再び「江古田詣」のお話に戻って、
生徒が教室の「事務所のお手伝いをする」ということについてですが、本当の事を言うと、先生達が幾ら忙しくとも、江古田の事務所でしている作業は、教室の事務や作業であり、研究室の作業なので、それを生徒に頼む事は出来ないのです。
教室の仕事は、教材の準備や各種の申込書の手続き、或いは発表会や演奏活動の準備であります。
また、経理に関する業務もしなければなりません。
しかし、それらの作業は法務局や税務署に提出しなければならない公的な作業であり、それ相応の税理会計の知識や技術が必要なあくまで社会人の仕事として、責任を伴う業務なのです。
もしも、間違えた場合には、それ相応の責任が追求されるのですよ。
それを例え、パソコンの入力だけだとしても、まだ勉学中の子供や学生には、難しすぎますし、子供がやる作業ではありません。
そういった作業には専門的な知識と経験と責任感が必要なのです。
また、お金にかんする作業は、たった一つの数字ですら間違う事は絶対に許されない責任を伴った作業でもあるのです。仮にもし、生徒が手伝いにやってきたとして、いくら一生懸命にお手伝いをしたとしても、たった一つの数字を間違えてしまった場合には、間違えた事に対しての責任を子供達に取らせることは出来ないのです。
と言う訳で、教室の業務は残念ながら子供達がお手伝いの出来る作業ではないのです。
子供が大人社会の仕事の責任を、取れるわけではありませんからね。
そういった意味でも、「まず!」と言って良いほど、先生方が子供達に、教室のお手伝いをお願いする事は、絶対にないのです。
ということで、子供達の出来る作業は限られているし、そういった作業は先生達は一瞬で終わらせる事が出来ます。
finaleの入力の作業も、生徒が一週間掛かって、宿題のfinaleの入力を3分の1ぐらい、やっと終わった頃には、私は一日で全部終わらせているのですからね。
仕事は溜めない事が、コツです。
ですから、生徒が出来るから・・といって、仕事を遅らせて、仕事を停滞させては、教室に多大の迷惑をかけてしまいます。
「ここまでしか、出来なかった」と言う事は、仕事では有り得ないのです。
ですから、冒頭のお母様達のうわさ話は、事実誤認(勘違い)の根も葉もないうわさ話なのです。
しかしながら、私達が教室を作った始めから、江古田の教室には誰かしら、いつも生徒達がお泊まりに来ていますよね。
教室の作業を手伝うわけではなく、江古田にお泊りに来ると言う事、それは普段の合宿とかとは、何が違うのでしょうか?
それを簡単に説明する事は結構難しいのですが、敢えて一言で言うとすれば、合宿はlessonの延長線上の教育であり、「江古田詣」は社会人になるための、「技術や意識を学ぶ」と言う事でしょう。
ですから、江古田詣は将来的に「音楽を職業としていきたい。」「教室のインストラクターになりたい。」と言う生徒本人の希望と、保護者の了解(許可)があって始まるのです。
つまり、江古田詣は音楽を職業とする目的の生徒(専科生)達への、現場の仕事を実際に見学したり、体験したりするために、教室が提供している場であるのです。
そういう風に言うと、「「インストラクターになる」と言う条件を決めない限り、江古田には来てはいけない」・・・と言っているように思われそうですが、そうではありません。
「そういったこと(音楽に進むとかインストラクターになりたいとか)までは考えてはいないけれど、純粋に先生達のお手伝いをしたい。」と思ってくれて教室にお手伝いに来てくれる生徒もいます。
それはそれで、教室には責任を伴わない、雑多な仕事や簡単なお手伝いもたくさんあります。
突然、事務所にこられると困りますが、事前にお話してもらっていると、そういった子供の出来る範囲の仕事をあらかじめ準備して作っておく事が出来ます。
以前、教室の生徒や保護者の方達から「江古田詣」をしている生徒には、江古田で先生が特別にレッスンをしてもらっている、という風評が流れた事があります。
それは、「江古田詣」をしている生徒の音楽の成長が他の生徒に比べて著しいものがあったからです。
しかし、実際には先生達が「江古田詣」の生徒に特別にレッスンをしてあげる事はありません。
(勿論、有料のone lessonの申し込みが事前にあった場合には、ちゃんと先生達のレッスン時間として、組み込みますが) サービスでレッスンをすると言う事はありえないのです。
仮に、先生が「折角お手伝いに江古田まで来てくれているのだから、チョッとone point adviceぐらいはしてあげよう」 と思ったとしても、事務所では、先生達は、「江古田詣」に来てくれた生徒達と雑談をする暇さえないぐらいに、指導する以外の教室の色々な仕事で、忙しいからです。
ではどうして「江古田詣」をしている生徒達は、全くレッスンも見て貰っていないし、「江古田詣」の間は、練習も出来ないのに、そのように、著しい音楽の技術的な成長を遂げたのでしょうか?
それは、「江古田詣」に千葉から通ってくる生徒は、他の生徒に比べて音楽に対する意識が高いからなのです。
それなら、「江古田詣」さえさせれば、ヴァイオリンやピアノのlevelが著しく上がるのでは?・・と思われる方も居られるかもしれません。
しかし、残念ながら、そのような棚ボタは無いのですよ。
そこの決定的な違いは「意識の差」なのです。
それは、お手伝いに来ている生徒と、「江古田詣」に来ている生徒の落差がハッキリとあるからなのです。
同じ「江古田詣」をしている生徒であったとしても、つまり自分の将来の進路、音楽に進むという意識や、音楽を職業として、将来、インストラクターになりたいという意識を持って、(職業としての技術習得のために)事務所に「江古田詣」に来る生徒と、、ただ見学に来るだけの生徒や、毎週、江古田までキチンキチンと通って来たとしても、その目的が、単なる「お手伝い」に過ぎない生徒では、獲れるものが、全く違うのですよ。
それは、生徒自身の「技術を習得しようという意識が根本的に違う」 という意味なのだ・・という事を言っておきます。
たとえ生徒さんが、「先生達のお手伝いをしよう」と江古田に、お泊まりに来ていただいたとしても、その生徒さん達に(インストラクターやプロとして音楽を将来の職業としたい。等と言う)意識が伴わない限り、江古田の事務所に、何回通って、何日泊まった、としても、それはあくまで、教室にとっては「お客様」であり、夏休みや冬の休みで企画している子供達の「合宿カリキュラム」の延長線上でしかないのです。
それでは何故、折角頑張って江古田に通ってきている生徒が、ちゃんとした意識を持っていなければ「お客様」になってしまうのか?・・と言うと、それは、意識のまだ育っていない生徒が江古田の事務所に来て、教室の仕事を手伝おうとすれば、どんなに簡単な作業をさせたとしても、先生が生徒につきっきりで、その仕事の手順や、やり方を説明しなければならないからなのです。
また、そういう作業に大分慣れて来て、ある程度は仕事が出来るようになったとしても、教室の仕事は会社の仕事と同じなので、絶対に間違いは許されないので、ちゃんとその仕事が出来たのか?出来ているのかを、注意深くcheckしていかなければならないのです。
そういう風に先生が生徒に付きっ切りになってしまうと、その先生がその日中にこなさなければならない仕事が(子供を指導するために)滞ってしまうのです。
ストレートに言ってしまうと、生徒がお手伝いに来る事によって、先生達は楽になるどころか、逆に先生達にとっては(時間や手間の)負担が増えてしまうのです。
勿論、その一つの「仕事の手順」を子供が完全に覚えてしまって、ある程度は子供達に任せられるようになると、それはちゃんとしたお手伝いになって、先生も自分の仕事をしながら、子供達の作業をcheckしていくことが出来るようになります。
しかし、子供達がそこまで成長をするためには、「江古田詣」に対しての、しっかりした意識がないと、ある程度の期間をきちんと定期的に江古田に通って、仕事の手順を覚えると言う事は出来ません。
「偶然、今日は暇になったから、教室にお手伝いに来ました。」ということでは、行き当たりばったりになってしまうので、教室がその生徒のために、ちゃんとした何らかの仕事をカリキュラムとして、順序だてて教えてあげる事は出来ないのです。
では教室の先生達にとって、子供達の「江古田詣」が、そんな大きな負担を伴う迷惑千万な事であるとすれば、なぜ先生がたは子供達が江古田の教室に来る事を、はっきりと断らないのでしょうか?
それはそういった実社会的な教育こそが、本当は学校等で本来的におこなわれなければならない本質的な教育であるからなのです。
しかし、残念ながら、今の学校教育は、現実的な教育・・・、子供に対して必ずしも大人になるための勉強、あるいは社会人になるための勉強・・・になっていないのです。
今現在行われている学校教育は、勉強のための勉強であり、大学受験のための人を選別するための落ちこぼし教育であって、おおよそ社会人になるための勉強とは無関係です。
子供達にとって、勉強するということは、人より、より上の成績を取るための勉強に過ぎないのです。
ですから、大学の入試が終わってしまって、大学生になってしまうと、12年間勉強してきた事は、全て忘れてしまいます。
12年間の人生の無駄になってしまうのです。
あるお父さんは言うかもしれません。
「人生は競争だ。」「人に勝つことが幸せをつかむ事だ。」と・・。
しかし、それは根本的に間違えた考え方です。
人が上に立つことも、人が物を売ることも、相手を喜ばせる事が人を集めていくことなのです。
長年仕事をしていると、その場だけ、相手を説伏して仕事を取ろうとする業者がよくいます。
しかし、そうやって説伏された場合には、その契約が切れたときには、(或いはもっと良い条件があった場合には、)二度とその業者とは取引はしません。
結果として、その人は損をしているのです。
競争教育は非常に人間をだめにしてしまう教育なのです。
自分以外の人のためにしている仕事には、たくさんの人が自然に集まってくるのです。
子供の教育には大変な手間隙がかかります。
しかし、そういった親の苦労は、年と共に少しずつ報われていきます。
子供達はだんだん自立を覚えていくのです。
しかし、そこでちょっとした誤解が生じます。
子供が中、高生に、或いは大学生になると、親は子供がもう立派な大人であり、社会人であると勘違いしてしまうと言う事なのです。
しかし、小学生の時から高校まで頑張って努力を重ねてきた受験勉強は、幾ら年月を費やして勉強して来たとしても、問題を解答する技術を学んだと言う事に過ぎず、それ自体は社会人(所謂、大人)になるための経験や学習とは無関係の世界なのです。
受験勉強は、大学が生徒を選ぶためのテストであり、それ以上のものは無いのです。
生徒や親が大学を選んでいるのでは、ありません。
そして、その受験のカリキュラムの中には人間的な成長を促すような、カリキュラムは全く含まれていないのです。
だから、今の子供達にとって、中学校から高校、そして大学生に進学したとしても、より複雑な問題を解く技術が発展しただけで、その子供の人間的な成長に対する教育は何もなされていないのです。
その結果として、自己中の年を食った「大人子供」が、また一人出来上がったのに過ぎません。
大学の勉強・・・、それを社会で自分の力として生かせる人は、ホンの一握りの、余程、特別な人達なのでしょうね。
学校教育の本来の目的は、子供達が本当に自分のやりたい仕事を探し出す事と、日本人として社会の一員としての責任感を育成する事なのです。(・・・とは、私がそう思っているのではなく、文部省の指導要領に書いてあるのです。)
ですから、日本の学生達は、本当に自分がやりたい事が見つからないままに、より給料が良い所を探して、就職します。
しかし、より給料が良い所は、同時に競争も激しく、よほど自分の意識を持っていないと、蹴落とされてしまいます。
その結果が、今の日本で社会問題になってしまっている、引き篭もりとニートに落ち入ってしまう若者に表されています。
現代社会のニートや引き篭もりの問題は、日本の教育が上手く機能していない事の表でもあるのです。
という事で、以前は教室の保護者の方達から「芦塚音楽研究所が中、高、大学の一貫校であれば良いのにね。」と何度も言われた事が有ります。
教室もその当時は、スポンサーを探す事はそんなに大変ではなかったので、私自身も「教室を学校に出来る可能性は無いのかな?」と、考えて、学校法人について調べたことがあります。
どうせなら、音楽教室でなく、音楽大学か、若しくはコンセルバトワールの形式を取れないか?と思って、その可能性を調べて見ました。
ところが、学校法人の形を取ろうとすると、文部省によって指導内容やカリキュラムまで、がんじがらめに一般的な教育法の規制を受けてしまいます。
(この場合の教育法の「法」は、How toではなくってLawの意味です。)
教育のconceptとして、芦塚メトードのカリキュラムを組み込む余地は全く無いのですよ。
結果としての話ですが、学校や文部省の教育上の制約を受けない、今現在の私達のただの音楽教室という形態は、逆に自由な教育が出来るサンクチュアリだったのです。
私達の教室でさえも、学校法人になろうとすると、今の日本社会の教育を踏襲しなければならない。
そうすると私達の教室も、実生活に対して現実性が無くなって、儚い夢だけを売る現在の音楽大学と同じになってしまうのです。
それでは、今私達の教室にいる生徒達は、職業としての音楽の勉強が学べなくなってしまいます。
そういったことで、スポンサー・サイドからのありがたい申し出をお断りして、不本意ながら、現在の音楽教室の形態に甘んじています。
教室が教室の形を取っている事、それは、私達のためではなく生徒達や保護者の方々のためなのです。
(音楽大学の形態にすると先生達は社会的な地位というか、箔が付くし、お金も儲けるのだけどね。反面、音楽大学の方が、生徒が学んでいるものは、そこらの音楽教室と大して変わらない事を学んでいます。)
という訳で、江古田で子供達が学んでいる事は、学校教育のそれとはまったく違って、実際の社会で即出来なければならない、非常に実践的なものです。
教室のいろいろな作業や、仕事は、即それが他の子供達の教育に使用されるものだからです。
人のために役立つ事を学ぶ事、それが教育の本来の姿であります。
くどくどと述べてしまいましたが、一般の生徒達が東京に何回通ったとしても、残念ながらそれは所謂lessonの延長である合宿と何等代わるものではなく、決してそれを「江古田詣」とは言わないのです。
例えば、「江古田詣」の生徒達が合宿で、先生達が作る生徒達の食事のお手伝いをしたとしても、それは決して教室の仕事のお手伝いにはなりません。
(それは本来的には家で学ぶべきお手伝いであって、教室で学ぶべきものではないからです。)
音楽を勉強する上で、一番大切なものは「意識」です。
よく「同じ先生に習っているのに、どうしてうちの子と、あの子は・・」という事を尋ねられる事があります。
極端な場合には、指導者のえこひいきのせいにされる場合もあります。
多くのプロを養成している先生であったとしても、その反面多くの落ちこぼれを作ってしまいます。
良い先生の生徒が全員上手になるわけではないのです。
勉強をする人の意識が何処にあるのかで、指導者の指導する内容が全く同じだとしても、学ぶ方にとっては技術的に大きな差が出てしまうからです。
不思議な事なのですが、江古田に(江古田詣として)通う生徒達は、「江古田詣」をしないで、その分自分の練習に専念している生徒に比べても、半年もたたない内に、音楽的にも、或いは技術的にも素晴らしく成長します。
だから、保護者の間から「『江古田詣』の生徒には、先生が特別にサービスしてレッスンしている。」という風評が生まれてくるのです。
先程、「不思議な事に」と言ったのは、「江古田詣」は、生徒が教室の仕事を手伝うわけですから、事務所にいる間には(江古田まで通う時間3時間の時間も練習できないわけなので)その生徒には練習する時間は全く有りません。自分の家で練習に専念している生徒の方が圧倒的に練習量が多いわけです。
ですから、一般の人達には「練習している人が練習しない人よりも上手くなる」なんて事は、考えられない事ですからね。
現実的には先生達が江古田の作業をする場合には、デスクワークの日とか言う時間はとても作れないので、レッスンの合間、合間に(時間を盗んで)します。
先生達は、日常はレッスンに追われています。
そのレッスン時間の合間にはレッスンの下準備や、教室の事務作業をしています。
ですから、「江古田詣」の生徒に、レッスンをしてあげられるような時間は、とても作れないのです。
寧ろ、生徒達はその忙しい先生の作業の手伝いをしながら、教室の作業や仕事という考え方を学んでいきます。
では、一回のレッスンも見てもらっていないのに、どうして、「江古田詣」の生徒達はヴァイオリンやピアノの技術が上がっていくのでしょうか?
現実的に見れば、「江古田詣」に来た生徒達がやっている事と言えば、先生達が仕事としてパソコンに向かい、仕事として原稿を打っているのを見学する、或いは先生のレッスンを見学し、カードの準備をしたり、video撮りのお手伝いをしたりする、そういう見学を中心としたlectureの積み重ねです。
しかし、その実はその見学を通して、先生達が持っている『仕事としての音楽』 という意識を、先生達と時間を共有する事によって、生徒がほんの少しでも身に付ける事が出来れば、不思議な事にその生徒にとって、何回分もの個人のレッスンを受けるよりも、はるかに著しい技術の向上、成長を遂げる事が出来るのです。
世間一般には、よく言われる言葉に「99%の努力と1%の才能」と言う箴言がありますが、私はむしろそういった練習の量(時間)だけを云々する日本型の勉強法よりも、意識を育てる事の方が、よっぽど生徒達の技術の向上を図る事が出来ると確信しています。
ヨージーの法則より
「99%の意識と1%の努力」
生徒達が江古田で先生達とする雑用は、一般のひたすら音楽学校等を目指して努力をしている音楽を学んでいる生徒たちと比べても、半年後、或いは一年後には驚くべき差になってしまいます。それが「江古田詣」の本当の意味で、勉強として学ぶ学生と仕事として学ぶ生徒の「意識の差」なのです。
しかしながら先生たちが江古田の事務所で面倒を見られる生徒数には、おのずから限りがあります。特定の生徒だけを対象に指導して、一般の生徒達をないがしろにするわけにはいかないからです。という訳で、「江古田詣」が出来る生徒は必然的に音楽を職業とする事を目指す生徒に限定される事になります。
これまでお話してきた事は、私が先生方にいつも繰り返し注意をしていることです。
つまり、「江古田詣」と言う事自体が、普通は無いものなので、それを何かと比較対照する事が出来ず、教室内外の人達にとっても理解が難しい所なのです。
つまり、どのような音楽教室であろうと、「音楽教室が生徒にお手伝いを頼む」という事は絶対にあり得ない事なのです。(音楽教室に限らず、塾でも学校でも同じです。)それは「お手伝いを頼む」といった時点で、私達の教室でも同じなのです。
先生の利便性のために、つまり「先生達が忙しいから、子供達を手伝わせる」という事は、仕事としてありえないことなのです。(というよりも、やってはいけないことなのです。)
そういった意味においても、私が先生達に厳しく注意をしているのは、保護者の方々が「自分の子供が、教室の先生達のお役に立てるのならば、是非お手伝いに・・」という風に、勘違いをされてはいけない、という事です。
もう一つ、私が頻繁に先生達に注意をしている言葉があります。
それは、「どんなに子供のために必要な事だとしても、生徒や保護者が望まない事を、lectureしてはいけない」ということなのです。
その結果として、将来、子供が子供自身や保護者の希望する方向に育たなかったとしてもです。
でも、どうしてもそこのところが先生達にはなかなか理解してもらえない。一種の正義感でしょうかね。
最大限、私達の経験や音楽教育や教育心理学の理論で説明しても、生徒や保護者の方に分かってもらえなかったとしたら、それ以上先生や教室の教育方針を振りかざす事は許されません。
ですからもしも、教室や教育の事が生徒や保護者の方に間違えて理解され把握されているのなら、或いは誤解されているのなら、そこには先生達は立ち入るべきではないのです。
つまり、折角のお申し出であったとしても、「自分の子供が、教室の先生達のお役に立てるのならば、是非お手伝いに・・」という考えであった場合には、まずは「江古田詣」はあくまで「教育の一環としてやっているのだ」と言う事を、しっかりと保護者の方に説明すべきである、と言う事なのです。
先生達が子供のために幾ら努力したとしても、その努力を保護者の方に理解される事はないからです。
先ほど、お話した事と同じ事を、見方を変えて、繰り返してお話する事になってしまいますが、「江古田の事務所での一連の作業は、これは仕事であって、教室の先生たちがどのように忙しかったとしても、そのお手伝いを生徒たちがやるべき筋合いのものでありません。」
それはどうしてかというと、つまり、仕事には必ず「責任が派生する」からなのです。
子供に、その責任を負わせることは出来ないからです。
仮に、子供が大きなミスを犯したとしても、その責任の所在は、全て担当の先生に掛かって来ます。
もう既にお話したこの話をわざわざここで蒸し返したのは、次のアシスタント・インストラクター(研修生)のお話をするためです。