私の教室の生徒さんではないのですが、ピアノを習っている年配の男性の方からの質問を、その先生から回されてきました。
調に関する質問で、どう答えて良いのか分からなかったので、教えて欲しいという質問です。
例えば ニ短調 とかの曲をハ短調で弾くことはできますが 雰囲気が 変わるのは何故ですか?
作曲家は、出来た曲を、イからト迄のどの調を原曲にするか? を、どういう風に考えているのですか? 歌謡曲などの場合には 歌手の人の音域や 慣れ親しめる領域(簡単な調という意味かな??)を考えて 決めると思いますが。
例えば ニ短調 とかの曲をハ短調で弾くことはできますが 雰囲気が 変わるのは何故ですか?
⇒pitchの話:
音の高さによる違いBeethovenの合唱は当時のニ長調は現代のハ長調であったという話がまことしやかに話されています。
だからソプラノのハイHは、実際の音はAの音だったという話です。
私は眉唾としか思いませんけれどね。
その理由は長くなるのでやめます。
それは、「バロックや古典派の時代は基本のAがとても低かった。」という風説から来る話なのです。
バロック時代や古典派の時代のpitchが低かったとする説は、今では風説にしか過ぎません。
答えはその日のコンディションで、自由にpitchを決めていたからなのです。
つまり、ガット弦はその日の天候や湿度によって影響を受けたり、古くなって伸びてくると高い音では切れやすくなったりします。
だからその日の弦のご機嫌でpitchが決まったのです。
勿論、管楽器はそんな事はありませんがね。管楽器は今もそうですが、放っておけばどんどん高くなる傾向があります。
だから、当時も448とかのサイクルで演奏された事もあったようです。
弦楽器はとても無理ですけれどね。
この話は詳しくは、ホームページのあちこちに書いてありますので、そちらを参考にしてください。
(芦塚先生のお部屋⇒楽典の話⇒バロック時代とピッチ)
絶対音感の話:
@歳と音感
リヒャルト シトラウスは晩年自作の曲を指揮しなくなったのだが、それは歳をとって、調がhighに聞こえてしまうので指揮するのが苦痛になった。
A精神状態と絶対音感
**子ちゃんが音楽大学の入学試験のプレッシャーでPianoの曲やviolinの曲がhighに聞こえて練習はおろか、本番も苦労した。
同様に、++君が中学受験の時に同様に絶対音が狂って演奏が難しくなってしまった。
・・・という風に、極まれに、精神的なプレッシャーで絶対音感が狂う人もいるようなのですが、ほとんどの人はその経験は無いようで、半音の100分の1も狂う事はありません。
Mozartの幼少期の逸話で「このヴァイオリンはパパのヴァイオリンと半音の半分違うよ!」という絶対音感の話は、教室の生徒なら普通のお話で、誰かがtuningをサボると(いい加減にtuningすると)、「半音の半分も違って、気持ち悪いよ!」と、直ぐにクレームたつきます。
毎回オケ練習のtuningの時に、半音の10分の1ぐらいでも、芦塚先生に叱られていますからね。芦塚先生が、小学生に向かって、「今日は鬱なのかい??」ってね。
B湿度と絶対音感
湿度が異常に高い時で、雨が続いていて、「空気が重たい!」と感じる時で、先生の欝が酷かったり、生徒の乗りが極端に悪い時には、ごくごくまれなことではありますが、芦塚先生が、「今日は空気が重たいから、444でやりましょう。」と生徒達に指示を出すことがあります。
・・とはいっても、1年に1回ぐらいの話だけどね。
それだけで、見違えるように子供達が元気になるから不思議です。
練習のpitch A=443を一つ上げて、444にするだけで生徒達の乗りが良くなる分けなのなら、「普段もそうすれば良いのでは?」と思われるかもしれないが、そうはいかないのですよ。
普段、それをやろうとすると、生徒達から「え〜っ!!pitchが高い!!」と、クレームがついてしまう。
「Pitchを一つ上げて、気分を一新する」 、それは年に一回の、非常手段だから出来るのですよ。
作曲家は できた曲を イからト迄のどの調を原曲にするか? を考えているのですか?歌謡曲などは 人の音域や 慣れ親しめる領域を考えて 決めると思いますが。
⇒この二つは同じ質問だと思うので、纏めて解答します。
できた曲:
⇒できた曲を イからト迄の、どの調を原曲(原調)にするか?という考え方は、その前提として、メロディーの弾きやすさや歌いやすさ(音域)等を配慮して、作曲家が作曲をする・・・と、思われているように見受けられますが、プロの作曲家が、調を決定する場合には、音域に関する条件はありません。
勿論、作曲家はその楽器の音域と音の特性を考慮してmelodieの音域を決めていきます。
しかし、それで調を決定する事はありません。
楽器の特性と調の設定は別の次元のお話なのです。
音楽の情緒を決定するのはメロディーなくてharmony(和声)なのです。
メロディーが、どんなに美しかったとしても、メロディ自体が情緒を決定するわけではないのです。
それはシンフォニーやオペラなどで、とても美しいメロディーが、作曲家の手によって、場面、場面で全く違った情緒表現をすることでお分かりと思います。
その場合も、その美しいメロディーは変更された情緒表現に従って、調性や楽器を変えて、最もその表現をするのにふさわしい状況を作り出しています。
歌の曲の調性の決め方: リートや歌曲の場合には、Zyklus(組曲)として作曲する場合には、(例 Schubertの美しき水車小屋の娘や冬の旅等)全曲を歌えるように、声域を限定します。Sopranoやbarytone等と指定します。
そして、Zyklusの中には、前後の調性を限定している曲もたくさんあるのです。
その場合の移調は致命的なものになってしまいます。
ですから、本来的にはその定められた声域の歌手が歌う事が望ましいのです。
作曲家の意図した調を歌い手の音域に合わせて、移調して出版するのは、出版社側の利益の売るための考えですから、簡易versionの楽譜同様に、本来的には作曲家の意図にはそぐわないのです。
作曲家は、リートや歌曲の場合には、歌詞が先行するので、歌詞の内容にあった、調性をあらかじめ決めます。
歌手の声域や音域で調を決めるわけではありません。
その調性内で作曲をする時に、歌の音域を決めて行けば良いからです。歌詞⇒調⇒音域の順です。
歌詞にあった調性については、後述します。
曲を歌う歌手が予め決まっている場合:
歌の場合には歌手が決まっていて、その人に対して作曲する場合がよくあります。
この場合にはsopranoでも、リリコやドマティコ、その他、その歌手の声の質と性格(ジャンル)で歌詞や曲のimageが決まります。
それで、ある程度は調性等も限定されます。
勿論、歌のジャンルが違うので、おのずから歌詞なども自由に選べるわけではありませんしね。
先程の楽器の特性の補足説明です。
楽器が決まっている場合: 作曲家が特定の楽器に対して作曲をする場合ですが、ヴァイオリンの楽器を例にとって説明すると、
violinは下からG,D,A,Eと調弦されているので、Dを主音として、下属調のGと属調のA、上属調のEを持った、D調の楽器ということが出来ます。同様に、violaやcelloはC調の楽器と言えます。
ですから、violinを一番良く生かした調性はD Durやd mollです。
その次に良く鳴る調性は、AとGの長短両調です。
E調が次に準じます。
ほとんどのオーケストラの曲や室内楽の曲が上記のいづれかの調になっているのは、この楽器的な特性でviolinやviola、celloが良く鳴る調性だからなのです。
古典派のorchestraの音楽は弦楽器がリードをします。
だから、一番弦楽器がよく鳴る(響く)調が選ばれます。
しかし、ロマン派になると、弦楽器は(特にBrahms等のオーケストラの曲は、古典派のような輝かしい音ではなく)いぶし銀のような、霧に霞んだような音が好まれてきます。
同様に、ブラス・オーケストラの場合には、中心になるクラリネットやトランペットの管楽器の調がB♭の調か、Es管の場合がほとんどなので、ほとんどの曲は♭系の曲が輝かしく響く調性になるのです。
調の持つ絶対的な特性:
この話は作曲家の中では、意外と一般的な話なのですが、あまりにも情緒的、感情的な話なので、音楽の楽典や通論には書かれていません。
作曲家の個人的なGeschmackssache(趣味の問題)で、個人的な感情と経験上の話なので、学術的な裏付けのあるお話ではありません。
ですから、調の持つ音楽の特性のお話は、芦塚先生個人的見解として、作曲家の間でまことしやかに囁かれている作曲家のr一般論として聞いてください。
ハ長調: プリミティブ、天上的な神々しさ(Mozartジュピターシンフォニー)
ハ短調: 激情的、攻撃的(Beethoven、Pianosonate悲愴)
ニ長調: 輝かしさ、華やかさ(殆どのオーケストラの曲)
ニ短調: 暗い攻撃性、悪魔的、デモニッシュ(Beethovenの第9シンフォニー)
変ホ長調: 天上界を表す、神の世界、三位一体(Mozart魔笛Beethoven英雄symphony)
ホ長調: 愛の調、エロスの調、(R シュトラウスの薔薇の騎士の序曲のベッドシーン)
ホ短調: 死を表す。(特にBrahmsの下行3度 Brahms第四シンフォニー、最後の4つの歌)
ヘ長調:田園的、素朴、(Beethovenの田園交響曲)
纓へ短調:不気味、妖怪、魑魅魍魎の世界、ウェーバー魔弾の射手よりお化けのシーン
ト長調: プリミティーフ、可愛らしい、子供じみた(HaydnのSonateやsymphony等や子供の為の安らかな曲)
キリがないのでこの程度にしておきます。
すべてのシンフォニーや室内楽がこの調の性格の原理に従っているのはとても面白い現実です。
とても面白かったです。 調の意味、イ長調、以降も書き込んで覚えておきたいので教えていただけたら嬉しいです!
という事なので、後も追記する事にします。
次は嬰ト長調=変イ長調: 嬰ト長調の嬰は雅楽で使われる嬰の調を当て嵌めたようです。音律を上げるという意味があります。嬰ト長調は殆ど使用される事は無いのですが、嬰ト長調と変イ長調は異名同音(同調)となるのですが、調の性格としては真反対の意味があります。嬰ト長調は結構活動的な調なのですが、変イ長調の場合には穏やかな落ち着いた感じを表します。例とすると、BeethovenのPianoSonateのOp.13のpathetic(悲壮)の2楽章の有名なadagio
cantabileがあります。
イ長調: 憧れ、憧憬、優しさ MozartのPianoSonatek.331(トルコ行進曲付きのT楽章)
イ短調: 情熱的、悲劇的な嘆きを表す。
変ロ長調: 穏やかな落ち着いた感じ
変ロ短調: 宗教的な厳かな悲しさ
ロ長調: 穏やかな感じ(但し、Wagnerは楽劇Tristan und Isoldeで、ホ長調(永遠の愛の調)への属調(求めてやまないSehnsucht憧憬)の調として使用しています。
ロ短調: 宗教的な真摯な調です。(Bachのロ短調ミサ等)
これで24の調、全部ですが、このお話は最初にお話したように、眉唾ものとしてお聞きください。
調のpitchは歴史と共に、とか、世界のorchestraではBerlin-philのように、444cycleを使用する所や、baroque-pitchの435から始まって、今の時代の便宜上のbaroque-pitchである415cycle等もあって、半音以上の差が調性にはあります。
それに、更に加えて、平均律のpitchと純正調のpitchでは、微妙にpitchが変わります。
だから、それぞれの調・・と言っても、調とは何か??という問題さえ起こって来ます。
CD等では、流し始めのpitchと最後のpitchがズレてしまう・・という問題さえ起こって来ました。
ここまで来ると、調とは何か??という答えさえ、曖昧になってしまいます。
まあ、調とはそんな、ナマズと瓢箪のようなものだ・・と思っていただければよろしいかと思います。
蛇足:
私達の教室で4歳の時から習っている、小学2年生の女の子です。
パパがスマホを買って来て、tuningの音が出せるのを発見しました。
「おい、このAの音に合わせて調弦するんだよ!」
「パパ、その音低い!」
「だってスマホなんだから低い分けはないだろう?」
「でも、低いもん!」
・・・という事で、パパは先生に質問に来ました。
「うちの娘が変な事を言っているのですけど!」
「ああ、それはAのpitchは、通常は教育用のpitchで440サイクルになっているからですよ。」
「でも、オーケストラやコンサートでは、演奏会用高度(pitch)として、440サイクルを使用する事はないのです。一般のホールでも、殆どのホールは442〜3サイクルになっているので、教室も443サイクルを使用しています。440cycleの標準pitchに対して、442cycle、または443cycleのpitchをコンサートpitchと呼ぶ事があります。」
「ああ、それで・・・・!じゃあ、うちの子が言っていたのが正しいのか・・・・くやしいなあ・・・!」
mcy君は弟とpitchの当てっこをして、遊んでいるそうです。「このAは447だ!」「このAはbaroquepitchの435だ!」ってね。
追記:
反古の文章です。
そのうち、ちゃんと書くつもりです。
なかなか、時間がない。
芦塚先生の雑談から・・ですが・・・
05年1月19日
@ピッチと湿度と乗り
生徒にオケの指導をしている時に、湿度が多くて鬱陶しくてあまりにも子供達の演奏の乗りが極端に悪いときには、最後の手段として、ピッチを443の演奏会高度から、高めの444サイクルまで上げる事がある。
そうすると、子供達の乗りが見違えるように良くなってくるから面白い。
こういったやり方は、僕自身が個人的に思いついたやり方なので、一般的なorchestraの場合には、そういうことはすることがあるのか、どの程度意味のある事か分からないけど、という話を、06年の8月の22日のレッスンのときに、生徒にピッチの話しを雑談でしていたら、その時に、生徒の担当の先生から「岩城さんの本でウイーンのオケの話の時に、全く同じ事をいっていた。」という事を聞いた。
教室では、気分によってピッチを変えるのは珍しいことではないのだが (⇒これは誤解を招きそうだ。教室でもpitchを変えて演奏する事は、baroque楽器を除いては、基本的にはしない。ただ、生徒の気分の乗りが悪くて、先生が引っ張るだけでは直りそうもない時には、仕方なしに最後の手段として、pitchを変えるという事だ。)
日本のorchestraでは、通常、気分でpitchを変える事なんて事は普通やらない。・・・というか、一般的には、「ピッチを変えると気分が変わる」なんていうこと自体、考えたことも無いだろう。
Aメトロノームのtempoのお話
次に、拍子の話なのだが、
本で読んだ所によると、人間が安定した速度(所謂と感じるテンポはM=60〜80位で人間の脈拍と関係しているそうだ。
嘘か本当か、知らないけれど、メトロノームのなかった昔は自分の脈拍でテンポを量ったそうだ。
一つの本(書物)という事ではなく、私が読んだいろいろな本に、まことしやかに その事について書かれている。
(Metronomのtempoを正確に把握出来る能力については、文献を見ると、絶対音感よりももっと習得が難しく、殆ど生まれついての才能のように書かれている。私のように高校生にもなって音楽を始めた人には、絶対音感と同様に身に付く事はないそうだ。
しかし、私達の教室では、訓練をすると、メトロノームのtempoの80と81の違いを正確に言い当てることが出来るようになる。
それは、Metronomに対する普段の意識の問題なのだよ。
曲のphraseに関して、この場所ではメトロノーム幾つで、ここからは幾つで演奏をするという、ensemble上の約束事は、特に子供達が次のensembleの練習の時の目標課題として、大切である。
ピアノやヴァイオリンを皆で一緒に練習する時には、「82では全員が安定して気持ちよく弾けるが、83ではピアノの子供が不安になってしまう。」 という風に、メトロノームの一目盛りの違いで弾けなくなってしまうのだ。
指導者は、それを正確に把握しておかなければならない。
だから、子供達も練習に際して、自分の弾けるtempoではなく、全体が弾けるtempoに対しての一目盛りの違いの把握を要求される。
・・・というと、かなり高度な難しい事を、しかつめらしくやらさせられているように感じられるかも知れないが、子供達にとって、常にメトロノームを使って練習しているので、それは普通である感覚しかない。
メトロノームを否定する人は、音楽大学の先生等には多いのだが、プロではMetronomを否定する演奏家は基本的にはいない。
メトロノームの必要性を否定する先生は、一人でしか演奏した事の無い先生だろうよな??
曲を伴奏する段階になった場合には、もう二人の共有するtempoが必要になるからである。(感情の入る余地は無くなるからなのだよ。)
プロは音楽家同士で打ち合わせをする機会が非常に多い・・・(というよりもそれが普通な)ので、絶対tempoが必要だからだ。
ましてや、正確に揺らしをするためにはその基本となるtempoが必要だからである。
演奏会毎に(或は、演奏家の為の練習の為の時に・・)、練習するtempoが、感覚的に、違っていてはその演奏家はとても、プロとも呼んで貰えないだろう。
プロの場合には、練習をする場所ですら、演奏会場やrehearsal 室を使用して練習をする事が結構ある。つまり、無駄な練習は、直接的にお金の無駄になってしまうのだよ。
演奏会場やStudio等で練習をする場合には、10分練習が伸びただけで、100万近い金額を求められる事もよくある。
それこそ、time is moneyなのだよ。
私がまだ現役の頃は、リハーサル、本番だけで、練習が全く出来ない時もよくあった。
だから、前日に楽譜を片手に電話で、綿密に、メトロノームを決めていくという作業をよくした。
正確なメトロノームの感覚を持っていればそういう事は当たり前の事になってくる。
子供達のレッスンでも、普段のレッスンで、メトロノームを日常的に使って行くと、メトロノームの一目盛りの違いは、ごくごく普通に分かるようになる。
寧ろ、一般的なメトロノームの一目盛りは、(72、76、80〜)と、あまりにも大雑把なので、教室で使用しているメトロノームは、電子式で目盛りがないものや、beat専用というか、rhythmトレーニング用のメトロノームであるドクター・ビートとかいう機械を使用している。
そこで、72では安心して演奏出来るけれど、73では・・・という、正確で大きな違いが理解出来るようになるのだ。
本の話に戻って、メトロノームのなかった頃の昔は、人間の脈でtempoを測ったという話であるが、人間の持っている感覚より脈の方がよほど不正確である。
教室の子供達は、一目盛りの違いも言い当てる事が出来るし、中学生や高校生で音楽を始めた生徒であっても、メトロノームに関しての絶対値を言い当てられるようになるのは難しくない。
古の昔のプロが、自分の脈でtempoを知った等と言うのは、とても音楽家の感性を小馬鹿にしている素人の言葉で、あほらしくて信じがたい話である。
・・・・信じがたい、という意味は、そういう事を、まことしやかに書く人がいるという事が・・・という意味である。
今では電子Metronomが主流になって来たので、全く使わなくなってしまいましたが、未だ、アナログの時代では、機械式のメトロノームが一般的でした。
芦塚先生が、始めて買ったメトロノームは日本製の某有名makerの製品でしたが、音がキンキンするので、木製の高いメトロノームに買い替えました。音が落ち着いて、練習の邪魔にならないからです。
教室では、生徒にメトロノームを使用して練習をするように指導しているのですが、親御さんから、子供が「なかなか嫌がってメトロノームを使ってくれない」というお話があったので、芦塚先生が「多分、音が嫌いなのですよ。このメトロノームに変えて見てください。」とadviceをしたら、子供がメトロノームを使用するのを嫌がらなくなったそうです。嫌な音が分かるのは、もう美しい音への才能が芽生えている・・という事なのですよ。
芦塚先生愛用のMetronomです。
左から3台のanalog式のMetronomは、ドイツのWittner社製のMetronomです。
一番左側のMetronomらしいMetronomはlesson用のMetronomです。
通常は左から二番目の小さなMetronomを使用していました。
次に真ん中のMetronomですが、左側のMetronomは木製で、右側のMetronomはプラスチック製なのですが、いずれも音はとても良いので、練習用に持ち歩いていたpocket
typeのMetronomです。とても可愛いMetronomです。
次の右側の2台のMetronomですが、デジタル時代になってからは、正確さでは比較のしようがないので、日本製のMetronomを使うようになりました。という事で、普段は右側から二番目のMetronomを使用しています。標準pitchも出せるし、色々と利便性が優れているので、このtypeのMetronomを使用するようになってからは、Wittner社のMetronomは、お飾りになってしまいました。
一番右側のはMetronomでは無くて、rhythm trainerです。色々な種類のrhythmやtapをして、Metronom-tempoを測る機能もあって、とても便利なのですが、廃盤になってしまいました。
「日本人はMetronomさえも、なかなか買ってくれない」と全音楽譜出版社の編集長が嘆いていました。
勿論、芦塚先生の所有するMetronomは、これだけではありません。問題は、電子式のMetronomは、非常に早いペースで、生産打ち切りになってしまい、生徒に勧める事が出来なくなってしまうからです。
Metronomを生徒達に使用させる事で、とても大切な事は、Metronomの使い方を生徒に説明して、実際に、lessonでも使わせる事なのです。しかし、その時に、生徒と同じMetronomがなければ、生徒は困ってしまいます。
勿論、音大生クラスになると、Metronomの機種が違っていても、別に問題はありませんが、小学生やそれ以下の小さな子供達にとっては、ボタンの位置が違っていても、パニックになってしまうからです。
だから、生産打ち切りになったら、次の教室の推薦出来るMetronomを探して、教室も同じ機種を置いて置かなければならないのです。
だから、同じMetronomが何台も教室に置いてある型になってしまいます。
無駄なのだけど、lessonとしては必須条件なのですよ。
analogのWittnerのMetronomのお話をもう一つ、
芦塚先生がMunchenでMetronomを買いに行った時のお話ですが、お店に行って、WittnerのMetronomの同じ機種を全部、(30台ぐらい)出させて、同じtempoにして、全部のMetronomを鳴らさせたのですが、お店の人は、「Metronomだから、全部同じだよ??」と、呆れていたのですが、芦塚先生は、自分の腕時計の秒針とMetronomを合わせて、中の1台を選び出したそうです。
お店の人は、その現実を見て、「Metronomだから、正確だと思っていた。」と驚いていたのですが、約半数以上は、往きと帰りの振幅の幅がズレていて、完全に正確なtempoで動いていたのは、2,3台に過ぎなかったそうです。物理的には有り得ないのですが、所詮は、機械なので、当たり外れは多いのですよ。
芦塚先生らしい、checkでした。芦塚先生が最初に使用していたプラスチック製のMetronomが、往きと復りがズレているのを、ゼンマイの力が左右しているのだと気づいたそうです。
また、Pianoの上に置くとしても、Piano自体が完全に平行であるとは、限らないのでね??
電子式のMetronomは、芦塚先生が待っていたMetronomなのだそうです。
B拍と拍子とリズムについて
次にrhythmではなく、拍と拍子のお話をしよう。
辞書では拍と引くと拍子と出て、拍子と引くと拍と出てしまう。全く困ったものだ。
それに対してAgogik(独)と呼ばれるものもある。
日本語では拍節法とか訳されているようだが、本当の意味を知っている人は少ないだろう。
私達が知っている、「春が来た」という唱歌のmelodieの区切りは、以下のようになっている。
はーるがきーたー/はーるがきーたー/どこにーきたー/
しかし、こういった小節の切れ目と歌詞の切れ目が、同じになる事は、歌曲の場合であって、器楽曲の場合には寧ろ、以下のように、歌詞と小節の切れ目がずれている場合の方が多い。
♪=(あ、)3/4
はるが、きた、は/るが、きた、どこ/に、きた、○○○/
(拍子とは無関係にテーマが拍節を持つ。Bachなんか何時もそうだ。
拍に対して、リズムと呼ばれるものもある。これらは全て厳密に区別されなければならないものだが、その違いを言えるピアニストやヴァイオリニストは少ないだろう。
verschobene Takt(verschoben⇒verschiebenの格変化:verschoben⇒p、a @位置の狂った、ずれた、形の崩れたA) と呼ばれるものもある。ヴィヴァルディなどが良く使う。
Agogikと間違いやすいが、拍子がずれているだけで、リズムがずれているわけではない。
6/8
あ/かい、りんご、や/すい、ねだん、で/○○、
(逆に)6/8γ
あかい、りん/ご、やすい、ねだ/ん、で Etc.etc.
また"Agogikはrubato(伊)と混同されやすい。
蛇足:
これは、一昨年、教室の生徒さんが音楽大学の受験のために、学校まわりをしていた時に、その大学の教授で某プロオーケストラの団員でもある人のレッスンの時の話です。
その先生曰く「tuningの時にAの音を聞いて、そのAの音に合わせてtuningをするのは、ヴァイオリンの習い始めの初心者だけだよ。プロはチューナーのメモリを見て合わせるのだよ。耳でAの音を合わせたり、上下の弦の5度を正確に合わせるのは絶対に不可能なのだよ!」というお話でした。
それをその生徒から聞いた芦塚先生は、唖然として、「そりゃ、どこのオケの人だよ??」と驚いていました。
確かに、pitchには遊びがあります。標準のAの440cycleでも、100分の1cycleのpitchのズレもあるのです。
ですから、それを指導する時には、「高めのA」とか、「ちょうどのA]とか、「低めのA]という言い方をします。
一人、一人の性格に拠って、低めのAを取る生徒や真ん中のAを取る生徒もいますが、全員、高めのAにすればpitchがズレる事はありません。
芦塚先生は、「今日は湿度が高くて鬱陶しいから、Aをチョッと高めにして・・」と言う事がありますが、それは「高めのA=444」の事ではなくて、Aよりも少し高めで(教室のAは443なので、443とBerlin-pitchの444の間)という意味です。
つい先日もKontrabassの女の子が、芦塚先生から厳しく叱られていました。
「Kontrabassの低音が聴こえないから」と言って、Metronomの針を使ってtuningしていたからです。
Kontrabassの初心者ならばイザ知らず、KontrabassのConcertoをsoloで演奏するような生徒は、耳で正しくtuning出来なければならないからです。
tunerの針で合わせていては、音の強さ次第で針が高くなったり低くなったりして、いつまで経っても正しいpitchにtuningする事が出来なくなってしまうからです。
せいぜい、倍音ぐらいまでを使用してpitchを正確に取るための練習をしなければなりません。
事実、耳で合わせたら、ほんの一瞬でtuningをする事が出来たのですよ。
芦塚先生でも、疲れている時には、Cembaloの最低音やPianoの最低音が聞こえなくなる事はざらにあるそうです。
その場合のtuningの仕方は、tuningの音とCembaloの音の唸りを聴いて合わせるのだそうです。
tuningの音と言っても、Cembaloと同じ低音の音を聴く分けではありません。若し、超、性能の良いtunerがあって、Cembaloの最低音と同じ音が出せたとしても、その音は聴き取れないでしょうかね??
だから、tunerで出す音は基音のpitchのままなので、低音とハモらせるには、その倍音を聴く他はないのです。
倍音が聴けるようになると、倍音の唸りが聴こえるようになります。
そうすると、音を聴く必要はなくなるので、音の合わせがとても速くなります。
Cembaloのtuningは幕間の30分以内という制約があるからね??
舞台上で、オーボエのAが鳴っている時に、一人だけおもむろにチューナー等の器械を出してtuningしていたら、指揮者どころではない、コンサートマスターからも、即刻、「首」を申し渡されてしまいますよね。
「首!首!首!」
そんなproは居ませんよ!!
ロシアのorchestraが日本にやって来た時に、舞台の袖では、ViolinやCelloの人達が楽器を片手にウロウロしていました。
「あいつ等、何をしているの??」と、団員に聞いたら、演奏中に誰かがミスったら、次には交代するのだそうです。だから、誰かがミスるのを待って、舞台袖で演奏中にウロウロしているのだそうです。
きゃあ、怖い〜〜??
それに、私達の教室の子供達は、半音の10分の1や20分の1を聞き分けて、「高い!」とか「低い!」とか、文句言っているのだから、チューナーのメモリよりも、1サイクルの100分の1の世界なのだけどね???
これはまた別の音楽大学の先生の例ですが、tuningの話ではないのだけれど、ロマン派の曲を演奏している時に、「あなた、何でそんなに体を揺らして弾くの?!」と怒られたそうです。
ロマン派だろうと、Bachの曲だろうと、その先生の生徒さん達(某国立音楽大学の教授の門下生達)は、硬直して直立したまま、演奏するそうです。
本当に体を少しでも動かすと怒られるそうです。怖いね!
昔々、江戸時代に、正しい歩き方の勉強で水桶を頭に乗っけて、歩く練習をしたという話を聞いた事があります。
殆どそれに近い話だよね。
「体を揺らさないでどうやって音楽を表現するのか?」って??
音楽を表現するのは下品なそうですよ。
楽譜に忠実にforteはフォルテで、Pianoはピアノで弾けば良いのだそうです。
なまじ、感じた音楽を表現しようとするから、ダメなのだそうな!!
確かに、何の理論の裏付けも、時代考証も無しに、感情的に演奏するのは、そりゃあ、ダメだけどね。
だからと言って、無味乾燥に弾く事もなかろうに・・???
その話を聞くだけで、その先生の生徒の演奏というか、その先生の演奏も聞きたくないよね。
きっと、機械のように、ロボットのように、無機質に冷たく演奏するのだろうね。
日本の最高学府がそれでは、プロの演奏家が育たないのは、当たり前だよね。
確かに、芦塚先生も無意味に自己陶酔で体を揺らすのを極端に嫌がります。
特にピアノの演奏で前後に体を揺する人や、もっと酷くなると、前後左右に体をくるくると回しながら演奏する人もよく見かけます。
本人は気づかないかもしれないけれど、その揺れはちゃんとピアノが拾っているのですよ。
音が目を回しています。
芦塚先生はレッスンでは、実に理論的に体の揺らし方を説明し、lectureします。
どこにも感情的に揺らす所はないのだけれど、見ている人は、まるで音楽に乗って、情緒的に体を揺らしているように見えるようです。
本当は、一番よく音が表現出来るように、体を揺らしているだけなのですがね。
芦塚先生がよく言う言葉では、「体を動かす為には、無駄な動きはしない」という事だそうです。
これが戦や真剣勝負であったら、チョッとでも、無駄な動きをしたら、命は無いからね??
体を揺らして表現する方法のお話
芦塚先生に付いて、習い始めたばかりの生徒がいました。
習い始めて1年が経った頃に、お父さんがやって来て、「娘をコンクールに出したい。」と言って来ました。芦塚先生は、「コンクールは音楽の世界でプロになる事を目指して頑張っている生徒達の集団なのだから、目的が違うでしょう??」と、説得したのですが、「芦塚先生の所で学んでいても、一般的なレベルではどうなのか・・が分からないから・・」というよく分からない理由だったのですが、まあ、コンクールに出す事になりました。
でも、未だ芦塚先生の元で学び始めたばかりだし、真面目で一生懸命に練習をする生徒なのだけど、未だ、音楽を作る所までは出来ていない生徒なので、コンクールの課題曲を弾いても、四角四面でロボットのようで、音楽になりません。
困ってしまった芦塚先生は、彼女に課題曲の全ての音楽に合わせて、振り付けを指導しました。腰の揺らし方や動かし方です。腰の上下左右の移動です。
彼女はコンクールで全国大会で優勝したのですが、その評価は「感情過多なので、少し自制するように・・」という評価でした。
芦塚先生は「審査員全員を騙せた」とご満悦でした。
芦塚先生曰く、「音楽の情緒表現なんて、そんなもんよ??」という事だそうです。
その意味はプロは、自分がどのような精神状態にあっても、音楽表現に影響があるような事があってはいけない。
プロの演奏の情緒表現は、会場の広さと聴衆の数で、変わる。・・という原則があるのだそうです。
その最たるものが、歌舞伎の表現だそうです。
deformerされた表現は、舞台そのものだそうです。
これまた別の芦塚先生の生徒のお話ですが、一般大学を受験する予定で趣味で音楽を学んでいた生徒が、高校2年生になってから、突然、「音楽大学に進学したい」と言って来ました。音楽大学を受験する生徒達が勉強をする教科は、趣味のlessonとは違うのだから、とても無理・・と、説得したのだけど、「何が何でも、音楽大学に行きたい」と嘆願されてしまいました。、まあ、いつもの毎度のpatternなのだけれどね〜ぇ??
まあ、音楽の一般教科は、1年半もあれば、何とかなるとして、問題は、主科のPianoです。趣味組と受験組では全くcurriculumが違うので、1年半ではとても間に合いません。EtudeやBach等も、入学試験は、音楽性を競う分けではなくて、寧ろ、どの程度指が回るかの勝負でもあります。
という事で、芦塚先生が出した条件は、「音楽大学には入れてあげるけれど、大学に入った後は、知らないよ。自分で何とかするんだよ??」と言う事でした。彼女は大喜びで、lessonを頑張りました。
芦塚先生が取った方策は、「指が回らない」という欠点を、全くバレないように演奏法で、超、上手なproの演奏と同じように演奏させる事でした。
Olympicでは新体操等の選手が、超、高難度の演技をするのですが、その成功率のパーセンテージは、殆ど、ギャンブルのようなものです。しかし、proの選手ともなると、同じ、超、高難度の演技を100%、ミス無く演技します。
それはどうしてでしょうか??それには、ちゃんとしたproとしてのtrickがあるのです。
超、technicianなproの演奏家達が高難度の曲を、一分のミスも無く演奏出来るのには、当然の理由があります。
そのTechnikを彼女の演奏に使ったのですよ。彼女の前と後ろの10名ずつは不合格で彼女一人が合格したのです。
相当にレベルの高い生徒が受験して来たと思ったのでしょうがねぇ??
まあ、proとしての、騙しのTechnikなのですがね〜ぇ??音大の先生達には分からないだろうよな??
これは、また別口の音楽大学の先生の話・・
素晴らしい上品なピアノの教授が生徒がピアノを演奏していたら、pedalの踏み変えを説明するのに、「そこのところは・・・」と言って、ハイヒールで、生徒の靴の上を押したそうです。その女の子は、「その音楽大学には絶対に行かない!」と泣いていました。
困った事にそこの大学は音楽大学では一流校なのですよ。
まあ、こういった、訳の分からない事を曰わっている音楽大学の先生の話は、数え上げたら、キリのない話ですが、それを幾ら集めて話した所で、とても冗談にしか聞こえない話で、一般の人達からしたら、私達が悪意のある冗談を言っているようにしか聞こえないかも知れませんよね。
しかし、それが、私達音楽界に生きる人間に取っては、困った事に、冗談で済まされる話しではないのだよな・・・・ぁ??
音楽界に関わらず、所謂、教育界という所は、常識が通用しない密閉された空間の世界なのだよね。
常に自己満足の世界だけで成り立っている世界なのだよな??
「これだけnetの社会になったら、もう、おいそれとは通用しないのでは・・??」
いやあ、それは甘いのだよ。
だって、Classicの音楽家達は、パソコン等は使えないanalogの人種なのでね??