前ページ

クララの一生は、彼女の抱える難病との戦いの日々でした。体力が許せば演奏活動をして、闘病をするという毎日の繰り返しでした。
チェンバロのお話をするはずが、脱線して、別のお話になってしまったようなので、ここいらで、話を元に戻して・・・・・












チェンバロのお話に戻って、アントン ハイラーの弾くヘンデルの組曲第3番二短調の悲壮なほど輝かしい変奏曲は、高校時代、大学時代と、何度となく本当にレコードがすりきれるまで聴き続けたものです。
同じレコードを留学中にウィーンのレコード店で見つけて喜々として買い求めました。何故ウイーンか?というのは、当時はアントン・ハイラー先生は、ウイーンの音楽大学のオルガン科の教授で、lessonを見て貰うのに、5年待ちの売れっ子の先生でしたからです。
チェンバロに開眼した私は、高校時代には、ヘルムート ヴァルヒャの弾くバッハのチェンバロ作品やワンダ ランドフスカの演奏するチェンバロの作品を数多くを集めました。音楽大学に入った頃には、それ相応のチェンバロ・マニアになっていました。
音楽大学でチェンバロ科を作って、第一号の生徒になりました。とは言っても、チェンバロ科の試験問題は私が作ったので、第一号の生徒は当たり前ですがね。



音楽学校時代

音楽大学に入ってからは、よりチェンバロとの.関わりが深くなっていきました。音楽大学には、当時日本にはまだ数台しか無かったチェンバロの1台があり、中川洵先生というチェンバロの先生もいらっしゃいました。個人的にどうしてもチェンバロを弾きたいということで、「音大にチェンバロ科を創設しましょう」と、その先生を口説き、ピアノ科の副科楽器として5〜6名ほどの副科チェンバロが大学に認められました。
先程も書いたように、希望者の選抜試験は私自身がつくりました。
チェンバロに対する思いがどれだけ真摯なものであるか,興味本位なものでないか・・・を推し量る為のもので、「前期バロック時代の有名な作曲家を5名あげよ」とか、「室内ソナタと教会ソナタの違いを延べよ」といったまだbaroqueの音楽が一般的でなかった時代には超マニアックな内容のものです。
こうして私は作曲科であるにもかかわらず、ちゃっかりとチェンバロ科第1号の生徒になったのです。
学校のチェンバロはノイペルトというモダンチェンバロ(現代チェンバロ)でした。



ミュンヒェン留学
ミュンヘンに留学した私は、最初の1〜2年はピアノの弾ける部屋を確保することができませんでした。
その為に、ライゼ・クラビコードという携帯用クラビコードを手にいれました。
ライゼ(携帯用)クラビコード
(芦塚先生が使用していたもの)           通常のクラビコード

次ページ