巷の音楽教室である芦塚音楽研究所
[芦塚音楽教室とは?]
芦塚音楽研究所付属「芦塚音楽教室」という名前は、結構厳めしいのですが、特別な「プロになる生徒だけを指導する」とか、或いは、「音楽を職業とするための勉強をしたい」、というような、特別な生徒のみを集めて指導している、コンセールバトワールのような形態の教室ではありません。
極々、普通の一般的な近所の子供達を集めて教えている、それこそ、ただの「巷の音楽教室」に過ぎません。
唯し、芦塚音楽研究所が巷の音楽教室と一線を画すのは、私達の教室のcurriculumやその指導内容が、かなりストイックに「クラシック音楽に限る」という厳しい限定(絞込み)が入っている・・・からなのです。
[芦塚音楽研究所の設立の目的]
芦塚音楽研究所は、芦塚陽二先生の音楽理論と教育理論を実践する場として、設立されました。一生付き合って行ける「生涯学習的な音楽との出会い」という理念で、プロとして、或いはamateurとして、学習する人の立場はそれぞれに異なっていても、「真摯に音楽に向かい合える」という事を教育の理想として芦塚音楽研究所を立ち上げました。
[従来の音楽教育とは]
芦塚音楽研究所とは、周りの教室と何が違うの?という質問があります。
実は、これにお答えするのは大変に難しいのです。
まず第一点は、一般的には、一言で周りの教室と言って片付けてしまいますが、大手企業の経営する音楽教室から、個人の教室、音楽大学の付属の音楽教室、音楽大学の先生が自宅で教えている教室まで、教室の種類としても、内容としても各種各様あるからです。
また複数の先生が指導している教室も、雇った先生に自由に指導を任せている教室から、教室自体に独自のmethodeがあって、指導する先生達にそのmethodeの習得を要求している教室もあります。
それ以外にも、大手企業の音楽教室は、それぞれ独自にグレードを設けて、そのグレードで雇用や時給の額を決めています。大手企業の場合には、どんな音楽大学を卒業していたとしても、どのようなベテランであっても、グレード試験に合格しない限り時給がupする事はないのです。
これらのお話はホームページの芦塚先生のお部屋⇒(インストラクター志望者への)アドバイス⇒職業意識と所得にも書いてありますので、興味のある方は一読ください。
個人の音楽教室の場合は、数名から数十名の先生を擁している音楽教室よりも、寧ろ一人で、自宅で、近所の子供を気楽に指導していて看板すら出していない主婦のバイト的な音楽教室の方が多いと思います。
主婦が指導している音楽教室の場合には、その音楽教室が主婦のバイトであるか否かは子供の指導しているのを、税務署に出してあるか否かで決まります。
自宅で教えている先生の殆どが生徒数は20名以下の小さな教室だろうと思いますが、サラリーマンの主婦の場合には副業が38万を超える場合には申告が必要になります。
つまり、月3万円と少しで、申告が必要になるのですよ。生徒一人当たり7000円として5人だと、月の収入は3万5千円になります。
申告は年単位なのでその12ヶ月で、年間の所得は42万円で、もう38万円をオーバーしています。
主婦のバイトにはなりえませんね。税務署に申告をしないと後で、追徴金の請求が来ます。
結構、主婦のバイト感覚で近所の子供を教えている先生も多いようですが、感覚はさておいて、所得は感覚とは無関係に仕事とみなされますので、ピアノやヴァイオリン等を教える先生は気をつけないといけません。
話を芦塚音楽研究所のお話に元に戻して、
つまり、従来の音楽教育とは何かという一般論からお話しなければならなくなるからです。
芦塚音楽研究所というからには、何かを研究していなければなりませんよね。
それが、芦塚先生の教育methodeである、通称「芦塚メトード」です。
では、芦塚メトードとは何か?
芦塚メトードを一言で言うと、芦塚メトードとは、日本の従来の儒教型の教育法に対するアンチテーゼとして提唱されたmethodeなのです。
私達の教室に対する一番多くの勘違いは、単純に「優れた先生のいる音楽教室」という捉えられ方です。
教室がそういった便利な教室であるかのような感覚で入会されると、後日、保護者の方の子供に対しての教育のご希望と、教室の音楽教育に対する姿勢とが噛み合わなくなって、混乱する結果となります。
という事もあって、入会される方には教室の趣旨説明をしっかりとするように先生方にお願いしてきました。
しかし、近年は、10年近く芦塚先生のご病気で、先生の意図が、肝心要の先生達にも骨子が伝わらなくなってきているように思えてなりません。
ということで、芦塚先生も「老骨に鞭打って・・・」とおっしゃりながら、教室の手直しに着手されたところです。
芦塚音楽研究所の開設の趣旨や、教室の独自性はあくまでも、芦塚先生の提唱する「芦塚メトードの実践の場としての教室」という所にあるのです。
そこをおろそかにすると、芦塚音楽研究所の独自性が失われてしまいます。
では、その「芦塚メトード」とはいったいどういった物なのでしょうか?
教室では音楽を習い始めたばかりの子供達に市販の音符カードを買わせて、「譜読みのメトードのレッスン」 をします。
という事で、ある先生が「芦塚音楽研究所では、譜読みは市販のカードを使っているから芦塚メトードではないのだよね。」と他の保護者の方に説明しているのを聞いて唖然としてしまいました。
その先生はカードが教室で制作したカードではなく、市販のカードを使用していたので、譜読みのメトードも芦塚メトードではないと思ったのです。
教室では、音符カードの音符を言い当てる時には、下から順番に数えるのは、厳禁です。
一般の音楽の先生のように、「ちゃんと、下から丁寧に数えて!!」という指導は、芦塚メトードでは、絶対にやってはいけないのです。
反射的に、瞬間的に1秒で答えなければいけません。という事で、それを見学して、家に帰って、早速自分の生徒に対して、真似をして指導したら、全く出来なくって、(或いは出来るようにはならなくって)その先生が教室の先生に質問してきました。実は、1秒で読めるようになるには、その前の段階が幾つもあるんだよね。
その生徒の年齢や、能力に応じて、その前のstepをどこから始めるかを決めます。これを詳しく説明すると、また、一つの論文になるので、それは直接、先生の指導の下で学ばなければなりません。
宮本武蔵ならば、「以下、口伝」と書くところでしょうかね。
譜読みのgradeは、比較的に年齢の低い時期に本の一瞬で終わってしまいます。
だから、他所からの先生は、何を指導して、生徒に何が起こったのかさえ、分からない、見えないという事が多いようです。
メトードとは、何を持ってメトードというか、という、その肝心要の所が分かっていないと、教室の先生達のlessonを見学していても、何も見えないままに、「先生達、普通にlessonしているだけですよね。」「やっぱり、生徒や保護者の方達の質が良いのですよね。」で、終わってしまいます。
メトードの意味が分かっていないのよね。
だって、Beyer教則本なんて日本中のピアノの先生が今でも使用しているけれど、その教材を使用しているからといっても、それで芦塚メトードとは言わないもんね。
別に他の教材を使っても、芦塚メトードは芦塚メトードなのだからね。
それに、教室で使用するのに、適した教材がなければ、教室で独自の教材を作るしかないけれども、あれば、わざわざ作る必要はないからね。
あるものをそのまま使用して、指導の方法として、芦塚メトードを使えばよいのですよ。
音符カードがあるのなら、それを使って芦塚メトードを使用すればよいのです。
芦塚メトードとはmanual(ソフト)のことなのですからね。
いやぁ、のっけから笑ってしまったよ。
それにしても、いきなり芦塚メトードを説明しようとすると、従来の日本の教育界に無いものを説明する事は非常に難しい。
と言う事で、逆に今普通にあるもの、それが当たり前とされている従来型の教育法、日本型(儒教型)の従来の教育法とはどういうものかという事をご説明した方が、分かり易いと思います。
芦塚メトードは従来の日本の教育法のアンチテーゼとして、作られたものだからです。
[従来型の日本の教育法]
日本型の教育法、・・・・それは日本古来の家元制から来る、絶対的な相伝、口伝の世界であり、完全無欠なコピーを要求されるし、質問や疑問は一切認めない、一途な反復練習によって師匠の意図をコピーしていくという世界であります。
こういう言い方をすると、批判ばかりをしているように、聞こえるかもしれませんが、それが日本の伝統となって来たのは、それはそれなりに成果を出す事は出来たからなのです。
こういったコピーを基本とした教育法は、能力を持たない、(才能を有しない)先生や生徒をある程度の水準迄、教育するのには、それなりにすこぶる有効な手段ではあります。
しかし、本当にGenie(才能)を持つ人間にとっては、それこそ都合の悪い、その恵まれた才能を潰してしまう、誤った指導法である事には異論はないでしょう。
こう言ったコピーを教育とする教育法は、日本古来の万葉の時代から「まなぶ」と言う言葉が、「学ぶ(まねぶ=真似ぶ)」という言葉から成り立っている事を見ても分かります。つまり日本人にとっては、学習をするということは、先生のお手本を真似をするという事になるのです。
世阿弥の言葉にもあります。「道に至(いたる)は易く、道よりいずるは難し」と・・・。
[日本古来の一般通念]
教育という大前提ではなく、具体的に、話を音楽に限定して進めていきましょう。
その前提となる音楽習得に関する一般通念は、
*音楽は難しい。(この場合の音楽とは、音楽を表現する事ではなく、単に音楽を聞くことも含めて、と言う意味です。クラシックは難しく、硬くってつまらない・・これがクラシック嫌いの人達の一般的な受け取り方ではないでしょうかね?)
*音楽技術を習得するための練習は厳しくつまらない。
*先生は怖い。(日本では偉い先生になればなる程、厳しく怖い先生である、という通念があります。)
*音楽の習得は難しく、辛いものである。
音楽に進むには、そういった厳しい練習に耐え得れた人だけの、・・・しかもその選りすぐられた人の中で、特別に才能に恵まれた極々一部の限られた人のみが、音楽の専門家と呼べる人になれる、という厳しい大前提に立っています。
根本にある考え方は、「音楽をやっていて、楽しいと感じるのは趣味のレベルだからであり、プロとして生きていこうと思ったら、(あるいはプロを目指さなくても、音楽を上手に演奏したいと思うのならば) 毎日、毎日辛い練習や単調な練習を繰り返し練習したり、厳しい辛いlessonに耐え抜かなければならない。」という考え方です。
そして、そういった努力に耐えられたとしても、運良くプロの道に進める人はその中の極限られた才能に溢れた人だけです。
と言うわけで、日本の音楽教育界では「『音楽が好きで、音楽が楽しい。』 という人の音楽は、所詮amateurの音楽に過ぎない」 という前提に立っているのです。
楽しい音楽は遊びで、趣味の領域にしか過ぎない。
本当の音楽は辛く厳しい努力と研鑽の中にある。
芸術を学ぶという事はそういった自己犠牲のたまものである。
⇒ここまでのお話で、それは当然な事だと思われた方は、残念ながら、どっぷりと日本的な儒教的な従来型の教育に嵌り込んでいる人です。
そういった従来型の勉強法が正しいと思う人は、無駄な努力を積み重ねて、努力してみたけれど、やっぱり無理だった。才能がなかった、と諦めるのも、それなりに人生の一興でしょうね。
[従来型の教育に対しての芦塚メトード]
そういった厳しくって辛い、従来型(儒教型)の教育法に真っ向から対立して、芦塚メトードはプロという人種は、「**が好きで、楽しくって仕方がないので、プロになるのだ」 という基本的な考え方をします。
日本古来の箴言では「好きこそものの上手なれ」という諺がありますよね。
それこそが芦塚メトードの骨幹です。
[プロと呼ばれる人は勉強をどう見ているか]
私達が本当のプロと呼ばれる人達のお話を伺っていると、音楽に限らず、日本の・・、或いは世界のtopと言われる人達、ノーベル賞の受賞者の方たちの自分の研究課題に対しての取り組み方や、或いは、その人達に同様の質問をすると、全ての人達から必ずと言って良いほどの共通の答えが返ってきます。
それは、全てのプロと呼ばれる人、音楽のみならず全ての芸術、否、学問の分野に於いても、その道の専門家と呼ばれる人は、自分の研鑽するその仕事を愛し、その事に接する事が、或いは研究し、邁進する事が、楽しくて仕方がない、という答えが返って来るのです。
それは、芸術や、学問等のacademicな分野に限らず、極、普通の一般の職業として、仕事としての分野の人達ですら、その分野を席巻するような立場の人達の答えは、皆、同じであります。
つまり、逆の言い方からすれば、楽しみや遊びがそのまま仕事になっているのです。
[「難しいものは辛い」と言うことについての誤解]
ゲームは最初から、「楽しいもの」という前提があり、それを疑うものは居ません。
将棋や囲碁の世界も、或いは子供達のプラモの世界も最初は簡単でも、だんだん難しくなるから、楽しいという事があります。
簡単なゲームで奥深さのないものは、最初はそれでもとっつきがよくって楽しいものだが、直ぐに飽きられてしまいます。
奥が深いから皆のめり込むのです。
つまり、「難しい」という事は、辛い事の前提条件にはならないのです。
[学校教育と遊び]
だから、楽しいはずの遊びでも、一旦、学校のcurriculumの中に取り込まれてしまった遊び(所謂、伝承遊びや、スポーツ)は長続きしません。
何故なら、学校が、学校の教育のsystemで、遊びやゲームを、「単なる教育」にしてしまうからなのです。教えられる事では、遊びにはならないからです。
日本には、伝承の遊びがあります。
残念ながら、いまの子供達は子供達同士で遊ぶ事はありません。学校の校庭で子供達同士で遊んでいたとしても、それは管理された中での遊びなのです。
という事で、日本の伝承の遊びがどんどん失われていく事に危機を感じた教育界では、伝承の遊びを学校で指導する事にしました。
でも、ちっとも楽しくないのよね。
つまり子供達の心の中には根付いていかないのですよ。
教育と遊びの学習の仕方は根本が違います。
教育は指導者がいて、その遊びを指導します。これは勉強にしかなりません。それに対して遊びは、あくまで自主的なものです。子供が自ら興味を持ち、アプローチして行く…それが遊びのスタンスです。
教育を遊びにしてしまうから意味や価値があるのであって、遊びが教育になれば、それは主格転倒です。
[皆でやるから楽しいのではない]
私達の教室では子供達がオーケストラの練習や夏、冬の合宿を楽しみにしています。
先生達が仕事の都合で、日曜日の練習が出来ない日があると、子供達から「え~っ!!」と、喧々囂々の非難が入ります。
だから、それを見ていた外部の先生が「子供達は集団で何かをやるのが好きだから、オーケストラの練習も室内楽の練習も集団でやれば楽しくて、上達するのよ。」と言っていました。
芦塚先生が「じゃあ、自分達でもそれぞれの楽器の先生達とコラボして、ensembleを企画してみれば??」と、教室の譜面や教材を貸してあげました。
で、結果は・・・?
それは、敢えて、言うまでもありません。
けして、集団で音楽をやるから楽しい分けではないのですよ。
Manualがなければ、(methodeがなければ、)それは惨憺たる結果を招くのですよ。
でも、学校のオーケストラはmanualがなくっても、子供達は大好きでは??
それは、中学や高校の部活のオーケストラは、皆でやる事が楽しい分けであって、音楽を楽しんでいるのではないのです。
その場合の音楽は、皆で何かをやるための、材料に過ぎないのです。
ですから、100年高校の部活を続けてもプロになれないのは、当たり前で、それだけでは音楽大学にすら入学は出来ないでしょう。
そこから、音楽大学を目指すには、基礎から最初からやり直さなければなりません。
そういった水準を知らないままに、学校のオーケストラをやっている生徒はいないはずです。
そこは巷のジュニア・オーケストラでも、同じです。
但し、ジュニア・オーケストラの場合には、Mozartのconcertoを弾きこなすだけのlevelが入団テストの条件です。
それだけの条件があれば、ある程度の水準は保つ事は出来ます。
しかし、いずれの場合にも、子供達に本当にやりたい事が出来たら、その時には、子供達はあっさりと、オーケストラをやめて別の道に行くでしょう。それは所詮、趣味の世界だからなのですよ。
では、芦塚音楽研究所の対外出演の子供達のレベルは、どのくらい??
それは、比較対象にはなりません。
殆どの生徒の音楽の技術水準は音楽大学の学生と比較しても、遜色を取りません。
勿論、教室に入会したばかりの子供達は、極普通のlevelの生徒達です。
何せ、近在近所の子供達なのだからね。
しかし、その生徒達が、半年後には、驚くほど超高級難度の曲を弾きこなしている。
そこの不思議さが見えるといいのにね。
見学に来た先生達は子供の今しか見えないので、その子の半年前や半年後は見えないのですよね。
そして、教室のオーケストラをやめる事があっても音楽をやめる事はないのですよ。
そこが教室のオーケストラと一般のオーケストラの大きな違いかな??
[楽しさとストイックな厳しさは両立し得る]
芸術至上主義的なacademismが支配する日本の音楽教育界では、音楽を楽しく感じたり、或いは子供に楽しく指導したりする事は、芸術に対しての冒瀆にでもなるように思っている人のほうが多いのではないでしょうか。
或いはそれ以上に、音楽を楽しんだりすることは、音楽を真摯に勉強する人はやってはいけない冒瀆のように考えている人の方が多いように思います。
それは自分が辛い練習に耐えて来て、その努力の結果、今日があるのだから、ふと気づいたら、横にエスカレーターがあったなんて、とても認められないよね。「あなた達も音楽を勉強したかったら、勉強の苦しさを味合わないと、本当の音楽は分からないわよ!」とまことしやかに言うのでしょうね。
・・・・という事で、生徒達にも生徒にも、自分が体験して来た事と同様の努力を要求をするのでしょうね。
逆に音楽の素人の人達にとっては、音楽とは楽しく美しいものとして、素直に音楽を楽しみ、感じることが出来ます。
それなのに、子供の頃からピアノやヴァイオリン等を一番身近に接してきたはずの人になればなるほど、演奏会に行って一流の演奏家の素晴らしい演奏を聞いているときですら、神様か先生のご宣託を聞くような辛そうな痛々しい姿勢で聞いています。
子供の時から受けて来たピアノのレッスンの姿勢が身に付いてしまっているのです。
確かに、私達、(音楽を職業とする人間)にとっては、音楽はある種の宗教そのものであることは否めない事実です。音楽教とでも言うのだろうか?
芦塚先生も、音楽に対してとても厳しい姿勢を貫いています。
演奏活動の時にも、論文を書くときにも、否、日常生活の中にあっても、常に音楽が最優先であることは当然です。
でもそれは、仕事をする人なら誰でも当たり前の事なのではないでしょうかね。
それに、そういった厳しさやストイックさは、決して辛さではないのですよ。楽しい厳しさとでも言いましょうかね。美しい純白のウエディングドレスを手にした人は、一点の染みも許さないでしょう??音楽を完璧にしようと思ったら、ちょっとした間違い…ではなくって、ちょっとした不安やいい加減さも許せなくなるのですよ。
50%の緊張感で100%の水準が保てるようになった時に、初めてプロと呼ぶことが出来るようになるのです。それが他の人達には「厳しさ、ストイックさ」として感じられるのです。
そういった意味に於いての話ですが、芦塚先生は音楽を学ぶ上での厳しさを否定しはいません。
一般の生徒は兎も角として、音楽を職業にしたい人はその厳しさは当然必要な事だからです。
音楽を職業とするのならば、その人にとって、音楽が最も重要な位置をしめるのは当たり前の事です。
でも、ついつい、親を含めて周りの人は、「子供だから、普通の生活をさせたい。」「女の子だから、女性としての・・」と言います。
それは、その子供が音楽を趣味として、付き合っていく場合の話です。でも、将来、音楽を職業としたいと思っているのなら、それは厳しい現実の社会では通用しないお話です。
「自分の子供には普通の子供と同じような人生を・・」そういう事を言っている親自身が、周りの人に対しては、自分の子供と同じ事は要求しないはずです。
アドバイスが他の人に対してならば、きっとその親御さんも言いますよ。 「社会人で仕事をしているのなら男も女もないでしょう!」
でも、一旦、自分の子供の事になると、その「社会人」がぶっ飛んでなくなってしまうのよね。
まあ、そういう厳しい話をするのも、音楽を仕事として捉えた時の話です。
そう言った価値観を、趣味で音楽を勉強している一般の人に要求することは、はなはだ僭越で滑稽な事でしょうね。でも、「私の音楽に対する姿勢は厳しいのよ!」と言わんばかりに、誰に対しても同じ姿勢を貫く先生は多いのです。だから一般通念として、「あの先生は専門家しか育てない厳しい先生なのよ。」とか「あの教室は・・・」という話になります。
それともう一つ、日本人の先生の場合には、生徒を叱咤激励するのに、相手の人格に触れる用語を連発する先生がいます。「そんな簡単な事も出来ないの?あなたって、馬鹿じゃないの??」
そんな言葉は、芦塚先生は絶対に口にする事はありません。
芦塚先生に言わせれば、「そんな簡単な事も出来ないようには、誰が指導したの?」となるからです。
「そういった心無い言葉は、ゆくゆくは言った本人に帰って来るのですよ。」というのが、芦塚先生の口癖です。当然、因果応報という言葉です。
芦塚先生が厳しいのは、あくまで、音楽上のアプローチの厳しさで、人間的な話ではありません。
しかも、その厳しさは、相手のlevelに応じてステップ化されています。
芦塚先生のシステムでは相手がその生徒のlevelで100%出来た事にプラス10%して、110%でレッスンをします。
プラス10%の意味は芦塚先生のメトードでは「絡め合わせ」と言うメトードで、生徒が次にどの方向へ練習していくかの、方向性を示す意味があるのだそうです。
次はstepのお話です。
芦塚先生のcurriculumでは、同じChopinのEtudeを、何度となく、lessonします。
小学生の時のlesson、
中学生になってからのlesson、
高校生、大学生と、同じ曲を、そのgradeでlessonします。
最終的にはプロversionとしての、とても厳しいgradeのlessonがあります。
同様にアプローチも、まず音楽の楽しさを学ばなければなりません。
それから音楽そのものを好きになる事。
音楽の楽しさが分かって、音楽への夢や憧れが育ってくれば、厳しさは厳しさでなく、達成するための厳しさと言う快楽に代わるのです。
そういった段階を前提にしてlessonをする、これが芦塚先生のlessonです。
今、絶対に、教えなければならない事、今、それを指導してはダメな事、無理な事、しっかりとそれを見極めなければなりません。それはとても難しい。
子供を指導し始めて、20年以上経った今でも、私達は芦塚先生にその基本を注意されます。
[厳しいレッスンとしごきの落差]
プロ野球の選手になることが夢である野球少年にとっては、甲子園に行くためのしごきは何でもないのですよ。
でも、その夢や目的を持たない子供達にとっては、「しごき」は「しごき」でしかなく、「虐め」は「虐め」にしかならないのです。
どんなに先生が先生自身の「しごき」に価値感を持っていて、「俺のはしごきだ!」と主張しても、相手がその価値観を持たなければ、その生徒にとっては単なる「いじめ」に過ぎないのですよ。
また、音楽家は、感覚的な人間だと思い込んでいて、自分の日頃の感情を指導にぶつけてくる先生がいます。所謂、ヒステリカルな先生です。
芦塚先生は自分の情緒や感情をコントロール出来ない人をとても嫌います。
勿論、その人が、自分自身の時間に戻った時、家族の周りではなく、プライベートな個人の時間に戻った時には、その人がどんなに鬱であろうと苦虫を噛み潰しているような顔をしてようと他人の知った事ではありません。
しかし、生徒の前にいるときには、お金を貰っている以上、職業人であるのだ、と言う事を忘れてもらっては困ります。
生徒や保護者の前では、常に、普通の顔をしていなければいけません。
芦塚先生のレッスンを聴講に来た、苦虫を噛み潰したような、険悪な顔をした先生が、芦塚先生に「私はこれが普通の顔です。」と言って来ました。
ようするに喧嘩を売ってきたのよね。
芦塚先生はその先生に言いました。
「演奏家や指導者は舞台でお客様に笑顔で接しなければならないのですよ。」
「シンクロナイズドの人達が水の中でどんなに苦しくても、水の上に出た時には、(作り笑顔でも)笑顔でいます。」
「私は、この十年以上、鬱に苦しめられていて、教室で生徒達の前で苦虫を噛み潰したような顔をした事はありませんよ。」
「生きる事が辛くって、今直ぐにでも、自殺したいかも・・と言うほど鬱が酷い時にでも(芦塚先生のポリシーとしては、)、lessonで子供達に接している時に、そういった自分の感情を悟られたら、「それは音楽家としては、指導者としては、いや、人間としても失格ですよ。」
・・と、その先生にお話をしました。
「美しい曲を演奏する時には陶酔して、哀しい曲を演奏する時には哀しい表情で演奏するのが演奏家ではないですか?」
「では、教室のクライアントは子供達ですよね。子供達の前で、苦虫を噛み砕いたような顔をするのは、音楽の素晴らしさを子供達に教える芸術家とは言えませんよ。」
芦塚先生は続けて言いました。
「私だって、鬱が酷い時には、子供を指導していても、心から楽しい分けではありません。
でも如何にも音楽を楽しんでいるように演技する事は出来ます。自分の鬱を人に感じさせた事はありませんよ。」
一応、その先生は芦塚先生に意見されて、それなりには反省は・・・したようです。
芦塚先生は私達に、「まあ、出来なくても、分かってりゃあいいのよ!」と言っていました。
ようは、建前と本音はさておいて、先ほどの話のように、「先生!うちの子には、うんと厳しく指導してください。」と言って来たとしても・・・、子供を音楽を嫌いにさせたくって、お金を払ってまで、音楽教室に通わせている親はいないのですよ。
本音は、「上手くして欲しいから!」 に過ぎません。
親の中には「厳しさを通じて、達成する喜びを教えて欲しいから。」なんて言って来る人もいますが、それで「ああ、そうか?」なんて納得してはいけません。
それで子供が音楽嫌いになって、音楽をやめたりすると、結局の所、教室の性にされてしまうのですからね。
子供の身になって考えると、親のエゴはよく見えるのです。
子供は別に音楽が好きな分けではないし、親も別に子供を音楽家にしようと考えているわけでもありませんから。
(仮に、親が子供を音楽家にするつもりだったとしても、子供自身が親と夢を共有する事が無ければ、それは無意味な願望にしかなりません。)
いたずらに子供に価値観もなく、目標もないままに、厳しくされても、それは子供にとっては辛いだけの、何の意味も無いlessonなのですから。
レッスンの基本はとにかく「楽しく」・・・です。
しかし、楽しく lessonをする事は、厳しく lessonする事よりも数倍難しい。
見かけだけ楽しくいても、取り繕ったり、子供に媚びたりししても、子供は瞬時に大人のウソを見透かしてしまいます。
「お母さん!言いたい事があるのなら言えば・・・??!」
[芦塚先生の雑談のlesson]
芦塚先生は、雑談の名手だと思います。
芦塚先生がまだ、通常の月4回のlessonをしていた頃には、lessonが丸々雑談で終わる事もよくありました。
ところが、驚く事に、レッスンとは無関係のただのお話だけだったはずなのに、次の週には子供が見違えるようにうまくなっているのですよ。
これはどう考えても、不思議なlessonでした。
ある時には、lessonに来る生徒がドアを開けた途端に、芦塚先生が「お父さんとケンカしたのか?なんで・・?」と、生徒に質問をしていました。
生徒は「え~っ!」と言って、絶句していました。「何で分かるの?不思議だ!」という事で、何時もにこにこしている芦塚先生は、一度も叱られた事がないのに、生徒が歳を取るに従って、怖い存在になるようです。
子供が集中しない時や、練習をして来なくて、気分が乗らない時には芦塚先生はよく雑談します。その雑談は小さな生徒でもからかったり、おふざけに成ったりします。
長い時にはlesson時間の半分もおふざけが続く事もあります。
ところが、気が付くといつの間にかに、先生と子供が一生懸命にlessonに集中しています。
全くやる気がなかった生徒がいつの間にか集中してPianoやviolinを弾いています。
でも、いつどこの話の所で、lessonに変わったの??見ていて分からなかったので、後でビデオを見て、その瞬間を探したけれど、やっぱり分からないよ~!
芦塚先生に後で、質問したら、「子供が雑談に乗って来て、先生の話に集中して来たら、子供の目を見て、その一瞬を捉えてlessonに切り替えるのだよ。」というお話でした。
子供がlessonで集中が切れた時も、子供の意識が勝手に逃げ出さないように、子供と雑談をして遊びます。
でも、先生のコントロール下なので、子供が集中を取り戻した瞬間にまたlessonに戻ります。
そのチェンジの瞬間が分からないのです。
雑談からいつlessonに戻ったのか??
年齢が上がって、小学校も上級生から、中学生ぐらいになると、お説教タイムと言って、lessonの代わりに、お説教でlessonが終わる事がよくあります。
結構、お説教を楽しみにしている生徒もいたりして…。
そのお説教集は芦塚先生のホームページの「子供達へのお話」に幾つか文章起こししてあります。
[芦塚メトードに於ける教育の概念]
先程、プロの人々の例で説明したように、芦塚先生は、音楽の分野のみならず、学校での勉強も、いや、仕事ですらも、所詮は遊びであると考えています。
「知る」と言う事、すなわち「知識」は遊びであり、研究や探求は実に楽しい遊びの世界なのです。
その中で当然、levelが上がると、難しくなって来ますが、その難しさも遊びの世界では楽しい要素の一つになるのです。
つまり、プラモのように、ある程度、その人のlevelが上がると、今度は「難しくないと面白くない」という現象が起こってくるのです。
音楽の表現を学ぶ事は確かに難しい技術を学ぶ事も含まれるのです。
しかし、そこに音楽上の技術levelや音楽そのものの真髄を理解し、愛し、その音楽の価値観を持つ時には、音楽の持つ難しさや厳しさは、辛い困難なものではなく、楽しい積み上げられる努力の一つに過ぎなくなるのです。
厳しいという事は辛いという意味を持たなくなるのです。
音楽の演奏という用語も英語では「Play」 つまり「遊ぶ」という意味になるのですよ。
[一般で言う厳しさ]
一般の音楽大学等での指導を見ると、言っている中身自体は殆ど意味がなく、内容もないのに、やたらと、大げさに相手を虐める。
「そこの所は意識を持ってちゃんと弾きなさい!」何て言われても、意識を持ってちゃんと弾けないから、困っているのでしょう?それじゃぁ、レッスンにはならないのよね。それを先生は怒鳴り捲くって、諌める。それを生徒は「厳しいレッスンだ」と解釈する。(真摯に指導していると勘違いをするのです。)でも、意味の無い言葉ならば、厳しいレッスンという事はないのですよ。
しかし、虐めは虐めに過ぎず、厳しさとは基本的に違うものであります。虐めが愛情の表れであった事は一度もないのです。
[芦塚先生も相手によっては厳しく指導します。]
芦塚先生も弟子達にlessonをする時には、かなり厳しく指導します。
怒鳴ったりする事はざらにあります。
「そら見た事か??!!」
でも、ここで言う弟子とは、優秀な選びぬかれた生徒という意味ではありません。
教室の仕事をしながら、或いは、演奏活動をしながら芦塚メトードを学んでいる生徒という意味です。
どんなに優れた生徒であったとしても、コンクール組や受験組の生徒は弟子ではありません。
芦塚メトードを継ぐ生徒ではないからです。
しかし、「芦塚メトードを勉強したい。」と言って来た生徒でも、中学生や高校生の生徒もいます。そういった学習途上の生徒に対しては、決して芦塚先生は怒鳴ったり声を荒らげたりした事は一度もありません。
学校を卒業して、社会人になった時、そして、芦塚メトードを学んでいるという二つの条件が噛合った時には、厳しく注意される事はあります。
しかも、音楽上の話で厳しくレッスンされる事はありません。
芦塚先生が厳しく注意をする時は、むしろ、普段の日常の何気ない行動や動きの時の方が、厳しく注意されます。それは、本人の意識の表れだからです。
意識が甘くなると、それが無意識に行動に出ます。
それを見逃すと、教室や演奏活動で大きな失敗をしてしまうからなのです。
また、教室の先生希望以外の生徒達に、厳しく注意をしないのは、芦塚先生達が生徒を甘やかしている分けではないのです。
弟子達は出来て当たり前で、生徒は出来なくて当然という前提だからなのです。
つまり、生徒に、出来ないから!「何故こんな事も出来ないの?!」と言って、声を荒らげるのは、逆に指導者の指導力の不足を意味するからなのですよ。
それに対して、芦塚先生の弟子達は、指導する立場で、演奏上もプロなのですから、プロとして「出来ない!」という事を口にする事は許されないのは、当たり前なのですよ。
それは、芦塚先生の指導を仰いでいたとしても、生徒という立場ではなく、あくまでお金を貰って、プロとしての立場になるからですよ!
プロと呼ばれるには、プロとしての責任を負わなければならないからです。
巷の音楽大学の先生には、生徒を平手で叩いたり、pedalを踏んでいる生徒の靴を、ハイヒールで踏む先生までいるそうな!?
芦塚先生は、プロと呼ばれる弟子達に対しても、一度も手を挙げたりした事はありません。
芦塚先生が、その事に触れて、「プロはやりたくなければ、やる必要はないのです。指導者や演奏家をやめればよいだけだから。それは本人が決める事です。私に習いたくなければ、他の先生の所に行けばよい。それだけなのだから・・・!!」
相手が子供ならば、先生にその責任を要求します。
「もし生徒が宿題をやってこなかったとしても、それは、先生が宿題を子供にさせるという事に対する指導力の不足を意味するだけなのだよ。そこで、先生自身が感情的になってしまうと言う事は、その先生の負けを意味する事になるからね。」「先生が自分の負けを認めたくない。という事なら、レッスンで感情的になってしまうという事は、そのまま負けに繋がるのだからね。」「感情的にならずに、どうやったら宿題をやってきてくれるのかな?とその指導法を探すのが、先生として楽しいのだよ!」と説明してくれました。
[厳しさの概念1.人当たり]
よその教室から来た小学4年生の女の子が、芦塚先生のlessonを初めて受けました。
前の教室ではBurgmullerを2,3曲終わったぐらいの進度で、レッスンにはそんまま前の先生に習っている曲を持ってきました。
Lessonでは、芦塚先生がその曲の課題とその練習法を細かく説明して、それから子供と一緒に練習して、その曲の課題となる宿題を出していました。
芦塚先生のレッスンが終わった後で、教室を出てから、母親が子供に尋ねました。
「芦塚先生って、随分厳しい先生だね。大丈夫??」
子供は不思議そうな顔をして、「芦塚先生はとても優しかったよ!」「練習も面白かったよ!」「何処が厳しかったの??」
後日、母親が教室を訪れた時に、「厳しい、という意味は、子供と大人では違うのですね。」と述懐していました。
子供にとってレッスンが厳しいか否かは、先生の「人当たり」に過ぎないのです。
芦塚先生がレッスンをする時、おっかない顔をしてレッスンしたり、怒鳴ったりすることはありません。
冗談を言いながら、先生も生徒もキャッツキャッツと笑いながら、レッスンが進んでいきます。
生徒が間違えたりすると、芦塚先生は「やった~!間違えた~!」と喜んで拍手したりします。
子供も「じゃぁ、もう一回やっていい??」と先生に聞いてきます。
子供にとって弾けない難関の箇所も唯のゲームに過ぎないのです。
間違えなくって弾ければ、生徒の方が「やった~!」となります。
レッスンは、その指導の内容が子供に分かれば(理解出来れば)、子供にとっても「難しいもの」ではなくなります。
「難しい」と言う事がなくなれば、当然、厳しいと言う意識もなくなるのです。
「簡単=厳しい」という図式は成り立たないからですよ。
そこは「難しい。」という事に対しての、大人と子供の意識と感覚の差であります。
[厳しさの概念2.目標]
高校生の子供達が甲子園に向けて、傍目から見ても、厳しい(所謂、辛い)練習に耐えていくのは、「甲子園に立ちたい!」 という眼前の目標があるからであります。
でも、甲子園と言う目標がない普通の学校で、同じ甲子園に行くための努力をしている高校生と同じ高校生だからという理由だけで、同じ努力をさせるとそれはただの虐めになってしまうのですよ。
これは学校の先生達がよくやる間違いです。
「同じ高校生なのだから、出来て当たり前でしょう?」
それが、本当はちっとも、当たり前じゃないのだよな。高校生とは言っても、同じではないのだな。
高校球児に甲子園という目標があるからこその厳しく辛い練習なのだよ。
それから、更に、甲子園を通り越して、プロに向かう人達にとっては、その厳しい練習の辛さはもう辛いものではなく単なる毎日の日常の体作りの一貫になるのですよ。
それを一般人がやろうと思っても出来るものではありません。
そこはprofessionalの世界で、一般人とは全く違った別の世界なのですからね。
[厳しさの概念3.価値付け]
あるときに、生徒の父親が芦塚先生に頼んで来たお話です。
父親が言うには、「音楽の厳しさ、辛さを教えて欲しい。発表会がその辛さに耐えられた褒美である。つまり、『苦労を経て、初めて何かを得れる』という事を教えて欲しい。」 と言って来ました。
「辛い思いをして、やっと手に入れられる褒美」・・・それは、ごく普通の考え方に見えますが、芦塚先生の経験上では、その考え方は、根本的に間違いで、色々な矛盾を孕んでいるそうです。
ですから、芦塚先生は、そういった考え方には、否定的です。
芦塚先生の理論では、「厳しさを躾けられるようになるまで」・・・には、「厳しさを、子供が喜んで受け入れる」・・ための、習得しなければならない段階があるのです。
まず、一番初めには、子供が先生を好きになって、その先生との信頼関係ができなければなりません。
信頼関係が出来ると、その先生が指導する音楽を、生徒が受け入れる事が出来るようにな利増す。その次に練習に興味が湧いてきて、上達をする事・向上する事が喜びと感じるようになって、初めて、その子供にとって音楽に対しての価値観が芽生えるのです。
そして、その価値観があるからこそ、辛さに耐えて努力をする事が出来るようになるのです。
決して、辛さに耐えて、偶然に成功を収めた・・・からといっても、そこに価値観が生み出される分けではないですよ。
其処の所が、幾ら説明しても、儒教型の日本人には、なかなか理解してもらえない。
ある著名な女流ヴァイオリニストに、徹子の部屋という番組で黒柳徹子さんがインタビューをして「お子様もヴァイオリニストになって欲しいですか?」という質問に答えて、「こんなに辛いのは私一人で沢山です。子供には普通の子供になって欲しいです。」と答えていました。
黒柳さんは、「うん!うん!」と頷いていたのだが、芦塚先生は、「そんな辛いと感じている音楽を演奏するのなら、私はお金を払ってまで、その人の演奏会を聞きに行きたくないな!」 と言っていました。
もし、芦塚先生が、黒柳さんから同じ質問を受けたのならば、その質問に答えて 「 『勿論ですよ。こんなに素晴らしい物を知らないままに、人生を終わらせるのは、その子供にとっては考えられないほど、不幸ですからね。』 と言うな!!」 ・・・・と言っていました。
プロという人達の仕事は、その音楽の持つ素晴らしさを伝えることなのですからね。
proの人達は、音楽が楽しくって、素晴らしいと思っているのだから、お客さんにも「聴いて!」「聴いて!」となるのだよね。
それを「私は、辛いのを辛抱して、子供の頃から、ここまで頑張って来たわ!」 なんて言われてもね~ぇ??
これも、儒教型の日本の音楽教育と芦塚メトードの音楽に対しての根本的な考え方の違いだよね。
女流ヴァイオリニストの彼女にとっては「音楽=辛い」しかなかったのですよ。
私も芦塚先生と同じで「音楽=幸せ」だけどね。
だから、芦塚先生が指導した生徒達のほとんどの生徒は、一般の教室の近所の子供達なのに、皆、音楽の道に進みたがる。
それが本当は、普通なのだよ。
だって「そんなに音楽が素晴らしいものなら、絶対に自分もやりたい。」と言い出すに決まっているからね。
[厳しさの概念4.心の支えとしての音楽.啐啄としての教育]
日本流の「音楽は辛い」と感じている先生は放っておいたとして、奇跡的に「音楽は楽しい」「音楽は素晴らしい」と感じていて、子供達に音楽の素晴らしさや楽しさを指導したいと考えている先生達がいたとして・・・・、の仮説の話です。
・・・ほらほら、仮説のお話には答えられない、何て言わないで・・・・!!
音楽教育で指導者が先ず、子供達に指導しなければならない事は、音楽の楽しさや美しさ、素晴らしさを教える事です。(何故、仮説って?? それは、日本本来の音楽教育には、その考え方はありませんからね。音楽=厳しく、つまらなく、つらいものなのですから・・・。そういう前提なのですから!!)
仮説のお話を進めます。
先生自身が「音楽は楽しい、素晴らしい」と感じている先生がいたとします。
そのような先生達に「子供達に、音楽の素晴らしさや楽しさを指導して欲しい。」なんて言ったら、「そんな分かり切った事を・・・」と言われるかも知れませんよね。
しかし、その先生が、実際に子供を指導し始めると、幾ら音楽の素晴らしさや楽しさを教えても、生徒は全然練習して来てくれないのです。
だから、いつまで経っても、子供は与えた課題曲を弾けるようにならない。
そこで、その先生は、「子供に音楽の楽しさや素晴らしさを教えたい」という夢と、音楽教室で音楽を教えるという現実のギャップに苦しめられる事になります。
ついには、「子供を叱らないで楽しく教える。」という夢は、儚くも崩れ去ります。
そこから、「私はこんなに一生懸命に教えているのに、何で出来ないの!?」という、日本特有の「教え込み」の教育のパターンが始まります。
それは、生徒が「出来ない」と言うその原因と理由が何処にあるのか?・・・が、指導者側に分かっていないからなのですよ。
教えたい事は、沢山あるかも知れないけれど、それを全部教えたら、子供はお腹がパンクしてしまいます。
指導はstep by stepなのですよ。
ちゃんとその段階の課題曲を与える事。その段階までにマスターしなければならない技術をちゃんと指導して、身に付けさせる事。
若い先生になればなるほど、曲をちゃんと弾かせる事に神経を注ぎます。
しかし、そのlevelの技術的な課題を身に付けたのか否かには、あまり注意を払いません。
というわけで、芦塚先生がいつも外部の先生達に怒っているのは「一番最初のlevelの所から、しっかりと、身に付けさせなければならない最初の所を、曲を弾けるようにする事が精一杯で、全然教えようとしない」という事なのです。
もう一つ、若い先生がよく犯す指導の誤りは、その曲を演奏する時に、細かい注意を受けたとしても、その曲が終わったら、その注意点(留意点)も終わったと勘違いする事です。
でも、本当はその基礎が身に付くまでは、曲が変わっても、指導し続けなければなりません。本当はそのgradeが終わったとしても、その留意点は子供達が忘れないように指導し続けなければならないのです。
それなのに、「私はちゃんと教えた。」「以前に、ず~と前に、教えた事がある。」では、子供の身に付かないのは当たり前のことです。
音楽の勉強はその時期、その時期で、学ばなければならない事が明確に決まっています。
特にBeyer教則本には、各gradeで学ばなければならない基本(基礎)が細かく決まっています。Beyerはなかなか良く出来ていて、それぞれのgradeでは学ぶ事は二つ、三つに過ぎません。それをgradeの中でしっかりと身に付けていけばよいのです。
次のgradeでは、また新しい課題が二つ、三つと追加されて行きます。
また、次のgradeも同じように進みます。
しかし、先生が生徒に曲を間違えなく演奏させる事だけに、注意が行ってしまって、当然学ぶべき技術を教えないままに、子供達に身に付けさせないままに、どんどん先のgradeに進んでしまうと、後半では駆使しなければならない技術がたくさんになってしまって、曲を全く弾けなくなってしまいます。
それが「Beyer教則本は難しい。」と言われる所以(ゆえん)です。
音楽を学び始めて、最初のある時期までに、ちゃんと身に付けなければならない課題を、「指導が難しいから・・」 と言ってそのままにして、後で「子供が行き詰った!」「lessonが行き詰った!」 と言われてもね~??
それは単なる先生の指導力のなさなのですからね。
ピアノのレッスンならば、ピアノを最初に習い始めの時に、基本を身に付けることが大切です。
でも、日本には初歩を軽く見る風潮があります。ということで、初期指導に対していい加減な先生が多くなります。そういった基本的な事にいい加減で投げやりな先生では、子供が音楽を好きになる事も、ピアノを続ける事もありません。
そういった教室で、一度間違えたやり方で習ってしまうと、それを正すのには、習い始めた時の倍の時間と労力が掛かってしまいます。
教室に来た生徒の中のレコードでは、Beyer教則本を3回もやり直させられた生徒が入会して来た事があります。さすがに、4回目はないので、別の教則本を使用して、指導しましたがね。
だから、先生にとって、初めてピアノを習う生徒をきちんと指導する事はとても、責任のある事なのです。
決して、初歩だからといって、適当に教えて良い分けではないのですよ。
初歩の方が学ぶ事も多いし、指導も難しいのですよ。
学ぶ側から言うのなら、ちゃんと基本を指導してくれる先生を選ぶ事が大切なのです。
有名だからといっても、音楽大学受験専門の先生の所に、趣味の生徒を連れて行ったら、一瞬でつぶれてしまいますよ。
芦塚音楽研究所でも初級指導専門の先生と中級、上級指導専門の先生は、分けて指導育成をしています。
BeyerならBeyerのそれぞれのgradeで生徒が身に付けなければならない基本をしっかりと指導する事、それが出来ないとよい指導者とは呼べません。
Beyerの段階で、譜読みの基本や、練習の仕方、自宅練習、集中力等が、きちんと身に付いていなければなりません。それぞれの段階で生徒が身に付けなければならない技術をちゃんとマスターさせる事、それが出来れば、「啐啄」の第一歩が出来た事になります。
しかし、残念ながら、日本の指導者の多くは、初期指導をなおざりにします。なおざりにするというよりも、初期の間は指導する事自体がないと思っているようです。
ピアノを弾くための細かい技術は、もっと上達してからでも充分だと勘違いしてしまうのです。
Beyer教則本の前半の課題でマスターしなければならない基本を説明すると、驚いて絶句してしまいます。
量の問題よりも、質の問題です。
そうすると、「子供にマスターさせるのには課題が足りない。」と言い始めます。
それぐらいの感覚のほうが正しいのです。
少ない曲の中で子供にちゃんと課題をマスターさせるためには、一曲、一曲を丁寧に指導しなければなりません。そこをなおざりにして、「間違えないで弾けたから・・・」と言って合格にしてしまうと、子供達はBeyerの後半、80番や90番程度で行き詰って、挫折してしまいます。
そういった実力のない先生になればなるほど、先生は挫折した原因を、子供や親の性にします。
自分の指導力が未熟だった、勉強不足だったとは、絶対に思わないのです。
つまり、音楽大学で学んで来た事以上に初期指導について学ぶ事があるとは思わないのです。
芦塚先生が若い先生に対して、初期の指導をあまりにもなめているので、初期の教材であるDiabelliの連弾の曲について演奏法をlectureしていました。
若い先生が驚いて、「Diabellilliって、奥が深いのですねぇ?」
「いや、初期教材の簡単な曲でも、歴史にちゃんと残っている曲はすべて奥が深いのですよ。」
「奥が深いから、歴史に曲が残るのですよ。」
しかし、日本人の音楽家には、そこの所が分からない。
「simpleな物は単純で奥が浅くって、価値がない」 と考えるのが日本人の音楽家の考え方なのですからね。
生徒への指導に関して、レッスンが上手く行くためには、技術力の指導だけではなく、精神的な指導も上手に出来帝なければなりません。
音楽の楽しさが分かって来るようになる年齢と、音楽を素晴らしいと捉える事が出来る年齢は違うのですよ。
ましてや音楽を聞いて涙を流す年齢は違うのだな?これが・・・。
それは、子供の精神的な成長、年齢に拠る、理解力の違いなのです。
指導者がドン・キホーテになって、風車に突進しないようにするためには、啐啄(ソクタク)同期が大切です。
啐啄同期とは、必ずしも、タイミングの事だけを意味する分けではありません。それよりも、啐啄する受け手と遣り手の内容が同期しないといけないのです。受け手となる生徒が必要な技術や音楽性を指導者がちゃんと理解して指導しなければならないのです。
啐啄同期と、芦塚先生が口を酸っぱくして言っても、それをまた内容ではなく、年齢や技術で把握しようとする先生が多くて困ります。
また、蛇足ですが、子供達の理解力(精神年齢)の差は必ずしも、年齢(学年の差)ではありません。
音楽技術の習得力の差は表現力の差にもなり、表現力が着くと、そのまま、子供の精神力の差となって出てきます。
老婆心ながら確認しておくと、精神力と精神年齢は違います。
ませている子供が、精神力が高いとは限らないのです。
子供らしい、子供子供した、子供の方が、大人の精神力よりも勝っている場合もあります。
そういった一人一人、個人個人の、理解力、判断力に合わせて、音楽の楽しさ、素晴らしさを、段階的に説明し、指導していかなければなりません。
それらの教育法がマスター出来て、子供の心の中に自然に入っていく事が出来るようになれば、日本流の中身の無いお仕着せの教育から離脱する事が出来、優れた指導者として自他共に認められるようになるでしょう。
しかし、ここまでのお話は、子供に対しての把握と子供からのsymbthy(共感?)を得るという事に過ぎません。
子供に好かれる先生には成れるのでしょうが、子供を音楽のプロとして育てる事の出来る先生になるには、まだ程遠いのですよ。
優れた先生の条件は、子供の成長に伴った、それぞれの年齢や成長に対しての、音楽教材の指導内容やcurriculumを緻密に勉強しなければならないのです。
そういった指導する内容を充実させる事が出来て、やっとlessonをする事が出来るようになります。
ちゃんと、指導する内容が、勉強出来て、子供の年齢に対しての指導のhow-toも出来るようになって来た時に、初めて、次の芦塚メトードの基本中の基本の考え方に進む事が出来ます。
その理論を推し進めると、一般の音楽教育の考え方とは、基本的に対立し矛盾するお話になってしまいますが、「音楽の教育の根源は、技術を指導する事ではない」という、結論に到達します。
音楽的なテクニック、所謂、楽器を演奏するための技術は、表現する音楽、心情やその情緒があって、初めて必要になるのです。
ですから、技術の為の技術、所謂、魂のない日本の音楽教育に於ける技術習得は、単なる無味乾燥な技術の為の技術に過ぎないのです。人間、無味感想な毎日を送る程辛いことはありませんからね。
という事で、先程のお話、音楽は上級になればなるほど、自分の心との戦いになって来て、音楽の勉強はストイックで辛い物になってくるのですが、それは心を磨く事なので、精神的には、逆に充実して揺らぎのない強い心を得る事が出来るようになるのです。
芦塚メトードは、先程掲げた、「日本古来の一般通念」のアンチテーゼです。
ですから、先程の通念を逆読みすると、そのまま芦塚メトードの考え方になります。
[日本流の教育の逆さ読み]
*音楽は難しい。⇒音楽は易しい。
*音楽技術を習得するための練習は厳しくつまらない。⇒練習は楽しい。
*先生は怖い。偉い先生になればなる程、厳しく怖い先生である。⇒偉い先生は兎も角、芦塚先生は優しい。教室の先生は優しい。
*音楽の習得は難しく、辛いものである。⇒練習は楽しいから、辛いと感じた事はない。
音楽に進むには、そういった厳しい練習に耐え得れた人だけの、・・・しかもその選りすぐられた人の中で、特別に才能に恵まれた極々一部の限られた人のみが、音楽の専門家と呼べる人になれる⇒これは長いなぁ!誰でも、プロとしての考え方と生活態度を守ればプロになれるのだよ。
と、なります。
でも、ここで私達がそんな事を言っても、「そういった教育は単なる理想論であって、現実的には有り得ない。」と言われるのが落ちですよね。
しかし、教室として、現実的に確実に成果を上げているのですよ。
発想の転換、意識の改革だけで、不可能が可能になるのです。
芦塚メトードは、一般常識で誤った教育法を取る、従来型の日本の教育に一石を投じるべく、methode化されてきた新しい教育理論なのです。
しかし、一般社会の通念に、真逆に対抗する理論は、これまで誰も知る事がなかったし、見る事もなかったのです。
一般の人達に「有り得ないもの、存在しないもの」を説明する事程、難しい事はない。
注:芦塚先生の説明によると、そういった教育をする人は、これまでにいなかった分けはなく、いつの時代にも、そういった教育を受けて育ったり、教育をした人達はいるのだそうです。
ただ、その人達は、あくまで日本社会の特殊な例として、ずば抜けた才能に恵まれた人の例として、例外で捉えられているのです。
今年も多くの日本人のノーベル賞の授賞者が出ました。
でも、「どうしてノーベル賞を取れるような研究が出来たのか?」というインタビューに答える話は皆同じです。
「生まれついて、秀才ではなかったのだが、とにかく勉強が(自分の勉強ですよ!)好きで、好きで、楽しくてしょうがなかった!」という答えです。
これだけの事を、日本が誇るべき人達が言っているのにもかかわらず、日本人は「それはそういった特殊な人達だから成り立つのだ。」と思い込んで、自分達の学習法を正そうとはしません。
そういった、楽しく勉強すれば、プロになれるといったような、一般常識からかけ離れた事を理解させようとすると、それがどんなに当たり前の常識論であったとしても、人々は理解する事を、意識的に或いは無意識に拒絶します。
それが「どんなに簡単で、有効であると思われる方法であった」 としても・・・であります。
それは、何故か??
その答えは簡単です。
大人達が今まで自分達が育ってきた人生を、生きて来た経緯であり、経過等を全否定されるからであります。
例えば、「芦塚メトードを認める」・・という事は、取りも直さず、自分達がこれまで受けて来た、或いは、それ迄、信じてきた教育そのものが、如何に無駄な努力の積み重ねであったか、つまりは自分達の努力の全てと若かりし青春時代の時間の全てを否定されてしまう事になるからです。
[simpleで分かりやすいものは価値がない]
それと、もう一つの原因は、芦塚メトードはその考え方の基本的構造が、simpleで分かり易い。
一般人はsimpleなものに対しては有り難味を感じない傾向があるのです。
simpleなものは、価値が無いと思ってしまう。
プロの卵の演奏家達が初歩の教材を馬鹿にしたり、軽く見てしまうのも、そこに根本の理由があります。
simpleなものには深みがないという前提なのです。
それ故に、simpleなものの持つ深さが理解出来ないのです。
本当のプロは初歩の初歩に戻る事が出来ます。
芦塚先生の思い出話しに出てくる、芦塚先生の師匠であるGenzmer先生の口癖も、「Simple is the best」 ですからね。
だからといって単純にsimpleに作曲をすると、Genzmer先生から「kinderlei!幼稚だ!」と怒られるし、それで難しくすると「Konpliziert!複雑だ!」と怒られる。
だからGenzmer先生が他の生徒に「Einfach!単純に!」と説明していた時に、芦塚先生が横から、「先生!先生のおっしゃっているのはeinfachではなく、vereinfachですよね。」と言ったら、Genzmer先生が凄く怒って、「いや、vereinfachではなく、einfachだ!」といってらした、という事です。
もっとも、その頃には芦塚先生もGenzmer先生に「Konpliziert!」とか「vereinfach!」とかで注
意される事はなかったので、単なる言葉のあやの問題ですがね。
[ヨージーの法則]
本当にsimpleなものは、simpleな故に、理解する事が難しい。
[simpleな物は何故難しいのか]
芦塚メトードを説明するときに、その内容の説明の難しさから、教育者である先生たち(教育のプロを)に対しては、論文が書かれて来ましたが、一般の人々を対象とした論文は書かれた事はありません。
・・・という事を言うと、「芦塚メトードはsimpleである」という前言と、全く矛盾しているように思われるかも知れませんが、simpleなのはあくまでconceptであって、そのtechnic(methode)の理解や習得は簡単なものではありません。
人がそれが難しいとは思いもしない、「ピアノの前に座る」という何でもないと思われる事でも、上級者になると、美しい音やpianissimoでorchestraの伴奏でもかき消されない音を出すためには、椅子の本当の座り方、演奏するための微妙な座り方を学ぶ事が必要になります。
私達の教室でも、ピアノを学ぶ上級の生徒達は、椅子の座り方や、椅子の上での姿勢等を学びます。
という事で、ただ、ピアノの前に座るという、当たり前と思われている事は、実はとても難しい事なのです。そんな誰でも出来ると思われている一つ一つの事でも、本当にプロとしてきちんと出来るという事になると、とても難しい技になるのです。
そういった一つ一つの基礎を、楽しく勉強出来るようにcurriculumを作り上げるのは至難の業なのです。
話は少し脱線しますが、一流のプロの演奏家が必ず口にする言葉があります。それは「基本に戻る」という言葉です。私達は有名な演奏家の公開レッスンに行くことがよくあります。コンクールの合格者や有名音楽大学の学生等が、名前に憧れてレッスンを受けに来ます。しかし、レッスンは惨憺たるものです。弓の持ち方だけで公開レッスンが終わったり、椅子の座り方だけで、レッスンが終わってしまう事もざらなのです。
それこそ、一個の音も出す事もないままにレッスンが終わってしまいます。
ある時などは、「あなたのヴァイオリンの音は酷い!」といって、伴奏者のピアノのレッスンだけで公開レッスンが終わった事もありました。
ようは、日本人とヨーロッパの先生達の音楽教育に対する感覚の差なのですよ。
私達が子供達の指導をするときには、子供達の音楽技術の指導だけではなく、色々な音楽上の知識、子供の心理や環境の問題も指導や対応が出来なければなりません。
ただそれ等は、かなり痛みを伴う助言も含まれるので、教室の保護者であれば、誰にでも、という分けではなく、もし本当に私達のアドバイスを望むのならば・・という条件が入ります。
人生は何かを求めるということは、同時に何かを失うと言う事でもあります。しかし、親の欲目は、子供に全てを与えたいと思います。その結果、子供はその両方を失う事になります。
「二兎を得んと欲する者は一兎も得ず」 です。
そんな言い古された事でも、親はついつい見えなくなってしまっているのです。
恋は盲目といいますが、それ以上に、親は子供に対して、本当に盲目になるのです。
それで、私達が保護者の方達に助言を求められて、一般の社会通念として常識的な話を聞いていただいても、まず子供の夢ありきの親にとっては、自分の子供に限っては、夢の全てが適うと信じてしまいます。
そして現実の話をする私達の忠告を守ってくれる人は殆どいないのです。
それは、親は子供の前では、10年後の将来の話よりも、目先の今日の甘さしか持ち合わせないからです。
もっとも、それが親の愛情かもしれませんね。
夢だけの家族には夢を見せてあげてもいいのかな?・・・と、ついつい考えてしまいます。
私達のように、結果を考えるだけではなく、単に夢を見るという事もありなのかな?とも思ってみます。
その親にとっては、夢のlevelを少し下げても、充分に努力をした事になるのだから・・・。
プロになるという事は、本当の夢ではなく、ただの夢に過ぎないのですから。
一般の人達には、プロになるための、現実の厳しさを教えても、結局の所、大衆は、大衆の進む方向にしか進まないのです。
戦後から今日の政治の話なのですが、「何も変えないからこうなったのに、今更何も変えたくない。」それが、日本の滅亡に繋がったとしても・・・です。
ギリシャやスペインのような、よその国の話になると、結構それなりに常識論を言うのに、日本の話となると、上の言葉になります。
それが、一事が万事で、日本人の体質なのでしょうかね??
ヨージーの法則
「何も変えないから、こうなったのに、何も変えようとはしない。」
人の上に立とうとする人は、一般大衆と同じ事を同じように努力しても無駄なのです。
人の上に立つ人は人のやらない事をやって来たから人の上に立てるのです。
でも一般大衆は人と違う事をやる事が不安でしょうがないのです。
それで、周りの人達に忠告を求めます。
周りの人達がプロの何であるかを知っているわけはないのに。
でもそれは、そこに信念がないからです。
信念もないし、だからと言って人と違った事をやっている人を、信じる事も出来ない。
だから、皆がやっている事と同じ事をすれば安心なのです。
間違えても皆と同じに間違えるだけなのだから。(だから自分の性にはならない。)
このお話の「人の上に立とうとする人」を「プロを目指す人」と置き換えると、そのまま教室の抱えている問題になります。
私達の教室に訪れる人達の殆どがプロを目指す人達ではありません。
寧ろ、入会の当初は、音楽が好きと言う人さえ、少ないのです。
ただのお稽古事の一環として見えられる方の方がほとんどなのです。
クラシックに敷居が高いのは極普通の事なのです。
それが、教室にいる間に驚くほどの成長を見せて、親(本人)がもしや・・??と言う気になってしまうのです。
だから、音楽大学の教授達の元に集まって来るような、全てを投げ捨てて、音楽家を目指して音楽の勉強を始める人達ではないのです。
[一般の音楽教室の水準では]
一般の巷の音楽教室では、生徒が音楽を楽しく弾ければ、それが最高の目標であり、音楽大学に進学するような水準(level)の生徒はいません。
ましてや、勿論、大手企業が自社主催でやるコンクールは、自分達の教室の為なので、そこで入賞する生徒がいるのは当たり前なのですが、全国規模のコンクールになると、それはプロ志望の子供達のコンクールになるので、一般の教室から入賞し出来る生徒はいません。
ましてや、留学ともなると、音楽大学を卒業した学生達にとっても難しいのです。
だから、巷の音楽教室で、多くの子供達が音楽大学に進学したり、高校から直接、海外に留学したり、小、中学生で、コンクールに入賞したり、また教室の卒業生の生徒の多くが今現在プロとして現場で活躍している、と言う事は、巷の音楽教室には、有り得ない(例のない)、それこそ不可思議な、異常な出来事であると言わざるを得ません。
まあ、そんな教室が現実にある分けはないのですよ。
[有り得ない事が有り得る芦塚音楽研究所とはどんな教室か]
そんな有り得ない事が有り得るのも、芦塚メトードがあっての事なのですが、何故、普通の子供達が普通に(そんなに一生懸命に勉強している分けでもないのに)勉強をして、子供の頃から必死に勉強してきた子供達よりも上手くなるのかは分からないというのが一般的な評価です。
教室の保護者の方々が、周りの知り合いの人々から「芦塚音楽教室とはどんな教室か?」と聞かれて、答えに困るとか、人に教室の紹介をする時に、相手に「どんな教室か?」と聞かれて、改めて、説明に困るという話は、昔々からの保護者の方達に共通の課題でもありました。
当たり前の事を、普通にやっているのに過ぎないのに、家族総掛かりで、プロを目指して、死物狂いで努力している人達よりも、上達が早く表現力や技術力が優れている・・・そんな事が現実的に、世の中にあってはならないのですよ。
それは有り得ない現実なのですよ。
そんな理不尽な事が有り得たら、お日様が西から登って、東に沈む!
そりゃ聞こえませぬ、でんべえさま~だなや!?
そういった有り得ない事を説明する事の難しさから、世間一般の音楽の教育機関や一般の音楽教室と私達の芦塚音楽研究所の教育のメトードの違いを、1番理解していなければならない保護者の人達に対しての「芦塚メトードを説明する」と云う事が、1番お座成りにされてしまいました。
[芦塚メトードの習得は]
芦塚メトードの説明の難しさから、一般の人達のみならず、教室の保護者の方達でさえ、犯す勘違いの第一歩は、「芦塚メトードで学んで来た人達が、そんなに簡単に知らず知らずのうちに上達するのなら、『芦塚メトード』自体も簡単に習得出来るはずだ。」と言う、勘違いであります。
それとよく似たもう一つの勘違いは、 「子供の時から、芦塚メトードで勉強して来た人は、当然、身を持って、芦塚メトードを体験して来た分けなので、芦塚メトードの専門家と言える立場で、当然、芦塚メトードをよく理解している・・・・。」という勘違いです。
残念ながら、上の二つのお話の例は、「そうは問屋が卸さない」のですよ。
まず第一番目のお話ですが、「芦塚メトードで育った人達が、必ずしも、芦塚メトードを正しく理解しているわけではない。」という現実を説明します。
その理由の一つ目は「芦塚メトードで学んできた生徒達は、何処からが芦塚メトードで、何処からが普通の指導法なのかが分からない」という事があります。
芦塚メトードで習って来た人は、当たり前の事ですが、一般の指導法を知らないのです。
つまり、芦塚メトードで習ってきて、簡単に身に付いた事は、何の苦労も泣く身に付いた分けなので、一般の教室でも簡単に身に付くと思ってしまいます。それがメトードであるということすら分からないのです。
だから、よその生徒が「譜読みが出来ない」と言っても、何故、出来ないのか分からない。それはその生徒の能力が足りない性だとしか思わないのです。
一般の教室の生徒達は、譜読みに大変苦労します。初見の出来る生徒はほとんどいないのです。
一般の生徒は「初見演奏が出来ない」 と言っても、私達の教室では、いきなりin tempoで初見練習を始めるのだから、それが普通だと思っています。
音楽を勉強している生徒は皆「絶対音感を身に付けている」と思い込んでいます。
だって、教室の生徒の大半は絶対音を持っている分けで、持っていない人は遅くから音楽を始めたか、他所の教室から代わって来た人だけだからです。
つまり、教室の普通の概念が普通ではない。
だから一般の音楽教室の生徒達は何が出来て、何が出来ないのかが分からない。
だから、何処からが芦塚メトードであるのかが分からない。
所詮、何処が芦塚メトードか分からない、と言うので、芦塚メトードに対しては有難味が湧きません。
だから、一般で「有難味のあるとされる所を素晴らしい」と思うのです。
私達の教室では何の価値もないのにかかわらず・・・です。
ブランド志向と同じです。
何でも鑑定団で普段家に何気なく置いてある物が驚くほどの高鑑定を受けると、突然、それが素晴らしい物に見えて来るから不思議なものです。
それは自分の目が育っていないからです。
そういった「他の教室との違いが分からない」 という理由の他にも、最たる事は、教室で勉強して来た人達は「芦塚メトードで習って来た」・・・わけであって、「芦塚メトードを習った」・・・わけではないから、・・・なのです。
芦塚メトードで習ったと言う事と、芦塚メトードを習ったと言う事は全く違います。
芦塚メトードを習った生徒はこの40年間の間に数名しかいないのですよ。
その数名の人達だけが、芦塚メトードとはなにかと言う事を本当の意味で、知っているのですよ。
だからといってもそれは教室が芦塚メトードを直隠し(ひたかくし)にしている分けではありません。
教室のレッスンは他の教室の先生達にもオープンにしています。
希望があれば、(勿論、どの時間もという分けではありませんが)聴講は基本的に自由に認めています。
という事で、外部の先生達が教室にlessonの聴講に来て、教室の先生達の指導を見学して、その感想を「普通に説明して、普通に指導してだけですよね?!」と言います。
しかし、それで、どうして生徒が上手くなるのか、その上達の秘訣が分からない。
だから、「千葉教室の生徒や保護者は特別にレベルが高いのですね。」と今度は生徒の資質のせいにします。
どうしても、生徒を怒鳴って教える教室でないと、「指導力の差だ」 という事は分からないらしい。
斉藤先生が聴講の先生にそういわれた時に、「普通にlessonするのが、一番難しいのですがね。」と切り返していたのだが、それに対しても、その先生からの反応はなかった!
ようは先生達が私達の教室のlessonを見ても、そのメトードの違いは、分からんという事よ!
[目的に応じたcurriculum]
所詮は、分かりにくい芦塚メトードが、一層、分かりにくくなっている原因がもう一つあります。
芦塚メトードのカリキュラムが、生徒達が「将来どういう方向へ進みたいか?」に対しての希望に応えるための、カリキュラムだからなのです。
芦塚メトードは今の学校教育にはそぐわないものがあります。それは、今の学校教育では、間違えられた、公平性が教育の根本の理念であるからです。
それが、音楽に限らず、一芸を極めようとする子供達の弊害になっています。
既に、マスコミ社会で活躍をしていたとしても、一般の生徒と同じに教育を受けなければならないのです。
一般の人達はそれが必ず本人の役に立つといいます。
しかし、プロを目指す子供達の役に立つ事は何もありません。
言い方を換えると、学校教育の中にはプロイズムは存在しないからなのです。
一般とプロは世界が違うからです。
こういうことをお話することすら、日本ではタブーとされます。
そういった一般社会のお話はさておいたとして、芦塚メトードとは、生徒の音楽とのかかわり方でそのカリキュラムが決まります。
だから、趣味の生徒とプロを目指す生徒が同じカリキュラムであることはないのです。
でも、それは差別ではなく、保護なのです。趣味の生徒がプロと同じカリキュラムで音楽を勉強したら、楽しくもないし、一瞬でつぶれてしまうからなのです。
そこをよく勘違いされてしまいます。
プロの音楽教育は優れていて、アマチュアの音楽教育は劣っているという風な勘違いです。
そこにはcapacityの問題が忘れられています。
つまり、子供は将来どういう風に音楽と接して行きたいのか?という大前提の下に芦塚メトードのカリキュラムが組み立てられてくるのです。
つまり、芦塚メトードは、音楽を専門に勉強する為の人だけを対象にして作られたmethodeではありません。
音楽と接して行きたい、色々な人や将来の希望に応じて、その夢を叶える為にsystem化されたcurriculumであって、そういった一人一人の指導の為のcurriculumの総称であるからなのです。
一般ではメトードという場合は、一種類しかありません。
そしてその一種類に該当する生徒達を指導するのです。
だから、目的が一つだから分かりやすい。
でも、一種類でもメトードがあれば、それなりに頑張っているのですよ。
メトードと言いながら、何一つメトードのない学習塾なども多いのに、有名ならメトードがあるかのように錯覚している親達が多いからです。
芦塚メトードの理解の難しさに戻って、
生徒達の夢は、例えば、「趣味で生涯を音楽と一緒に楽しく暮らして行きたい。」という夢や、「音楽大学に入って音楽を勉強したい。」と言う夢もあります。
「演奏家として音楽と付き合って行きたい。」という夢もあれば、私達の教室の「先生になって、音楽の指導、教育や演奏活動を一緒にやっていきたい。」と言う夢もあるのです。
「趣味で・・・」という事であれば、教室で勉強した人達は、その人の技術、技量でamateurオケや、ひょっとしたらプロのオケにでも就職は出来るかもしれないし、家で音楽教室も開けるかも知れません。
趣味という事は、芦塚メトードにとっては、何々型の教育法というカリキュラムに制約を受ける事がなく、curriculumが自由に作れますので、下手なプロよりも技術的に上手なamateurを作る事は可能になるからなのです。
しかし、ここに挙げた、たった四つの「夢の例」なのですが、この夢の例の中で同じcurriculumとある程度ダブるカリキュラムは、最後の二つの例で、「演奏家として・・」と「教室の先生になって・・」の2項目だけがある程度はカリキュラムが重なる部分があるだけなのです。
結論的に言うと、夢が四つあれば、カリキュラムも四種類あるということなのです。それも、プロを目指すものから、アマチュアまで・・・。
元の話に戻して、
つまり、芦塚メトードで学んできた生徒は、自分の希望する目的に応じた芦塚メトードのcurriculumで学んだにしか過ぎないのです。
しかも、それは指導される立場として指導を受けたにしか過ぎず、指導する立場で指導案の研究を推し進めてきたわけではない。それなのに先生達の指導を見て、いかにも簡単そうに指導しているので、自分達も同じように簡単に指導出来ると思い込んでしまうのです。それは学んでいる生徒達だけでなく、保護者の方達も同じなのですよ。だから、巷の他の音楽教室でも同じように指導して貰えるという勘違いをしてしまう。
[教室の生徒であったとしても、音楽大学を受験した人は芦塚メトードで学んだのではない]
上記の例は、それでも芦塚メトードで学んだ人達の例です。
しかし、例え直接芦塚先生の指導を受けたとしても、音楽大学の進学を目指して、受験生としてレッスンを受けた場合には、それは受験のためのlessonを受けただけなので、それこそ日本型のacademismどっぷりのlessonを受けて、音大に進学しただけなのです。
とどのつまり、芦塚先生に直接学んだとしても、芦塚先生から芦塚メトードを学んだ分けでもなく、ましてや芦塚メトードで学んだ・・・分けでもないのです。
繰り返し言うように、受験のcurriculumは芦塚メトードとは、一番遠い所、真逆の位置にいるからであります。
結論的に言うと、先ほども述べたように、繰り返し言いますが、芦塚先生の元で、芦塚メトードのインストラクターの勉強をした生徒は、この30年、40年の間に、僅か、数名しかいないのですよ。
しかし、芦塚先生の門下生で、音楽大学に進学した人達や、海外留学した人や、コンクールに入賞した人は無数にいるのに・・・ですよ。
しかも、当たり前の事ですが、そのインストラクター達は、音楽大学に進学した人達ではないということなのです。
そんな所で学習してしまうと、本当の教育が分からなくなってしまうからです。
でも、そういう事を言うと、音楽大学に進学する実力がないからインストラクターになったとか、陰口をいう人も出てきたりします。
まあ、人生色々だから仕方はありませんがね。
その音楽大学に実力がなくて行けなかったというインストラクターの先生達が自分の生徒を音楽大学に進学させる実力を持っていて、何人もの生徒を音楽大学に入れているのですがね。
それすら一般の人達は分からない。何故なら、一般の音楽教室では、そういう先生はいないからね。
事のついでにお話をしておきますと、芦塚音楽教室の先生達はヤマハや鈴木のメトードで指導が出来るように他所の教室のメトードも勉強しているのです。
その理由は、他所の教室から代わって来た生徒達に、いきなり芦塚メトードで指導すると、あまりの指導法の違いにパニックを起こしてしまうからなのです。
だから、半年、一年、二年と時間を掛けて、ゆっくりと芦塚メトードに移動させていくのです。
一つずつ、一つずつ長い期間を掛けて、その生徒に合わせて、気長に換えて行くのです。
移行期間の間は、その生徒が習って来た以前の方法のままに指導をします。
だからその時期の生徒の保護者の方から、「芦塚メトードと言うけれど、あまり今までのメトードと変わらないのね。」と言われる事もあります。
これも大きな勘違いなのですが、だからと言って 「芦塚メトードで教えると、こうなるのですよ。」と下手に説明したり、体験させたりすると、パニックを起こして、「やっぱり、この教室で習うのは無理だわ!」となってしうので、だから仕方なく、その生徒が習って来た方法で指導するのです。
それで、無理のない所から、徐々に芦塚メトードに変えていくのです。
でも、それで芦塚メトードに変わっても、「大変な山に登ってきたのね。」なんて感動はありません。いつ、芦塚メトードに変わったのかが分からないからです。
そして、昔からそれが出来ていたような錯覚に捉われてしまいます。
それは、素晴らしい事なのか?それとも、困った事なのか?考え込んでしまうところですね。
[芦塚メトードを勉強する先生は]
また、一人一人の生徒への指導方法についても、初心者の先生達がよく履き違える事があります。
未熟な先生になればなる程、「この生徒に対してはこういう指導の仕方をすればよい。」という画一的な回答を芦塚メトードの指導講師の先生の回答として、期待してしまうという事なのです。
芦塚先生の楽典の生徒ですが、その生徒が中学生の時に芦塚先生から出された課題がベートーヴェンのチェロ・ソナタの作曲年代を調べるという課題でした。これは現在も分かっていない事案ですが、ベートーヴェンがチェロ・ソナタを書いた年代(ベートーヴェンの傍に優秀なチェリストの友人がいた年代でもあります。)と、その当時のベートーヴェンの作曲技法を見ると、ベートーヴェンの書いた時期が1年以内まで類推出来るのです。しかもその作曲年代は現在言われている時代とは異なります。でも、それはそれでよいのです。教室の研究としての年代の推論なのだからです。
大学を卒業して、院を受験したい学生が芦塚先生の元に来ました。芦塚先生が「とりあえず課題をやって見ましょう。」と課題出しをしました。数日して、その学生が烈火の如く怒り捲くってやってきて、「国立図書館まで行って調べたのに、先生の課題の資料は出てきませんでした。」と怒り捲くっています。芦塚先生は諭して、「資料を写せばよいのは大学まででしょう?どうすればその資料が見つかるか?何を研究すれば、その事が分かるかの調べ方を見つけるのも、研究なのですよ。ちょうど、名探偵が些細な資料から本質に迫っていくように、何処を調べればその資料が見つかるかを類推していくのが研究の醍醐味なのですよ。」その学生は納得しませんでしたがね。「答えの見つからない問題は出題者の間違いだ!」といってね。
今の学生達は、塾等で、問題はきちんとした一つの回答があると思い込んでいます。ですから、複数回答や、回答を出すために試案等は論外なのです。
しかし、実際の教育は子供の行動に対して、先生が見せる反応なのです。
子供が1人いれば、その時その時の10種類の反応があるのです。
10人いれば、当然、100種類の反応があるわけですよ。
「こういう事を子供が言ったら、こう返す。」とか、「こういう風に子供がしていたら、こういう風に指導をする。」とかいう、その場、その場の対応(即応)なのです。
生徒への対応は、生徒がその事を引き起こした瞬間でなければなりません。
生徒の動きに対しての、先生側の非常に早いresponse(反応)とも呼べる対応でなければ、何の意味もないのです。
しかも、その反応はその場だけの行き当たりばったりのものではいけないのです。
ちゃんとその生徒の将来、未来を見据えての反応でなければならないのです。
生徒が大きなミスをして、先生がその場で対応出来なくって、後で指導講師の先生とビデオでcheckしたとしても、対応は1週間後になってしまいます。風邪を引いて、1週間後に薬を飲んでも、それは何の意味もありません。
ビデオでレッスンをcheckするのは、あくまでその先生の指導のpointの方向性をlectureするだけの意味です。
レッスンの対応はあくまでその場で瞬時に即応出来なければならないのです。
また、芦塚音楽研究所で学んでいる生徒のトップの生徒に属し、受験生だけではなく、一般から見ると、「音楽の専門家」で芦塚メトードの恩恵を一番に受けているように見える、「音楽の専門家」であるべき「コンクールを目指す生徒達」は、受験生と同じ「重箱の隅」の立場なのですから、芦塚メトードとは真逆の立場にあります。芦塚音楽教室の中で一番目立つ受験組やコンクール組みの生徒達が、実は芦塚メトードと真逆の学び方をしているのですから、これも芦塚メトードの大いなる矛盾と言えますよね。
音楽大学とは間逆の立場を取る音楽のプロ(演奏家や芦塚メトードの指導者)という立場は、その人のi dentityが最も大切な要素になります。
その人達の持つメッセージ性がプロとしての命なのです。
当然、教室としては、曲の出来不出来ということよりも、その生徒のi dentityを伸ばす事を一番の課題にします。
その生徒の個性や能力を最大限に生かして、伸ばし育てると言う事、それが本来の芦塚メトードなのです。しかし、教室でトップの技術を持つようになると、ついつい外の音楽界に目が行くようになります。
私達の教室ではまだまだでも、外の音楽の世界でちやほやされて、自惚れてしまい、そのうちに非常に上手なamateurになってしまいます。
どこの教室の生徒でもそうですが、コンクールで全国のlevelぐらいになると、周りに競合する生徒は居なくなるのです。
プロの世界は極端なピラミッドの構造の世界なので、それが普通で当たり前の事なのです。
音楽の世界の中でも、非常に狭い限られた世界の中で、生きているのです。
子供の頃から、日本の名だたるコンクールで、同じ顔ぶれで一緒に戦ってきて、ヨーロッパの有名なコンクールでも同じ顔ぶれで、だから、ヨーロッパの片田舎の誰も知らないようなコンクールを受けたら、またまた同じ顔ぶれだった。という嘘のような本当の笑い話があります。それぐらい音楽界の頂点は、5,6人の人達がひしめき合う非常に狭い世界なのですよ。もっとも、そのまま、30歳40歳になっても、同じ顔ぶれなのですがね。
でも、それはどんな世界でも同じなのですよ。
それがプロの世界なのです!
その狭い世界にはアマチュアは居ません。そんなもんよ!
芦塚先生の指導を直接受けた生徒でも、そこの所が分からない。
日本でトップテンにたてば、自分の周りでも同じlevelの生徒がいると思い込んでしまう。でも、日本でトップテンならば、日本中を探して回って、やっと10人しかいないという事なのですよ。
そこの所がどういう分けか、分からないのだよね。
阿呆らしい!
その頭の固さが、芦塚先生を苛立たせる原因になっています。
[再び日本の音楽教育と芦塚メトードの違いについて]
日本のアカデミズムは今でも基本は技術中心の教育法であります。
そういう事を言うと芦塚メトードでは、技術をおろそかにしているように捕らえられるから、困ったものです。
芦塚メトードでは技術は音楽を表現するために必要なテクニックとして捉えるのです。
日本の従来型の教育法では、技術は技術のためにあるのです。
技術のための技術とは練習曲偏重の日本の音楽教育です。
学校教育の計算問題(練習題)偏重と同じ事ですね。幾ら計算が強くなっても、数学が強くなった分けではないのですが、そこの所が日本人には分からない。日本の数学者の大半は計算が苦手な人の方が多いのですがね。
芦塚音楽教室と日本の音楽大学の教育法の一番大きな違いはそこにあります。
とはいっても、芦塚音楽教室が全く練習曲を生徒にさせないという事ではありません。
これはホームページにも、再三書いている事なのですが、いい加減に練習曲を勉強させると、生徒に弊害が出てしまうからなのです。
ですから、コンクール組や受験組の生徒にはきちんとエチュードの勉強をさせます。
Czernyのエチュード等もたった一曲を、半年、一年かかって、完璧にin tempoでノンミスで演奏出来るようになるまで、レッスンをします。そのペースでまじめにCzernyを終わるだけでも、60年かかるのですよ。しかし、そこまで丁寧に学習すると、次には、Czerny30番から、cramerのエチュードやClmentiのエチュード、Czernyの50番の教則本まで飛ばす事が出来ます。
教室ではCzerny以外の教則本でも、ケラーのエチュードやモシュコフスキーのエチュードを学ばたり、日本では出版されていない、Clmentiのグラドス・アド・パルナッスムのエチュードを使用する事もあります。(日本版として出版されているClmentiのエチュードはグラドス・アド・パルナッスムの中の簡単な曲を抜粋したのに過ぎません。非常に難しいClmentiのグラドス・アド・パルナッスムのエチュードはまだ日本では出版されていないままなのです。)
芦塚音楽研究所がエチュードを普段使用しないと言う事を批判する人は、教室が使用している教則本の水準や教材を知った上で、批判すべきですよね。
Czerny一種類のエチュードしか知らない音楽教室の先生達に、「教室がエチュードを使用しない」とは言われたくはないですよね。
こう言ったEtude偏重の教育法は指導するのがすこぶる簡単です。芦塚メトードも必要はありません。
何故なら、エチュード偏重の音楽大学やコンクールの評価法は減点法であるからなのです。
最初に、その曲が如何に演奏されなければならないか、というテーマがあって、そのpointを幾つちゃんとクリアー出来たかで評価をします。
音楽大学やコンクール等は、公平を期するために複数の人達が評価をします。
そうすると、どうしても共通する評価基準はそういった減点法を採用せざるを得ないからです。
つまり、個性や長所は評価する人の人生観、価値観、音楽に対する造形の深さで変わるからです。
当たり前の事だが、芦塚音楽教室と言えども、生徒を音楽大学に受験させたり、コンクールを受けさせる時には、当たり前の事ですが、生徒がコンクール(大学)に合格する事を前提として指導します。
という事で、芦塚メトードの使用は必要最低限の技術のlectureの部分のみしか使用しません。
先ほども述べたように、コンクールに合格させたり、音楽大学に入学させるのは簡単なのです。
生徒達に、徒らに無理な練習や勉強を強いる必要はありません。
コンクールや音楽大学の受験は、基本的に、重箱の隅をつつくような減点法なのですから、曲のinterpretation上で、絶対に守らなければならないセオリーを正確に把握し、そこの部分の徹底的な練習法を指導し、不安なく演奏出来るようにすれば良いだけなのです。
減点法の試験では100点は絶対に有り得ないのです。
それは採点が合議制(合計点)であるからなのです。
前にも言ったように、複数の採点者がいれば、情緒的な評価の基準の一致は望めないからです。
100点が有り得ない理由は、審査する人全員が100点を付けるという事は有り得ないからです。ある人がその演奏を高評価しても、別の立場の人は低評価をするからなのですよ。
その平均の最高得点が80点なのですよ。
また、減点法による評価では、個人的な感性や感情を込める演奏をする事を極端に忌み嫌うし、評価が複数の先生達からなされるので、個性を育てるような教育や、情緒的な演奏は幾ら優れた演奏をしたとしても、逆に極端に不利になります。
という事で、多人数で審査をする時には、公平性を期するために、原則として最高点の一人と、最低点の一人を省いた、合計で採点するからです。
その最高点のボーダーラインは80点なのです。つまり、常に80%の出来があれば、合格します。
という事で、コンクールを目指す生徒は芦塚音楽研究所では、必要最低限の表情表現と、原点法をlectureします。
生徒や親が下手な夢を抱かないように、必ず自己採点させます。
自己採点の方法は、与えられた課題のpointを幾つ減らせるか、という事で評価出来ます。
だから、まだ練習の途中であったとしても、生徒は自分が今、どの位置にいるのか分かります。
評価が自分で判断出来るから、コンクールに出て演奏が終わっても、合否の発表を待たないで、サッサか教室に帰って来ます。
自分の演奏が、どの程度の出来であったかを先生に報告するために。
間違えて、合格する事はよくあります。
それは全体のlevelが低かった時なのです。
でも、間違えて不合格の場合はありません。だから生徒の過剰期待はありません。
芦塚先生が「今回は残念だったね。」と、コンクールの演奏の前に言うからです。
その時点で親の甘い淡い期待は儚くなってしまいます。(子供は最初から夢は抱きません。減点法で自分の位置が分かっているからです。)
芦塚先生はよく審査員に呼ばれてコンクールの審査をすることがありますが、その時に、コンクールの主催者に驚かれる事があります。それは芦塚先生の採点の確かさ、冷静さです。
殆どの先生が、一人一人で採点がぶらついているのに、芦塚先生は全ての生徒の得点や自分の生徒の得点まで、採点がぴったりと審査員の平均点なのです。
ある時、他の審査員が感激していた事がありました。
生徒が舞い上がって舞台で調弦するのに上手く出来ないままに、そのまま弾き始めようとしました。
その時に芦塚先生がすかさず生徒を制しして、「D線があっていないよ。ちゃんと調弦しなさい」と注意しました。
他の審査員の先生が「芦塚先生、今の生徒は先生の弟子ではないですよね。」と言いました。芦塚先生が「そうですけど・・・?」というと、「う~ん!」と感心していました。
芦塚先生にとっては、音楽を勉強している子供なら、別に自分の生徒でなくてもよかったのですがね。
芦塚先生が日本に帰ってきて間もない頃、学生音楽コンクールに興味を抱いた先生は、コンクールを見に行きました。そこでホールに入ってくる生徒の顔を見て、その生徒の合否が分かると言う事に驚いていました。合格する生徒はそのような態度で入ってくるのですよ。顔の表情が他の生徒と全く違うのね。
キリリとしているのよ。受け答えもとてもしっかりしています。やっぱり違うのだよね。
そういう脱線の話はそこまでにして、要するに、コンクールに合格するか否かは事前に分かるのですよね。
それが、音楽大学を受験した人達やコンクールに出た人達が、芦塚メトードとは楽器や演奏の技術に関するmethodeであるような錯覚に陥る原因になるのです。
私達の教室で、そのまま先生になりたい生徒や、プロの演奏家を目指す生徒の場合には、その人の持つ個性や、良いところを伸ばし、その生徒の感性が相手(クライアント)に伝わるように教育をします。所謂、メッセージ性を育てるという事なのです。
勿論、メッセージ性とは、マンツーマンのメッセージではありません。
舞台芸術としてのメッセージなのです。
そこはまったく違った世界なのです。
(このお話はホームページ:芦塚先生のお部屋:舞台芸術としての表現:玉三郎さんのお話 に詳しく書かれているので、そちらを参照してください。)
[一般の音楽教室の雰囲気]
一般の巷の音楽教室や音楽大学の先生達の指導の仕方を、そういった場所で長年指導して来た先生に、お願いして書いて貰いました。
★日本の音楽教室では・・・★
*通常、一般の音楽教室では、生徒は先生に新曲を貰ったら、まず譜読みをします。
譜読みと言っても、一般では、一つ一つの音を基準のドの音から丁寧に一段ずつ数えて読みます。ピアノのように両手にまたがる曲も片手ずつ丁寧に数えて読みます。
譜読みが上手になるには、算数の練習題のように、譜読みの練習をいっぱい数をこなして、たくさんの楽譜を読みさえすれば、そのうちに自然と譜面が読めるようになると、誰もが思っています。と言うか、それ以外に譜読みの方法論があると言う事は誰も思っていません。
*と言うわけで、一般的には、子供が一人で音符を読む事(読めるようになると言う事)は無理だ、という前提に立っているのです。
むしろ、「子供は一人では譜面が読めないのが当たり前」という前提なので、大手音楽教室のカリキュラムを参考にすると、1歳、2歳児は、音を聴くだけの親子遊び。3歳で音を聴きながらのお遊戯とドレミファソまで。4歳、5歳で8小節から16小節を音を先生が生徒や親へ口うつしで歌い、歌を覚えてから鍵盤を探し弾かせる。
レッスン内で先生が1人1人の生徒にレクチャーしたり、確認をしたりはしないので、子供がレッスンについていって、覚えるのは無理なので、代わりに親が必死に覚えて、子どもに家で学習させて、なんとか弾かせる。
音→鍵盤→音符の順番で6歳までいくため、早く習い始めれば始めるほど、音を聴いて弾くことしかできず、楽譜や音符などが読めないという結果になってしまいます。
4分音符が一拍、2分音符が2拍等の拍や拍子に対しての楽典的な説明もないのだが、それはそういった理詰めのお話が、子供や親に理解して貰えない、或いは先生自身が生徒や親に説明が出来ない、という前提に立っているからです。
歌わせて覚えさせるために、拍子やリズム等の音価の概念がそもそもありません。
歌わせて覚えさせるために、記憶の限界で、長い曲を弾ける生徒が非常に少ない。
しかし、一般の音楽教室の発表会は、1人の演奏のための、持ち時間は通常は3分以内などと決まっているので、「長い曲が弾けなかった」としても、問題はありません。
*レッスンの時に生徒が弾けない時には「なんで弾けないの!」と怒る先生がほとんどなのです。しかし、どう弾けばよいのかを先生が説明する事はありません。
先生がお手本演奏をしてみせて、「こう弾きなさい」とか言ってくれる先生ですら、非常に少ない。先生自身が、簡単な子供の曲ですら弾けないのです。先生が生徒の曲を下見する事自体が少ないからなのです。
それなのに、「私はあなたが何で弾けないのか分からないわ!」と、言って来る先生までいて、何度も弾いて聞かせて「見てよ!覚えてよ!」といった感じのレッスンが多いようです。