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多くの親がこの二者択一で失敗する。
夢を、ただの夢にしないためには、常に人生の選択を迫られるのだよ。

このお話は、ヨージーの二兎の法則で、何度もお話しているので、蒸し返さない事にする。
全てのproという職業は、人に必要とされる・・という条件の他に、自分がNiveauに到達するために、自分を律しなければならない。

それだけではなく、そのNiveauを維持をするという困難にも立ち向かわなければならない。
若者にとっては努力は技術の向上を意味するが、老人にとっては努力は技術の維持にしかならない。

しかし、分別は、若者には勝る。
しかし、衰えた技術を補填するためには、相当の技術の維持を要求される。
ある意味、proという職業は、stoicな日常を要求される職業ではある。


2013/05/17 (金) 23:42
「練習するのはamateurで、その場に行ってチャラチャラと弾いて来るのがproだ!!」
・・・というとんでもない間違いを犯している音楽家の卵達が多いのには辟易させられる。
taxi・driver的な、(メーターあたりの走行距離でお金を貰うのが)proと言う事なのだな??
音符何個に対して、幾ら・・という考え方なのだよ。
勿論、popularの演奏者はそれで良いのだよ。
自分がClassicの演奏家として活動したければ、それは違うのだよな!?
proは生きている限り努力を続けなければならない。
それは、新しい曲にchallengeするという事だけを意味するのではない。
昔、勉強した曲は勿論の事、子供のlesson用の曲に対しても、全く同じ曲として接しなければならない。

自称、演奏家の人達と会話をすると、子供の教育や子供達の教材について、子供を対象にしたものだから、学ぶべきものはない・・・という、前提に立っている演奏家が多くて、参ってしまう。
説明する気にも、adviceをする気にもならない。

Genzmer先生も、よくおっしゃっていたが、歴史の中に、100年も200年も生き残って来た曲は、子供の曲であっても、無名の作曲家であったとしても、学ぶべき事は多い。
Classicを勉強する音楽家は、BeethovenやChopinに至っても、初歩の教材を作ろうとして挫折した事を知っておかなければならない。
DebussyやProkofievやBartokに至るまで、子供の教材にapproachして無数の曲を作曲したのだが、とうとうBeyerにはかなわなかった・・・、という事を忘れてはいけないのだよ。
もっとも、Beyerの良さ(素晴らしさ)が分からない人達にとっては、そのBeyer教則本のsystematicな構造・構成は理解出来ないだろうし、子供達のために基本的な構造で、簡明に作り上げたBeyer教則本の構造分析やPianoの技術のsystemさえも、理解出来ない人達が、子供達を対象にした曲ではない、音楽に対して造詣の深い人達を対象にして作曲をしたBeethovenやChopinの音楽を、真摯に理解する事が可能か否か・・・というlevelになってしまうな???
アハッ!

 

2013/05/24 (金) 23:26
自殺未遂を繰り返す主婦
この子のためにも頑張らないと…!!
違うんだなあ!

一途さとか、ひたむきさとか、一生懸命・・と、いう事は、「辛さに耐えて辛抱して・・」という意味ではないのだが、どうしても日本人はそこの所が分からないのだな?
一途さとか、ひたむきさは、そんなマイナーなstoicなものではなくって、楽しいハッピーなものなのだよ!!

2013/06/02 (日) 11:39
ヨージーの法則

知識は単なる記憶であって、それ自体は何の意味もない。
知識はそれを使いこなす能力を身に付けた人にのみ、価値をもたらす。 


2013/06/14 (金) 17:14
作曲家や小説家は自己批判能力が勝っていると寡作になってしまう!

自惚れが強く克己心のない若いちゃらちゃらした美人の方が、社会的貢献度は高い!

2013/07/01 (月) 17:40
proとしての条件

思いやり、一途さ、自主性


2013/07/16 (火) 10:09
一般の人間は、「一生懸命努力さえすれば、必ず報われる」と、思っている。

私が昔から口を酸っぱくして、言い続けているように、「誤った方向性、誤った方法論、誤った努力では、その努力は報われる事はない」と、いう事が、未だに、親達や子供自身にも分からないのだ!

夢が叶わないのは、努力が足りないからだとして、もっと無駄な努力を増やそうとするだけで、私の夢に対する考え方や生活そのものを変えていこうとはしない!

自分達の日常生活を優先したままで、その範囲内で、私の指導との妥協点を探しだそうとする。

妥協の上に成り立つ、「一生懸命な努力」何てものはありはしないという事が分からないのだよ!!

そして、自分達は、先生の言うことを、ちゃんと聞いて守って努力しているというのだよ!!

怠惰な日常生活を変える事無しに、……だらしないその日その日に振り回された日常生活の延長線上に叶えられる夢など、あるわけはないという事が、どんなに説明しても分からないのだよ!!

そして、その結果、挫折をしたとしても、その理由を子供自身の才能の無さや指導者の力量不足の性にして、自分達が心の落とし所をほんの少し変えればよい、という、いとも簡単な努力さえ、しようとはしない。

そして、自分達がそれまで持って来た考え方の誤りを認めようとは、絶対にしない!

自分達の考え方の延長線上にも叶えられる夢があるという錯覚に陥っているのだ! 


時間と水準
2013/07/16 (火) 17:29
分かり切った事で、その点では学校教育や塾においても同じだと思われるのだが、仕事は与えられた時間内でどれだけ出来るのかが、評価の基準となる事が多い!

それに対して、評価の基準が時間には無く、作品の水準で評価される仕事もある。
芸術の分野では、寧ろ作品の完成は、難しい事の方が多い。
生涯未完成の作品が多いのも事実である。
モナリザ然り、ファウスト然りである。
実際には、このhomepage全体も完成形ではない。
未完成として、常に推敲を重ねている。
blogやchatですら、・・・である。

物を一元的にしか見ようとはしない、現代の子供達にとっては、この相反する評価の基準は、いたずらに混乱と困惑を招く原因にもなっている! 


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2013/07/18 (木) 1:42
時間と水準2

以前、MKやHKが生徒のレッスンで「間違えなく最後まで弾けるようになったので、もう合格でよいか?」という事を聞いて来た!
私の場合には、そこから私のレッスンが始まるのだが、

今回も反省会に間違えなく最後まで弾けたから反省会には出席しなくてもいいとhkrが言ったという事を聞いたのだが、「『完璧に出来た』と思った時には、音楽の勉強をやめる時である。それは『進歩がなくなった』という事を意味する分けなのだから!」というのが私の持論である!

また聞きで、聞いたので、hkrが言っていた意味とは違った意味だそうなのだが、音楽大学を卒業した社会人である先生達が同じ過ちを犯しているのだから、小学生の間からそういった意識付けをする事は大切であり、子供に指導する事は無駄ではない。



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2013/05/06 (月) 13:09欝日記より


椎名町の事務所の万両


2013/05/06 (月) 13:09
部活と年功序列の考え方
音楽で部活を何年続けたとしても、その延長線上に音楽大学はないし、ましてや、音楽のproになれることはない。

・・・てな話を、私が話をする事は、音楽教室を開設して以降、現実的にはこれまでには、一度もなかったのだが、何とその勘違いをしている生徒や学校の先生が、近年出現して来た事は、驚きで、無責任時代か自己満足の時代の幕開けだよな!!

部活で勉強する音楽の技術は、professionalの人達が学んでいる技術とは別物なのだ。
部活等で、学ぶ音楽の技術は、所詮はamateurのTechnikであり、練習の量の積み重ねによる演奏技術に過ぎない。

proを目指す人は、幾つも基礎の技術を積み上げて、その延長線上に、音楽表現の技術を練習する。
そのmelodieを演奏するだけのためのTechnikとは、所詮別の次元の話である。
指導するのも、上級生で、proの演奏家ではないのだよ。
amateurがamateurを指導して、proの演奏が出来るものかいな??
所詮は自己満足の演奏に過ぎない。

勿論、それで友人達に演奏を聞いて貰うのは、全く仲間内の話なので、それは差し支えない。
私がここで、問題にしているのは、その生徒がそこで幾ら熱心に音楽に邁進しても、その延長線上には、proの演奏家としての将来はないのだよ。・・・という事なのだ。
そこで、音楽の良さを学んだからと言っても、だから、音楽学校に進学出来る分けではないのだからね。

部活で音楽に目覚めて、それから音大進学を目指して、教室に来られても、残念ながら、教室としては、何も出来ない。
つまり、その時点から、音大進学のための基礎を、勉強し直すのは、不可能に近いからなのだよ・・。

勿論、教室の中で、趣味としてでも、orchestraや室内楽に参加していて、それで学校の部活と平行させていた生徒達は、高校生から「音大進学」を云々したとしても、それは問題はないのだが、それは最初から教室で学んでいる音楽の水準や基礎が全く違う別の次元の話なのだからね。



2013/06/14 (金) 17:14
作曲家や小説家は自己批判能力が勝っていて、stoicであればある程、寡作になり、社会から孤立してしまう!
自惚れや、自己顕示欲が強く、自分に対しての克己心のない若く美人の方が社会的貢献度は高い!
高邁な政治家よりも、利権の多い政治家の方が、社会的評価は高い。



2013/10/23 (水) 0:05
教室を経営する上で、生徒を指導したり、保護者に対してadviceをするにあたっては、保護者の教室に対しての不満等を事前にキャッチしておく事が大切である。

教室に対しての希望や要望がある場合には、保護者は教室に対しての何らかの動きを見せる。

しかし、問題なのは、保護者が学業や塾、所謂、進学等の問題で親が教室との関わりで悩んでいる場合である。

勿論、教室としての立場では、総ての生徒に音楽への進学や教育を勧める分けではない

音楽との関わりは、あくまでも親か、子供がそれを望む場合に限っている。
「ある生徒の音楽の技術が幾ら優れていた」としても、或いは、「音楽がその子供に向いている」とした場合に於いても、「音楽に進む事を教室サイドから積極的に勧めることはない」・・というのが、教室の方針である。

また、同じ理由から、ある生徒の立場が
「進学や塾がメインであって、教室は単に、勉強の息抜きに過ぎない」という場合には、進学へのadviceや、勉強そのものに対してのadviceは、門外漢であるので原則的にはしない。
学校の先生や、塾の講師が、専門家として、直接の相談に当たるべきであるからだ。

「もし??」「まかり間違えて・・」でも、「音楽と関わって行きたい」、という場合や、趣味であったとしても「一生音楽からは離れたくはない」、という場合には、教室は積極的にadviceをする事になる。

そのためには
「保護者がどう悩んでいるのか??」「子供がどう行き詰まっているのか??」、等々の諸問題を、相談を受ける前にある程度事前に把握して、教室としての統一された見解を出しておかなければならない。
それは、私達の教室が、他の一般の音楽教室とは違って、多くの先生が一人の生徒への指導に携わるからである。

よく、教室の先生ではなく、教室関係者の先生から、
「**ちゃんの父兄がこういう雰囲気だったよ!」とか、「色々と悩んでいたから相談に乗ってあげた!」とかの報告を受ける事がある。
また、その報告は、
「教室の先生達が、生徒や父兄達のそういった問題を把握していないだろう!」という事で、「教えてあげた」・・という話が多い。
しかし、そのご忠告の殆どは、教室が把握しているのにも関わらず、ワザと保留にしている事が殆どである。
ご忠告に関しては、
「万が一にも、100分の1%の確率ででも、教室が把握出来ていない事があったらいけない」ので、という理由から、有難くそういった忠告も耳に入れておく事にしているのだが、殆どの場合には、箸にも棒にも掛からない話題である。

何故、折角の部外の人達のadviceが、箸にも棒にも掛からぬadviceになってしまうのか??
それは、殆どの父兄との会話が、井戸端会議的な雑談に過ぎず、またその内容の理解も、言葉ジリに拠る情緒的、感情的な推論によるものだからである。
多くの人達で
「自分は人を見る目がある。」と自分の他人を見る目を信じている人の多くは、その対象の人を、自分がそう思った風に誘導している事に気がつかないし、誘導されている側も、相手が自分が落ち込こむ事を事前にキャッチしたと、ますます信じてしまったりする。

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