芦塚メトードのあらまし
芦塚陽二著
前書き
第3稿に寄せて
初稿から第二稿について
「芦塚メトードのあらまし」という論文の初稿は1980年代の後半から1990年あたりにかけてOASYSのワープロによって書かれたものです。1998年頃から、1999年頃にかけて、ワープロの文章をパソコンの文章に移動させる時に、互換性の関係でフロッピーを読み替えソフトを使用して、そのままワープロからパソコンの文章に読み替えるよりも、一度print outして、OCRでスキャニングした方が、手間も掛からないで、文章自体もきれいに変換できるし、作業効率も良いと言う事で、OCRの作業にしたのですが、それでも「音」という漢字を「昔」と読み間違えたり、「か」と「が」の区別が上手く行かなかったりで、それはそれでcheckを二度、三度しなければなりませんでした。どうせcheckのために、手間が掛かってしまうのならば・・・と言う事で、OCRの読み間違いのcheckに加えて、少し文章を手直ししました。それが第二稿です。
第三稿について
初稿が書かれてから、バブルの崩壊や世界情勢においても変革と激動の時代でありましたが、不思議な事に、事・・教育の問題に関しては、この論文が書かれた20年前当時と何一つ変わるところはありません。否、教育に関してのみ言えばそれ以前にこの100年何一つとして変わっていないのです。
ここで「芦塚メトード」とは全く関係のないお話ですが、ちょっと寄り道をして、胃潰瘍の原因であり癌を誘発させる原因ともなっているピロリ菌のお話をします。
私を長年苦しめた持病である胃潰瘍ですが、その原因はピロリ菌であると言う事が、今は一般に認められています。しかし、そのピロリ菌ですら、長年学界のアカデミズムの前に無視され続けてきたのです。
前回のノーベル賞で一躍有名になったピロリ菌の発見と治療法の確立の話ですが、そのピロリ菌の研究を最初にしたのは日本人である事はあまり知られていません。しかも、なんとその研究は1919年の事です。小林六造は胃酸の強いネコから取った菌をウサギに移植させた結果、胃潰瘍が起きたと発表。また同時にその治療法も研究し、抗生物質で除菌、殺菌ができることも確かめていました。これが現在では、ピロリ菌の最初の発見だとされています。
しかし、当時の学界では「強い胃酸の中で生きられる菌は存在しない」事が通説であり、小林の研究は学会からは黙殺されました。1954年になってもまだ、エディ パルマーは1000例を超える生検から胃の中に細菌は存在しないと、胃内螺旋菌の存在を否定し、それが通説になっていました。1975年になってやっと、スティヤーが胃潰瘍患者の80%に螺旋菌を発見、それから1979年にもウォーレンが胃粘膜にもぐりこんでいる螺旋菌を発見し、1982年マーシャルがピロリ菌の培養に成功しました。
1980年からは抗生物質による胃潰瘍の治療がスタートし、2005年にその功績によって、ノーベル賞生理学・医学賞がマーシャル教授とウォレン医師に授与されたのです。
実際に、私も30年以上胃潰瘍の薬を飲み続けていたのですが、1998年(53歳)の時に、まだ当時最先端の治療法であった抗生物質によるピロリ菌の治療に成功して、そのとき以降は、長年苦しめられた胃潰瘍は再発してはいません。
それ以降も小林先生はいろいろな研究をなされていますが、小林先生の最も優れた業績は多くの優秀な生徒を排出したと言う事ではないか、といわれています。その小林先生が常に言い続けた事は、幾ら先人達の知恵があったとしても、それが幾ら定説であったとしても、それを実証しなければ意味がないと言う、徹底的な実証主義を生徒に指導したという事です。
こういった話を長々としたのは、音楽の世界だけではなく、実際に現場の治療に当たらなければならない医学の世界においても、古い観念論で正しい研究が否定される事が、往々にしてあると云う事を、わかって欲しかったからなのです。
私の心臓の病も、私自身が心臓の不調を訴えて、手術をする事になる5年も前から、循環器の先生達に「冠動脈が詰まって・・・!」と言っていたのですが、先生達は笑って取り合ってくれませんでした。何回目かの心電図でやっと不整脈が見つかって、心臓カテーテルの検査で、5箇所も詰まっていて冠動脈の3本の内の1本に辛うじて血液が流れているのにすぎなかったときには、先生達は「よく今まで生きていましたね。5年前に死んでもおかしくなかった。」と言っていました。でも私はその[5年前]に、「冠動脈が詰まって・・・」って言っていたのですがネ。それで、練馬の大学で手術をすることになったのですが、心臓を止めて人工心臓で手術するために、1時間以内に手術をしなければならないので、「冠動脈の最後の1本を助ける事がやっと出来る。」と言う話でした。勿論、それでは、正常な普通の生活は出来ません。半分寝たきりのような生活になります。後は例の通りの余命の話になってしまいました。
そこで、教室の先生達が色々な名医の先生をネットで探してくれて、電話をしてセカンドオピニオンの予約をとってくれました。それで有名な先生に見てもらえるようになって、セカンド・オピニオンの話を大学病院にすると、本当なら大学病院だからセカンド・オピニオンは当然認められているはずなのに、実につれないもので、「紹介のカルテもいつできるか分からない。」とか、セカンド・オピニオンに行くのなら、先に退院の手続きをしてくれ。」とか冷たいものでした。挙句の果てには「何処の病院に行っても、うちと同じ事を言われるだけですよ。」と馬鹿にした態度でした。名医達の態度は立派なものでしたよ。カルテのCDを送った最初のカテーテルの名医は、「緊急なので、病院に来て貰う前に電話をしました。」「カテーテルの手術は、やってやれないことはないけれども、私の肉親だったらバイパスの手術にかけます。」と言われました。電話だけでお会いはしなかったのですが、その声のトーンが暖かく信頼の置けるものでした。全然違うのよね。話方さえ・・。バイパス手術の先生はカルテのCDを送ると、「手術を先にして、入院の手続きをしましょうね。」と言われて、手術の日を電話で決めてくれました。冠動脈のバイパスも、「5箇所に全部バイパスをしましょう。」と言われて、「人工心臓ならば、「1時間しか止められないので、1本しか助けられない。」と大学病院に言われたのですが・・?」と言ったら、「心臓は動かしたままで手術するので、何時間でも大丈夫ですよ。」と言われて驚きました。実際には、5本の内に4本しか付けられなかったのですが、それでも冠動脈の3本全部を生かすことが出来たのです。現在では輸血のために自分の血液をプールするのですが、「輸血は全く要らなかったので、返しておきますね。」と言われて、手術の2,3日後で輸血してもらいました。「捨てるともったいないので!」と言う事らしいですが。余談になりますが、私の手術をしていただいたその先生も、アカデミズムが大嫌いで、色々な本に大学の問題を提起しています。もしも、「大学の先生が言ったわけだから、それ以上の治療法は無いのだ。」と教室の先生達が思ったとしたら、今、私が皆様の前に立ってお話をすることもなかったわけです。
本当の本物を求めるには、まず疑問を持つことです。不思議に思うことです。「なぜなのだろう?」と・・・。
私が、まず疑問に感じたのは、「何故、学校の授業はこんなに面白くないのだろうか?」と言うことです。これは音楽の事ではなく、普通の勉強の話です。
同様に、「私はこんなに音楽が好きなのに、どうして音楽の勉強はつまらないのだろう?」という素朴な疑問です。
それを大学の教授達に質問すると、いつも「そういった苦しみに耐えた人だけが、尊敬される人格と人間になれるのだ。」と言う言葉が返って来ます。
でも、歴代の大作曲家(大演奏家)達で、音楽がつまらないと言う人はまず絶対にいません。
一流の演奏家の練習しているところを見せて貰うと、本当に面白いのですよ。まず、一瞬一秒として無駄が全くありません。無理難題も当然ありません。分かりやすく、実に論理的で、当たり前の練習です。私が芸術と直接関係のない小林先生の話を引き合いに出したのも、今年のノーベル賞の受賞者である小柴さん達を初めとして、学業や芸術で成功した人は全て同じ話をするからです。そういった意味合いにおいてこの「芦塚メトードのあらまし」と言うお話はまだその役割を終わってはいないように感じています。
と言う事で、今回、新たに改訂を加えながら第三刷を作りました。
芦塚メトードのあらまし
本文
以前、親が子供に対してorchestraや室内楽の練習に参加する条件として、「学校の成績が上がらなければ、オーケストラや室内楽の練習に行ってはいけない。」とか、「試験でこれだけの成績を出さなければ、レッスンにいってはいけない。」とか言う風に、「学校の勉強をさせるための条件」として、「レッスンやオーケストラ練習」を引き合いに出される父兄の方々がいて、教室の先生達を憤慨させてしまったことがあります。
子供が楽しんでオケ室内楽の練習に行くし、喜んで自分から練習もするので、親にとっては、オケ練習や室内楽の練習は、子供達の「おやつ」のような気がしてきたのかもしれません。
中には「音楽は勉強とは違って、遊びだから楽しいのよ。」 とか「集団でやれば、子供達は何でも楽しいのよね!」と言うご父兄の方もいらして、ほとほと、その無理解さに困ってしまいます。
しかし、本来的には街のジュニア・オーケストラにしても、或いは、トップのlevelの学生達が集まっている音楽大学の室内楽でも、その練習は厳しく辛いもので、決して楽しいものではないのです。オケにしても、室内楽にしても、levelが上がれば上がるほど、辛く厳しいものになるのは自明の理ではありませんか?
ですから、一般のオケや室内楽とは逆に芦塚音楽研究所の子供達が上手になればなるほど、orchestraや室内楽を楽しく感じると言う事は非常に特別なことであります。それはあくまで、「芦塚メトード」という独自のカリキュラムによるものだからなのです。
逆の視点から言えば、実は学校の勉強も、或いは塾の勉強でさえも、芦塚メトードで勉強すれば、実は楽しいものなのです。
保護者の方にとっては、「芦塚音楽教室のオケ練習は、楽しくって子供達も練習を楽しみにしているのだから、教室の音楽のlevel(水準)は、低くって遊びの延長線上に過ぎない。」 と勘違いされている、人もいます。
今までの儒教的な教育社会の中で、「塾や学校等で勉強は辛く、楽しい事は趣味に過ぎない。」 と、可哀想に、子供の頃に、習ってしまったのですね。
実は教室の子供達のオーケストラの水準は、プロの人達にとっては、恐るべき水準なのです。子供達、一人一人の水準は、音楽大学の水準に比べても、引けを取るものではありません。教室のオケ練習を、見学に来られた、プロの人達が子供達の技術を見て、あっけに取られてしまいます。そのlevelがあるから、対外出演としてプロの人達に混じって、子供達ですら、外の演奏活動が出来るのです。
ですから、有名音楽大学を卒業して、やっと面接に合格して、初めてオケ練習を聴講に来た先生達が、子供達から、「どうして、そんな簡単な事が出来ないの?」「どうして、分からないの??」と、質問され、しかも、何気なく、子供達は見事に演奏してしまいます。
その時の、彼女達の心の内が分かりますか?本当に辛い、練習を耐えて、有名な先生に叱り飛ばされながら、必死にlessonに食いついて、やっと音楽大学を卒業した。それなのに、年端も行かない、小学生の子供達に、「何で弾けないの?」と言われた時の挫折感・・・・!
しかし、それは子供達の性ではないのですよ。本当に、子供達にとっては、何故そんな簡単な事が分からないのか?そんな簡単なpassageが弾けないのか?不思議なのですよ。
だって、子供達は芦塚メトード以外では習っていないのですからね。
教室では、生徒が練習して来なくても、先生が生徒を叱る事もなく、lessonを楽しく普通にします。
子供達も何時の間にか絶対音感を身に付けて、非常に技術的に難しい曲を、難なく弾きこなします。
普段のlessonを見ても、遊びのように、・・・練習しているのか、遊んでいるのか・・よく分からないのに、どうして、何時の間にか上手くなるの?・・と不思議に思われる方が多いのではないか?と思います。
本当に、professionalな人達は、自分の仕事が楽しくて仕方がないから、プロになっているのです。
本当の教育とは、勉強の楽しさを教える事なのです。
それが芦塚メトードの根源なのです。
でも、ここで非常に一般の父兄の方から勘違いされる事があります。
それは、「生徒は芦塚メトードで習った。」という分けであり、「芦塚メトードを学んだ。」分けではないという事です。
芦塚メトードは、人生の考え方のmethodeなのです。
音楽の技術は芦塚メトードの中のほんの一部にしか過ぎないのです。
ですから、芦塚先生が「芦塚メトードの教室を始めるのに、別に音楽教室である必要はなかったのだよ。」と、おっしゃっているのです。
仕事の楽しさを教える事が出来るようになるためには、学校教育のように、ただそのジャンルの一部を噛るだけでは、駄目なのです。本当に、その道に踏み込まなければ、そのジャンルの良さは分かりません。
まして、人にその楽しさを伝える事は出来ません。
という事で、芦塚メトードとは、教わる側と違って、教える立場となるインストラクターとして、その芦塚メトードを勉強する事は、大変難しく、習得困難なmethodeであるのです。
それは、芦塚メトードが、音楽技術のみならず、心理学や教育法等の多種多様な分野に渡っているからです。
ですから、大変な思いをして、10年にも渡る長期間も研究と勉強を続けて、やっと子供達をして「音楽は楽しいものだ!」とか、「音楽は自分にとって大切なものだ。」とかを、言わしめることが出来るようになったときに、それをあたかもオケ練習に放り込みさえすれば、誰でも「音楽の練習は楽しい。」と、勘違いをされると、私達の、それまでの努力が否定された、ような気がしてきて、子供達を指導をする甲斐がなくなってしまい、本当に悲しくなってしまいます。
よく、考えても見てください。
他の音楽教室の御父兄の方々や、また私達の教室に入会されて、まだ日にちも経っていない御父兄の方々にとって、「オケ練習に行きたければ・・・・」何て言う親の言葉は、これほど信じられない話は無いことでしょう。
普通だったら子供達は当然、「レッスンに行かなくっていいの?!バンザーイ!」ということになってしまいます。
また、私達指導者にとっても、そういった事を言われると言う事は、私達のこれまでのお子様にかけてきた努力や情熱を、或いは自分の積み上げてきた勉強さえ否定される事になってしまい、子供達を指導すると言う教育に対しての価値を喪失したり、果ては人生の悲哀をすら感じてしまうのです。
そういう時に、芦塚先生はついつい音楽教室何かやめてやる!と怒鳴り出します。
芦塚先生は音楽教室で生活をしている分けではないからです。
芦塚先生にとっては、教室は、教室を作る迄の、しのぎを削って、注ぎ込んでいる、理想の社会なのですから。
考えても見てください。
*大人達にとっては、音楽は楽しみにしか過ぎないかもしれません。しかし、子供達は趣味として音楽を習っているのですか?それなら、それで、そういった教室が沢山ありますよね。子供達が自分の好きな曲だけを弾けばよい。練習もしないで行けば良い。だって、趣味なら、それで充分ではないですか?!
*好きな曲を好きなように弾かせてもらえる、・・・それだけで、超高度な技術を必要とするorchestraや室内楽の曲が弾けるようになると思いますか?
*私達の教室で、今お子様が弾いている曲のlevelが、一般的音楽の水準と比べると、どれぐらいのlevel(水準)のものであるかを理解していますか?
*学習形態の分野が違うので、分りにくいとは思いますが、学校の勉強のlevelと比べて如何に高いlevelの水準の曲を勉強してるのか分かりますか?
*指導者の何の努力も無しに子供達が音楽を好きになり、レッスンを楽しいものだと感じ、オーケストラや室内楽の練習に熱中するという、そんな夢みたいな事が、現実的にあると思いますか?
よその教室でピアノを習っていたのですが、お子さんがすっかりレッスン嫌いになってしまって、レッスン時間が近づくと逃げ出して遊びにいってしまいます。
その教室のお母様は子供を捜し出して泣き叫ぶのを手を捕まえて引きずりながら教室に連れて行く。勿論練習などは一回もしたことがないので、レッスンでは、子供が叱られ、お説教されるのは当然ですが、親もまた子供と一緒に怒られるばかり。
そういった悩みを持つ親御さんが、「ピアノが弾けるようにならなくてもよいから、せめて音楽が好きになってくれたら。」と悩んでいたところ、人の噂に私達の教室のことを聞かれました。
それから一生懸命私達の教室を探して、やっとみつけだして入会された方々がおられます。
「先生、この教室を捜し出すのに半年も掛かりました。」
そのお母様に言ってみてください。「うちの子には『ちゃんと勉強しないと、オケ練習には、行っちゃ駄目!』って言っているのですよ。」ってね!
はてさて、そのお母様はなんていうでしょうかね??
そういったお母様にとっては、先程のお話は「夢のまた夢」のお話です。
私達の教室では、ただ音楽を好きにさせるということだけではなく、優れた才能や情操を育てる為に、緻密なカリキュラムを設定しております。このお話をすることは、私達の重要なソフトにも係わってきますし、且つ、大変難しいお話なので、今まではその事についてはあまりお話をしていませんでした。
私が留学中に世界の超有名な音楽の世界に限らず、色々な分野の方達と親しくお話をしていただく機会が数多くありました。日本のノーベル賞の先生方もまったく同じことを述べておられますが、そういった歴史を作り出している偉人達の共通な考え方は自分の仕事を愛していると言う事です。
そういった意味では日本の人達とは少し考え方が違うようです。
子供に「好きな音楽を弾かせる」、という事と、私達の教室の「音楽を好きにさせる」と言う事は、似て非なるものであります。
(全く違うんだよね!)
子供達は、もし本当に好きなことであれば、驚くほどの集中力を見せるし、厳しい辛い訓練にも耐える事が出来ます。
それが音楽を楽しく指導する、と言う芦塚メトードの骨子なのです。
言い方を変えれば、楽しければ、どんな辛い勉強にも耐え得ると言うパラドックスになるのです。
実は、私達の教室のオケ練習は、音楽を専門に勉強している音楽大学の学生や、私達の教室で学んでいたはずの生徒ですら、たとえ受験勉強などの理由によっての一時的にしても一旦教室やオケ練習から離れてしまった場合には、今まで楽しかったはずの教室のオケ練習や、室内楽の練習は、とても厳しく、辛いものに感じてしまいます。
教室のオケ練習を参観して見ると、先生も子供達も笑いあいながら、冗談などを口にしながら、如何にも楽しそうにしています。
むしろ、ふざけているのではないのかな?と思われるかもしれません。
しかし、お手伝いに来た音大生達やプロのオケマン達ですら、芦塚先生のレッスンは厳しく、とても辛いと感じます。しかし、それは音楽を学んでいる人達しか分からないのです。
しかし、私達の教室の中にいると、そういった練習が普通ですから、何でもありません。極当たり前の練習なのです。
本人が超売れっ子のPianoの先生をしていたお母様が、「芦塚先生のlessonは、とても優しいのだけれど、子供には全く逃げ場がない。逃げ場を与えない。」と言っていました。
Methodeがあまりにも、理論的なので、なんとなく、とか、aboutに、とかのあいまいさが入る余地がなくなるのです。
しかし、そういったlessonや練習を毎日続けている生徒達にとっては、それは日常の事にしか過ぎないのです。だから当たり前の事で、逃げる必要もないのです。
しかし、他の教室から来ると、そうは行きません。逃げ場所のないlessonとは、ちょっと怖い事になります。[1]
勿論、先生達は段階で指導します。ですから、通常のlessonで、そういった事を感じる事は、ありません。ですから、傍から見ると、楽しく優しくだけ、先生達が指導しているように見えてしまいます。しかし、そこには怖~い、Niveau(水準)というものがあるのです。
殆んどの親御さん達は、そういったカリキュラムの事はご存知ありません。日本の儒教的な教育制度を真っ向から否定するmethodeでもあるので、あまり積極的にはご説明しないからです。
しかしながら、私達の教室で長く勉強を続けておられると、「音楽を好きであるということや、レッスンに喜んで行くことや、オーケストラや室内楽の練習に熱中するということなどが当たり前」のような気がしてしまい、「それ等の事が子供達にとっていかに大切なことなのか」という価値すら見失ってしまいがちになります。芦塚音楽研究所の先生達が、心血を注いで、そういった価値観を子供達にやっと身に付けさせたのにもかかわらず、一旦親達が、「好きにさせると言う」 その価値を見失ってしまうと、子供が音楽を好きなのは、音楽がただの遊びに過ぎないからだというような錯覚に陥ってしまい、最初にお話をしたような「勉強をしっかりしないと、レッスンに行ってはいけません。」というような奇妙な親子の会話になってしまいます。
「子供達がどうしたら音楽を好きになってくれるのか。」これは音楽を指導する教育者にとっての大問題です。
一見、不思議なことと思われるかも知れませんが、音楽大学には「子供を音楽好きにさせる」ための方法論は勿論、と言うかそれ以前に、バイエルの指導法やブルグミュラー等の、初めてピアノを学ぶ子供達を対象とした、指導のための育成講座はないのです。音楽大学を卒業する学生の80%以上が、ピアノやヴァイオリンの指導者になっていくのに、理解に苦しむ所です。
勿論、音楽大学には子供のための音楽教室を持っていて、学生に子供の指導法を教えている学校もあります。しかし、そういった学校に集まってくる父兄や生徒達は、最初から将来音楽大学に進学しようとする父兄や生徒が殆んどです。ですから、子供や父兄達の意識も高く、lessonの内容自体も当然厳しいのです。勿論、どう指導すれば音楽を好きななってくれるかと言う前提すらありません。
そういった所で、学んだ音大生が、一般の音楽教室に勤めてそこで子供達を同じようなmethodeで指導したら、当然子供達は音楽嫌いになって、ピアノやヴァイオリンなどを学ぶ事をやめてしまいます。
そういったわけで、音楽大学を卒業した若い先生は1,2年で「私は子供の指導には向いていないのだわ。」と言って、今度は音楽を指導する側の先生が、音楽教室をやめてしまいます。
ごく稀に、それでも、「子供達に音楽を教えていきたい。」と、考える人がいます。
しかし、「どんな教材を」「どういう風に」指導したらよいのか、それが分からないままに、大変に悩むこととなります。
一般社会ではその疑問に答えるべくたくさんの音楽の指導に関する本が出版されていますし、ピアノの指導者協会や弦楽指導者協会などのグループや、ヤマハ、カワイ等の楽器店など企業サイドも公開講座などを開いています。(しかし、そういった本を買ったり、講座に出かけて勉強している人はほんの一部の一握りの熱心な人達にすぎませんが。)
但しこれは若い指導者の怠慢を責めるわけにもいきません。何故なら、本を出版している先生方も、グループの講座に呼ばれて講演されている先生方も、有名大学の先生方が大半で、子供達を指導した経験がほとんどないか、あるとしても、その先生の名声を慕って集まってくる特別な家庭環境の生徒を指導しているかのどちらかで、巷の音楽教室とでは全く比較の対象にならないからです。
(大学の先生について学んでいる子供にとっては音楽が好きか嫌いかは全く問題ではありません。好きである必要がないのです。目的が全く違うからです。また出版されている本で〔子供を音楽好きにさせるための方法〕というのは、子供の好きな曲を弾かせるということに、始終しているようです。ポピュラーや軽音楽などを取り入れる。ヤマハやカワイ等の企業の発想と同じと言えます。教育という観点から見れば、子供に迎合していると思われても致し方ないと思います。)
ほんの一握りしかいない勉強熱心な若い先生に巡り合ったとします。当然その先生は教育熱心な訳だからレッスンも厳しい。「ピアノが上手になりたい。」と決心して教室に来ている生徒はよいのですが、何となく教室に来た生徒達はたまったものではありません。「ピアノが嫌になっちゃった。」とか「レッスンに行きたくない。」とかですぐに教室をやめてしまいます。先生の方も「あの子、音楽が好きじゃなかったのよね。」とか「一生懸命教えたけれど、全然練習してこなかったのよ。」と言って終わりとなります。
運良く結婚までの腰掛けでピアノを教えている先生に当たったら、そんなに厳しくはなく、優しく教えてくれるかもしれません。しかし、その反面、いつまでたってもピアノが上手くなりません。
「私の子供は音楽の才能が無いのかしら。」「これでよいのかしら。」「でもレッスンには通っているからこれでよいのかしら。」と親の悩みは尽きません。
結論的に言うと、「音楽が好きになって、しかも上達する」と言う事・・・・、これほど稀なことは無いのです。
初めて音楽を学ぶ子供達と先生
大きな教室に入会される場合、一般的には生徒や父兄が熱心な場合はこの先生、趣味の場合にはこの先生と分けられたり、月曜日だから、或いは木曜日の何時からだからこの先生というふうに先生を決められます。
これに対して私達の教室では、面接のときにお子様の性格などを判断して、「生徒と先生の相性」ということで先生を決めていきます。(時間の都合などが付かず、別の先生になったときも、都合がつきしだいに先生を交代することがあります。)[2]
生徒が音楽を好きになってライフワークのようになっていくかどうかは、その先生が厳しいか、優しいかではなく、相性に因ることが多いのです。
次にチェックしなければならないことは、その生徒が以前に音楽を習っていたかどうかです。年齢に関係なくもしも何も習っていなかったとしたら、私達は指導が大変楽になります。子供達は「早くピアノが弾きたいな。」「どんな先生かな。優しいかな。」と期待したり、「怖い先生だったら嫌だな。」とか不安になったりもします。「今日は。あなたのお名前は、なにちゃんかな?」先生の笑顔での呼びかけにちょっぴり不安が消えます。
先生の経験のない音楽大学生では、よく「私は指導の経験が浅いから、初心者なら簡単に教えられる。」とか、「子供のlevelならば教えられると思う・・」と言って、面接に来られる方がいます。しかし、本当は一番最初にその子が出した楽器の音がその子の一生の音楽の音になります。それは、音楽教育を真剣に考える先生ならば誰でも口にすることなのですが、一番最初に学ぶ先生によって子供の音楽の人生の大半は決まるのです。
音楽の先生が技術的にしっかりとしたテクニックを持つ事はとても大切ですが、その次には一日も早く、子供の信頼をかち取ることです。信頼は、先生が子供の心をどこまで理解できるのかで育っていきます。「この先生は私のことを分かってくれている。」ということが信頼に繋がります。ある時は子供の言葉の足らないところを補ったり、またある時は・・・というふうに。
一見カウンセリングの技術のようにも見えますが、カウンセリングは判断力や分析力の育っているある程度の年齢に達していなければ効果はありません。小さな子供の場合は、心の成長を見越した方向性のアドバイスが必要となります。芦塚メソードでも一番取得の難しい心理学的アプローチとなります。
初心者や年少者になればなるほど、心理学的アプローチや教育学的アプローチのウエイトが高くなり、技術的には基礎(基本)へのアプローチを必要最小限に施すことが大切になります。技術レベルがあがるにしたがって、だんだん心理的なアプローチは少なくて済むようになりますが、教材研究などや分析(インタープリティーション)等へのアプローチが比重を増して必要になってきます。技術的にも複雑で高度なテクニックや表現法などの勉強が重要になってきます。
他の教室で既に音楽を学んでいた生徒の場合
唯一、看板をだしている花園の教室を除いたら、それ以外の私達の教室は看板も出していないし宣伝もしていません。
そのために、私達の教室は全くの知名度がなくて、江古田に私が住み始めて40年以上になるのですが、同じ江古田の町に同じぐらい住んでいらっしゃる方が、「毎日教室の前を買い物に歩いていたのに、ここに教室があったの?」と、驚かれます。
ですから、他の教室から、私達の教室に代わってこられる方は、人づてに教室の事を尋ねて、探して見えられる方が殆どです。ですから、人づてに教室を探すだけの、理由があるようです。
以前の教室ですっかり練習嫌い、音楽嫌い、先生嫌いにさせられてしまった(それでも音楽をやめなかった)子供達が、わざわざ人づてに教室を探して、入会される方が多いのです。
ですから、そういったお母様方はそれまでに色々と悩んできました。
「ひょっとしたら、私が子供を音楽嫌いにしたのでは。」
そして「練習などしなくてもいいから、せめてレッスンだけには通ってくれれば。」と願います。
そういうお母様の願いに答えることは、決して容易なことではありません。
時間と忍耐力、それにもまして経験を要する仕事なのです。
子供たちの心の把握だけでなく、その子供たちを取り巻く環境(家庭や学校)をも正確に把握しなければなりません。
一度失われた情熱をもう一度取り戻すことは、音楽を最初から始めることよりも大変なことだからです。
生徒が行き詰まった原因は何かを正しく把握することは意外に困難です。
なぜなら本人達が精神的な行き詰まりと思っていたことでも、実際よく調べてみると技術的な所に原因がある場合もあるからです。
面接や2~3回目のレッスンで元の教室の批判を聞きます。
本人や御父兄の望まれていることと、教室の批判から推論される音楽との係わりが一致している場合には問題はありませんが、食い違っている場合もまま見受けられるのです。
面接によって得た情報を元にして、先生達の会議にかけ、本当の原因を探し出して後、先生を決め、レッスンのカリキュラムを立てていきます。
鈴木の才能教室やヤマハのように、一般の音楽教育と異なって特殊な指導を受けてきた生徒の場合があります。この場合には、すぐには私達のメトードを使用できるわけではありません。
こういう教室で学んできた生徒の場合には、直ぐに私達のmethodeにしてしまうと、あまりにも内容や方法の違いが大きく、生徒達の負担が多すぎてカリキュラムについてこられなくなるからです。
そういった生徒の場合には、教室に入会した最初の一~二年間を(教材は私達の教材を使用しますが、指導法は)鈴木やヤマハのカリキュラムのままで指導していきます。
そしてその間に少しずつ欠落した部分を指導し、身に付けさせたり、悪い部分を徐々に取り除いていきます。
大変時間のかかるやり方ですが、生徒が他の方法ではついてこられないので致し方ありません。
その人達の為に、私達の教室の先生になりたいと思われる音楽学生は、芦塚メソードの習得のみならず、(ピアノだったらヤマハ、ヴァイオリンだったら鈴木の)メソードの習得をしなければなりません。当然勉強の負担も増えるわけです。私達の教室は音楽大学には講師募集は一切しておりませんが、それでも何人かの講師希望者からの電話があります。別に部外からの講師を否定している訳ではないので、電話や面接を通じて教室の方針を説明すると皆、恐れをなして逃げてしまいます。(教室に本当に必要な先生は勉強熱心で子供の好きな人だけですのでそれでもよいのです。)
この括弧の中のお話は、この論文が書かれた当時のお話で、今現在は積極的に部外からの先生も教室で指導出来るように、double teachers systemという新しいmethodeを使用しています。
生徒を担当する先生が、直接指導講師の先生の指示に従って、lessonをしたり、担当の先生のlessonを、videoに撮影して、それを指導講師の先生がcheckしたり、或いはウエブカメラを駆使して、直接担当の先生や生徒のlessonを指導したり、と言う様々な方法で、経験の浅い先生でも、しっかりした指導が出来るように、或いは地方の教室の先生に対しても十分な配慮が行き届くように努めています。
上手、下手は何で決まるか
(価値観とカリキュラム)
御父兄の方のお子様に対してのご希望が、常に理に叶った物であれば問題はないのですが、「塾等で子供に楽器を練習させる時間はありません。でも教室で一番上手にしてください。」とかいったような無理難題な注文もままあります。
上手下手は才能で決まるわけでもなく、ましてや本来ならば30分のレッスン時間を、1時間に延長して、レッスン時間を人より倍も多く取ったから、或いは、週に二回、レッスンに通ったからといって、その生徒が倍に上手くなるわけではありません。
音楽の演奏の上手、下手は、生徒自らの練習時間の蓄積と、その生徒と家族が音楽に対して持つ価値観によって決まるのです。
音楽に関しては「棚ぼた」は決してありません。
その生徒の努力が必然的に積み重なっていくのです。
では、音楽に対しての価値観があって、練習を沢山すれば、プロになれるのでしょうか? いいえ、それだけでも決してプロに慣れるわけではありません。
そこには正しい教育と目的に応じたカリキュラムが必要です。
ここでは芦塚メトードのカリキュラムについて簡単に説明したいと思います。
棚ボタがないとしたら、では芦塚メソードの教育とは何でしょうか?
それを説明するのは、複雑で大変困難な事なのですが、大雑把に説明すると大きく心の教育と技術の教育の二つに分ける事ができます。
現代の日本が抱える教育上の問題点は思いやりの問題です。
つまり、点数で人を評価するので、競争させることが教育の原点となってしまいます。
両親の関心も、何点取れたか、何番だったかが子供を認めるための評価の基準になってしまいます。
ところが、その反動で、子供同士を競わせる事をしない、点数を付けない、走らせても、誰が一番かを決めさせないと言う不可思議な教育が行われています。
また、人より優れることを極端に嫌がる学校の教育もあります。
リーダーを作らせないのです。
全てが平等と言う考え方です。
でも、私は平等と言う意味はそうではないと思います。
人には(子供達には)それぞれに能力があります。
その能力を育てる事、それが本当の平等なのではないでしょうか?
それぞれの子供達の能力を探しだして、育てる事も指導者の務めです。
でも、そういった事は父兄の人達にはなかなか認めてもらえません。
それは日本の独特の教育制度に根ざしているのです。
ヨーロッパやアメリカのように人の出来ない事を出来るように育てるのではなく、人と同じ事を考え、同じ事をさせて、同じように教育する、それが日本人の教育に対しての考え方です。困ったものです。
今現在では、個性が叫ばれて、それが社会に必要とされているのに、日本の教育だけは100年前から変わらないのです。個性を育てるには、その子供が本当に好きになって夢中になれるように教育する事が大切なのです。そのための芦塚メトードのカリキュラムを図にして見ました。
カリキュラム
音楽嫌いの子供が入会したら、どうして音楽嫌いになったかを過去に遡って探ります。
原因の多くは他の教室の先生方が厳しかったか、家で子供に「練習をしろ。」と、がみがみ言ったかが殆どです。練習をさせる時間の問題もあったかもしれません。
まずステップⅠは子供たちが教室に喜んで通って来るようにする事です。
根本の原因を取り除いて、教材なども一新して、子供たち自身が全く新しい気持ちで楽器に向かえるようにします。先生と生徒の相性やレッスン時間前後の生徒を誰にするかなども考えてクラス分けをします。(子供たちの他のお稽古ごとでうまくいかないことがままありますが、殆どの場合はお母様方が、他のお稽古の日にちをずらすなど工夫なさって、都合を付けていただいています。)レッスンがうまく軌道に乗り始めると、子供たちは、やっと先生を好きになってくれます。そうすると、やっと次に先生のいろいろな注意を聴いてくれるようになるのです。(義務的ではなく心から)
次のステップⅡはいよいよ家庭学習です。
「週に一回、五分でもよいから。」こういう時期はありませんでしたか?レッスンノートやシールを使って、少しずつ少しずつ「今週は三日も練習してくれた。」とか、「三十分も練習が出来た。」とか、そういう事に一喜一憂した時期はありませんでしたか。子供たちにとって御家庭の協力が最も大切な時期でもありましたね。夏休みや冬休み、お母様のちょっとした気の緩みでせっかく身についたと思った家庭練習の習慣もくずれてしまい、先生に叱られてしまい、また始めからやり直しをしなければいけなかった時期、しかし親と子のふれあいとしての、一番生き生き出来る時期でもあります。
ステップⅢに入った子供たちは教室の他の子供たちや親達の憧れでもあります。
毎日自分から喜んで練習をするし、日曜日や休日ともなるといそいそとオーケストラ練習や室内楽練習に出かけてしまいます。お父さんはたまの日曜日ぐらい子供たちと遊びたいと思うのに子供はかまってくれません。ここらあたりから「子供たちは、学んでいるのではなく、遊んでいるのではないか」という錯覚が生まれてきます。芦塚メソードの基本概念は「好きである。」ということです。「好き」だから夢中になれます。「夢中」は集中力を育てます。「集中力」が育つと持続力がつきます。「好き」や「集中力」は『楽しい』によって導き出されるのです。どんな科学者でも芸術家でも「好き」でなければその道を究めることはないでしょう。日本に本当の意味での芸術家が育たない訳はそこにあります。
ステップⅢではもう一つ、大切な勉強があります。それは「本当の楽しさ」を学ぶことです。これを私達は「アチーブする事の喜び」と呼びます。しかし間違えてはならないことは、「アチーブする事」とは『達成』するということではないのです。つまり芸術には『達成』と言う言葉はないからです。バイエルでも、ザイツのコンチェルトでも、アプローチするレベルを変えたならば、とてつもなく難しい曲となるからです。私達の教室では上級者には、一度勉強した曲を2度、3度と再びまたレベルを上げてアプローチさせます。これはとてもよい練習になります。
ステップⅣからは上級者になります。
「音楽が楽しい-って誰が言ったの?」
音楽は、自己との戦いの場となります。自分の中にある甘えやいい加減さが、自分の演奏する音楽の障害となって、自分の前に立ち塞がります。「これは、もしかしたら自分の能力の限界ではないだろうか?」こういった疑いが脳裏をかすめます。「しかし、人間の能力には限界などないのだ。限界を感じたら、感じる前の地点から、勉強しなおせばよいのだ。」と思い直し、再び勇気を奮って現実に立ち向かいます。しかしステップⅣはプロの世界です。プロなら乗り越えられるでしょう。乗り越えられなければ音楽を自分の良き友として、楽しくやっていけばよいのです。
ステップⅣの話を続けることは今回のお話の趣旨からははみ出してしまいますので、止めておきましょう。
好きになることが本当の意味で上手になるということは、「プロになるには」という小冊子に詳しく書いてありますので参考になさってください。
「下手の横好き」という諺もありますが、確かに好きなだけで何の努力もなく、またシステムもなければそれは伸びません。上のグラフではstep5で創造力となっていますが、創造力とは思いつきではないのです。システムがなければ、ただの思いつきにしかならないのです。それを一発屋と言います。人生一回ぐらいは何らかの思い付きはあるものですが、それを創造的な人間とは言わないのです。
私の知り合いにもピアノが好きで好きでたまらない、しかも練習も大好き、という人がいます。
プロを目指して研鑽を積み重ねています。(本人はプロのピアニストのつもりらしいのですが)年に一~二回、大きなホールで演奏会を続けています。
しかし練習しているところを見ると自己陶酔型で、聞く人には何も伝わって来ないのです。
彼女の先生も有名なピアニストですが、やはり陶酔型の先生で、ピアノの指導に関してはいま一つです。
自称Mozart弾きなのですが、Mozartの奏法に関しての論理的な知識はありません。その先生の先生が、またその先生が指導した通りに弾いているにしかすぎません。
それでは、ある程度までしか上手くはなりません。
日本の誤った音楽教育
技術に関しては、私のバイエル研究やヴァイオリン奏法、チェンバロ奏法の手引き等沢山の著作があり、先生方はそれぞれの分野を専門に応じて読破し研究しなければなりません。
それらのカリキュラムを説明することは専門的すぎるし、ここでは無駄なことなので省き、日本の音楽教育のどこが変か?という事をお話することにします。
音楽と真剣に向かい合って勉強している子供達の大半は、勿論音楽の専門家を将来の夢としている子供達でしょう。もしも指導する側が教える内容に欠陥を持っているとすれば、(そのレッスンを受ける側が熱心であればあるほど)その影響は顕著に表れることとなります。
「それを知る機会を持って見たい」と思われるならば、そういった子供達の演奏に触れてみることです。しかし一般の方が音楽を専門とする子供達の演奏に触れたり、また一日を音楽で明け暮れている人達の日常生活を知る機会は(そういった方をお知り合いに持たない限り)余程のことが無い限り現実的にはないと思います。
しかし例外的に(音楽大学どころではなく、プロを目指している子供達の)演奏を聴くことが出来る場所があります。
それはコンクールです。但し、同じコンクールといっても地域主催のものや、企業が主催している怪しげなものもありますが、全国規模で開催されているコンクールであれば「水準はしっかりしている」と考えて良いでしょう。
当然そこでは、子供達の音楽に対しての熱心さや真剣さは、目を見張るものがあります。
「子供とはこんなに一途に、一生懸命になれるものか?!」
しかし、客観的に観察していると(見慣れてくると)、子供の演奏でもの足りないものや、未完成で出来ていないものなどが見えてきます。そして、間違えて教えられたことなども!
その中でも多くの先生方が(日本人特有の誤りとして)犯している間違えた指導法について、少しお話ししていきます。
(下記のお話は私がまだ音楽大学生であった頃から、ちょうど留学を終えて日本に帰ってきた頃のお話です。私が音楽教室を立ち上げて、子供達をコンクールに出すようになった頃は、有名な子供の音楽コンクールではそういった誤った古いコンクールの審査基準はすっかり影を潜めてしまいました。正しいtempoで正しいarticulationや揺らしが出来るか否かが審査の基準に代わってまいりました。ですから、ここでこの文章を掲載するのは場違いなのですが、一応参考までに載せておきます。)
[日本のコンクールを聴きにいくと、ほとんどの子供達がものすごい速いテンポで難しい曲を弾いています。叉、賞をとれる子はほとんど100%と言っていいくらい速いテンポで弾きまくっていた子です。確かに楽曲には、その曲に合ったテンポというものがあり、「この曲はこのテンポで弾かれるべきである」という1つの基準があります。ですが、現在勉強中である学生や子供たちが自分の音も聞き取れないまま、音程も合っている音が1つもないまま、荒れた聞き苦しい音のまま、微妙なリズムの狂いにも気付かないままに、とにかくテンポだけをやみくもに速く弾き、何となくそれに近い音楽を奏でているのを目の当たりにしたとき、「この子の将来はいったいどうなってしまうのだろう」と哀れみさえ感じてしまいます。更にひどいのは、日本の音楽コンクールではそういった演奏が「良し」とされ、賞をとってしまうことすらあるということです。賞を貰った子供は「これで良いのだ」と思い込み、更にいい加減な練習を積み重ね、素早く動く指を鍛えていきます。
そこに「音を緻密に聴く」力が養われないままに…‥。
そのように育ってきた子供は、コンクールで賞をとることはできても、将来必ず行き詰まってしまいます。]
プロの演奏家(教育者も然り)は、自分の音を冷静に聞き取り、鋭く批判し、理想の音を求め、魅力ある音楽を形成していく能力が絶対的に必要です。どんなに指が速く動き、どんなに技巧をみせつけても、一般の聴衆はそんなものを求めていないのですから。聴く人の心を豊かにし、くじけそうな人を励まし、悲しみにくれている人も楽しくさせる…・それが音楽のもつ役割であり、決して弾く人の技術を自慢する為のものであってはならないのです。
ヨーロッパの音楽大学では、速いテンポで弾けてもそれが本人にコントロールされていない演奏であったり、正確に聞き取れていなかったりすれば、「不可解な音」として忌み嫌われます。
日本の音楽教育の中で育ち、チャイコフスキーコンクールで優勝した諏訪内晶子さんも、自分では完璧に音程がとれているつもりでいたのに、世界的に著名な演奏家であるアイザック・スターン先生からは「あなたは音程が悪い」と指摘されたことについて、日本人が持つニュートラルな音程感覚が、ヨーロッパ人にとって実に不可解なものであるということに後で気付いたことを著書の中で語っていました。
結局その反省から諏訪内さんは基礎から勉強しなおすことを決めてアメリカのジュリアード音楽院に留学します。
私の弟子である金子賢治君も、留学したときのヨーロッパの先生が感じる日本人生徒の印象をこう言っています。「日本人は実によく練習し、難しい曲を巧みにこなす。だが、良い音、良い音楽を作るには姿勢などの基本が大切。その部分を教えようとするとたちまち理解不能になって、言うことを聞かなくなってしまう。」ほとんどの日本人留学生は、すぐに先生から諦められ見捨てられてしまい、「とてもお上手です。」の一言でレッスンが終わってしまうのだそうです。
このような問題にはやはり日本の音楽教育に原因があります。
ここではそのうちの2つについてお話したいと思います。
1つは、先にも記しました「テンポ」の問題です。「テンポ」に対する教育は日本の教育では実にぞんざいに扱われています。音大の先生ですら「音楽に対する感受性を妨げる」として、メトロノームをレッスン室に置いてすらいない先生もいらっしゃるようです。テンポの教育にはメトロノームは必要不可欠なものですが、所詮メトロノームとは道具にしか過ぎないので、正しい使い方を知らなければやはり「感受性を妨げるもの」でしかないかもしれません。メトロノームの正しい使い方については、別冊の「メトロノームの使い方」で詳しく述べておりますので、ここでは詳しくお話することはやめておきましょう。
速すぎるテンポ
もし弾けたとしても、コントロールの取れていない、指だけで弾いているtempo
目標テンポ
実際のその曲のtempo(或いは発表会等での目標テンポ)
臨界テンポ
Tempoを上げて行って、コントロールを失う直前の一点のtempo
練習テンポ
臨界tempoよりも遅く、安定してコントロールの取れるtempo
遅すぎるテンポ
遅すぎるtempoは二つのある。一つは単に技術が足りなくって、遅くしか弾けないという理由によるtempo
もう一つは、シャドー練習と呼ばれる確実性を高めるための練習である。
前述のように「自分の音を正しく聞き取れず、間違った音程のまま弾きまくっていても気付かない」 ような生徒は、その原因が音程その物であることよりも、むしろテンポの教育に無頓着な日本の音楽教育が育てているに他なりません。
芦塚メソードでは「テンポが遅いのは許せるが、音を外しているのは許せない。」ということが常識ですが、多くの日本の先生は「テンポが遅いのは許せないが音を外しているのは許せる。」というのが常識のようです。
(それはとりもなおさず、先生も生徒も、演奏の速度が速すぎるので一つ一つの音を聞き取っていないということです。)
従来の教育では、仮にスキップ練習や分解練習などの高度な練習をさせる先生がいたとしても、的確なテンポを上げるための練習法を指導できる先生はみたことがありません。
ただ「もっと速く!」と言うだけで、生徒達は単調な練習の積み上げと、涙ぐましい練習の量によってのみ、目標のtempoに到達する事が出来るようになるのです。
しかし、設定された目標のtempoが非常に速い場合には、意識が伴わない指だけの演奏がいまだに、コンクールや音大生の演奏会でも聞かれます。
そういった、あてずっぽうな無意味な練習を積み重ねていくと言う事よりも、より的確に、生徒達が目標のテンポに到達出来るように、子供達がtempoを上げていくときに練習しなければならない絶対的な「ある特別なテンポ」が存在していることを私は見つけました。
そのテンポの事を「臨界テンポ」と名付けました。
テンポには、「①速すぎて全く弾けないテンポ」と、「②練習量によって指だけで弾けてはいるが、意識的にコントロールされていないテンポ」と、「③意識的にしっかりとコントロールされて弾けるテンポ」があります。
③のtempoが、設定された目標のtempoである場合には、なんの問題もありませんが、それよりも速い①か②の場合の練習法です。
通常はスキップ練習や分解練習(バリエーション練習)で練習するか、非常に遅いtempoで練習します。
私はこの非常に遅いtempoで練習する事を、シャドー練習と呼んでいます。
シャドー練習はフォーメーションや型を作る時には非常に有効なのですが、passageを早く弾くための練習をする時には、tempoが速い場合と遅い場合では、使われる筋肉が違うので、直接、練習には有効にはなりません。早く指を動かす練習をする時にはある程度の速い速度で練習する事が大切です。
しかし①のtempoと、②のtempoで弾く事は、練習には害になることはあっても益になることはありません。
③の意識的にコントロールされているtempoを ②のtempoまであげていくと、Metronomで1,2ぐらいのメモリの差で意識的にコントロール出来ているtempoと意識が切れてしまうtempoがあります。 そのギリギリの②と③のtempoの境目の意識出来ているギリギリのtempoの事を「臨界テンポ」と名づけました。
多くの日本の音楽教育を受けている生徒は、この②のテンポで弾ければ、意識的にコントロールされていなくとも「弾けた」とされ、「もっと速いテンポで弾けるように」と先生から指導されます。
しかし、いくら指が動いていても、それが意識的にコントロールされていないものであれば「本当に弾けた」とは言えないのです。
学習者はこの「臨界テンポ」か、それとも「臨界のテンポが」不安であれば、それよりもう一歩遅いテンポで練習しなければなりません。
これが正しい「練習テンポ」です。
正しい練習tempoで練習するためには、まずその「臨界のtempo」を見つけ出さなければなりません。
ですからその臨界tempoを見つけ出すには、自分自身が指だけで弾いているのか、意識をちゃんと持って、一個一個の音を聞き分けた状態で演奏しているのかを自らが判断できなければなりませんので、その判断を生徒自らがする事は、とても難しく、私達の教室でも練習tempoを自分で探させる事は、上級者のみです。
自分で見つけられるようになるまでは「練習テンポ」を指定するのは先生の役目です。
「ここの部分はメトロノーム♩=84~92の間で練習すること」のように、具体的な数字で宿題を出します。
「練習テンポ」は遅すぎれば無駄な練習になり、速すぎれば雑な練習になってしまいます。
また困った事に、その時の臨界tempoは、その時の学習者の精神状態で毎日変わります。
そのパッセージの、その生徒の「臨界テンポ」は、たった1目盛り違っても突然弾けなくなってしまう程、はっきりと存在していますが、その存在を知る人は、まず居ません。
何故「・・・まずいません。」 と、断言できるのでしょうか?
それは、先程もお話ししましたように、日本の多くの音楽大学の先生方が、メトロノームを使用することを、「音楽的感性が損なわれる。」といって極端に忌み嫌うからなのです。
しかし、プロの世界では、練習や本番はMetronomのtempoで話をします。何小節目から何小節目まではMetronom幾つで、次の小節からはMetronom幾つで弾くと言う風に、細かく決めていきます。
Metronomが、もし一メモリ狂ったとしても、厳しく怒られてしまいます。
それがプロの世界です。
プロには曖昧と言う事はないのです。
このお話はあくまで、練習のときのtempoのお話です。
ちゃんと弾くためのtempoの設定はまた別のお話になります。
ここでは触れませんが、MenuettならばMenuettが踊れるtempo[3]でなければならないし、マズルカやPolonaiseならば(例え子供が弾くとしても、)そのtempoで弾けなければなりません。
それも絶対的なtempoの一つです。
コンクールの功罪
当教室でコンクールを受けさせる場合は、賞を取ることだけを目的とせず、本人の勉強の過程の中での一つの演奏の場として受けさせます。
賞を取ることだけを目的にすれば、何も考えずとにかく速いテンポでかっこよく弾きまくらせれば良いだけですから、教える方も習う方もこんなに楽なことはありません。
「この子はコンクールで賞をとれたら音楽をやめさせます。」ということでしたらそれも良いかもしれませんが、ただ賞をとるだけに目が向いてしまった生徒は、将来プロとして舞台に立てることはないと思った方が良いでしょう。それよりも堅実的に勉強の過程としてコンクールをとらえた方が、コンクールを受けることも本人にとってプラスになっていくことでしょう。私たちが指導する場合、それがコンクールであっても発表会であっても、その子供の過去、現在、未来を見据えた上で、「今この子はこのテンポで弾かせるべきだ」という確信の上で弾かせます。素人さんの目からはそれが逆にたどたどしく見えたり、「うちの子はもっと速く弾けるのに」と不満を感じてしまう人もいるようです。ですが、教育は20年にも及ぶ壮大なプロジェクトです。今をかっこよく型だけ作ることよりも、将来の伸びを見越した上でのテンポ設定の方がより堅実的と言えるのではないでしょうか。
以前、コンクールを受けた生徒さんがいました。最初は親も子も「賞をとるよりも勉強の過程として受けたい。」と、コンクールを一つの目標として頑張っていました。ところが回を重ねるうちに、「何であんなきたない音で弾きまくっている人が賞をとれるのだろう。」と、コンクールに疑問を持ち始め、それがいつのまにか「賞をとるには速いテンポでひきまくらなければだめだ。」という様に変わってきてしまいました。
子供は自分自身が音楽を勉強している立場だから、「ただ速く弾けば良いというものではない。」ということは分かっていても、親御さんは「あのように速く弾きまくれば賞がとれるのに。」と子供に要求するようになりました。努力を積み重ねなければならない子供側にとって、親の「賞をとれ。(テンポを上げて弾け。)」という要求は、「楽な方に逃げたい。」というマイナス要因を引っ張る絶大な効力を持ってしまいます。
何も努力せずテンポだけ速く弾いてしまえば確かに賞はとれてしまうのですから。
その子は、もう少しで確かな音程できれいな音色で、しかも速いテンポでも弾けるようになるところまで上達していましたが、その最後の一歩がやはり乗り越えられなかったようです。
留学を希望していたその生徒は、若手の有名な先生に替わりましたが、その先生白身が(どちらかというと)やみくもに速く弾きまくる先生で、当然レッスンもそのままで生徒も速く弾きまくり、その結果、もう少しで身に付くところまで来ていた美しい音色や正確な音程も崩れてしまいました。(育てるには大変な時間と努力が必要ですが、壊すのはほんの一瞬でいいのです。)彼女の夢であった留学も、その希望をかなえるにはホッホシューレ(音楽大学)ではなく、コンセルバトアール(音楽高校)にランクを落とさなければならなくなってしまいました。
臨界テンポの意識がなく、ただ指にまかせて速く弾くことに一度慣れてしまったら、素人目には上手くなったように聞こえますし、本人の練習も精神的には非常に楽になって、当然練習時間も、時間だけは増えていきます。何となく以前よりは勉強しているような気もします。
しかしそれでは、音楽の本場であるヨーロッパでは、何の評価も受けることは出来ないのです。基礎からのやり直しをもう一度徹底的に、求められてしまったのです。
真似るということ
2つ目の問題点は日本の文化や伝統についてのお話から致します。
その典型的な例は「雅楽」ですが、「雅楽」はおとなりの中国や韓国から伝来した音楽なのです。
実に興味深いことは、発祥地である中国や韓国ではすでに「雅楽」はすたれ、その曲すら存在していなのに対し、その文化を受け継いだ日本では、5世紀ごろから現代まで何の変化も遂げずにそのままの形で残っているということです。
「伝統を重んじ、そのままの文化を子孫に受け継ぐ」といった日本人の体制は、古来の文化を伝来する上で非常に大切なものであると言えます。そのおかげで私たちは日本古来の(或いは中国古来の)素晴らしい文化を今でも堪能できるのですから。
琴や三味線などを学ぶ場合も、口伝で伝えられ、弟子は師匠の技術だけに留まらず、その精神や文化に対する取り組み方まで寸分たがわず真似していくことが、優れた奏者の条件となるのです。当然そこには本人の個性を主張することはタブーとされるわけです。日本の「家元制度」には、○○流○○流というふうに流派がありますが、それは「うちがオリジナルですよ。」という意味があります。より源流に近ければ近いほど価値があるのです。「雅楽」や三味線、お琴のような民族音楽というジャンルに於いては、日本人は優れた業績を残していることはまざれもない事実です。
ですが、ヨーロッパの芸術とは、一個の人間がその時の時代背景や人々の感性などを反映させ生み出されたいわば「個性の文化」です。「理論を理解した上でいかに自分の個性を生かせるか」それがヨーロッパ芸術を学ぶ上での最大のポイントとなるのです。
日本の「民族が残した文化遺産をいかに忠実に伝承するか」という文化とは正反対の文化であると言えます。
クラッシック音楽を演奏する上では、セオリーとなる解釈を守りながらも、その中にインタープリデーション(解釈)の違いや個性の違いを打ち出していかなければその芸術的評価は受けることが出来ません。日本人の「口伝による指導法」は伝統を確実に伝来していく上では優れた資質を持っていますが、それはヨーロッパ音楽を学ぶ上では大きなマイナス要因となってくるのです。
この間題は音楽や芸術などの、文化に関することだけに留まらず、同じようなことが日本人のビジネスに於いても言えます。日本国内だけで商売が成り立っていた時代とは違い、今はベンチャービジネスが要求される時代です。ベンチャービジネス時代とは、言い方を変えれば「個性の時代」です。アメリカやヨーロッパ諸国の人達には、もともとそういった基本概念が根ざしていますが、日本人にはそれが極端に欠けているのです。グローバルな国際社会の中の一国として、国際的なビジネスを要求される時代にありながら、横並び体質,官僚主義,ことなかれ主義,終身雇用制などなど…・。往来のそういったスタイルでは通用しなくなってきているのに、未だに日本古来の体制を変えようとしない現状が続いています。そして、「猿まね国民日本人」とか「生きた化石の国日本」などのように外国から馬鹿にされてしまいます。
蛇足
個性的であることを主張しようとする現代の若者たちがいます。
個性を主張するために皆 一様に、顔を黒く塗り、金髪に髪を染め、上げ底サンダルを履いています。私には3人いると3人とも皆同じ顔に見えて、誰が誰なのか、皆目分からないのですか・・・これも歳でしょうか?
(個性の時代と言われ、個性を自由にアピール出来るはずの若者達ですが、それをどの様に払って良いのか分からずに、結局「右に倣えをしてしまう」というお話です。)
日本人らしいといえば、全く日本人らしい。
余談はさておいて、日本の留学生達が留学先の先生に諦められてしまうのも、そういったことが原因にあるようです。日本人は、ヨーロッパの先生から習ったことを如何にして忠実に受け継ぐかと考えます。そして先生が言った通りに弾けるよう、一生懸命努力します。ところが、その先生が如何なる理論に基づいて主義主張をしているのかといった理解は全くしようとしないのです。叉、「その作曲家かこのような考えに基づいて作曲しているから、私はこのように表現したい。」といった着眼は全くなされていないのです。そういった理論の不足、理解の不足が、先生と生徒の行き違いを産み、先生は「日本人留学生は、『こう弾きたい』という気持ちが無いから、教えてもしょうがない。魂が無い。お人形のようだ。」生徒は「先生は何も教えてくれない。」ということになってしまうのです。
又、日本の音楽大学では、「こう弾けばいいのよ!」と、まるで三味線の口伝のようにかっこよく真似することだけを教わります。またある大手のmethodeでは、CDの演奏を何度でも聞いて、そのまま真似をして弾くように教育されます。そして「なぜそう弾くのか」という質問には答えることができる先生がいません。そんなことを質問しようものなら烈火のごとく怒りだすという有り様です。ヨーロッパ音楽を教えながら、何ら300年前の三味線の教え方と変わらないのです。しかし、私がヨーロッパで学んだときに一番楽しかったことは、インタープリテーションに対して教授と激論を交わしているときでした。本気でぶつかり合いながら、教授の方も理論でぶつかってくる弟子を喜び、楽しんでいたのです。勿論、その為にはお互いに十分な理論と知識と分析力が必要なのですが… …。
ヨーロッパの芸術は、前にも述べたように進化を遂げる個性の文化なのです。古いものをそのままの形で受け継ぐといった考え方は存在しませんでした。その為、日本の「雅楽」よりはまだ新しい時代に栄えた「バロック音楽」ですら、長い年月の間忘れ去られていました。ようやく近年になってバロック音楽を復興しようという活動が始まったのです。
現在復興しているバロック音楽は、発掘された楽譜や資料を基に復元しているものであり、飽くまで「仮説」でしかないのです。本当に現実的にはどのように演奏されていたかは、タイムマシンでも出来ない限りおそらく永遠に聴くことはできないでしょう。
又、個性を尊重したロマン派ではなく、数学的調和の美学を尊重したバロック時代の音楽でも、通奏低音の即興演奏など、演奏者の個性を表現するスタイルは常に存在していました。一般的に「堅い」と言われているバロック音楽でさえも、日本の伝承音楽とは正反対の性質を持っているのです。
ヨーロッパの音楽を学ぶ私たち日本人としては、決して口伝に代表されるような日本の文化伝来の体制をヨーロッパ音楽の指導に当てはめてはいけないのです。個性が育たないのは、個性を否定し伝統を守る日本人の本質が、国際社会の現在に及んでもまだ頑に守り続けようとしている教育体制に問題があるからなのです。
やみくも練習
音楽大学をめざす生徒達の大半の練習方法は、闇雲に曲を繰り返して弾く方法です。
少し良くてもスキップ練習で曲を通すぐらいです。しかも、受験生たちはその単調な練習方法で毎日6時間から8時間も練習します。大変な忍耐力です。
私も大学受験の4ヵ月前から毎日朝の9時から夜の9時まで、食事はおろかお茶一杯飲まずにピアノの練習に励み、それから専門教科(主課)の作曲の勉強の毎日でした。目の前に受験という目標がぶら下がっていたから出来たことではありますが。
音楽大学時代も所詮闇雲勉強のスタイルからは抜け出せませんでした。楽に勉強ができる人と自分を比較して、「能力と才能の違いかな。」と半ば諦めていました。ミュンヘンの国立音楽大学に学んで、初めて「能力と才能の違い」などというものではなく、正しい勉強の仕方というのがあるということに気付きました。それから勉強をすることが辛いことではなく楽しいことで、学ぶということが楽なことだと言うことを、身を持って理解できるようになったと思います。