芦塚先生のチャンポンと皿うどん
それと でもしかスパゲッティ・チャンポン


私が高校を卒業して、ふる里の長崎を離れて、東京で生活をするようになった頃、・・・つまり、昭和38年の頃は、未だ、インスタントと言っても、実際に売られているインスタントラーメンは殆どなく、今も売られているチキンラーメン(昭和33年)とか、ほぼ同じ時期に発売された明星ラーメンぐらいのほんのわずかな商品のみで、その位置も、食べ物というよりも嗜好品に過ぎなかったのですよ。
だから、当然の事なのだけど、東京の人達で「チャンポン」なんて食べ物を知っている人は誰もいなかったのですよ。

という事で、当時の東京の街には、チャンポンや皿うどんを出す店は一軒もなかったのですよ。
それどころか、こんにちでは、当たり前の食材であるインスタンスのラーメンも、未だに、発売されているインスタントラーメン自体の種類も少なく、インスタント・ラーメンやカップ・ヌードルなんて言うものは、未だに、チャレンジ的な商品に過ぎなく、勿論、こんにちのように一般的でもなく、それに美味しくも無かったので、その当時の、インスタント・・という意味は、時間が全くない時の、緊急避難的に
「3分間待つのだよ!」ぐらいの応急的なimageしかなかったのだよ。
インスタントのラーメンでさえ、未だ一般的ではなかった当時、生のチャンポン麺や、皿うどんの麺を買えるという事は、あり得なかったのですよ。

・・・・という事で、私の大学時代の、東京での学生生活の中で、チャンポンや皿うどんを作って、食べる・・という事は、有り得なかったのですよ。
私にとっての皿うどんやチャンポンの位置は、里帰りした時に、先ず最初に出前して貰うもの、里帰りの日にちと時間が分かっていれば注、お袋が時間に出前を取ってくれていたものが、皿うどんで、近所の小さな小さな、出前専門のお店の、裏メニューの特注の皿うどんは、私にとっての、最高のsoulfoodであり、望郷の味だったのですよ。
(注:当時の生活の中には、未だ電話を持っている家庭も少なく、お店に赤い電話が置いてあって、お店の人に頼んで、鍵で電電公社に一々電話をして、電話を掛けていたのですよ。電話というものがそれ程、一般的ではなかったのです。・・・勿論、郷里の家は開業医だったので、家に電話はあったので、直通で、お店に電話は出来たのですがね。)

だから、年に1回、2回、長崎に帰省をした時に、チャンポンと皿うどんを食べる事は、家にたどり着いた時の必ずのセレモニーでした。

新幹線が博多に開通した頃から、長崎の味もそれまでの、昔ながらの深みのある味から、急速にしょっぱくなって、塩味で、味を誤魔化す一般大衆的な深みのない味になってしまいました。

長崎の駅の周辺から徐々に、長崎の中華街まで、所謂、東京の味になって来たのですよ。
それでも、新地の中国人街のチャンポン屋さんや、一流の料亭は店の味を守っていました。

しかし、そういった、本当に美味しい昔々の味は、今は昔の思い出になってしまいました。

総てのお店が東京の味になってしまって、今は、残念ながら、長崎のどんな一流のチャンポン屋さん(正しくは中国料理店)を食べ歩いても、材料も二流、三流だし、味もしょっ辛いだけで、そんなには美味しい店は未だに見つかりません。
今でも、下町の小さな赤提灯のお店から、高級中国レストラン迄、訪ね歩いているのですがね。

長崎の故郷の味は、今は、何処にも食べる事の出来ない、昔々の歴史的な思い出の味になってしまったのですよ。
でも、若い人達が、そういった味しか、味覚として感じる事が出来なくなってしまったので、致し方ありません。
天下のsteinwayのPianoやBosendorferのPianoですら、今はpopularの音しか出さなくなってしまったのですからね。


ドイツに留学中(1969年昭和44年〜1972年昭和47年)も、当時はMunchenの町も、そういった「ethnic」な中国やベトナム等の食材は売っていなかったので、勿論、チャンポンや皿うどんを作って食べる事は出来ませんでした。
という事で、Munchenの高級Chinarestaurantに行って、チャンポンに近い食べ物や皿うどんに近い料理を注文してみたのですが、チャンポン、皿うどんとは違って、全く別物でしたね。

日本に帰国して、再び東京での生活が始まった頃でも、残念ながら、東京の町では、未だ長崎のみろく屋さんのような乾麺の皿うどんの麺等は発売されていませんでした。

今のように、クール宅急便のような生麺を送る技術もなかったので、長崎から、生麺を送る方法はなかったのです。

という事で、留学から帰国して、大学の先生を始めた当時でも、やっぱり、東京では、チャンポンを作って出すお店もなかったし、麺を手に入れる方法もなかったので、チャンポンを東京で食べるという事は出来ませんでした。
と言うか、先程も言ったように、当時は、長崎県人の人達を除いたら、東京の人達だけでなく、同じ九州の博多の人達でさえも、誰もチャンポンとか皿うどんの事は知らなかったのですよ。
だから、長崎の太麺の焼きそばの事を、皿うどんと勘違いしている人達もいました。

長崎には、皿うどんは細麺と太麺があります。
その他に、海鮮焼きそばもあるので、結構紛らわしいのですよ。
チャンポン麺は一種類です。


という事で、或る時に、どうしても、チャンポンを食べたくなった私が、ふと、思いついたのが、腰の強いスパゲッティをチャンポン麺に見立てて作るというアイデアでした。

しかし、いきなりそのアイディアにたどり着いた分けではありません。

お正月は、当時の東京では、食堂や食料品のお店が全部休みになる・・・という事で、勿論、そのために、年末に買い出しをするのですが、未だ一般の家庭には冷蔵庫も完備してはいなくて、幾ら冬場とは言っても、生ものを買い置きをする事は、出来なかったのですよ。
勿論、正月のおせち料理は、農閑期の主婦が2,3日をおやすみするための、おせち料理だったのですよ。

おせち料理も、今日のようにデパートに行くと、色々なおせちが売っている・・という分けではなく、当時は、よっぽどの高級料理店でないと、作ってくれません。
一般家庭用のおせちなんてものは、高級料亭で作る事はなかったのです。
だから、普通のおせちは、暮れの間に、皆さん、自宅で一生懸命に作っていたのです。
だから、おせちを作れない私達にとっては、食材を買い占めても、腐らせるだけで、学生の頃はそれもあって、家に帰省していたのです。

だけど、もう社会人になった今、正月の帰省でもない分けなので、(当時は、一旦社会人でなくても、学生でも、よっぽどの事がないと帰省する事はないのが普通でした。)一人ぐらしでも、東京で正月を迎えていたのですよ。
今のように、学生でも、社会人でも、結婚しても、毎正月毎に帰省するという習慣は当時の日本にはなかったのですよ。
一家を構えると言う事は、独立をする・・という事だったのでね。



当時の世情は、さて置いて、

食材の買い置きに失敗して、3日目には、食材がいよいよ無くなってしまって、
「はて、さて、どうしよう??」と食料品を探したのですが、当然の事ですが、乾燥したものしか出てきません。

乾麺類はスパゲッティだけです。

乾燥した昆布や鰹節、後は食べた後に、鉢に移しておいた子ネギ・・・、
「うん、うん、スパゲッティをうどんの麺に見立てたら、「素うどん」なら作れるかな??」

乾麺のうどんなのですが、うどんについて言えば、東京でのうどんは、お汁が真っ黒で、私達九州人には食べれません。
・・・と、言う事で、東京のうどんは、未だに食べれないのです。
東京味・・・、所謂、関東味と言えば、蕎麦は温かい蕎麦は、おうどんと同様に、関西では透明なお出汁で、関東の真っ黒な麺汁のお蕎麦は、私は食べれないのですよ。
ですが、冷たいお蕎麦は、関東と関西の違いはありません。
濃いか、薄いかは、地方の違いではなく、寧ろ、お店の味の違いになるからです。

ですから、関東の真っ黒い出汁のお蕎麦は、食べれないので、今でも、基本的には、温かいお蕎麦は食べないのです。

ですから、うどんは、私が東京での生活を始めた頃から、自分で作って食べていました。
お蕎麦も、「たまに・・・」ではありますが、どうしても温かいお蕎麦が食べたくなった時には、自分で作って食べて、外で食べる事はありません。

勿論、当時には、本だしの素や、うどんのスープの元のようなものは売っていませんでしたから、カツオと昆布から出汁を作ってのお話だったのですがね。
の本当は、その頃のお正月にうどん、これも九州味の素うどんなのですが、

右側の素うどんの写真ですが、これでも出汁の汁の色は黄色がかって、濃い、塩っぱい味の方です。
私達が作る場合(教室の先生達は関東の産まれでも、私の元で料理を覚えたので、関西味、いや、九州味なのですよ。)には、(お醤油を全く入れないので)もっと色は薄いのです。(香り付け・・、匂い付け・・・という事で、2、3滴は入れるのですがね・・)
素うどん

という事で、うどんの生を買って来て、自分で出汁を採って作るのですが、当時のお正月は、江古田のセイフーのようなスーパーでも、正月三ヶ日はお休みで、うどんの麺すら、買う事が出来ませんでした。
勿論、お蕎麦と違って、うどんの麺を作る事は簡単だし、時間も掛からないのですが、そこまでして、食べるのは・・・ね〜ぇ??

やっと、前振りから、本題に入って・・・・

そこで、思いついたのが、あり合わせのスパゲッティの麺を、うどんの麺に代用する・・ということでした。
冷蔵庫が一般の家庭になかった頃には、保存の乾麺はそうめんとスパゲティとぐらいしかなかったのですよ。

作ってみると、これが、新しい食感でなかなかおいしい!!
小豆島のようなコシの強いうどんが、東京では手に入らなかったので、スパゲッティのコシの強さは予定外の掘り出し物でした。
勿論、小豆島の腰の強いうどんのように引きが強い分けではありませんが、それは新しい食感という事で、気に入りました。

スパゲッティは、Munchen時代からの、創作料理で、別にスパゲッティな料理(スパゲッティ料理・・・所謂、イタリアン料理)ではなくてもよい・・・というアイデアから、和風の「とろろスパ」とか、「素うどんスパ」等々、色々なレシピが出来ました。

その中の一つのアイディアが、いつも常備しているスパゲッティの麺でチャンポンを作ってみるという事だったのです。


チャンポンの食材に関して

基本的には、皿うどんの材料がベースになります。
私の場合には、皿うどんやチャンポンには、思い入れが深いので、食材が手に入らない場合には、皿うどんは作りません。
ママさん料理の、子供にバランス良く食材を食べさせるための、チャンポンもどきの料理は、作りません。


その基本のベースとなる、食材が、海鮮では、イカゲソ(基本はヤリイカのゲソ)ですが、滅多に手に入らないので通常のイカのゲソを、スーパーに売っている時に買っておいて、冷凍庫で冷凍保存しておきます。
次に絶対に必要なのは、アサリです。
時として手抜きのお店ではあさりのむき身を使用する所もありますが、それは絶対にいけません。
有名なコンビニのボンゴレ・スパゲッティも、アサリのむき身が乗っかっていますが、強烈にむき身の独特の味が出て、不味いです。
本当のボンゴレを食べた事のない若者が作った味でしょうね。
スープだけは、殻付きのアサリで出しておいて、むき身のアサリにそのスープで香りを付けてしまえば、むき身を使用しても、不味くなる事はないのですが、この一手間を惜しむのが、効率優先のコンビニの食材への考え方なのでしょうね。
貝は殻から美味しい出汁が出るのですから、殻無しのむき身では、味は出ないし、極めつけに不味くなります。
エビも美味しいですが、チャンポンや皿うどんに、カニは頂けません。豪華に見えるかもしれませんが、味や香りが強過ぎるので、折角のチャンポンの味が死んでしまいます。

かまぼこは、板付けの他にちくわや丸天等を使っている人も多いのですが、かまぼこから揚げた時の油が出て、雑味が出て不味くなります。
かまぼこは雑味のない素朴な白と赤の板付けに限ります。(勿論、板の付いていないやすいかまぼこでも良いのです。)
つまり、食材が、油を余分に吸っていない素材のものが、チャンポンや皿うどんを美味しく仕上げます。
干し椎茸は戻して、食べやすい大きさに切り揃えますが、その時に大切なのは、戻し汁がチャンポンや皿うどんの美味しいだし汁の元になります。
戻し汁は、少し多めに出来るので、瓶に保存しておいて、他の料理の下味に使ったりします。
きくらげや、たけのこの先端の柔らかい部分や、もやし、豚肉等です。

中華鍋でシャーする時には、順番を守る事が大切です。
私の場合には、野菜は最小限の種類しか使用しませんので、勿論、野菜から炒め始めます。

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