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V番に関しては、しっかりと、slurが書かれているので、現代の楽譜を出版する人達も、Urtext(原典版)と銘打つ限り、そのslurが、納得行く、行かないにかかわらず、originalのslurを遵守していますが。

・・・という事で、多くの校訂者達は、このV番の曲を除いては、独自の校訂者本人のphrasierungによるslurを楽譜につけている。

しかし、そのslurのつけ方はBachの時代のslurではなく、あくまで、現代の(当世風のPianoの演奏)を対象にしたmelodieを表すphrasierungのslurであって、決して、Bach時代のslurではない。

つまり、Bachの意図である、slurの解釈ではないのだ。

このV番のinventioに付けられたslurを見ると、そのslurの意味が分かるように、Bachの時代、或いは、古典派のHaydnやMozartに至る迄の時代のslurは、現代のようなmelodieの区切りを示すphraseのslurではなく、Motivに対するarticulationやAgogikを表わすための、弦楽器のbowingを表すbowslurであるという事であった。

当然、同じBachの作品でも、Cembaloのための作品や、他の楽器でも、solocelloのためのsuiteや、soloviolinのためのsuiteは、このV番と同じように、bowslurを使用している。
このV番のInventioと同じように、bow(弓)を使用して、演奏するわけではないCembaloの曲に対しても、Bachは、bowingを表すためのbowslurをarticulation(Agogik)として、要求しているのである。

当然、
「ではどのように、このbowslurを演奏すればよいのか?」という話になってくるのだが、そこでも、日本人特有の勘違いが起こって来る。


それは、日本人の下手なviolinの学習者が引き起こすbowの誤った使用方から来る勘違いである。
それは、弓の配分であるが、1小節目の頭の音16分音符1個のdownの弓に対して、残りの16分音符5個のupbowによる、音の強さの勘違いである。つまり、1:5の配分で弓の配分がなされるので、頭のF#の音が次の5個の音の音量に対して、5倍も強くならなければならないとする勘違いである。

弓量と音量は無関係でなければならないのだが、日本人には、その意味が中々理解出来ない。

これは、勿論、日本人が弦楽器に対して無知である事に原因があるのだが、それ以上にrhythmに対しての感性の違いもある。
ヨーロッパ人の音楽は、基本的に3拍子にあるのに対して、基本的に2拍子の音楽しか、無かった日本人のrhythmに対しての国民性の違いにもよる。

わざわざ、三位一体を引き合いに出さなくても、ヨーロッパの人達は、幼い時から3拍子の独特のrhythmで育って来る。
日本の盆踊りや民謡等が全て、2拍子、4拍子なのに対して、ヨーロッパの踊りや民謡は、3拍子が基本になる。2拍子は、軍隊の行進曲等と、逆に少ない。
2拍子の曲しかない日本とはエラい違いである。

ヨーロッパのダンスの曲は基本3拍子である。勿論、強、弱、弱という3拍子のrhythmである。
しかし、弦楽器の場合には、時としてそのrhythmは、2:1という弓の弓量配分によって表現される。
強の拍の2に対して、弱の拍の1の弓量配分である。ドイツ人(ヨーロッパ人)には極普通のこの弓量配分が、日本人には中々出来ない・・・というよりも、感じないのだよ。そのAgogikを・・・。

上記の曲は、よく知られた初歩の教材であるHohmann教則本の1巻の中の曲である。

この曲の技術levelをピアノと比較すると、ちょうどBeyer教則本の初歩のlevelの曲と同じlevelになるのだが、上記に述べた長い強拍に対して、短い弱拍の弓使いの曲が、初歩の初歩であるにも関わらず、普通に使用されているのだよ。
bow(弓量配分)によって出て来る音の強さと、この曲の本来の強弱である音量の違い、・・・rhythmの感覚(bowのTechnikの感覚)は、東洋人にはないのだよね。

弦楽器を学ぶ生徒達も、最初からそういった感覚で弓量配分を学ぶと、InventioV番の1:5(!)の弓量配分でも、Cembaloのように、全く均等な音量で演奏する事が出来る。

私達の教室の生徒達にとっては、何の問題もない3拍子の弓量配分のTechnikなのだが、それを弦楽器を学び始めた時の初歩の段階で、ちゃんと学んでいないと、非常に難しい演奏法となってしまう。

3拍子というものは、元来日本人の生きてきた歴史の中では存在しない拍子である。
だから、このヨーロッパ人にとっては、なんでもない3拍子のbowTechnikが、一般の日本人の弦楽器を演奏する人達にとっては、至難の業になってしまうのだ。

Beyer教則本でも、比較的な初歩の段階で、3拍子と6拍子の違いの課題が出て来る。
それを正しく指導している先生を、私は見たことがない。

私達の教室ではCembaloを学ぶ生徒は、第二楽器として、弦楽器の演奏も出来る分けなので、このV番のimageはなんの違和感もなく理解出来るし、演奏することも出来る。
しかし、弦楽器を学んだことのないCembalist達にとっては、多分このbowslurのimageを、Cembaloで演奏する事は不可能であろう。

しかし、このbowslurのimageがない・・・という事は、Bach以降の作品を学ぶ時に、それも、特に古典派の作曲家のsonatineやsonate等の曲を勉強する時に、致命的なものになってしまう。

(後述するように、このInventioVに見られるslurは、Bachの独自の(独りよがりの)slurの使用法ではない。

古典派の作曲家達、Bach以降の作曲家のHaydnやMozart、或いはStamitz等々の、古典派の時代の作曲家達も、Bach同様に弦楽器のbowingによるbowslurをforte-pianoに対しても用いていたのだから、そのbowslurの方がstandardだったのだよ・・・!)

つまり、こんにち、出版された所謂、校訂版の楽譜のslurは、音量を優先した弦楽器の特性と、melodieの歌い込みを最大に引き出すための、phraseのslurが用いられるために、baroqueや古典派の時代の、articulationやAgogikを表すためのbowslurとは、slurそのものの意味や考え方が根本的に異なる。
つまり、別の次元の解釈となる。

先ほども述べたように、私のPianoの生徒達は、殆どの生徒が弦楽器を演奏出来るので、このBachや、Haydn、Mozartのbowslurに対しての違和感を持たない。
弦楽器の奏者にとっては、bowslurは当たり前の日常的なslurに過ぎないからである。

逆の言い方をすれば、ピアノをライフワークにしそうな生徒達には、必須の第二楽器として、弦楽器を学ばせているから、古典派のsonateやsonatineの演奏が問題なく出来る。

現実に、今このV番のInventioをピアノで、勉強中の弦楽器の、(勿論、V番だけではなく、複数のInventioを同時に学習してはいるのだが・・)生徒に、「このslurはどう思う?」と質問したら、「ただのbowslurでしょう?!」という答えが返って来た。
弦楽器の生徒には、このslurは当たり前になるのは、当たり前のこんこんちきなのだよ。
アハハッ!


下に記載されているInventioは、Hans Bischoff版の譜面である。
この曲に記載されているmelodieのslur(phraseを表すslur phrasierung)は、非常に一般的なものである。

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