ブラインドタッチについて⇒私がブラインド・タッチの練習法を編み出すまで⇒芦塚先生のブラインド・タッチ(ホームポジション)⇒
単語登録について⇒誰にでも直ぐに出来るメモの取り方のルールと考え方⇒メモ書きからパソコンの単語登録へ⇒名前の変換⇒単語登録の削除⇒文章変換のコツ⇒音声入力ソフト
文章の変換に関する方法⇒パソコンの便利な操作性を覚える⇒文章の選択
絶対に覚えていた方がお得なショート・カットの例
文章の変換のコツ⇒「n」の打ち方⇒誤変換⇒誤入力⇒文字の選択⇒確定のさせ方⇒入力ミスの誤変換⇒文節変換⇒カーソルの選択範囲の設定⇒確定後の文字の変換
⇒メモ帳
ルーターのお話
前書き
今では、パソコンは学校でも勉強するし、今の若い世代にでは、家庭には生まれた時からパソコンがある、普通の日常の当たり前の使い慣れた道具のはずです。
だから、今日日、「芦塚先生のパソコン教室」なんというサイトを立ち上げるのは、無意味で無駄な事のように見えるかもしれませんね。
しかし、実際には、オケ練習の合間や発表会の反省会等のまとめをさせたりする時に、子供達がパソコンを使っているのを見ていると、パソコンの本当の基本の操作が分かっていないために、非常に無駄な動きをしているように、見えてしまいまって、ついつい気になってしまいます。
日常的に無意識にやっている無意味で無駄な動き、パソコンの場合には操作になるのでしょうが、そういった無意識にやってしまっている動きが、子供達の進歩や成長を阻む原因になると言ったら、「それはオーバーな!!」と思われるでしょうかね。
例えば、企業の場合にとっても、仕事をする上で資料を探す手間が3分間かかったとすると、その会社全体としては年間、何億もの損失になってしまうのです。
教室の場合にも、例えば、オケ練習は日曜日の朝早くから、夜8時、9時までやっていますが、一つの曲の練習時間は30分ぐらいしかありません。
生徒達がいつも先生に叱られるのは、準備の悪さです。
楽譜は?楽器の持ち替えは?自分の立ち位置は?或いは、楽器のpitchが狂っていてチューニングに5分、10分も掛かってしまう事もあります。
しかし、それでも、1曲の練習時間は30分ぐらいしか取れないのです。
教室の練習時間は「9時から・・・」という事は、「9時に教室に来れば良い。」という意味ではありません。
教室に入って、楽器や譜面を出して、チューニングを済ませて準備が終わって音出しする時間が9時です。
「じゃあ、最初からその時間を計算して、8時半集合、とかにすれば良いのじゃあないですか?」と質問してきた人がいました。
しかし、それは根本的に、考え方が違うのよね。
勿論、生徒が準備をしなければならない楽器の種類で、練習の準備に掛かる時間も違うし、それにベテランと初心者では準備に掛かる時間は全く違うのよね。
それよりも何よりも、一番大切な事は、各自が自分自身で「準備をするのにどれくらいの時間がかかるのか?」という事を自覚する事が大切なのですよ。
つまり、Aさんは準備に2,3分しか掛からないのだけど、Bさんは20分経っても未だ準備が出来ていない・・ということなのですよ。
つまり、一律に「violinだから*分前に集合しないさい。」とは、学校の遠足ではないのだから、言えないのですよ。
それで、各自が自分の準備に掛かる時間をちゃんと把握して、その時間に合わせて、それぞれの人達が教室にinしなければならないのです。
何で、そんな当たり前の事を今更・・・と、思われるかもしれませんが、現実はチョッと違います。
準備が一番遅い人(準備に一番手間取る人)に限って、時間にギリギリ・・・、否、時間に遅れてくるのですよ。
何故??って???
それは遅れて来る人は、「時間に対する自覚(価値観)」が無いから遅れて来るのですよ。
社会的なルールであるべき筈の、「人を待たせる」という事に対しても、それが「悪い事だ。」という意識はない。
「私は決められた時間に対して、ホンの30分しか遅れていないよ!」
でも、その30分間というのは、もう既に、その生徒の曲が、終わった・・・という事を意味しているのですよ。
挙句の果てに、「ちゃんと練習に来たのだから、自分の曲も練習してよ!それが、弱者を救済する芦塚メトードでしょう??」だって!!
でも、その生徒のわがままを聞いてしまうと、ちゃんと時間通りに来た生徒の曲が練習出来なくなってしまうのですよ。遅れてきた生徒のために、他の生徒に迷惑が掛かるのは、本当の思いやりですか?
冬山で、「遭難の危険があるから、登山してはいけない。」というポスターが貼ってありました。
でも、本人達は、「私達はベテランだから大丈夫だ。」と張り紙の警告を無視して登山して、結果、遭難してしまいました。
その結果、遭難してしまって、多くの人達の迷惑になるだけではなく、二重遭難の危険さえある状況を作り出してしまいました。
私なら、自己判断で、警告を無視して遭難したのだから、救助に行かなくても良い・・と思うのですがね。
遭難した本人達は、「遭難したのだから、救助に来るのは当たり前だ!」としか、思っていないようですよ。
助けに行く人達がどれだけ危険を犯して、助けに行くのか、しかも、ルールを守らないから犯したミスなのに、それでも助けに行かなければならないのかは、寧ろ理不尽な事ではないのかな?と思うのですがね。
「ちゃんと練習に来たのだから、自分の曲も練習してよ!それが、弱者を救済する芦塚メトードでしょう??」だって!!
・・・・違いますよ!!
指導者としては、社会人としてのルールをキチンと守るように指導する事が、本当の思いやりなのです。
芦塚メトードとは、「人の夢を何でも聴いてあげる。」「先生の言う事を全く聞こうとしない人達のワガママを聞いてあげる」、という事が芦塚メトードではないのですよ。
時間を守れるようにする事が、大人になる勉強の第一歩です。
時間を大切にするから、(自分の人生を大切に思うから)一分、一秒の無駄な時間すら惜しむのです。
勘違いのないように確認しておきますが、「無駄な時間」・・・という意味は、勉強する時間、仕事をする時間だけを意味するわけではありません。
それこそ、趣味の時間や遊びの時間も、否、食事の時間や、お風呂の時間さえも、無駄のないように、しっかりと遊ばなければならないのです。
勉強する時間だけど、中々集中できないでダラダラする、とか、、遊ぶのにも、「勉強しなくっちゃ!」とブツブツ言いながら遊ぶのなら、それは無意味な時間になってしまうのですよ。
遊ぶときには一生懸命に遊ぶとか、勉強をする時には一生懸命に勉強するとか、そのケジメが大切なのです。
芦塚メトードでは、「子供が練習をする気がないのなら、練習させるべきではない。」と指導します。
子供が一生懸命練習していたとしても、疲れて集中が切れて来たら、ちゃんと休憩をとって、集中を回復させなければなりません。
この事は、子供達だけでなく、仕事が忙しくて疲れてしまい、ついつい集中を切らしてしまう先生達にも、よく芦塚先生が注意している所なのです。
勉強や仕事の能率を上げることは、集中する事に尽きるのです。
そして、極力ムダを省くことが、集中力を持続出来る重要な要素になります。時短こそが集中力と能率化を図る元になるのです。
ダラダラと練習をしたり、無駄な練習をする事が、音楽上の進歩は勿論も事、学校の勉強や全てに渡って、生徒が成長するのを妨げている原因でもあるのです。
芦塚音楽教室の基本理念である「芦塚メトード」というメトードは、まるで勉強しなくても、いつの間にか上達する魔法のメトードのように勘違いされる事もよくありますが、芦塚メトードの本来の基本的な姿勢は、上達のコツは、練習の時の無意味な努力や無駄な努力を徹底的に省くという事なのです。
勿論、成長途上の子供達には無意味な練習とか無駄な努力というのは、分かりません。
勉強途上の子供達には、判断する力がないのです。
そこは先生の指導力になります。
徹底的にムダを省いた勉強を積み重ねていくと、その生徒にとっては、そういった勉強の方法(スタイル)が普通になってしまいます。
いつの間にか傍目には、努力をしなくてもどんどん伸びる羨ましい生徒になっているのです。
学校や塾は、私達の教室とは真逆の教育方を取ります。
無駄な努力を無限に積み上げることで、(或いはその苦痛に耐えた報酬として成功がある・・と考えます。)
鈴木先生の口癖は「100回練習して、出来なければ、1000回練習しなさい。」「1000回練習しても出来なければ、1万回練習すればよいのだよ。」です。
でも、私は真逆の考え方をします。
間違えた練習を100回したら、100回分下手になるのですよ。1万回も無意味な練習をしたら、それこそ音楽が嫌いになってしまうでしょうね。
私達は「間違えた練習を10回して正しい練習を10回したとしたら、(±)何回練習した事になりますか?」という話を子供達によくします。
無駄なダラダラした練習は下手になる練習だということです。
集中して正しい練習をすれば、100回の練習よりも、1000回の練習よりも、たった10回の練習の方が、無駄な練習を積み重ねるのよりも、多大の成果を上げる事が出来るということなのですよ。
これをゲーム化したのが、芦塚先生の「オセロ練習法」です。
音楽教室を作る以前にも、小学校の教育指導に使用して、絶大な効果を出して、そのメトードの確かさを証明しました。
コンピューターと同じで、間違えた練習を10回して、正しい練習を10回したら、(±)0になってしまうのですよ。
しかし、学校や塾等、世間一般の教育では、生徒の成績の能率を上げるために、問題の解き方だけを教えます。
一つ一つの課題に対して、先生や生徒がその根源まで遡って、理解をするという事は、とても面倒くさいばかりでなく、膨大な時間の浪費と感じられてしまうからです。
教室の楽典講座でも、生徒が芦塚先生に質問をすると、芦塚先生がその質問と全く関係のないお話から解説を始めます。
質問した生徒は、「問題の回答を尋ねているのに??」と、混乱してしまいます。
芦塚先生は、生徒の質問に答えるには、生徒が何処から分かっていないと、その質問に対して理解することが出来ないという事で、生徒がその質問を理解する為に必要な知識の説明を始めるのです。
芦塚先生のlessonを普通に受けている生徒にとっては、当たり前の芦塚先生の説明なのですが、学校型や塾型に慣れてしまっている生徒にとっては、その手順が理解不能な事なのです。
一般的な教育では、まづ当面成績を上げることが、当然の最優先の課題とされます。だから、そんな回りくどい指導方法は認められていないのです。
音楽の指導に戻って説明すると、殆どの先生は子供達への初歩の指導で、「ここ間違えたわね!ちゃんと練習しておいて!」で終わりです。
「ここはこの音でしょう?」と、一つ一つ丁寧に教えてくれる先生はとても良い先生ですよね。
しかし、芦塚メトードでは、そのようなlessonは許されません。
Beyer教則本ぐらいの曲なら、一つ一つ丁寧に音を教えて、覚えさせていっても、発表会までの長いspanがあればなんとかなります。
しかし、chopinやBrahmsのような長い曲を弾くようになったら、いくら半年、一年のspanがあったとしても、1時間程度のlesson時間の中では譜読みのお手伝いをする事さえ、時間内には無理になってしまいます。
それでも、そういった口移し教育がまかり通るのは、先生の意識の中には、「子供が上手くなったとしても、そこまで上達することはない。」という無意識があるからで、それは習わせている親も、習っている子供自身もそういった、「なあなあ、やあやあ」の常識という括弧くくりの中でお稽古事をやっているからに過ぎません。
膨大な教育費を払っている塾にしても、「周りの子供達が習っているから・・・」、という「人がやっているから安心だ!」安直、安穏な考えに戻づいているからに過ぎません。
人と同じ事をやっていては、人と同じにしかならない。
それは分かっています。
ノーベル賞を取るような人達が、皆同じ話をしているのも、分かっています。
でも、人と同じ事をしないと、不安なのです。だから、教える方も、教わる方も、疑問を持つことは許されません。
だから、最初から、人に出来ない事、人がやらない事は、困難な茨の道である、と解釈します。
ノーベル賞の人達が「勉強は楽しい!」と言っているのに、「それはあの難しい、つまらない勉強を楽しく感じられる特別の才能を持った人だから・・!」と解釈してしまうのです。
私達の教室は、クラシックの専門の教室です。
だから、私達の教室の子供達は、BachやBeethoven、Brahms等やbaroqueや近現代の曲まで勉強しています。
でも、「音楽がつまらない!」とか「嫌いだ!」という生徒は一人もいません。
それはどうしてでしょうか?
簡単な事ですよ。
音楽を楽しいものだ!素敵なものだ!音楽は分かりやすく、表現しやすいものだ!と指導するからです。
しかし、それには、まづ、先生がそう思わないとね!??
芦塚先生が講師募集で面接に来た音楽大学の卒業予定の生徒に「私達の教室では音楽の楽しさを指導して欲しいのですが。」と言ったら、相手の女の子が怒って「音楽は楽しいものではありません。音楽は厳しいものです。」と反論してきました。
でも、「それを口に出すか、否か」は兎も角としても、多くの音大生が同じように考えているのは、至極当然で、寧ろ当たり前とさえいえるのではないでしょうかね。
という事で、芦塚先生が、音楽大学生によく質問をする事があります。
それは「あなたは音楽が好きですか?」という質問です。
でも音楽を子供の頃から一途に必死に勉強して来たはずの音楽大学の学生でも、「勿論、私は音楽が大好きです!」と答えた生徒は一人もいないのですよ。
それなのに音楽が嫌いな、音楽の事を勉強としか捉えていない、そういった人達が音楽の先生になって、ピアノを教えたり、ヴァイオリンを教えたりしている。それでは子供達が音楽大好きになる分けはないですよね。
一般のお勉強型のお父様に、「困難を努力する事で克服して、そうして得られる達成感を指導して欲しい。」と言われた事があります。この話は、ホームページの他の論文に詳しく書かれているので、ここでは追求しません。
そういった事は、子供自身がそれに対しての価値観を持っていて、しかも、高校球児のように、短期決戦だから成り立つのですよ。そういった性格が運良く身に付いたとしても、場当たり的で刹那的な性格しか身に付く事はありません。
私達が考えているのは、それで一生を生きて行けるかどうかというお話なのです。
好きでない音楽を目的として音楽大学に入学しても、それでproになったとしても、それでは幸せとは呼べるのでしょうかね?
だから、有名な大学を卒業して、有名な会社に入社出来たとしても、その重圧に耐えられなくなって、自殺してしまうのですよ。
本当に好きな事をやっているのなら、どんな無理難題であっても、辛くは無いはずなのですよ。
そこの所が芦塚先生との考え方の違いなのですよ。
先程の女の子にも、芦塚先生は「ああ、そうですか?でも、うちはたんなる音楽教室ですから!」とかわしていました。
それで、「どうしてもっと私達の教室のconceptを説明しなかったのですか?」と芦塚先生に質問したら、「子供の頃から、そう習ってきたわけだから、『音楽が楽しい。音楽が好きだ!』という発想を持つ(世界がある)事は、自分が学んで来たこれまでの人生を全て否定される事になるのだよ。」、逆に「『音楽を楽しく指導しなさい。』と言われたのは、「子供に迎合して、安直な安っぽい音楽を教えろ!」と言われた・・・・と思ってしまって、深くプライドが傷ついたのだよ!」という話でした。
日本では「価値のあるものは、無味乾燥でつまらない!」と、思われている風潮があるからね。
子供達が楽しく愉快に出来るものは、遊びであり享楽であると思われていて、先ほどのノーベル賞の先生達のように「価値のあるものは豊かで楽しく、自分達を虜にして放さない」とは絶対に思わないからね。
本当の本物を本当に真摯に取り組む事程楽しい事はないのだけど、それは有り得ないとされる。
口移しで勉強しても、それは忍耐力を要求されるだけで、辛いのですよ。
だから勉強は辛いものだ。その辛さに耐えれた人だけが真の栄冠を得ることが出来る。
指導する先生自身が、「何故そうなるの?」という事を知らないのだから、当然、質問をされると、授業がそこでstopしてしまう。
これは日本型の家元制に基づいた音楽の勉強も同じです。
先生に「何故?」と質問することは許されません。
兎に角、タダひたすらに真似る事が、成績を上げる早道という考え方です。
それは、子供達だけでなく、仕事社会でも同じです。
後輩を指導しようとすると、徒らに時間ばかりかかってしまいます。
だから、「質問をしないで、兎に角言われた通りにやれ!」となってしまいます。
仕事が出来る人になればなるほど、自分と比較してしまうのでしょうか、そういった一人でこなしてしまう傾向が強いようです。
でも、本当の事を言うと、それでは本当に大きな仕事は出来ません。
大きな仕事をこなすにはprojectleaderに、ならなければならないからですよ。
問題の本質を見極め、徹底的にムダを省き、必要最低限の努力で最大の効率を上げるようにしないと大きな仕事は出来ないのです。
全く練習しないのに、lessonに通ってくるだけで上手くなる・・・・そんな夢のような話・・・・が、あるんですかね?
あるんですよね!
それは、つまり、子供が嫌々ながら無理をして、毎日練習するよりも、先生と一緒に楽しく練習する方がもっと能率が上がるのは当たり前の話なのですよ。
しかも、先生は芦塚メトードで無駄のない最低必要な練習だけを一緒に楽しくしているので、練習した覚えがなくとも、充分な成果を上げることが出来るのです。
でも、これは弾いて教える一般のダメダメ先生と同じですよね。
どこが違うの??
それは、「市販の音符カードを使っているから、芦塚メトードではない!」と考えてしまう人達と同じで、本当のメトードは「何を使用するか?」ではなく、「どうしようするか?」がメトードなのだからです。
音符カードだって、教室でオリジナルの音符カードを作る事は出来ます。
事実、viola譜のカードやcelloのテナー譜表のカード、或いはrhythmカード等は、市販されていないので、教室で制作しています。
ト音記号とへ音記号の音符カードは、結構色々な種類が出回っているので、教室では市販のカードで間に合わせているだけです。
メトードはカードではなく、どうそのカードを使いこなすかというソフトにかかっているのですからね。
という事で、教室の先生が生徒と一緒に練習をするという事は、生徒に「口移し」で教え込むという意味ではないのですよ。
そこの所を勘違いする人が以外に多いのです。
芦塚音楽研究所の先生が芦塚メトードの方法論を徹底的にマスターしたから、「口移し」ではなく、本当の音楽の勉強を指導出来る分けで、芦塚先生から芦塚メトードの方法論を徹底的にlectureを受けた結果だから、そういったlessonが出来る事なのです。
無駄を省いて、そのpoint(要点)だけを必要最低限、一緒に練習をする、そうすると子供達は、ビックリするぐらいに上達します。
一旦、lessonが軌道に乗ってきて、生徒が音楽に興味が湧いてくると、言わなくてもだんだん家でも練習をするようになって来ます。
そうなると、後は加速度的に上手くなってくるのです。最初、軌道に乗るまでが、半年かかろうと、一年かかろうと、その後の2,3年では、あっという間に、chopinやLisztの曲が弾けるようになってくるのですよ。
その時に、一般の先生が必死に一つ一つの音を丁寧に教え込んでいても、一瞬で抜かれてしまうのですよ。
でも、芦塚メトードを知らない人達は何が起こったのか分からない。どうして、抜かれたのかも分からないのです。
つまり、勉強に、ノーベル賞をとった人達のような楽しい、楽しい勉強方法がある事すら分からないのですからね。
そういった芦塚メトードの一番最初の取り付きが、或いは、基本基礎の考え方(lesson one)となるメトードが、「時短の考え方」なのです。
一般の時短に対しての考え方には、大きく二つの誤りがあります。
その一つは速攻性です。
時短をするために、難しい技術を習得しなければならないようでは、それは時短にはなりません。
時短をするために、パソコンのhow-toを何年もかかって習っても、それは単なる主客転倒です。
そこまでは、誰しも考える事です。
だから、パソコンの出来る人を雇えばよい。
しかし、その都度、専門の人を雇っては、人件費ばかりかかってしまい、それも主格転倒になります。
人件費を減らすために、パソコンを導入したのですから、それにパソコンを使える人を雇わなければならなければ、それは全く無意味な事です。
もう一つの考え方の誤りは、一般的には、速効性というと、その場しのぎの本物でないhow-toと理解されます。
それは、間違えた思い込みです。
確かに、世の中にはそういった(安直な・イジーゴーイングな)ものであふれかえっています。
無駄を省くという事や、system化といったような時短は、仕事をより完璧で優れた出来上がりにします。即効性=簡易versionとは絶対に言えないのです。
一般的な社会通念や風評には、人が陥りやすい一つの危険性を孕んでいます。
その危険性とは、「その事があまりにも、一般的で常識的になると、逆にそれが本当の本物のように見えて来る。」という事なのです。社会常識とは不思議なものです。
例えば、現代のブランド志向もその一つです。
ブランドの物を持って、流行に流されて、それが自分のi dentityのように錯覚している。所詮は、マスコミの作り上げた虚像であることを自覚出来ない。自分の判断の基準を持っていないからです。
学校教育然りです。
中学生や高校生に極めて一般的な常識的な質問をしても、本当に呆れかえる程に、一般常識を知りません。
学校で教科として習ったはずなのにです!!
今、日本社会は世界経済の圧力の元に晒されています。
団塊の世代が作り上げた力強い日本はもうすっかり過去の栄光のお話なのです。
それなのに、まだ、そういった夢幻にしがみついているのが、今の教育社会です。
本当の本質を教えないのに、目先の成果だけを要求する、そう言った話は、日常にあふれています。
未来が見えないのではなく、今現在も見えていない。等々
このお話はホームページの教育論文の項を参考になさってください。
再び、時短のお話に戻って・・・・
芦塚先生が、芦塚音楽研究所にパソコンを導入した頃は、まだ、大企業は兎も角としても、中小の零細の会社でパソコンを使用している所は殆どありませんでした。
色々なパソコンのプログラマーの人達に、芦塚先生はs先生の作った教室の経営上のフローチャートを見せて、教室の作業をsystem化して欲しいといったのですが、まだ当時はそれだけの仕事をこなせる人がいなくて、「出来ます!出来ます!」と、仕事を頼んだ人達は皆、言う事は言うのですが、実際に作らせて見ると、その大きなsystemの中の一番簡単なプログラムでも、ちゃんと作れた人はいませんでした。
それでも、自信を持って言って来たパソコンのプロの人に、教室のsystem化をお願いしたのですが、結局の所、教室のsystem化には程遠い話で、当時はまだ教室の事務作業を専門に勉強をしていた頃の斉藤先生達にパソコンの基礎的な使い方を指導するだけで、1年掛かっても何一つ教室の作業が効率的に出来るようにはなりませんでした。
教室のパソコンによるsystem化は、それこそ、時期は前後しますが、二つの会社のプログラマーの人達に100万円ずつ払っても、1年、2年というロングランの時間をかけても、教室の作業は何一つワープロからパソコンへの移行は出来なかったのです。
それどころか、教室の先生達がパソコンを上手に使いこなすことすら出来るようにはなりませんでした。
コンピューターは単なる道具にしか過ぎません。
コンピューター作業は、仕事をする側から本来の目的を考えると、如何に早く文章や表等の仕事をこなすかと言う事になります。
パソコンの使い方に慣れる事や、パソコンの技術の習得は教室の先生達の本来の目的ではないはずなのですよ。
しかし、当時の、パソコン業者の人達は「パソコンが何が出来るか?」という事に始終して、「パソコンを使う事によって、教室の仕事や雑用の何が簡単に迅速に出来るようになるのか?」という事はやってくれなかったのです。
当たり前の話で、パソコンの業者は教室の作業内容を幾ら説明しても理解してくれませんでしたからね。「基本の所は塾と同じですからね。」と説明しても、塾の形態自体が理解出来ていない。それじゃ、無理だよ!
という事で、先生達は忙しい仕事の合間に、更にパソコンの操作のための勉強をしなければならない、という二重の足かせをされた結果になりました。
パソコンの関係の人は、「パソコンを道具とは見てくれない。」、「パソコンを使用して会社の仕事の何が早く出来るようになるのか?」 という発想そのものが無い、・・・という事で、パソコンの業者にパソコンをどうこうさせるのは諦めて、私自身がパソコンの操作を覚える事にしました。
それまでに先生達が使用していた、教室に10台以上あった、ワープロの操作も私が先生達に操作の仕方を指導したからなのです。
ワープロを教室に取り入れた時も、まだワープロが世間一般に普及する前のことでした。
当時ワープロはまだ非常に高価な機械で、ワープロ一台とプリンターを揃えるだけでも、100万近くかかってしまい、教室の事務費に対する予算枠の中では、とても大変な決断を迫られる買いものでした。
また、時代はまだ、そういったワープロの走りの時代なので、この私達の事務所がある東京ですらも、ワープロの使用法を教えてくれるワープロ教室のようなものは全くなく、ワープロの会社が本社ビルの中で、週に何度かワープロ教室を開いて、ワープロのlectureをするような時代でした。
勿論、普通の一般的なワープロの解説書のような本も全く出版されてなく本屋にもワープロの取説コーナーのようなものは、全くなかったのです。また、本社でそういったワープロ教室のようなものをサービスでしている、といった話は全く聞いていなかったので、自分で取説と見比べながら見よう見まねでワープロの使い方を覚えていきました。
それよりも、ワープロ本体を買った時も、付属でついて来たsystemフロッピーが違っていたりと、ビック・カメラのような大手の量販店でも、「ワープロとはなんぞや??」という手探りの時代でした。
半年位経って、ワープロでどうしても分からない操作があったので、富士通の本社に思い余って電話をしました。電話を回されて、やっと説明が出来る人までたどり着いた時に、相手の人が「取説を読んで、ワープロが打てるようになったのですか?取説は技術の人が書いたので、ワープロの打ち方を覚えるために書かれたのではないですよ。取説だけ読んで、ワープロが打てるようになった人は今までに、全国で4人しかいませんよ。あなたで5人目ですよ!」と驚いていました。
「じゃあ、今からでも、本社に通った方がいいですか?」と尋ねると、「いや本社のワープロの講座は、初期の導入で、ワープロが使えるようになるまでのlectureですから、もうあなたには必要ありませんよ。」というお墨付きでした。
だから、先生達を遠い赤坂のビルに通わせるよりも、芦塚先生が指導した方が、時間的にも、指導の仕方に於いても、数倍合理的であったのです。
10年程は、ワープロを買い足しながら、教室の作業をこなしていました。
しかし、やがてワープロから、パソコンに時代は変わってきて、教室もワープロで積み上げてきた仕事をパソコンに移行しなければならなくなってしまいました。
そのタイミングは勿論、パソコンを買い揃える時の見積もりの額です。
ノート・パソコンを数台買って、取り敢えずは教室の経理だけをパソコンに移行させました。
それでも、当時の経理担当の先生は、パソコンの事を信用しないで、帳面上に記帳した経理の表を税務署の提出に合わせて、移していくという不思議な作業をしていました。
しかし、これは笑い話ではなく、パソコン自体が不安定で、パソコン自体が計算ミスをするということすらあって、(簿記の方が計算が正確で・・)と言う事もあった、今では考えられないような不思議な時代です。
勿論、税務署の人達もパソコンではなく、電卓で仕事をしていました。
経理は兎も角、教室の煩雑な作業をパソコンに移行させて、先生達の負担を軽くするというのが、芦塚先生の悲願でした。
しかし、パソコンの操作性があまりにも難しく、逆に先生達に負担を強いる型になって、先生達からヘルプが寄せられるようになってしまったのです。
という事で、考え方が全く違うパソコン業者の人に、「先生達のlecture」を頼むのはやめて、「芦塚先生が直接先生達にlectureをした方が、効率が良い」 と考えて、先ず芦塚先生が、先にパソコンの操作を覚えることにしました。
当時、やっとパソコンが一般的になって来た、とは言っても、それでも、まだ小型のノート・パソコンでも、30万も40万もする買い物でした。勿論それはプリンター無しの値段でですよ。
ですから、仕方がないので、ジャパネットのテレビコマーシャルで撮影用に使用した新古のノート・パソコンを競売で、芦塚先生が安く、芦塚先生のポケットマネーで買って、(それでも当時は23万もしたのですよ!かんがえらンない!!)、それで、まず最初に芦塚先生が、パソコンの操作を覚えて、それまで月一でやってきた業者のパソコンlectureの代わりにパソコンの使い方の説明を先生達に伝達するようにしたのです。
それまでのパソコンのlectureは先生達だけが、業者から受けていたので、芦塚先生自身は忙しくて、業者が指導している時には、一度もその場に居なかったので、業者からはパソコンの操作を習った事はありません。
つまり、芦塚先生はパソコンに関しては全くの独学です。
ですが、パソコンの基本の考え方は、芦塚メトードのもっと簡略な導入の所のversionと同じsystemなので、まあ、50の手習いだとしても、パソコンの操作は、頭の悪い事務員に会社の事務を指導するようなものなので、芦塚先生にとっては、何の問題もなく、難しくなかったそうです。
パソコンの本来の仕組みは、フローで出来たいるので、芦塚メトードというsystemの考え方で、充分に理解出来るので・・・。
という事で、芦塚先生が先生達へのパソコンの指導を担当するようになってからは、やっと教室のパソコンも教室の事務や教材作成に能率的に稼働出来るようになりました。
何故、パソコン専門の業者はパソコンの指導が出来なくて、パソコンに全く素人の芦塚先生が指導出来るのかという事は、パソコンに対する考え方の違いから来るのです。
業者サイドはパソコンが全てなので、その価値付けは、パソコンの使い方を指導する事と勘違いをしてしまいがちですが、我々のような教室の立場の人間から言わせてもらうと、社員がパソコンを勉強して、練習と努力を積み重ねて、膨大な時間を費やして、パソコンが出来るようになったとしても、それは無意味なのです。
先程も言ったようにそれなら、パソコンの出来る人を雇えばいいだけなのですが、それでは経費の節約にはならないという、堂々巡りになってしまいますよね。
教室の先生達には、覚えてもらわなければならない専門的な勉強が無数にあります。
その専門の知識と経験を学ぶこと無しに、いくらパソコンを出来るようになったとしても、意味はないのです。パソコンは教室では、あくまで道具にしか過ぎないのですからね。
芦塚先生の高校時代の友人の妹さんが、英語が好きで、英語の弁論大会で日本一になって、外語大を主席で卒業しました。
今日のように、英語が話せる人が多くなかった時代の話なのです。
しかし、その40年も前の、その当時でさえも英語を活かして出来る仕事はなかったのですよ。
芦塚先生の高校時代のもう一人の友人は新婚ドサクサで、会社から出張してきた外人社員とルームシェアーをするように求められました。
その意図は、彼が英語を学ぶ事ではなく、奥さん達も同じように外人と接する事が出来るようになるためです。
また、国による慣習の違いを学ぶという事もあります。
そういった事で大手企業は社員をグローバルな社会に対応出来るように教育するためで、当時はそういった事を求められる事が一般的だったそうです。
だから、大手企業の社員であれば、日常会話ぐらいは家族ぐるみで喋れるのが常識だったのですよ。
だから、英語を活かして、仕事をするという事は、学校で考えているlevelと社会のlevelでは全く水準(Niveau)が違うのですよ。
高校で英語が得意だから、英語を活かして、通訳になりたいと思っている人がいます。
外国人の中で40年以上働いて来た芦塚先生のお兄様の話によると、「通訳の専門家になりたい」と思ったら、完全なネイティブで2,3ヶ国語はこなせないとダメだそうです。
つまり、商社マンや大使館員の子供達で、日本よりも、あちらの生活の方が長い人達です。
教室にもそういった子供達はたくさんいます。
小学生の時には教室で勉強していたのですが、仕事の関係で、外国に行ったっきりで、殆どの人達は日本には帰って来てはいません。
勿論、里帰り的には日本に帰ってきて、時々教室を訪ねてくれますが、すぐに外国に戻って行きます。
外国の生活の方が長いからです。
親は日本に帰ってきますがね。(親は日本の方が長いのでね。)
じゃあ、ネイティブでなければ、通訳は無理か!って?
・・勿論、それ以外の方法もありす。
会社が通訳を必要とするのは、通訳がいないといけない場の時です。
間違えて契約していまうと、何億という被害をだしてしまう外国と日本の法律の違いを把握していなければならない契約の時には、法律、それも日本の法律だけでなく、外国の法律や国際法に長けている事です。
または、非常に専門的で高度な知識を要求される研究の世界等です。医学的な知識や政治の微妙なニュアンスがわかるということです。
別の道もあります。
人が絶対に喋らない国の言葉に精通することです。それなら、その国との交渉の時には確実に仕事が来ます。
大使館では、たった一単語を訳を間違えただけでも戦争が起こってしまいます。
だから、芦塚先生のお兄さま達は、長い公式(正式)の文章では、テンプレートを作っておくそうです。
だから公文書でも、殆ど日にちと場所と名前を打ち替えるだけだそうです。
「そんな、一言でも間違うと戦争を引き起こすような怖いことを、その都度一回毎に翻訳出来るか!」だそうです。
勿論、その相手の国も同じように、テンプレートで返事を返してくるそうです。
返信用のテンプレートもあるそうなのでね。
実は、アメリカで、日本の車が何台も焼き討ちにされた、歴史に残るジャパン・パッシングでも、ある大使館員が政治家の話を通訳する時に、あるたった一単語の意味を(その単語の意味が幾つか取れるので・・)取り違えて米語に訳した事に因るのだそうです。
勿論、大使館員の訳なので、誤訳ではないのですよ、その単語に意味が幾つかあったのですが、会議場にいたわけではない大使館員が言葉の意味を間違えて選択をしてしまったということなのです。つまり、日本語の訳では合っているのですが、アメリカでは別の意味に取り違えられるという微妙な単語だったのです。
・・・・もっとも、政治家は、わざと、相手国と日本の意味を違えて使える単語を使用することが多いようですがね。
それぞれの国の利害にあわせてどっちにも取れるように、です。
話を元に戻して、
道具は手軽に使用出来てこそ、仕事の時短を図る事が出来て、それで初めて道具自体の存在価値が出て、使用する人にとっての意味があるのです。
どんなに優れた機械でも、それを覚えるのに時間がかかるようでは、本来の目的とは主客転倒しています。
教室はパソコン教室ではないので、教室にとってはパソコンの使用法を覚える事が、教室の本来の目的ではないからなのです。
だから、パソコンを使用するコツは、どれだけの必要最低限の事を覚えれば、そのパソコンをちゃんと上手に使いこなす事が出来るようになるのか?・・・・という事だけなのです。
まず、パソコンの最低の必要な操作を正しく覚える事・・・・、そうすれば、パソコンのhow-toなんて直ぐに覚えられるのです。
この長い長い文章は、パソコンの専門家が書いている、パソコンの操作のための解説ではなく、そういった何の知識も持ち合わせない状態でも、まずパソコンを日常的に使いこなす事を目的として書かれました。
本当は、この長い長い文章は、同じ話が何度も登場します。
実は、この文章はマトメ途中なのです。
色々な人にパソコンの操作を教えて、それを一文章に集めたものだからです。
仕事の合間合間に少しづつ、文章をまとめていたのですが、時間がかかりすぎるので、一応ホームページに掲載して、それからのんびりと削除していこうと思っています。
パソコンは96、98から、2000やVista、XPとどんどん変わって、その操作も互換性もへったくれもなく、変わってしまいました。だから、前に出来ていたアンチョコが次の機種では出来なくなってしまったり、で、解説を書いてる暇もないぐらいに目まぐるしく変化してしまいます。
片手間にパソコン教室をする事自体が難しいようです。