「まえがき」
「芦塚メトードを学ぶ上での二つのネック}
[levelが高い。勉強が大変!]
[子供達の将来の目的は?]
[学ぶという意味での芦塚メトード]
[一週間学習]
[C先生の例]
[近所のピアノの先生の子供]
[芦塚先生の場合]
[編集後記:私の近況=芦塚先生の独り言]
芦塚メトードについて
音楽を楽しく
「まえがき」
[芦塚メトードとは音楽の難しく高度な技術を、単純に簡単に学ぶ事が出来るようにするためのmethodeである]・・・という、芦塚メトードに対しての把握は、正しくはない。
しかし、その事については、後日述べることにする。
インストラクター希望者で教室を訪れた先生に、「教室での子供達への指導は芦塚メトードを覚えてそれで指導するように・・」という事で、芦塚先生が生徒を指導している所を見学させた時に、その先生から、「とても難しくて覚えきらない。」とdouble teachers systemを拒絶された事がある。一般的な音大型の勉強をして来た人達にとっては、音楽の勉強とは、「その曲を弾けるようになる」という事に尽きる。
音楽の演奏の為の技術を練習して習得する、ということぐらいまでが、理解の範疇になる。
しかし、芦塚メトードの*する分野は、音楽技術のみではなく、その時代時代特有の表現や奏法にまで至る。芦塚先生が「古典派の奏法では・・。」とか言って、forte-pianoに拠る特殊な演奏法を引き合いにだしてくるのもそのひとつである。
勿論、芦塚メトードの優れた点は音楽技術や音楽表現だけではない。
音楽を離れて、心理学や教育法にまでそのテリトリーが広がっているのだ。
子供の心理に対しての造詣の深さがなければ、子供達を教え導くことは出来ない。
東京で音楽教室を開いている先生達が、教室の発表会を見学に来て、「千葉の生徒さん達はご父兄の水準が高くてよいですね。」と言っていた。
その時、それを聞いていた芦塚先生のお弟子さん達が「あなたの生徒さん達のご父兄の方が、教育に対する意識はたかいのですよ。」と切り返していた。
父兄の意識が高いから、生徒の音楽の水準が高いと解釈した分けなのだが、父兄の音楽に対する意識は先生が作るものであって、作らなければ、一般の水準のままである事は、当たり前の事である。
それすら一般では、分からないのだよね。
音楽の勉強は多種多様に渡る。
それを全て学ぶ事は、とても大変な事のように言われている。
それは、ある意味では事実である。
芦塚先生の所に勉強に来る先生達の多くは、自分の生徒の問題点を単純にその場だけの対処で乗り切ろうとする。だから、芦塚先生に先生達が学びたい内容はその問題点の解決法ではなくて、単なる対処療法に過ぎない。
しかし、殆どのケースの場合には、問題点は幾つかの要素が絡み合って、引き起こされる場合の方が多いのだ。単純に一つのadviceで乗り切れるような安直な回答はない。
それは、一つの曲の中で勉強しなければならない事が、複雑に絡み合う事による。
そういった、複雑に絡み合った音楽のシステムを、簡単に楽に学べるように、system化し、methode化したのが、芦塚メトードである。
だから、実際にはとても複雑で難しい音楽技術の習得や子供の指導法、教育法等を、体系化することによって、非常に簡単に習得出来る様にした。
それが芦塚メトードのconceptである。
「芦塚メトードを学ぶ上での二つのネック」
芦塚メトードを学ぶ先生達は、ともすれば、芦塚先生からその技術を学ぼうとする。
「えっ?!芦塚メトードを学ぶという事は、技術をマスターすることではないのですか?」
それが、ちがうんだなぁ〜!幾ら、技術をマスターしたとしても、上手い生徒は育てられても、音楽を人生の糧とする生徒は育てられないのだよ。
つまり、技術は単なるhow-toに過ぎない。
芦塚先生が生徒を指導している時に、同じ曲の同じlevelの課題であったとしても、人が違って、目的や年齢、性格が違えば、芦塚先生は全く違った指導をする。
そこにはhow-to的なものは存在しない。
これが、現実に今、芦塚先生から指導法を学ぼうとしている先生達のネックである。
先生の真似をして、先生のように指導しても、何時も「それは違う!」と怒られる。
でも、全く怒られない先生もいるんだよ。えこひいきではなくってね!!
芦塚先生が何時も、口を酸っぱくして言っている事は、生徒に指導しなければならない根本は、その生徒が音楽に対する意識であり、その生徒や父兄の意識や音楽に対しての価値観を引き上げる事が、生徒の音楽に対してのNiveauをあげる事につながって行って、音楽に対してのプライドも自然と身に付いて行くのだよ。
その意識があってからのNiveauであり、その価値観が備わってからの、技術なのだよ。
つまり、幾ら技術があっても、意識がなければ、表現するものは出来ないし、表現するものがなければ、その技術は、馬の耳に念仏や、猫に小判にしかならない。
芦塚メトードを学ぶ上での、もう一つのネックは、子供のうちから、最初から芦塚メトードで学んだ生徒は何が芦塚メトードか、という事を分からないし、中学生になってからや、高校生になって以降に教室に入会して、芦塚メトードを学ぶ生徒は、芦塚メトードの何たるかはよく理解出来るのにも関わらず、上手になったとしても、子供のうちから学んでいる生徒にはとても敵わない。
その、ターニングポイントは小学校の3年生から4年生の間である。
教室で学ぶ生徒に芦塚先生がその話をしたら、「そりゃ、そうだ!」という生徒と、「何で??」と不思議そうな顔をする生徒に二つに分かれてしまった。
芦塚メトードで学んで来て、非常に上手くなった生徒の弱点は、練習量や意識の不足である。
一般の音楽を学ぶ生徒はメトードではなく、練習量と意識と先生に対する尊敬の念だけで、努力を続ける。
教室の生徒や父兄達は、「自分がそういった努力をすれば、もっと上手くなるに違いない。」という、妄想に囚われる。
しかし、メトードのない所で幾ら努力をしても、それは所詮無駄な努力である。
しかし、日本の教育界では無駄な努力というものは認めない。
「情熱と努力さえあれば、必ず、夢は叶う」、というのが、日本流の考え方なのだからである。
世の中には、何の努力もしなくても、夢を叶えた人達は多いのだが、日本の教育界では、そういう人達が居る事すら認めようとはしない。
外国の企業はノルマ制である。
仕事の出来上がりがよければ、その人が楽しんでやったか、一生懸命血の涙を流しながら苦労をしてやったかは、評価の対象にはならない。
対象になるのはその出来榮えだけだからである。
楽しく、勉強して仕事して、評価を受けるなら、それに越したことはなかろうと、思うのだが、これが日本では通用しない。
特に、学校の教育の中ではそうである。
この原稿を書いている今現在も、テレビで「体罰か教育か?」で大騒ぎをしている。
私達の教室では、先生が生徒を叩いた事は絶対にない。
「叩いた事はない」という事よりも、「叩く必要がない」・・・からである。
意識さえあれば・・・、つまり、勉強に向かう意識さえ付けば、体罰なんて、原始的な教育は必要はない。
後は、仕事のmethodeであり、技術なのだから、根性なんて、前時代的な古い考えは必要ない。つまり、物事を論理的にシステマティックに考え、構成しないから、ノルマが上がらなくって、体罰が必要なるのだよ。
所詮、体罰などというものは、所詮、我々とは次元の違う別世界の話なのだからね。
外部で音楽を学んで来た先生達にとっては、音楽の勉強とは先生の言うとおり、ただ単純にそのまま真似をして弾くだけなのである。
だから、音楽の指導も生徒に自分を真似させる事が全てなのだ。
という分けで、ピアノやヴァイオリンのレッスンで、芦塚先生から曲のインタープリテーションやmethode化された技術を、説明されると、非常に難しい物と感じとってしまうのだ。
だって、モノ真似には、頭を使う必要はないからね。
しかし、そういうものとして音楽を学んできた大人達と違って、最初から教室で学んできた子供達は難しい高度な技術を、一度も難しいとは思っていないのだ。
説明されて理解出来ている分けなので、演奏出来ないはずがないからだ。
弾けて当たり前の世界である。
出来て普通の世界でもある。
しかも不思議な事に、練習もあまりしない。
子供達にとって音楽を学ぶ事は、楽しくて簡単な事なのである。
確かに、一般の音楽教育では、音楽を学ぶのは大変難しい。
努力と忍耐の賜物である。
厳しさと辛さに耐えたものだけが、プロとして技術を習得する事が出来る。
曰く、音楽に限らず、道を究めるのは難しく、道に至る人はほんの僅かである事は、(別に儒教の諺を持ち出さなくとも、)周知の事実である。
しかし、勘違いをしてはいけない。
技術は音楽を表現するための手段にしか過ぎない。
コルトーのように、表現したい音楽の水準が、彼自身の技術の水準をオーバーしてしまったとしても、音楽の心は充分に人々に届く。
コルトーは、自分の名前を冠したコンクールで、名誉審査委員長に呼ばれて行った時に、皮肉交じりに、「私がこのコンクールを受けたら、予選も通過出来ないだろう。」と言っていた。それを聞いた人は、「コルトーが、コンクールのlevelの高さを褒めたものだ。」と解釈したようだが、コルトーに限っても、それはない。
コンクールは、出場者の技術を比べ評価する。
しかし、技術は単なる技術にしか過ぎないので、技術が人々を感動させる事が出来ると思っている人がいたとしたら、それは、問題だ。しかし、日本人の音楽家は殆どの人達が、そう理解している。
芦塚先生は、一言、「阿呆らしい!」と一笑に付していた。
技術は単なる技術にしか過ぎない。だからsystem化する事によって、より簡単に、しかも楽に習得する事が可能である。
いち早く表現力を身に付ける事によって、子供の内から、音楽の解釈や表現に集中して学ぶ事が出来る。
そういった意味合いにおいては、芦塚メトードは音楽という狭い分野に限らず、ありとあらゆる分野の、道を究めようとするプロフェッショナルを目指す人達の手助けとなるであろう。
しかも、芦塚メトードの利点は、単にプロを目指す人達に対してだけではなく、寧ろ、一般社会の大多数を占める音楽のdilettante、或いは、音楽がただの趣味にしか過ぎない人達にとっても、有益なadviceをしてくれるmethodeでもあるのだ。
[levelが高い。勉強が大変!]
講師募集で先生を面接して、よく誤解されることは、自分達がこれまで勉強して来た勉強方法で、教材を勉強し直さなければならないと思って、「それは大変だ!」と思ってしまうということなのだ。
芦塚音楽研究所で講師になって、子供達を指導するという事は、「芦塚メトードで指導する」という事なので、芦塚メトードで、教材の勉強をするという事なのだよ。
折角、生徒の音楽を学ぶ目的が、「音楽の専門家になる」とか、「プロを目指す」とか、或いは「趣味なのだけどある程度ちゃんとした技術を身に付けたい」という生徒達の夢や願望、要望に応えるために、本来的には大変な実現不可能な夢を、簡単に叶える事が可能なように、それを望んで、先生の言う通りにちゃんと学習するのなら、そういった夢をゆめとしてではなく、実際に無理なく叶える事が出来るように、その方法論をシステマーティックにしたのが芦塚メトードなのに、教室外からきた人達や、音大出のインストラクター志望の人たちは、世間一般の通念で、「教室の生徒は技術的にレベルが高いから、学ぶ子供達も指導する先生達も大変だ!」とついつい思ってしまう。
勿論、それは当たり前の事で、儒教型の従来の勉強法では、苦痛ばかり大きくて、非能率的で、非効率的なので、幾ら先生が生徒の夢を叶えてあげたいと願っても、それは見果てぬ夢である事は、明らかなのだよね。
そういう、現実から「levelの高い生徒を指導するのは、勉強が大変だ」と講師希望者の若者たちが思ってしまうのはすこぶる当然であるよな。
でも、これは指導者としては、まだlevelの高いリクルートの音楽家達であり、音大を卒業したばかりの、若者たちは生徒の技術levelが自分達の水準を遥かに越して、高いlevelのlessonを受けているのにも関わらず、「相手は子供達だから、自分達が勉強して来た範囲内で指導出来る」と、勘違いしてしまう若者たちの方が、圧倒的に多いのだよ。
音楽やスポーツも、技術であって、年齢ではないという事が、若し仮に、理屈では分かっていたとしても、本当には・・、つまり、情緒的に、感情的には分かっていないのだよ。
だから、幾ら、若い先生希望者がリクルートに教室を訪れたとしても、その若者たちの意識の誤りに気付かせ、正しく物を見るという事を教えるという事は、(・・・その意識を変えさせる事は、小さな子供の頃から、そう言った教育で育ってきたわけではないので)、殆ど不可能と言ってもよいのだよ。
例えば、芦塚先生が、これから子供達を指導しようとする若いPianoの先生に対してadviceとして、「Beyerを全曲暗譜しなさい。」と要求すると、「えっ〜?!Beyer教則本の106曲を全部ですか?」と驚く。
確かに、曲数は106曲であったとしても、1曲16小節しかないし、音符も4分音符が単位なので、1小節に音符は4個しか出てこない。
しかも、A,A‘、B、A’で、しかもBも部分は2小節単位の繰り返しにしか過ぎない。
だから仮に、16小節あったとしても、1曲の中で覚える小節数はわずか、6小節にしか過ぎない。
それを106曲覚えたとしても、音符の数や小節の数は、chopinのバラード1曲の方が、よっぽど多いはずなのだがね。
だから、「chopinのバラード1曲、覚えられない・・・と言う事なのか?」と、質問すると、「chopinは1曲だから覚えられる。」と言う。
それは、はっきり言って、単なる意識の問題なのだよ。
本当の本音の所は、「バイエルにそこまで情熱を傾ける事は出来ません!」「ショパンなら出来るけど!」という意味なのだよね。
自分が音楽の先生になりたいと思って、その音楽の一番基礎的な所を、軽く見ているという事は、とりもなおさず、自分自身を卑下している事になるのだ、という事に気がつかない。
自分が自分を卑下しているという事に気がつかないという事は、実に哀れなものだ!
そこの所を、説明するのは、無駄な事だから、サッサと諦めて、話を利便性の方から攻めて見る事にして、だから、「君はchopinのバラードを一年間になんか演奏会で弾くのかね?」「でも、Beyerや、sonatineの曲は、殆ど、毎日、小さな子供達を指導するときに、お世話になっているのではないのかい?」と質問すると、「う〜ん、でも・・・・??」と、答えに窮してしまう。
でも、このお話は、一般の社会人には理解出来ない事だろうね。
だって、社会人で、「お店を持ちたい。」という夢のある人達なら、安いから軽く見たり、高いから貴重品として扱うという事は、有り得ないよね。
だって、一番売れるものが、自分に一番貢献度が高いのだから!!
そんな事は、社会人だったら、当たり前過ぎる程、当たり前の事で、何を悩んでいるのか分からないだろうよ。
お店に来たお客様の質問に対して、「それは安いものだから、・・・」といって、何も勉強してなくって、取説さえ見ていなくて、お客様の質問に答える事が出来なければ、或いは一々取説を開いて、取説を読みながら説明をしているようなお店にはお客様は二度と来ないだろうよ。
お客様は、本当に良い物を、安く買う事を望んでいるのだからね。
「安いから、どうでも良い。いい加減で良い。」という事では、今の日本の経済の発展は無かったのだよ。
日本人が「安くても良い物を、良心的な経営を・・」と考えたから、こんにちの発展があったのだよ。それは芦塚先生達の団塊の世代のpolicyなのだよ。
Beyerでも、本当に良さがあるから、Beethovenの時代から、生き残って来ているのだよ。
ポッと出の色々な教則本が無数にあるのだが、未だにBeyerを越す教則本に巡り会った事はない、と芦塚先生は常日頃言っている。
しかし、良薬は苦しの諺通りに、Beyer教則本やDiabelliの連弾曲集のconcept(interpretation)は非常に難しい。
真摯に理解して指導しようと思ったら、やっぱり、ChopinやBachを演奏する時と同じぐらいに、真摯に教材研究に向かう態度が必要なのだよ。
それが分からないと、本当の意味での素晴らしい指導者にはなれないのだよね。
Beyerや、Diabelliの初歩の教材を軽く見る所が、若者たちが音楽教室で子供達を指導する事を、軽いノリで、お気楽に考えている事の証になってしまうのだがね。
そういった前提を無しにしても、「levelが高い=勉強するのは大変だ」と、考えるのは、おかしいよね。
必要なのは、「やる気」と、「今までの思い込みを正す」という事なのだがね。
会社に入るのなら、会社の方針で物事を考えられるようにしないとね。何処も雇ってはくれないよ。
社会の現実は厳しいのだがね。
大体、「Beyerを全曲暗譜しなさい。」と、芦塚先生が言ったとしても、それはそんなに大変な事ではない。
芦塚先生が常日頃口にされているように、「暗譜は、単なる習性」なのだよ。
三つ子の魂百まで、と言うが、Beyerの段階で、身に付いた、手の型や打鍵の位置、姿勢やtouchは、その生徒の音楽人生そのものを決定づけてしまう。
しかし、色々な先生達のlessonを見ていると、皆、譜面をしがみついて読んでいて、間違いの音探しに必死で、手の型や指使い等、或いは椅子の高さや打鍵の位置等のcheckをしようとしない。…・というか、譜面にしがみついているのだから、それらのcheckが全く出来ていないのだよ。
初期の段階でそれをやられると、手直しするよりも、全くの初心者を最初から指導した方が楽だし、生徒の伸びも早いのだよ。
殆どの生徒はその悪い癖を取るのに、その生徒が学んで来たのと同じ時間を要するのだよ。
それでも、治れば良い方で、全く癖が取れない生徒の方が多い。
音楽の初歩の導入は、一般に言われているように、「初歩の段階は巷の近場の先生で、そこで才能があって、上手くなるようだったら、それから有名な先生を探して・・」という考え方は全くの誤りである。
私達も、「これだけ良いsenseを持っているのなら、今まで、誰にも習わないで、初心者として教室に来てくれたら、・・・」と嘆いてしまう事がよくある。
初歩で、間違えた指導を受けたら、一生治らないと思った方が良い。
先程の暗譜の話に戻るが、芦塚先生が、常に生徒に言い続けている言葉がある。
それは「もし、君が発表会で、曲を暗譜で演奏するのなら、家での練習も暗譜でしなさい。」
「発表会で譜面を見て、演奏するのなら、家でも譜面を見て練習するのだよ。」という事なのだ。
教室外の生徒は、普通は暗譜で演奏する事に慣れていないので、「家でも、暗譜で練習しなさい。」と言われてしまうと、面食らってしまう。
何故なら、一般の音楽の指導では、生徒が「曲が弾けるようになってから、暗譜を始める」 からである。
つまり、一般の人達の考え方では、「曲が弾けてもいないのに、暗譜が出来るわけはない」という前提となる考え方があるということなのだよ。
だから、芦塚先生も、Pianoを習い始めた頃には、Pianoの先生からは、「譜面をよく見て譜読みをしなさい。」と、「暗譜で練習するのは言語道断!」という風に習って来たそうだ。
だけど、譜面を見ながら、練習をしている時には、実際には、譜面を見ていないものなのだよ。
学校の授業でも先生が黒板一杯に、要点を書いて、生徒達はそれをノートに写しながら先生の言う事を聞いている。
それで、先生の言う事が聴ける分けはないだろう。それで、授業の内容を理解しろとは、所詮、無理な話だよ。
芦塚先生は、それをこの40年間言い続けているのに、未だに誰も先生の言う事を聞いてはくれない、と嘆いている。
芦塚先生の話を聞くのに、ノートを録っている分けでもないのにさ!!
心此処に在らざれば、気けど聞こえず、見れど見えず・・・
昔の人は上手い言い方をするね。
芦塚先生は、生徒を指導する時に、1曲をまるまる弾かせる、所謂、通し弾き、通し練習をさせる事は滅多にしない。
芦塚先生のlessonの殆どは、前回のlessonでのcheckpointの抜き出し練習とそのkritikで終わるのだよ。
抜き出し練習の箇所は、せいぜい1箇所、2箇所で、通常は1、2小節ぐらいだ。
練習がはかどって来て、練習箇所の小節割が大きくなったとしても、1小節が8小節に増えるぐらいであろう。
抜き出し練習(抜き出しlesson)には、かなり緻密で繊細な神経が必要である。つまり、芦塚先生の要求している問題に応える耳が必要だという事である。
だから、最初に戻って、先生や生徒が、譜面にしがみついて、Pianoを演奏していては、抜き出し練習のpointをcheckは出来なくって当たり前である。
もし、抜き出し練習をさせている先生が暗譜をさせていないという事なら、幾ら生徒が宿題の抜き出し練習をやってきたとしても、殆どその先生のlessonは、無意味で、何のlessonの効果、効率も見い出せないだろう。
芦塚先生は、生徒が暗譜をして来ない時に、生徒に何時もお説教をする。
「抜き出し練習は、ちゃんと暗譜が出来ていないと、checkpointが聞き取れないのは、当たり前だよね。
譜面とにらめっこしていてはcheckpointを聞き取れる分けはないもんね。」
「抜き出し練習は、たった1小節か2小節だけだから、覚えられないという事はないよね。覚えられて当たり前だよね。」
「暗譜が出来ない所は、演奏が難しい所だから、当然抜き出し練習や、分解練習、その他の色々な練習法を駆使する場所だよね。」
「そういった練習をちゃんとやったら、覚えられない事はないよね。」
教室の生徒は、この説明で当然という顔をするのだが、Beyer教則本の段階での抜き出し練習の癖が付いていない生徒にとっては、この説明は理解出来ないのかもね。
初期指導は、本当に大切だよ!
しかも、超絶に難しい!!
私達の教室では、子供達に音楽の練習を強要する事はない。
レッスンで子供を叱る事も無いのだ。
当然、先生が「あなたもこのくらいの曲を弾くのだったら、毎日*時間ちゃんと練習しないとね!」等と言う事は無い。
しかし、それなのに教室の生徒達はコンクール等で、全国大会で賞状を貰っている生徒達が沢山いる。しかも、その子供達の殆どは、趣味の生徒である。
だから、親も金を出さないので、コンクールの全国大会が近づいたからと言って、追加のone lessonをする生徒もめったにいない。親の意識としては、趣味の子供にそんなにお金はかけられないからね。
親にしても、子供にしても、それぐらいの、意識しかない。
levelと意識が伴っていない。
困った事だ!
しかし、一般の人達はそうは解釈しない。
つまり、「これだけlevelが高いのだから、子供達は相当一生懸命練習させられて
或いは「教室の生徒の親達も、子供を将来音楽大学等に進学させるために、毎日親子で涙を流しながら一生懸命勉強させている」と思い込んでいる。
しかし残念ながら今現在、教室にはそういったしっかりした目的を持って入会して来た生徒は殆んどと言って良い程いない。
確かに昔はそういった生徒達も沢山いたこともあるのだが、今の若者達でしっかりと将来の展望を持った生徒は少ない。
それはむしろ若者のせいではなく、親が子供に対して苦労をさせることを嫌う現代の風潮であり、或いは学業中心で、音楽を職業として捉えられない親達による事が大きい。
有名音大を含めて、「プロになりたい。」等と言う若者を探す事は、もはや砂浜に落としたダイヤモンドの一粒を探すよりも難しいし、音大の先生のように厳しい、辛い、キツいlessonの方が、内容も濃くて成果も上がると思い込んでいるので、巷の音楽教室である、楽しい、優しい、練習は所詮趣味の範囲と思い込んでいるのは困ったものだ。所詮は、プロを目指す素人集団なので、仕方のない事かな。
音楽は体系化する事が出来る。
和音やリズムなどの聴音の指導でも然りであるが、音楽の様式においても同様に体系化出来るのだ。
rhythmに関して言えば、メヌエットのリズム(テンポ)は全て同じであるし、マズルカやワルツなども同じ揺らし(スイング)をする。
舞踊の曲なので、速度が違えば、踊れなくなってしまうのは当然だからね。
だから、Mazurkaのtempoはそれ以外のtempoでは有り得ないし、MenuettのtempoもMenuetのtempoであり、rhythmで演奏しなければならないのは、当然な事なのだ。
古典派の時代のPianoの音楽の奏法は、むしろ弦のbowtechnicの奏法に起因するので、弦の演奏表現の仕方を知っていれば、Pianoのソナチネやソナタ等の細かいニュアンスの表現はすこぶる簡単である。
MozartやHaydn等のピアノのtouchの基本はleggieroである。
しかし、leggieroと指定するようになって来たのは、Pianoがフォルテピアノのシングルアクションから、現代のダブルアクションに代わる頃からの話である。
シングルアクションのtouchで演奏した最後のピアニストはchopinであろうか?
彼の愛用するプレイエルのシングルアクションピアノは当時としても、もう既に、懐古的な時代遅れなものであったろう。
しかし、シングルアクションの奏法を勉強すると、HaydnからMozart、chopinに至るまでのtouchが理解できる。
あのBeethovenでさえ、double actionのPianoを弾いて、「これからのピアノがこんなものになるのだったら、二度とピアノの曲は書かない。」さえ言っている。
Bachのinventionを指導する時に、私は生徒達全員にキーボードを買わせた。orgelの奏法を勉強させて、inventionの声部の流れを理解させるためである。
baroque時代の音楽や古典派の音楽を勉強しようとする場合に於いて、その全ての曲を学習するのは不可能だし、また、論理的ではない。baroqueにはtriosonateというgenreがあるが、その分類は、大きく教会sonateとKammersonateの二つの様式に分類される。その二つの様式から、基本的な曲をproversionで勉強すれば、後のとbaroqueの全ての作曲家の奏法が80%、90%迄、理解出来るようになる。後は、その作曲家の独自性の部分だけを追求していけば良いのである。これが、芦塚メトードに於ける時短の学習法である。
同じ事は、古典派の研究でも然りである。
これは技術や様式としての話だけでは無く、音楽表現そのものについても、同じことが言えるのだ。
19世紀後半のビーダーマイヤー時代の音楽や、アバンギャルドの音楽もその表現にはその時代特有の同一性(synchronicity)がある。
それを掴み正しく表現すると言う事、それを持って「体系化する」という。
芦塚メトードに曰く、「お手軽に音楽を学ぶ事が出来る」という事は、あくまでも、学ぶ側の立場の人間であって、指導する側の人間は、、決して「お手軽にそのsystemを学べる」という分けではなく、、大変な勉強と知識と、努力と時間を要求されるのだ。
お手軽な方の、生徒達は与えられるものを、その通りに学習していけば良いだけである。
しかし、音楽の指導を学ぶものにとっては、音楽の技術や音楽上の一般的な知識だけではなく、教育という意味での、子供の心理的な把握や、親に対してのアドバイス、子供を取り巻く社会の環境に至るまでの全般的な知識とより高度で専門的な技術を要求される。
芦塚先生が父兄に、そういうお話をすると、「音楽の指導者になると言う事は、とても大変な努力と忍耐を要する」事のように思われてしまうのだが、芦塚先生に言わせれば、「医者や俳優になることのほうがよっぽど大変な事だ。」と言われていますよ。
医者は一生懸命患者を治療しても、ホンの一瞬のミスで患者を死なせたりして、裁判になったりする。
俳優だって、私生活というものが全く無く、プライベートの時間までマスコミに監視されるわけだし、逆にマスコミから監視されなくなったとしたら、今度は生活が出来なくなる。
江古田に巨人軍の3軍の選手がいる。年収は・・・・。「えっつ??それ、年収??月収じゃないの??」
勿論、とても生きていける金額では無いので、日ごろはバイトに明け暮れている。
仕事とは、多かれ少なかれそのようなもんだ。
だから働かないで親に面倒を見て貰う「ニートや引き篭もり」が増え続けているのだ。(親もそれを増長するような教育を子供に施している。)
芦塚先生は、近頃まで、「そういった事柄は、現代社会の抱える問題で、今の世代の若い人たちだけの事である。」という風に捉えておられたのだが、「先日、何気なくテレビを見ていたとき、そういった引き篭もりやニートが、40代、50代の世代ですら存在する。」と言う事をテレビで聞いて「がく然としてしまった。」と言われていました。
そのときに、某国営テレビでドキュメントして放映していた、最長齢の引き篭もりの男性は、なんと60代の後半で、それでもなお、引き篭もりを続けていたのである。
そういった引き籠もりをしている大人子供(?)に対して、社会や行政からの救いの手を、ひたすらに拒んでいる父親は、すでに年老いてゆうに80歳を越しているのにも関わらず、まだ「自分の子供が引き篭もりなったのは、自分のせいであり、その責任を自分自身で果たさなければならない。」と主張して、せっせと子供(60歳過ぎの)の面倒を見ている。
その主張は一見正しいように見えるのだ(?)が、どこかが、狂っている、何かがおかしい。
余談はさておいて、指導者にとっては多方面にわたる勉強も、子供の初期指導と同じで、(グレード、ステージ、ステップ)grade、stage、step、の各段階を確実に(急がないで、しかし無駄は無くして!)物にしていけば、決してスランプなどに陥る事はありえない。
自宅や音楽教室等で、生徒を指導するようになったとしても、指導する生徒の70%、80%まではBeyer教則本かBurgmullerの教則本のlevelである。
Beyer教則本を完全に暗譜して、指導manualをクリヤーすれば、80%の指導については自信を持って、指導する事が出来る。
その都度、教材研究が必要なのは、残りの20%に過ぎない。(いやあ、20%もないよ!せいぜい、5%ぐらいの一桁じゃあない??)
全ての勉強は段階である。
スランプは、スランプに陥るその前の段階の内容が正しく理解、マスター出来ていない事によって惹き起こされる。
指導の過程の一つのstageの中で、よく行き詰まったり、引っかかってしまっている原因は、その現れ方は多様であったとしても、その原因は、ほとんどの場合たった一つの問題点によることが多い。(例えば、譜読みなどの原因も、「へ音記号が読めない」とか、どんどん煮詰めて行く事が出来る。)
病気になる以前は、芦塚先生も、子供に直接接して指導する事がよくあったので、算数等、学校の勉強に自信が持てない子供達に、勉強の仕方をアドバイスする事もありました。
その中でも一番簡単で、直ぐに出来て、効果が劇的に上がるアドバイスは、普段子供が家庭学習で、勉強している分厚い問題集を取り敢えず、一時的にやめて、市販されている一番薄いドリルを買って来る事である。
それを一週間でやってしまう方法である。
一日10分程度と時間を決めて、分からない問題は飛ばして、兎に角1日に10分、2,3日から最大4日ぐらいまでで、そのドリルを終わらせるのである。
そして、解答合わせをして、間違えた問題、分からなかった問題だけを、別のノートに写す。勿論コピー機でコピーしても良い。
手書きでなければならない理由は、教育的に何処にもないからである。
次の2,3日でその出来なかった問題だけをやる。
それでも、更に間違えた問題は、つまりその子供の弱い部分、理解できていない、分かっていない場所である。
これは先生やお母さんに聞く。
学校や塾の先生でも良い。勿論、私達の教室では、担当の先生に質問しても構わない。小学校や中学校程度の教材の指導ぐらいは出来るからだ。
それでも、生徒自身が自信を持てなければ、その前のgradeに戻らなければならないが、それは先ほども書いたように、全てを復習する必要は無い。
先程の出来なかった問題だけを復習すれば、良いのだ。それがその生徒の弱点になる分けなのだからである。
それを全部合計して、一週間である。
それで、全ての問題が解けたら、(ここが肝心な所なのだが)その問題集よりほんの少し、問題の多いドリルを買う。
最初のドリルが12題位であったなら、次の課題もせいぜい、20題位までである。
今度は、引っかかる問題は無いか?題数が増えると、別の観点からの問題も入ってくるので、やはり数題は必ず引っかかるであろう。
上記と同様に、コピーして自分の間違えた問題だけの問題集を作る。
それが、無事にこなせたら、次は、また少し増やして、30題位のドリルの問題を買ってくる。
この市販の問題集を使用する勉強方法を聞いたとしても、「それは何処が独自で、画期的で、独創的か?」と言う事が、多分、ほとんどの人が分からないであろう。
しかし、この方法を正しく実践すると分かるのだが、面白いことは、解答していく問題の数は、どんどん増えていっているのにもかかわらず、勉強時間は、増えていかない、つまり勉強時間が変わらない、ということなのだ。
つまり問題を解く速度がどんどん速くなっていると言う事なのだ。
つまり、これが出来るようになると、そのまま芦塚メトードの、「時短のmethode」につながって行くのだよね。
これは芦塚先生が、中学生、高校生の時に編み出した学習法なのだそうな。
これはあくまでも一例であって、算数の勉強法であり、教科によってそれぞれの勉強法があるのだが、いずれにしても、子供にとっても、格別難しい事は無いので、今までも学業の相談を受けた数人の小学4年生の子供達に、たった一回だけ説明したら、それまで学校の成績が平均以下だったほとんどの生徒が、わずか一週間ぐらいで、100点を取れるようになって、それ以降も小学校から高校を卒業するまで、学校で一番を通した。
たった一度のアドバイスで、である。(子供は大人と違って、信じる者に対して従順で、疑いを知らないからね。)
この話を音楽に例えて見ると、先生達が指導上で、一番多く引っかかっている所は、初歩の(BeyerやBurgmullerの段階での)譜読みの指導に尽きるであろう。
以前、芦塚先生が、全音楽譜出版社の、(当時編集長であった)山口さんから、直に伺った話であるが、Beyerを学んでいる子供達のほとんどが90番ぐらいで行き詰まって、ピアノのお稽古をやめてしまうが、そのやめた生徒の理由のほとんどが譜読みが原因なのだそうな。
譜読みが出来ない子供達に「ちゃんと家で譜読みを、して来なさい。」と言う先生の多い事、多い事!!
子供達は、「譜読みが出来ないから、練習が出来ないのに・・・!何と言う事を言うのだろう!」
主客転倒も甚だしい!
これほど無意味な注意(指導)はない。
譜読みが出来ないのに、日本の誇る某有名先生の「100回弾いて弾けるようにならなければ、1万回練習すれば良い。」とか、「楽譜を読ませれば良い。」という、システムを持たない誤った考え方が、子供達を練習嫌いにしたり、音楽を嫌いにするような大きな負担を与えてしまう結果になっている。
(う〜ん??一般的にはむしろ、楽譜を読ませようとしてくれれば、まだましな方だけれど・・・!)[1]
確かに譜読みの速度は慣れである。
しかし、それはある程度譜読みが出来てからの話であり、譜読みの導入の時期は、慣れ以前の問題であることを指導者は知っておかなければならない。
譜読みが出来ると言う事は、どういう能力(技術)の蓄積上に成り立っているのかを、指導者は分析的に把握しておかなければならない。
その技術を列挙すると、
音名、音の高さ
音部記号(ト音記号、ヘ音記号、《教室ではハ音記号、{ビオラ譜、チェロ譜の、}迄》を指導する。)
リズム譜(基本の22種類のリズムとその他のリズム)
パターンによる譜読み法(構造式によるもの、ゼクエンツによるもの等々)
等に分類する事が出来る。
音は分かっていても、リズムが分からないために、譜読みに引っかかっていたり、階名は分かっていても、音の高さが分からない、といった風に、ちゃんとcheckをしてみると、「譜読みが出来ない」というのは決して一様ではない。ただ「譜面を読んでらっしゃい!」では、何も良くなる分けではない。
歯が痛いのに、痛み止めを飲んでも、痛みが止まるだけで、治ったわけではない。(対処療法と治療)ましてや、風邪をひいたのに、腹痛の薬を飲むようなlessonでは、お先真っ暗である。
音符カードは3セット買わせること!
ひとつはシャープ用、ひとつはフラット用、
音符カードを使用して、子供が全音符で完全に読めるようになったからと言って、そのまま楽譜に繋がっていくわけではない。
全音符を黒く塗りつぶしただけでも、子供は譜読みが出来なくなるし、楽譜と音符カードの音符は別物と言う意識がある。だから、全音符で子供が完全に出来るようになったら、2分音符に塗って子供にやらせてみる。しかしまた、それが出来たからといって、安心してはいけない。必ず次には、黒く塗って4分音符、8分音符と書き換えて、確認してみることが大切である。
この譜読みgradeの段階は丁寧でありすぎるということは無い。この段階で失敗すると、将来子供も先生も大変なお荷物を背負う事になる。
音符カードの使用法は、別紙参照
[実例]
H先生の生徒:*ちゃん
*ちゃんの場合は左手の譜読みが全く出来ない。ト音記号はある程度譜読みができるのであるが、左手になると、全くである。
*ちゃんの左手の覚え方は、音でも指使いでもなく、先生や母親の弾くピアノの鍵盤の位置を見て、それで音を覚える。結果として、子供にとっては一番負担の多い、無駄な譜読みの仕方である。(というか、譜面を読まずに覚えている。)
子供に左手で使用されている音符カードをヘ音記号のカードの中から*ちゃん自身に探させる。
子供自身に、音符カードを探させる事自体が、音符を読む練習になっているわけだし、自分で練習をする躾にもなっていく。そういったこと(kleinigkeit)で子供の練習に対しての自主性を育てる。
*ちゃんは教室のM先生と音当てのゲームを、2,3回繰り返すうちにかなり早いペースで、音が言えるようになった。
そこで、もう一発、譜面台にカードを置いて、順番にめくっていき、音を今度はピアノで弾かせる。
譜面を階名で歌わせ、引っかかった音をカードで確認する。それも、わずかな時間で出来るようになった。
以上のような課題がたった1時間のレッスンで出来るようになった。しかし、気をつけなければならない事は、それはこのlessonを通じて譜読みが出来る様になったのであり、決して身に付いたわけではない、と言う事なのである。
同じlessonをH先生が自分のレッスンで何度も、何日も続けて、また*ちゃん自身も自宅で同じ練習をして、そして初めて身に付ける事が出来る。
「出来るようになった」と言う事と、「身に付いた」ということは、全く違う!
その事をくれぐれも指導者は正しく理解しておかなければならない。
と言う事で、*ちゃんは正しい譜読みの方法を指導すれば、簡単にその技術を習得出来るように譜読みの感性は優れている。
一般論
よく親や先生が陥る事ではあるが、子供が両手ともちゃんと弾けていると、子供は譜読みがちゃんと出来ていると思い込んでしまうことが往々にしてある。
不思議な事に両手は弾けていても、片手で弾かせると全く弾けなくなる生徒が多い。
という事で、片手だけ弾かせてみると、左手だけでもちゃんと弾けている。(右手は基本的には弾ける生徒が多いのだが、左手となると全く弾けなくなる生徒が意外と多い)
しかし、左手だけ弾けたとしても、まだ安心してはいけない。
@CDを聞いたり、親がピアノを弾いたりして、「聞いて覚えて、」弾いているのではないのか?
A音を聞かないで、指使いだけを見て、指だけで弾いているのではないのか?
そういった、checkをしたのか?
本当は譜読みは出来ていないのではないのか?
(それをcheckするには・・・・⇒)
曲に出てくる音符を選び出して、瞬間的に言えるかをテストする。高い音や低い音等を集中的にcheckしてみる。
出来るようになったら、ピアノの椅子を退けて、鍵盤上で指摘できるかを見る。(子供の多くは、座っている位置から、音符を判断する。だから、拠所(よりどころ)となる椅子がなくなると音符の位置が判断できない。Octave関係のcheck)
練習している曲に登場する音符を選び出して、音符カードの色を楽譜に合わせて塗り替えてみて、それでも、問題なく音当て、鍵盤当てが出来るか?
以上のことが出来るようになって、初めて音符カードは終了する。
片手練習のStageT:
@先生が弾いて、生徒はそれに併せて、歌えるか?(歌えたとしても、上記の状態が克服したとは言えない。)
A歌いながら弾けるか?(歌えたとしても、上記の状態が克服したとは言えない。)
B先生が逆の手を弾きながら、生徒は反対のpassageを弾けるか?(テンポはinテンポで・・音楽に乗って!)
C反対の手を弾きながら、反対のpassageを歌えるか?(歌えたとしても、上記の状態が克服したとは言えない。)
Dいずれの部分からでも、弾き始める事ができるか?
a先生が「*段目の*小節目から、弾いて・・・・。」と言っても、間髪を入れず弾き始められるか。
b練習番号(練習番号「ニ」から数えて5小節目・・・とか。)
c先生が弾き始めると直ぐに入ってこれるか?(オケ練習では、先生がヴィオラのパートを弾いても、オケ全体が入ってくる。ピアノならば、ヴァイオリンが弾き始めると、直ぐに伴奏が入ってこれるか?
d或いは先生がピアノの左手のパートを弾いただけで、それを聞いて両手で入ってこれるか?)
上記の課題は、直接には読譜には繋がらないように思われるかもしれないが、芦塚メトードでは暗譜と読譜は同じstageで指導する。
これは指導の極意であるが・・・・
仮に、先生が暗譜が苦手であったとしても、「子供は暗譜は出来て当たり前」と言う意識を常に先生側が持っていないと、子供が出来るようになる事はない。(出藍の誉れ)
「生徒が譜面を読めていると思い込んでいる先生の例」
今は体力の関係で全くやらなくなってしまったが、昔は、他の教室の先生に頼み込まれて、その生徒が何故譜読みが出来ないのか、をcheckに行くことがある。
「どうして、譜読みが出来るようにならないのか?」という事を、checkするには、その先生がlessonをしている時をcheckすると、その問題点を見つける事が出来る。
そのlesson風景の中でも、一番によく見受ける事であるが、そこの教室の生徒が演奏している最中に音符が分からなくなった時に・・・とか、先生が生徒に譜読みをさせているときに、生徒が分からなくなると、先生が無意識に、ヒステリーを出して、「この音でしょう!」とピアノを弾いて、それを目ざとく(この場合は耳聡くかな?)生徒が聞き取って、弾いている事をよく目にする。
それで、「その生徒は本当に音が分かっているわけではない。」と指摘すると、「そんな事は無い!この生徒は譜面はちゃんと読めてます。」と反発される事がよくある。
自分が無意識に音や鍵盤の位置をsuggestしている事を、全く気づいていないのだ。
音符カード等を出してみてテストをしたり、譜面上の任意の音を指して、「この音は何?」と聞くと、子供が詰まって答えられなくなってしまって、初めて生徒が譜面を全く読めていない事に気付いてビックリしてしまう先生が多いのには、反対にこちらの方が驚かされてしまう。