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しかし、RameauやBachの時代には、作曲技法というのは、確立していて、和声上の間違いというのも、意識をしてワザと間違いを犯した譜面と、無意識に犯した間違いは、明らかにその違いは分かります。そこは、作曲家は、餅は餅屋です。
他の人達の犯した間違いは手に取るように、分かるのです。
それが、proとしての、技(わざ)です。
proにはproの業(わざ)があるので、その業(わざ)を知らなければproになれる事はないのです。


この問題は、そういった一般的なお話ではなく、学術的には昔の作曲者の書いた楽譜を出版する時に、何時も起こる問題なのです。
結論的に言うと、作曲者の誤りはそのままにして、それに対して解説を加えたものが、UrtextAusgabe(原典版)で、それ以外は全て誰かの手による校訂版になるのです。

しかし、その作曲者の楽譜を忠実に再現したはずのUrtextAusgabeであったとしても、その手書きの譜面をどう読むか・・という事で、譜面が変わってきてしまうのです。
だから私の場合には、可能な限りはfacsimile版(写真版)を使用します。
それでもMozart等の作曲家は作曲した時の楽譜であっても、repriseを省略して書いたりする事がよくあります。
つなぎのpassageである転調楽節を伴うpassageでは、その音がそのままであるのか、それとも#されなければならないのか?音楽理論的にも判断の付き兼ねる事もよくあります。

facsimile版でも解決されないのですよ。

それでも、作曲者の直筆の譜面が残っている場合は、luckyなのです。
それは譜面は直筆の残っていない作品の方が多いからです。運良く直筆の譜面が残っていたとしても、そのPageが何箇所か失われて欠落してしまっています。
教室で使用している出版されているVivaldiの作品の多くは、そういった憂き目を負っているので、明らかに校訂者による間違いと思われるpassageがある箇所も数多く見受けられます。

このお話も詳しく説明しようとすると、途轍もなく長い一つの論文になってしまうので、別のPageを参考にして下さい。

参考までに: Vivaldi d moll celloconcerto楽譜の誤りと考察





proと呼ばれる限り、例え作曲家自身の誤りであったとしても、和声法上の誤りをそのままにしておく事は許されません。
それはproとamateurの立場の違いです。

amateurの音楽が歴史的に残って行くという事はないのですよ。
社会史として残って行く事は勿論、あるとは思います。

17歳の少女の作曲した「乙女の祈り」が、一瞬で世界を席巻した・・という話もあります。
しかし、それはあくまで、大衆音楽というgenreの音楽として・・・であって、Classicとしての音楽・・と、いう意味ではないのです。

具体的に言うとすれば、今テレビで華やかに持て囃されている若い女の子達の作曲した曲でも、テレビの放送に乗せるには、多くのproの手を経て、やっと放送コードに乗る事が出来るのです。
先ずはarrangerの手で編曲されます。

それからbackのorchestraやchorus等、のproの手によって、放送に耐え得る水準になるのです。

超、有名な若い女の子達のユニットの曲の、未だ売れなかった頃のoriginalの録音を聞く事が時々あります。
それは、確かにキラリと光るものがありますが、原石にしか過ぎません。その原石がダイヤモンドである事を見抜く力のある人は、また特別な能力を持つprofessionalなのですよ。

勿論、Classicという事でなければ、そういったビーダーマイヤー時代の作品もあるにはあるのですが、それは歴史には残って行かない一過性のものです。ビーダーマイヤー時代という歴史上で、社会史として残る事はある・・・というお話は上記にしました。
そういうものが好きな人達も居ますけれど、それは趣味の問題なので、話は別次元のお話です。

私がそういうお話をすると、
「芦塚先生はpopularの音楽を蔑視している。」とか、言われてしまいます。
「そうじゃないよ!」と言っても、中々分かって貰えません。

音楽というgenreの時だけ、一般の人達は混同してしまいます。
一般の人達でも、分かり易いgenreで、説明するとある程度は理解して貰えるようです。

それは、
芸術の音楽を出版刊行物と比較することです。
私にとっては、音楽とは、宗教のようなものです。
Bachの平均律を引き合いに出さなくても、BachはBibleのようなものなのです。
だから、芸術音楽は私にとっては、哲学書であり、宗教書なのです。
BrucknerのSymphonieは、中世の騎士物語かもしれません。
BrahmsのSymphonieは一代叙事詩かもしれません。
jazzは、thrillingな探偵物語で、newmusicは、肩の凝らない週刊誌のようなものでしょう。
rapは、時事の新聞のようなものかもしれません。


という事で、古典の名作のお話をしている時に、
「私は週刊誌しか読みません。」とか言われても、お話にならないのです。

つい先日も、生徒が学校の先生からどんな小説を読んだか?という質問をされて、
「赤川次郎の・・・」とか、「***」とかの、当世風の子供用の作品を並べて、答えたそうだけれど、私が中、校生の時には、そんな子供を対象にした文芸作品を読んだ事はなかったので、私の子供時代に読んだ作品とは、えらい違いですわな。

AKBとBeethovenを、同じ次元で語られても、返事に困ってしまうのですよ。
「AKBが好きか??」と聞かれても、「そりゃあ、どこのスパイ組織だ??」と答える他はない。

「えっっ??そりゃ、KGBだって??」

よく、Genzmer先生も言っていたけれど、
「Das ist Geschmacksache!」(そやぁ、趣味の問題だよ!)
趣味の、好きか嫌いかの問題に、答える事は出来ないのでね。


芦塚陽二version第一校訂version

1Pageのみ・・・以下略





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本来的には、牧野先生の注文は、ここまでで、この話の、「取り敢えず」は、これで終わるはずだったのですが、私としては、自分の作ったkadenzに、色々と納得がいかない所もあったので、「今回のひかりちゃん用」という意味ではなく、もう少しtechnicalなkadenzを作曲してしまいました。

そうしたら,・・・な・・、な・・・、何とYou Tubeのpianistが書いたoriginalのkadenzよりも、難しいkadenzになってしまいました。

ひかりちゃんに、「参考までに・・」という事で、梨紗ちゃんがYou Tubeから書き採って、間違いを訂正した譜面と、私の作った難しい方のkadenzも参考までに・・・という事で、プレゼントしたのですが、ひかりちゃんは、私の作曲した
「この難しい方の楽譜に、挑戦したい!」という事だそうです。
それで、
「発表会までに、間に合わなかったら、簡単な方で演奏する。」という事です・・・。

それはそれで、挑戦する事はとても良いと思います。
結構、高級難度なのにね〜ぇ??

うちの教室は、年齢が下がれば下がる程、powerfulで挑戦的なのよね〜ぇ??

お姉さん達ももう少し、意識があればね〜ぇ??
私が高校生の時、或いは、大学生の時に、自分の求める人生に判断をし、結論を出そうと思ったのは、
「33歳までに・・将来が見えなかったら」・・・という事だったのだけどね??

兎に角、誰に何を言われようとも、33歳までは死に物狂いで、挑戦してみようと思ったのだよ。
でも、17歳で音楽を始めて、27歳の時に、世界の作曲のコンクールで一位に入賞するまでには、10年しか掛かっていません。
それには、たった一つの自分のルールを守っただけなのですよ。
それは、
「同じ注意は二度と受けない!」という自分のprideの問題で、それを座右の銘と思った事はないのですがね。

それぞれのkadenzの演奏時間は、簡単な方のversion(簡単・・と言っても、あくまでも、concertoprogramの世界の話なので、Czernyに換算すると、40番の後半から50番ぐらいのlevelになります。だから、簡単・・ではなくshortversionとlongversionと言うべきですよね。)が1:48秒、難しい方のversion、所謂、longversionで2:45なので結構、演奏時間的には違うのですが、多分、聞いている人はどこが付け加えられたのか?どのようにPageが増やされたのか??・・は分からないと思いますよ。

芦塚陽二violin、第二校訂version

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