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楽典について      
  
聴音について      
 
音楽形式学      


和声学  
           




楽典について    

巷の音楽教室でも、楽典をlessonに取り入れている教室は多い。
しかし、殆どの楽典は単に市販の問題集を解くだけで、まるで学校の勉強のようで、結局、身につかないままに、終わってしまう。子供のための楽典として出版されている楽典は、一様に音大の受験生を対照にして書かれた楽典の本を、言葉を子供向けの易しい言葉にしたり、イラストをふんだんに取り入れたりしただけで、基本的には内容は全く、受験生の楽典と同じ内容である。また、音楽大学の先生達が子供を指導した経験や子供の学力の知識が全くないままに、楽典等の問題を作るので、実際に子供達に試してみても、小学生の学力や理解力の範囲を遥かに逸脱した教材も多く見受けられる。
教室では、そういった市販の教材の問題点を改善すべく、小学3年生から、年齢順にその年齢の理解力に合わせた楽典教本を20年、30年掛りで作成、推敲して来た。
子供為の楽典は、非常に良い成果を上げていて、中学生になった時にも、受験を対象とした教材に対しても充分に対応出来るだけの水準をキープ出来ていると思われる。

ここで取り上げている「楽典教室」は、そういった、vorschuleとAusbildungsschuleのlevelの話ではなく、中学生の上級生や専科生を対象にした上級の楽典教室の話である。

そのlevelは受験生のそれと同じlevelか、それ以上のlevelのものであり、この楽典クラスの生徒はそのまま、音楽大学の楽典の受験が出来る水準であり、プロとしての音楽的な知識の基本を身に付ける為のコースである。

楽典の基本を一通り勉強するには、市販の受験生を対象にした楽典の教本を使用して、基本を作る事が早道である。
と言う事で、教室では、教室推薦の市販の楽典の教本を4冊、5冊と、選び出して、難易度順にその教本の問題を片っ端から解かせていた。

しかし、市販の教本は、単なる知識のための楽典である。
それを、実際の音楽の演奏に如何に活用するのか、というヒントは実際の教本には書かれていない。

それを自分の音楽の勉強の重要なアイテムとして、使いこなすには、・・・・楽典の知識を活きた物にするためには、・・・それが日常的に如何に使いこなすか否かに掛かっているのだ。

或るピアニストがchopinの曲を演奏会で演奏するのは良いのだが、そのピアニストがchopinのpianissimoのpassageをfortissimoで弾きまくっているのには辟易した。
そのピアニストは楽譜の強弱すら、守ろうとしないで、情緒的感情的に練習して演奏している。
楽典以前の問題だろうね。
そういう人達に限って、「chopinの楽譜は何版以外はダメだ!」とか言うのだから、困ったものである。
その版を校訂した校訂者の意図を読みっ取った上での、ダメ出しでは、ないのだから、本当に困ってしまう。

教室では、Beyer教則本の段階から、強弱記号やテンポの記号、等々を、子供達に説明するのだが、通り一遍に説明するのではなく、その出て来た単語は常に反復して、使用しなければ、子供の身には着かない。
Beyer教則本では、そう言った単語も、簡単で日常的な単語から順次、難しい単語になって行くだけでなく、ちゃんと一度出て来た楽語も必ず反復して使われている。そこで、何処の曲の何処の部分に使用されていたのか?を生徒に、確認出来るか否か・・が指導者の資質となって表れる。

        
聴音について    
私は自分自身が未だ音楽大学の学生の時代から、留学後も、色々な先生達に頼まれて、音楽大学を受験するために聴音やPianoの学習を高校生になって始めたという生徒を何人も教えました。
子供の内、就学年次以前から始めていないと、体得する事は、一見不可能と言われている聴音や、Pianoを一度もやった経験がない、弾いた事が全くない・・という高校生の生徒達を音楽大学に合格させる為に、それこそ2年間や、1年そこそこでHaydnやMozartのsonateやClmentiのsonatineを入学試験に間に合うように指導しなければなりませんでした。
世間では、年齢の高い生徒に、しかも、短期間で習得させる事は、それこそ至難の業で、一般的な教育法では、不可能であるという事は、当たり前の話でした。
だから、私の音楽大学在学中から、その生徒に応じた不可能を可能にする、方法論を駆使して教育して、私の指導したさん達全員を目的の音楽大学に入学させる事が出来ました。
これが、後年、音楽教室を開設した時に、教室で指導する先生達の為に、芦塚メトードによる聴音のsystemとして、programmingされてきました。
教室を開設した当初は、このsystemは生徒達に目覚しい進歩を与えたのですが、基本的には、教室の教育systemにのめり込んでいる家庭の場合には、著しい進歩がみられるのですが、近年、学校の生徒達への締め付けが厳しくなって、教室が子供達の為の自由な教育をする事が困難になって来て、芦塚メトードを子供達が習得する事が困難になって来ました。
学校教育の欠陥は、楽典のレッスンにも、如実に現れて、生徒達が楽典の説明、「何故?どうして?どういう風に?それが定義化されたのか??」という、説明を嫌がって、問題の解き方、回答が合っているのか否か、だけを要求して、「何故??」という疑問を持たなくなってしまいました。
同時に、私がオケ練習で子供達にしていた、雑談を、雑談として全く聴けなくなってしまっていて、練習中に何故、雑談をするの??・・・と白い目で見ると言うか、・・・又は、生徒達がその話に釣られてしまって、言葉尻りに囚われてしまって、子供達自身が雑談を始めて、雑談が本当の雑談になってしまったりして、炎上して・・・困っていました。
アハッ、ハッ、ハッ!

しかし、教室で「これは大変だ!」と思っていたら、別の場所で、教室以外の同じ年齢の子供達に雑談をする機会があったのですが、驚いた事に、子供達が全く大人の雑談の話を聞けないのですよ。
これは驚いた!!
つまり、大人のお話を全く聞いた経験がないから、私の話を、何を・・・、どう聞いて良いのか分からなくなって、途方に暮れているのですよ。
つまり、話の内容どころではない、話を聞くということ自体がpanicなのですよ。


つまり、学校でも、授業のcurriculumを進める事に追われてしまって、先生が雑談をする時間はないし、又、先生が雑談をする事自体許されてはいない。
それは文科省や教育委員会が授業以外のお話をする事を厳しく戒めているからです。

今の先生達は、雑談をさせると、何を話だすか分からないと言う事らしいですよ。
道徳の授業のように、精神論を話す場合には、学校全体としての指針を厳しく管理する。
学校の先生達と直接接する保護者の方達は兎も角として、文科省や教育委員会に取っては、そこまで先生達は信用されていなかった、という事なのですよね。

と言う事で、私が「近頃の生徒達は・・」と、嘆いていた教室の生徒達は、それでも一般の生徒達に比べて、ちゃんと雑談が聴けていたのですよ。
いやあ、参った、参った!!    

音楽の勉強は、実は学校の勉強とは、相容れないものなのです。
つまり、音楽の勉強は、人間性の勉強であり、音楽で語られている魂を表現するという事なのです。
技術はその魂を表現するための、方法論であるので、あたかも公文式のような技術の為の音楽を指導する音楽大学のcurriculumとは、基本的には相容れないものなのです。

昔の生徒達は、音楽教育を職業の技術の習得と捉えて、勉強をしてきました。
だから、音楽に対する姿勢というのは、非常に重要な位置付けであったのです。
だから、私の雑談を非常に熱心に聞いて、その次の週には、見違えるように上達してレッスンに来ていたものです。

しかし、学校教育では、そういった精神的な教育をしません。
と言うか、してはいけないのです。
そういう決まりなのですよ。
と言う事で、問題を解くと言う事だけが教育の骨子にされているのです。
先生の雑談は、意味のないタダの雑談に過ぎず、無視をして、自分の問題を解く法が美徳とされます。
特に、塾型の教育をメインに受けて来た生徒の場合には、雑談を聞くという姿勢が出来ていないのです。
1分、1秒でも、時間があったら、一題でも多く問題を解く事が、良しという姿勢が身に付いているからです。

一般の音楽教室では、楽典のレッスンというのは、市販の楽典の問題集を解かせる事に始終します。
市販の楽典の問題集は、くもん式と全く同じで、その課題の類題を数多く解かせる事で、その楽典を勉強した事にするのです。
勿論、教室でも、市販の問題集をさせる事がよくあります。しかし、conceptは全く違います。その問題がどういう理由で、実際の曲の勉強の時には、どういう風に役に立つのか?という事を指導しながら、楽典を指導するのです。


実際に聴音の課題を解く時にも、和声的な知識や構造分析の技術が役に立つのだ、と言ったら、聴音を指導している先生達は、少なからず驚かれるかも知れない。

4声体の和音(和声)聴音でも、ミュンヘン型の聴音がある。
ミュンヘンの国立音楽大学の和声聴音の課題なのだが、書き取りの解答は外声と和音記号を書くだけで、満点と見なす、という事だ。
しかし、我々作曲家にとっては、それは当たり前の事なのだ。

日本の聴音の先生が和声を知らない事の方がおかしいのだよ。間違えているのだよ。

和声は、密集体(Enge Lage)か,開離体(Weite Lage)かで、開始音が決まる。
(それは、内声の音も含めての話なのだ。)そうすると、最後迄、音の動きは1っの動きしか、なくなってしまうからなのだ。

と言う事で、4声体の聴音なのだが、教室の生徒(勿論、中学生の上級の生徒達だが)は、2回から、3回で、4声体を全部書き取る事が出来る。
それが、ミュンヘン型の和声聴音の書き取りだ。
ヨーロッパの学校は現実的なのだよ。
日本の常識、世界の非常識と言ってね・・!!






         
音楽形式学        
楽曲の形式については、小、中学校で習う歌謡形式や複合三部形式、それから発展して、音楽大学等で学ぶ、sonate、sonatine形式、rondo形式や等がある。
形式学からは少々逸脱するが、MazurkaやPolonaise等、Valse等の舞曲もある。
音楽の形式学の本を買うと、実に、教科書的なお勉強型の教材が書かれている。
舞曲には、舞曲特有の形式があるのだが、不思議な事に、舞曲の形式について書かれている本はない。
そこいらも、教科書的な勉強の限界なのだろう。

日本のviolinの学習教材には、入っていないようだが、ザイツやホーマンの作品には、結構、上級のversionの曲もある。ホーマンのV楽章には、landlerの形式で書かれている曲がある。実に見事なlandlerの見本となる曲で、WienerWaltzの形式よりも遥かに完璧で勝れている。
landlerが発展して、ViennaValseになった、という諸説が楽典の本にも書かれていて一般論として流布しているのだが、現実は、少し違う。
landlerにも、小さな形から、大landlerと呼ぶに相応しい、landlerまである。
violinの曲では、landlerで作曲された曲は結構見受けるのであるが、Pianoの曲としてlandlerの曲が書かれているのは、見かけた事がない。
時代の変遷の理由からであろうか??
勿論、楽典の本にも、より専門書である、音楽形式学の本にもlandlerの形式については触れられていない。
同様に、ジプシーのハンガリア・ラプソディに関しても、形式がある。モンティのチャルダッシュにしても、Lisztのハンガリア狂詩曲にしても、ラベルのチガーヌにしても、その形式の原則に従って作曲されているのだ。
Mazurkaにしても、Polonaiseにしても、確固とした形式があるのだが、それについて触れている形式学の本は皆無である。残念な事だ。

何れにしても、形式学の勉強は、受動的な勉強であり、それを演奏に生かすという事は、なされていない。
・・・というか、どう、活かせば良いのか、という事が分かる人はいない。

音楽の形式学とは、直接は関係がない(無関係)のだが、室内楽やオーケストラには、練習番号というのが、楽譜に書かれている場合が多い。
練習番号は、校訂者が(part譜を校訂する校訂者は、演奏家がする場合が多いのだが・・・)、自分の主観で練習番号を付けるので、実際の練習には役に立たない事の方が多い。
練習番号は、演奏や合わせの難しい所に付ける分けなので、partによっては、無理難題な所についている場合もよくある。・・・と言う事で、人が違えば、練習番号を付ける場所も違うので、生徒達に宿題には出来ない。(法則性がないからである。)

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