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楽典について      
  
聴音について      
 
音楽形式学      


和声学  
           




楽典について    

巷の音楽教室でも、楽典をlessonに取り入れている教室は多い。
しかし、殆どの楽典は単に市販の問題集を解くだけで、まるで学校の勉強のようで、結局、身につかないままに、終わってしまう。子供のための楽典として出版されている楽典は、一様に音大の受験生を対照にして書かれた楽典の本を、言葉を子供向けの易しい言葉にしたり、イラストをふんだんに取り入れたりしただけで、基本的には内容は全く、受験生の楽典と同じ内容である。また、音楽大学の先生達が子供を指導した経験や子供の学力の知識が全くないままに、楽典等の問題を作るので、実際に子供達に試してみても、小学生の学力や理解力の範囲を遥かに逸脱した教材も多く見受けられる。
教室では、そういった市販の教材の問題点を改善すべく、小学3年生から、年齢順にその年齢の理解力に合わせた楽典教本を20年、30年掛りで作成、推敲して来た。
子供為の楽典は、非常に良い成果を上げていて、中学生になった時にも、受験を対象とした教材に対しても充分に対応出来るだけの水準をキープ出来ていると思われる。

ここで取り上げている「楽典教室」は、そういった、vorschuleとAusbildungsschuleのlevelの話ではなく、中学生の上級生や専科生を対象にした上級の楽典教室の話である。

そのlevelは受験生のそれと同じlevelか、それ以上のlevelのものであり、この楽典クラスの生徒はそのまま、音楽大学の楽典の受験が出来る水準であり、プロとしての音楽的な知識の基本を身に付ける為のコースである。

楽典の基本を一通り勉強するには、市販の受験生を対象にした楽典の教本を使用して、基本を作る事が早道である。
と言う事で、教室では、教室推薦の市販の楽典の教本を4冊、5冊と、選び出して、難易度順にその教本の問題を片っ端から解かせていた。

しかし、市販の教本は、単なる知識のための楽典である。
それを、実際の音楽の演奏に如何に活用するのか、というヒントは実際の教本には書かれていない。

それを自分の音楽の勉強の重要なアイテムとして、使いこなすには、・・・・楽典の知識を活きた物にするためには、・・・それが日常的に如何に使いこなすか否かに掛かっているのだ。

或るピアニストがchopinの曲を演奏会で演奏するのは良いのだが、そのピアニストがchopinのpianissimoのpassageをfortissimoで弾きまくっているのには辟易した。
そのピアニストは楽譜の強弱すら、守ろうとしないで、情緒的感情的に練習して演奏している。
楽典以前の問題だろうね。
そういう人達に限って、「chopinの楽譜は何版以外はダメだ!」とか言うのだから、困ったものである。
その版を校訂した校訂者の意図を読みっ取った上での、ダメ出しでは、ないのだから、本当に困ってしまう。

教室では、Beyer教則本の段階から、強弱記号やテンポの記号、等々を、子供達に説明するのだが、通り一遍に説明するのではなく、その出て来た単語は常に反復して、使用しなければ、子供の身には着かない。
Beyer教則本では、そう言った単語も、簡単で日常的な単語から順次、難しい単語になって行くだけでなく、ちゃんと一度出て来た楽語も必ず反復して使われている。そこで、何処の曲の何処の部分に使用されていたのか?を生徒に、確認出来るか否か・・が指導者の資質となって表れる。

        
聴音について    
私は自分自身が未だ音楽大学の学生の時代から、留学後も、色々な先生達に頼まれて、音楽大学を受験するために聴音やPianoの学習を高校生になって始めたという生徒を何人も教えました。
子供の内、就学年次以前から始めていないと、体得する事は、一見不可能と言われている聴音や、Pianoを一度もやった経験がない、弾いた事が全くない・・という高校生の生徒達を音楽大学に合格させる為に、それこそ2年間や、1年そこそこでHaydnやMozartのsonateやClmentiのsonatineを入学試験に間に合うように指導しなければなりませんでした。
世間では、年齢の高い生徒に、しかも、短期間で習得させる事は、それこそ至難の業で、一般的な教育法では、不可能であるという事は、当たり前の話でした。
だから、私の音楽大学在学中から、その生徒に応じた不可能を可能にする、方法論を駆使して教育して、私の指導したさん達全員を目的の音楽大学に入学させる事が出来ました。
これが、後年、音楽教室を開設した時に、教室で指導する先生達の為に、芦塚メトードによる聴音のsystemとして、programmingされてきました。
教室を開設した当初は、このsystemは生徒達に目覚しい進歩を与えたのですが、基本的には、教室の教育systemにのめり込んでいる家庭の場合には、著しい進歩がみられるのですが、近年、学校の生徒達への締め付けが厳しくなって、教室が子供達の為の自由な教育をする事が困難になって来て、芦塚メトードを子供達が習得する事が困難になって来ました。
学校教育の欠陥は、楽典のレッスンにも、如実に現れて、生徒達が楽典の説明、「何故?どうして?どういう風に?それが定義化されたのか??」という、説明を嫌がって、問題の解き方、回答が合っているのか否か、だけを要求して、「何故??」という疑問を持たなくなってしまいました。
同時に、私がオケ練習で子供達にしていた、雑談を、雑談として全く聴けなくなってしまっていて、練習中に何故、雑談をするの??・・・と白い目で見ると言うか、・・・又は、生徒達がその話に釣られてしまって、言葉尻りに囚われてしまって、子供達自身が雑談を始めて、雑談が本当の雑談になってしまったりして、炎上して・・・困っていました。
アハッ、ハッ、ハッ!

しかし、教室で「これは大変だ!」と思っていたら、別の場所で、教室以外の同じ年齢の子供達に雑談をする機会があったのですが、驚いた事に、子供達が全く大人の雑談の話を聞けないのですよ。
これは驚いた!!
つまり、大人のお話を全く聞いた経験がないから、私の話を、何を・・・、どう聞いて良いのか分からなくなって、途方に暮れているのですよ。
つまり、話の内容どころではない、話を聞くということ自体がpanicなのですよ。


つまり、学校でも、授業のcurriculumを進める事に追われてしまって、先生が雑談をする時間はないし、又、先生が雑談をする事自体許されてはいない。
それは文科省や教育委員会が授業以外のお話をする事を厳しく戒めているからです。

今の先生達は、雑談をさせると、何を話だすか分からないと言う事らしいですよ。
道徳の授業のように、精神論を話す場合には、学校全体としての指針を厳しく管理する。
学校の先生達と直接接する保護者の方達は兎も角として、文科省や教育委員会に取っては、そこまで先生達は信用されていなかった、という事なのですよね。

と言う事で、私が「近頃の生徒達は・・」と、嘆いていた教室の生徒達は、それでも一般の生徒達に比べて、ちゃんと雑談が聴けていたのですよ。
いやあ、参った、参った!!    

音楽の勉強は、実は学校の勉強とは、相容れないものなのです。
つまり、音楽の勉強は、人間性の勉強であり、音楽で語られている魂を表現するという事なのです。
技術はその魂を表現するための、方法論であるので、あたかも公文式のような技術の為の音楽を指導する音楽大学のcurriculumとは、基本的には相容れないものなのです。

昔の生徒達は、音楽教育を職業の技術の習得と捉えて、勉強をしてきました。
だから、音楽に対する姿勢というのは、非常に重要な位置付けであったのです。
だから、私の雑談を非常に熱心に聞いて、その次の週には、見違えるように上達してレッスンに来ていたものです。

しかし、学校教育では、そういった精神的な教育をしません。
と言うか、してはいけないのです。
そういう決まりなのですよ。
と言う事で、問題を解くと言う事だけが教育の骨子にされているのです。
先生の雑談は、意味のないタダの雑談に過ぎず、無視をして、自分の問題を解く法が美徳とされます。
特に、塾型の教育をメインに受けて来た生徒の場合には、雑談を聞くという姿勢が出来ていないのです。
1分、1秒でも、時間があったら、一題でも多く問題を解く事が、良しという姿勢が身に付いているからです。

一般の音楽教室では、楽典のレッスンというのは、市販の楽典の問題集を解かせる事に始終します。
市販の楽典の問題集は、くもん式と全く同じで、その課題の類題を数多く解かせる事で、その楽典を勉強した事にするのです。
勿論、教室でも、市販の問題集をさせる事がよくあります。しかし、conceptは全く違います。その問題がどういう理由で、実際の曲の勉強の時には、どういう風に役に立つのか?という事を指導しながら、楽典を指導するのです。


実際に聴音の課題を解く時にも、和声的な知識や構造分析の技術が役に立つのだ、と言ったら、聴音を指導している先生達は、少なからず驚かれるかも知れない。

4声体の和音(和声)聴音でも、ミュンヘン型の聴音がある。
ミュンヘンの国立音楽大学の和声聴音の課題なのだが、書き取りの解答は外声と和音記号を書くだけで、満点と見なす、という事だ。
しかし、我々作曲家にとっては、それは当たり前の事なのだ。

日本の聴音の先生が和声を知らない事の方がおかしいのだよ。間違えているのだよ。

和声は、密集体(Enge Lage)か,開離体(Weite Lage)かで、開始音が決まる。
(それは、内声の音も含めての話なのだ。)そうすると、最後迄、音の動きは1っの動きしか、なくなってしまうからなのだ。

と言う事で、4声体の聴音なのだが、教室の生徒(勿論、中学生の上級の生徒達だが)は、2回から、3回で、4声体を全部書き取る事が出来る。
それが、ミュンヘン型の和声聴音の書き取りだ。
ヨーロッパの学校は現実的なのだよ。
日本の常識、世界の非常識と言ってね・・!!






         
音楽形式学        
楽曲の形式については、小、中学校で習う歌謡形式や複合三部形式、それから発展して、音楽大学等で学ぶ、sonate、sonatine形式、rondo形式や等がある。
形式学からは少々逸脱するが、MazurkaやPolonaise等、Valse等の舞曲もある。
音楽の形式学の本を買うと、実に、教科書的なお勉強型の教材が書かれている。
舞曲には、舞曲特有の形式があるのだが、不思議な事に、舞曲の形式について書かれている本はない。
そこいらも、教科書的な勉強の限界なのだろう。

日本のviolinの学習教材には、入っていないようだが、ザイツやホーマンの作品には、結構、上級のversionの曲もある。ホーマンのV楽章には、landlerの形式で書かれている曲がある。実に見事なlandlerの見本となる曲で、WienerWaltzの形式よりも遥かに完璧で勝れている。
landlerが発展して、ViennaValseになった、という諸説が楽典の本にも書かれていて一般論として流布しているのだが、現実は、少し違う。
landlerにも、小さな形から、大landlerと呼ぶに相応しい、landlerまである。
violinの曲では、landlerで作曲された曲は結構見受けるのであるが、Pianoの曲としてlandlerの曲が書かれているのは、見かけた事がない。
時代の変遷の理由からであろうか??
勿論、楽典の本にも、より専門書である、音楽形式学の本にもlandlerの形式については触れられていない。
同様に、ジプシーのハンガリア・ラプソディに関しても、形式がある。モンティのチャルダッシュにしても、Lisztのハンガリア狂詩曲にしても、ラベルのチガーヌにしても、その形式の原則に従って作曲されているのだ。
Mazurkaにしても、Polonaiseにしても、確固とした形式があるのだが、それについて触れている形式学の本は皆無である。残念な事だ。

何れにしても、形式学の勉強は、受動的な勉強であり、それを演奏に生かすという事は、なされていない。
・・・というか、どう、活かせば良いのか、という事が分かる人はいない。

音楽の形式学とは、直接は関係がない(無関係)のだが、室内楽やオーケストラには、練習番号というのが、楽譜に書かれている場合が多い。
練習番号は、校訂者が(part譜を校訂する校訂者は、演奏家がする場合が多いのだが・・・)、自分の主観で練習番号を付けるので、実際の練習には役に立たない事の方が多い。
練習番号は、演奏や合わせの難しい所に付ける分けなので、partによっては、無理難題な所についている場合もよくある。・・・と言う事で、人が違えば、練習番号を付ける場所も違うので、生徒達に宿題には出来ない。(法則性がないからである。)





                      芦塚メトードによる楽典のお話

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楽典について      
  
聴音について      
 
音楽形式学      

和声学  

Facebookより
2022年9月13日 8:26『マンガ楽典物語のお話し』

9月15日『楽典講座のtest撮影の感想』







           




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楽典について    

巷の音楽教室でも、楽典をlessonの中に、取り入れている教室は多くなって来たのは、喜ばしい事である。
しかし、殆どの教室で行なわれている楽典のlessonは、単に市販されている問題集を解くだけの授業に過ぎず、まるで学校の勉強のようでもあり、結局の所、何一つとして、身につかないままに、終わってしまう。
その根本的な理由は、音楽教室等で使用されている『子供のための楽典』として出版されている教本は、一様に、音大の受験生を対照にして書かれた楽典の本を、言葉を子供向けの易しい言葉にしたり、イラストをふんだんに取り入れたりしただけで、基本的は内容は全く子供を対象にした教材ではなくて、受験生の楽典と全く同じ内容であるに過ぎない。

また、出版されている楽典の教材を作る先生達も、音楽大学で大人の学生達しか指導した経験が無く、全く、子供達の語彙力や、判断力に対しての知識が全くないままに、頭でっかちに、楽典等の問題を作るので、実際に子供達を指導する側としては、非常に困ってしまうのだ。

と言う事で、実際に出版されている子供達への楽典の教材を、全て買い込んで来て、教室の(それも、concoursに出場するような優秀な)小学生達に、実際に、教本を使って、実際に試してみて貰ったのだが、一冊として、小学生の学力や理解力、判断力の範疇に収まる教材は、無かった。

教室では、そういった市販の教材の問題点を改善すべく、小学3年生から、年齢順にその年齢の理解力に合わせた楽典教本を20年、30年掛りで作成、推敲して来た。
と言う事で、『子供のための楽典』は、非常に良い成果を上げていて、中、高生になって、「音大を受験したい」と希望する事があった場合に於いても、充分に対応出来るだけの楽典の水準をキープ出来るようになった。

ここまでに、取り上げている「楽典教室」のお話は、そういった、vorschuleとAusbildungsschuleのlevelのお話である。


これから先のお話は、音楽を専科とする中学生の上級生や高校生の専科生を対象にした上級classの楽典教室の話になります。

音楽を専科とする生徒達に取っての、必要とされる楽典の水準のlevelは、受験生の水準と同じlevelか、それ以上のlevelが要求される。
教室の専科生達の、楽典のclassの生徒達のlevelでは、そのまま、音楽大学の楽典の受験が出来る水準であり、proとして音楽界で活躍するための、音楽的な基礎知識を身に付ける為のコースである。

これからのお話は一般論に過ぎないのだが、所謂、楽典の基礎知識を一通り勉強するには、市販の受験生を対象にした楽典の教本を使用して、基本的な知識を身に付ける事が早道である。

と言う事なので、教室でも、教室開設当時は、教室推薦の市販の楽典の教本を4冊、5冊と、選び出して、難易度順にその教本の問題を片っ端から解かせていた。

しかし、市販の楽典の教本は、単なる音楽大学受験のための楽典に過ぎないのである。
それを、実際の音楽活動に、或いは、演奏のために、如何に活用するのか??、という事は実際の教本には一つも書かれていない。

しかし、楽典がそれを勉強した人達に取って、意味の有る物であるためには、・・・或いは、自分の音楽の勉強の重要なitemとして、楽典の知識を使いこなすには、・・・・楽典の知識を活きた物にするためには、・・・それが日常的に如何に使いこなすか否かに掛かっているのだ。

余談ではあるのだが、或るピアニストがChopinの曲を演奏会で演奏しているのは良いとしても、そのピアニストがChopinのNocturnesのpianissimoのpassageを、何を思ったのか、fortissimoで弾きまくっているのには辟易した。

そのピアニストは楽譜の強弱すら、守ろうとしないで、情緒的感情的に練習して演奏している。
楽典以前の問題だろうね。

そういう人達に限って、「Chopinの楽譜は**版以外はダメだ!」とか言うのだから、困ったものである。
その版を校訂した校訂者の意図を読みっ取った上での、ダメ出しでは、ないのだから、本当に困ってしまう。

教室では、Beyer教則本の段階から、強弱記号やテンポの記号、等々を、子供達に説明するのだが、通り一遍に説明するのではなく、その出て来た単語は常に反復して、使用しなければ、子供の身には着かない。
Beyer教則本では、そう言った単語も、簡単で日常的な単語から順次、難しい単語になって行くだけでなく、ちゃんと一度出て来た楽語も必ず反復して使われている。
そこで、何処の曲の何処の部分にその楽語が使用されていたのか?・・を先生が生徒に、確認出来るか否か・・が指導者の実力となって指導力に表れる来るのだよな??


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聴音について    
私は自分自身が未だ音楽大学の学生の時代から、留学後も、色々な先生達に頼まれて、音楽大学を受験するために聴音やPianoの学習を高校生になって始めたという生徒を何人も教えました。
子供の内、就学年次以前から始めていないと、体得する事は、一見不可能と言われている聴音や、Pianoを一度もやった経験がない、弾いた事が全くない・・という高校生の生徒達を音楽大学に合格させる為に、それこそ2年間や、1年そこそこでHaydnやMozartのsonateやClmentiのsonatineを入学試験に間に合うように指導しなければなりませんでした。
世間では、年齢の高い生徒に、しかも、短期間で習得させる事は、それこそ至難の業で、一般的な教育法では、不可能であるという事は、当たり前の話でした。
だから、私の音楽大学在学中から、その生徒に応じた不可能を可能にする、方法論を駆使して教育して、私の指導したさん達全員を目的の音楽大学に入学させる事が出来ました。
これが、後年、音楽教室を開設した時に、教室で指導する先生達の為に、芦塚メトードによる聴音のsystemとして、programmingされてきました。
教室を開設した当初は、このsystemは生徒達に目覚しい進歩を与えたのですが、基本的には、教室の教育systemにのめり込んでいる家庭の場合には、著しい進歩がみられるのですが、近年、学校の生徒達への締め付けが厳しくなって、教室が子供達の為の自由な教育をする事が困難になって来て、芦塚メトードを子供達が習得する事が困難になって来ました。
学校教育の欠陥は、楽典のレッスンにも、如実に現れて、生徒達が楽典の説明、「何故?どうして?どういう風に?それが定義化されたのか??」という、説明を嫌がって、問題の解き方、回答が合っているのか否か、だけを要求して、「何故??」という疑問を持たなくなってしまいました。
同時に、私がオケ練習で子供達にしていた、雑談を、雑談として全く聴けなくなってしまっていて、練習中に何故、雑談をするの??・・・と白い目で見ると言うか、・・・又は、生徒達がその話に釣られてしまって、言葉尻りに囚われてしまって、子供達自身が雑談を始めて、雑談が本当の雑談になってしまったりして、炎上して・・・困っていました。
アハッ、ハッ、ハッ!

しかし、教室で「これは大変だ!」と思っていたら、別の場所で、教室以外の同じ年齢の子供達に雑談をする機会があったのですが、驚いた事に、子供達が全く大人の雑談の話を聞けないのですよ。
これは驚いた!!
つまり、大人のお話を全く聞いた経験がないから、私の話を、何を・・・、どう聞いて良いのか分からなくなって、途方に暮れているのですよ。
つまり、話の内容どころではない、話を聞くということ自体がpanicなのですよ。


つまり、学校でも、授業のcurriculumを進める事に追われてしまって、先生が雑談をする時間はないし、又、先生が雑談をする事自体許されてはいない。
それは文科省や教育委員会が授業以外のお話をする事を厳しく戒めているからです。

今の先生達は、雑談をさせると、何を話だすか分からないと言う事らしいですよ。
道徳の授業のように、精神論を話す場合には、学校全体としての指針を厳しく管理する。
学校の先生達と直接接する保護者の方達は兎も角として、文科省や教育委員会に取っては、そこまで先生達は信用されていなかった、という事なのですよね。

と言う事で、私が「近頃の生徒達は・・」と、嘆いていた教室の生徒達は、それでも一般の生徒達に比べて、ちゃんと雑談が聴けていたのですよ。
いやあ、参った、参った!!    

音楽の勉強は、実は学校の勉強とは、相容れないものなのです。
つまり、音楽の勉強は、人間性の勉強であり、音楽で語られている魂を表現するという事なのです。
技術はその魂を表現するための、方法論であるので、あたかも公文式のような技術の為の音楽を指導する音楽大学のcurriculumとは、基本的には相容れないものなのです。

昔の生徒達は、音楽教育を職業の技術の習得と捉えて、勉強をしてきました。
だから、音楽に対する姿勢というのは、非常に重要な位置付けであったのです。
だから、私の雑談を非常に熱心に聞いて、その次の週には、見違えるように上達してレッスンに来ていたものです。

しかし、学校教育では、そういった精神的な教育をしません。
と言うか、してはいけないのです。
そういう決まりなのですよ。
と言う事で、問題を解くと言う事だけが教育の骨子にされているのです。
先生の雑談は、意味のないタダの雑談に過ぎず、無視をして、自分の問題を解く法が美徳とされます。
特に、塾型の教育をメインに受けて来た生徒の場合には、雑談を聞くという姿勢が出来ていないのです。
1分、1秒でも、時間があったら、一題でも多く問題を解く事が、良しという姿勢が身に付いているからです。

一般の音楽教室では、楽典のレッスンというのは、市販の楽典の問題集を解かせる事に始終します。
市販の楽典の問題集は、くもん式と全く同じで、その課題の類題を数多く解かせる事で、その楽典を勉強した事にするのです。
勿論、教室でも、市販の問題集をさせる事がよくあります。しかし、conceptは全く違います。その問題がどういう理由で、実際の曲の勉強の時には、どういう風に役に立つのか?という事を指導しながら、楽典を指導するのです。


実際に聴音の課題を解く時にも、和声的な知識や構造分析の技術が役に立つのだ、と言ったら、聴音を指導している先生達は、少なからず驚かれるかも知れない。

4声体の和音(和声)聴音でも、ミュンヘン型の聴音がある。
ミュンヘンの国立音楽大学の和声聴音の課題なのだが、書き取りの解答は外声と和音記号を書くだけで、満点と見なす、という事だ。
しかし、我々作曲家にとっては、それは当たり前の事なのだ。

日本の聴音の先生が和声を知らない事の方がおかしいのだよ。間違えているのだよ。

和声は、密集体(Enge Lage)か,開離体(Weite Lage)かで、開始音が決まる。
(それは、内声の音も含めての話なのだ。)そうすると、最後迄、音の動きは1っの動きしか、なくなってしまうからなのだ。

と言う事で、4声体の聴音なのだが、教室の生徒(勿論、中学生の上級の生徒達だが)は、2回から、3回で、4声体を全部書き取る事が出来る。
それが、ミュンヘン型の和声聴音の書き取りだ。
ヨーロッパの学校は現実的なのだよ。
日本の常識、世界の非常識と言ってね・・!!



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音楽形式学        
楽曲の形式については、小、中学校で習う歌謡形式や複合三部形式、それから発展して、音楽大学等で学ぶ、sonate、sonatine形式、rondo形式や等がある。
形式学からは少々逸脱するが、MazurkaやPolonaise等、Valse等の舞曲もある。
音楽の形式学の本を買うと、実に、教科書的なお勉強型の教材が書かれている。
舞曲には、舞曲特有の形式があるのだが、不思議な事に、舞曲の形式について書かれている本はない。
そこいらも、教科書的な勉強の限界なのだろう。

日本のviolinの学習教材には、入っていないようだが、ザイツやホーマンの作品には、結構、上級のversionの曲もある。ホーマンのV楽章には、landlerの形式で書かれている曲がある。実に見事なlandlerの見本となる曲で、WienerWaltzの形式よりも遥かに完璧で勝れている。
landlerが発展して、ViennaValseになった、という諸説が楽典の本にも書かれていて一般論として流布しているのだが、現実は、少し違う。
landlerにも、小さな形から、大landlerと呼ぶに相応しい、landlerまである。
violinの曲では、landlerで作曲された曲は結構見受けるのであるが、Pianoの曲としてlandlerの曲が書かれているのは、見かけた事がない。
時代の変遷の理由からであろうか??
勿論、楽典の本にも、より専門書である、音楽形式学の本にもlandlerの形式については触れられていない。
同様に、ジプシーのハンガリア・ラプソディに関しても、形式がある。モンティのチャルダッシュにしても、Lisztのハンガリア狂詩曲にしても、ラベルのチガーヌにしても、その形式の原則に従って作曲されているのだ。
Mazurkaにしても、Polonaiseにしても、確固とした形式があるのだが、それについて触れている形式学の本は皆無である。残念な事だ。

何れにしても、形式学の勉強は、受動的な勉強であり、それを演奏に生かすという事は、なされていない。
・・・というか、どう、活かせば良いのか、という事が分かる人はいない。

音楽の形式学とは、直接は関係がない(無関係)のだが、室内楽やオーケストラには、練習番号というのが、楽譜に書かれている場合が多い。
練習番号は、校訂者が(part譜を校訂する校訂者は、演奏家がする場合が多いのだが・・・)、自分の主観で練習番号を付けるので、実際の練習には役に立たない事の方が多い。
練習番号は、演奏や合わせの難しい所に付ける分けなので、partによっては、無理難題な所についている場合もよくある。・・・と言う事で、人が違えば、練習番号を付ける場所も違うので、生徒達に宿題には出来ない。(法則性がないからである。)


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和声学





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2022年9月13日 8:26『マンガ楽典物語のお話し』 


今日は、もう9月の13日の火曜日です。
月曜日は、一日中、bedで死にそうになっていたので、オケ練習のvideoのYou Tubeへのuploadだけになってしまいました。
オケ練習が終わって、室内楽の練習になった時に、HaydnのQuartettとPianotrioのCelloのpartを弾く人がいなかったので、(智子に拒否られてしまったので、代わりに)牧野先生にCelloをお願いしようと思ったのですが・・、牧野先生は平行でのlessonの絢美ちゃんと綾乃ちゃんの楽典を面倒見る事になっていたので、私が平行の楽典の面倒を見る事にして、牧野先生にはHaydnのQuartettとPianotrioのCelloのpartを弾いて貰う事にしました。(Quartettと楽典を同じ場所ですれば、同時に両方をcheckする事が出来るからね??)
という事で、絢美ちゃんのお久し振りの楽典の問題集の回答のcheckをしようと思ったのですが、問題集の回答で、間違えている所をpickupして、説明しようと思ったのですが、全く出来ていなかったのと、問題の意味を解説しても全く理解が出来ないので、和声入門の1冊目の定義をするPageに戻って、楽典の定義の確認をして見たら、1巻の基本の定義を忘れてしまっている事が、2巻の問題が解けなくなってしまっている原因だと言う事が分かりました。
楽典は、本来は、その楽典の一つ一つの定義の成り立ちから勉強を始めると、とても面白いのですが、日本の・・、と言うか、世界の楽典でも、どうしても楽典が、『典を覚える』(規則や法則を覚える)・・という事だけになってしまい、結果として、「楽典は非常に難しくて、面白くない」・・というのが音楽を学ぶ人達にとっての、通念になってしまっているようです。
・・という事なので、教室を開くよりも、もっと以前の、今からは、50年程前に、マンガ音楽家シリーズの次いでに、『マンガ楽典物語』という本を出版する企画を出版社に持ち込んだのですが、当時、出版されていたマンガ楽典という本は、単に、初心者向けに書かれている楽典の説明の文章をマンガ入りで説明するだけの、つまらないマンガ楽典しか、出版されていなくて、私が全く新しい企画として、物語の中で、主人公の若者が、楽典の成り立ちを中学生くらいの女の子に説明する・・というマンガで書かれた物語で、楽典とは言っても、その楽典が成り立つ歴史的な背景のお話し、という事を企画会議で色々と頑張って説明したのですが、企画部の人達には、とても、内容を理解して貰えませんでした。
つまり、一般的な解釈では、rootsの説明をする事は、逆に難しくなってしまって、子供達には単純に通り一遍説明した方が、簡単だ・・と言う、一般的な常識でしか、判断が出来なかったのですよ。
rootsを知れば、楽典に対しての興味が涌いて、楽典を勉強する事が、楽しくなる・・という私の主張が一般の人達には、理解出来ないのですよ。
しかし、そう言ったお話は、楽典に限ったお話ではありません。
学問を勉強する上での、rootsを知る勉強は、とても大切なのですが、それ等は、指導者の力量に掛かっています。
それは非常に難しいので、rootsを辿る事は、どんな分野の学問でも、当て嵌まるお話なのです。
一見すると非常に難しくて、理解不能な数学でも、本当に数学を理解している人が、丁寧に詳しく解説をすると、これ程、面白い学問はありません。
私が高校1年生の頃には、古本屋で、数学の面白話しの文庫本を買って来て、リーマン幾何学のような球体幾何学がある事や、euclid幾何学が2千年以上も前の幾何学であり平面幾何学であり、数学には色々な面を理解するための幾何学がある事を、初めて理解しました。
もう一つの例としては、「実社会の実際の物の寸法を測っているのに、虚数という実社会には有り得ない数字が飛び出して来て、その数字を計算して、現実社会の実寸を出すのは何故か??」と高校の先生達に訊ねたのですが、その質問に答えられた先生は一人もいなかったのだけど、同級生に聞いたら、いとも簡単に、「部屋が狭いので、majorが使えないので、鏡の中に線を書いて測ったのさ??つまり、虚数とは鏡の中の数字なのだよ。」と、説明してくれました。
それは古文でも、勉強の仕方が問題で、古文の歴史は基本的には平安時代の文学から始まりますが、明治時代の文学や、江戸時代の初期の草紙から始めれば、もっと簡単なのですよ。
江戸時代には子供用の御伽草子も沢山、出版されていて、耳や目で勉強する事が出来て、理解も簡単です。
遠い平安時代の貴族社会の慣習を理解する事は、大人でも容易ではありません。
ましてや、高校生が通い婚の事を理解出来ないで、源氏物語を理解出来る分けは無いでしょう。
男女の恋の鞘当てや、人情の機微をどうして高校生に指導するのか、意味不明です。
つまり、「文法だけを理解して、内容や登場人物たち色恋沙汰は理解するな?」という意味不明の授業なのですよね〜ぇ??
歴史でも100年も昔の教育のように、年表を覚える事だけに始終しているようなのですが、歴史は人間関係の歴史なのですよ。
学校で勉強する歴史が、難解な教科になっているのは、無意味な数字の羅列である、起きた事件とその年代を覚える事だけに、なっているからで、「何故、その事件が起きたか??」という事がなおざりにされてしまうからなのですよ。つまり、歴史の勉強を机に向かってするよりも、教科書に登場する人が、大河ドラマを見て、人の名前が実際の人物である事を知る事がもっと大切だと思いますよ。勿論、dramaはdramaに過ぎないので、一方向からしか見ません。例えば、戦国時代には、信長と秀吉、家康というHeroがいますが、その人物像は主人公が誰であるかで、全く変わってしまうのです。
Pianoを学ぶ子供達でも、自分が練習をしている作曲家の伝記を読む人は稀でしょうね??
作曲家に対してのrespectが最も大きいと思われる伝記作家でも、人が変わると、作曲家の人格の描写が変わってしまいます。
その人が感じている作曲家の人物像になってしまうからなのです。
学校で学ぶ偉人達の人間像は、その人が成した功績の羅列であり、その功績を羅列する事による評価は、何故??どうして??の功績に至る努力を伴わない、功績を陳列する事による評価になってしまいます。
当然、それを勉強する側も、そういった功績の羅列に従って、問題を解く事が出来るか否かの評価だけになってしまっています。
勿論、世界の教育界でも、昔はそういった評価になっていたのだけど、それは、単なる知識に過ぎなくて、本来の評価では無いという事に、いち早く気が付いた世界では、子供達の評価の基準は、もう、そういった商品のCatalogのindexを読むような、塾で学べるような無意味なtest課題では無くなっているのですよ。
そう・・? もう、既に・・ね??
という事で、日本は子供達の学問の教育は、globalstandardとしては、世界の教育水準からは、極端に遅れているのですよ。
私は、実際に音楽教室を作って、子供達を指導し始めた、ず〜と、以前の時代から、何回も子供達への楽典の本を書いて、私の生徒達に指導して来ました。
当然、教室を開いてからも、同じように、楽典の教本を2、3回は作ったのですが、その原稿は全く残っていません。
昔々は、何度楽典の教科書を作っても、所詮は、紙の原稿だったから、紛失してしまったのですよ。それに、楽典とは言っても、対象の人間が、それを指導している生徒を対象にして書かれたものであるので、それが一般的な教室外の生徒達に有益であるか否かは、定かでは無かったから、積極的に保存をする必要性は無いと思った・・からなのです。
紙の原稿の場合には、大元の原稿が無くなると、その教育のmethodeは二度と学ぶ事は出来ないのです。
私の朧気な記憶に寄ると、絢美ちゃん達がやっていた小冊子の問題集は、楽典の問題集ではなくて、それよりも1段階も2段階も上級の、『和声学への導入』の冊子だったので、初級楽典と中級楽典が終わった人達を対象にした教則本だったので、楽典の基本の知識を忘れてしまっては、いきなりその教本に入る事は、難しかった・・と言うか、不可能だと思ったので、「どうして、和声学の入門の2巻まで進んでしまったのかな??」と牧野先生に質問をしたら、楽典のlessonが、綾乃ちゃんの高校の資格試験等々・・との兼ね合いで、飛び飛びのlessonになってしまって、身に付いていなかったのが理由だそうです。
という事で、牧野先生から、「どこそこの塾でもやられているTeleworkに寄る楽典講座を撮影すると良いのでは??」という話が持ち上がったのですが、私としては、個人的にman-to-manで生徒達を指導している分けでは無いので、時間的なゆとりはまあまああるので、「まあ、それも有りかな?」とは思ったのですが、そこでneckとなる問題は、撮影場所と、TPOでした。
普段、私が仕事をしている自宅である江古田のハイツは、生前の母親が、押し付けて来た陶器類や、亡くなってしまった後で、家を疊んだ時に、処分出来なくて、持って来た荷物の倉庫状態になっています。「教室で使って貰おう」とも思ったのですが、価値観が分からない状態で、乱雑に、乱暴に使用してしまうので、精神状態が良くありません。という事で、価値が分かる人達に差し上げる事も考えたのですが、それも無意味に思われてしまい、ハイツやユーカリが丘の教室が倉庫状態になったままです。
それを仕事として、恒久的にするとするのならば、一部屋をその撮影のための専用の部屋にすれば良いのですが、撮影自体はテレワークやlesson等もあって、多目的に使えるのだが、それだけを生業としているのではないので、そこの所は、致し方がないのだよな?
まあ、部屋が狭いという事は、已むを得ない事だとしても、それ以上に私の精神的な重荷になる事が、私の普段の衣装の事です。
ハイツの部屋は、監獄の独房以上に※)、人の出入りが全く無いので、一日中、下着姿のままで仕事をしている事が多いので、撮影の度に、着替えるのはかったるいのだよな〜ぁ??
※)独房は、寧ろ、一日中、監視員が小窓から、本人を監視するので、人の目線が無くなる事は無いのだけど、ハイツの場合には、私が椎名町に行かない限り、例え、部屋のガスや水道の検査等であっても、誰かが、玄関の扉をknockする事は無いのだよ。
という事で、私と他の人が顔を合わせる機会は全く無いので、下着姿で居ようが、素っ裸で居ようが、誰もそれを知る事は無いのだよ。
まあ、それ等は、私の個人的な問題なので、折り折り考えて努力をしてみるとして・・・
そういった仕事(project)がハイツで可能であるか否かのtestをする事にしました。
私の場合には、仕事に取り掛かる前に、必ず??事前に下準備をします。
下準備の出来如何で、仕事が上手く行くか否かが決まります。
逆の言い方をすれば、「下準備が上手く出来ない」と言う事は、その作業を始めても、無駄に時間を費やしてしまうという事なのです。
『楽典物語』を、仕事としてのprojectにする場合には、資料集めの他に、日常的にいつでも作業に取り掛かれるように、video撮影の環境を整える事がとても大切になります。
仮に撮影Studioのような場所であったとしても、撮影用の小物を準備するだけでも、結構な時間が掛かってしまいます。
Studioのような予め準備された場所ですら、結構大変なので、一般の部屋で、楽典専用のvideo撮影の環境を整えるには、その都度、結構な時間が掛かってしまいます。
という事で、日曜日のオケ練習で、超、ヘバッているのにも関わらず、bedから起き出す合間合間に、少しづつ、頑張って、環境を整える作業をして、何とかtest撮影までにこぎつけました。
本撮影の話は、先生達と相談した後の問題だとして、取り敢えずは、物置状態になっているハイツの部屋の中に、何とか撮影のspaceを作っただけで、超ヘバッて寝込んでしまいました。
夕方になって、何とか体力、気力を奮い立たせて、撮影機材のテレビ・ラックへの取り付け作業をして、testの撮影をして見ました。(写真1枚目は疊んでrackに仕舞った状態です。2枚目はvideo-cameraをsetした状態です。取り付けはclipで装着されているので、パソコンの部屋からflooringのlesson室に移動するのは、超、簡単なので、部屋の移動が出来ます。勿論、横の大型テレビを消音にして、monitorに使用する事が出来ます。超、大型テレビなので、楽典の用紙の細かい文字も綺麗に再生と確認が出来ます。)
一応、sampleとして、one‐coolが30分程度の1coolと半分程の合計45分程度の講座をtest撮影してみました。
早速、You Tubeの非公開のsub-channelに、uploadしようと思ったのですが、月曜日の午前中から、開始したオケ練習のvideoが1回目は、前の動画をpowerdirecterでresizeした状態のまま、出力したので、画素数が粗過ぎて、元の状態に戻す次いでに、最高画素の4Kにして見たのが、pech?(失敗)の始まりでした。
ハイツの配管が壊れているので、光fiberが通らないので、一般回線なので非常に遅いのですよ。
まあ、そういう事もあって、今回のオケ練習のvideoはパソコンに取り込む所からは、丸々二日掛かっているのだけど、未だ終わらないのですよ。(今は水曜日の朝の6時前なのですが、朝の6時には、何とかYou Tubeへのupload作業が終わる予定です。月曜日の早朝から、水曜日の朝まで、丸々二日掛かりました。
回線が遅いのはTeleworkのオケ練習でも致命的なので、何とかせにゃあかんよな??

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9月15日『楽典講座のtest撮影の感想』
今は9月の15日木曜日の朝の7時半を過ぎた所である。
パソコンに既に2時間程向かって、homepageの『芦塚methodeによる聴音について』のPageの編集作業をしていたのだが、兎に角寒いので、パソコンの椅子から離れて、窓を閉めた所なのだよ。
練馬区の気温は23℃で湿度は79%もある薄暗いどんよりとした天気だ。いや、それにしても寒い?
楽典講座をvideoでtest撮影してみたのだけど、「あ〜・・・、う〜・・が多過ぎて、撮影の半分以上時間が無駄な時間だったので、videoから逆に箇条書きを作成した。内容の解説に入ったら、まあ、まあ、まともに、進行が流れ始めたのだけど、思い付くままの、test撮影なので、ちゃんと内容を凝縮させる必要があるのだよ。
まあ、それは織り込み済みでの撮影なのだから、この無駄足の作業は致し方ない事ではあるのだが・・、取り敢えずの私自身のtalkに対しての「慣れ」も必要だろうし・・ね??








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