のveteranの先生達とは生徒の伸びに大きな差が出て、私が日本に帰国した時のような、経営sideからは「他の先生と同じlevelに教育して欲しい」と懇願されるようになったので、私と同様に1年でその教室をやめて、(それで或程度、成果が見受けられたので、)1983年7月(昭和58年)38歳、芦塚音楽研究室を千葉市花園に開設した。

実験的な教室である・・という意味での教室の特性上、教室の宣伝は一切せずに、教室に入会する生徒は、最初に教室に入会した生徒の保護者が教室の特性を説明して、教育の方法が一般の教育とは全く違うので、それでも教育方針に納得した・・という事を条件にして生徒を入会させる事にした。

その結果は、5年で最初の先生が指導して先生になった先生を合わせると先生の合計は7名、生徒数は延べ(教室の性格上、一人の生徒が専科楽器を決めないで、複数の楽器を学んでいるので・・・、いずれの楽器も主科の楽器になるので・・延べという事になる。)で250名に登って、教室に入会するのに、3年待ちの状態だった。


生徒の年齢が上がって来て、逆pyramidの状態になって来たので、教室を増やすように提言したのだが、「これ以上忙しくするのか!」という先生達からの反対で、教室を増やす事は、却下されてしまった。
私としては、新しい先生達をどんどん養成して、その先生達が働ける教室を作りたかったのだが、先生達の「methodeが流出するのは困る!」という理由で、それも拒否されてしまった。
本当の意味は、単なるjealousyなのだが、日本の女性達にpyramid構造の説明をするのは難しいのだよな??
男性には権力嗜好があるので、pyramid構造は、産まれ付いて持っているものなのだが、女性の場合には、自己保全が全てになるので、会社としての経営的には難しいのだよ。

私の手から、教室の運営や教育が離れて行くに従って、『生徒達の憧れの教室である』という私の理想の教室からは、遠のいて、人間的なドロドロとした要素の強い、まるで、大奥のような女性的な環境になってしまったのだよな。

これは経営を企業のような、非人間的な所が経営して、指導のsectionと分離すれば、良かったのだが、それでは、芦塚methodeは、完全に私の手元から離れて独立した組織になってしまって、益々、理念が無くなって技術だけの殺伐とした教育制度になってしまうからね??
大奥にするか、心の無い企業にしてしまうかの二択を迫られてしまったのだよ。
最初から、この教育産業には、成功の道は無かったのだよな??
芦塚教育研究会は、技術を達成する事だけを求めて、理念を追求する事が疎かになってしまっていたのだよな??

確かに、Europaを見ても、芦塚音楽研究所が目指す所の完成形の学校は世界中にも未だ無いのだよ。

Vivaldiが築いたEuropa中になり響いた「La chiesa della Pieta」の生徒達の演奏は、Vivaldiという異能の作曲家と、教会の孤児を救済するという大きな課題で歴史の例外的に唯一の奇跡だったのかも知れない。
私が、その理想的な形態を作るという事は歴史的にも烏滸がましいのだろうよな??

しかし、元々は、私は、教育産業に手を出すつもりは、毛頭も無かったのだよな??
最初の実験台の生徒達が高校生になって、「芦塚methodeで学んで来たので、そのまま教室に就職したい。」と言って来たので、その生徒達を会社として就職させるために、役員にして、1990年2月11日に有限会社として「芦塚音楽研究所」を設立したのだよ。

その過程で、どうしても生徒に対しての、先生が不足するために、已む無く、Pianoの生徒達でproを目指す生徒達だけを、私が個別に指導する事にして、私のlessonを、若い先生になる事を夢見ているassistant-illustratorに聴講させて、指導の妙技をlectureするdouble teachers systemをstartさせたのが、pech!の始まりになるのだよな???
哀号!哀号!!



教育教材等の作成


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教室倒産の危機

教室で学んだ生徒達は兎も角としても、最初に私のmethodeを学んでくれた先生達は、子供の時から日本流の音楽の学び方をして、日本の音楽大学を卒業している分けなのだ。

という事で、その先生に取っては、芦塚methodeを認める事は、自分が努力して来た子供時代の苦労を全否定される事にも繋がってしまうのだよ。

そこが芦塚methodeが、世間一般に広がって行かない、大きな二つの理由の一つでもあるのだ。
という事で、私の教育の理念を学ぶ事はなく、音楽の指導の技術で私と張り合おうとする事になってしまった。
自分が気に入らない生徒はどんどんやめさせて、お追従ばかりを言う保護者を周りに集めて、私のlessonやlectureを否定するようになってしまった。

この時点で、教室を畳めば、被害は最小限で済んだのだが、生徒が大勢いるのに、教室を閉鎖する事は忍び無かったのだよな??それに若い先生達の事もあるし・・ね??
私だけが教室の経営や運営から抜けても構わなかったのだけど、言う事が毎日違うので、どう対処して良いのか分からなかったのだよ。
私の周りにはそういった人材は一人も居なかったしね??
嫌々ながら、惰性で教育するのが一番よくないのだよな??
どんなにlevelを下げても良いから、自分が楽しくなるような教育をするべきなのだよ。
それは今も常に反省し続けている事なのだ。
人生に妥協は絶対にしてはならない・・という事なのだよ。
そうしないと、末後では苦しむ事になるよ。


生徒達の指導に、自信が出て来ると、自惚れが起きて、私と張り合おうとしてしまう。
自信は増上慢になって、気に入らない保護者と片っ端から喧嘩をしてやめさせてしまう。
へつらう保護者の子供達だけが残って、入会した生徒達の半数以上が止めてしまうという非常自体が起こって来た。

再三再四、私が注意していた、逆pyramidの現象もあって、急激に生徒が少なくなって、それに加えて、丼勘定の乱脈経営で、一瞬で倒産状態になってしまった。

私が再三、「経理を私に戻してくれれば、何とかしてあげるから・・」と言ったのだが、経理だけは人に委ねるのは嫌だったようで、ついに、「教室で採算の取れない先生達を首にする」と言い始めた。

私は「人は財産なのだから、それだけは認められない。」と言うと、それを私を通り越して、先生達に直接求めた。

しかし、同僚を見捨てる先生はいないので、その先生だけが四面楚歌状態になってしまった。

原因を私の遊び癖の所為にして、発表会費まで、全部持って、実家に帰ってしまった。
遊びには金が要るのだが、私は、交通費分も貰っていなかったし、生活費も貰っていなかったので、遊ぶ金なんてどこにも無いよ。
発表会費は保護者から預かっているお金なので、私が他所から発表会費を借り受けて滞り無く発表会は済ませた。


1998年1月津田順子一方的に退社する
退社後は、生徒達に電話を掛け捲くり、何とか生徒達に対して教室をやめさせようと、画策した。
中には、余りにも電話がしつこいので、「面倒くさいので、教室をやめます」という保護者もいた。
教室に残っていた生徒達の半数は、このtroubleで教室をやめてしまったので、経営的にも結構逼迫したのだよ。


銀行や経理の人達は、「経理やお金の持ち逃げ、教室のハンコの持ち逃げで、営業を妨害しようとしたので、警察に被害届けを出すように」とadviceをして来たのだが、私としては、20年間は一緒に教室を共にしたのだから、それだけは免除してあげよう・・という事で、経理の先生にも泣いて貰って、架空の経理を作って貰って、銀行にも盗難では無く、紛失届だけで、何とかして貰った。
最後の餞けであるぞい。




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音楽教室の再建

資本金どころではなく、2千万、3千万ぐらいの負債を抱えて、逃げてしまったので、資本金も全く無い状態だったので、私としては、教室を破産させて、潰してしまうつもりだったのだけど、残された先生達が「自分達で教室を経営して行きたい」と申し出てくれたので、資本金の全額を私が準備して教室を再開させた。
1998年4月つまり、津田順子が教室を逃げ出して、以降、公式に役員を解任してから、新たに芦塚音楽研究所の役員を刷新して教室を再開した。
津田順子が教室をやめた経緯を
知っている保護者の人達は非常に少ない。
何故ならば、それは教室の恥であり、身内の恥に過ぎないからである。

銀行や残務処理の音楽以外の雑用に忙殺されて、ついに、同年7月〜8月まで、自宅で起き上がれなくなってしまい、救急車で教室の傍の鈴木病院(53歳)に緊急入院をしたのだが、その間、芦塚先生の個人lessonの生徒達の殆どが退会してしまった。
・・とは言っても、7名ぐらいしかいなかったのだけどね??
(趣味の生徒達は、そのまま私が教室に戻って来るまで待っていたよ。まあ、意識の違いと言ってしまえば、それまでだけどね〜ぇ??私に対してのrespectは無かったのかね??アハッ!)


私としては、私が教室を開設した目的は果たしたのだから、赤字で倒産の憂き目に遭っている教室を閉鎖しても良かったので、教室で生徒達を指導している先生達に相談をして、教室を存続したいのか否かを尋ねた。

先生達が、「自分達で教室を再建したいので、教室を存続させて欲しい」との結論だったので、持ち逃げされて0円になってしまっている資本金を、私が全額負担して、教室を再開した。



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period研究室開設
話は前後するのだが、私のconceptと教室の経営は全く関係は無いので、1990年にはperiodの研究を先生達に指導する事にして、baroqueのperiodのclassを開設する。

ミュージックプラザで、古い時代のbaroque-bowを見た事に寄って、そのbowの作成を依頼して、baroque−楽器の購入を始めた。
一般の演奏活動に加えてperiod instrumentsによる演奏活動を始める
勿論、period instruments(楽器)は私の個人の所有の楽器を先生達に貸与したものである。




個人経営であろうと、有限会社であろうと、音楽をやっていて、仕事として認められるのは、指導用のpianoと指導用の楽譜だけである。

だから、当然orchestraの楽譜や、室内楽の楽譜は認められる事は無いし、ましてやbaroque-violinや、pipeorganのような楽器が、教育教材として、控除の対象になる分けは無いのだ。

だから、baroque-violinやbaroque-cello等は個人が購入すべきものなのだが、それでは先生達の負担が大きいので、私が個人の出費で購入している。

同様に、KontrabassやCembalo等も、orchestraや室内楽の楽譜等も同様に私個人の所有である。

つまり、音楽教室の経営では、室内楽やorchestraは、有り得ないのだが、一般の人達は、先ず、その初歩的な認識すら無い。
しかも、そう言った事は、私が口を酸っぱくして、色々な場所で言っているのに、それを誰も信じようとはしないで、教室と同じような音楽教室がどこにでも存在すると思い込んでいるのだよ。

日曜日のorchestraや室内楽の練習は、先生達のvolunteer活動で、徴収している会費も生徒達に配っているpamphlet代にもならない。
生徒達が弾いている楽器も、音楽教室で貸与出来る金額の範囲では無い。
これが会社法人では無くて、学校法人ならば、そういった目的や経費も出るのであろうが、それは文科省の学校法人に対しての制約で、そういったcurriculumを学校法人に持ち込むのは、不可能なのだよ。

日曜日のオケ室内楽は、全くの私の道楽であり、先生達はそれに付き合っているのに過ぎないのだよ。
だから、世界中を見ても、私達の教室のような形態を取っている音楽教室は無い。

しかし、一番困った事は、この「世界に存在しない音楽教育を、一般の人達が、否、音楽家達が理解するのは不可能なのだ・・という事が、教室の開設から、付きまとっているのだよ。

教室の教育方針や、conceptを理解させるために、保護者の人達を集めて、教育の学習会を定期的に開いていたのだが、結局は、保護者達が集まってのお喋りの延長線上の誤った概念が、教室の批判に繋がってしまう事になった。
問題があるのならば、先生に相談すればよいのだが、素人同士とか、現行の100年も前からの旧態然とした一般的な音楽社会の通念を信じて、教室の理念を否定する人達が、余りにも多くて、長年の啓蒙活動も、今はすっかりやめてしまった。

自分で本当の本物の価値が分からない人達は、brandという、社会的な保証を価値と勘違いしてしまう。
音楽で言えば、弦楽器の鑑定書のような物か??
私が楽器は、ちゃんとした音が出れば良いのだから、鑑定書を信じる事はない。
鑑定書とは、社会的な信用を意味する分けでは無くて、その業者が保証をするのに過ぎないからである。
以前も日本のどこかの宝石店が潰れて、宝石を買った人達の鑑定書が反故になってしまって、日本国中大騒ぎになった事がある。
宝石でもメルカリやヤフオクの方が高く売れるのだよ。
その程度なのだよ。
brandでも結局は同じなのだよ。
グッチが潰れたら、グッチの製品は二束三文にもならないのだよ。
本当の本物の価値は、その物自体にあるのだから、価値が下がる事は、絶対に無いのだよ。アハッ!

 先生達のbaroque演奏の研鑽のために、江古田教室からすぐ近くに、『珈琲館ブナ』という喫茶店があって、教室から、spinetを先生達が手持ちで担いで運ぶ事が出来る距離だったので、年に数回baroqueのmaniacなKoncert(period instrumentsによるbaroque-Koncert)を開催した。

珈琲館ブナは音大の近くでもあるし、土地の人達のeventをやっているのだが、年齢層が結構高いので、結構、集客には誰しも、苦慮しているようだったのだが、私達のKoncertは、超、maniacなprogramであるのにも関わらず、喫茶店に「*日にKoncertをするよ!」とお店のownerに、口で言ったその日の内に、posterを作る前に、席がsold-outになってしまって、保護者に人達から「私達も聴きたかったのに!」と苦情が出る始末で、私自身の席も無くてcounterの中で丸椅子に座っていなければ無かったぐらいなのだよ。

1990年からのperiod奏法の研究を、流石に当時は生徒数も多くて、soloのprogramとオケ室内楽のprogramを日にちを分けて、発表するぐらいだったので、とてもとても、子供達の発表会に、先生達の研究発表の場を儲ける事は、program上不可能だったので、片手間に、教室とは無関係に一般のお客様を対象にした、periodの演奏会を開くのは、とても良い企画だったのだよな。

という事で、年に3回程を毎年研究して発表していました。
主に、soloやtriosonateの曲なのですがね??
先生達が研究発表として腕を磨くには充分な環境でした。

教室を開いてからは、Vivaldi-methodeというのを作って、子供達にorchestraの演奏を通じてviolinやPianoのcurriculumを作って指導していたのですが、流石に、『子供達にperiod奏法を指導する』・・という事までは思い付きませんでした。(というか、一般的な思考方で、不可能と思っていたのですよ。)
流石の私でも、常識を打ち破るのは、一歩ずつなのですよ。step by stepなのだよな??


2011年5月29日に八千代市生涯学習プラザ主催のKoncertを、開始するに当たって、上級生のmemberとOB・OG達が主体のmemberだったので、おっかなびっくりではありますが、曲の一部にperiod奏法を取り入れて、近現代の弦楽器の奏法と、baroqueや古典派の時代の奏法のcontrastを際立たせる事で、曲の一部分にperiod奏法を使用したorchestraの演奏を企画しました。勿論、子供達に対してのapproachでは無くて、OBOGに対してのlectureなのでしたが、数名の小、中学生も一緒にperiod奏法を勉強しました。OBOGよりも、子供達の方がperiod奏法に対してのresponseが良かったので、それが子供達にperiod奏法を指導し始める切っ掛けになりました。
勿論、programの中には、baroque楽器による(period instrumentsによる)、maniacなperiod奏法の演奏もprogramの中に入れておきました。


2017年11月23日(木)八千代市生涯学習プラザ主催オータム クラシックコンサートの演奏では、お久し振りのKnaben-kammerが出来たので、教室のVivaldiのa mollと一般のVivaldiのa mollの演奏の差を明確にappealするために、子供達がVivaldiのa mollの演奏をperiod奏法を用いて演奏するようにしました。
勿論、近所の音楽教室の生徒達なので、period instrumentsとbaroque-pitchという分けではありませんが、演奏様式はperiodstyleの演奏です。

Violin-concerto a moll Op.3Nr.6 Vivaldi Ashizuka-Knabenkammer period-style17年11月八千代 - YouTube




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神々の黄昏U

私としては、初期の目標は達成出来て、芦塚methodeの有効性は証明されたのだから、音楽教室そのものは、破産解体しても良かったのだが、若い先生達が「自分達にやらせて欲しい」との申し出があったので、資本金を新たに補填して教室を再開する事にした。

但し、教室の経営上は、何の破綻もしていないで、そのままの存続の状態になっているので、教室を刷新した・・と言っても、それは言葉上の話だけである。

若い先生達で教室の経営は順調に行っているように見えたのだが、音楽教室の経営は非常に難しい。

その理由の大半は、女性の抱える情緒的な問題に起因する事が多い。

その理由は大きく二つに分けられる。
その一つは結婚という問題であり、もう一つはjealousyという利己主義の原因である。

一般の殆どの会社は、基本的に男性社会なので、そのいずれの問題も、大きな問題にはならない。
男性のjealousyの問題はさて置いて、男性の場合には、基本的に組織を作る事が本能だからである。
強い多くの部下を持つ事がstatusになるからである。
女性の場合は、逆で、排除する事が基本になるからであろう。

世間一般では、会社が組織として成り立っているからである。
女性の先生の場合には、「教室の先生になりたい」・・という自分の生徒が出て来ても、それを育てている先生が、自分が指導しているのにも関わらず、その生徒に対してのjealousyを起こして、片っ端から潰して行くのだ。

教室で指導出来る指導者を育成出来なければ、教室は必ず、先細りになって潰れてしまう。
個人の教室ではそれでも良いのかも知れないのだが、会社としてはそれは最悪である。
音楽教室としての性格上、どうしても女性が指導するのが一般的である音楽教室では、女性特有のjealousyは致命的である。


更に女性には結婚という問題があります。
男性にとっては結婚は、会社としても喜ばれる事なのですが、女性の場合には、そうでもありません。
現代の日本社会でも女性が結婚をした場合には、寿退社と言う事で優退をするからです。

「教室の先生になりたいから」という言いだしっぺの弟子であり、「会社にして欲しい」と頼んで役員になって生徒達を指導して来た先生なのですから、結婚をしようが、しまいが、その責務からは逃れる事は出来ないハズなのですが、結婚相手の唯のsalarymanに過ぎない男性は、女性が役員であり、外で仕事をする事を忌み嫌います。
それは、社会的には、その男性よりも立場が上になるからなのです。

彼女が仕事をする事を嫌うのではなく、自分のterritory以外で、仕事をするのを嫌うのです。

だから家庭で主婦をやりながら、単なる主婦のバイトの一貫として、そこらの家の近くの音楽教室で、日雇いで働くのは男性としては許せるのですよ。
そういった条件でさえも、結婚が優先するのだから、教室としては、如何せん・・・どうしようもありません。
先生に見捨てられた、生徒達の保護者達の怒りも心頭に発する・・ですよ。
本人は「婚期を逸した」と聞かされて、慌てて後妻に収まったのだけど、見捨てられた保護者は「働く女性ならば当たり前の年齢なので、言ってくれれば幾らでも良い条件はあったのに・・??」と嘆いていたのだけど、女性の場合には、周りの同僚が婚活や結婚を始めると見境が無くなってしまうようだ。

教室も一人の先生が突然、結婚した事で、連鎖的に数名の先生が結婚で教室をやめて大打撃を受けてしまった。
マジに女性に取っての、結婚はコロナよりも恐ろしい伝播力の強い病原体である。

という事で、突然やめた、その先生の生徒達を、急遽、何の引き継ぎも無く、斉藤先生が、全員引き受ける事になってしまって、斉藤先生は、週に、全く一日も休みが取れない悲惨な過労働な状態になってしまいました。

教室の収入は減って、経営は苦しくなって、先生の負担は増える・・という踏んだり蹴ったりの状態になってしまったのですよ。

本人は「解約の手続きの費用は出したから・・」と言っていたのだけど、会社の役員の責務と経営とはそんな簡単で利己的なものでは無いのだけどね??勿論、雇われ先生が、結婚をしようと、教室をやめようと・・、それは個人の問題なので、全く自由なのだけどね??
会社の役員は立場が違うのだよな??

それに、男性から『結婚』という言葉をチラつかされると、「女性が男性の前でそこまでも卑屈になる」・・という事は、私は男性の立場だけど、全く、理解出来ません。

これこそ、日本女性の特性の「甘えの構造」(過剰依存の状態)なのだからです。

音楽教室が女性に依存している教育産業である限り、この問題は多くも少なくも、常に存在するのですよ。



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闘病記と音楽教室
病気のなり始めへ、

私に取っては、音楽教室は私が個人的にやりたくて、始めたのではありません。
だから、教室経営のstressは、私のtraumaのようになって、心を蝕んでしまいました。
もしも、私が音楽教室の経営を望んでやっていたとしたら、まあ、 病気になる事は無かったと思います。
1998年の1月の津田順子の突然の教室への背任騒ぎから、2月の発表会を何とか熟して、4月芦塚音楽研究所の役員を刷新して、銀行や経理の再開のために、孤軍奮闘して、何とか7月の夏の発表会までには、経営も目処が立つ状態まで、持って行けたのですが、その間の活動で、疲労困憊して、心労が祟って、7月の夏のKoncertの前日には、私自身が病院に救急車で緊急搬送される事になりました。
そのために、7月の夏の発表会は、初めての主催者不在の(私不在での)発表会になってしまいました。

その後、7月の末から、8月いっぱいまでは、江古田教室のすぐ傍の鈴木病院での入院生活になり、(53歳)その間に、私が長年指導して来た愛弟子達が全員教室をやめて、他の先生に代わってしまいました。

私しか指導出来ない、私に懐いている生徒達・・という思い込みが強かったので、半分以上も、生徒から裏切られた感じになってしまい、子供達を指導する事の意義も夢も、期待も・・・全てが失われてしまったのですよ。
それが原因で、教室嫌いになったのも、1分はあります。
取り敢えずは病院からは、退院したのですが、その理由は、最早、これ以上病院に入院していても、何ら、改善が見受けられないからで・・・日常の生活の中で、民間医療に頼らざるを得なくなったからです。
という事で、それから長い長い数年も掛かるような、リハビリの生活が始まりました。

そのお話は1998年の事で私が53歳の時の出来事ですが、それから僅か7年後の2005年のお話なのですが、2000年辺りから、検見川教室から花園教室への移動の検見川神社の急な坂を行き来する事が出来なくなって来て、掛かり付けの病院に再三再四「冠動脈が・・・」と言っていたのですが、若い先生達は、「素人が何を言うんだ??」と、私の話を全く持って聞いてくれませんでした。携帯型の心電図計を取り付けて一日様子を見ても、おかしい所は見つからないままに、5年が経過しました。

5年経った・・或る時に、偶然、心電図に異常が見つかって、急遽、ひかりヶ丘の日大病でkatheterの検査を受けて、次いでにdrillで詰まった血管を補修する予定だったのですが、結果は、diamond-drillでも歯が立たないもので、非常に危険な状態で緊急入院になってしまいました。
私が59歳になった7月のお話です。

やっと、教室も軌道に乗って来た頃の60歳を目の前にして、(2005年の7月に) 長年(5年間も・・)訴えていた心臓の病気が、見つかって、3本しかない冠動脈の3本とも詰まっていて、僅か1本が辛うじて血液が送られている最悪の状態で、緊急手術が必要な状態になったのですが、bypassの手術をしても、心臓から脳に行く血管の1本しか助けられないので、その手術をすると、bedからは離れられなくなる・・との事で、日常の生活は期待出来ないという話でした。
つまり、寝た切りの状態になる・・という意味です。

先生達がsecond opinionを試みて、netで必死に良い先生を探してくれて、先ずは、第一に、katheter手術の第一人者である西千葉の先生にdataを送ったのですが、緊急性が高いという事で、その夜に先生から直接折り返しの電話があって、「diamond-drillでも無理だという事なので、もし、私の親族だったら、katheterはさせない」と温かい言葉で説明してくださいました。

という事で、開腹の手術なのですが、心臓を止めての手術では、1時間の手術が限度なので、3本の内の1本しか助ける事が出来ないので、当然、脳に直結する血管だけを助ける事になり、寝た切りになってしまうので、当時は画期的であった、心臓を動かしたまま手術が出来るという日本に一人、二人しかいない術技を持つ大和成和病院の南淵先生を訪ねて、8月2日大和成和でbypass手術(59歳)を受けました。

大和成和病院の開腹手術が確定して、緊急入院のオペになったのですが、入院の手続きやその他の色々な事は、手術の後で・・という大変な一刻一秒を争う、緊急のオペになりました。
手術はまあ、上手く行って、無事に生還を果たしたのですが、その後は5年間も体調不良に悩まされる事になります。

まあ、余談ですが、その2年後には、教室の役員をやっていた言いだしっぺの先生が急遽、結婚で教室をやめてしまいました。
勿論、その前には、教室から音大に行って、教室で先生をしていた若い先生達も、結婚騒動で教室をやめてしまった後の話なのですがね??


まあ、それから(心臓のbypass手術)は、13年後のお話になるのですが、2018年の9月に、血尿が出たので、ひかりヶ丘の病院でCTを受けた所、膀胱癌が見つかって、そのCTでさらに、腹部大動脈瘤も破裂寸前の状態で見つかりました。

『ひかりヶ丘病院』というと、私が最初に心臓の病気で入院した「日大附属のひかりヶ丘病院」と、勘違いをし兼ねないのですが、
次に行ったひかりヶ丘病院は、場所と建物は全く同じなのですが、日大が練馬区から撤退したので、全くの別の寄り集まりの病院なのです。
同じ練馬区のひかりヶ丘の場所も建物も同じなので、ややこしいのですが、練馬にはロクな病院がないので・・・。
大和成和病院から退院して余りにも病院が遠いので、近場の病院という事で5年後には順天堂大学の病院に通ったのですが、余りにも待ち時間が長すぎるのと、先生が「bypassの寿命が・・」と口にされるのに、「どうしたら良いのですか?」と聞くと、何も答えないというドクハラで、病院に行く度に、1週間程欝になってしまうので、民間の近所の町医者に行く事にしました。

しかし、糖尿病の検査結果が悪くなっていくのにも関わらず、なんの対処も無いので、薬局の先生が心配して、糖尿病の専門医に掛かるように忠告されて、民間の専門の医者は新しくは患者を取らないそうなので、ひかりヶ丘の病院の先生に見て貰えるように、紹介状を書いて貰いました。

血尿が出た時に、紹介状を書いて貰う時間が無かったので、直接泌尿器科に行ったのですが、病院には掛かっていて、診察cardもあるので、受診して貰うのは簡単でした。
膀胱の検査の時に、CTで腹部大動脈瘤が見つかって、そちらの方が緊急性が高いという事で、急遽、ステントの手術を受ける予定だったのですが、CTの結果と、心臓の検査に私の断りを無視して造影剤を使用してのroentgen撮影をしたので、頭に来て、second opinionで、川崎の幸い病院に自主転院をして、入院(73歳)腹部大動脈瘤の手術と膀胱癌の手術をしました。

勿論、私の希望を無視しての造影剤の使用の理由も、second opinionの理由の一因なのだけど、本当の理由は・・・腹部大動脈瘤をステントで治療する予定だったのだけど、「場所的にステントが難しい」という事で、急遽、開腹の手術に変わったからです。
開腹だと、その分riskも大きいし、年内の行事、業務を熟す事が出来なくなってしまうので、何とかステントで治療が出来る病院を探しました。

病院探しは簡単で、netで腹部大動脈瘤の手術件数が一番の病院を探して、実際に通院可能な病院をpickupしました。その結果、手術件数が全国2位で、近場の川崎にある、幸い川崎病院になりました。

ひかりヶ丘病院からの写真を見て貰った結果、「ステントは、難しいけれど、不可能ではない。」という回答を頂いて、幸い病院での手術に決定しました。
心臓のroentgen写真は、開腹を前提とした検査だったので、全くの無駄になってしまいました。
大体、もしも、bypassの結果が悪かったとしても、それでどうなったのよね〜ぇ??
馬鹿じゃあないの??
心臓で死ぬのも、腹部大動脈瘤で死ぬのも、私に取っては、死ぬ事には代わりはないのだけどね??
そこは医者のエゴだよね??

心臓の検査で造影剤を使用した事は、今現在も酷い後遺症で、腎臓の働きが極端に落ちて、必死に、透析にならないように頑張っている現状です。

腎科の医者は透析をへとも思っていないのだよね??

患者に取っては、自由に仕事が出来ない・・・という事は、死とも同じような・・致命的な意味合いを持つのだけどね??
医者は、透析は、療養ぐらいにしか、考えていないからね??

stressの結果かね??
まあ、歳を取ると色々あるからね??



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人生の黄昏に

 
    
この所、よく夢を見る事がある。

まあ、とは言っても、人間だから誰しも寝たら夢を見るものだが、そういった意味では無く、自分の人生がこれで正しかったのだろうか??・・・という人生の黄昏に見る夢なのだ。

生徒達を教えていて、楽器を購入するのも、教室のサービスでやっているのに過ぎないのだけど、それを儲け主義と誤解される事がある。教室で生徒達に楽器の購入を進めているのでも無いし、好きな楽器屋で購入するのならば、それで良いので、こちとらに相談を持ちかけないで欲しいのだよな??
Petrofのお話や、電子Pianoのお話は超、頭に来たのだよな??



ましてや、私が手塩に掛けて育てたハズの、「教室を作ってくれ」と私に言って来た張本人の弟子が、私を全否定して(人間的にも、音楽的にも)来るのには、私の人生の残りの50年間はなんだったのだろうか??と悩んでしまう。
子供の時から手塩に掛けて育てて来た生徒達が、やっとこれから音楽を教えられると思った瞬間に日本人の大学の教授の所に行って、それまで指導してきた、Europaの音楽の技術を全て失って、日本流の音楽に変わって行くのを見ると、私の努力は一体なんだったのだろうか??と悩んでしまうのだよ。

もう少し、体調が良かったら、毎日、毎晩、人生を嘆きながら、飲んだくれて暮らすのにな???









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