書かれた音符と演奏
日本では、楽器を学ぶ時には、auftakt等の非常に細かい音符も含めて、常に非常に正確なrhythmで演奏するように、要求される事が普通であろう。
というか、「音符の長さを守らない演奏が認められる」、と言う事がある・・という事を言ったりするとそれこそ、皆パニックを起こしてしまう事であろう。
Melodieをvibratoさせたり、一つの音をcrescendo、decrescendoする事さえ出来ないピアノという楽器ですら、ピアノの名手であるchopin達は声楽家のようにピアノで歌う事を要求していたのはよく知られている事である。
しかし、勘違いをされてしまうと困る事は、Chopin達のrubatoは、厳密に計算されたtempoの揺らしであって、情緒的感情的な揺らしではない。
MazurkaやPolonaiseには、「こう演奏しなければならない」という民族音楽上の不文律がある。
決して、楽譜通りに演奏してはいけないのだよ。
これらの話は決してChopin等のロマン派の作曲家に対してだけではなく、且つ又、民族音楽に属する舞曲等の場合のみの話ではない。
baroque時代や古典派の時代にはその時代特有の奏法がある。
それはHaydnやMozartのような特別な作曲家特有の話という事ではなく、その当時の全ての作曲家の共通認識であるのだ。
つまり、楽譜でそう書かれていたとしても、当時の慣習的に「そう弾かれなければならない」という約束事が、あったわけで、その多くが今日では全く無視されたまま、演奏されている。
その例を、全て語り尽くす事は不可能だし、無駄な努力なので、今回はHaydnのcelloconcerto、C Durの1楽章について、のみ話を進める事にする。
その前提となるのは 、HaydnやMozartの時代、或いはBeethovenの時代ですら、violinはまだbaroqueviolinであり、baroquebowであり、しかもBeethovenの愛用したPianoも、まだforte-pianoというsingle
actionの楽器であったからであり、当然、演奏には楽器的な制約を受けていたからである。
つまり、baroqueや古典派の演奏上の様式は、楽器の奏法的な制約から来る場合が非常に多いのである。
しかしながら、今現代の人達が普通に思っている、「当時の楽器は、まだ完成途上で、楽器が未発達で未成熟なので、今日の演奏の方が、より優れている」 という考え方は、かなり穿った考え方であり、当時の演奏を知らない無知の上の誤った考え方に過ぎないのである。
この話は、私が常日頃繰り返して述べている事であり、楽器の発達の歴史は、より多くの大衆に音楽を聴かせるための発達であり、それによって、楽器が改良された事によって、反対に失われた物が多くある事を忘れてはいけない。
baroqueや古典派の音楽の特徴でもある、美しい純正調の響きや柔らかで優雅な舞曲の演奏のstyleは、楽器の改良と伴に失なわれてしまって、力強い豊かな音を得た反面に、ガサツで人を威圧する残虐で押しつぶされた強い音に変わってしまっている事を忘れてはならない。
また、この話は楽器の特性にその原因があるという場合に留まらない。
音楽自体も、フル編成のorchestraが音楽の主流となったり、Pianoで平均律の調律に慣れ親しんでいると、 教室でVivaldi等のbaroqueの作曲家達の音楽を、普段、純正の響きで練習していると、時たまに、平均律の単なるドミソの長三和音を演奏しなければならない時が出て来た時に、堪らなく不協和に聞こえてしまうのだ。
つまり、現代人はその不協和な響きが不協和に聞こえないのだよね。
そういった、時代の流れで忘れ去られた、当時の音楽の美しさや優美さが、間違えた思い込み、(常に「自分が正しい」と思い込むのは人の常なのだが、) そういった、思い込みで、imageが先行した誤った演奏や教育が普通に行われているのだ。
Haydnのconcertoやsymphonyが、現代のorchestraで、現代の解釈と奏法で、演奏される事を、否定する気は毛頭無いのだが、正しい時代考証をすると・・・という、軽い意味での考察である。
私のような、熱烈な時代劇フアンという立場で、テレビやビデオを見ると、江戸時代の庶民の生活や行動、男女や、階級の人との交わりが余りにも現代的に過ぎて、時々、分かってはいるのだが、納得いかない事がある。
現代を江戸時代に置き換えて、ドラマ化しているのに過ぎない、という事は、重々、分かっているのではあるのだが、それでも、「そこまでは無いだろう!」と、時代考証の曲解に、苦しむ事がある
。
しかし、NHKの大河ドラマのように、余りにも忠実に時代考証がなされてしまうと、逆に、夢もチボーもなくなってしまう事もあるし、・・・・人間は勝手な者であるな。
しかし、大作曲家のHaydn先生なのだから、世界的な指揮者なら、ある程度は時代考証もしろよ!!
ドイツ人やオーストリアの人達が見たら、中国人の演じた日本のドラマのように見えるぞなもし!!