言葉で説明する先生もいるにはいるのだが、その先生の期待する演奏と、その先生の説明の内容がずれていることが多いので、結局の所、生徒は先生の演奏を見て聴いて、先生と同じように真似をして、弾くしかレッスンを受ける道はないのです。
*質問をすると、怒り出す先生が多いので、先生に対して質問が出来ない。
質問をすると、どういう訳か、先生への批判と解釈されてしまうのです。
弾けない時は練習が足りないからだ、気持ちが弱いから、生活がなっていないからだと本人の否定をします。
しかし、これが余所の教室の生徒が持つ変な自尊心のオーラにもなっているのです。
「私だって、『ダメだ!ダメだ!』と言われ続けて、そういったレッスンに耐えて、それでもやってきたのだ」という強い気持ち!?がその先生の自尊心(プライド)を作っています。
*先生は「ちゃんと練習して来なさい!」というけれど、「何を、どう、練習したら良いのか?」 と言う事を説明してくれる先生は少ないのです。
だから子供は弾けない所を、何度も、何度も繰り返し弾く事を練習だと思っている。
*発表会のintervalは、一般的には、多く発表会をやる教室でも1年に1回か、1年半に1回、或いは2年に1回程度です。
そして生徒が演奏する曲目は、生徒が今弾きたい曲、親が子供に弾かせたい曲などを弾かせる場合と、教則本の中から、その生徒の技術levelに合わせて(年齢や音楽歴に関係なく)演奏させるスタイルもあります。発表会でも曲のlevel順に出演の順番が決まっているので、だから、同じlevelの曲を小学1年生や5歳ぐらいの生徒と高校生の生徒が隣同士で弾いたりして、しかも、5歳の方が上手かったりして・・・。
(まだまだ、ありますが、限がないので、この辺で終わりにしておきます。以下略・・・)
[子供時代と少女時代の能力の差]
子供の為の音楽コンクールには、県市町村単位のコンクールやその音楽教室の所属している企業が主催するコンクールと、全国大会の迄の(日本一を争う)規模を持つ水準の高いコンクールが幾つかあります。
そういったコンクールでは年齢である程度区別されて、小学校部門と中学校部門、高校部門等々がある。(コンクールの中には、年齢だけでなく、その年齢の中にグレードを持ち、その任意のグレードを受ける事が出来るコンクールもある。
例:小学校高学年(5,6年生)の部のグレードA,B.Cとかを任意で選択する。)
コンクールのお話は先ほどもしましたので、ここでお話するのはコンクールそのものではなく、コンクールに出場する子供達のお話です。
コンクールに出場する子供達の演奏の水準に、不思議な現象があります。
小学校部門の参加者は驚くほど、水準が高くて、天才児ばかりなのですが、中学校、高校部門になるにしたがって、音楽技術の水準が下がって、だんだん極々普通の生徒になるという不思議な現象があります。
その不思議の理由はすこぶる簡単な教育心理学的な理由です。
子供は、小学生の低学年(1,2年生)、中学年(3,4年生)になるまでは、模倣の時代であります。
成長期の子供達は、理解力や判断力が乏しい分、その能力を補うために、模倣力が優れているのです。この時期の子供達の教育には、日本の儒教型のお仕着せのコピー教育は実に効率が良いのです。先生が模範を示せば、子供はそのようにコピーして弾きます。だから、とても子供とは思えない大人っぽい演奏をするのです。しかし、審査する側もある程度は勉強していますので、一流の演奏家のCDを物真似したのでは、直ぐにばれてしまいます。其処の所は先生の力量が要求されます。
しかし、小学校の高学年(5,6年生)から中学校になって、子供が自我に目覚め成長をする時期になると、社会人になる為の準備として、個性と集団の確立の時代になります。
所謂、ギャング・エイジという年齢に入って、自分の個性を作り上げる時期になるのです。
それまでの、コピー・エイジ(ただ単に大人の真似の時期)は、先生の言ったことを忠実に確実に再現することが出来るという、メリットを持っています。
しかし、年齢が上がってきて、個性が少しずつ芽生えて来る時期になると、自分が理解し、納得出来た事しかコピー出来ないという状況が起こって来るのです。
つまり、子供の成長と共に理解力や判断力は上がってくるのですが、反対にコピー能力は衰えてくるのです。
小学生の時に非常に優秀であったということは、コピーの能力が非常に優れていたということで、逆の言い方をすると、親や先生の言う事を忠実に聞いて、その通りに守るという事は、逆の方向から言うと、個性の成育が弱いという証でもあるのです。
だから逆に、そういった一見すると非常に優秀な子供は、その子の個性が育つに従って、演奏能力(コピー能力)が落ちて行くという皮肉な結果を生み出してしまうのです。
かわいそうなことに、このコピー能力の落ち込みをもたらしているのは、子供の自然な発達(成長)の成せる技であって、子供が怠けてやっている分け(コピーを忠実にしないという事)ではないという事なのです。
先生に忠実であればあるほど、年齢が上がるに従って、先生の期待を裏切る結果となってしまうのです。それが分からない先生や親は、子供が上手く先生のコピーが出来ないのを、親のいう事を聞かなくなった、とか、サボっているとしか思わなくて、もっと厳しく子供に当たる事になる。
結果、或る時に、子供から思いもよらない反撃(SNBP)を受けて、子供の教育そのものを諦める事になるのですよ。
[儒教の考え方]
儒教的教育においては、子供は理解出来ないという想定において教育がなされます。
つまり、「出来てから、初めて、その結果、理解出来るかもしれない。」 という想定であります。
或いは、最初から「理解出来ない。」 という想定ではなくて、「理解しなくてもよい。」という想定でもあるのです。
そういった考え方が、主流を占めるのには大きく三つの理由があります。
第一の理由は、物事を正確に伝達(コピー)していくには、解釈をし、理解する事は、致命的な弊害をもたらす事があるからです。
人が理解をするという事は、その人の理解であり、理解するたびに、コピーの内容が少しずつ変化していくからです。
全ての為政者にとっては、理解しないでロボットのように忠実に命令に従いコピーする事が、理想であり、命令を判断し、分析をすることは批判がましい結果を生み出すために、為政者にとっては、好ましい状況ではないのです。
会社組織においても、中央集権的構造は変わらないので、その形態は基本的には変わりません。従う側は上司の意見を一言半句変えてはいけないのです。
全くの完全なコピーでなければならないのです。
順番を変えたり、工夫したりは論外です。
上司の指示をコピーするためには、質問や疑問を持つ事は許されないし、それに答えるはずの上司も「私はそう習った!」としか言わないでしょう。
理解し判断してはいけない。
言われた通りにやる事がベストであると学んできたからです。
当然、無批判に受け入れてきたのですから、何故そうでなければならないか?と言うような西洋型の理論は分かりません。知ろうともしないからです。質問される事もなかったし、それが日本の教育の姿ですからね。塾でも同じでしょう??
第二の理由は、効率(時短)です。
一人でも多くの生徒に理解をさせようとすると、教室の経営は成り立たなくなります。つまり、直ぐに理解出来る生徒と幾ら説明をしても理解出来ない、或いは理解する事自体をしようとしない生徒に合わせて教育をすると、逆に実力のある「出来る生徒」が落ちこぼれてしまう、という現象が起こります。
芦塚先生が音楽大学に入学して直ぐの頃、教授の授業のアシスタントをしていたとき、教授の授業の進め方が、あまりにも低levelなので、その事を疑問に感じて質問をしたことがあります。
その先生が答えたことは、
「生徒が100人いたとして、その内のトップの10人は非常に優秀な生徒で、最下位の10人は落第決定の生徒である。では君はどのlevelの人達を対象に授業をするのかね?」
「トップの10人は、授業で習わなかったとしても、自分で勉強していく人達である。下の10人は何をしても、遊んで勉強はしない。・・・という事で私は真ん中の80人を対象に授業をするのだよ。」
芦塚先生は「なる程!」と、感心したそうです。
しかし、これはあくまで大学の授業の進め方であり、塾教育となると、そうは行きません。
塾も企業なので、実績を挙げないと、生徒が集まらない、という事に成ってしまいます。
それで、一番効率の良い方法は、「落ちこぼし教育法」になります。
成績の悪い生徒をどんどん落ちこぼして、良い生徒だけを塾に残すと、その塾はとても良い塾だと噂がたって、更によい生徒が集まるのです。
成績の悪い生徒を一生懸命指導して成績を上げさせても、その塾は決してよい評価を受ける事はありません。
むしろ、成績の悪い40人をやめさせると、「あそこの塾は成績のよい生徒しか教えない。」と言う評判になって、成績のよい60名の生徒が集まってきます。成績の良い生徒達は習い方がとても上手です。だから先生の指導力は要らない。
芦塚先生が学生時代に教えていた受験生は、あちこちの教授から回されてきた生徒なので、何が何でも音楽大学に入学はしたいのですが、もう後がありません。音楽に魅せられて、音楽に進みたいと思った時期が遅すぎたのか、余程だめな先生に習ってきたのか、いずれにしても、基礎力や、積み上げられてなければならない勉強力が不足して、音楽大学の先生達にはどうしようもない生徒なのですよ。だから、芦塚先生が見放すと教えてくれる先生が、もういなくなるのです。
だから必死です。という事は、逆の立場から言えば、先生の指導力さえあれば、どこまでも伸びる生徒達です。勿論、芦塚先生はその生徒達を全員憧れの音楽大学に入学させました。それどころか、その内の数名は総代で合格させたのです。
塾の話に戻って、優秀な生徒を集める事は塾の夢であり目標でもあります。しかし、名門の塾になり損ねた塾は、生徒を選ぶ事は、もう出来ません。だから、そういった塾にとっては良い生徒である条件は、理解力のある生徒を指すのではありません。理解していなくても、ただ得点が取れる生徒なら良いのです。 問題を理解させる必要がないのなら、つまり試験でよい成績を上げさせるだけなら話は簡単です。
試験の成績を上げるテクニックを指導すれば良いだけなのですから。
と言うわけで、今の子供達は驚くほど、一般常識がなく、語彙もなく、理解力もありません。
有るのはコピーの能力と、質問にロボットのように反応するだけです。
それは、効率を優先させるからなのです。
なまじ理解させようとすると、いちいち説明をするのに時間が掛かりすぎて、塾のノルマをこなす事が出来なくなるからなのです。勿論、それは文科省のカリキュラムにがんじがらめにされている学校教育も同じことなのです。
つまり、塾においても、学校教育においても、テストの答えを出す事それ自体が目的になってしまっていて、本来の目的であるべき、「その問題が出題された意図を一つ一つ理解させる事」は、文科省の指定しているcurriculumをこなす事は、「出来ない・・・」「無理・・・」 という前提のもとに立っているのです。
先ほどの一般の音楽教室の指導の話にも出てきたように、殆どの音楽教室は、「譜面は読めなくても良い。」「音符が分からなくても演奏には支障がない。」「音符の読み方やrhythmの指導はする必要はない。」という前提に立っているようです。
音楽教室の前提としては、譜読みの仕方は、先生に教わるのではなく、親と子供が一緒になって、必死になって努力して、一音符ずつ、数えて読むらしいのですが、親が子供と一緒に譜読みをするのが辛くなって、限界になった時が、子供が音楽をやめる時だという事だそうです。
この話を結論的に言うと、(全音楽譜出版社の調査によると、)ピアノを学び始めて、Beyerの後半で70%以上が挫折し、その90%以上が譜読みで行き詰って、ピアノ(音楽)をやめるのだそうです。
「・・だそうです。」というこの人ごとのお話は、私達の教室では譜読みの為のmethodeがあって、教室で育った生徒の大半は初見力があって、中級から上級の生徒になると、殆ど、in tempoで曲を弾き通す事が出来ますから、本当に「譜読みの話」は他人事なのです。
Pianoの連弾や弦の室内楽等も、最初から殆どin tempoで練習を開始します。
ピアノの生徒達も、ヴァイオリンの伴奏の曲を「合わせ練習」の前日に渡されても、次の日にはin tempoで合わせ練習をします。
教室で育った生徒は、譜読みに悩む生徒はいないので、ついつい一般の生徒や先生達も譜読みが早いと思い込んで、譜面を渡したりしてしまいます。
発表会ではなく、対外出演の時でも、芦塚先生がその曲の出来に納得がいかないと、演奏会の3日前でも「曲目変更!」と言われてしまいます。
先生達の演奏に至っては、演奏会前日の曲目変更もありなのです。その変更の曲も新曲だったりする事が普通にあります。初見の暗譜の演奏、それが芦塚先生の普通の感覚なのですよ。
先生だけでなく生徒達にとっても、それが普通なのですよ。
(上級組の初見のカリキュラムには、初見の暗譜という項目があります。新曲を渡されて3分間見て覚えて、曲を初見の暗譜で演奏するという課題です。これが出来るようになると、舞台でも初見で演奏出来るようになります。)
芦塚先生は芦塚メトードで学んだ分けではありません。だから、芦塚先生は「芦塚メトードでは演奏出来ない。」とぼやいています。
しかし、教室が忙しい時には、オケ練習の芦塚先生用のスコアーを準備出来ない時もあります。で、練習にそのまま突入すると、芦塚先生は「え~っ??スコアーがないの?!」と文句を言いながら、暗譜で指揮をし始めます。
新曲の場合も多いのですが、何時覚えてしまうのかしら??まだ、決めていない(書いてもいない練習番号や小節番号をいいながら、)「ハイ!35小節目のpassageはメトロノーム幾つで、forteと書いてあるけれど、編成の人数が少ないので、fortissimoで演奏して・・!!」とか、まるで、譜面がそこにあるかのように、練習が始まってしまいます。
それで、生徒も付いて行くから不思議なのだよね。それが芦塚メトードというのですがね。
私達の教室では…!
しかも、生徒達はそれが普通だと思っているから、困ってしまう!!
儒教教育の根本にある「理解しなくてもよい」という第三の理由は、
ここで述べる価値もない、それこそ「語るに足らない話」になります!
しかし、ここでその「語るに足りない話」をしなければならないのは、困った事に、その第三の「語るに足らない話」が、日本の音楽教育界で一番多い、学習途上の生徒達を惑わせている理由の根本そのものなのだからです。
それはその指導者自身が、本人自身も『頭ごなしの教育 』で教わってきて、『何故?』という疑問を持たないままに学んできてしまったという事に、その根本原因があるからなのです。
日本の音楽教育界では、質問をすることは許されないのが普通です。
「何故そう弾かなければならないのか?」その理由のいかんは問われないのです。「先生がそう思うから、そう弾く。」つまり、そこには、先生に対しての絶対的服従の精神があります。
「私の先生のいう事は絶対に正しい。だから、周りで、それ以外の考え方を持っている人は全て間違いである。」
一見すると、実に不条理で、幼稚っぽい考え方であるが、日本のほとんどの音楽家達はこういった考え方をしています。
これが日本の音楽界の一般常識であり、現状なのです。
しかも、演奏の解釈等でも、一生懸命勉強してきた人になればなる程、そういった傾向が強くなります。
それで、「Beethovenのトリルは、こう演奏しなければなりません。それ以外の弾き方は全て間違いです。何故なら私の先生がそう言ったからです。」なんて言われても、本人がそう思っているのなら、如何せん、こればっかりは宗教のようなものだから、なんともしようがない。
根拠がないものについては、否定のしようがありませんからね。
何の理屈もないのだから…。
もっとも、その先生の先生も、その先生が師事した先生にそう習ったに過ぎなかったりして!
それで、その先生の先生の先生も、と言う風に、そのまま、ジュラシックの時代迄、遡ったりして!!?
実によく居るのだよ!
「我が師は各語りき!」と宣ふ音楽家がね。
芦塚先生は「実に羨ましい!」とか言っていました。
「俺の弟子には『尊師!』なんて言ってくれる弟子はいないな~ぁ!」という事で…。
芦塚先生のpolicyでは、先生に理論的に盾突く生徒が理想の生徒なのだそうですから、「先生の言う事は全てだ」なんて生徒は育つ分けはありませんからね。
と言う事で、「まぁ、芦塚先生の愚痴はほっとくとして、・・・」 ということで、日本の全ての教育は質問を認めない、教え込み教育であり、コピー教育なのです。
当然、儒教の教育は人と競争させる事で、生徒に努力を強いる。
競争が勉学の原動力なのです。
それは、勉強そのものが、楽しいという意味ではない。
しかし、競争をするという事は常に、自分より優れたものと戦う事です。
つまり、ピラミッドの頂点は一人しかいない。
同じ勉強をするという人達が何万人といようと、頂点に立つ人は一人であり、それ以外の人達は、挫折するという前提なのですよ。
でも、本当の社会では少し違います。
同じものを作るプロでも、微妙に違うのです。カレーに喩えてお話をすると、AさんのカレーとBさんのカレーの味は違います。Cさんのカレーも違った味です。でも同じプロのカレー屋さんなのですよ。後は食べる人の好みでしょう??
つまり、パールマンのプニャーニは素晴らしい。しかし、Bachはシェリングでしょう??で、Mozartは??つまり、プロと言えども、たくさんのプロがいるのですよ。どの人が素晴らしいか、と言う事は次の段階です。個人の趣味の問題なのですよ。
もう一つは、その分野のスペシャリストと言うプロです。
だから芦塚先生がいつも言っている事は、「誰もやっていない事をやれば簡単にプロになれる。」でも、実際には芦塚先生が言うように「誰もやっていない事をやる事は」簡単な事ではない。
誰もやっていない事をやるためには、自分で全て道なき道を、考えて捜さなければならないのですよ。
それは誰もやっていない事だけに、超難しい!
と言う事で、「猫も杓子もChopin」のピアノの人達と違って、芦塚先生は斉藤先生にライフワークとしてbiberという作曲家を推奨しました。
Bachやバロックの多くの作曲家に影響を与えた大作曲家で、多くの名曲がある作曲家なのですが、scordaturaによる作曲法で、演奏上の難しさから、日本でも世界でも演奏される事は少ないのです。
biberのscordaturaの調弦でも、5度調弦だけではなく、3度調弦や色々な調弦法を知っておかなければならないのです。
でも、日本人だけではなく、世界のヴァイオリンの先生であったとしても、そんな調弦法を知っている先生はほとんどいませんよね。
ところが、芦塚先生はピアノの調律で5度調律や3度調律などの調律法、或いはチェンバロのtuningのために、純正調の調律等も勉強しています。
だから、普通の人達にとって難しい調弦法も、芦塚先生にとっては、biberの調弦法はそんなに難しくないのです。
例えば、biberのロザリオのソナタの第6番の調弦も下の弦からAs,Es,G,Dと調弦するのですが、AのpitchからDのpitchを取るのは難しい事ではありません。
完全音程だからです。
で、次のGも完全5度で問題なく取れます。
次は、GからEsを取ります。これは純正の3度を取ればよいから難しい事ではありません。
と言う事で、次にEsから完全5度を取り、調弦は終わりです。
でも、勿論、そんな事はどこにも書いてありませんから、自分で見つけていかなければならないのです。
そこが、全てを「教えて貰える」という前提に立っている日本人には難しいのです。
scordaturaの調弦法は書物にも載っていないのですからね。
芦塚先生だって、biberの調弦方法を誰かに習ったわけでも、書物で調べたわけでもないからです。分析力、推理力、論理性、判断力、等々、本当の勉強にはそういった力が必要なのですよ。そういった力が芽生えると、勉強はとても楽しいものになってきます。
芦塚先生が芦塚メトードを作り上げた頃、その話を高校の数学の先生にしたら、そんな普通の人間が歴史的にやっていない事をそんな簡単に見つけ出す事は絶対にない。知らないだけで、絶対に昔の偉人が同じ事をやっているはずだ。と芦塚先生に言っていました。
しかし、その人は人のやっていない事を調べる方法を知らないだけだ、と芦塚先生は反論していました。音楽の歴史は限られています。ピアノの歴史ならピアノが最初に作られたときから始まります。ピアノ以前ということを考慮しても、せいぜいチェンバロの歴史やorgelの歴史までしか遡らないのです。ピアノの奏法が確立したのも、ScarlattiやCouperin、或いはClmenti以降の時代です。そうすると、知識として研究できない事はないのです。そこで、ないものを調べるのは簡単な事なのです。洗濯物のゴミを集めるフロートやセロハンの梱包を開けるtapeも単なる思い付きではあるのですが、そこに不自由を感じないと、無から有を作り出すことは出来ません。無から有を作り出す技術は、ここに何かがあったら便利なのに・・・と感じる力なのです。与えられた課題をそのままこなすだけでは、無から有を作り出す能力は生み出されないのです。
芦塚先生がまだ大学の先生をやっていた頃、(音楽教室を作るよりもずうっと前の時代の話なのですが、)大学の卒業生の小学校の先生達を指導をするために、その就職先の学校に出かけて行って、その学校の先輩の先生達に、「勉強は本来、とても楽しいもので、教科書を作っている人達ぐらいになると、その教科が楽しくてしょうがないのですよ。」といったら、学校の先生達は誰も芦塚先生の言っている事を信じませんでした。
子供達に勉強を教える学校の先生達の長である、校長先生達が「勉強はつまらないものだ。」という前提に立っているので、学校の教育も、これは遺憾ともしがたいものがあります。
芦塚メトードの教育は、そういった上記のような、音楽教育や一般的な勉強に対しての教育に対する考え方を真っ向から否定する教育法なのです。
[情緒表現はamateurismであるという一般論]
日本の音楽大学というか、academismの世界には、摩訶不思議な発想があって、曲を情緒として捉えたり、演奏させたりすると、その音楽はアマチュアイズムである、と思われてしまうという風潮があります。
ですから、芦塚先生の「音楽の情緒表現」等という理論や教育法は 「曲を情緒(感情)で弾かせて、基礎を教えないamateurの教室だ!」とか、言われそうですね。
情緒的に演奏するという事と、感情的に演奏するという事は真逆の立場にあるのですがね。
感情と情緒の表現の違い、それが、分かる指導者は少ないようです。
下手な生徒を一見上手なように演奏させるとか、情緒表現が苦手で、全く出来ない生徒を感情過多の生徒のように演奏させるという事は実に簡単なテクニックです。正確に感情過多に演奏させればよいだけなのですから。
[実例]
実際の話では、小学校の6年生の時から一般大学受験の為に塾に行っていた生徒が、高校2年生の時、突然「音楽大学を受けたい。」と言い出して、芦塚先生は、一旦は 「そりゃ、無理だ!」と、断ったのですが、「どうしても行きたいから!」と、拝み倒されて、「大学に入れるまでは、私が何とかしてあげるけれど、入った後は授業に付いていかなくても知らないよ!」という条件で受験させる事にしました。
しかし、体を作る大切な中学、高校時代に、Pianoの練習をあまりしていないので、どうしても、ChopinのEtudeが目標の合格ラインのメトロノームのtempo迄、持って行けません。
これは中学生の頃に、ピアノを演奏する上での、肉体的訓練を怠った結果なのですから、仕方のないことです。
という事で、困りきった芦塚先生は、入学試験の本番の直前に、演奏のstyleを受験用から、プロ仕様の演奏styleに変えることにしました。
所謂、超高級難度のrubato奏法です。
一月で頑張ってrubato奏法を身に付けて、(・・・勿論、身に付けてと言っても、その曲だけのrubato奏法ですけれどね。)無事憧れの音楽大学に入学しました。
彼女の前後の10人は全員落ちていたそうですがね。
[実例]
ある小学6年生の生徒が「コンクールを受けたいので!」という事で、芦塚先生のlessonを受けたいと申し込んできました。
「コンクールは大変だし、もし将来音楽の方面に進みたいと思うのならば、コンクールは考え方も方法も将来には結びつかないし・・」とか言って、色々と説得してみたのですが、「どうしても!」 という事で、結果として、芦塚先生がコンクールの為にlessonをする事になりました。
しかし、lessonしてみて、音楽的情緒表現が全く出来ないという事に気付きました。
勿論、年齢と言う事もあるのだけれど、それ以前にそれ迄の音楽技術のlevelに到達していないという事が原因です。
「音楽を感情として、或いは情緒として受け取る事が出来ない。」という事で、情緒や感情を技術として、指導する事にしました。
揺らしはメトロノームのtempoとして設定して、強弱は弓量配分としてとか、指の圧力とかです。
コンクールの全国大会が終わって、審査員の評価は、「とても良い演奏だけど、感情過多なので、自制して演奏するように」と言うことでした。
笑ったね。それは・・!
要するに、コンクールの審査員を騙すのは簡単な事なのですよ。
[Etude等の無味乾燥な音楽]
コンクール等の高い水準で音楽表現を作るという話は、それくらいにして、次に一般の音楽を勉強している子供達が練習をしなければならないEtude等のお話をしましよう。
一般では、Czerny30番や40番、50番を弾く生徒は、実に無味乾燥にCzernyのEtudeを演奏します。
つまり、単なる指の訓練の曲として演奏しているのです。
それなら、ハノンだけで十分なのにね。
音楽をスポーツと勘違いしているのではないのかな?と思う程、無味乾燥につまらなく指導し演奏させます。
しかし、実際には、一般には無味乾燥な指の訓練の為のEtudeと思われているCzernyにも、Czerny独得の美しさがあります。
それはChopinのEtudeと共通する、或いはSchubertのimpromptu等とも共通するfigurationの美しさです。
「何で、Chopin等の大作曲家とEtudeの作曲家のCzernyを同じ舞台に乗せるの!」と怒られそうですが、Czernyは Beethovenの高弟で、Beethovenも彼の演奏には一目置いていて、Pianoconcerto第五番「皇帝」の初演をCzernyに頼んだという話は有名な話です。
しかも、Czernyは幼いLisztの才能を見出して、貧しいLisztを無料で教えて、大演奏家に育てた、という逸話は有名です。
そういうわけで、LisztもCzernyの事をとても尊敬していて、晩年のCzernyをパリに呼んで、一緒に演奏したりしているのですよ。
だから、LisztはCzernyの事をとても尊敬していて、10代の頃にも、Etudeを作曲したりしています。
という事で、Lisztの数多くのconcerto EtudeはCzernyのEtudeの延長線上にあるのですよ。
という事で、CzernyのEtudeも弾き手が代わって、Wien情緒溢れたVirtuosoのPianoの演奏ならば、とても美しい曲であって、決して無味乾燥な曲ではありません。
エッシェンバッハのCDが売られているので、聞いて見るといいですよ。
中々、美しい曲が沢山あります。
BeyerもCzernyも色々なEtudeをちゃんと勉強して、ちゃんとアプローチすると、本当はとても綺麗な曲なのですよ。
技術のみを追求するのなら、技術による美しさ、所謂、Virtuositätも追求して欲しいものです。
[教室のレベルが高いと]
私達の教室は、以前から、先生達が演奏活動をしたり、生徒達も対外出演をしたりしているので、とても厳しい、入会するのにも、面接があって・・・等々の、風評被害に悩まされてきました。
特に八千代の演奏会が定期的になってくると、その風評はもっと大きくなって、そこへ持って来て、「芦塚音楽研究所の音楽教室は、全ての音楽を学びたい人に対して門戸を開いているわけではない。」等と言うと、それこそ 「教室に入会するのに、難しい試験があってそれに合格しないと、教室には入れない。」等と勘違いをされてしまいます。
事実、対外出演等で子供達が素晴らしい演奏をすればするほど、日本流の発想で、私達の教室に入った後でも、とてもlessonが厳しくて、先生も怖くてと、いうような風評が立ってしまい、それで、怖れをなして、教室に見学に来るのをやめてしまった、とか言う人達がいて困ってしまいます。
教室の保護者の人が再三に渡って「そんな事はないよ。とても優しく教えてくれるよ!楽しい音楽教室だよ!」と言っても、風評では芦塚音楽研究所は「かなり厳しい教室で、lessonでも、親も子供も泣きながら教室に通ってくる。」とか言われて、信じてくれないので困ります。
それを聞いた教室の親御さんが、アハッ、ハッ、ハッ!と苦笑していました。
教室にとっては、笑い事ではなく、気楽に習いに来てくれる生徒が減ってしまうので、とても困った風評です。
[教室が生徒を選ぶという意味]
私達が言っている「教室が生徒を選ぶ」という意味は、そういった高級な意味ではありません。
芦塚音楽研究所が、生徒の入会条件に出しているのは、「クラシックというジャンルに限ってしか、指導していませんよ。」 という意味だけなのです。
もう少し、分かり易く言い換えると、「教室では、ポピュラーソングやジャズ、テレビ音楽等のlessonは、いっさいやっていません。」という意味なのです。そういった意味でのselectなのです。
芦塚先生は音楽を説明する時に、一般の方にも分かり易いように、よく音楽のジャンルを本に喩えて説明します。
ポピュラーはその時代や世相を流行のそのまま、表現しています。
だから、時代を如実に反映する週刊誌のようなものです。
探偵小説はスリリングなジャズのようなものかもしれません。
宗教の本はそのまま教会音楽でしょうね。
平均律やフーガの技法等は哲学書かもしれません。
ソナタやChopin等の名曲は純文学として、表す事が出来るかも知れませんね。
以下etc.etc.
そのまま行くと、ハノンは応用問題集で教科書はEtudeかもね。
一般の音楽教室は、子供達が望むのなら、テレビ音楽(アニメソング)やポピュラー音楽も演奏させたり、発表会でも子供の好きな曲を演奏させます。
私達の教室では、そういった音楽を子供達に指導する事はありません。
「それはどうしてなの?」と、質問される事がよくあります。
その時に流行している曲や、弾きたい曲をただ弾くだけなら、問題はないのかもしれませんが、ある程度、ちゃんとPianoが演奏出来るようになる(上達する)には、ちゃんとしたstep(methode)による練習が必要になります。
(とは言っても、世間一般のように「練習曲やハノンを勉強しなければならない」と言う意味ではありません。)
演奏をするための技術を身に付けるためには、基礎がしっかりと出来ていなければならないのです。
でも、多くの人が勘違いをしているのは、必ずしもEtudeを勉強したからと言って、基礎が育つ分けではないのです。
そこにはちゃんとしたsystemやmanual(methode)が必要なのです。
そういった意味に於いては、一般の若い先生達が(Beyerに代わる新しい教材として使用している、)新しい教則本も、Beyer程度のsystemやmanualを持っている分けではありません。
Beyer教則本を一般の先生が使用出来ないのは、Beyerの教則本のmethodeが理解出来ていないからなのです。
Beyer教則本もCzerny教則本も、そのテキストの指導manualを作曲家が書いた分けではありません。どこにも、教則本の指導manualは存在しないのです。
だから、その教則本の指導manualを知るには、自分自身で、教材研究をしっかりとしていかなければならないのです。
当然、アニメソングやテレビのコマーシャルの曲はPianoのために書かれた曲ではないし、ましてやピアノの教則本として書かれたわけではありません。ですからPianoを弾くための基本のセオリー通りにはなっていません。
だから、アニメソングやコマーシャルの色々な曲を発表会等で弾いて、長い期間練習してきたとしても、Pianoの技術が向上する事はないのです。
「では、芦塚先生の教室では、子供達はつまらないクラシックの曲だけを勉強しているの?」
と言う質問ですが、・・・まず、その前提がおかしい!!
「クラシックがつまらない」のは、指導者がつまらなく指導するからです。
クラシックの音楽を通じて、その曲の面白さを指導するなら、生徒も親も「クラシックがつまらない!面白くない!」という人は一人もいなくなります。
[小学校での演奏の例]
斉藤先生が近所の小学校に頼まれて、小一時間ほど、小学4年生の子供達を前にして、ヴァイオリンの名曲を演奏しました。子供達は間近に見るヴァイオリンの音に聞き入って聞いていたのですが、その小学校の先生は子供達が熱心に聴いていたのを見て、開口一発「みんなよく辛抱して聴いていました。」・・・といいました。斉藤先生も、伴奏の先生も、その担任の先生の子供達の捉え方に、呆れてしまったそうです。その小学校の担任の先生のクラシック音楽に対してのイメージが、「クラシック音楽はつまらない」というイメージで見てしまっているから、子供達が音楽に集中していたのが見えなかったのですよ。
「心此処に在らざれば・・・」 という事かいな?
芦塚音楽研究所では、子供達の発表会向けに書かれた曲は教材として使用しません。
「エリーゼの為に」とか、「クシコスポスト」とかの子供の発表会用の曲は、教室の発表会のレパートリーにはなりません。
(バルトークやカバレフスキー、ハチャトリアン等の子供達への素晴らしい名曲は勿論、別としてです。)
[救済策]
(千葉の教室では夏休みとか、クリスマス会にお楽しみ会があります。其処ではlessonとは別に、自分の弾きたい好きな曲を自分で練習してきて、皆の前でお披露目する、という企画があるので、自主演奏が出来ます。
其処では、発表会ではなく、お遊び会なので、クシコスポストのような曲も演奏出来ます。教室の生徒達はその程度の曲は先生のlessonを受けなくても、自主的に演奏出来ます。但し、ここでもポピュラーの曲は演奏される事はありません。子供達も持ってきません。お客様がしらけるからね。)
教室でcurriculumとして勉強する時には、あくまでちゃんとした本格的なクラシックの名曲を勉強します。
でも、くどいようですが、子供達に音楽の素晴らしさを、手取り足取り指導すれば、クラシックがつまらないという生徒は、一人もいなくなるのですよ。
どんな小さな子供でもね。
逆に 「テレビの音楽は、単純で、音楽がなくって、つまらない。」という生徒は結構いますがね。
本当の本物を子供のうちからちゃんと指導する。
それが私達のpolicyだからです。
その趣旨と教室の独自性を入会時に保護者の方によく説明をして、「そこまでは…とか、もっと気楽な音楽が好きだから・・」という保護者の方には、近所のヤマハやカワイ等の教室か個人の一般の教室を紹介しています。
芦塚先生が千葉の花園地区には教室を作った頃には、花園地区には多くの音楽教室がひしめき合っていました。
それがバブルの崩壊や現代のような少子高齢化社会を迎えて、個人の教室は当然の事、楽器店や大手企業の経営する音楽教室ですら、姿を消していきました。
そういった音楽教室が生き残って行く事が難しい時期には、教室のconceptや、他の教室との差別化がとても重要になります。
ポピュラー音楽やコマーシャルソング、ジャズやフュージョン等の希望者は、私達の教室では専門外なので、全く指導していません。
これは別に、お高く留まっている分けではありません。
何故なら、芦塚先生の生徒さんの中にはそういったテレビやスタジオの仕事の分野で活躍している人も多いし、知り合いの作曲家や演奏家も結構いて、そちらの方面の人達はそちらの先生達に回しているからです。単なる(クラシックとポピュラーの)分業なのですよ。
「指導しろ。」と言われても、本当に何も知らないしね。
それ自体が他の教室との差別化になっているようです。
大手音楽教室は、今の若者達の好みや流行に敏感ですから、「TVで流れている好きな曲を自分でも演奏してみたい。」とか、「電子楽器等で友達とバンドを組みたい。」 というクライアントが求める音楽のジャンルや、音楽そのものの要求にダイレクトに応えてくれます。
私達の教室の場合には、そういった音楽のレパートリーやジャンル的な意味も含めて、お応え出来ませんので、当然、巷の大手音楽教室や一般の教室との競合はしていません。
そういった教室の音楽上の立場を明記する上でも、芦塚音楽教室のホームページのtopには、「クラシック専門の音楽教室」と銘売っています。
という事で、以下の文章は、全てその前提(クラシック専門の音楽教室)という事で、教室の解説を進めています。
[芦塚メトードのジャンルとは]
「芦塚メトードとは何か?」という事について、よく勘違いされる事があります。
それは 「芦塚メトードは音楽技術(テクニック)のmethodeである。」 といった勘違いです。
本来は、芦塚メトードというのは、音楽教育的に分類すると、音楽理論、教育法、指導法の全てのジャンルにまたがったメトードであります。
のみならず、芦塚メトードは、音楽という一つのジャンルの為のmethodeではありません。
別に、音楽教室でなくても、学習塾でもよいし、企業の経営でも良いのです。
では、どうして、音楽教室になったのか、という事を説明しましょう。
芦塚先生が教育大学で芦塚先生の教育論文を発表した時に、それを読んだ文部省(当時はまだ文部省でした)の関係者の方から「①論文で幾ら、きれい事を言ってもそれが実践されないと、その証明にはならない。机上の空論と言われるだけである。②理論はその本人が出来たとしても(証明したとしても)それはその人だから出来た、と言われるに過ぎない。他人がその理論を実証して、それが具現化出来た時に、、初めて理論として普遍性を持つ」ということで、芦塚先生が指導して生徒が上手くなるのは当たり前なのだけど、芦塚先生の弟子が指導して、同じ成果を上げた時に初めて、芦塚先生の教育理論が実証されるという事で、「そのmethodeを実践をして、理論を証明して欲しい。」というオファーがありました。
という事で、色々なジャンルの人達に芦塚先生が声を掛けたのですが、その時に、「子供の教育に興味があるから、芦塚先生の理論を勉強しても良い」と、最初に言ってくれた人が、芦塚先生の大学時代の生徒さんの一人で、プロの演奏活動をしているヴァイオリニストで、子供の音楽教育にも興味を持っていた人だったので、音楽教室になったのです。
芦塚先生としては、別に音楽でなくても、一般の学習塾でもよかったのですよ。
[カッコ括りで物を見る日本人の風潮]
そう言った芦塚音楽研究所としての、音楽教室のあり方とは反対に、私達の音楽教室に対して「巷の音楽教室である」 という「括弧くくり」から抱かれてしまっている教室に対する致命的な勘違いをよく見受けます。
しかし、次のお話は、逆の意味の勘違いです。
「芦塚音楽研究所の音楽教室も所詮は巷の音楽教室なのですから、一般の他所の音楽教室とは、基本的には変わらないはずだ。」という妄想であり、勘違いです。
教室の独自性については、芦塚先生を含めて先生方が折に触れて説明をしているはずなのですが、どうしても、「芦塚音楽研究所の音楽教室も巷の音楽教室と変わりはないのだから、一般の教室も同じような事をやっているはずだ!」 という逆の勘違いです。
これは分かりにくいですね。芦塚メトードと言う指導法のような、抽象的で目に見えない事ならば、そういう間違いがあっても仕方がないのかもしれませんが、実に具体的に、「芦塚音楽研究所の音楽教室がオケを持っているのなら、他の音楽教室も同じようにオケを持っている教室が結構あるであろう。」とか、「他所の教室との違いは、せいぜい50歩100歩であろう。」とか、思われてしまう事が多く困ってしまいます。
確かに、小学校や中学校にもオケのある学校はたくさんあるし、県や市単位でジュニア・オーケストラを持っている所もあります。
では、教室のオーケストラとは何が違うのでしょうか?
それは「curriculumの有る無し」です。
私達の教室では、オーケストラの教材だけで生徒達の技術のスキルをupする事が出来ます。
音楽上の非常に難しいテクニックや一人では練習する事がとても辛い難しい技術をみんなと一緒に練習する事によって習得する事が可能になっています。
その他にも無数の独自のcurriculumがオーケストラの練習の中に組み込まれています。
それが、音楽を目指す限られた人達が苦しい、辛い練習に耐えながら、・・の所を、楽しく、ワイワイしながら・・・という芦塚メトードの不思議につながって行きます。
一般のジュニア・オーケストラの場合には、アマチュアの子供達は、オーケストラに参加して上手い子供達と一緒に演奏する事によって、明らかに技術も上達しますが、音楽を専門に勉強している生徒には逆効果で明らかに急速に下手になって行きます。
人間、転げ落ちるのは一瞬なのよね。
だから、「何故、芦塚音楽教室のオーケストラも、ジュニア・オーケストラと同じオーケストラなのに、違うのか??」 っていう謎になってしまうのです。
それは簡単な事です。
芦塚音楽研究所には、オーケストラmethode、室内楽methode、Duo methode等々、それぞれのジャンルで初歩から中級、上級に至るまでのmethodeとしてcurriculumが作られているからなのです。
芦塚音楽研究所のオーケストラは、指導する先生も、OB、OGの大人の人達も皆芦塚先生の門下生です。
だから音の出し方や弓の使い方が同じなのです。
だから、日本のorchestraにはない、独特の非常に豊かなヨーロッパ系の音がします。
一般のジュニア・オーケストラでは、色々な先生の生徒達が集まってくるので、微妙なpitchからvibratoの音の粒まで揃わないのです。
それは指導する先生がそれぞれ違うので仕方がない事なのです。
室内楽に至っては、世界中に子供達に室内楽を指導する場は、ありません。
「ある分けがない」のです。
それは「子供が演奏出来る室内楽の曲はない」からです。
寧ろアマチュアの大人にとってですら、室内楽の曲の演奏は難しい曲しかないのですからね。
それを可能にしたのは芦塚先生の持つbaroqueから近現代に至る膨大な室内楽の楽譜のコレクションです。
それでもsystemを作る上で、欠落した所があります。
そこは無いところは芦塚先生が自ら作曲をして、curriculumをスムーズにしています。
それは、誰にも出来ない芸当です。
芦塚先生の作曲した子供の為のPianotrioがあります。
「メリーさんの羊」や「山の音楽家」、「カッコウ」等の子供の歌で作られた変奏曲集です。
ピアノもヴァイオリンもチェロもBeyerの後半からBurgmuller程度の初心者で、充分演奏出来る技術レベルの曲です。
Part譜を見ても何処にも難しい所はありません。
ところが音大生に譜面を渡して、いざ合わせになると、突然、弾けなくなるのですよ。
不思議だ!
「だって、あなた、この曲は簡単で、初見で弾けるんでしょう?何故、合わせが出来ないの?」
「どうしてか、分からない!!」
勿論、答えは返ってきません。
弾けない理由が分かるのなら、弾ける筈だからです。
という事で、作曲をした芦塚先生に尋ねました。
芦塚先生答えて「譜面は簡単でも、室内楽のエキスが入っているのだよ!」
・・・で、子供達は難なく弾くのですよね。・・・これが??・・・不思議だ!
[プロという社会通念と現実の違い]
一般の社会的通年では、巷の音楽教室はレベルが低いので、音楽の方に進もうとするのであれば音大の先生に師事しなければならない、というのが常識であります。
一般論としては、それはそうかもしれません。
「音楽の方に進む」という意味が問題です。
一般的には音楽のプロになるには、音楽大学に入学してアメリカかヨーロッパかに留学して、コンクールにでも入賞して、帰ってくればプロとして認められると皆思い込んでいます。
世の中はそんなに甘いもんじゃないのだけどね。
そんな簡単な事で、プロになれるのなら、今はクラシック音楽のプロと呼べる人が1万人以上はいる事になるよ。
でも、今、本当にプロと呼べる人は10人いるのかな??
よく一般の人々が誤解している事があります。
それは演奏のプロと呼ばれている人の定義であります。
通常、私達がいうプロの演奏家とは、演奏活動を続けていく人の事を言います。
音楽大学を卒業して、(或いは留学から帰国して、)1、2回、何処かのコンサート・ホールで演奏会をやった所で、それで私達がその人が演奏活動をした、とは言いません。
何故なら、その演奏会をやったホールがどんなに素晴らしいホールであったとしても、それは演奏家本人が、会場やポスター、プログラム等々のお金を払って自分の演奏を披露した、単なる発表会の延長線上のコンサートであるからにすぎないからです。
私達も色々な会場に呼ばれて演奏をします。
勿論、大きなホールで演奏をする事は、めったにありません。
いつもは自治会館とか、集会場での演奏が殆どです。
それは「お金を払ってまで演奏会をやってはいけない。」という芦塚先生のpolicyを忠実に守っているからです。
しかし、500席くらいのお客様は常に満員です。
当たり前の事で、招待で演奏活動をしているからです。
お客様の集めるのは、土地の有力者なのですから、人数が常に満席なのは当然です。
4回も演奏会をやれば、2000席のホールを満席にして演奏会をやったのと同じになります。
仮に、100名の集会場に過ぎなかったとしても、5回演奏すれば、小ホール1回分を満席にしてやった事と同じになります。
・・・・しかも、1円のお金も、私達は出していない。
という事で、発表会の合間を狙って、年に数回の演奏活動をしています。
それはそれで、ノーギャラという条件でも、結構、お金にはなります。
何故、ノーギャラでも、お金になるのか、というと、それは、招待した主催者が、ガソリン代や食事代等と何かと口実をつけて、お布施をくれるからです。もしまかり間違えて、収支が0円になる事はあっても、持ち出しはないので、経済的に行き詰る事はありません。
それはそれで、それなりに、おいしい食事が出たり、色々とお接待はあります。
それで、結構いい思いは出来ます。
芦塚先生の条件は、「ポピュラーはやらない。クラシックしか演奏しない。それでよければ、ノーギャラ、但し、交通費と食事(所謂、顎足という業界用語です。)さえ出して貰えればどこでも行きます。」という条件です。
それだけの条件が整えば、足を出す事はありません。
だから後は私達のキャパシティの問題です。
キャパの問題・・・それは、プロの必然です。
それを否応、言えばプロとは言えません。
という事で、或る時にはクラシックの有名な曲を、或る時はFiori musicali baroque ensembleとして、古楽器の演奏を…、またある時は室内楽を・・、しかして、その実態は…!!
芦塚先生は、言います。[師、カクノタマワク・・ハッ、ハッ!]
プロを育てるのは簡単である。
それは、音楽を心のメッセージとして捉えれば良いだけであるからだ。
メッセージとして贈られた心は、相手の感動を生み出す。
上手な演奏や技巧は驚きは生み出しても感動を与えることはない。
プロとして、活躍したければ、リピーターを作ることである。
これはどんな商売でも同じだろう。
たった一つのmelodieだとしても、そのmelodieが、聴衆の目に涙を浮かべさせることが出来るのなら、その人は充分にプロと呼ぶことが出来るだろう。
しかし、技術をひけらかしたり、奇を衒ったりするようでは、performerと呼ぶことは出来ても音楽のプロとは呼べない。
演奏する立場の人が、音楽の勉強に対して真摯に向かうのなら、そこに道はある。
・・・・と!
[音楽大学の先生達と演奏活動]
一生懸命、頑張って、憧れの音楽大学に入学出来たとしても、現実的には音楽大学の実情は一般の人達が考えている姿とは、(日本に限らず、ヨーロッパでもそうなのだが、)かなり違っています。
まず、音楽を勉強している人達で、プロとして演奏活動をメインにしたい人は、音楽大学の先生にはなりません。
逆に、折角、一度音楽大学に先生として就職をしたけれど、演奏活動をするために音楽学校を退職してしまった、というのは極々一般的な、ありきたりの話なのです。
当然の話で、音楽の教育と演奏活動は両立しないからです。
でも音大生は「私の先生は演奏活動をしているよ!」といいます。
しかし、それは演奏活動とは言わないのだよね。
音楽大学の先生の大半は、音楽大学を卒業と同時に、(或いは留学から帰国して)そのまま、音楽大学に就職します。
その先生が演奏会を開いたとしても、(学校で先生を続けるには、論文を紀要に載せるか、公開の演奏会を開く義務があります。)その演奏会を聞きに来るのは、その先生の生徒と、その生徒に無理やりにチケットを買わされた友人達です。
芦塚先生も大学時代には、色々なお友達に付き合わされて、先生方の演奏会を聴きに行かされたそうです。
でも、さすがに先輩、後輩を含めて、芦塚先生にチケットを売ってくる生徒はいなかったようで、チケット代は、全部お友達持ちだったそうですがね。
まあ、色々な先生達の演奏会に行っても、やはりプロとは程遠いお嬢様芸に過ぎません。
つまり、音楽大学の先生達は現実の音楽界の現状を全く知らないままに、生徒達を指導します。「私の言う通りにしていれば、ちゃんと何処でも通用するようにしてあげるから。」
でも、その先生自身が、その何処かで働いた事はないし、他の社会で通用する分けはないのですよ。通用するのは金魚鉢の中だけです。
あるのは、その先生のプライドとして、音楽大学が音楽界では最高峰であるという自負だけです。でも、現実の音楽社会、所謂、演奏家達の社会では、音楽大学の先生は、所詮、音楽の素人の延長線上か、音楽を好きな昔のお嬢さま集団、としか捉えません。
昔、音楽教室に就職する音大生に向かって、「音楽大学で音楽大学の先生が指導しているように、巷の音楽教室で指導したら、生徒は片っ端からやめてしまうよ。」という内容の話を芦塚先生がした時に、「私の先生は音楽大学の付属の音楽教室で子供を指導しているし、子供の指導の仕方を私達に教えてくれます。」と逆襲された事があるそうです。
でも、音楽大学の付属の音楽教室に、遠くからわざわざ通ってくるような生徒は、将来的にその音楽大学を受験したいか、音楽に進みたいという特別な生徒なので、そういった生徒が私達の教室を含めて、一般の音楽教室に来るはずはないのですよ。
そこに、日本流の厳しい、辛いlessonを求められてもね~ぇ??
事のついでに、別の人の話ですが、芦塚先生がPianoの先生の面接に来た子に、「私達の教室では、先生達には子供達に音楽の楽しさを教えて欲しいのです。」と言ったら、面接に来た人から「音楽は楽しいものではありません。」と厳しく切り返されました。
芦塚先生は「でも、うちはただの音楽教室だから…!」
という事で、交渉は決裂しました。
「何故そうなるのか?」 というと、音大生には、(と言うか音大の卒業生を含めても、「楽しい=劣悪なもの」) と言うimageがあるからのようです。
だから、芦塚先生が言った、「楽しさを教えて欲しいのです」という言葉を、「いい加減に教えてください。」とマイナーに受け取ったようです。
そんな変な事を言う先生がいる分けはないのにね。
そんな勘違いをするなんて、本当にお嬢ちゃんだよね。
でもそれは、一般の巷の音楽教室を蔑視・侮蔑する意識が潜在的にあるからなのです。
「私達は音楽大学という最高学府で学んでいる。でも、音楽教室の先生は・・」
でも、大半の音楽教室の先生は彼女らの先輩なのですよ。
それを言うと、今度は、「音大で先生の言い付をちゃんと守って勉強しなかったから、音楽教室の先生になり下がったのよ。私は一生懸命先生の言い付を守って努力したから、頭を下げて頼まれない限り音楽教室の先生なんかにはならないわ!」
「おいおい、それなら、最初から面接なんか来るなよ!!」
阿呆らしい!!
語るに足りぬわい!
そういう若い女の先生が音楽教室に就職して、生徒を教え始めて、生徒がやめると、「あの生徒は、私のいう事を聞いて練習しようとしなかったからやめたのよ。」「所詮は才能がなかったのよ。」という事になる。
それで1年か、2年経って、子供を指導する事が無理という事が自分にも分かるようになると、「私は本来演奏家なので、教えるなんて事には向いていないのよね。」と啖呵を切って、教室を止める。
其処の所は、学校の先生の寿退社と同じかもしれない。寿退社で学校を止めた先生の半分以上の人達は、結婚はしていないからね。
で、親の決めたお見合いをして、音大出という経歴を生かして、結婚をして、暇があると家で教えたり、お金に物を言わせて演奏活動をする。
それはそれでいい生活だよね。
まあ、それなりに親の望みはかなったんじゃない??
音楽をやる人間が生意気で困る事、それは、音楽大学で指導する先生の方に問題があるようで、どういう分けか日本ではピアノやヴァイオリンの先生などは苦虫を噛み潰したような先生やヒステリックな先生の方が偉い先生だと思われる風潮があるようなのです。
という分けで、一企業に過ぎない、或いは個人で営業している音楽教室の先生であっても圧倒的にヒステリックな先生やいつ見てもブーたれているとしか思えないような、間違えて人生を送ってきたような先生ばかりがPianoの先生になっています。
本人達は音楽で生活を立てているのではないのだから、困らないのだろうけれど、私達のように音楽だけで生活をしている人間にとっては死活問題です。
どんどんクラシックの愛好家が減って、困ります。
「日本では」と敢えて言ったのは、アメリカやヨーロッパ圏の国では、音楽のlessonをサービス業として「楽しく」lessonをする、ということを意識している先生も結構多いように聞いているからです。
と言うか、ホロヴィッツやカザルスのような歴史的な演奏家でも、腰は低いのがヨーロッパ流、アメリカ流なのですよ。
先生が威張りくさって、腰の高いのは、儒教の国のアジア諸国の先生だけだがや!
芦塚先生の師匠のPringsheim先生や、Genzmer先生もとても凄い偉い先生だけど、紳士で超腰は低いそうだよ。
一般に著名な演奏家は腰が低いのですよ。
それが、プロだから。
(わからない・・・・?? だって、クライアントがあってのプロでしょう??!)
日本の音楽界は、日本の昔からの教育界が持っている儒教思想や独特の価値観を持っているからで、難しいもの、厳しい条件、怖いもの・・そういった事が、権威と価値の対象になる。
偉い先生は、威張らなければならない。
威張っている先生だけが、偉いんだから。
偉いから、威張っているのかな??
芦塚先生はどんな有名な先生に対してでも、普通に接しています。そうすると不思議な事に相手の人も普通に接してくるのです。これは不思議ですよね。
でも音大生に対しても、否、子供達に対しても全く同じに接しています。
保護者の方が「先生!もう少し威張った方がいいのでは?」と芦塚先生に意見をしました。
芦塚先生答えて 「でも、疲れるから!」だそうです。
こりゃ、無理だわ!!
という事で、日本では、人間的でアット・ホームで親しみ易い先生は、レベルの低い、「巷の先生」なのですよ。
教える中身がないから、代わりに人間的な親しさで、父兄や生徒に取り入ろうとしているのさ!
自分が何の権威も持たないから、威張りたくても、威張ることが出来ないのだよ!
って、言うのが日本古来の儒教的な権威主義的な発想なのだよね。
儒教というのは、君主を絶対にするための思想であり、君主は世襲なので、どうしようもない息子だったとしても、君主を継がなければならない。
これは同じ絶対君主制を取る家元制でも同じなのだよ。
だから、上の命令は素早く伝わって、下からの話は一切伝わらないピラミッド型の封建制を正当化するための思想、儒教思想を徳川家康が採用して、日本人の伝統的な思想として採用したのだよ。
それは会社でも、教育界でもピラミッドを作る所に取っては、既得権益を守るという意味に於いて、とても便利で有効な思想だったのだな。
だから、徳川幕府が崩壊しても、軍部に拠る軍国主義の思想や、二次世界大戦後の、大企業の経営や親方日の丸の役所の考え方、文部省の教育にとっても、すこぶる都合が良かったのだよ。
で、中身のない、威張るだけの、社会の在り方が蔓延したのだよね。
でも、芦塚先生のヨージーの法則では、教える中身がないから、威張る事で、自分を偉くみせようとするという事らしいけれどね。
[ヨージーの法則]
実力を持たない人は、空威張りをする事で、自分を大きく見せようとする。
ある程度有名な演奏家達が、演奏活動に疲れて来て、今まで批判してきた有名音楽大学の先生として収まっている例を数多く見ることが出来ます。
演奏活動が辛くなって、少しでも楽な仕事として、自分の老後の就職先とか、逃げ場としての音楽大学です。
それはそれなりにいいのかな??
日本人はその本質を見るのではなく、形で判断をするという傾向があります。
音楽大学は音楽大学で、音楽教室は音楽教室として、判断するのです。
大学の教授はどんなへぼ大学のへぼ教授でも大学の教授だし、音楽教室の先生はどんなに優れた先生でも、所詮は音楽教室の先生に過ぎない。
芦塚先生が指導した生徒のうちの、70%、80%は音楽に進んで音楽を職業として働いています。
このパーセンテージは音楽大学の教授達よりも凄いと思うのだが、もっと凄いのは、芦塚先生が指導している生徒達は音楽に進む事を前提に芦塚先生の元に集まって来た生徒ではなく、あくまで芦塚音楽研究所の音楽教室の周りの近所の子供達に過ぎないのですよ。
その中の子供達が音楽に進むパーセンテージなのです。
それはちょっと世界中の何処を探してもないと思うよ。
ちなみに、某国立音楽大学の主任教授の家の生徒のdataを取った事がある。
教室を作ったばかりの時、芦塚先生の生徒の中で非常に上手くなって、看板スターになった生徒がその先生の元に習いに行ったからです。
その先生は大学での教鞭の間に、20名の生徒を指導していたのだが、芦塚先生の生徒が習いに行くと、「今は生徒が一杯でまだ3人待っているので、3箇月待って!」と言われたといいます。
「3箇月待って!」という事は、3箇月で3人やめるという事なのだよね。
しかし、彼女はその先生のもとに、一月で入れたのだよ。
つまり、一月で3人やめたということだよね。
それから、数年間、年に一回の発表会を私の弟子達が見に行ったのだが、毎年、その20人が総入れ替えするのだよね。
で、受験の時にその先生の元から受験する生徒は全く別の生徒なのです。
つまり、直前に地方からやって来て、その先生に1回、2回見てもらって、その教授の弟子という事で、大学に入学するのですよ。
しかし、その先生が5年、10年と子供の時から、教えた直弟子で、大学に入学した生徒は一人も居ないのにね。
でも、一般通念では、偉い先生だから、その水準に達した生徒しか指導しても付いて来れないのは、当たり前だとなるのです。どっかの塾みたい・・。
これも典型的な儒教的な、あほらしい考え方なのだがね。
だから、「私達の教室が日本に従来ある教室とは全く違った種類の教室である」という事を、幾ら口を酸っぱくして言っても、それはプロバガンダとしてしか理解されない。
ましてや、私達の教室と同じ形態を持つ教室が、日本に存在しない場合には、私達の教室がどういう教室かという事を説明するのは、不可能に近い。
他に存在しないものを、説明する事は出来ないからなのですよ。
仮に説明したとしても、また、誰も信じないだろうしね。
無駄な事は最初からしない方が良い。
[音大崇拝]
親や一般の人達は、音楽のNiveau(水準)やランクが分からない。
以前子供達をコンクールの全国大会に入賞させていたが、親が「このまま勉強を続けていけば音大に行けるでしょうか?」と聞いて来た事がある。それを聞いていた回りの先生達が呆れていた。
音楽大学の水準とコンクールの水準の落差が分からないのだ、・・・ということで、音楽大学の水準を分からせるために、親と子供に音大の学祭や卒演等を聞きに行かせたのだが、さすがに、子供達は、音大生のあまりのレベルの低さに唖然と(憮然と)していたのだが、親たちは「やっぱり、音大生は違いますねぇ~!」と感心していた。
つまり、子供達は、先生について技術や音楽表現を学んでいるから、当然、技術や音楽的な評価の基準はあるのだが、親は日頃lessonを聴講している分けではないので、具体的な判断基準が育っていないので、・・・それっぽい演奏と本当の演奏の区別が分からないからなのです。
それなら、他の大手の教室のように、親はlessonの聴講を義務付ければよいのでは…、と思われるかも知れないが、他所の先生が聴講に来て分からないレッスンを、いちいち説明しながらレッスンをするとすれば、子供のレッスン時間の倍のレッスン時間が必要になってしまって、それでも本当に分かるわけではないので、それはそれで、また無駄な努力に過ぎなくなってしまいます。
親の価値付の為によくそれに近い事は、試みる事があるのだが、実際にはあるlevelを超すと、親にとって理解不能な別世界の話になってしまうので、聴講する事自体が無意味になってしまうからなのです。
幾ら聴講しても、意味が分からなければ、やはり「やっぱり、大学の先生はね~ぇ!」という事になる。
それじゃあ、意味はないのだよね。
音楽を勉強する人達には、芸大病という言葉がある。
しかし、それは別に音楽に限ったものではなくて、現代日本人の親たちを蝕む有名大学や有名会社に依存する権威崇拝病とでもいう物であろう。巷には東大病と言うのもあるしね。
私達から見たら、県の超有名な進学学校でも、全国規模になると、殆どの人が知らないのだよね。そうすると、国単位の超有名校が鎮座まします。そうしてやっとこ東大に入学しても、世界規模では、大したことはないのですよね。これが、困った事に…。
東京教室の生徒では、「東大行くの?」と聞いたら、「東大はlevelが低いからハーバードに行きます。」と言って、現実に行った子もいますがね。
それくらいになると、名門主義もかっこいい!!
自分たち自身がそうであったように、その子供達も有名進学塾、有名学校、有名大学と、常に踊らされてきている。
自分自身で判断基準を持たず、上からのお達しや命令に服従して行く儒教型の日本人の体勢が見え隠れする。
徳川300年の、或いは明治政府100年の教義がすっかりと日本人の心の奥底にこびりついている。
親方日の丸やマスコミのいうことなら、無批判に受け入れるという日本人特有の障癖である。
答えは日本人特有のすこぶる簡単な理由である。
日本人はブランドでしかものを見ないからである。
つまり、「有名大学に行って大手の企業に入社出来ればその子供は幸せである。」とか言ったカッコ括りでしかものを見れないからである。
しかし、現実は全く違う。
今の日本の社会では毎年、3万人超の人が自殺をしています。
特に子供達、若年の自殺が増える傾向にあるのです。
これは世界の驚きの現象です。子供達が夢を見る事の出来ない社会だからなのです。
葬祭場でバイトをしていた保護者の方が、「あまりにも30歳ぐらいの若者達の葬儀が多いので、もう働きたくない、バイトをやめる。」 という話をしていました。
その30歳ぐらいの若者達の死因は勿論、自殺です。
30歳前後で自殺をする青年の大半は超有名大学から大手企業に就職した青年なのです。
「一生懸命育てて、その結果、自殺をされるのなら、もっと別の育て方が・・」と、悩む親を見て、身につまされて、いたたまれなかったそうです。
芦塚先生も「そうですか??」と驚いていました。
或いは、社会を騒がせるような大きな犯罪を犯した若者の大半が、超エリート校の出身で、親兄弟からも周りからも期待された人材だということには皆、ついつい目を瞑ってしまう。
そういう事は儒教的には、有り得ない話なのだからなのです。
でも、現実は全く違う!
エリートの子供達や若者が陥る、SNBP(負の転換点)という現象があるのですよ。
そこには、全く中身の無い、精神力の欠如した、ブランド教育の歪みを見て取る事が出来ます。
芦塚先生が個人で生徒を指導していた時には、音楽家を目標とする若者達がよく芦塚先生の門戸を叩いていた。
しかし、芦塚先生が音楽教室を開設した途端に、そういったプロを志望する生徒は一人も来なくなってしまった。
つまり、芦塚先生が「音楽教室の先生の括弧くくり」になってしまったからなのだよ。
芦塚音楽研究所がどんな教育をしていようと、どんな活躍をしていようと、人は芦塚音楽研究所を「音楽教室」という括りでしか見ない。
だから、芦塚音楽研究所がどんな音楽教室であったとしても、そこは「音楽教室」としてのジャンルで判断するのだよ。
[ヨーロッパの音楽大学の場合]
ヨーロッパの音楽大学の場合は、基本的に生徒は先生に師事するので、大学は関係ない。
「ヨーロッパの音楽大学に行きたい」 と言う発想は、元来は、ないはずなのだが、「日本の音楽大学の感覚で留学を申し込んでくる音大生がいて困る」 と芦塚先生のお兄様(オランダ大使館文化部)が言っていました。
芦塚先生のお兄様は、オランダ留学のために、送って来たテープの審査を、毎日、5,6名はするそうです。一年中・・・!!
本来的には、最初は自分が師事したい先生に、自分で録音したテープ等を送って、先生に聞いて貰って、それで「じゃあ、実際に演奏を聞いてみようか。」という事になって、1,2回lessonを見てもらう。
そこで相手の先生に気に入ってもらえると、それから音楽大学にその先生の生徒の空きがあるかどうかという事になって、空きがあったら「では、音楽大学を受験しなさい。」という事になる。(音楽大学で指導出来る人数はあらかじめ決まっているからですよ。)
それで、音楽大学の入学試験に合格して、めでたく、音楽大学でその先生の門下になれるのだよ。でも、ミュンヒェンでもウイーンでも、人気の先生達は、5年待ちはざらだからね。(先生の入門の許可が出てからの5年待ちと言うことだよ。)
だから本来は、ヨーロッパの音楽大学の場合には、「付きたい!師事したい!」 師匠がいるだけなのだよ。
音楽大学ではなく、先生なのだな?
音楽とは、技術の伝承なのだから、それが当たり前でしょう??
不思議だ!!
それから、日本の音楽大学と大きく違う所は、入学1年目に、再試験がある。
1年間真面目に勉強をしてきたか否かのテストだ。
それで不合格なら、入学も門下生もキャンセルだなや!
一度入ってしまえば、よっぽどの事がない限り落第すらしない、日本の音楽大学とは大きな差だね。
そこが世界の常識、日本の非常識になる所だな。
日本の大学は入学して遊ぶところ、世界の大学は、技術を習得して社会に進出する基礎を作る所・・・その意識の差だよね。
[音楽大学を受験させたいという親の質問のサンプル]
子供が将来、音楽教室の先生になるには、音楽大学の教育科を受験させた方がよいのか?
⇒これは教育科という言葉に惑わされた勘違いです。
音楽大学の教育科は国立音楽大学のリトミック科等を除いたら、殆どの音楽大学は単に専科の滑り止めの意味しかありません。
Pianoでのlevelが合格基準以下なので、教育のPianoを滑り止めとして受験させるという意味です。
ヴィオラが好きでヴィオラの演奏に自信があるのなら、音大のヴィオラ科を受験させた方がよいのか?
⇒これも、上の質問と同じ意味です。
ヴァイオリン科に入るボーダーラインに足りないから、ヴィオラで受験をします。
だから、音楽社会では音楽大学のヴィオラ科の卒業生を室内楽やオーケストラのヴィオラで雇う事はありません。あくまでヴァイオリン科で卒業している人にヴィオラを担当させます。ヴィオラ科の卒業生はヴィオラを弾くだけの技術がないからです。
何故なら、一般のヴァイオリン教室やヴァイオリンの先生でヴィオラが指導出来る先生はいませんし、ヴィオラを習いに来る生徒もいないでしょう。
だから、日本にはヴィオラ専科で受験する生徒はいないのです。
それは芸大のヴィオラ科でも同じです。
ヴァイオリンで勉強していたのだけど、合格ラインに少し足りない。
だから安全パイを狙って・・・です。
それに対して、私達の教室では、ヴァイオリンを勉強する生徒には、小学生の内にViolaを指導します。
それは、目的、(所謂、concept)が全く違います。
室内楽やオーケストラと色々なパートを勉強させて、本当に音楽の作曲上の構造を理解させて、室内楽の演奏の仕方をlectureしたいからです。
それがそのままスコアーリーディングの勉強に繋がるからです。
ピアノの生徒には、同様にコントラバスや伴奏を指導します。
ピアノという楽器は、下手をすると、独断と偏見の楽器になってしまいます。
一人オーケストラなのです。
だから、微妙にtempoが揺れたり、強弱の加減、どんな音が遠音のする音か、等の基礎的な事が育ちません。
コントラバスでオーケストラ全体をしっかり支えたり、伴奏で歌や他の楽器を邪魔しない奏法を身に付けたり、soloと一緒に音楽の表現に合わせて揺らしやrubatoを覚えたり、音楽上のphraseのブレスのタイミングを覚える(日本流に言うと息を合わせるという事かな?)勉強をして、独りよがりの音楽になるのを防ぎます。
最終的には、concertoピアニストのように、オーケストラの中でもpianissimoで美しく響く音の出し方所謂、touch等の勉強をします。
音楽大学の話に戻って、上記の2例のいずれも、殆どの音楽大学の場合には、受験の時に併願を申し込みます。
つまり、専科に不合格の場合には自動的に併願の科に振り分けられるのです。
ですから、専科の他に改めて、ヴィオラ科を受験し直したり、教育科を受験し直す分けではありません。
一般の音楽大学の場合には、ヴィオラ科に入るのに、ヴィオラを弾ける必要さえない音楽大学も多いのです。
当然、ヴィオラの授業で、室内楽やオーケストラでのヴィオラの役割を教わる事もありません。
音楽大学の弦のcurriculumの中にスコアーリーディングの授業はないのですから。
それで、ヴィオラ科??不思議だ??
[音楽大学の卒業生の実態は・・]
教室の講師募集に面接に来た音大卒業年次生の話である。
卒演のときに弾いたショーソンのポエムを就職試験の曲として弾いたのだが、中間部で半音低く狂ったまま延々と平気で演奏をしました。
本人にそのことを注意すると、本人は全く分かってなかったのです。
そこでビデオで自分の演奏をチェックをさせたのだが、それでも理解出来なかった。
何故、そんな基本的な事が分からないのか?
それは子供の時から、音楽を聞き覚えで弾いて(習って来て)、音符と音が一致していない事から起こる間違いなのです。
これは音楽で生きて行こうとすると致命的な欠陥になってしまいます。
ただ趣味で音楽を学ぶのなら、それは楽な方法です。
しかし、それでは、音楽界で生きて行くのは不可能になってしまいます。
半音狂ったまま平気で弾く。それは、彼女にとっては、いつもの指のpositionが下がっただけなのですが、それが彼女にとっては、当たり前の事で、(その先生の生徒は皆そんな癖もあるので)、自分の演奏している音や、伴奏のピアノの音を聴いている分けでも、聞けている分けでもないからです。
全く音を聞かないで、ひたすら自分の指のpositionだけで弾いているに過ぎないからです。
しかし、音楽大学の卒演でも、その生徒の先生を含めて、誰もそのことを指摘した人はいないし、その子もトップの成績で音大を卒業しているのです。
どうして?
卒演のときには、偶然、1の指のpositionが正しい位置に当たったのですよ。
勿論、私達の教室の生徒達は皆、絶対音を持っているので、そんなアバウトな演奏をするような先生では私達の教室の生徒は指導出来ません。
今回、四日市の教室のお父さんが自宅のピアノの調律に来た調律師に「442サイクルと443サイクルの違いは分かるか?」と質問した所、「それは分からない、無理だ!」 といっていたそうです。
教室の生徒達は443と442サイクルの半分、いや4分の1の違いすら、「気持ちが悪い!低い!」と文句を言ってきます。
「何故、そんな微妙な違いが分かるの??」 それは、指導する先生達の、普段の音に対する姿勢の差なのですよ。
先生が「どうせ、生徒に指導するのだから!」といって、自分の楽器をいい加減にtuningしたり、生徒の楽器のtuningを「どうせ子供の楽器なのだから、すぐに狂うのだから・・!」 といい加減にtuningするようでは、生徒に絶対音感なんか付く分けはないのよね。
そんないい加減な音感ならば、一般の教室なら、いざ知らず、幾ら音楽大学を主席で卒業したとしても、私達の教室では、当然、指導は出来ません。
教室の就職採用試験なら当然、不採用なのです。
それが音大生には分からない。
「だって、私は音楽大学を最優秀で卒業したのよ!? 巷の音楽教室が私を、不採用なんて、あるわけがないでしょう??」
いずれにしても、某国立大学を卒業してようが、某有名音楽大学を卒業してようが、音楽の基礎力はひどい物であります。
有名音楽大学の学生十数名を芦塚先生が面接した時に、ト音記号を正しく書けた、全音符や2分音符を正しく書けた学生は一人もいなかったのですよ。
「何故??そんな事はないでしょう??だって、有名音大でしょう??!」 当然そう思われますよね。
しかし、それが、あるんだよね。
だって、音楽大学では音符を書く必要はないのだな。音符を書かされる事もないんだな!!
これが・・・!!
一旦入学してしまうと、Czerny等のエチュードのレッスンもないし、楽典の授業もない。ChopinやRakhmaninovの難しい曲だけを勉強するのだな。音楽大学は最高学府でなければならないので・・・という意味に於いて・・でやんすよ。
幾ら高度な音楽の勉強をしていようと、基礎がそれでは、学校の先生は当然の事、音楽教室の先生でも無理でしょう。
しかし、困った事に、本人達にはその自覚がないのだよね。
そんな初歩的な事に、巷の音楽教室の先生達である私達が何故目くじらを立てるのかすら、分からない。
「そんな、初心者の知らなきゃならない事なんか、私達が知っておく必要はないでしょう?」 と思っているのです。
それなら、子供達が音符の書き方や、譜読みを覚える事はないのは当然ですよね。
でも、最高学府の学生として、そんな簡単な初歩的な事を勉強する必要はないのですよ。
それが音楽大学の学生の現実なのだよ!
それよりも、音楽大学の先生が音符は書けるのかな??そこまで、疑問になってしまうよね。
実は、学生がそうだという事は、先生がそういう考え方をしているからなのです。
本当に基礎を大切にする先生がいたら、そういった事は絶対に許せない事だと思いますがね。
基礎をいい加減にしたら、駄目と言って、やたらとEtudeやscaleをやらせる先生は多い。
しかし、Etudeがどう演奏されたら、ちゃんと基礎が育つかを、考える先生は少ない。
前にもお話したように、Beyer教則本でも、Czerny30番でも、本当に優れた演奏者が演奏すると、とても素晴らしい曲になるのですよ。
Eschenbachは日本の音楽学習者の為に、BurgmullerやCzernyの教育教材を録音しています。
一度聴いてみるとよいと思います。
日本の学生コンクールでも、昔は、ただ速く間違えずに弾ければ、予選を突破する事は出来ました。
しかし、それは昔の事で、今はただ速く、間違えずに弾くという事は、コンクールを受ける事が出来る、というだけの平凡な水準に過ぎない。
それ以上に音楽性(音楽的な解釈)がないと、予選の突破は出来ないのですよ。
もっとも曲の水準はCzerny50番以上の課題曲だけどね。
それなのに、日本の教育音楽界は立ち遅れている。[1]
少なくとも、100年程度はね。
それが日本の音楽教育の現状なのですよ。
そこから、芦塚メトードの存在意義が生まれる。
そんな事言ったって、「巷の音楽教室」に何が出来るの??
芦塚先生だって、ただの音楽教室の先生でしょう?
芸大の先生でもなければ、音大の先生でもないじゃないの??
所詮、ドンキ・ホーテでしょう??
とどのつまり、寄らば、大樹よね。
でも、現実は一般論とは少し違う。
桐朋学園の前学長の三善晃先生は東大の仏文科卒業だし、フリュートの林理々子さんは慶応卒業だし、音楽界で活躍している人達の半分は一般大学出身か、徳さん達のように、高卒なのだよね。この話は切がない。つまり、音楽の世界には履歴は必要ないし、技術さえあればよいのだよ。
大学の先生になるにはどこの大学を卒業しているかは求められないし、演奏家になるにも、履歴は所詮必要ではない。
履歴が必要なのは、まだ実力と経験のない演奏家の卵達か、どうしようもない三流の音楽教室に就職しようとしている(その音楽教室が先生を履歴でしか判断できないからなのだよ。)先生かの話なのだよ。
音楽教室を作ってから10年程経って、或る時、芦塚先生が保護者の方から、「芦塚先生って、何処の大学の卒業なのですか?」と尋ねられた事がある。芦塚先生が自分の履歴をお話したら、その保護者の人が「芦塚先生って、本当は凄い人だったのですね。」「何で芦塚先生は、自分の履歴をもっとアピールしないのですか?」と言っていた。その事について、芦塚先生に尋ねると、「そういった肩書ばかりに頼ってくる、ブランド志向の人ばかり集まって来るからね。」と言っていました。
つまり、東京や千葉の音楽教室には、芸大や桐朋の卒業生しか先生として雇わない音楽教室もあるのですよ。しかも、ベーゼンドルファーのピアノか、steinwayのPianoで大理石の床で・・、それは凄い!!
羨まし限りですね。
それに対して巷の音楽教室である芦塚音楽研究所は、・・・・・???
まあ、愚痴はそこまでにしましょう。
・・・・・・つまり、何処まで行っても、日本は儒教の国なのよね。
社会も教育界も・・
経済的に、世界の三流国になっても、いまだに、治らないのよね。
極まれには、認めてくれる人もいるようで、
ブログから参考まで
【芦塚音楽教室の不思議】
千葉JR新検見川駅近く。焼き鳥屋2Fの古びた1DKアパート。
初訪なら遠慮してしまう貧相な佇まいのなかで、驚くべき音楽教育が繰り広げられる。
2011年01月06日
この連投面白い!
こういう「場」を幼少青年期持てる人は幸せ。
【芦塚音楽教室の不思議】
子どもが子どもを指導?…ごっこ遊びではない。小学校高学年以上になると小さい子を教えるのも教育の一環。
寺子屋というより巨大家族?
2011年01月06日
【芦塚音楽教室の不思議】。
ヴァイオリンの生徒だと思っていた子がいきなりピアノの難曲を弾き始めた?!
ここでは複数の楽器を習う子供も多数。音楽教育を楽器の視点でなく、音楽あるいは音楽生活という視点で扱っている。
2011年01月06日
【芦塚音楽教室の不思議】
この音楽寺子屋、無選抜でありながら全体のレベルは高い。
他の有名音大ジュニアスクールなどと見比べて、こちらを選ぶ親子も。そして親は楽器出来ないというケースも多数。
2011年01月06日
【芦塚音楽教室の不思議】
アップライトピアノやソファーなどもある8畳ほどのスペースで、十数人以上でオーケストラの練習ができるという事実は専門家でも実際に目にしないと理解不能と思う。
2011年01月06日
【芦塚音楽教室の不思議】
芦塚音楽研究所というところです。
子どもの興味をどこまで掻き立ててくれるのか、期待したいところです。
http://music.geocities.jp/ashizuka_sensei//
「芦塚先生のお部屋」に教育論文などあります。
室内楽、セッティング、進行表作りも含めた教育メトード
2010年10月10日
[1] こういう事を言うと、「では、コンクールは日本の教育音楽の世界ではないのか?」と突っ込まれそうだが、権威のあるコンクールの審査水準(Niveau)が高いのは、確かに昔は、音楽教育界の大御所だけが、審査をしていた。が、それは一般に批判され、コンクールの存続にも関わる問題に発展した。そこで権威のあるコンクールでは、審査基準を改善するために、大きく二つを改善した。一つは、巷の実力者ではなく、本当の著名な演奏家を審査員に招待した。もう一つは、コンクールに毎回生徒を出すような先生は非常に限られている。当然、ただ、有名なだけの先生の他に、そういった実力派の先生も招待されるからである。それでも、最終的には入賞する生徒はあらかじめ決まっている。それは日本の音楽界の宿命かもしれない。