私の住まいのある江古田は、池袋から10分もかからない距離にあります。
そんなに江古田から近い池袋ではありますが、病気のリハビリ中で、すっかり体力がなくなってしまった今現在は、1年のうちにわずか1、2回しか、その池袋にすら、お出かけすることは、なくなってしまいました。
そんなある日、「どうしても」というやむにやまれない事情が出来て、かなり体力的にも精神的にも無理をしながら、池袋まで用事に出かけました。
仕事を何とか済ませて、まっすぐに江古田の自宅に帰るには、ちょっと疲れ果ててしまったので、その帰りがけついでに、池袋で行きつけの蕎麦屋に休憩がてら、立ち寄ろうと思ったのですが、蕎麦屋の前にある中古CDの売り場に、ついつい目が入って、お店に入り込んでしまいました。
・・・ということで、日頃の鬱憤やストレスもあって、いろいろなCDやDVD(おもに全集)を、衝動的に買い漁ってしまいました。(ひぇ~!自己反省!!)
そのときに衝動的に買ったCDの中の一つの全集が、「クレメンティのソナタの全集」です。
(所謂、一般によく知られているソナチネアルバムに載っているClmentiのソナチネではありません。)
ちなみにクレメンティのソナタ集は、日本版では全音版が1、2巻と出版されています。
CDの演奏者は私の知らないピアニストであったが、そのCDを聴いてみると、一応、それなりに古式ゆかしく、装飾や即興などを丁寧に入れて演奏していました。
そこまでは、とても良いCDなのだが、・・・困った事に、何ともはや、forte-pianoの音が汚い。
きゃんきゃんとした割れた(歪んだ)音で、ピアノの音がどうしようもなく汚いのです。
まるで日本の音大生が、学校の試験や学内コンサートで弾いているような、いかんともし難いピアノの音なのです。
でも、本当の事を言うと、forte-pianoを演奏する時に、キャンキャンとか、ギャンギャンとか、歪んだ壊れたような音で演奏するforte-piano奏者は、今回、衝動的に購入したCDのforte-pianoの演奏者だけが、汚い音で演奏をしている・・・という事ではないのです。
世界中のforte-pianoの演奏者全ての人達が、おしなべて、同じように、キャンキャンと金属的な歪んだ音で弾くのですよ。
私が好んでoriginalのbaroqueの音楽や、古典派の音楽を聴くのは、baroqueや古典派の澄んだ美しい音、・・・pureな純正の和音や、ガット弦の柔らかな響きを聴く事が、病気療養中で、身も心も疲れ果ててしまった、私の荒(すさ)んだ気持ちを癒してくれるからなのです。
しかし、私が求めている優美で美しい古典の音であるはずのforte-pianoの音が、CDの演奏では、例えようもなく癇に障って、イライラするのです。
兎に角、音が汚い!
ジャラン・ジャランとか、キンキンとか、耳障りな音がして、折角の端麗なClmentiのsonateなのに、聞くに堪えないのですよ。
(ちょっと、話を横道に道草させて、)この話とは直接は関係はありませんが、以前、放送大学のチャンネルを見ていたら、偶然、浜松のピアノの博物館(?なんという博物館かは、すっかり忘れてしまいましたが・・・)にChopinの活躍していた時代と同じ時代のプレイエルのforte-pianoが展示されていて、そこの専属のピアニストが「Chopinのノクターンは、如何に弾かれなければならないか?」を、そのプレイエル・ピアノで、再現演奏をしていました。
Chopinのお弟子さん達の楽譜に書き残されたChopin自身の書き込みなどを細かく校訂して出版されたArchivの楽譜に基づいた演奏です。
Chopinのノクターンの原譜に於ける楽譜上の弱さが、見事にカバーされていて、それは素晴しいChopinの意図したに違いない演奏のスタイル(?)であったのですが、こちらの方も、インタープリテーションは見事なのだが、如何せん、その先生の演奏するPleyel社製のforte-pianoのピアノの音が、どうしようもなく汚いのですよ。
演奏者は、折角のforte-pianoなのに、相変わらずdouble
actionの強く重たいtouchで、ジャラン・ジャラン・・!!、キャンキャン!!と弾いています。
Chopinは、よく勘違いされる事があるのだが、Chopinの自国のフランス製のÉrard社製のピアノではなく、何とドイツ製のPleyel社製のピアノを愛用していました。(勿論、ChopinはÉrard社製のピアノについても、ある程度の評価はしています。ただ、認めてはいたのだけれど、好みではなかったということです。)
そしてChopinは、自分の持つPleyel社製のピアノを、とても気に入っていて、よく手紙などで、自分のPianoを絶賛しています。
それはChopinのちょっとした指先のtouchの変化を、繊細に表現してくれる楽器だからなのです。
私も、商売柄、音大生とお喋りをする機会が時々ありますが、Chopin時代のforte-pianoのお話をすると、「Chopinの時代のforte-pianoは、現代のPianoとは違っていて、機構的に未だ不完全で、コントロールの利かないバランスの悪い楽器である」と、結構、酷評します。
つまり、音大生達は、Chopin時代のforte-pianoについて、自分達の演奏技術に表現力が足りない貧弱な楽器である・・、という風に思い込んでしまっている・・・、ということです。
つまり、彼らのforte-pianoに対する意識は、極めつけに低く、forte-pianoのジャラン・ジャラン、キャン・キャンした音は、演奏者のせいではなく、不完全な貧弱なforte-pianoの性能によるものだという風に考えています。
だけど、作曲家としての立場で言わせて貰うと、本当にChopinや、、もう少し前の時代のforte-pianoになりますが、Mozartのforte-pianoは、そんな貧弱で、機構的にも劣っていた楽器だったのでしょうか?
そして、偉大な作曲家達が、その貧弱で物足りない楽器のために、あの素晴らしい作品を沢山私達に残したとでも、思っているのでしょうかね??
もし、「そうだ!」とでも、思い込んでいるのなら、その音大生達は、Chopinが未来の未だ見たこともない楽器のために、あの素晴らしい作品を書いたとでも、思っているのでしょうかね??
いやあ、音大生の思い込みは、不思議な話だよ!!
昔は、全てが不完全で、今、自分達がいる、この時代の楽器や演奏の技術が、・・・、つまり、自分達が学んでいるものが、昔よりも優れている、今の音楽こそが、音楽の完璧な姿だ・・・と思い込んでいるのだから、始末が悪いのですよ。
自惚れを通り越して、それは、すでに、不遜でもあるのだな??
私には、理解出来ん!!
確かに、今、HaydnやMozartのoriginalの楽器を博物館や資料館で演奏させて貰っても、それ程の音はしない。
だから、HaydnやMozart、果てはChopinも、その程度の楽器で満足していたように思われてしまう。
しかし、それはチョッと違うよ!!
HaydnやMozartが生きていて、その楽器を自ら演奏していた頃は、その楽器のconditionはもっと、もっと良かったはずなのだよ。楽器も若く生き生きしていたしね。
それが、博物館や作曲家の生家に展示されて、展示品として、必ずしもベストの状態とは言えない状態で保存されていたり、或いは、当の昔に、その楽器の寿命をオーバーしたりして、その楽器本来の音が再現されてはいなくなっているのだよ。
さて、さて、普段私達が耳にする楽器についてなのだが、このPageの後の方にも、同じ話を書いているのだが・・・・・、今は、極普通に目にし、耳にする事の出来るCembaloも、私が日本の音楽大学でCembaloの勉強を始めた頃、つまり、今から50年近く前には、Cembalo自体を持っている(所有している)音楽大学や放送局は全国でも、2,3箇所しかなかったのですよ。つまり、日本に、2,3台しか、Cembaloがなかったのだよね。
しかも、その希なCembaloでも、modernCembaloと言われて、機械actionで強い音を出す、Cembaloの端麗な音とは、とても呼べないmechanicactionのCembaloで、その音は金属的であった。
その重な理由は、近現代の人達は、Cembaloが廃れた原因を、Cembaloの音量の弱さ、強弱が出来ない事、等々、所謂、Cembaloという楽器の性能や、表現力の問題に、Cembaloが廃れた原因があると考えていたからである。
という事で、プレイエル社は、ランドフスカ教授とのコラボで、所謂、ランドフスカCembaloと呼ばれる、モンスターCembaloを作り上げた。
音量は元より、強弱すら(所謂、crescendo、decrescendoでも)出来るという7本pedalのモンスター・Cembaloであった。(もはや、Cembaloと呼んで良いのであろうか???)
(日本には、大手建設業者の令嬢で、ランドフスカ教授の門下生だった**さんが、極わずかに製作されたランドフスカCembaloを、日本に持ち帰って来て、自宅で演奏会を開いていた。その**さんも、お若いのに、この間、調べてみたらもう鬼籍に入られたそうだ。)
いずれにしても、今から40年、50年前には、baroque時代や、古典派の時代の復刻のCembaloというものは存在せず、(極、希にイタリアの工房で、個人の手による復刻が試みられていたのだが、金額も天文学的で、音もそれだけの対価には値しないものであった。)
という事で、一流のCembalo奏者という人達もノイペルト社やアンマー社、私のクラビコードのようなビットマイヤー社が作っていた改良型のmodernCembaloが、主流だったのだよ。
こんにちの復刻のCembaloとは、その音も、楽器自身も、似ても似つかわしくはないのではあるが、いかんせん、当時はそれが精一杯だったのだよ。
ちょうど、今はforte-pianoがその当時と同じような状態になっている。
唯一演奏に耐え得るforte-pianoは、昔同様に、ノイペルトのforte-pianoかもしれない。
多くの復刻のforte-pianoが制作されているのだが、未だに、当時の技術が再現された分けではない。
後、40年ぐらい経てば、本当の古典派の時代のforte-pianoの音や、機能が再現されるであろう。
しかし、今は、forte-pianoの音の再現は未だ難しい。
forte-pianoは、時代によって、弦が違う。
初期のforte-pianoは未だ、Cembaloの弦が張られていたので、Cembaloのような音がする。
古典派も後期に差し掛かり、forte-pianoも色々と改造されてくるに従って、弦の張りも強度も強くなり、こんにちのPianoの音に近くなる。
しかし、不思議な事に、Bachが聴いたというCristofori のforte-pianoは、40年も前に、NHKの放送で、その楽器で演奏されたBachを聞いたのだが、私が聴いた限りでは、Cristofori
のforte-pianoは、Mozartのforte-pianoよりも、寧ろ、後期のforte-piano、所謂、modernのPianoの音に近かったのは、どうしてなのだろう??
その当時に、Pianoの弦に近い弦があったのだろうか?
actionは?どんな布を使っていたの???
その回答は、未だに、分からない。
Cembaloの話に戻って、・・・・今でも、多くの音楽大学には、ノイペルト等の機械actionのmodernCembaloが購入されている。
何故って、その一番の理由は、音大では古楽器の本来の音の美しさよりも、大ホールでのCembaloのperformance(演奏効果)の方が期待されるからなのだよ。
だから、未だに学校関係では、ノイペルトのmechanicactionのmodernCembaloが購入されているのだよ。
BachやCouperinの時代の音とは全く違うのだけどね。
話をforte-pianoの話に戻して、・・・・・
Chopinが活躍した時代には、もう既に、ピアニストは大きな演奏会のホールで演奏する事も多くなって来て、そのために、ピアノは力強く、安定性のあるdouble actionのピアノが主流になろうとしていました。
フランスの誇るエラール・ピアノも、もう既に、大きな会場を想定したdouble action機構を採用していたのです。
その先鋒がF Lisztです。
Lisztは、自分の演奏会に、forte-pianoを2台も、3台も準備して、弦が切れたり、鍵盤が折れたりすると、次のPianoに変えて演奏したりするほど、強いtouchで、楽器にもそれなりの音量を要求していたのです。
Lisztは、single actionのプレイエルよりも、double actionのエラールのピアノを好んだと言われています。
だから、Lisztにとっては、steinway等のdouble actionのしっかりとした安定した楽器の登場は、彼の理想を叶える楽器の登場でもあったはずです。
それに対してChopinは、力強さにかけても、安定性にかけても劣っているのですが、指先の繊細なtouchやpianissimoの美しい音を表現してくれる、forte-pianoの古いsingle actionを踏襲したプレイエル・ピアノを好んで、生涯そのピアノを愛した事はよく知られている有名なお話です。