一般的な教室の評価基準では、先生が、優しくって、叱る事のない楽しい音楽教室は、レベルが低く、そんな教室に行ったら、いつまでも上達する事はない。
将来、音大受験や海外留学を希望するのならば、厳しい、ガミガミと怒鳴りながら指導する先生の教室の方が、レベルが高い教育を受けられるのだ、と言われています。
一時期、生徒達がこぞって、コンクールを受けて、全国大会で好成績を上げた事がありました。
その当時の教室の生徒達のコンクール歴を見て、「あの教室は入会するにも試験があって、先生達の指導も、とても厳しいので、普通の人達はとても入れない教室だ。」という噂が広まってしまい、一般の生徒達が教室に入会しなくなって、困ったことがあります。
優しくて楽しいことと、技術レベルが高い、ということは、通常の一般的な社会通念では両立しないのです。
その考え方の誤りは、「厳しさ」というものを取り違えている(はき違えている)事に起因しています。
あるパパさんが、「私の子供には、発表会という一つの目標に向けて、厳しさや辛さに耐えて努力をして、そこで達成するという達成感を与えて欲しい。」と私に言って来ました。
一見すると、慈母の愛と慈父の愛で、厳しい愛も有りか??と思いがちなのですが、しかし、根本が間違っているのですよ。
獅子が、千尋の谷に我が子を落とすのでも、いつでも、そこに千尋の谷があれば落とす分けではありません。そこには、碎啄という、ちゃんとしたtimingがあるのですよ。
芦塚メトードでは、先ず、子供と先生の信頼関係を築きます。(大人の場合には、その信頼は権威なのでしょうが、子供に権威は使えません。権威が有効になるのは、小学校の上級からですからね。)
その信頼が築けたら、次に、音楽に対しての自信を付けて行きます。
音楽に自信が付くと、自主性が出て、それこそ免疫力も上がります。私達が子供達から最も見たかった、「目」が輝いて来るのですよ。
本当の教育とは、ここまでで良いのです。
しかし、子供達は、本当に自分の生き場所を見つけると、一生をそこで生きて行きたいと願うものです。
私が直接指導した、近所の子供達ですが、その大半の生徒達は、今、音楽社会で活躍しています。
不思議だ!!
皆、最初は趣味に過ぎなかったのにね。
つまり、音楽の水準が上がって、その目指すNiveauが上がると、自然に、自分に対する厳しさが目覚めて来るのですよ。
proを目指して、子供の内から頑張って来た生徒は、とても厳しいのです。
だって、長い曲を何曲も演奏しても、一つのポロミスもしないのだから・・・・!!
ピアノを離れたら、普通の優しい女の子です。
ちっとも、威張った、高圧的な所はないのですよ。
日本での「厳しさ」とは、ただ単にこうるさい、ヒステリックに怒鳴る、威圧する、冷たく突き放す・・・・そういった態度のことを言っているにすぎません。
これも、「机に向かって」のお話と同じで、一般的な評価基準では、「厳しい」=「えらい先生」=「レベルが高い」と、いうふうに、安直に考える傾向が強いのです。
つまり、ブランドに群がる、自分の判断基準のない人が、外面で判断をしようとするからなのです。
しかし、本当の「厳しさ」とは、そういうものではないのです。
私が生徒の指導にあたっているときに、側で見ていたお母様が、「芦塚先生ってすごく厳しいのね。」と、子供に言いました。
つまり、そのお母様は、少し音楽の事が分かって、私の指導内容を見て、「子供に出来る範囲を越しているのでは?」と思ったのです。
ところが母親からそういう風に尋ねられた子供の方はキョトンとして、不思議そうに、「何故???」「芦塚先生はとっても優しいよ。」と返して来ました。
母親はその受けているレッスンの内容を見て「厳しい」と捉えるのに対して、子供はその課題の与え方や人当たりの柔らかさによって優しいと捉えます。
ちょうど、口に苦い良薬を、砂糖やチョコレートや色々な調味料を加えることによって、とてもおいしいお菓子のようにして子供に与えているのと似ています。
この調味料にあたるカリキュラムがあるからこそ「優しい」「楽しい」ということと、技術レベルを上げることが両立するのです。
ところが、それは通常ではあり得ないことなので、一般の方が教室のイメージをどうとらえていいのかとても分かりにくいということが言えます。
お母様が心配した「子供の能力を超えて・・」という心配は徒労です。
一般的には難しい技術であっても、指導の仕方や、材料の与え方で、子供達でも、無理なく、簡単にこなす事が出来るからです。
それを普通は、カリキュラムと呼ぶのです。
当教室では、一番最初の初歩の段階から基本をしっかりと教えます。
楽器の持ち万、座り方、指のタッチ,弓の持ち方・‥等に対する細かい指導だけではなく、レッスンの挨拶等のしつけ(躾)に関する部分も細かく指導しています。
orchestraや室内楽の練習の合間の「お茶菓子タイム」も、子供同士の思いやり教育やリーダー教育であり、皆でお茶をするマナーの一番最初の練習でもあります。
驚く事に今の子供達は、お菓子がそこにあったら、好きなお菓子を皆取ろうとします。
或いは、大皿から直接お菓子を取って食べようとする子供もいます。
テーブルに両肘を付いて、食べる子供もいます。
もっと、重大な事は、皆の準備が出来ていないのに、さっさと食べだす子供もいるのです。
学校では、教えないのかな??
初めてお茶菓子タイムに参加する子供がいる時には、先輩諸氏がお茶菓子タイムのマナー(ルール=約束事)を説明します。
最初の間は、すぐに忘れてしまって、失敗してしまいます。
でも、教室では、すぐに先輩が注意をしてくれるので、1月も経たない間に、(でもAオケなら、一月は1回だけだよね?)ちゃんと出来るようになります。
驚いた事に、日フィルの会員の方達のパーティーに呼ばれて行ったら、綺麗な衣装に身を固めた上品そうなおばさん達が、同じように、お皿に目一杯、好きなお菓子や食べ物を取って、アッと言う間に、テーブルから食べ物が無くなってしまったのですよ。
みっともない話です。
きっとこの人達は、音楽が好きではなくって、ステータスとして来ているのだろうな??と、思ってしまいました。
私も音楽家なのだから、clientは大切にしなければ、とは思うのですがね。所詮は演奏家ではないのでね。
これらのことを初歩の段階で指導する為には、インストラクターはその内容だけではなく、指導法や楽曲研究、心理学などを総合して勉強しなければなりません。
これまでにお話ししてきた記憶法についても、これらはHow toにしかすぎません。
how-toから、如何にちゃんとした子供達が受け入れやすいmenuに切り替えて行くかも、カリキュラムに詳しく指導されているのです。
そのhow-toが、先生の手によって、如何にして子供たちに、「楽しく」「分かりやすく」「ゲーム感覚で」、しかもその指導内容に関しては一切の妥協を許さずに習得させるか・・・、という絶対条件があるのです。
色々な楽器の奏法の技術も同様で、楽しく無駄なく習得する方法を何種類も作って子供に与えることによって初めて「優しく」しかも技術を上げるということを両立させることができるのです。
前述の漢字の記憶のことにしても、どうして学校の先生が20個書くことをやめさせることができないのだと思いますか?
それはただ単に書く個数を1個にするだけでは、それを覚えるには至らないし、1個書くだけで覚えられるということが現実に起こるということが信じられないからなのです。
それは、1回で覚えるためのゲームを考えたり、1つだけ書くことに対する価値づけを子供たちに話したり、覚えることの楽しみ方を教えたり・・・といったマニュアル的な操作が伴って初めて実現することなのです。
一見楽しく遊んでいるように見えて最大の効果を上げることができるのは、システムとマニアル、そしてそれを習得しようとするインストラクターの努力があってこそなのです。
このシステムをもってすれば、(親が望むのならば)楽しくレッスンを受けながらも音大や留学、コンクールレベルまでに上達させることは可能です。
「可能」・・という曖昧な表現をするのは、私達の指導に自信がない・・という意味ではなく、・・・上級生になればなる程、自分が(或いは子供が)上達したのは、子供の能力によるものであって、巷の音楽教室の先生に習うよりは、権威のある音楽大学の教授(或いは、proの演奏家、留学して外国で・・)に習った方が、もっと良い。その方が、もっと楽にちゃんと伸びるはずだ!!・・と考えて、私達の教室を去って、他の先生に代わってしまう人達が多いからです。
教室をやめて、他の先生の元で指導を受けて、夢が達成出来なかったとしても、それは教室のせいではないのだけど、結構、なんで引き止めてくれなかったの?!!って、根に持たれる事が多いのよね??
そんな事言われてもね。
自分で信念を持って、教室を去ったのでしょう??
知るか!!
新しい恋人が出来て、さっさと元の旦那を振って、暮らして見たのだが、一緒に生活をして見ると、元の旦那の方が良かった・・と、未練がましく、approachして来る女性を時々見かけるのだが、みっともないよね。
それが、いつの間にか、すり替えの法則で、自分が教室に追い出された事になっている。
一度もそんな事は、した事はないのにね。
子供は「楽しいから」「好きだから」という事さえ、あれば、どんなに辛い事でも、乗り越えていけます。
楽しくて好きで、どんなに辛くても(それを辛いと感じる事はないのです。)頑張れる、こんなにすばらしい理想の教育をする教室は、他にはないのです。
子供の教育が一番難しい時期は、幼児や小学校低学年ではなく、むしろ小学校5、6年生から高校生になるまでの時期です。
男の子の場合には基本的には一貫したシステムで教育できますが、女の子の場合は大変難しいのです。
小学校5,6年生までは通常の教育システムで育てることができますが、6年生から中学1年生にかけて体の成長に伴い、思春期挫折症候群という状態に入ります。
体の成長の為にエネルギーの大半が使われることによって、学校の成績や記憶力、体力が、通常の60%〜50%くらいにまでに落ちます。
もちろん、ヴァイオリンやピアノのレッスンを受けていても、なかなか身に入らないという症状がおこります。
学校では、沢山の生徒たちを一同に会して指導するので、2,3名の生徒がその状態に陥っても、それに合わせてカリキュラムを変更することはできませんが、私たちの教室では、マンツーマンの指導ですので、その子の能力の低下に合わせて、本人にも周りにも気づかれないようにレベルダウンを図ります。
この時期は、半年から約1年程度続きます。
その時期が終わると体調は急激に復調してきて、子供たちは自分が何でもできるような錯覚に陥ります。
又、ちょうどその時期はギャングエイジとも言われ、友達や周囲に目がいく時期ですので色々なことをやりたがる時期でもあります。
しかし、出発点は能力が60%に落ちたところからのものなので、この時期に色々なことをさせてしまうと、その子の成績や能力は60%のままに確定してしまうのです。
ですからこの時期には、5,6年生までに積み上げたものを、元のレベルまで戻すことに専念させると、とても優れた資質を育て上げることができます。
中学2年生〜3年生、高校1年生くらいまでの間の女の子は異性に関心が移ります。
体は成熟していても精神的には未発達の時期なので、そこで大人の目が届かないと、大変なことにもなる危険な年齢でもあります。
高校1年の夏噴から2年の夏ごろにかけてやっと精神的にも分別のある大人に成長します。
進学や一生の色々なことも自分の力で判断が出来、又、周りの批判なども正しくできるようになります。
こういった内容は、「思春期の挫折」という講座や色々な講座で詳しく説明してありますので、またの機会にパンフレットを配ることにします。
一 静 庵 庵 主 拝
江古田の寓居にて (2002年3月15日改訂)
文学型記憶とパターン認識型記憶
人間の記憶の方法には、「文学型」もしくは「日本型」と、「パターン認識型」の2種類があります。
前者は、文章を覚えるように、一節一節を一つの流れとして覚えていく方法で、後者は図形的に絵を見て覚えるような方法です。
私どもが研究し、子供たちに指導しているカリキュラには、この後者の「パターン認識型」を応用しています。
音楽は一見順に流れを追っていくお経のような要素が強いように思われがちですが、実はそうではないのです。
何度もレコードを聴いて真似したり、繰り返し何度も練習して指だけで覚えていく「文学型記憶法」は、その中の一つを忘れてしまうと、後の残りの音符が全く思い出せないという欠点をもっています。
文章等の記憶も同じです。
たった一つの簡単な文章の、なにがしかの単語が出てこなかったばかりに、残りの膨大な文章が全く思い出せなくなるという事があります。
文学型記憶によって覚えたものは、理解をするにしても、理解をしたものを修正していくにしても、非常に大きな苦労を伴います。
例えば「25小節日の3拍日の音が違っていましたよ。」と注意しても、曲の最初から弾いていかない限り、25小節目を思い出すことができないからです。
次第に先生からの注意が聞けなくなり、自己中心的に凝り固まりやすい、という非常に大きな欠点を持っています。
それに対して、いわゆる「映像認識型記憶法」というものは、どのようなセンテンスが仮に欠落しても、次の文章へ、次のパッセージヘ、次の記憶へ入っていく事が出来る、という特徴を持っています。
つまり、欠落した部分はそのまま空白になって、その次の記憶に飛び込める、という長所があるのです。
理解力の良し悪しや判断力の良し悪しというのは、多分にこの映像認識型記憶によるものがより優れていています。
映像認識型記憶法というのは、音楽や勉強だけに留まらず、日常の記憶にも頭脳のトレーニングを必然的に経験していくので、老人ボケなどになりにくい、というメリットも持っています。
以前、他の教室から替わってきた生徒で、文学的記憶法を取っている子供や、ある程度年齢がいった中、高生ぐらいの生徒達に、実験的にパターン認識型の記憶法にチェンジするいろいろなカリキュラムを試みたことがあります。
その一つは、暗譜の問題です。
同じパターンから次のパターンに移るときに、どの音をきっかけに次のパターンに移るかという意識をもてるようにしたり、絵を一瞬だけ見て覚えるなど、図形的に記憶をするトレーニングをしてみました。その結果、学校の成績が顕著に上がってくるといった成果がみられました。
記憶法を私が試みるきっかけになったのは、俸大な昔の作曲家達(いわゆる天才と呼ばれる人達)が、記憶に関して非常に特徴のある記憶の仕方をするということを知ったことでした。
それは、演奏時間が3時間にもなるようなシンフォニーの全楽章を、瞬間的に思い出す事が出来る、という特徴です。
膨大な情報を一瞬で覚える(思い出す)には、映像的記憶でしかあり得ないことだと気づいたわけです。
よく教育の現場では、「しっかりと覚えなさい。」 とか「何度も書いて覚えなさい。」といったことが言われています。
これは「覚える」ということを一生懸命にやらせているわけですが、記憶のメカニズムを分析したときには、これがいかに無駄なことであるかがわかります。
私共のメソード(カリキュラム)で教育心理学の研究や頭脳のメカニズムから記憶の方法をあみだしています。
それは、儒教型の覚え方とは真逆の、「覚えることに時間をかけてはいけない。」 という事に集約出来ます。
「記憶」とは、「覚える」のではなく、「思い出す」ものであるからなのです。
「覚える」ことを一生懸命やっても、それは無駄な事なのです。
大切なのは「思い出す」訓練なのです。
でも、この事は、私が最初に発見した分けではありません。
軍事下という、異常事態では、当然、平常時には考えられない、常識を覆した能力開発が行なわれます。
そこでは、私が開発したmethodeと同じ能力の開発が行われていました。
人の脳について、いくつかのおもしろい事実があります。
実際の例を、軍事下のスパイ養成学校であった陸軍中野学校でのお話を紹介しましょう。
これは、陸軍中野学校で実際に行われていた教育ですが、軍人やスパイなどを養成するのに、記憶に関する厳しい訓練が行われていました。
それは、まず、2〜3時間街を歩かせた後、「黒い帽子をかぶった人とすれちがったはずだけど、その人の人相、服装、すれ違った時間を答えなさい。」という質問をする、といったものです。
答えられなければ厳しい罰があたえられました。
この方法は、記憶しようとして覚えるのではなく、ただ漠然と目の前で起こったことを、「思い出す」訓練なのです。
その前提となるのは、人間は漠然と見たものでも、漫然と見たものでも、記憶をしている、という前提です。
潜在意識の中には、目で見たものは全てインプットされていて、それを潜在意識の中から引き出す訓練をしているわけです
陸軍中野学校では、絶対音感訓練も行われていました。
12の音名を日本のカタカナに置き換えて、パとかチとかで、黒鍵を表しました。高校時代にその教則本を手に入れましたが、基本は儒教型の訓練なので、辛い、厳しい割には、身に着かないのですよ。
その教育は、高度が高過ぎて飛行機が見えなくても、その音で、機種と高度を判断する・・という訓練でした。
そのための影絵のような飛行機の図鑑もありました。
記憶だけでなく、学習するということはなんでもそうですが、最初の1曲目を覚えるのは大変です。
しかしそれを乗り越えてしまうと憶えるのが習慣になり、楽に簡単になります。
他の先生の生徒のお話なのですが、「日本の権威あるコンクールを初めて受けた生徒が「今回こんなに大変だったのに、もっと上をめざすとしたらもっと大変だからもうやめたい」と言っている」、とその先生から相談を受けました。
その生徒の悩みは、果たして正しいのでしょうかね?
私がその先生にadviceをしたお話をします。
その生徒が、同じコンクールを、次に受けるときにはそれまでの実力の上につみあげればよいのだから倍たいへんになるということはないのですよ。
今回1つのことを習得するのに大変苦労したとしても、次回はそれはもう身についていることなのでもっと楽に出来るはずです。
習得していけば逆に楽にこなせるようになって行くのです。
記憶力も同じです。
さいしょAのことを覚えるのに10のエネルギーが必要だったとしても、次に憶える時には、半分の5のエネルギーで済ます。
だから同じエネルギーで、倍の量が、覚えられるのです。
そしてそれに習慣性がつけば、もっと楽になり、なにもしなくても頭に入っている(いつでも引き出せる)という状態になるのです。
但し、このお話は、教室の場合であって、正しい習い方をしている場合にのみに有効であるお話です。その相談をしてくれた先生が、どういった指導をしているのかは、見た事がありませんので、分かりません。
若し、誤った習い方をしている場合には、技術は積み上げが効きません。
その都度、最初からのやり直しの努力なのです。
ですから、その場合には、その生徒の悩みは正しいのです。
コンクールなんか、サッサかやめて、ついでにその教室も一日も早くやめて、うちにいらっしゃい!!
アハッ!
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