そういう場合には、幾ら「あなたは無意識に・・・」と言っても無駄なので、ビデオカメラを持ち込んで、そのlessonを撮影して、lessonの後で、先生とその問題箇所をcheckすると、「えっ?!、あたしこんな事言っていたっけ?」と、驚かれてしまう。自分のlessonしている所を見て初めて自分が無意識に何を指導していたのかを気づくのだ。
Lessonのビデオの撮影は、私達の教室では常識である。
double teachers の先生達だけでなく、40年間以上生徒を指導し続けている芦塚先生自身も、未だに芦塚先生自身の全てのlessonを、ビデオに撮影している。
必ず、lessonの後で、ビデオをcheckして、自分のlessonを第三者的に見る事にしているし、それだけではなく保存もしている。
Lessonが上手く行かない根本原因は何気なく話をしている言葉尻に問題点が見つかることも多い。
だから、ビデオでlesson風景を撮影する事は、暗譜のcheck(lesson内容のhow-toや構成)だけではなく、先生が無意識に生徒に話している、心無い言葉等にも、気づかされてしまう事がよくある。
先生自身が、自分で「生徒にそんな事を言っていたのか?!」と驚いてしまうことがよくあるのだよ。私達指導講師は、先生が生徒に対して話た無意識の言葉をよく問題にする。
しかし、その時に殆どの先生達は「私はそんな事は言った覚えはない!」という。
生徒を傷つける心無い言葉も、その大半は先生の無意識に口に登ってしまった言葉なのだ。
無意識に口に上がってきた言葉は、その本人の先生には、そういった事を話した意識がないのは当然である。
ビデオで撮るという事は、「言った!」「言わない!」の水掛け論に、なってしまいガチの、そういった不毛の会話も防ぐ事が出来るしね。
ビデオ撮りは、担当の先生のlessonを批判する事が目的ではない。
先生が無意識に口にする言葉や無意識の指導を、一度でも自覚出来たら、次に同じ言葉や指導法をする事はなくなるからだ。
以前、近所のピアノの先生が、自分の子供を私に師事させたいと言う事で、子供を連れて教室に見えられた。小学校5年生の女の子で、Czerny40番ぐらいの技術で、ソナタやchopinなどの大曲ですら、なかなかしっかりと演奏できる。
しかし、何かおかしい・・・。
よく観察してみると、全く譜読みが出来ていないのだ。
「お子さんはとても技術的にはしっかりしていますが、譜読みがまったくできていないのですね?」と聞くと、「そんな事はありません。しっかり譜読みで来ています。」とかなり気分を害されたようです。
「お母様がピアノを弾いたのを聞いて覚えているのですよ。」というと、「私は一度も子供の曲を弾いた事はありませんよ。」といわれた。
「じゃぁ、・・・!」と言って、Beyerと同程度の簡単なバルトークやハンガリーの近現代の曲を譜面台の上に置いて、「弾いてごらん?」というと、全く弾けない。
片手ですら弾けないのである。
母親はそれを見て、当然ながら烈火のごとくに怒って、教室を出て行った。
勿論、二度と教室に戻って来る事はなかったのだが・・・。
たぶん、いまだに子供が譜読みが出来ないという事は認めていないのであろう。
ピアノの先生であるから、認められないのである。
子供に譜読みを指導するのは、そんな難しいことではないのだが、そのlessonをやらせてくれないのでは、いたし方は無い。
芦塚先生が指導した事のある生徒の場合には、譜読みに苦労する生徒は一人もいない。
しかし、芦塚先生は、生徒に対して、譜読みのためのlessonをした事は一度も無い。
なぜなら、それは通常の(普段の)生徒へのlessonが、譜読みのメトードになっているからである。
それを見ている人達は、それがメトードであるという事すら、分からない。
生徒がつっかえたり、checkしなければならないpointになると、芦塚先生は、生徒の弾く手をやめさせて、説明をする。理論的に分かり易く、ある時には、分解練習を一緒に弾く事もある。
よく観察していると、芦塚先生は生徒に「じゃあ、左のPageの3弾目から弾いてみよう。」とか言って、生徒と一緒に、弾き始める。その次は、芦塚先生が左手だけを弾いて、「はい!乗っかって!!」と言うと生徒がそれに合わせて、弾き始める。次には・・・・、生徒が弾き始めるそのタイミングが実に多様なのだよ。
でも、生徒のPianoの上には、楽譜は載っていないのだよね。
それを、小学2,3年生の生徒にも、全く同じようにlessonをするから、恐れ入る。でも、生徒はそれで普通なのだよ。あまりにも普通にlessonをしているので、誰もそれが凄い事だとは分からない。
完璧な暗譜のメトードなのだよね。
子供達を飽きさせないで引っ張っていくための、多種多様なPianoのlessonの方法論が、そのまま譜読みの多様性を突いているから、何時の間にか完全な記憶になっているのだ。
でも、芦塚先生にとっては、そういった音楽上のいろいろなアプローチは、子供の技術の習得のためではなく、単に飽きないように面白おかしくさせて、練習に興味を持たせるための手段にしか過ぎないのだそうな。
だから驚きなのだよ。
で、それを見ているはずの、聴講に来た若い先生方が、「子供に音楽への興味を持たせるための方法は、どのような方法があるのですか?」と必ず聞いてくる。
芦塚先生は答えて曰く、「しかし、そりゃ、ただ単なるその場の思い付きだから、いちいち覚えてはいないよ!」「子供の顔を見て、その場で考えて言っているだけだからね。」
「子供のlessonをしていて、何が楽しいのか?と言えば、その子供とのキャッチボールが楽しいンでしょうが・・・!」
「それを、あなた達は、私の言った通りに指導して、何が楽しいンだろうね。」[2]
次に、「lessonで私と一緒にした練習が楽しければ、子供は必ず家でも練習をする。だから私は、自分の生徒に「練習をしなさい。」と言った事は、今だにないのだよ。」
「芦塚メト−ドのコツは、子供を叱咤激励するのではなく、子供が自分自身でやるようにするという事なのだよ!」というお話でした。
芦塚先生は、続けて、「そういったlessonのコツは、生きた教育をする事、つまり、子供の目を見て、子供の心の中の表情を読み取り、掴み取りながら、指導する事なのだよ。」
「子供の目を見てコミニュケーションを図る事で、子供がlessonを楽しんで、ちゃんとlessonの内容について来ているのか?・・・を判断するのだよ。」
「そうすれば、子供の心がおざなりのままに、先生の自己満足的な子供の心を無視したlessonをする事からは逃れられるのだな。」
60歳を過ぎた今現在というか、心臓の手術の後というか、私はよく欝になる。
確かに私の若い頃もよく欝になったものであるが、若い頃は一晩寝ると、次の日にはすっきりとして、仕事に戻れたものである。それが、やはり、60を過ぎたあたりからは、どうにも、上手くコントロールが出来ない。
欝には、自分自身で自分の心がcontrol出来なくなる爆発性の欝と、自虐的で落ち込んでいく、そのまま自殺でもしたくなるような欝の両方がある。
バイオリズムとでも言うのか、その両方の欝が繰り返されてしまう。
欝のときには、自分の精神状態を上手くコントロールする事が出来ないので、ついつい、人に対して芳しく無い当たりをして、自己嫌悪に陥る事がよくある。
そう言う理由で欝の時には、自宅に閉じこもって、食事にも出ないようにして、極力対人関係を避けるようにしている。
私の都合だけではなく、相手方、双方にとって良ろしくないからである。
今は、私の仕事は、殆んど、自宅で出来るような仕事が多い。
原稿書きや、楽譜の作成、lessonの指導などもメールで済ましている。
父兄に対しての相談などもあるがそれも電話ではなく、メールである。
団塊の世代というのか、貧乏性とでもいうのか、欝だからといって、何もしないでテレビを見て、飲んだくれて居たいのだが、ぼんやりしようとしていると、体が何時の間にか、無意識に仕事をしている。
何もしないでいるとイライラしてしまって、どうしてもぼんやりする事が出来ないのだ。
何かをしていないと、安心出来ない。
損な性格である。
ただ、人と話をして、相手の気を使わないで済むと言う事が、唯一、精神の安定に繋がっているのかもしれない。
しかし、それでも仕事がある日は、引きこもっているわけには行かない。
本当に仕事を休みたい日もあるのだが、後で代講の日にちがなかなか取れないのだから、致し方ない。
いくら、欝になってしまっても、仕事は仕事なので、休むわけにもいかず、人の中で極力、自分を自制するために、しゃべらないで黙りこんで、ぼんやりしていると、「今日は元気そうですね。」とか「とても楽しそうですね。」とか言われる事がある。
欝で、やる事成す事、何にでも腹が立っているわけだから、可能な限り体の緊張を解いて、顔なども皮膚の緊張を解いているのが、どういうわけか、他の人達には笑い顔に見えるらしい。
いやぁ、先生がそれでは、子供の表情は読み取れないだろうが・・・・!
顔の作りの表情ではなく、「目力」を見て欲しいのだが・・・!