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ちょっと余談で、プレイエルのピアノの不具合に関して、面白いYou Tubeでのサイトを見つけました。

Chopinのプレイエルや、当時に製作された同じプレイエルのピアノで、プロ・アマ色々な人が演奏をしているサイトを見つけました。

同じChopinのピアノで、或いは、同じ時代の同じ状態のプレイエル・ピアノなのに、演奏する人によって、楽器の音や性能がまるっきり変わってしまうのです。
やはりproの人の中でも、そのうちの2,3人の演奏は、プレイエルの素晴らしい音を引き出して、「力強さや安定性に掛けても・・・」という風説を払拭して、全く素晴らしい音を引き出しています。

また、「Chopin時代のforte-pianoは高音域がブツブツ切れて・・」という諸説もありますが、確かにそういう風に演奏している人と、高音域の音を美しく伸びやかに演奏している人もいます。
これは、forte-pianoを演奏する時の、touchの違いによるものなのです。

forte-pianoは、本当に、演奏をする人によって、その姿が豹変していく女性のような楽器です。
sensibilitätな楽器です。
相手によっては、聖女にも、毒婦にもなってしまうのですよ。

やはり、私の最初の想定のように、forte-pianoのジャラン・ジャランとした音の問題は、寧ろ、現代人の習得したdouble actionのtouchの問題でもあるようです。

Pleyelのsingle actionには、double actionのtouchで演奏する事は出来ない・・という結論ですよ。
まあ、当たり前の事ですがね??

参考までに、linkを張っておきます。聴き比べて見てください。
とても同じピアノで演奏された・・・とは思えないでしょう??

本当の意味でのproは、その楽器の音を最大に引き出して演奏します。
自分の音しか持たない演奏家は、・・・どんな高価な楽器を手に入れたとしても、自分の音をその楽器に要求してしまいます。

そういった楽器の性能を引き出すことの出来ない野狐的な演奏家やamateurと、本当のproと呼べる人達は、一線を画すのですよ。

LisztとChopinの楽器の好みの違いは、勿論、両者の作風の違い・・というか、性格の違いでしょうね??
steinwayの話はもうちょっと後の時代のお話になるので、基本的にはプレイエルとエラールの比較のお話になりますよね。

という事で、先ほどの放送大学の話に戻りますが、クレメンティのCDに於けるfortepianoの話と全く同じ理由で、浜松のChopin館のピアニストが、single actionの繊細なtouchが要求されるプレイエル・ピアノを、double actionの現代的なtouchで弾いている・・・から、音が汚くなってしまうのです。

single actionのピアノは、それこそ「そ~~っ・・」と触っただけでも、音が立ち上がってしまうし、逆に、強いtouchでforteの音を弾くと、直ぐに音が割れてしまう、という欠点も持っています。
誤って客席を見たりすると、その体の動きが、Pianoの音になって表れてしまいます。
くしゃみなんか以ての外です。客席で誰かがくしゃみをして、その音に動揺すると、しっかりとその音がPianoに表れてしまいます。

Pageの後の方でも同じ事を書いているのですが、forte-pianoのtouchは、現代のgrandpianoのtouchからすると、2分の1から、20分の1までの重さしか、ありません。そして、鍵盤の深さも6mmと極めつけに浅いのです。
本当に軽く触れただけで音が飛び出してしまうものなのです。

という事で、forte-pianoのtouchは、Cembalo等のtouchと同じで、指を鍵盤の底まで弾き抜く様に、しっかりと力強く弾く事など「もっての外」の事なのです。

ランドフスカの門弟でもあって、日本にも縁故のある「Cembalo奏法」の著者エタ ハーリシュナイダーはCembaloを弾くときに、指がkeyの底に達する前に、指をぴたっと止める練習を弟子達にさせました。
keyを弾き切った時に出るカタカタという音を出しながら、鍵盤楽器を演奏するなどということは、Cembalo奏者にとっては我慢出来ない言語道断な演奏だったからなのです。

そんなmodernPianoの鍵盤の底まで弾き切るtouchでforte-pianoを演奏すると、楽器を傷めてしまうか、さもなくば鍵盤を折ってしまいます。(ハンマーではなく、鍵盤を!!!・・・ですよ!!)

ソフトに弾くときには、当然な事でありますが、力強く弾くときでさえ、鍵盤を底までしっかりと弾き抜いてkeyの鍵盤の底を打ち抜くように弾いて、鍵盤の音をカタカタと鳴らしては絶対にいけないのです。
それがCembaloやsingle actionのfortepianoを弾くときの鉄則です。

チョッとした用事があって、武蔵野音楽大学に行ったついでに、楽器博物館に寄って、forte-pianoを専門に研究している若い女の先生に、楽器博物館のforte-pianoを触らせて貰いながら、私が「forte-pianoを正しいtouchで演奏しているCDはないのか?」「forte-pianoが演奏出来るピアニストはいないのか?」と、その先生に質問すると、即座に「いません!」と答えが返って来てしまいました。

その困ったキャンキャンしたforte-pianoの音の理由は、その武蔵野音大の楽器博物館の先生が言ったのではなく、私の解釈に過ぎないのですが、古楽器であるfortepianoのsingle actionの鍵盤を、現代のdouble actionのピアノと同じに、力強く弾くからなのです。

何もこのforte-pianoを演奏する時のtouchは、forte-pianoの為の特別な、特殊なtouchであった分けではなく、fortepianoが発明されて、開発された時には、当時のforte-pianoの奏者達は、まだチェンバリストであったのだから、この非常に難しいsingle actionのtouchは、当時としては、当たり前のtouchに過ぎなかったのですよ。

Cembalo奏法が当たり前の時代だったからです。
当たり前のことですが、当時は、誰一人として現代のdouble actionのtouchで弾く人はいなかったのですよ!

ある場所で、「云々・・・」 という話をしていたら、音大のPianoの学生から不思議そうな顔で、「何故、当時は、普通のPianoのtouchで弾く人が居なかったと言えるの??」「そう、言い切る事が出来るの??」・・という、反論が返って来ました。

何が何でも、「自分が勉強して来たPianoのtouchが正しい!」と思い込んでいて、それ以外の考え方は、全て誤りだ・・・と信じて疑わない音大生のサガなのですよ。

困ったもんだ!!
信じられん!  
自分でよく考えてみてよ!!

ヽ(`Д´)ノ
何で、当時は未だPianoがなかったのだ・・という、簡単な事が分からんのだよ???
俺にはその思い込みが分からん・・!!!

一度、身に付いたtouchを変えるのは、難しい。
あまり、それまで、勉強をしていなくて、変えるのはそれ程、難しくはないのだが、音楽で身を立てると決めて勉強してきた人になればなる程、一度身に付いたものを変えるのは難しいのだよ。
それは、その根っこが深いからなのだよ。

私が、音大の先生になっても、無意味だと、思ったその一番の理由は・・・、私が、音楽大学で生徒達を4年間教えたとしても、たった4年間では、一度身に付いた悪い癖を取る事すら出来ないだろうし、ましてや、proになるための、技術や、proになるための意識等を教えられる分けがないのだから。

それ以上に、その私に刃向かってきた学生のように、自分がこれまで学んで来たものが全て正しく最高である・・と信じて疑わない人間に、音楽の歴史を教える事程、無駄で、無意味な事はない。
幾ら、理を尽くして説明しても、カルト教団と同じで、理屈は通用しないのだからね。
「私の先生の教えた事は正しい。だから、私も真実である。」
オーム教も、タリバンも、同じようなものだろう。
幾ら理を尽くして、説明しても、それが通じる分けではない。
それなら、何も習っていない子供に教えた方が、年数を掛けないで、上手くなる。

もっとも、私自身は、そういった間違えたやり方や、日本本来の儒教の教育で育ってきたのだよ。
私がそれを捨てるのに、どれだけ努力をしたか??誰にも分からんだろうね。
間違えた物を捨てて、新しいものを追求するのは、決して、生易しいものではない。
それなら、何もない所に新しい物を作った方がどんなにか楽なのだよ。

音楽でも、なんでも、全ては最初が肝心なのだよね。

最初に正しい物を勉強していると、間違えた道に入るのは意図も簡単なのだよ。
しかし、間違えた方法論で勉強してきて、それから、正しい道に戻るのは至難の業だよ。
ほとんどの場合が、挫折するのだよな。

violinの弓の持ち方でも、1点支持から3点支持に変えるのは、超簡単だけど、3点支持から1点支持に変えるのは、難しいのだよ。なかなか出来ないのだな。

つまり、最初にdouble actionのmodernのPianoで練習してきた、人がproになってから、改めて自分のtouchを変える事は、第一言語を第二言語に変えるようなもので、殆ど無理だということなのだよ。

それが、forte-piano奏者がいない理由だよ。
自分の第一言語を捨てて、・・・つまり、ふるさとを捨てて、その国の人間になりきろうとする人の覚悟が要るのだな??
今まで習ってきたPianoのtechnicを全て捨てて、forte-pianoだけがPianoなのだ・・・と、思い切れれば、forte-piano奏者にもなれるのだがね。
それまでの人が、いないという話・・・・。
私は出来たがね・・・・???


愚痴はそれぐらいにして・・・
この論文自体は、パソコンが世に蔓延る(はびこる)前の、・・・・否、ワープロが発売される前の、20年、30年以上前に書かれた原稿を、ワープロに取り込んで、それからパソコンにtransposeして、未だに手直しをしているものです。
私の作業は、完成という事がないので、いつまでも未完のままです。

・・・という事で、ひかりちゃんにMozartのkirchensonateやPianoconcerto K.107 のlessonを通じて、forte-pianoの奏法と、touchの説明をしていたのですが、その繋がりで、つい先日(14年の5月の末) に、教室のひかりちゃんの先生の牧野先生が、「こんな本があったよ!」と言って、高木裕さんの「今のピアノではショパンは弾けない」というタイトルの本を見せてくれました。


日経プレミアシリーズという文庫本です。
2013年の6月に第一刷が刊行されたようです。
内容的には、私が30年、40年前から、生徒達にlectureしているMozart奏法というか、所謂、forte-pianoの奏法・・についての、考え方で、先週の日曜日にも、室内楽のlessonをして、Beethovenのsforzandoの意味について、生徒達に説明をしたのだが、そういった古典派やロマン派のPianoの特性を、「今のピアノではショパンは弾けない」という一言で、改めて、私の主張を裏付けしてくれている本だ、と思いました。


forte-pianoのtouchについては、私は30年来、40年来、作曲家という立場で、forte-pianoの奏法や、touchについてお話をしているのですが、Pianoを演奏する人達からは、私が作曲家であり、理論家であるという立場の違いから、私の主張をなかなか認めて貰えません。演奏の事は演奏家に任せろ!と言う事らしいです。

作曲家という立場で、当時の作曲法やPianoの奏法という事を説明しているのですが、そういった論理的な事は、演奏家の人達には、難しいようで、なかなか理解しては、貰えません。

私の作曲家としての立場や、音楽の学者の人達の論文は、一般の音楽家の人達には、難しいので、教室の子供達に、lectureをする事にして、演奏家の人達には、もっとも身近な、Pianoの調律師の人が、Pianoのメカニック(機工)の技術者(??)という立場からforte-pianoについて書いてあるので、この本は、身近に理解出来るのかな??と思います。

私達にとっては、あまり直接的には関係がないし、ましてや、forte-pianoの話ではないので、別のお話になってしまいますが、pianistのHorowitzとの色々な逸話も読み物としては、面白いかもね。

Horowitzは、何処へ演奏旅行する時でも自分のPianoを運んで演奏した事で知られています。
しかし、Arturo Benedetti Michelangeliも、世界中の演奏旅行に自分のPianoを持って行きましたが、Michelangeliの場合には、彼の愛用するPianoのサイズが8分の7のサイズだったので、何処へでも自分の楽器を持って行ったのは、それは当然でしょう。

しかし、Horowitzは、若い頃からtechnicianとして名を馳せており、この楽器でなければならない・・という音の拘りや、ピアノの性能に対しての拘りは、私は、Horowitzが、特定の楽器への「音への拘り」を見せていた・・というのは、この本を読むまでは、知りませんでした。

この本で読んだ、HorowitzのsteinwayのCD75のPianoに対しての拘りは、私にとっては、始めて知った事であり、奇妙な不思議な違和感を感じました。

それに、同様に、Germaine Mounier女史の、音に対する拘りも、私から言わせて貰うと、Pianoの調整の問題ではなく、touchの問題ではないのかな??・・という気がしたからです。

確かに、「弘法は筆を選ばず」とは言いますが、私が日本に帰国したばかりの頃に、ヨーロッパのゴミを洗い流すために、みそぎを兼ねて、琵琶湖の山奥のお寺で、坐禅の修行をしていた時に、弘法さんの資料がいっぱい残っているお寺の和尚さんは、私に弘法の筆跡とされる紙を見せながら、「本当は、弘法は筆を選んだのだよ!」「弘法の筆への拘りは凄かった!」と、説明してくれました。

HorowitzのsteinwayのPianoへの拘りも、そういったところでしょうかね??

確かに、私達の教室のPianoは、全部安物ですから、皆から忌み嫌われている汚い黒いuprightPianoを除いては、touchで音色を作り出す事は出来ません。
汚い、黒ピアノは、steinwayやBösendorferに使用されているRENNERactionであり、弦もレスローの弦が張ってあります。弦長は、uprightPianoよりも、遥かに長く、殆どGrand Pianoと同じ長さなのです。教室に置いてある楽器の中では、一番高価な楽器なのですが、もう50年以上も前の楽器になりますので、評判は悪いので、教室に置いておくよりも、早く、私の部屋に引き取りたいのですがね。
私の部屋も、狭くって、中々楽器を引き取る事が出来ません。
花園教室の黒Piano 外部linkです。

私が埼玉県と群馬県のPianoの倉庫を探し歩いて、見つけた、検見川の特別lesson室にある1965年以前のヤマハのgrandpianoも、私の個人の好みで探し出したPianoなので、生徒達からの評判は、良くはありません。
見た目にも、色々と問題があるようです。
今のG7と同じぐらいの大きさなので、結構大きなgrandpianoです。

特別lesson室の昔のヤマハのGrand Piano

古い時代の重い篭った音はするけれど、流石に、steinwayのPianoのように、指先のtouchの変化を自由に思いのままに受け止めてくれはしません。

Bosendorfer のPianoは、個性が強すぎて、自分の音を演奏者に出すように要求してきます。
何処かの、我儘なお金持ちのご令嬢の様です。

それに対して、steinwayのPianoは、自分が出したい音を、ストレートに出してくれます。
まるで、今は絶滅してしまった、夫唱婦随の往年の日本女性のようです。
pianistとしてではなく、作曲家としては、自分の思っている音が出せるという事は、頗る都合のよい楽器です。

という事で、往年の名pianist達は、それ程Pianoに拘りは見せません。

最低の水準がsteinwayであれば、文句は出ないはずです。

この本に名前の登場する、Germaine Mounier教授ですが、Marguerite Longのお弟子さんで、そのロンさんがライバルとする,名pianistのAlfred Denis Cortotも、Wilhelm Kempffも、会場のPianoを文句も言わないで、そのまま演奏していたけれど、まるで上野の大ホールの、ただのsteinwayのPianoが、音のキャンバスのように、色とりどりの音がして、「これ、steinwayのPianoだよね??」と、驚愕した記憶があります。

Cortotの上野の大ホールのライブのレコードは、私の大切な宝物でしたが、本当に往年の名pianistはEdwin Fischerにしても、Arthur Rubinsteinにしても、これが上野の大ホールのsteinwayとは思えないような、美しいPianoの音を引き出しています。
(あっ!!Fischerさんの生の音だけは、聞いたことがないので、レコードを聴いた上でのお話ですよ!!)

私にとっては、Horowitzは、素晴らしいtechnicianではあっても、そんなに癒しになるような、美しい音を奏でて来れるpianistではありません。
だから、steinwayのDC75と言われても、D51と言われてもピンと来ないのですよ。
いずれにしても、forte-pianoに触れているだけでも、秀作です。
お薦めの一冊です。

新刊ではないので、お店には置いていないかもしれませんが、本屋さんに注文してください。


Pianoにdouble actionの機構そのものがなかったのだから、そういったdouble actionの奏法がまだなかったのは、至極当たり前の話なのだが、それが現代のdouble actionのPianoで初歩の初歩から学んで来た、・・・・音楽教育を受けてきた音楽家の人達は、single actionの方が、standardであった、という事が、いまだに分からないでいるのです。

自分達が子供の時から学んできたtouchがすべてで、「single actionのピアノですら、自分が学んできたtouchで弾ける」と思い込んでいるだけならまだ許せたとしても、音が割れるのは当時のピアノのアクション部分が未完成で構造的に貧弱なせいで、当時の人達は普通にそういう音を聞いていた、と思い込んでいて、音が割れるのは、あくまで楽器のせいであって、自分達のtouch(技術)のせいではない、と思い込んでいます。

それは音楽家にありがちな傲慢さ(不遜さ)だと思いますがね!




forte-pianoのtouchについての補足説明

fortePianoのtouchについては、本当は一言で、語り尽くす事は出来ません。
古典派の時代には、fortePiano自体が未だカンブリア紀のような、進化の実験室のような、過渡期の試作の楽器だったからで、その機構も機能も多種多様に渉ったからなのです。

fortePianoのtouchについては、一般にも分かりやすいように、乱暴に大きく分けると、構造の違いから「イギリス式アクション」と「ドイツ(ウイーン)式アクション」の二つに分ける事が出来ます。

今、多くの音楽大学に入っているノイペルト社で製作されているfortePianoで、所謂Mozart-Flugelと呼ばれる楽器は、あくまでノイペルト社の楽器の製品名であって、実際のMozartのforte-pianoの復刻品ではありません。
今では、流石に居ないとは思いますが、私が未だ音楽大学の学生であった頃、そのノイペルト社のMozart-Flugelを、本当のMozartの復刻modelと思い込んで、論文を書いている先生がいたのには、参ってしまいました。
私が、「Mozartの所有の楽器ではない!」と幾ら言っても、「だって、Mozart-modelって書いてあるだろう!」と、信じて疑わなかったのですよ。
俺の言う事は、信じないのにね!!まあ、その頃の私は、未だ学生だったから、信じなくても当たり前か・・・???
それに、こんにちのような、ネットもパソコンも、それこそワープロさえもなかった時代ですからね。
ビデオもないし、やっとカセットテープが出来た頃のお話なので、資料は全くなかったのですよ。

それは、同じノイペルト社のCembaloのBachーmodelやHandelmodelにしても、実際のBachのCembaloやHandelの愛用している楽器とは何の関係もありません。
それは、単なる商品名だからです。

それに、「全国温泉巡り」とか、「旅の宿」とかで、雲仙温泉とか霧島とか、赤城温泉とか書いてあったとしても、そこの温泉とは何の関係もない、ただの商品名だと言っても、「ご当地の温泉だ!」と、信じて疑わない人も多いしね。



それに、歴代の作曲家達の愛するPianoも、forte-pianoだったのです。
例えば、Chopinの愛用するプレイエル社製のピアノも、或いはフンメル(教室でPianoを勉強している子供達がよく演奏しているPianotrioを作曲家した人です。)やBeethovenですら、「ドイツ(ウイーン)式アクション所謂、single action」の楽器を、それと、touchを好んだのです。
ではそのtouchはどのように違ったのでしょうか?実際に先程のMozart-Flugel弾いて見ると、そのtouchの浅さに驚かされます。
鍵盤はわづか6ミリしか沈みません。
touchもきわめて軽く、scaleを弾きながら、ちょっとうっかりと、顔を横に向けただけでも、その瞬間に音が際立ってしまいます。
それぐらいtouchがvividなのです。
力を入れてfortissimoを弾いたり、ちょっと無意識にsforzandoを弾いたりすると、驚いてしまう程に、音が汚く割れてしまいます。

先程の作曲家で大ピアニストでもあったフンメルは、「楽器は重くtouchをしたり、腕の全ての重さをかけて弾いたりする事は許されない。音の強さは、指の柔軟さから来るものでなければならない。」と彼の著書「ピアノ奏法」に書いています。
double actionの現代のピアノに比べて、forte-pianoのtouchの重さは少なくとも2分の1から、20分の1程の重さになります。
つまり、信じられない程指先のsensibilityが要求されるのです。

勿論、音量的には、現代のコンサート・グランドに比べると、かなり弱いのですが(弱いとは言っても、それまでのCembaloの音量とは比べ物になりません。100人や150人ぐらいの大きなサロンでのコンサートにも充分な音量です。)、その反面、とても華やかで華麗な美しい音でサロン・コンサートの演奏にはとてもよく合った優れた楽器です。

それに対しての「イギリス式アクション」は当然touchも重く、鍵盤の沈みも深い。
ですから、重厚な和音の響き、音量的には優れていて、イギリスのような大ホールを想定した演奏会には適していますが、しかし、鍵盤の重さや微妙な表現力の不足は、当時の殆どの作曲家達の非難の的で、Beethovenも1803年にエラール制作のイギリス式アクションの鍵盤を試演した時には、その鍵盤の重さに辟易して、「このようなPianoで演奏しなければならないとするのならば、二度とPianoの曲は作曲したくない。」と、不平を言うほどでした。

そのために、エラールはそういった「イギリス式アクション」のPianoの欠点を改善するために、モシュレスをテクニカルアドバイザーとしてtouchや性能のアドバイスを求めて、改良に努めました。
という分けで、今日、我々が普通に弾いているPianoはイギリス式とドイツ式(ウイーン式)の双方のハイブリットを更に改良したものです。
ここら辺の解説は、講談社選書メチエ「ピアノの誕生」 西原稔氏1600円+税 の本に詳しく分かり易く書かれているので、そちらを参照にしてください。

このお話を書いてからも、随分時間が過ぎてしまいました。
forte-pianoについても、未だ玉石混交ではありますが、その内の玉の方は、なかなか良い論文や紹介のPageが書かれるようになって来て、喜ばしい限りです。
石はこの際、無視しておきましょうね。
その一文章を紹介しておきます。

丹野めぐみさんのhomepageです。
私が読んでいるhomepageは、チョッと専門的なPageが多いので、参考にはなるのかも知れませんが、読み物としては、楽しくはありません。dataの羅列が多いのでね。
その点、女性の文章は、読んでいて、楽しくて良いです。






double actionの原理は、19世紀になって発明された、革新的なmechanismのように言われていますが、その原理はとてつもなく古い、有史以前の人類が人間になった、2万年前からある投石器の原理によるのです。

人間の手も、関節で折れ曲がる事によって、距離と速度を得る事が出来ます。
それを道具で具現化したものが、投擲具です。
大きな力を得れますが、その分的(まと)に当てるのは、難しくなります。
当然、力を弱くすると、その精度は上がりますし、力を大きくすると精度は下がります。
投擲具自体も、どんどん大型になると、城の城壁を壊す程の威力を持つ物も現れます。






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