芦塚陽二のBeyer教則本manualについての
総括的な概論
[Beyerとmanual]
この小冊子は「Beyer教則本」に対しての概論ではない。
あくまで、「芦塚陽二著 Beyer教則本manual全三巻」に対しての概論である。
「芦塚陽二著 Beyer教則本manual」は全3巻からなり、芦塚音楽研究所の門外不出のmanualである。
当然、その「Beyer教則本manual」は私の研究の著書であり、当たり前の事ではあるがBeyer自身が書いたものではない。
Beyer自身が書いた自分の教則本の使用manualは出版された事はない。
勿論、Beyerが活躍していた当時から、Beyer教則本のmanualは公開されたことはなかったのだ。
という話をすると、色々な先生達から「Beyer自身が何故(どうして)、自分の教則本の「取り説」を書かなかったのか?」と尋ねられることがある。
しかし、それは、馬鹿げた質問である。
ヨーロッパの人達に限らず、日本人でも、昔の人達は自分のソフトに対して、かなり厳しく守っていた。日本の伝統芸能に関する一子相伝とか、宮本武蔵の五輪の書の至る所に見受けられる、「口伝」という言葉に、私達はそれを窺い知る事が出来る。
個人のソフトが財産として守られ、著作者を保護するようになったのは、やっと21世紀になってからの事である。(しかし、中国などの文化後進国では、いまだにその権利が守られていない。)
そういった自分の開発したソフトを守られていなかった時代では、(BachやHaydnの作品にさえ、実は他の人の作曲のものが多数含まれている。)自分の権利であるソフトをしっかりと守るためには、他人を当てにしないで自分自身で守らなければならなかった。
そういった伝統は、今日でもヨーロッパ社会にはしっかりと根付き残っている。
もう一つ、世の中の人達がよく勘違いしている事ではあるが、Beyer教則本自体が、ソフトであるわけではない。
本当は教則本にはそれを使用するためのmanualが必要なのだ。Beyer教則本の価値はmanualの方にあるのだ。
別にBeyerだけの話ではないのだが、優れた芸術や科学におけるソフトは、それを保護すると言う意味で、殆どの場合、自分の愛弟子に口伝として伝えられていった。しかし、それは逆に、その技術が時代を経るうちにそのうちにいつの間にか忘れ去られ、失われてしまう結果となった。
そういった失われた技術の例としては、絵画の歴史では、19世紀の後半から20世紀の前半の絵画の黄金時代に、スラーやマネ等の優れた画家達の手によって、そういった歴史上の大家(ダ・ビンチやミケランジェロ等)の作品が、詳しく分析されるようになって、その創作上の秘密の技術(構造式や数式等)が私達の目に触れることが出来る様になった。(勿論、その手法を駆使して、印象派の絵画が花開いた事は、周知の事実である。)
しかし、相変わらず職人芸的な努力の蓄積だけに頼っている音楽社会の場合には、絵画や他の芸術に比べてそういった理論的な解析は遅れたままで、いまだに情緒的、感情的な解釈ばかりがまかり通っている。
勿論、職人的な努力を否定しているわけではない。どのような職人であったとしても、その中に向上心とたゆまぬ研究心がなければ、それは論外である。どのような職人であったとしても、温故知新の心がなければ、職人の技を持ち続ける事すら出来まい。そういった、努力を怠った人間が古きをいたずらに批判し、先人の知恵を学ぼうとはしない。
そういった、Beyerの持つ教則本的なmanualを何等理解しないままに、ただ批判だけをする似非音楽家が多い事には、辟易される。[1]
[Beyer教則本に対しての批判]
私が昔から言い続けていることは、(勿論、個人的な批判は別としても)公開で何かを批判するときには、その批判されるものをちゃんと研究してからでなければならない、ということだ。
「Beyerは過去の教則本である」と主張する人は多い。
しかし、その人達が「これこそが優れた教則本だ。」と主張している教則本を、他の先生達が使用している感想を聞いたり、或いは私自身がその教則本を使用したり、その内容をcheckしてみたときにも、教則本的には一長一短があって、比較してBeyerほどは優れてはいない。勿論、その中の何箇所かは、とてもよいものがあったとしても、教則本として一冊を通しで使うには不具合のほうが多すぎるのだ。ということで、「Beyerは百害あって一利なし」とか、「Beyer教則本では3年遅れる」とか言っている人達が推奨している教則本は、20年30年経ってもいまだに定番にはなっていない。
私は、教室にやってきた若い先生に、Beyer教則本の中の1曲についてmanualを時々説明する事がある。(何で1曲かというと、全部をちゃんと説明しようとすると、それを聞いている先生はカルチャーショックでショック死するからね!)
そうすると、みんな驚くね。
「Beyerって、そこまで深く考えているんですか?」「こんな簡単な譜面なのに、そんなにいっぱいのソフトがつまっているのですか?」
「単純なものは、内容がない。」と考えるのは、愚の骨頂だよ。
私が師匠のGenzmer教授によく言われたことは、simple is bestさ!
いつも「単純に物事を考えなさい。」と怒られていたよ。
歴史にしかるべく名を残す物はすべて、単純なのだよ。
相対性理論でも数式は単純明快!
Mozartも然り!
「単純で簡明である」と言うだけで、「長い音楽の歴史の中で生き残ってきた教則本である」と言う重みを皆感じなさ過ぎるのだよ。それだけの価値があったからこそ、百五十年以上の長い時間、たくさんの子供達に使用されてきたのだよ。
そこの所で、もう一つ勘違いをしていけないのは、それまでの長い長い時代にはたくさんの初歩の教則本が作られてきたと言うことなのだよ。
つまり初歩のピアノの教則本はBeyerだけではなかったと言う事だ。
私はBeyerと同時代やそれ以降の時代の数十冊にのぼる出版されている初歩の教則本を買い込んできて、実際に子供達に指導してみたよ。
やっぱり、Beyerと比べると、「帯び襷」なんだな! これが・・・!
子供達を指導した経験もない、若い先生達が、未熟な指導力の中で、ただ単に「使いづらいから・・!」といって、Beyerを評価されると困るんだな。
Beyer教則本の事を馬鹿にする人達には面白い共通点がある。それはCzernyの教則本には絶対の信奉をしていると言うことだ。私はCzerny30番やCzernyの小さな手の教則本までは、結構順を追ってきちんと指導するのだが、Czernyの40番等は飛ばしてしまう事が多い。反対にCzerny30番を2往復したりして、intempoで弾ける様になるまで、指導する。そうすると40番は必要なくなってしまう。50番も全部させる事は無い。40番、50番の必須曲を抜粋して、生徒の性格や相性、技術的な弱い部分をcheckして、クラマー・ビューローやモシュレス、モシュコフスキー、ヘラー、ケラー等のEtudeを併用して使用する。勿論、全部の曲ではなくその生徒に必要な曲を抜粋して練習させるのである。しかし、Czernyの信奉者達はバックナンバーを全部順番にやらせないと気が済まない。要するに硬いのだね!
私は、その人達の事を「Beyer教則本の指導manualに関する研究は何にもしていないのに、批判だけをして・・・!!」なんて批判はしないよ!
・・・って、批判しているか?? ハッ、ハッ、ハッ!
人が人を批判するのも、否、戦争が起こるのも、相手の事を知らない(知ろうとしない)事が 原因である事が多いのだよね。第二次大戦のときに日本では、敵性国語として、それまで使っていた外来語まで絶対的に使用させなかった。うっかりと使おうものなら、非国民として官憲につかまった。マッチは西洋火付け木とかね。しかし、敵国のアメリカさんは、日本人を徹底的に研究して、日本人の考え方を知ろうとしたね。そこに大人の国と子供の国の差がある。歴史から言えばアメリカなんて全く若い国なのにネ。
それから30年近く経った今日でも、いまだにBeyer教則本は売れ続けているが、もうその「3年遅れる」の本や「百害あって・・」の本の事を知っている人は今ではもうまれだろうからね。
日本で活躍しているピアニスト達ですら、多くの人達は、Beyerの擁護者でもある。
それは、演奏家として活躍しているピアニストは、あくまでクラシックの演奏家であって、popularの音楽の演奏家ではないからだ。(popularの演奏家の話だったら、全く別の世界の話だからね。私の想定外の話だよ。)
Beyer教則本を批判する人達が言う事の定番は、「古臭いアカデミズム」ということである。
しかし、クラシックの音楽を勉強しようとするとBeyerよりももっともっと古い、BachやBeethoven等のそれこそ「古臭いアカデミズムの音楽」を学ばなければならないのだ。[2]
Beyerが「Etude臭い」という人もいるだろう。しかし、音楽大学によっては入学試験にCzernyのEtudeを試験曲にするところすらあるのだ。
音楽を本当に勉強しようとする人にとっては「古臭い」なんていうものは有り得ないし、Etudeの批判すらする事は出来ない。音楽の専門的な勉強はEtudeによって成り立っているわけだからである。
「Etude臭い。」といって嫌がるか、否かは、それは単にプロとアマの差だよ!
「古臭い」とか、「Etudeだ!」という批判がまかり通る世界、それはあくまでpopularの商業主義の世界の話である。
音楽を趣味として付き合っていく人達と、あくまで音楽を専門に勉強しようとする人達や、教養として勉強しようとする人達とは、「音楽に対する価値観」という意味において一線を画するわけである。
まあ、そういった意味合いも含めて、今現在、若い指導者達を中心にして流行している教則本の殆どは、アメリカの音楽教育の指導者を中心として作られている。(ヨーロッパ系の教則本はコダーイシステムや他の教則本もBeyer同様古臭いアカデミズムを踏襲している。
ピアノの初歩の導入のきっかけはどうあろうと、ちゃんとある程度上達したら、BeethovenやBach、Chopinの音楽に進まなければならないからである。)
繰り返して言うがアメリカ系のピアノの教則本は、ジャズやpopular、或いは趣味としての音楽に進むのには支障がなくとも、クラシックに進むには、色々な弊害がある。
しかしながら、ピアノを学んでいる人達の90%以上の人達は音楽を専門に勉強しているわけではないし、また音楽の基礎教育を学びたいわけでもない。
今流行の曲が弾けさえすればそれでよいのである。だから譜面を読める必要も無ければ、正しい指使いを覚える必要も無い。
趣味で音楽を勉強するのに何の制約もないのは当たり前の事である。
しかし、(例えそれがプロになるつもりはもうとう無かったとしても、)クラシックの音楽を専門に勉強しようとすると話は違ってくる。
やはり、古臭いアカデミズムといわれようと、(私達はちっとも古臭い等とは思ってはいないのだが、確かに、百年、二百年前の音楽だからそういわれてしまえば、仕方がないかね??)
そう言った意味合いにおいても、私達の音楽教室はクラシックの専門の教室であって、例え趣味であったとしても、生徒達にもpopularの音楽を指導する事はないからね。(その旨は、生徒さんが教室に入会される時点で、私達の教室の意図を説明して了解を取った上で、入会してもらっているからだ。)
(「古臭い」か「古臭くないか」という感情論はさておいて)確かにBeyerには大きな欠点がある。
それは、「よい教則本である」という事は、とりもなおさず、習得が難しいと言う事であるからだ。
(但し、「習得が難しい。」と言う意味は「生徒にとって」と言う意味ではない。あくまでも「先生にとって、指導上で・・」と言う意味である。)
私達の教室でBeyer教則本を使用していて、Beyerが嫌いだとか面白くないといっている子供にはいまだにお目にかかった事は無い。[3]
むしろ、子供達は逆に、当節の「popularの音楽はつまらない。」という。幼い子供であったとしても、クラシックを勉強する生徒にとっては、当節のpopularはつまらないらしい。それは音楽に対する根本的な価値観の違いである。
音楽が只の趣味で楽しい音楽であるというのと、音楽は自分の心の成長の糧であるという考え方では、価値観は相容れない。当たり前の事である。そのlevelでBeyerの批判をする事自体、馬鹿げている。
Beyerが単なる指の練習曲であると言ったり、苦行であるという、くだらない馬鹿げた意見も、単にその先生の音楽に対する理解力と指導力の不足がもたらすものであり、「Beyerでは3年遅れる。」と言った人もいるが、私達の教室でBeyer教則本を修了するのに3年もかかった生徒は一人もいない。
一番早く終わらせた生徒のレコード保持者は、わずかピアノを始めて触ってBeyerの教則本を修了するまでに1ヶ月(4回のlesson)しかかからなかった。これは例外中の例外であろうが、通常の生徒でも、早いペースで勉強してくる生徒は大体3ヶ月程度でBeyerの教則本を終了して、次のBurgmuller等の教材に進む。
(勿論、ピアノの進度は年齢にもよる。就学年次以前の生徒(2,3歳の子供や幼稚園ぐらいの年齢の子供は、小学生の低学年、中学年の子供よりも、教則本を勉強するのに、少し時間がかかるのは当たり前の事である。)
いつもお話するように、教室ではぜんぜん練習してこなくとも、先生が生徒を叱る事はないし、それで感情的になる事もない。家で練習してこなければ、先生と一緒に教室で練習すればよいからだ。ぜんぜん練習してこない生徒であっても、それでもBeyer教則本を終了するまでに、2年以上かかる事は無い。教室で先生と一緒に練習するだけでも結構うまくなるものだよ。
勿論、子供達がBeyerをそれぐらいの早さで勉強出来るのは、指導する側がBeyerのmanualを熟知しているからであり、そういった指導者の元で勉強しているという前提の下にである。
Beyerのmanualも知らないままに、あてずっぽうにBeyer教則本を使用している人にとっては、これほど難しく、無味乾燥で、面白くない教則本は無いであろう。
「Beyer教則本はつまらない。」 それは、Beyer教則本を批判している人達の言う事も、ある意味においては正論である。
この教則本を使用する上でのmanualの難しさ、それがこの教則本をして、無理解者を多数作る基となっている。
良薬は(良薬になればなるほど)口に苦し と言うところであろうか・・・?
あるmethodeが世の中に広がるための条件がある。
それは、それを学ぶ先生(指導者)達が如何に手軽にmanualを学べるかという事にある。
せいぜいone coursの講座(長くて1週間程度)でマスター出来る・・・という条件である。
しかし、本当によいmethodeは習得するのに何年もかかる。
今日日と言うか当節というか、そういったものは、もはや、はやらない。
「Beyerのmanual」 a la carte
[曲の持つ絶対tempo]
先生が生徒をlessonをする時に、「生徒がその曲をどの速度まで弾けたら合格にするのか?」と言う事が、指導する先生の側でよく理解できていない事が多い。[4]
発表会直前にもかかわらず、非常に遅いtempoで弾いていたので、私が「この曲の目標tempoはこのtempoだよ!」と言って、Metronomのtempoを指示したら、生徒はおろか先生すら呆然としていたことがあった。
つまり、先生が生徒に選曲をする時に、「その曲が本来持っているtempo(その曲の曲想が生かされるためのtempo)」を想定しないで、ただ単に譜づらの読みやすさや見せ掛けの譜面上の簡単さなどだけで曲を選曲して、実際に発表会やコンクール等で、大失敗している例は数多く見ている。先生が見せ掛けの簡単な曲を選曲して、生徒がどれぐらいのtempoで弾けるかは、生徒自身の練習量や、出来不出来に任せると言ったような、そういった投げやりな選曲は、私にとっては我慢の出来ない許せない行為である。
曲には本来、その曲がその曲であるための絶対tempoと言うものがある。その曲の目標のtempoがその曲であるためには、その曲の持っているMetronomの絶対tempoよりも遅かったり速かったりしすぎたりしてはいけないのである。そして曲が持っている絶対tempoの許容範囲はそんなに広いものではない。
選曲は、本来その生徒の持っている演奏技術と、その曲の難易度によって決定されるべきであり、その技術の中には当然Metronomtempoも含まれる。[5]
先生達が気をつけなければいけない事は、発表会を聞きに来ている一般の人達は、その曲の持つtempoでしか曲を聴こうとはしない、と言う事なのだ。
自分の生徒に対して、先生や親のように好意的には聞いてくれないのだよ!
Beyerにも当然設定されたtempoと言うのがある。それは下記のBeyerのgradeと整合しているのである。
例えば、第一stepである、1番からModerato、Allegretto、Comodo、
32番からAndante、表情記号はlegato、
44番でsempre legato
61番で初めてdolceが出てくる。
58番でcrescendo、decrescendoが出てくる。
速度標語は、次のstepである60番以降で初めてAllegro moderato(61番62番)
99番でAdagio,
100番でAllegro
以上しか出てこないのである。
(「出てこない」と言う言い方には、かなり語弊がある。つまり、Beyerの段階ではそれだけのtempo記号を正しく認識できれば充分なのである。それが総ての音楽のtempoと表情記号の基礎となるからだ。正しいModeratoやComodoを理解する事なしに、AllegroやAndanteが理解でいるわけではない。Allegroは快速にではないし、Andanteはゆっくりとではないのである。[6])
よく先生や生徒に「101番や103番、104番等は、譜面がとても簡単なのに、何でこんなに後ろの曲のグループなのか?」と言う事を質問される。
その質問自体が、このgradeの課題の意図を理解していないと言う事を暴露している。
つまり、この100番代のgradeでBeyerが意図した、このグループの課題は、指の早い回し(touch)である。leggieroのtouchで、よく粒をそろえて、速い速度で弾かなければならないのだ。
例えば、101番は4分の4拍子なので、単位は4分音符が単位でなければならない。
そうしないと、この曲は4分の4拍子にはならない。
と言うことで、あえてこの曲のMetronomtempoを指定してみると、この曲のMetronomの最低のtempoは88ぐらいであろう。そうしないと、14小節目からの左手のトリルが成り立たなくなる。
この曲の弾かれなければならない最低のMetronomのtempoのNiveauを88に設定して、それから徐々にtempo upしていかなければならないのだ。
同様に、102番を8分の4拍子で弾かせる先生が多い事には辟易する。
譜例:
phrase感を生かして弾くためには、むしろ、4小節を大きな4拍子として取らなければならない。
譜例:
この曲も、dolceで揺れるようで流れるような雰囲気を醸し出すには、4分音符は(最低でも)100ぐらいでは弾かれなければならない。そうしないと大きなphraseで曲を演奏することが出来ないからだ。しかも8,9小節目や、16小節目からの16beatの元気で軽快な感じを生かすには、tempoの設定が遅すぎるとよくない。
つまり、4分音符が90ぐらいのtempoになると、その16beatの軽快さは死んでしまうのである。
譜例:
流れるように優美な感じと、元気のよい軽快な軽やかさが両方とも生かされたtempo・・・・、それは非常に限られた範囲のtempoの中でしかない。
103番はアルベルティ・バスの課題である。Albertiはイタリアの作曲家で(1717~1740)彼が独自に発案し多用した奏法によって、Alberti-bassという名がついた。
ピアノという楽器にとっては、非常に難しいテクニックとなる同音連打は、逆に弦楽器や管楽器にとっては非常に簡単で、しかも演奏効果に富んだ奏法である。
しかし、同じ事をピアノで真似をしようとすると、Czerny30番の28番で見られるように、楽に腕の力を脱力した状態で演奏することは、上級者にとっても非常に難しい。
無理をして、強引に腕や手首に力の残ったまま演奏すると、最悪の場合は腕や指を痛めかねないことにもなる。
譜例:Czerny30番No.28
勿論、この曲はBeyerよりも遥かに上のgradeになるので、Metronomのtempoも早い。8beatであれば最低でも150では弾かなければ合格にはならない。
なぜならばM.M=150だとしても、付点4音符の単位では、50にしかならないからである。
ためしに、M.M=50で右手の和音を弾かないで、左手のmelodieだけを歌ってみるとよく分かるだろう。
M.M=50としても、非常に遅く感じるはずである。
では、左手が気持ちよく歌えるM.M=50以上のtempoで、右手の和音を弾こうとすると、無意識に腕に力が入ってしまうであろう。軽快な管楽器のような響きが出ないことになる。
Etudeとしての、難しさを承知で作曲するのはともかくとして、通常はそういった菅楽器や弦楽器特有の音の動きを再現するのはピアニスティックではない。
そのために、管弦の楽器にとって簡単な同音連度のpassageを、よりピアニスティックに簡単に演奏出来るように翻訳したのがAlberti-bassである。
譜例:Alberti-bassのもっとも有名な曲の例が次の曲である。
もし、この曲の原曲が弦楽器であったとすれば、Alberti-bassのチェロの譜面はこういうことになる。
譜例: