楽しさと技術向上の両立
一般的には、先生が優しいのか、厳しくて怖いのかは、その先生の性格によるものと言われています。
そりゃあ、そうだわよね。
次に日本人の国民性による勘違いとでも言うのか、優しい=内容のlevel(水準)が低い、(初歩)、厳しい=levelが高い、内容が濃い、と思われているようです。
これは基本的に儒教的な権威主義的な発想なので、困難な物はlevelが高いという思い込みによるものです。
人生や勉強は、よく山登りに例えられますが、世界で一番登頂するのが難しい山は、エベレストと思われがちですが、それは、世界一高いという事から来る勘違いなのです。
エベレストは世界最高峰なのでそういう風に思われがちかもしれませんが、山登りの専門家達からすると、寧ろ、一般的にはヒマラヤ山脈2番目の高さのK2の方が、より登頂困難な山とされています。つまり、最高峰のエベレストは、最も登頂が困難な山ではないし、第二番目のK2ですら一番難しい山とは言えません。それよりももっと登頂困難で、未だに人跡未踏の山は無数にあるのです。
エベレスト(チベット語ではチョモランマ)が、最高峰で既に多くの人が登頂しているので、世界の山はもう、征服され尽くしたかのような勘違いがありますが、実は山の高さと登頂困難さは基本的に無関係です。
という事で、登った人の数と死者を%にして、山の難しさをdata化した一覧表もあるぐらいです。
難しさで言えば、魔の山との異名を持つナンガ・パルバットやキラー・マウンティンと呼ばれるアンナプルナも有名ですが、エベレストよりは遥かに少ない人数なのですが、登頂はなされています。しかし、未だに、未踏峰の山は無数にあるのですよ。
山のお話に長居をしてしまいましたが、このお話の寄り道は、最高峰のエベレストが地球の最高峰と言われるだけに、登頂も一番難しいと思い違いをされてしまうというお話なのです。
このお話は音楽にとっても同様に、やたらと厳しい先生が良い先生と勘違いされる風潮が日本人の潜在意識の中にはあるのです。
しかし、同業者、つまり同じプロの目から見ると、厳しさは、ただの厳しさであって、その先生の指導する音楽のlevelはまた別物、としか見えては来ません。
日本人は画一的に物を見る習性があります。
寄らば大樹の影や、ブランド志向等に良く表れています。
それが、そう言ったブランド志向ぐらいなら単なる趣味のお話で、問題はないのですが、子供の進学のお話となるとそうは行きません。日本では名門学校であれば、どの生徒にも、どこの学校でも良いという風潮もあります。
それが、子供の夢とは逆の結果を生み出すとしてもね。
有名なもの、権威のあるもの、が害になるとは、絶対に思わないのですよ。
しかも、日本人の面白い習性は、自分や子供の将来を相談するときに、自分の身の回りの(所謂、身近な)人に相談をする。
これは不思議だ!!その子供が進みたい方向の功なり名を遂げた人に相談するのではないのです。だから、画一的な答えしか返って来ない。
これも、お隣の韓国や中国の人達が日本人の七不思議に数えていました。
本当に、馬鹿馬鹿しいお話ですよね。
本題に戻って、プロの立場からすると、指導の方法論としては、「怒らないで、叱らないで、しかもより高いlevelを求めた優しく指導する」指導方もあるのですよ。
だから、その場合には、優しい先生とは、「優しい性格の先生」ではないのです。
厳しい先生でも、優しい先生でも、優しく楽しく、しかし高いlevelの内容で指導する事が出来るのですよ。
「子供達の音楽教育が上手な先生は子供好きの先生だ」と思われる事もよくありますが、子供好きの先生は、母親と同じ立場になってしまって、子供を正しく見れなくなってしまう事がよくあります。そこで本当に指導しなければならない事を、ついつい見逃してしまうのです。・・・というか、見たくないのかな??
つまり、医者が身内の診断をしないという事と同じ理由で、どうしても無意識に、診断を都合の良い方向に診てしまうのです。
お医者さんである芦塚先生の養父の人も、自分の身内のレントゲン写真で、重大な疾患を見過ごしてしまい、友人に指摘されて、「どうしてこれを見逃したのだろう?!」と、改めて我ながら、首を傾げていました。
音楽に限らず、優れた指導者は、その子供の今現在を見ているわけではなく、その教育の結果、その子にどういう将来が訪れるのか?・・・という事を、常に見て、今、現在の指導をしているのです。
今の結果しか見れないと、本当に子供達が望む将来が来るのか、危ぶまれてしまいます。
日本の学校教育で当たり前の事ですが、世界の不思議があります。
子供が、どの大学に進学するかを、学校の先生がその生徒の学力で決める事です。その子が将来何をやりたいか?ではなく、どれくらいの学力で、どの有名校に進学出来るか?という事だけが配慮されているのです。
学校のステータスで、子供の将来を決められたら、たまったものではありませんよね。でも、それが、当然の如くまかり通っている。不思議な国です。日本は・・・???
またまた、本文に戻って・・・
レッスンが楽しく、先生が優しい、というのは、音楽指導上の技術に過ぎないのです。
先ずはその前提でお話を進めて行きます。
よその教室で習っていた子供とその親御さんが初めて私達の教室に訪れると、必ず驚かれる事があります。
それは何かというと、子供たちの演奏レベルの高さというのももちろんありますが、同時に、子供たちが生き生きと楽しそうにレッスンを受けている、自分の方から積極的に教室に通って来ているということです。
それが、どうして「驚き」かと言うと、通常の音楽のレッスンの場合には、生徒の音楽の演奏のレベルが高いという事は、当然、レッスンも厳しく、先生も生徒も、ピリピリとして、近づくのも怖いような敷居の高い教室が普通(というか、音楽教室では、一般的にはそのレベルの教室はない)というのが一般の考え方で、本当に音楽を専門に勉強したければ、音楽大学の先生に直接習うのが普通だと考えられているからです。
だから、一般の音楽教室で、このレベルの高さというのは、考えられない事だと驚かれるのです。
他の教室でピアノを習っていた小学4年生の女の子が、同級生のお友達の女の子が私達の教室で習っていて、ピアノの演奏がとても上手だったので、自分も上手になりたいと言って、私達の教室を訪れて来ました。
初めて芦塚先生のレッスンを体験レッスンで受けたときの事です。
レッスンが終わって、帰り道で、お母様がその子供に、「芦塚先生のレッスン、やっぱり厳しかったね?!」と、聞きました。
ところが子供はきょとんとして、「え〜?何処が〜?芦塚先生はとても優しかったよ。」と答えました。
後日、お母様は、教室の先生に、「芦塚先生のレッスンは、とても厳しいと感じたのに、子供の感覚と、大人の感じ方は違うんですね・・。」と、述懐していました。
子供は、どんなにレッスンの内容が厳しくても、子供に対して、優しく接していれば、「優しい」・・・、或いは「易しい」と感じます。
見る人が見れば、どれだけ厳しい内容を教わっているのは分かりますが、習っている子供達にとっては、芦塚先生のレッスンは、とても優しい、或いは楽しいレッスンなのです。
レッスンの内容のレベルの高さや教わっている内容の凄さが理解出来ない人達にとっては、芦塚先生のレッスンは、楽しく優しいレッスンにしか見えないのです。
ですから芦塚先生は、後日、その母親にこう言っていました。
「お母さん!僕のレッスンを見て、その厳しさがわかるとはたいしたものですよ。普通の親や先生は、それが見えないのだから。」
実際、教室では「趣味で、楽しく勉強しているだけなのに、コンクールの全国大会で入選する人達が多く居る」という事態がしばしば起こります。
これは、「スパルタ式の厳しいレッスンに耐えられた人のみが、コンクールに出場することが出来る」(・・・出場であって、入賞ではないのですよ。)という間違った常識が広まっている日本の音楽界では、ありえないことだと思われてしまうでしょう。
それは芦塚先生の考え方では、レベルは内容であって、厳しさ云々ではないからです。
芦塚先生が教育大学や音楽大学の大勢の学生を教えた経験上、次のようなことを言っています。
音楽大学に入学してくる大半の音大生は「将来、音楽のプロになりたい。」という希望をもって大学に入ります。
この場合の「プロ」という定義は、「演奏家」を意味します。
まかり間違えても、音楽教室の先生等の指導のプロではありません。
しかし、音楽大学を卒業して、実際にプロの演奏家として演奏活動を続ける事が出来る人は、極めてほんの一握りです。
天下の芸大と言えども、5年、10年に一人の割合に過ぎません。
確かに、芸大を卒業して、留学して、帰国してきて、年に1回、くらいに、演奏会を格好良く開きます。
でも、それでpayが回収出来る分けもでもないし、ましてや、その収入で生活が出来る分けでもないからです。
まず、収入何て無いのが普通です。寧ろ、100万単位の赤字になりますよ。
自腹で何百万も掛けて演奏会を開けるのは一生に、其れこそ2、3回に過ぎません。
それでは、発表会の延長とたいして変わりませんよね。
発表会よりも、有料になったりして、少し格好良くなっただけだからね。でも、その分会場費も倍掛けになるのだけれどね。
だから、当然、私達はそういう演奏活動を持って、その人の事をプロとは呼びません。所謂、、プロモドキという事ですな。
現実は、音楽大学を卒業して、音楽で生活をする人の殆どが、学校の先生になったり、嫌がっていて馬鹿にしていた音楽教室で、ピアノを教えたりするのが現実です。
しかも、先程言った、モドキの演奏活動すら続けられる人達はホンの小人数の人達なのですよね。
これは、一般には超有名大学と呼ばれている名門音楽大学とされているところでも、状況は同じなのです。
つらい練習に耐え抜いて音大に入ったにも関わらず、殆んどの卒業生は「音楽のプロになりたい」という夢を叶えられません。
ヨーロッパでは、生徒を一人前の大人として、自分と対等に扱うので、生徒を叱ったり、怒鳴ったりする事は基本的にありません。
生徒を、一人の大人、一人の人間として、対等に尊重するのです。
そのかわり、こちらから疑問をぶつけて行かないと、・・質問をどんどんして行かないと、先生は何も教えてくれません。
先生に言われた事をやって来なかったとしても、叱られる事はない代わりに、教えてくれる事もありません。
余りにも、サボりが酷いと、叱られる事も、怒られる事もなく、突然に破門になります。
「やりたくなければ、やらなければよい。」
お金を払って、勉強しているのは、本人だからです。
習いたくなければ、そんな無駄金を使う必要はないのです。
それが、基本的な考え方なのです。
だから、何が何でも、高校に進学しなければならないという日本の教育社会の事は、中々理解してもらえません。
何故、嫌なのに、学校に行くの??
昔から、そういう人はいます。そういう人は、個人で弟子入りするか、専門学校に行けば良いのです。その方が、より専門的な事を学べるのです。
何故、人は高校に行くの??
それは芦塚先生も理解不能だ、と言っていました。
日本の常識は、世界の非常識という事でしょうね。
世界的に有名な、優秀な、良い先生には、本当に優秀な生徒が訪れて来ます。
だから、やりたくない、勉強したくない生徒は、最初から、来ないのですよ。
だから、怒る必要も、叱る必要もないのです。
叱られない、怒られない、という事は、自分で自分を律するという事になります。だから、叱られるという事よりも数倍厳しい事なのですよ。
だから、そういったセルフコントロールが出来る人達だけが、そういった世界にやって来るのです。
当然、ヨーロッパの超レベルの高い音楽大学ではそうなるのですよ。当たり前のお話でしょう??
芦塚先生も、Genzmer先生の授業の時に、ついつい次のレッスンに必要な宿題が、rotationのミスで、出来なかった事がありました。
その時に、芦塚先生がGenzmer先生に、「先生、実は私は・・」と弁解をしようとした時に、Genzmer先生が、芦塚先生の言葉を遮って、「いや、やって来たのか、来なかったのか、それだけでいい。」と、弁解をさせませんでした。勿論、だからと言って、Genzmer先生に叱られた分けではありません。
でも、「いや〜!弁解出来ない・・と言うのはキツいよね!!」との、芦塚先生のコメントです。
勿論、芦塚先生は、その後、二度とrotationのmissをする事は無かった、そうです。
当然、Munchen国立音楽大学クラスになると、退学になる生徒も毎年数多くいます。
芦塚先生の作曲のクラスでも、1年生の時に、6人居た生徒の内、2年時の進級の時に、4人は放校になりました。
つまり、Genzmer先生クラスは、突然、二人になってしまったのです。その後、その一人も、次の年には首になってしまいました。
アメリカの大使のお嬢さんだったけど、大使がGenzmer先生の元に呼び出されて、その時には大使がお説教されていました。男性の場合には、それはないですがね。
日本の時もそうですが、マンツーマンのレッスンは、それはそれは厳しいですよ。
勿論、日本で言う所の、叱られる、とか、怒られるとかいう事はないのですが、授業に着いて行くのが厳しいのですよ。
芦塚先生が大学に入学して、1年後の授業の時に、(ドイツの大学では、学年はありません。3年次で卒業の人もいますし、10年間クラスに在籍して居る人もいます。ですから、)そのクラスメート達は、芦塚先生の以前から居る先輩で、3年次生ぐらいの人達の話ですが、Genzmer先生が、芦塚先生の事を引き合いに出して、「彼が一生懸命、自分探しの勉強をしている時に、君達は彼のversuch(試み)を笑うだけで、何を勉強していたのだ?」と言うのが、Genzmer先生の、芦塚先生のクラスの他の生徒達に対する最初で最後の通告でした。
そして、その場で、全員放校処分になりましたよ。
つまり、そこでも、一切の弁解は無しです。
この1年間、チャンと誠実に努力をして来たか、否かだけの世界なのですよ。プロの世界には、肉親縁者も何もないのですよ。
あるのは、出来るか、出来ないかだけなのです。
皆、真っ青になっていたそうですよ。
その生徒達は、大半が音楽を、(つまりプロへの道を)止めてしまったそうです。
厳しいよね。プロは・・・・!!!
次のお話も、芦塚先生のミュンヘン留学中のお話です。
芸大のピアノ科を卒業して、有名音楽大学の講師に収まっていたのですが、「どうしても演奏家になりたい。」と、音楽大学の講師の職業を辞して、Munchenに留学して来ました。
めでたく大学に入学出来て、憧れの先生に師事する事が出来たのですが、「レッスンが上手く行かない!」と言う事で、芦塚先生の所に、彼女がある日、相談にやって来たのです。
彼女が言うには、Munchenの音楽大学に入学して、もう半年にもなるのに、レッスンでは何も教わっていない。
毎回、レッスンで一通り弾き終わると、先生は「とても上手ですね」とひと言。
「それで、10分で、レッスンが終わってしまうのだ。」という悩みの相談でした。
そこで芦塚先生は、彼女に対して、日本型の音楽の勉強の仕方と、ヨーロッパ型のレッスンの受け方の違いを説明して、Munchenでの音楽のレッスンの受け方のlectureをしました。
彼女の勉強している曲の分析の仕方から、その曲の疑問点や問題点の導きだし方や、それらの質問をどういう風に先生にぶつけて行けば良いのか、「こういう音を出したいけれど、どうしたらいいか」など、レッスンでの質問の仕方を、それから毎週、芦塚先生が日本に帰国する時までの、約半年間に渡って彼女に、lectureしてあげました。
それから、やっと、彼女のレッスンはスムーズに進むようになったそうです。
彼女のレッスンの話の根本的な意味は、何かと言うと、日本人は「教わる」という発想しかなく、「自分から進んで学ぶ」という姿勢がない!・・・ということです。
日本の教育では、先生の指導した事に対して、疑問を持つ事も、質問をする事も、絶対に許されません。
先生の教えが全てなのです。
例え、それが、甚だ時代錯誤のお話であったとしても、・・・です。
そして先生から要求されることであればどのように辛くとも「泣いて耐えなければならない」ということになります。
「辛いのが練習なのだ。」という間違った風説のもたらす障壁なのです。
私どもの教室では、音楽が大好きになり、夢中になって楽しく学んでいる生徒さんが、やがて優秀なレベルに上達し、趣味であるのにも関わらず、コンクールなどでも賞をとるようになります。
ところが、一般の方はそれを見、聞きして「きっとあの教室はものすごく厳しくて先生が怒鳴りながらレッスンをしているに違いない。」と勘違いしてしまいます。
それこそ、入会するのも教室を訪れるのも、敷居が高くなって、遠のいてしまいます。
「こちらの教室に入会したいのですが。」といって、決心して、やっと折角、見学にいらっしゃた方が、「こんなに高いレベルには、やっぱり、ついて行けない。」と恐れをなして、入会を諦めてしまうこともあります。
どなたでも、ご入会出来る教室なのに、「あの教室には、入会するのに、難しい試験と厳しい面接があって、それに合格しないと入れない。」などという風評が流れてしまい、大変困ったこともあります。
教室のご父兄の方が「芦塚音楽研究所の教室に行っている。」と友達に言うと、「えっ!!あんな厳しい教室に通っているの?大変ね。」と言われてしまった、というお話を聞いた事もあります。
このように、「音楽の演奏の水準を高く上げて行くという事と、生徒が、日常的に無理なく、音楽と付き合って行ける、なんて言う事は有り得ないし、レベルが高いのに楽しい教室なんて有り得ない!」 というのが、いまだに一般に根強く浸透している日本のお稽古事の定説なのです。
「音楽が好きになって、楽しく先生がレッスンをして、しかも生徒はどんどん上達する」。
こんな、有り得ない事が、有り得るのは、どうしてなのでしょうか?
芦塚音楽研究所も、所詮は「巷の音楽教室」に過ぎません。
教室に入会して来る生徒の大半(殆ど)が、音楽は趣味で、勉強がメインの生徒達です。
そこの所は、音楽大学の先生達が指導されている生徒さん達とは大きな違いです。
音楽大学の先生に師事する生徒さんは、まず最初からプロ狙いの生徒さんで、どんなに厳しいレッスンでも、無理難題の課題でもこなそうとする気概や気迫に溢れた生徒や親御さんの集まりなのですから。
私達の教室の生徒の大半は、勉強がメインで、音楽は単なる楽しみに過ぎないのですから、そこで一般の音楽教室の先生のように幾ら音楽を厳しく、一生懸命、教えようと思っても、一生懸命になり過ぎて、厳しく教えれば、教える程、子供達が音楽嫌いになってしまっては、それこそ、主客転倒も甚だしい結果になりますよね。 次ページ