前ページ


所謂、「神さま」の登場となる。
人間は陥る方には、楽に進めるし、マイナーな事は信じられるという特性を持っている。
「出来なかった。」というのは、努力が必要ではないから、楽だからである。
そういった、相手の感情を推し量る事を、私は情緒的思考による推察と呼ぶ。

教室の方針は、日和見的な、マイナー思考ではなく、その相手の可能性である。
だから、その相手が、どの様に落ち込んでいるとしても、落ち込みの根本の原因であるdilemma的な要素から、どの様に解決を導き出す事が出来るのかを、adviceしなければならないので、その正しいadviceには、情緒的な判断は、間違いを引き起こす根本の原因になり兼ねないので、感情的、情緒的な判断は忌み嫌うべきことである。
教室で受け入れる状況の判断は、常に何故?、どういう理由で?の一言を必要とする。
そういった相手への理解と判断を、私は論理的な思考と判断による推察と呼ぶ。
(論理的な思考による判断ではないのだよ!!あくまで、推察であるよ。)
主婦にとっては、主婦同士の井戸端的な相談が一番お気楽である。
男の会社の上司との赤提灯の会話によるadviceによって、多くの才能ある将来有望な子供達が犠牲になった事もよくある。
お気楽なadviceは、所詮、本人の自分の言葉に対する責任も何もなく、社会の風評による無知な知識によるadviceに過ぎないのだが、そういった方が、子供の将来の人生を決めるという重たい決断にはお気楽で丁度良いのだ。
主婦同士の、チョッと先輩の、或いは同年代のadviceの方が、身近でお気楽で安心出来るのだよ。
そして、そういった事案の経験を、無数に観て来た指導者のadviceは、重く、努力を伴うので、夢はお気楽な夢のままにしておきたいのだなや。

2014/10/12 (日) 0:33
高望みをする人に限って、そのための努力をしようとはしない。


2014/10/04 (土) 17:30
何かを目標として生きる人が
「出来る範囲で一生懸命やりました!」なんて事を言う事を許されるのかよ!
出来ない事を出来るようにするのが努力という言葉の本来の意味なのだよ。


芦塚メトードによるVivaldi「methode」について
2013/11/02 (土) 13:32
芦塚メトードに於ける「Vivaldiーcurriculum」について
私が既成の楽譜を使用したり、Vivaldi等の作曲家の作品を使用して、生徒を指導していると、ついつい、市販の楽譜をしようしているから、そのcurriculumの独自性も
「大したもんじゃない」と、軽く見られてしまう事がある。
そういった人達は、
「curriculumとは何たるか??」という事を知ろうとしない人達である。
私が「Vivaldiーcurriculum」と名づけたとしても、実際の所、Vivaldi自身が、そういったcurriculumに基づいて作曲をしていたわけではない。
Vivaldiが作曲した多くの曲の中から、その課題を選び出し、並べ替えて、curriculumの母体を作るのだが、幾ら多作のVivaldiであったとしても、その作品だけで、curriculumの課題曲を網羅出来るものではない。

という事で、更に、Vivaldiを中心として、多くのbaroqueの作曲家のconcertoを集めて、grade順に編集し直して、curriculumを作ったのである。

しかし、curriculumに適した曲が出版されているものは、逆に少ない。
或いは、scoreは販売されていても、part譜が売られていない楽譜も多い。
また、最悪の場合には、全くscoreすら出版されていないものも多い。
そう言った場合には、外国の図書館から公開されているfacsimile版から、partitur(スコアー)とStimmen(声部)を、作って生徒に使用させる。
希には、それすらなく、私が作り上げる事もある。

子供達にbaroqueでcurriculumを作り上げたのは、violinの歴史がbaroqueの歴史でもあり、violinの技法や、奏法の基本が全て網羅されているからである。

Vivaldiーmethodeを終了した生徒は、次に音楽表現の基本である、古典派のprogramを勉強する事になる。

音楽が趣味に過ぎない子供達が、子供の内から必死に専門的に学んで来た音楽を目的として努力を積み重ねている子供達と遜色がないのは、学んでいるcurriculumが弦楽器の演奏の技術のrootsそのものであるからである。
もし、音楽を専門に勉強したい生徒が、この、Vivaldiーcurriculumや古典派のcurriculumを学ぶとしたら、信じられないような技術や音楽を身に付ける事が出来るであろう。
残念ながら、教室のmethodeで音楽を勉強したとしても、中学生、高校生になると、周りの雑音に心動かされて、芸大の先生や著名な演奏家の所に代わってしまう。
そういった雑音は、基本好意から出たものなので、始末に負えない
こちとらが、他の人達と同じ事をしても、他の人達と同じようにしか、ならないよ!と、幾ら注意しても所詮は聞く耳を持たないから、致し方ない
残念だが、そういったネームバリューに惹かれるのは儒教型の日本人の特性なのでどうしようもない。
俺の言う事を、信じられなければ、如何ともし難い。
で、その生徒の将来も、proの道も、ソコまでになる。
今迄のその教授の生徒達と同じように・・・である。
でも、俺のせいではないし・・・・
教育とは、信じるか否かだし、信じて、ちゃんとやるか否かであるよ。
聞いている振りをして、やる事をやらない生徒も父兄も多いのでね。
今も、それで、振り回されているよ・・・
あ〜あ、人生欝だよな!!!!!

2013/11/21 (木) 14:06
フェルマータ
fermataには、色々な意味がある。最低でも8種類の使い方を説明出来なければならないのだが、その8種類を一括で掲載している楽典の本が困った事にない。
一番多く掲載されていた楽理の本でも、5種類しかなかった。
グローブの音楽大辞典をもってしても、しょぼいのである!
音楽の学習なんてそんなもんだ。
私の書いている解説が、「唯一」というのもザラなのだから・・・。


2013/11/28 (木) 5:08
人は自分の立場を、「与える側」か、「受け取る側」に置くことになる。
その、「享受する立場」と、「与える側の立場」の人生は、ある意味、全く別の、絶対に交わる事のない人生なのだよ!!
「ぬるま湯のような、何も変わらぬ日常を良しとする人生」と、「充実し張り詰めた日々を良しとする人生」を求める人間の落差なのだよ!
ほっこりした人生を歩む人は、よく
「自分でも、仕事になると・・」 という主張をするが、ほっこりとした生き方は、その意識自体が、潜在意識の中に閉じ込められるので、どんなに「頑張って、より良い仕事をしよう」としたとしても、100%の出来に近づく事は有り得ない。
その人の生き方が、100%でなければ、100%のものが産み出し得ないのは、当たり前の話であるよ。

今更、何を言わせるのだ???

2014/01/03(金)
音楽用語
音楽用語の反対語で不思議な言葉がある。
Ad.lib.の反対用語がobbligatoという言葉である・・という事だ。
Ad.lib.自由に対する語で、必要不可欠な声部または楽器。転じて独唱や束草の音楽的に効果を高めるために、主旋律の伴奏以外に、ある旋律を協奏すること。
一般的には助奏accompagnamento

2014/01/10 (金) 17:40
自分のための音楽 と、音楽のための自分
演奏家は、音楽表現ということではなく、音楽に対する意識で、自己表現をするために音楽を演奏する人と、音楽を表現するために、演奏する人の二つのタイプに分類される。

日本の音楽家達では、演奏者が自己appealのために音楽を演奏するという、前者の立場を取る人達が殆どなのだろうが、それは音楽がperformance的な要素も兼ね備えている分けなので致し方ない部分もある。
今の日本の音楽界では、音楽のために演奏する演奏家が極端に少ないのだが、それは音楽を演奏する演奏家達の社会の階層に起因する所が大きので、これも致し方ないのかな?
今、社会問題になっている或る国の諺に、「お金持ちが天国の門をくぐるのは、ラクダが針の穴を通る事よりも難しい」というのがあった。
金持ちのボンボンやお嬢ちゃんに、「心のお話をしてください。」・・というのも、駱駝並に難しいのかも知れない。
「アッ!そりゃ聞こえませぬ、伝兵衛様」 だんべぇ!!

2014/01/15 (水) 4:36
登山
当たり前の事なのだが、山を登るにはその山の険しさで、装備にかかる費用や、そのためのトレーニングが決まる!
エベレストやモンブランを征するにはプロの技が必要で、常人には、その山を登るのに必要な技術や意識のレベルはこなせるものではなくそれ相応のproのTechnikが必要な事を疑うものはいない。

日本の剣岳やそれなりの山は、ヒマラヤの山々程ではないが、それでも、ある程度の装備や山の知識は必要である。
日本で最高峰の山は、勿論富士山である。
霊峰として、参拝の対象として江戸時代の後期から整備されて来たので、一般の人達でも、体力が伴えば、登る事は可能である。
高尾山のようにもっと身じかな山もある。
上野の山のように、山とは言えないのに、山と呼ばれている山も、それぞれの地方にはある。

音楽も然りである。
どのような音楽であっても、歴史に名を残して来た音楽は、それ相応の学ぶべきものがある。
athleteではあるまいし、鍵盤というfieldで音符の速度を競争しても、それを音楽とは呼ばない。
人と競争し、比較する事が音楽ではないと思っている。
音楽はbrandでもないのだから・・・、statusとして存在している分けでもないはずだ・・・と、私は思っている。
・・・と、私は思っているのだが、そして、それは何時も裏切られる。
悲しむべきことでは、・・・ある。
・・・・のだが、人が音楽をどう解釈してようと、それはその人の勝手である。


2014/01/24 (金) 17:21
その場で最良の仕事をするという事
サラリーマン的には、それでも良いのかもしれないが、経営者や企画をする側にとっては、この言葉は最悪となる。
以前、NHKで、世代別に人を集めて、仕事に対してのdebateをやっていたのだが、そこで主婦である会社の経営者が、女性である事をハンディにされている・・と訴えていた。それに対して注文側の中、小企業の社長が、
「女性であるあなたは、troubleが起こった時に、深夜でも駆けつけてくれますか??」という問を発したのに、「私達は、最良の仕事をします。」と応えるだけであった。・・・というか、本人はそれで、ちゃんと答えたつもりになっているのだが、中、小の社長さん達が、何度も、「深夜とか・・」と、問い掛けているのに、唯、同じ答えを繰り返すだけであった。「私達は女性であったとしても、最良の仕事をします。」ってさ!!中、小の社長さん達は、「工場の機械が止まった時に深夜でも駆けつけてくれるのか?」って何度も、聞いているのにさ・・・!
堂々巡りだよ!頭、硬いね!!
女性社長は、仕事を認めて貰えないのを、性差別の問題として捉えたいのだけど、誰も性差の話はしていないのにね。

そう言えば、昔々、原発反対の人達の吊るし上げを食らっていたお偉いさんが、
「原発がもし、故障した時にはどうするのだ?!」と問い詰められていた時に、「絶対に壊れない物に対して、壊れた時・・という前提はない!」と、宣っていたのだが、それが壊れたのに、そのお偉いさんは、テレビにも出て来ないのだが、どうなっているのだよな??

想定外の、事故とでも言いたのかもしれないが、江戸時代にも同じ規模の津波はあったのだよな??
じゃあ、有史以来という想定は成り立つのだよね!!
結局の所、想定内の人災ではないかいな??
私達が反対していた「もし・・・??」に応えた人間はどこへ消えたのか、誰が責任を持つのか??
今回の原発再開に関しても、責任は一体誰が取るのかな??
また、事故ったら、いなくなって、責任を国民に押し付けて、終わりという事になるのではないのか??
「でも、あなたも原発の恩恵を受けて来たのでは??」という声が聞こえて来そうなのだが、世界のglobalstandardでは、自然Energieの組み合わせが普通で、今時原発に依存しているのは、日本だけなのだけどね??

2014/02/03 (月) 13:57
私のlessonを受けた人や、その保護者が、私のlessonには、子供の
「逃げ場がないので、辛い。」という言い方をする。
生徒を、的確に伸ばすためには、一切の無駄を省いて、必要最低の練習が出来るようにしてやると良い。
それが、その生徒が夢を叶えるための、必要的確な効率になる。
しかし、「効率が良い」という事は、一切の無駄を省いてあるのだから、練習方法に関しても、その意識にしても、「逃げ場所がない」という状況を作り出す。

それを望む人達にとっては、最高に有難い事であるのだが、ほっこりとした人生のぬるま湯を求める人達には、削ぎ落とされた人生というのは、日向ぼっこをする場所が見当たらなくて、すこぶる辛いのだよな。
無駄が多く、効率の悪い人生は、生き方としては、無駄の故に楽な人生でもあるのだよ。
時間を無駄に使う事は、浪費ではあるのだが、楽な人生なのだよ。
という事は、無駄の多いレッスンを受ける事が、その人にとって楽だという事なのだな??!

所詮、人生が趣味な人達には、時間という物は、然程大切ではない。
享楽する人達にとっては、時間その物も享楽するものであるからである。

私は、自分のlifeworkを時短に掛けている。
「一日の内に、どれだけの仕事をこなせるか?」が、私のpolicyでもある。
私の事が理解される事は有り得ないのだよ。
Cassandraの悲劇だなや!?( Cassandra Syndromeの事ではないよ!私は男性だからね!)

2014/02/27 (木) 4:02
ヨージーの法則
多くの人は 物事を自分の都合のいいように解釈しようとする!

2014/02/27 (木) 3:59
多くの親や、子供は、夢を叶えようとする時に、 夢は夢として、
自分達が、日常でやりたい事を犠牲にしないで叶えようとする!
ヨージーの法則では、「一つを求めれば、一つを失う」・・という原則が、あるが、それを「理解出来た」 としても、それを認める事はない。
それで、ヨージーの法則の第二原則である、「二兎を追う者は一兎をも得ず」というdilemmaに落ち込む!!
アハッ!上の法則は、俺の法則ではなく、江戸時代からの古い諺だよ!!
ヨージーの法則の第二原則は、「一兎を追う者は、総てを得る事が出来る」と言うのが正しい。
アハッ!

私の法則が理解されないのは、学校教育ぐらいの努力では、「一芸に秀でる」・・事にはならないからだよ。
仮に県で一番になったとしても、日本ではタカが知れているし、世界では、語る事もないだろうよ。
東大ですら、世界の大学のランクから言えば、タカが知れているのだからね。

上野の山は幾ら、その山を目指して、登頂したとしても、山は低すぎて、裾野が広がる事はない。

音楽の勉強でも、それに邁進し、一芸の領域に達した時に、裾野の効果が出始める。
小学4年生の生徒に、音楽の勉強と学校の勉強の勉強の両立を相談された時に、(親からじゃあないよ!子供本人からだよ!!)学校の勉強は基本的には、先生の話をよく集中して聞いて、授業の合間に、その授業で理解出来なかった所や、疑問に思った所を先生に質問して、宿題は放課後、学校で済ませて、学校の勉強を校門から出ないようにすれば、家に帰ったら音楽の勉強だけが出来るよ!と、adviceをしたら、その生徒は高校を卒業するまで、学年で一番を通したね。
昔の生徒達は、塾には行かなかったけれど、成績はダントツだったのだよ。
でも、変な先生は結構居たね!?
子供が学校で宿題をやっていたら、
「学校で宿題をするのなら、宿題を追加で出す!」「宿題は家での学習の躾のためにあるのだから!」と宣ふ先生もいたよ。
「学校の勉強だけが、勉強だ」という奢りなのだよな??
そう言えば、
「学校の部活の方が、音楽教室の音楽の勉強よりも優れていて、大切だ!」と、信じて疑わない部活の先生もいたな!??
信じられない社会性の無さだわな!!
笑う・・というよりも、呆れて情けなくなってしまう。
こういう先生に、子供達の将来の教育を任せているのか??と思うと、空恐ろしくなってしまうよ。

それで、学校の先生や学校教育を批判しながら、それでも、
「学校がいう事だから、・・」「学校の先生がいう事だから・・・」と、後生大事に聴いているのは、笑える。


2014/02/27 (木) 3:52
絶対音感
フォーレやリヒャルトシトラウスは晩年絶対音感が下がって来て、曲を聞く事を苦しめられたそうです!!
私の感覚では、絶対音感は、絶対なので、一生、どんな状態でも、狂わないように思えるのだが、そうでもないらしい。
それなら、俺の方が、音感が優れている・・という事かいな????
(°0°)!!


2014/02/27 (木) 3:57
絶対音感
mcyとcdkが、二人共、受験の直前のプレッシャーで、音が半音も低く聞こえるようになって、病院に行って、耳鼻科の先生に、音が半音近く低く聞こえる・・と言う事を、一生懸命説明したのだが、とうとう、最後迄、
「分かって貰えなかった!」と言う話をしていた。

絶対音感が低く聞こえるのは、心の問題なので、耳鼻科の医者に分かる分けはなかろう・・て!!
そりゃ、心療内科の医者でも無理な話なのよ!!

音楽を勉強している子供達の2万人に一人しか、絶対音感を身に付けてはいないのだからね!!
それを中国では異能というらしいよ。
つまり、特殊能力の事だよ。

教室では、殆ど全員の生徒が絶対音感を持っているから、逆に当たり前の事になってしまっているけれど、世界の常識では、絶対音感は、1種の特殊能力で超能力なのだよ!!
教室にいると、そういった事まで、一般的になってしまって、分からなくなるのだよ。
どんなに、凄い事を習っているのか、がね???
それを古人(いにしえびと)は、「猫に小判」とか、「豚に真珠」とか、言う。
価値が分からん人には、分からんのよね。
絶望という名の、・・・・


2014/03/09 (日) 3:01
Rのお説教で、Rに受験のための、lessonを始めた時の話であるが、Rが楽典の問題を解いて来た時に、回答に「ダメ出し」をした。
Rは、半べそをかいて、
「だって、模範回答にはそう書いてあるのに、先生が間違いというので、私はどうしていいのか分からない」という。
その回答が正しい答えであるか否かは、楽典の解説書では分からない。
楽典の解説書は、学校教育用の教材として・・・か、音大生達、音楽家の卵、所謂、amateurとproの境目の人達までしか、応用は効かない。本当の、本来の意味は、その延長線上にあるのだよ。

学校教育の一貫として、楽語を学ぶ時には、音楽用語は、言葉として、簡単に直接的にsempreとして、学ぶ!
一例を上げれば、perdendosi(ペルデンドジ)という音楽用語は「だんだんゆっくりとだんだん消えて行くように!」と学ぶ。
勿論、音楽大学のlessonの中でや、学校の先生になるための教育として・・・ならば、その回答でも正解である。
しかし、それと同じ「段々ゆっくりと、段々消えて行くように」という意味をする音楽用語は、それ以外にも、まだ無数にある。
その、無数の同じ意味を表す音楽用語は、少しずつ、意味が異なるのだよ。
いやしくも、音楽のproを名乗るのならば、その微妙な意味の違いを知らなければ、その曲の音楽表現をする事は出来ない。

だから、先ほどの、perdendosiという単語も、所謂、音楽大学の楽典の授業の中では、それでも良いのであろうが、音楽を職業として学ぶproの回答としては、それでは、正解にはならない。
perdendosiの細かい意味も分かった上で演奏に反映しなければならないからである。

purcellのchaconneのg mollのBenjamin Britten版には、最後のpassageで「死に逝くように」、とか「消え果てるように」とか書いてある。
まさに、perdendosiそのものである。
perdendosiはそういう意味なのだよ。
「だんだんゆっくりと、消えていくように」ではないのだよ。
段々、幽くなって、悲劇的に死んで逝く状態を表すのだよ。

そういった細かい事を学ぶ事が、私のlessonを受ける意味であり、「江古田詣」の意味でもある。
今の子供達は、学校で優秀であればある程、キャッチボールを忌み嫌う。
でも、proとして、学ぶのであれば、たった一つの問題に対してのキャッチボールが、半年、一年に及ぶ事は、ざらである。
それで、音を上げるようでは、proに成れる事はない。
音楽で、「出来た!!」と、言う事は有り得ないのだよ。
それが分からんと、受験も無理だわさ!!

2014/03/16 (日) 10:14
proになるには補遺
もし音楽大学の先生達が言うように、技術を磨く事がproになる事であるとすれば、
オリンピックの金メダリストのように世界一のproは世界で一人いればよい事になる。

一般の人達は、音楽家になる・・という事をそのように捉える。
ヴァイオリニストに
なりたければ、世界一のviolin奏者にならなければ、proにはなれないという思い込むのである。

つまり、日本人の考え方に於いては、グリュミオーやシェーリングやクライスラーのような大ヴァイオリニストが、何人もは必要ないのだよ。

技術が全てであるとすれば、2番手は必要はないからね。

でも、実際には違う!!

世の中には、シェーリングが好きな人もいれば、パールマンが好きな人もいる。

私みたいに、その全ての人達が好きな人間もいるのだよ。

もうその時点で、世界一は何人いても良い事になっているのだよ、。私の中では・・・。



音楽イクオール技術ではない。

私のmethodeでは、技術は心を伝える手段に過ぎないのだよ。
心を伝えるために技術がいるのだよ。
心を勉強する事なしに音楽を極めようとしても、それは張子の虎に過ぎない。
虎の皮の狐に過ぎないのだよ。
日本人の多くの演奏家は、自分の楽器の技術を追求し、研鑽することはあっても、音楽を、その魂を研鑽しようとはしない。
あくまでも、proへの道は、限りない技術の研鑽であって、中身のない張子の虎が目標なのだ。
当然、張子の虎なのだから、見栄がないと、ただの張子にしかならない。そこで、自分をブランドで着飾って、そのブランド力で音楽界で活動しようとするのだ。



しかし、有り難い事に、今の日本社会はそれこそ、お受験も、お就職も、お結婚も、全てブランドに尽きるのだよ。

だから、日本のClassicの音楽界は、有名教授門下で、有名音楽大学卒業で、コンクール入賞で、海外留学等々、それこそブランドで固めて、演奏活動をしようとしている。それでも、運良く張子の皮一枚で、音楽界に生きていける人も出てくる。需要があったのだよな??

AVの裏社会で活躍した方がよく似合っているような、美人の(何処が???)フェロモン過多のヴァイオリニストがいたりして・・・。

でも、魂のない日本のclassic業界ではそれがちょうど合っているのだよ。

アハッ!




2014/03/19 (水) 12:31
時短と仕事 プロの一流の漫画家は連載を何本も抱えているので、道を歩きながら、これはあの漫画に使えると考える。
二流、三流の人達は、一つの事しか考えられないので、同じ事を見ても、それがヒントである事を見逃してしまう!

2014/04/01 (火) 2:35
「水準を上げる」という事は、「落ちこぼしを作る」という事なのだ!


2014/04/07 (月) 16:46
愚痴とぼやきと文句と不平と僻みと・・・・、云々

2014/04/08 (火) 15:49
女性にとっては、メトードに対する理解よりも、女性としての感情の方が優先する!

2014/04/18 (金) 15:36
「芦塚メト−ド」というのは、子供にrhythmの指導をする時に、手ではなく、肩で指先でリズムを取るということだ。
これじゃあ、何の事か分からんよね。

子供がrhythmにつまづいた時に、先生は何とかrhythmを把握させようと必死になる。
最初は、手を叩いたりするのだが、子供は聞くという事と、弾くという事がなかなか一緒にには出来ない。仕方ないので先生は、子供の背中を叩いたりするのだが、そうすると子供は恐怖を感じて、泣き出したりして、lessonを嫌がるようになる。
つまり、子供を怖がらせないで、rhythmを指導するには、どうしたら良いのか??と言う「how-to」そのものが、既に、methodeなのだよ。
手を叩いて、それに合わせる。Metronomの音を聞いてrhythmを取る、・・というのは、もう相当訓練の出来た生徒なのだよ。
先ずは、そのtempoで演奏出来るようになったら、そのMetronomのtempoで、rhythmに合わせる練習をする。
それも、たった1小節とか、2小節とかの、onephraseだけを・・・ね!!

「何で、弾けるtempoなのに、わざわざそのtempoで、練習するの??」

その意味が、分からないと、Metronomの導入は出来ないよな!??
Metronomの導入は、思ったよりも難しいのだよ。
無理なく、Metronomを導入するには、そこにも、ちゃんと段階(step)があるのだな!

2014/04/22 (火) 23:46
失敗についての勘違い
失敗した時には誰でも反省する!それで二度と間違えないように心がけるのだ!
しかし、人間はまた同じ間違いを犯す!そしてまた、同様の間違いを犯すのだ!
二度と同じ間違いを犯さないようにするには、反省などする必要はない!
人間は間違いを犯す動物で不完全な存在である事を自覚すべきである!
「間違いを犯さないようにします。」何て言うのはその人間の驕りである!
絶対に間違いを犯さないように、プログラミングすれば良いだけの話しである!
原発を作る時に、
「原発は絶対に壊れないので…!!」としきりに言っていたのだが、「それでも壊れたら…!?」という記者の質問に、「絶対に壊れないのだから、壊れるという仮定には答えられない!」と言っていたのだが、その言い方に危うさを感じた!
「人間のやる事には、必ず間違いや、トラブルがつき物である」という前提でありとあらゆる対処方法を事前に設定しておけば、良いだけなのに・・・

2014/05/17 (土) 9:08
成果主義
昔々、子供がコンクールに出て、その伴奏を弟子がしたのだが、コンクールに落ちたら、伴奏料が幾らで、合格したら、お金を足していた!!
それって、チョッと違うんじゃあ〜ないの??
落ちたか、入ったかは、本人の努力のせいで、伴奏のせいではなかろうに・・・???


2014/05/17 (土) 21:57
Rの迷言
orchestraの練習で、
「今日は、kadenzありで練習しよう。」と言ったら、Rが、「スコアにカデンツが書いてなかったので、kadenzは、弾かなくてもよいのか??と思った!! と、言った。

今迄、お前は、これまで、何年scoreを見て来たのだよ??
心ここにあらざれば、見えど見えず、聞けど聞こえず・・・
古人は上手い事を言ったものだよね。

以前、音楽大学の講座で外人教授の授業を受講した、celloの男の子が、ロシア人の教授から、
「君、そこは、ritardandoだよ!」と、言われて、「ritardando、僕は知りません。習った事がありません。」と、弁解した・・という有名な話がある。
「rit.はritardandoの事だ!」と教室に入った時から、習っていたはずなのに、「聞けど聞こえず、・・・」なのだよね!


以下は、未だ未整理、未処理のmailのままです。
本来的には、整理が終わって、論文化したら、それ以外のmailは、削除するのですが、折に触れて・・の作業なので、今しばらくはこのままの状態です。
但し、順番に校正して行く分けではなく、気がついた所、思いついた所から、暫時、手直ししていきます。


2014/07/21 (月) 18:51
Re:受けた話
昨日さらちゃん、愛ちゃん、じへちゃんが、黒ピアノに飾ってってある芦塚先生とハイム先生との写真が新しくなってるのに気づいたのですが〜
えー芦塚先生なの?
ウッソー
までは予想道理でしたが、「どっちが芦塚先生かな〜?」「座っているほうが芦塚先生だよね!!」「そうだよね!」と、3人とも。
失礼ながら、さらちゃんママとで爆笑でした。
Pringsheim先生が金髪だから、そう思った(白髪と勘違いした)そうです
芦塚先生は外人だと思ってみたいです

なんだそりゃ!なんで外人?
白髪と金髪の区別つかんのか?!

八千代の集合写真を花園教室のlesson室に飾った。

友花が
「八千代の写真ってこの時のしかないんですか?私が出なかった時のだから私映ってない」と残念がってました。
           
はいはい、友花の入っている写真と交換をしておきましたよ!!

2014/07/21 (月) 21:44
椎名町の事務所は、部屋全体が真っ暗なままで、玄関でプリが待っていた!
それなのに玄関の横の窓は開いたままだった!
それはないよな?!!

昔々、旭が丘教室の台所の窓の鍵を、当時の先生が忘れて部屋を出て、留守中に泥棒が入った事があった。
鍵をかけるのを、忘れた事は忘れたのだが、窓にはアルミの柵があって、人が窓から侵入は出来ないと、思い込んでいたのだが、外側の窓の柵は、意図も簡単に壊されて、内側に並べてあったビン類は、新入の後、元のようにキチンと並べ直してあった。
台所のテーブルの上にあった小銭入れの財布は、殆ど手が付けられていなくって、会計の封筒や月謝袋を開けるまでは全く気が付かなかった。
その時には、近所の家も、軒並み被害にあったのだが、その時に、調べに来た警察の人が、
「窓の格子は、ほとんど泥棒には意味がない。」と言う話をしていた、・・・と言う話を、戸締りの確認の時に、私が皆には何度も繰り返し、したはずだなのがね!?

幾ら、「耳タコ」に、何度も何度も繰り返し話ても、実際に、泥棒に入られないと、俺の言っている事は、現実味を帯びないのかな??
というよりも、同じミスを繰り返す人は、何度同じ事を注意されても直さないのだよね。
これって「性格」で、片付けられる分けではないでしょう??
主婦ならば、同じミスを犯しても、許されるのかも知れないけれど、外に仕事をしている人間は、仕事で同様のミスをする・・という意味なのだよ??
これもポニョミスなのだがね。


2014/07/22 (火) 9:21
濃い味茶を、
椎名町の事務所から、せめて1本だけでも、ハイツに持って帰るべきだったのに、
「江古田のセイフーで買えば・・?」の先生の一言で、事務所から、濃い味茶を、ハイツに持って帰るのをやめてしまった。
でも、流石に、ハイツを通り過ぎて、江古田のセイフーまで、わざわざ濃茶を買いに行く気力がない。
そのほんの何百メーターの距離が、深夜には辛いのだよ。
困った!!てーへんだ!!!
飲み物がない!!
事務所には、ちゃんとstockがあったのだから、意地を張るべきでは、なかったのだよな??
でも、俺は、基本意地っ張りだから・・・、武士は食わねど高楊枝・・・だよな!!
という事で、やっぱり、飲み物がない・・・

2014/07/22 (火) 10:42
暑い!!
窓を全開にして、玄関入口のドアも開けているのに、暑くって体から汗が噴き出してくる。
濃い味茶のstockが全くなくなったので、本当は、セイフーに買いに行かなくっちゃいけないのだが、暑くて外に出たくないなぁ??


2014/07/24 (木) 1:19
さっきから江古田の駅の周りをパトカーが走り回っている!
どうやら犯人を探しているようだ!てえへんだ!


「千葉教室へのlessonへの移動」
ひたすら忍耐力のテスト中
今呉服橋

2014/07/24 (木) 0:11
なんとかやっとたどり着いた!
行きも帰りも2時間コースで首都高全域工事渋滞でそのために事故をあちこちで誘発している人災だな!!

2014/07/25 (金) 0:52
やっと、
ハイツにたどり着いた。
汗が酷いので今からシャワーを浴びて、髪の毛を洗って、それから、一息つく

2014/07/26 (土) 9:31
彩乃のMenuet
の2Page目の音に初歩的なポニョミスが1箇所と、原譜の音の訂正が1箇所、あったので、2Page目は差し替えしてください。
事務所のパソコンに送ってあります。

次ページ