徹底的に無駄を省き、効率を上げるということには、別の難しさがあります。そのためのシステム作りが必要だからです。何か問題が起こったら、その問題点を合理的に解き明かし、それを解決するためのシステムを作る。(工夫をする。)それからシステムに従って行動していく。一見無駄で回りくどいようにも見えますが、問題(テーマ)が困難で複雑になればなるほど、すっきりと効率よく解けます。
その点日本の問題(テーマ)の解き方は、感情的(情緒的)で根性主義、「玉も数打ちゃそのうち当たるだろう。」といった場当たり的な方式といえます。
ほつれた糸をほどくのに、ぐちゃぐちゃと回しながら、自然に糸がほどけてくるのを待っているのに似ています。
芦塚メソードが貫いている姿勢は、現在日本で行われている誤った教育(音楽教育)から子供達を救い出し、教育本来の正しい姿に是正することなのです。
理論と実際について
ある時児童心理の専門の先生を教室にお呼びした事があります。教育者の立場で何らかの心理学的なアドバイスでもいただければと思ったのですか、子供が誰一人としてその先生のそばに寄りつかないのです。児童心理の専門家ではあるかもしれませんが、子供たちの心理を掴む教育者ではないということなのです。心理学などの先生方がよくおっしゃる事は「児童心理学など勉強したことを、子供たちに応用してはいけない。」と言うことです。
これは直接、その親本人から聞いたお話ですが、ある方が「親業」に熱中して、先生に付いて勉強をされていました。半年程経った頃から子供の様子が少しおかしくなってきて、先生に相談すると、「ひょっとして『親業』で子供を教育していませんか。」と聞かれました。
「そうですが。」と答えると先生が大変御立腹なさって「親業というのは親の勉強の為にあるので、それで子供を教育しては絶対にいけません。」と怒られたそうです。それで、水をかけられたように熱が冷めて、普通の家庭の教育に戻ったら、子供のチックなども治って、すっかり普通に戻ったそうです。
それは「あくまで、理論は理論であって現実ではない。」という考え方に根ざしています。
それに反して私達の芦塚メソードは、あくまで色々な方々の体験に基づいた、現実から導き出された方法論であり、理論空論の世界ではありません。
ですから、御父兄の方々にもその人の将来の目的に応じては、かなり厳しい要求をする事もあります。
教育は二十年にも及ぶ、途轍も無いプロジェクトです。けして今日明日で結論を出してよいという問題ではないのです。気長に、のんびりと、楽しく、今日出来ないことは、明日出来るようになればよいのです。
私と心理学との出会い
心理学の本を読み始めるきっかけとなったのは高校生の時、担任の英語の先生が大学で哲学の専攻だったからです。「三太郎の日記」や、サルトルなどの哲学書やフロイドの本を紹介されて、本屋で買い込んできては読み漁ったものです。特にフロイドにはすっかりはまってしまい、フロイド全集を買ってくる程でした。しかし大学時代にはむしろ仏教哲学の虜になって、その手の本を読んでいました。しかし、それは所詮趣味の世界の出来事です。
真面目に真剣に教育学の本や心理学の本を読んだのはもう少し歳を取ってからになります。
そのことについては、私にとっては苦い思い出があります。
私が生徒を指導し始めたのは、音楽大学在学中からのことです。但し、その頃私が指導していた生徒達は、皆、音楽大学の受験生でしたので、生徒の音楽への情熱についての相談(平たく言えば練習量や質、目的のことですが)や教育相談などというものを扱ったことはありませんでした。
先程もお話したように、受験生にはその手の悩みはありません。
私が初めて子供たちを指導したのは、ドイツ留学から帰った翌年のことでした。音楽学校の子供科に主任待遇でということで(給料も主任よりも幾分上乗せしてくれるからという条件で)、12~3名の子供たちを任されることになりました。その中に中学一年の可愛い女の子がいました。ピアノの技術もまあまあでした。お母様との面談がありました。もう初老のお母様で、「長い間子供が出来なかった事、やっと子供が生まれた時に御主人が亡くなられた事、自分ももう年なのだから、いつでも子供が一人立ち出来るよう手に職を与えてあげたい」 ということなどを切々と話されました。
私もすっかり、そのつもりになって、その生徒を一生懸命教えましたが、半年ぐらいたって突然親が「ピアノをやめさせます。」といってきました。
そしてその時初めて、学長から、この母親が学長に対して「私にこういう風に教育して欲しい。」と話していた話の内容と、まったく正反対の事を学長に言っていたという事を、聞かされてビックリしてしまいました。しかもこの半年の間、私に対しての不平不満を、いろいろと学長には相談していたのに、学長からは私に対して「その親が私のレッスンの事についていろいろ言っている。」ということについて、何一つの連絡もなかったのです。
他の生徒たちの教育は結構うまくいったのですが、それでその学校に勤める気力をなくして一年だけでその学校を辞めてしまいました。
その後改めてこの親子のことをどういうふうに理解したらよいのか、ということで、色々な心理学教育学の本など紐解いてみましたが、当時にはそういう事例を研究した書物はありませんでした。
その時はまだ〔過保護とか母原病とかの言葉が出来る前の時代でした。〕 僅かにアドラーの著書の中に、よく似た事例を見出す事が出来るのですが、現実の問題には遠く及びませんでした。
それから長年の教育対しての研究が始まったといえます。
そしてもちろん今は、この母親の気持を理解し解く事が出来ます。(世界中の心理学の本の中にはとうとう回答を見出せなかったのですが)
人間には大義名分に従った言葉と、潜在意識による言葉とがあります。(本音とは少し違います。本音の場合は、本人が言っていることを意識出来ますが、このケースでは本人すら自分の感情が理解出来ていないのです。)
この母親の潜在意識はこう言ったのです。
「この子は私のたった一人の子供なのだから、大人になっても決して自立などしないで私の側にいて欲しい。また先生もそういう風に自立しないように教育して欲しい。」
もしも母親に「あなたが考えていることは・・・・。」と話したとしても、母親は「私は絶対にそんな事は思っていない。」と否定するでしょう。
それは本当にそう思っていないからなのです。
潜在意識とは本当に不可思議なものです。
私自身の考えとしては、もし母親が「子供をいつまでも自立をさせたくない。」と望み、子供たちも「自立したくない。」と望むのでしたら、それはそれでよいのではないかと考えます。
しかし、母親の心の中には、世間に対して何かしら後ろめたい気持ちが働いたのでしょうし、現実的に真面目に子供の将来のことも考えています。
しかし、そういった「子供の将来のことを心配する」理性的な気持ちとは裏腹に、潜在意識は子供に求めています。
「いつまでも私の子供でいて欲しい。自立なんかしないで私の物であって欲しい。」
親は先に死ぬのだから・・・なんて事は言ってはいけません。それも親の愛情の一つなのです。
そして私の心にほろ苦さと、むなしさが残っていきます。
思春期症候群
思春期シンドローム、・・・この間題も学問的には何ら回答がなされていません。
こういう事実があることは、医者も教育者も心理学者も朧気ながら理解はしています。
しかし、医者にとってはこの間題は心理学や教育学の分野に寄りすぎています。
心理学者にとってはこの問題はあまりにも、医学的で教育学的でしょう。
教育者にとっては・・・・。
という風に三つの分野の狭間で、忘れ去られてきました。
この問題も大変重要な問題ですので私の教育心理論文の中に独立した一冊の論文として書かれています。
現在は、非公開の論文として、教室に保管されていますが、後日また公開する事もあるかと思います。
此処では、簡単に解説をしておきます。
小学校六年生ぐらいから中学生、高校の一年生ぐらいにかけてのある時期には、女の子達は心身ともに不安定な時期となります。体も何となくだるく、かといって病気というほどでもなく、心も何となく全てに不安を感じ、訳も分からぬ事で(自分白身にとっても)悩んだりします。いままで勤勉でいた自分が信じられないぐらい、何もしたくなくなってしまいます。これは一人一人に個人差があって、非常に強く出る子供たちと、殆ど分からないでその時期を済ましてしまう子供たちがいます。一言でいうと、一生懸命生きている子供たち程、その表れ方が大きい・・・・ということです。
その頃の子供たちにとって、「勉強しなければ、ピアノを習わせませんよ。」ということは、“渡りに船”となります。小学生の時のような、勤勉な子供でなくなっていることに親だけが気付いていないのです。
親の要求が子供の努力の限界を越えたとき
別に年齢に関係が無くても、子供の辛抱の限界を越したり、「~しなさい。」という親の要求の比重が、子供の「音楽を続けていきたい。」という希望の価値観の比重を越えた場合には、〔親の要求による「辛さ」が、私達が作り出した「音楽の楽しさ」を越えた場合〕、どんなに音楽に熱心な子供でも、〔親に対する仕返しとして〕音楽を学ぶことをやめてしまいます。
これらのケースでは、後日親が譲歩して、「趣味でもよいから」とか「勉強しなくてもよいから」とか言って音楽の勉強を再び始めるように説得しても、「どうして私が音楽をやめるまえに譲歩してくれなかったのか。」と反朴されてしまいます。
受験と音楽
子供たちが第三ステップの段階に入ると、成績が上がってきます。私達の音楽のカリキュラムの結果として集中力や記憶力、理解力などが身に付いてきたということを理解できない親の場合には、本来的に子供の能力が高く、その結果として成績がいいように錯覚します。「こんなに成績がいいのなら、塾にやろうか。」「もう少しよい中学(高校)を狙えるのではないか。」それから、「オーケストラや室内楽に行くのは止めて、塾に行きなさい。」「受験前の半年ぐらいは、レッスンを休みなさい。」しかし、現実的にはどうでしょうか。塾に入った二~三ケ月はトップクラスの成績を取ります。しかしその後は急激に成績が落ち始めます。
オケや室内楽で身に付いていた集中力等が練習が無くなることによって、低下していくからです。
反対に受験に成功して目的の高校や目的より随分偏差値の高い高校に入学出来た生徒達の殆どは、受験直前の半年も全く普段同様にレッスンに通い、発表会に参加しています。
私達が心配して、「受験前の一週間ぐらい休んだら。」というと、「先生、もう試験は終わりました。」という感じです。それは平常のペース(平常心)ということです。ヴァイオリンやピアノのレッスンを休んでまで勉強しても、そんなに集中力が持続するわけではありません。受験に成功する子供達は集中力を維持するために、(ヴァイオリンやピアノの練習を通して)上手な息抜きをしています。
随分以前のことになりますが、7月頃に国文の浪人生が息抜きにヴァイオリンを習いたいということで江古田の教室に来ました。10月頃までの約束でホーマンの教則本から始めました。ところが10月頃になると毎週受験したい大学が替わります。揚げ句の果てに「音楽大学はどうですか。」などと言い出しました。受験ノイローゼです。このままではまた受験に失敗してしまうということで、目標は最初の大学にして、全教科の自宅での勉強の時間割りを一緒に作ってあげました。一般教科では英語や国語などの暗記系の教科が絶対に隣合わないようにして(英語の次には数学、のように)各教科の間には10分間の気分直し(早い時間はヴァイオリンの練習、遅い時間には下宿の回りをマラソン)と言う風にして能率のアップを計りました。そうして勉強のペースを掴む事が出来、受験の当日を迎える事が出来ました。彼の入学試験の当日には、私の友人の高校でオーケストラの賛助出演として、彼はビオラの初デビューをすることになり、入学試験の会場にヴァイオリンとビオラを担いでいきました。「先生、入試会場では回りから随分変な眼で見られましたよ。」「そりゃそうだな。」
私の生徒で女子大講師の先生の弟さんも彼と同じ歳で、受験でした。
「芦塚先生、そんなことしていたら、彼は今年も落ちてしまいますよ。私の弟はなにもさせないで、勉強だけに専念させてますよ。」
全く我々のやっていることが理解できない、信じられないといったふうです。結果は弟さんは受験日が近づくとノイローゼになってしまい、その年も受験に失敗してしまいました。
勿論、彼はめでたく合格しました。
彼は「ヴァイオリンやビオラの初デビューや受験勉強、マラソンなどで眼が回る忙しさで、とてもノイローゼにな
る暇なんかありませんでした。」「最初の計画通りに、10月まででヴァイオリンを止めて、受験勉強に専念していたら、多分今年も駄目だったと思います。」と私に言ってくれました。今は彼は故郷で、念願の中学の先生をしています。
子供の頃からチェロを勉強していたもう一人の男の子がいます。
彼は受験だからといって、チェロの勉強を止める気は更々なかったのですが、お父さんが「受験勉強のじゃまだ。」といって強制的に止めさせてしまいました。
結果は不合格でした。
本人は入学試験の合格発表後すぐに「チェロをやってなかったから入試に失放したのだ。」と言って、お父さんには内緒で(勿論お母様は御存知ですが)チェロのレッスンに通い始めました。
勿論、受験中も休まずに・・・です。
「折角浪人するのだから。」と言って、目標の大学も最初よりもレベルを上げて受験に望み、次の年にはめでたく合格しました。彼も現在は社会人で、もう二人の子供の父親です。
「塾に行くのが嫌だから。」と教室にバイオリンを置きっぱなしにして、毎日塾に行く代わりに教室で練習をしている生徒もいました。「絶対に落ちるのが嫌だから。」と目的の高校を第二志望にしたのですが、試験結果成績では第一志望校でも楽々通ったということで、「私、第一志望で出願すればよかったかなぁ。」というので、「いや一般大学を受験するのでなければ、それでよいのだよ。」と言っておきました。
この手の話は、限がありませんので、この辺までにしておきます。
語学教育
日本の小、中学高校の勉強とは、暗記が殆どです。ここにも前述したような日本独自の「化石体質」が表れています。まる暗記、まる写し・・・・・。日本の画一的教育は受験戦争と教育レベルの低下を生み出しました。ユネスコで主催される国際的学力テストでは、応用問題(考える事が要求される問題)に関して、日本の子供たちの水準が異常に低いということが指摘され、文部省も「いかにこの間題に対応すべきか。」深刻に苦慮しています。
学校の教科の中でも、最も丸暗記や丸写しの弊害が出にくいのは、英語でしょう。英語教育は国際社会の中で、実に幅広く行われています。私達も(昔は)中学から大学まで9年間も英語の授業を受けてきました。英単語を暗記したり、文法を勉強したり家庭学習の量も半端なものではありませんでした。しかし結果は、外人さんを目の前にして無残なものです。極一部の私立の学校を除いては、巷の会話教室にでも行かない限り、(学校教育だけでは)英語を話せるようにはなりません。
私のいた高校は受験高校でした。交換留学生の制度があって、高校にもアメリカから留学生が高校の授業にやってきました。ところが英語の成績が悪いのです。私達の高校生が70点80点取れるのに、40点、50点しか取れません。彼は、自分達のハイスクールでも「そんな難しい試験はない!」と言っていました。アメリカの高校生が出来ないような問題をやらせて、それで英字新聞が読めるわけでもないし、外人としゃべれるようになるわけでもないし、では、何のために英語の勉強をするのか、今更に疑問に感じてしまいました。
以前テレビのドキュメント番組で、アフリカや東南アジアの後進国の学校の(それも家に壁もなく屋根だけの、粗末な机があれば良い方で、土の上に直接座って、黒板が一つだけで授業をうけているような、)取材をしていました。
テレビを見て驚いたのは9才から12才ぐらいの子供達が、英語を学び始めて4ヶ月目から半年そこそこくらいで先生と話が出来るようになっていることです。現地の子供達は学校から帰ると両親の手伝いで予習や復習などをする時間は全く無いにも係わらず、英語を話せるようになっているのです。私達が習ってきたものは一体なんだったのだろう、と日本の英語教育についてあらためて疑問を感じてしまいました。
留学中に私は子供のピアノ曲を作ると言う、conceptの国際作曲コンクールで一位になりました。それで、実際に何人かのイタリアの天才少女達に演奏をさせてガラコンサートをすることになりました。
そのリハーサルの会場で私の曲を演奏する13才の北イタリアの可愛い少女に逢いました。
私の事を尊敬して、目を輝かせて私を見つめてくる女の子を前にして、私はイタリア語は出来ないし、どうやって会話したものかと途方にくれていると、その子はニコニコ笑いながら私にこう話しかけてきました。「英語で話しますか。フランス語ですか。ドイツ語でもかまいませんよ。」私はすっかり慌ててしまいました。「ド、ド、ドイツ語で話そうか!」
子供の傍にいたお母さんが、綺麗なドイツ語で「この子は普通に話せるので大丈夫ですよ。」と私に話しかけてきました。改めて「ヨーロッパは一つの国なんだ。」と実感させられました。
ちなみにドイツの大学生は普通に5~6ヵ国語は話せます。これはドイツの語学のカリキュラムにその理由があるのです。ヨーロッパの言葉は大きくギリシャ語系とラテン語系に分かれます。ギリシャ語から英語やドイツ語などが派生し、ラテン語からはフランス語やイタリア語スペイン語などが生み出されてきたのです。したがってこの二つの言語を徹底的に勉強することによって、ヨーロッパのいかなる国の言葉も楽に覚えることが出来るようになるのです。
ラテン語は中世ヨーロッパにおいては絶大な権力を持つキリスト教の教会の下で、公用語の役割を果たしてきました。また一般には国から国へと勉強のために渡り歩くマイスター修行の若者(学生)の共通言語として今日の英語のような役割も持っていたのです。
しかしキリスト教の衰退と共に、(権力が王や貴族達に移るに連れて)フランス語やその他の言葉に共通言語としての役割は移っていったのです。現在ではどこの国でも、いえ、キリスト教教会ですら(祈りの言葉として以外には)ラテン語は話されていないのです。どこの国でも使用されていない言葉を学ぶことは、一見無駄で不思議なことにも思われます
が、しかしその言葉を学校で学ぶことによって、いろいろな国の言葉の源流を知ることが出来るのです。
参考までに:
音楽の場合も、そういった源流を知る事によって、音の出し方や、音楽の作り方の基本を学びなおす事が出来ます。そのためにと言う事も含んで、私達の教室の先生達は、古楽器によるbaroqueの演奏活動をしています。古楽器の演奏が始まったのは、世界的には1990年代からですので、教室の先生達が勉強して演奏活動し始めたのも、同じ時期になり、最先端の活動になります。(それ以前のbaroqueの演奏は現代奏法によるbaroqueの演奏です。今皆さん達が聞いているbaroque音楽というのも、大半はそういった現代の演奏です。Bachをピアノで演奏するようなものですかね。)ヴァイオリンなどの音出しの仕方が、現代のヴァイオリンとは全く違います。しかし、本当はそういった演奏の延長線上に現代の奏法が来なければ正しいヴァイオリン奏法とはなりません。
外国語教育の遅れは教育制度だけではなく、日本が島国であることにも原因があるのかもしれませんが、しかし本当の意味で今日本の教育で一番遅れているのは何と数学なのです。(数学の応用問題に至っては、世界150番以下です。ユネスコに加盟している国は何カ国あると思われますか。)
数学などはグローバルな教科なのですから、こういったものが世界的に遅れているということは、取りも直さず日本の教育制度そのものや、受験の為だけの教育に始終している塾教育に原因があると言え、早急に見直し改善する必要があります。
私達の教室は指導要領などの束縛がありませんので、カリキュラムを自由に展開することが可能なのです。また音楽大学を受験する生徒のカリキュラムも受験に留まらず、大学入学後や社会で働くようになってからのニーズにも対応できるようにカリキュラムを考えて指導しております。そのために記憶力だけに依らず、理解力判断力分析力等々に自由に目標を定めて教材の作成や、指導案作成をしています。
(人手不足のためになかなかそれらの教材をまとめて出版するところまでは行きませんが、教室だけの極秘メソードにしておく気はありませんので、ゆくゆくは出版公開していきたいと思っています。)
私達の教室のメソードで学力が向上し始めた生徒達で、特に優れている所は、この応用問題でもあるのです。ステップⅡで学んだ「集中力」は次に『熟考』を生み出します。
この『熟考』こそが、「考える力」を与えるのです。「考える力」はそのまま『応用力』となるのです。
子供のキャパシティ
子供達が教室に入会してレッスンが軌道に乗ってくると、ある時期に(一週間位の間に)私達教室の用語で「頭が開く(脳のネットワークが結ばれる事で、医学的には「ニューラル プル一二ング」と言います。)」ことが起こります。突然言葉や会話が豊富になり、会話の内容も知的で展開と閃きに満ちてきます。楽曲の分析などの説明に対しての理解もとても早くなります。暗譜なども楽にできるようになり、果ては学校の成績なども(全く勉強しないのにも係わらず)いちぢるしく上がっていきます。こういう状態を「頭脳が開いた」と言い表します。心理学的には知能指数というのは生まれつきのもので一生変わることは無いといわれていますが、「頭が開く」前と後では知能指数が著しく向上していることが、私達の調査で分かっています。特に図形認識に関しての成績のアップは目ざましいものがあります。しかし誰もがこの恩恵にあずかれるわけではありません、一途に一芸に専念した者の特権といえます。
学校の先生の娘さんで学校の成績が常にオール5の生徒かいました。教室でも、そこそこは上手に演奏出来るのですが、私達の教室でトップになることは出来ませんでした。それは子供のキャパシティの問題だからです。二兎を追う物は一兎も得ずと言う諺もあります。学校で一番になることは、別に市と言う単位で一番になることではありませんし、ましてや県でも、日本ででもありません。ところがコンクールで一番になることは、取りも直さず日本で一番になることに、他ならないのです。
教室にはコンクールで全国大会に入賞するような生徒達も多数います。
その子達の練習量や集中力などの努力の量は、学校で一番になることとは比較しようがありません。
(多いと言う事?少ないと言う事?どちらですかね?)
一見不思議に思えることがあります。
コンクールなどを狙う子供達は練習のために、学校の勉強をする暇が全くないに係わらず、一様に学校の成績はトップを通しています。こういう風に言うと、前にしたお話と矛盾した事を言い出したように思われがちですが、実はそのアプローチは全然違います。あくまでコンクールのために練習に専念していることには変わらないのです。しかし、練習に専念することによって、集中力や記憶力が一般の子供達とは比べ物にはならないように優れてくるので、学校の成績が上がってくるだけなのです。勿論、最初から、学校の勉強が嫌いで嫌でしょうがない子供はそういった集中力や記憶力が上がったとしても、最初から学業に対しての興味がなければ、学校の成績はそのままで、成績が上がってくる事はありません。
またコンクールの勉強に専念している生徒で、それでも学校の成績がずば抜けて良い生徒であったとしても、その子供が音楽の練習と学校の勉強を平均させて勉強をするように変更して、それで普通の生徒と全く同じように努力したら、やはり普通の生徒の平均的成績しか取れません。
それと同時に、今まで通っていたコンクールにさえも、合格するだけのlevel(水準)に達する事は出来ないでしょう。
それは、私達にとっては当たり前の、理屈です。つまり、「二兎を追うものは・・・」の諺のように、子供のキャパシティをオーバーする事にその原因があるのです。
好きな事には、子供達は思いの外、エネルギーを出して、ビックリするような成果を見せる事があります。しかし、それが、やらなければならない事だったとしても、半分嫌々ながらだったとしたら、そのエネルギーは好きな事の半分も出ないでしょう。それを、子供がサボっていると考えてはいけません。それが実力なのです。
[一兎を追うものは、二兎、三兎を追うことが出来る]
まさに先程の話とは矛盾したお話ですね。しかし、それが芦塚メトードなのです。
子供は大人と違って、キャパシティはそんなに大きくはありません。
ですから集中する目的を一点に絞り込んでやると、思いも掛けないような力を発揮することが出来るのです。その結果、目標に対しての意識が上がり、技術なども富士山のように高くなります。
そうなると、当然裾野も非常に高くなります。
ですから勉強などの成績も、勉強をしないのにもかかわらず、自然上がってくるようになるのです。(詳しくは小冊子「プロになるには」参照のこと)
普通は親達は、子供に期待するあまり、色々な事をやらせすぎて、結果として子供の持つ力を分散してしまうので、一つ一つには普通のことしか出来ません。
ある親が、自分の子供の成績が悪いので子供を色々な塾に通わせたのですが、その結果は芳しくありませんでした。親と話しているときに成績の話になって 「うちの子は勉強が苦手で、塾にやっても成績が上がらなくって・・・」とか言っていましたので、「どうせ、塾などにやっても成績が上がらないのだったら、じゃぁ、塾なんか諦めて、好きな音楽だけさせたらよいのでは?」とアドバイスをしたら、親はなんとあっさりと 「こんな成績じゃ、将来行ける大学はないので、そうします。」と言いました。その後、子供は好きな音楽に専念出来るようになったので、教室に入り浸っていて、今はプロの演奏家として活躍しています。
あとがき
教室の保持しているプロの育成から生涯教育、幼児教育、思春期などの教育相談、ヴァイオリンやピアノ、チェンバロなどの奏法のマニュアルや心理学等々の芦塚メソードを教室の御父兄の方々に説明し、理解していただき、また上手に利用していただくことは、かねてからの私達の願いでもあります。しかし音楽技術から教育、心理学にまで及ぶ、芦塚メソードの理論を総括し説明することは大変難しいことと言えます。芦塚メソードの概論を作成する前に、今回敢えてその無謀さを省みず、簡単な「あらまし」といったお話に挑戦してみましたが、やはり舌足らずに終わってしまったようで残念です。しかし芦塚メトードの一部でも垣間見て頂けたら、今回は取り合えず良しとしまして、次回にまた補足説明をさせていただく所存であります。
第二稿脱稿1999年11月19日
江古田ハイツの寓居にて
一 静 庵 庵 主
芦 塚 陽 二
第三稿脱稿2009年4月1日
江古田ハイツの寓居にて
一 静 庵 庵 主
芦 塚 陽 二
[1] 「逃げ場を与える」と言う意味は分かりにくいと思われるので、少し解説をしておきます。親は音大受験のためや、コンクールを目指す音楽家の卵達には、毎日6時間、8時間練習をするように強要します。でも、本当にその決められた時間の中を、延々と集中出来ると思いますか?もし、たったの1時間を本当に集中できるのなら、8時間、普通に練習したのと同じ効果があります。ですから何となく6時間や8時間練習するのなら、集中して1時間、2時間練習をしなさいと言う事、それが教室の言うノルマというシステムです。本来のノルマは一定の時間の中でこなさなければならない仕事量のことを言いますが、教室の場合は本来の目的は「出来るか否か」であって、時間を「決めて練習させる」と言う事ではありません。つまり、目的は「与えられた課題がこなせたか否か」であるので、だらだらと、無駄に仕事をすると言う時間はなくなります。効率よくノルマをあげるには、一瞬たりとも無駄な練習をする時間があってはならないので、なにも考えずなんとなく弾く事が許されません。それが「逃げ場」がないと言う事です。
[2] 2005年以降は教室の都合によってそういった事はやっておりません。
[3] この場合のtempoにはMenuettの速度と言う意味とMenuettのリズムでと言う両方の意味が含まれます。舞曲にはMetronomtempoの他にrhythmも含めて考えなければなりません。