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[江古田詣の生徒とアシスタント・インストラクターの違い]

教室には、「江古田詣」の生徒さんとは別に、本来のアシスタントの研修生がいます。
私達がアシスタント・インストラクター(研修生)と呼んでいる立場の研修生です。

その生徒さんたちは、インストラクターを目指す人達です。
その人たちは、教室が忙しい時には、必ず、「泊まり込み」をしてでも、先生達のお手伝いをしなければいけません。
「・・・しなければ、いけません。」と言うのは、アシスタント・インストラクターは、学生として(勉強として)学んでいるわけではなく、あくまで仕事を学ぶ「弟子」と言う立場で学んでいるからです。
ですから、間違った時の責任は、他の先生達と同じように本人の責任になります。
勿論、その責任はアシスタント・インストラクターを指導している担当の先生にも、同じようにかかりますが、アシスタント・インストラクターとはアシスタントと言えども、一人の社会人としての社会的な責任を背負って勉強しているのですから。
そういった意味では、子供のお手伝いや「江古田詣」とは全く違った立場にいるのです。



 
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[誰でも出来る仕事と技術職]

親は自分の子供が中学生、高校生と・・、あるいは大学生と成長していくと、「子供が大人になった」ように勘違いをします。
極端に言うと、保護者は「子供が大学さえ卒業すれば一人前の仕事が出来るようになる。」 というような錯覚にとらわれます。(このお話も先ほど、同じ話をしたばかりですが、ここでは「技術面のお話」に限った話をします。)
しかし、仕事にはコンビニのバイトやスーパーのレジのような、「その時間にその場所に行きさえすれば良い」という仕事と、医者のように、しっかりとした技術を身に付けない限り、営業が出来ない職業があります。

 

不思議なことに(驚くべきことに)「なんと!」音楽も、そういった技術職なのです。
つまりどんな有名な某国立音楽大学を卒業しようが、海外に何年も留学して帰ってこようが、指導する技術がなければ、音楽教室では何の役にも立たないのです。

日本には、プロオケというものが6団体程あります。そのオケの団員の半数近くは音楽大学を出ていません。一般大学の出身者か、さもなければ高校卒業と同時にオケに入った人達です。
多くの優秀な音楽家の卵達がどうして、音楽大学に進学しないで、一般大学の道をとるのでしょうか?どうして、有名大学の有名教授達が自分の大学に自分の愛弟子を進学させないのでしょうか?

その理由は簡単です。
前述のように、ヨーロッパの音楽大学と違って、日本の音楽大学では、仮に、その先生自身がその音楽大学で教えていたとしても、生徒が音楽大学に入学した時点で、その自分の生徒を自分のクラスに取れるかどうかは、学校の都合であり、その先生には分からないからです。
先生としては自分の愛弟子を他の先生に壊されるのを見たくない。
だから、自分の愛弟子だけは、音楽大学には進学させないで、一般の大学に行かせて、音楽は生徒が自立できるまで自分が面倒を見る、と言う事が極普通にまかり通ります。

勿論、その先生が一般大学に進学させるのは、その先生の愛弟子だけの話で、その先生の殆どの生徒は、普通に音楽大学に進学させます。
要するに愛弟子ではないからね。
・・・というか、その生徒を見捨てるんだよね。・・・・そこで!

 

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[技術を持つと言うことの勘違い]

私達の世代とは違って、今の子供達の世代では、生まれた時、既にパソコンなどがあります。ですから、パソコン一つ例にとっても、確かに今の生徒達はWordやExcelなどを、ある程度は手早く入力する事が出来るかもしれません。
もっとパソコンに自信のある子は、簡単なHPぐらいは作れるかもしれません。

小学校でもホームページを作る授業がありますからね。
しかし、残念ながら子供達が学校で習う自分のためのホームページでは、仕事としては、全く使い物にならないのです。

つまり私達パソコンの素人が自分達で作っている教室のホームページにしても、小、中学校で学ぶ程度のパソコンの技術では、全く使い物になりません。
(教室のホームページをパソコンのプロではなく教室の先生達が作っているのは、ホームページの性質上、パソコンのプロでは作りえない内容だからです。)教室にも色々な業者からホームページ製作の売込みがあります。
その時に私が必ず言う事は
「どういうホームページが必要か、一度私達が作っているホームページをよく見てから、私達にプレゼンを持って来てください。」とホームページのアドレスを教えます。
その後、業者からは二度と電話が掛かってくることはありません。

教室のパソコン作業ですら、仕事としてやるためには、そういったNiveau(水準)が必要になるのです。

音大生を雇うときに、音楽の指導や伴奏等の音楽関係の仕事をさせる事は音大生levelではまず無理です。
という事で、ある音大生が教室の講師募集の欄を見て教室をたずねてきたときに「この学生でも、何か教室で出来る事はないかな?」と探していたのですが、その音大生がパソコン教室でパソコンの指導をしている、という話を聞きました。「パソコン教室で教えているのだから、まず、ホームページの改定から仕事をさせようかな?」と考えて、とりあえず、1,2ページを手直しさせました。
見事にホームページ壊されてしまって、その修理に3,4日掛かってしまって、プンプンです。
巷のパソコン教室の先生はパソコンの事は何も知らないし、出来ないと言う事でした。

 

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[キャッチボールと推敲の重要性]

子供達にとって身近な、レポートの話にしても、学校ではレポートを一度提出すれば、宿題として・・・勉強としては、そこで終わりですが、仕事としてホームページなどのように、社会にアピールするものとなると、そう簡単に終わるものではありません。
そういった論文を書くことに大学の講師時代から「仕事慣れ」をしているはずの私ですら、一つの論文が完成したら、斉藤先生にその論文をメールで添付してcheckをしてもらいます。

斉藤先生は、とても忙しいので、私の論文をcheckするための時間がとれるわけではありません。
ですから江古田の事務所の作業が終わって千葉の教室に行くまでの電車の中などでの空き時間(移動時間)の中で、赤入れをしてくれます。

それで、ぱっと読んでみて、分かりにくい所、或いは言い回しを変えたほうが良い所、等等、色々とcheckをして、メールで送り返してきます。
勿論、斉藤先生のcheckの入った場所を手直ししてから、もう一度読み直して、前後の文章の整合性を取って、更に気になった所を再度訂正して、もう一度斉藤先生にメールに添付して送り直します。

そういったキャッチボールを何回も何十回も繰り返してから、初めてホームページなどになったり、小冊子になったりして、皆様の目に留まることになるのです。

しかし、私の場合は一度公開した文章ですら、気になるところが出てくると再度訂正をします。
ですから、20年前に書かれた論文ですら、第一稿、第二稿どころではなく、第何百稿にもなるのです。
(この論文も、もう10年ほど弄り回しています。)

特に教育関係の論文は、その時代によって、その世相を反映して教育の価値観が変わっていくので、古いままの論文では社会に受け入れられなくなってきてしまいます。
子供だけではなく大人達も十年前、二十年前とでは、教育に対する考え方や、人生に対する感じ方が著しく変わってきているからです。

そのために昔の論文を時代に適応させて、書き変えていかなければなりません。
新しい論文をキャッチボールするのは当たり前かもしれませんが、完成した論文ですら、そう言う風に変えていかなければならないのです。
論文に完成した・・・という事はなく、一度完全に完成したものであったとしても、時を経ると、また手直しが必要になってしまうのです。

当然、学校教育などでは、そういったキャッチボールをする事はありません。
勿論、レポートを完成させるまでの作業では、教授とのキャッチボールを繰り返します。
しかし、一度論文を提出してしまえば、その論文を2度と訂正する事はないでしょう。

しかし、社会で必要な論文はそれこそ、完成して本になった後でも、第一稿、第二稿と手直しされていきます。
つまり、完成されたものなどないのです。

それが、学生には理解できないのです。

昔、日本に帰って来て、東京の江古田に住み始めたばかりの頃、音楽の論文を、音楽大学の作曲科の生徒に手伝わせた事があります。
学生が原稿を持って来たので、
「ここをこういう風に、ここはこのように、手直しして持って来て!」と言ったら、その学生が、ビックリした顔をして、「これで終わりではないですか?」と、憮然として、帰ってしまいました。
ピアノ科の学生なら、いざ知らず、作曲科の学生がそういう態度だったので、すっかり驚いてしまいました。
世も末だ!!

 
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[年齢とNiveau]

勉強にはマニュアルのように、勉強し尽くせばちゃんと終わりの来る勉強と、永久にエンドレスの勉強があります。

学校の勉強は、勿論の事、音楽の勉強でも、lessonで合格したら、
もう合格した・・・という事で、二度と同じ曲を勉強しようとはしません。
教室を変わって来た生徒に、ある曲を練習して来るように、宿題を出したら、その生徒が
「先生、その曲は、もうやりました。」と言って来ました。

でも、教室の生徒達は小学生の時にやった曲を、中学生でも、高校生でも、何度も練習するのですよ。
だって、演奏会では、
やった曲だから、もう弾かない!!と言う事は、有り得ないでしょう。
まあ、そういう事を言っていた人もいたけれどね・・・???

同じ曲を発表会で演奏する事も、何度でも、あるのですよ。
だって、小学生の時のapproachと、中学生、高校生の時では、そのapproachが変わってくるし、lessonのNiveauも全く変わって来るのだからね!!

だから、私達の教室では、
「その曲は、もう、やりました。」って言う生徒は一人もいない。
だって、先生も、その曲を以前に勉強させた事は、当然、知っている分けだしね。

勉強に関して言えば、通常、エンドレスの勉強の方が、人生で学ばなければならない事の90%以上を占めます。

学校の勉強のように、暗記が中心の勉強では、覚えてしまえば、終わり・・・というものは、結構ありますが、それは、勉強とは言わないで、単なる知識に過ぎないのですよ。


音楽の勉強は当然ですが、それ以外の仕事でも、究極的には、人の人生でも、「一回で出来上がる仕事」と言うものは[絶対に]存在しないのです。

何度も何度も、それこそ、endlessの戦いなのですよ。
それが分からないと、音楽なんて出来ないよ!!

 

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[methodeと言う意味]

私達の音楽教室は、教室創設当初から、子供達を指導するための音楽教室ではなく、インストラクター(指導者・先生)や、指導講師(インストラクターを育てる講師)を育てるための研究所として開設されました。

それは、私の提唱した教育法である「芦塚メトード」が、「私自身の個人の人格や資質」によるものであるとすれば、それは教室を創る必要も、この教室を生徒達が、仕事として働けるように、会社にする必要もないからです。
それならば、私個人で生徒達を指導するだけで十分なのですから。
つまり、私の指導法が一般的な指導法になり得る、つまり、芦塚メトードが存在するためには、芦塚メトードを多くの教室を訪れた先生達がマスター出来るmethodeでなければなりません。
methodeがmethodeであるためには、人格によらない普遍性が必要になります。

教室で先生達の指導の見学をした音大生達が、或いは或程度、音楽教室で指導の経験を持った先生達が、見学の感想を尋ねると、「普通のlessonを普通にしている」・・と言います。
「それで、何故、子供達は音楽の勉強が楽しくて仕方がないのだろう??」 
「子供達が、あまり練習もしないのに、どうして上手くなるのだろう??」
と不思議がって、結果的には、先生の指導力の差ではなく、生徒の資質と千葉の環境のせいにします。
「近所の子供達が習いに来ているだけだよ!」と言っても、「千葉の教育の水準が良いのでは・・?」と言って、指導力の差であるとは絶対に認めません。
「どうして、???」
・・・だって、普通のlessonを普通に楽しそうにやっているだけなのだから・・・・
じゃあ、自分で、子供のlessonを普通に楽しそうにやってごらん??
楽しくlessonすれば、生徒はだんだん下手になるだろうし、厳しくlessonすれば子供達はlessonが嫌になって、教室をやめてしまいます。
さあ、困った???
つまり、そこがmethodeなのですが、全く分からないのですよ。
公文や、鈴木のように教室を大きくする絶対条件があります。
それは、指導者を大量に作れる事です。
つまり、methodeを、夏休みの講習ぐらいでマスター出来るようにする事です。
そうしたら、大量の先生を養成する事が出来ます。
大量の先生が養成出来れば、教室を大きく広げて行く事は簡単です。
しかも、学習塾の場合には、基本の先生は男性です。結婚でやめてしまう、或いは、子育てでやめる事もありません。一度、育てた先生は、或程度教室に残って、次の先生を養成する手助けをしてくれます。
やっぱり、音楽教室ではなく、学習塾が良かったな???


私達の教室で先生達に要求している指導法は、極めて多種多様に至ります。
一般の音楽教室の場合には、その音楽教室は、指導する先生に、要求する指導の技術は、たいして必要ではありません。音楽大学で学んだ、知識で充分なのです。
発表会の雑用も、子供との接し方も、保護者への教育へのadviceも、先生に求められる事はないのです。


もっとも、私達が講師の先生を募集する時、つまり、面接をする時には、そういった、指導力や知識を要求する事はありません。
一般の音楽大学の卒業生では、そういった教室の事務的な仕事や雑用は出来ないのが当たり前で、音楽大学の卒業生で、そういった仕事が出来る・・という可能性は全くないからです。
ですから、私達が音楽大学の卒業したての講師の先生の面接の時に、質問したり、お話したりしていることは、殆ど一般の音楽教室とは変わらないはずです。
それは、「何も出来ない」・・という前提で、面接をしないと、お話にならないからです。


「江古田詣」で先生達が学んでいるのは、芦塚メトードであり、且つ教室の経営に必要なノウハウです。
という事で、教室で学んだ先生達の仕事は、一般の先生達の仕事とは、全く違います。
例えば、教室の先生達の雑用は、経理のパソコンへの入力や、発表会、演奏会の進行企画書の作成です。
orchestraカリキュラムや子供達の組み合わせもレッスンを終わって帰ってきた先生達の仕事になります。
譜面が出版されていない場合には、昔は先生達が手書きで譜面を作っていましたが、今ではfinalelというパソコンのソフトで作っています。
このソフトは出版社が使っているソフトと同じ物です。
芦塚先生が原稿を出版社に持ち込むときには、昔と違って、今ではCDで楽譜を持っていくのです。

そういった、直接は音楽と関係のない仕事の多くが音楽教室の維持、管理には必要で、江古田の事務所での作業の大半はそうした雑用になります。

 

と言うわけで、江古田の事務所では、ビデオの編集から始まってCDを焼いたり、譜面のない曲をフィナーレ(全音等の出版社が使用している楽譜のソフトです)でノーテーションをしたり、パソコンを使って各種の進行表を作ったりします。

パソコン一つにとっても、数かぎりない作業があります。

そのために教室では7台のコンピュータが常時稼動しています。(フィナーレなどの巨大ソフトを入れると、それ以外のソフトを同じパソコンに入れると、パソコンがハングアップしてしまうからです。)

 

そういった、いわゆる雑用を学びながら、芦塚メトードの骨子を学ばなければなりません。ですから、先生方にこういった指導をしている音楽教室は、音楽教室だけではなく、音楽大学を含めて探してみても、世界中どこにもないと思います。

ましてや、音楽大学の学生や就職年次の社会人ではなくって、中学生や高校生に「江古田詣」のような形態をとって、「仕事」と言う考え方を指導している教室は、まったく前例がない(それは無理だ)と思います。

 

子供が大人の仕事を大人と同等に学ぶ事、それが幾ら子供達の将来の勉強につながるとしても、パパの会社に子供が居座って、パパの仕事のお手伝いをするとすれば、会社はどうしますか?

「そ、そ、それは、困るよ!」

当たり前でしょう?

 

仮に百歩譲って、子供を体験学習として会社が指導するとしても、その仕事を指導するためのカリキュラムを持っていなければ、とても子供達を指導する事は無理なのですよ。

 

子供が発表会の進行を手伝う事でも同じなのです。

発表会ともなると、時間との勝負なので、ついつい、先生方は、子供にさせないで、自分でやってしまいます。

後で、私からいつも叱られるのですよ。

「ここまでやったら、後は子供にさせなさい。」或いは「子供がそこまでやったら、サポートのお姉さん達に任せればよいのだよ!」とかです。

ここまでは、子供が出来るけれど、ここからはちゃんと・・・・!

それなら、最初から、最後までやってしまった方が早い!・・誰しもそう思うでしょうね。

結構、子供にさせるのはめんどくさいのですよ!

いつものことなのですが、そういったことをきちんと説明しようとしても、私達の教室以外のどこかで、同じようなカリキュラムをやっているわけでは無いでしょう?

聞いた事もない、全く前例がないことを説明するのは難しい、・・・と言うよりも至難の業なのかな?

 


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[蛇足]

もしも、強引にでも、「江古田詣」を、今、日本に存在する言葉に、強引に当て嵌めるとしたら、「弟子入り」とか「書生」とか言う言葉が一番近いのでしょうね。
しかし、むしろそれは「子供達の[江古田詣]について」ではなく、大人の弟子達の[アシスタント・インストラクター]の勉強法の方が、そういった言葉に当て嵌るのかもしれませんが・・・・。

一般的にも同じ言い方をするとは思いますが、住み込みで勉強している生徒の事を私は「内弟子」と呼びます。
でも、それは一般的な言い方であって、職人の分野ならば、総てのgenreでも、・・・つまり、落語の世界でも、同じだったようですね。
住み込みではなかったとしても、「江古田詣」をしながら、インストラクターを目指して、勉強している生徒達を私は弟子と呼んでいます。
逆に、通常のlessonの中で、音大や留学を目指して頑張っている生徒達は、弟子ではなく生徒なのですよ。
そういった生徒と弟子の呼び分けは、「演奏技術の上手、下手」ではなく、そういった勉強のstyleによって、「分類」しているのです。

私が専科という科を作ったときに、保護者の方々が勘違いをして、上手な生徒が専科生になれると言っていましたが、そうではなくって、初心者でも、小さな子供でも、「音楽に進む」という事を決めた段階で、専科生なのです。
その目的を達成するために、専科生には守らなければならない条件が色々有りますがね。
条件は、amateurのままで、専科になれる事は絶対にないのですが、それでも、教室にいれば何とかなる・・・と、思い込んでいる人達が多いのには閉口させられてしまいます。
芦塚先生も万能じゃあ、ないのだよ。
せめて、決められた条件だけは守ってくれないと、私も約束を守る事は出来ないのだよ。
そこは、イエス・キリストと同じなのですよ。
定められた条件を守れば、夢は必ず叶うのですよ。
でも、高望みをする人に限って、そのための努力をしようとはしないのですよ。

 

今は、もうすっかり人手に渡ってしまって、無くなってしまいましたが、私が生まれ育った九州の田舎の故郷の本家の家や、仕事で住んでいた東京の家では、(明治時代から終戦直前までは、首相官邸の隣と東大の赤門の近くに、それぞれ、家があったそうです。私が生まれるよりもずっと以前に、九州の本家に、東京の家をすっかり引き払って戻ってきたそうですが、祖父母達の元には、九州の田舎の家でも、住み込みで、学ぶ書生といわれる人達が何人も一緒に住んでいたそうです。
私がまだ幼かった頃には、祖母に連れられて、そういったすっかり功成り名を遂げた人達と親しく何度かお会いする機会がありましたし、当時の知事が、祖母が寝ている部屋の入り口の廊下に正座して、祖母が起きるのを、待っていたのが、私の記憶にあります。
尊大な、知事が、祖母の前で縮こまっていたのは、本当に印象的でしたが、今、現在ではそういった学び方をする人達は、政治家だけなのかな?

 

音楽は、職人と同じ技術職なのです。
学校などの勉強で、教わる事が出来るわけではありません。

実際には、学校で勉強として学ぶ事よりも、マンツーマンで学ぶ事でしか学べない事が沢山あります。
その中で、一番大切な事は、音楽は技術というよりも、むしろその師匠の生き様そのものなのです。
人生に対する心構えとか、音楽に対しての価値観とか、学校の中では、学べないものが沢山あります。

今でも、職人の世界ではそうした事が当たり前と捉えられていますが、本当は職人に限らず、技術に関する職では、医者であろうと、大学教授であろうと、殆んどの勉強が机の上では学べない・・という事は、本当は当たり前の事なのですがね。
それを、大学のアカデミズムの中で学ぶ、という事に無理があるのですよ。
それを普通は机上の空論というのですよ。

 

 

 

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芦 塚 陽 二 拝

江古田 一静庵にて

08年10月1日脱稿

 

 

脚注

[注1] 今は江古田から椎名町に事務所が移転しましたので、正しくは「椎名町詣」となるのでしょうが、ここでは昔原稿を書いた当時のままに江古田詣としておきます。また、音楽教室を開設する以前には、「お手伝い」と「江古田詣」の明確な区別は無かったので、それが、今回の誤解の元になっていると思われます。その極端な例は、「お手伝い」で江古田に行けば、音楽大学に進学出来るlevelになれるという、安易な考え方です。「お手伝い」は「お手伝い」に過ぎず、「江古田詣」には、親や生徒自身の職業として音楽にチャレンジして行くというそれ相応の覚悟が必要です。

[注2] 他の就職関係の論文に、「音楽大学では、子供達を指導する方法論を先生方が指導する事はない」と書いた所、音大生の方から、「私達の音楽大学には、付属の音楽教室があって、そこで先生から指導法を先生から学んでいます。」とお叱りを受けました。しかし、音楽大学で生徒の教育法を学んだ先生こそ、一般の音楽教室では、困った指導者になってしまうのですよ。音楽大学で音楽を学んでいる子供達は、将来、音楽大学に進学する事を夢見ている子供達であり、子供を音楽家にする事が目的の保護者の方達なのですよ。だから、どんなに厳しく叱られても、手が飛んで来ても、涙を流しながらでも、食らいついて行く子供達であり、厳しい叱責を耐え抜ける親達なのです。そういった指導にも耐えて、厳しい競争にも勝ち抜いた生徒が、音楽大学に進学出来るという、信念で音楽教育を捉えているのです。しかし、幾ら、その先生が演奏が上手くても、一般の音楽教室で、そういった音楽教育をされてしまっては、一瞬で、その音楽教室は潰れてしまいます。「あら、またやめっちゃったの??所詮、音楽に向かなかったって事ね??」って、軽くいなされては音楽教室は成り立ちません。ましてや、子供が音楽を嫌いになったのを、子供の資質のせいにされたのでは、かなったものではありません。「子供に音楽の楽しさを教えて欲しいのです。」と、私が講師面接者に言ったら、その女の子が怒りまくって、「音楽は楽しいものではありません。」と反撃してきました。丁重に、お断りしたのですが、幾ら何を言っても、もう、そう思い込んでいるので、・・・ね。それじゃあ、職業にはならないよ。芸術家志望のお嬢様に過ぎないのだよ。

[注3] 音大生の勘違いという話は、願望と交差するせいか、毎年毎年、幾ら、説明しても、大学生には分かって貰えません。ましてや、音楽大学自身がわざと、その誤りを無視している体にも見受けられます。では、その間違いというのは何か??つまり、ある大手の音楽教室に先生として、就職したとしても、それは就職ではなく、日雇いに過ぎない・・という事です。楽器店で売り子をやっている女子店員の人達は、就職で、給与所得になります。でも、指導者は、日雇いなので、歩合に過ぎません。当世風に言うと、派遣社員ですが、派遣する会社から送られる分けではないので(こんにちでは、本当にピアノの講師を派遣する派遣会社も出来たそうです。)やはり、コンビニの店員と同じで、バイト社員に過ぎないのです。それでも、大手が良いのかね??














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