父兄の間からは、そういった言葉が聞こえて来そうですよね??
これも、日常の生活を正せば、音楽は上達する・・という芦塚メトードの一つなのですよ。
methodeというのは、生き方の話なのですがね。
モーツァルトは、一度楽譜を見ただけで覚えてしまったという。
しかし、モーツアルトが曲を、もし曲の最初から順番に音を頭の中で歌いながら音符を目で追っていたとしたら、曲を聴くだけの時間が必要となるので、パッと見ただけで覚えられるはずがない。
ましてや、指使いや練習番号等は、orchestraの曲なんか、覚えられる分けはないよね。
それにorchestraのcelloやKontrabassのpartは、同じ音が続くだけで、特徴が全くないので覚えられる分けはなのですよ。
でも、教室のcello、Kontrabassの子供達は問題なく覚えるし、私は「*小節目から〜」と言っても、一瞬で入って来ますよ。
右の楽譜は、こんかい(15年の4月の発表会)のVivaldiのviolinconcertoのOp.WNr.2のT楽章のcelloのpart譜の1Page目の一部分です。
Beethovenの「田園」交響曲に至っては、同じ音型が、何十小節も続きます。
多分、それをいちいち数えているオケの演奏者はいないとは思いますがね。
「87、88,89.・・・」「ウン??今、何刻だ??」
じぁあ、モーツァルトはどうやって覚えたんだろうね。
それは、写真のように楽譜を頭の中に写すという覚え万なんだよ。
正に1ページ或いは見開きで2ページを1ビットとして覚えられたってわけだ。
いや、一楽章が1ビットだったのかもしれない。
そうでなければ一瞬のうちに曲を覚えるなんてことできるわけがないからね。
では、我々常人がそのような覚え方をマスターするにはどうしたらいいか。
よし、じゃあ実際に今やってみようか。
楽譜を開いてみよう。
最初のページを開いて1秒だけ見る。
はい、写真を撮ります。カシャツ!!
はい楽譜を閉じて。目をつぶって今の楽譜の映像が頑に浮かぶかな?
浮かんでこないところがあるでしょ。
ぼや−つてしていて見えてこないところ。
そこが、うる覚えのところだよね。
じゃあ、今度はそのうる覚えのところだけを、1秒間見る。
見るのは1秒だけ。写真を撮るみたいに楽譜を頑の中にカシャッて写してしまえばいい。
はい、カシャッ。
じゃあ目をつぶって。こうやって何度か繰り返すんだよ。
それでは質問です。
ではAちゃん。
2段目の3小節目は何の音だった?
「エーツ!わかんない。そういう風に聞かれるの−?」
そうだよ。写真に撮るみたいに覚えるわけだから。
じゃあ次、Bちゃん。下から3段目の2小節目は?
「F#・!!」
はい、正解!!
じゃあこの覚え方で全部覚えてくること。
宿題。2週間後に同じように質問をしますので、ちゃんと答えられるようにしてくること。
このように写真に撮ったように覚えるやり方は、世界一級の演奏家はみんなやってるね。
例えば、ピアニストが神様のように尊敬している演奏家であるウィルヘルム・ケンプ先生のお話なのですが、ある時ケンプ先生が日本に演奏しに来たときのこと。おもしろい話があります。
ピアニストが来日すると、大抵は日本中をまわって演奏会をするんだけどね。
そのときもケンプ先生は、四国に演奏会をする為に、フェリーに乗って移動していたんだ。
四国についたらその日の晩に演奏会をすることになっていた。
で、ある人(昔の武蔵野音楽大学の学長先生なのだけど)がケンプ先生に相談をもちかけてきたのね。
「今日の演奏する曲を変更して、バッハのフーガの技巧を弾いてもらえないでしょうか?」ってね。
その曲は、全部通すと4時間くらいかかるとってもながーい曲なんだけどね。
ケンプ先生もその曲を弾くのは久しぶりだったわけ。
そこでケンプ先生はどうしたかというと、「私に20分だけ時間をください」と言って目をつぶってしまった。
「ねちゃったの?」
いやいや、別にねむかったわけではない。目をつぶって何をしていたか。
その曲を、ずっと思い出していたんだよ。
頭の中でずっとね。
もちろん、手元に楽譜なんかないわけよね。
その曲は弾く予定じゃなかったんだから、楽譜なんて準備してなかったのだよ。
そして、20分したらパッと目をあけて、「はい。分かりました。全部覚えていました。フーガの技巧を弾きましょう。」と返事をしたんだって。
「すっご−い!」
うん。ただね、すごいことはすごいけど、不思議だと思わない?
4時間かかる曲を、なんで20分で思い出せるのかね?
「そ−いえば、そ−だよね」
最初から音を順番に思い出していったら、絶対、4時間かかる・・と思わない?
「うん。」
だから、ケンプ先生の覚え方は、写真にとるような映像の記憶法なんだね。
映像記憶だと、1ページを思い出すのに1秒しかかからない。
そのページの中でもし「うる覚え」のところがあったら、そこをもう一度おもい起こして、合計してもやっぱり20分しかかからないんだよ。
「なるはど。」
この「写真にとるみたいに覚える方法」はね、うちの教室でしか教えてもらえない方法なんだよ。
「えっ? そうなの?」
うん。
だって学校でそんなこと習ったことないでしょ。
塾に行ってる人は?
勉強は、勉強の内容は教えてくれるけどね。
所謂、勉強の仕方、・・・「じゃあ、それをどうやって勉強したらいいか、どうやって覚えたらいいか?」 、それは誰も教えてくれないでしょ??
「うん、うん。そうだね。」
普通、音楽教室とかで教わるのは、沢山練習して覚えるまで何度も繰り返し弾くようにっていう覚え方ね。
だからみんな曲を最初から通して何度も弾く。
この覚え方はね、お経の覚え方とそっくりだね。
だから、1か所でも忘れてしまうと「次はなんだっけ?」というのが思い出せないんだ。
それに、「今25小節日の3拍日の音が違ってたよ。」って注意されても、楽譜を見てもそれがどこなのか分からない。
また最初っから弾いていかないと25小節目を思い出すことができないんだ。
だから、発表会で曲の最初の方で間違えたり忘れちゃったりすると悲惨なことになってしまう。
「そしたらどうするの?」
しょうがない。・・・また最初から弾きなおすしかない。
「また同じところ忘れちゃったら?」
う−ん。
それは、困っちゃうね。
だから、他の教室の発表会なんかを聴きに行くと舞台の上で、とんでもないことが起こっていることがよくある。
止まったり、弾きなおしたり、曲の半分以上ぶっとばしちゃったり・・・・・。
「忘れたら、忘れた小節を飛ばして、その次の小節から入ってくればいい!!」・・っていうのは、うちの教室だから出来る事なんだよ。
そういった、練習は、いつも・・・オーケストラ練習のときに・・・やっているでしょ。
私が、練習番号を言ったら、みんながそこから入って来るし、小節番号でも、scoreの、何ページの何段目と言われても入れるように・・・、とか、楽譜からだけではなく、音からも、ソロのパートを聴いてすぐ入って来るとか、Cembaloのpartを弾いたり、violaのpartを弾いたり、どこからでも、入って来れるようにする練習・・・・、・・・???
あれ??それって練習だと、思っていなかった??
時々、斉藤先生が皆に、「練習番号のイを見て、」とか言ってしまって、私から怒られていたりするでしょう??「考える時間を与えたり、ヒントを与えたりしたら、methodeにはならない!」って、ね??
もちろん、自分のパート譜にはソロのパートは書いてないけど、それでもソロパートを聴けばどこを弾いているのかすぐ分かっちゃう。
ソリストが間違えて3小節とばしちゃったら、オーケストラも皆で3小節とばす・・・とかも、よくやっていることだよね。
だから本番でソロの子が間違えたりしても、その忘れた拍の分だけ空白にして、拍がずれないようにすぐ入って来れる。
そんな事は、みんなは、「あたりまえだ!」と思ってるかもしれないけど、実はこれ、すごいことなのよ。
それとか、コンマスの「助っ人」練習もあるでしょ。
ソロの子が落ちちゃったら、コンマスの子が忘れた所だけ代わりに弾いてあげて、ソロの子が思い出して入って来たら、コンマスは自分のパートに戻る。
これもね、うちの教室では普通のことだけど、音楽教育の専門家やproの演奏家が見ると、「ぎょっ」としてしまう。
この前のオーケストラの顔合わせのときには先輩のチェロのAくんがおもしろいことをやっていたよね。
顔あわせの時の曲目紹介で、上級生が模範演奏をして聞かせてあげるでしょ。
そのときにたまたまAくんがいたから「この曲は何度も発表会でやっている曲だからAくんも絶対弾いたことがある」と先生たちは思い込んでいて、「模範演奏をするからチェロパート弾いて」と言って弾かせた。
先生たちはAくんが弾いたことのある曲だと思っていたから、楽譜も渡さずに暗譜で弾かせた。
Aくんは何も言わずに暗譜で模範演奏していたんだけど、終わってから「先生、僕、この曲弾いたことありません。」って言うんだよね。
「あれっ?そうだっけ。でも暗譜してたからいいじゃない。」って言って笑ってしまった。
一度も楽譜を見たことがなくても聴いたことがあるというだけで覚えてしまうというのもうちの教室の特徴なんだよ。
初めて映像記憶を教える時に、映像記憶がなんたるか?という事を説明する時に、子供達に「目をつぶってお母さんの顔を思い出せるかい?」と聞きます。殆どの場合、98%ぐらいは、恙無く「思い出せる!」となるのですが、お父さんの顔・・・、お兄ちゃんの顔となると、段々と、悲惨な結果になります。
でも、これは、家庭環境の調査ではないので、そのまま放ったらかしにしておきます。
一般に知られている記憶法もいくつかあります。
その一つに「サブリミナル」というものがあります。
つい最近では、あるテレビ局がオウム真理教の麻原教祖の映像をニュース番組の途中にほんの一瞬割り込ませたということで大問題になりました。
テレビなどの映像は、1秒間に約30コマの映像を送っていますが、そのうちの1コマに全然関係のない映像を割り込ませ、人の潜在意識に記憶させ、無意識のうちにその影響を受けるという効果のことを「サブリミナル効果」と言います。
人間の目には1秒に約240本の操作線が走っています。
人間の目が見た物を認識するには、最短1/60秒が臨界です。
(1/240秒では1本の操作線にしか写らないことになり、認識ができません。)無意識のうちに人に記憶させるには、1/30秒で十分なのです。
アメリカで、サブリミナル効果の実験が行われました。
ある映画館で、普通の映画の映像の間に1コマだけ全くストーリーとは関係の無い映像を割り込ませるというものです。
最初に乾ききった広い砂漠の映像を、しばらくした後に冷たくよく冷えたコカ・コーラの映像をそれぞれ1コマずつ割り込ませました。
映画を見終わったお客さんたちは、喉の渇きを感じ、コカ・コーラを買いに走ったという、アメリカの有名な実験です。
でも、これは嘘だというお話もあります。
そういう風にサブリミナル効果というのは一瞬にして記憶に残すことができるけれど、記憶した本人は覚えたことすら分からないという欠点があります。
だから、ヒットラーのような人がマインドコントロールに使うことはできますが、自分の為の記憶法としてはあまりにも危険が多いのです。
それとよく似た方法で「速読」というのがあります。
本を読むのに順番に読んでいくのではなく、ページをパーッとめくって一瞬だけ見て、それを2〜3回だけやって覚えるというもので、これもサブリミナルと同様に無意識に記憶される記憶法です。
その為、頭には入っていても、本人が自分の意識として自覚することができません。
韓国では20年程前にこの「速読法」が盛んに取り上げられていて、それを日本にも取り入れるべきかどうかという相談を受けたことがあります。(この文章は20年程前の、1990年ぐらいに書かれた文章を校訂したものです。という事で、以下は1975年代の世相のお話を前提としています。)
当時はまだ南北の対立が深刻な時代でした。
そのときに韓国の小、中学生が使っていた「速読法」の教科書を見せていただきましたが、内容的に非常に国民色、軍事色の強いものでした。
私はそれに心を傷め、速読法は国家的な教育方針(文部省のカリキュラム)からは外すことを、文部省の人達に提言しました。
潜在意識に記憶させる記憶法としては、他に催眠学習法というものもあります。
眠るときにテープを聞いて記憶するというものです。
この場合、テープに吹き込まれたその人の読み癖なども全くそのままに記憶され同じになってしまうという欠点があります。
又、覚醒状態から睡眠に移行する中間地点の催眠状態というのはほんの数分しかありません。
その為、市販の催眠学習横というのはほとんど役に立たないのです。
催眠学習を効果的に使用するには、催眠術師の手助けを得るか、もしくは自己催眠法をマスターしてからでなければならないのです。
自己催眠法は、自律神経失調症の人がリハビリに使ったり、スポーツ選手が自分の力を最大限に発揮する為に訓練を受ける、といったことには成果をあげているようです。
それに対してサブリミナルや速読法は、企業のエゴイズムや軍事目的に使われる危険性をはらんでいます。
現に第2次対戦の時に軍事目的として開発された洗脳の手段なのですから。
そのことを私たちは忘れてはならないのです。
記憶とは、「本人の意思をもってなされるべきである」というのが芦塚メトードの基本的な考え方なのです。
正しいシステムを学べば記憶力をつけるということは決して難しいことではありません。
最初に記述したように、記憶力の低下は年齢に関係は無いし、年をとってからでも記憶力を増大させるということは十二分に可能です。
基本的に記憶力というのは、それ自体では学校の成績を上げる以外に何の役に立つものではないのです。
いたずらに計算問題を沢山やったとしても、現に実際の大学入試では電卓使用可のところもあり、辞書の使用を認めている大学も数多くあります。
記憶力や計算力よりも分析力や構成力などを重視する大学が増えてきているのです。
記憶力だけを重視した教育の結果はどうでしょう。
あるテレビ番組で、東大生や京大生を集めて、小学校や中学校の入試の試験問題をやらせるというものがありました。
平均解答率は50%にも達しませんでした。
現役の大学生(しかも日本でトップの)がこの有り様です。
ましてや大学を卒業して10年もたった人たちではどのようなひどい結果になることでしょうか。
英語の教育についても大きな疑問があります。
私が高校生の時にアメリカから交換留学生が来ました。
彼は英語の試験で60点しかとれませんでした。
学年トップの子が80点をとっているにも係わらずです。
彼が言ったことは「アメリカの国語のテストよりも難しかった。」ということです。
ところが、80点をとった学年トップの子は英語を片言もしゃべれないのです。
学習が他の先進国よりも遅れていると思われている東南アジアでは、小学校4、5年生から英語の授業があり、半年もたたないうちにアメリカ人の先生と普通の会話ができるまでに上達しています。
日本では英語の先生でさえ、英会話ができる人は何人いるのでしょかね。
本来の正しい勉強のスタイルとは、前にも述べたように分析力、理解力、構成力、創造力、想像力、閃き・・・等をバランスよく育てるということです。
又、学校教育に望まれるのは、勉強だけではなく、社会性や感受性、おもいやり、責任感・・・・・といった人間性に関することも当然集団教育の中で養われるべきことなのですが、今は望むべくもない状況になってしまいました。
世界の教育スタイルに対して、日本の教育がいかに歪んでいるかということは、これまでに数々の講演や論文で明らかにしてきました。
成績を上げるということは取るに足らないことで、本来的には「何のために、何を、どのようにして学ぶか」ということだけで十分なのです。
やみくもに時間をかけて勉強するのではなく、より少ない時間で効率よく楽しく学習することができれば、理解力、分析力、等が身に付き、おのずと記憶力はついてくるものなのです。
以下には、学校の勉強法について子供たちに話したことをそのままに記します。
直接記憶法とは関係ありませんが、芦塚メトードによる学習法のほんの一部を少しでも、勉強の仕方の参考にしていただければと思い掲載致しました。
勉強法を工夫することによって、成績を上げることができます。
勉強の仕方@
あのね。学校の勉強もね、楽譜の覚え方と同じように時間をかけないでやるんだよ。
ある生徒が教室に入会してきてね。
そのお母さんが「うちの子は学校の成績が悪くて」って言ってたんだけどね。
先生は2つだけそのお母さんにアドバイスをしてあげた。
まず1は、学校でノートをとってはいけません。
「え−? なんで?」
皆は知らないかもしれないけれど、アメリカやヨーロッパの学校では先生がしゃべっているときにノートをとるととても厳しく怒られます。
「え−? ほんとですか? どうして?」
人間というのはね、同時に2つのことに集中するという事は出来ないのだよ。
ノートを書いている時には、理解力や判断力、記憶力などが失われてしまうんだよ。
アメリカやヨーロッパの授業では、「先生の言ったことを生徒がいかにその場で理解出来ているか?」という事が一番にされているんだよ。
だからノートに書かなくても、後でレポートをコピーして渡せばいいし、授業中は先生の話しを集中して聞くことが出来る。
そこには「授業で教わる事は、授業の中で、一回で理解しなければならない。」という前提があるんだよ。
しかし、日本の教育の中には、黒板を写す事のみに重きを置いて、生徒が理解したのかどうかは、どうでも、良い事になってしまっているのだよね。
それじゃあ、勉強とは呼べない。
それでその子にもう一つアドバイスした。
もし、その授業で分からないことがあったら休み時間でもなんでもいいから、先生に聞いて分からないことが1つも無いようにして家に帰る事。
だから、家には絶対に教科書を持って帰らない事。
学校の勉強は学校で全て終わらせて、家ではヴァイオリンの練習に専念する事。
以上のようなことをアドバイスしたんだよ。
それでその生徒は「はい。分かりました。」と言って帰ったんだけど、その子はそれをずっと守って続けたのね。いや〜あ、不思議だ!
そしたら、何と、高校を卒業するまで、常に学年でトップを通したのだよ。
塾にも行かないで、音楽に専念したままでね。
「え−つ。すごい」
先生もね。小学生の高学年の時には、不登校で、学校に行かないで、ワンちゃんを連れて、山に一日中いたのよ。
勿論、当然、成績は中の下!!
中学生になった時に、都会に転校して、誰も、小学生の時のなまけものの私を知らないので、「これはチャンスだ!」と、勉強を始めたのだよ。
このままでは、私の人生は終わってしまうよな??って、自分でも思ったのだよね。
母子家庭だったから、「一日も早く自分で稼げるようにしないとね!」と、思ったのだよ。
親のため・・・ではないよ!自分のために・・だよ!!
今のご時世のように、引き籠もりをしても、親にその経済力はないからね。
親が、医者と再婚したとしても、それは養父なのだから、私の生活の面倒を見てくれる分けはないからね。
養父は所詮は他人なのだからね。後を継いで、医者にならなければ、所詮は他人になってしまう・・という事なのだよ。
小学生の時には、田舎で、野放図に育ったので、勉強の仕方・・何て、誰にも教わらなかったから、自分なりに、子供なりに、色々と工夫をしてね。
勉強よりも、そちらの方が面白かったのだよね。
各教科の得点と、全体の人数からの%や、全体の人数(当時は、終戦直後のベビー・ブーム直前で、1学年500人ぐらいの人数だったのだよ。1クラス50名以上の人数で・・ね??)
だから、成績は500分の何位、という数字。
真ん中から、トップテンに入るのには、1ヶ月も掛からなかったよね。
それからは、中学校時代は、いつも学年トップでね。
勉強が楽しくて楽しくて、しょうがなかったのね。
試験なんかがあるとうれしくなっちゃって、口から歌がこぼれるぐらいで、先生に怒られた事がある。
「そりゃあ、お前は楽しいだろうけれどサ〜ぁ・・・・???」
「あっつ!すんません!!無意識でした。」
・・で、当時は、高校も県で一番の高校に行ったわけ。
経済的な理由でね。
それ以外の私立の高校に行くだけの経済力は無かったからね。
その学校は、当時は、毎年東大に10人も20人も入るっていうすごい進学校でね。
あくまで、当時は・・・ね??
だけどほら。
先生は「とうしても、音楽の方に進みたい!」ってその学校に入っちゃってから決めたのね。
それまでは、母子家庭だから、国立の医大に進学する予定だったから、その高校以外は絶対だったのだけどね。
経済的にも、学力的にも・・ね???
でも、音楽大学には、その高校は向かないよね。勉強onlyの学校だからね。
しかし、音楽大学の入試に、一般教科の教科はないし、それ以外の、作曲の勉強とかピアノの練習とかを、必死にしなくちゃいけない。
でも、だからと言って、幾ら公立だったとしても、高校を留年する分けにはいかない。
母子家庭だからね??
経済的にね??
・・・で、どうしたと思う?
教科書は一度も家に持って帰った事は、なかったね。授業だけはちゃんと、真面目に聞いた。
1年と2年では、学級の入れ替えは無かったので、1,2年生の時には、医進のクラスで、兎に角授業が大変だ。
それで、試験の10分前に友達に「おい。今日の試験はどこがポイントなんだ?」と聞いて教えてもらう。
そして、休み時間の、10分で友達に教わった事を全部覚えてしまう。
それで当時は、県で一番の高校を卒業できちゃったからね。(今は極々、普通の普通高校になってしまったようだけど・・・)
・・それで、家に帰ったら、楽典やらピアノの練習やら音楽の勉強が、やたらと忙しくて、とても時間が全く無かったわけなのよね。
兎に角、忙しかったのだよ。
みんな学校の勉強はどういう風にやってる?
いい勉強の仕方があるんだけどね。
まずなるべく薄〜い問題集を買ってくる。
で、それをざ〜っと、解いてみる。
わからない問題は、そこでは考えないで、悩まないで、ドンドンと、飛ばしてやってしまう。
とにかく時間をかけないで、10分、15分ぐらいでやってしまうのだよ。
それがコツ!!
回答合わせに5分で、合計20分・・、ちょっと掛かり過ぎかな??
15分ぐらいがベストかな??それぐらいが目安なのだよね。
そしたら、その出来なかった問題を別のノートに写すんだ。
そしたら、「出来なかった問題集」ができる。
そして、参考書をみるなり先生に聞くなりしてそのできなかった問題を、兎に角、出来るようにする。
で、またそれをザ〜ッと解いてみる。
そしたら、当然、出来ない問題は、超、減っているよね??
それで、時間内に全部出来るようになるまで、・・・もう問題を覚えてしまうくらいまで、とことんやる。
で、その薄い問題集が全部クリアー出来たら、今度はもう少し厚めの問題集を同じようにやる。
でも、どの問題集も、殆ど問題の内容は、全く同じだから、最初にやった問題集よりも、スラスラできるよね。
また、同じようなprotocolを繰り返して、その問題集が全部終わったらまたもう少し厚いのに挑戦する。
つまり、どんなに問題集が厚くなったとしても、掛かる時間は変わらないのだよ。
これが、私の時短の法則なのだよ。
幾ら厚い問題集でも、掛ける時間は変わらないのだから、楽だよね。
という事で、次には、できなかった問題だけをやればいいのだから、幾ら厚い問題集だとしても、掛かる時間は少なくて、勉強も楽でいいよね。
これを例えば、算数を20分、国語を20分とかやって、全部の問題を、ざ〜っと解くようにすれば、全ての教科がまんべんなく良い成績が取れるのだよ。
これが、私がやった、時短の学習法!!
私は音大に入学して、1年生の時から、外人教授につく事が出来たから、ドイツ語もおぼえなきゃいけなかったね。(1年生の時に、外人教授に付ける生徒は1人だけです。二年次で2人、3年次で3人迄で4年次はありません。当たり前ですがね??当時は、音楽大学の作曲科の生徒は、4年に一人ぐらいだったから、私はその4年目の生徒で、先輩も後輩もいないはずでしたがね。)
「何故、英語じゃあ、ないの??」って??
確かに、Pringsheim先生は、初回のlessonの時に、「君は何語が希望かい??私は、英語、ドイツ語、フランス語で授業する事が可能だけど?」と尋ねられたので、「では、ドイツ語でお願いします!」と答えたのだよ。
だって、最初から留学するつもりだし、ドイツに留学したら、周りの言葉は全部、ドイツ語でしょ。
なら、最初からドイツ語で勉強しておけば、時短でしょう??
・・・で、いよいよ大学を卒業して、ドイツに留学をした時に、学校で受験をするまでの間は、先ず、ドイツ語の語学学校に行ったのよね。
そしたら、不思議な事に、ドイツの語学学校にはドイツ人はいなかったんだよね。
「エッ、どうして・・・・・・?」
あたりまえでしょ。
日本語学校に日本人は行かないでしょ?
「あっ。そうか。」
ドイツ語学校に行ったら、周りにドイツ人がいないんだよね。
友達を作っても、みんな外国人だけ・・なのだよね。
それで2ケ月も通わないで、一月半のコースだけで、やめてしまったわけ。
音楽大学の入試に合格して、先生の授業に行ったら、先生から、同じ質問をされた。
「君は、あまりドイツ語が上手くないようだけど、授業は、英語、フランス語、ドイツ語のどれで、説明を受けたいのかい?」
で、「ドイツ語でお願いします。」と答えて、学校では、ドイツ語で、授業を受けていたんだよ。
「えーっ。じゃあドイツ語どうしたの?」
うん。
そのドイツ人の先生に「きみ、ドイツ語の勉強に、語学学校に行かないのかい??」って聞かれたんだけど、その時に、僕はこう答えたのだよ。
「ドイツ語は、道の上で勉強します。」てね!!
ドイツ人の先生は、その答えが気に入って、ゲラゲラ笑っていたよ。
だって、普通、そんな答えが返って来るとは、思わないからね。
「あ、は、は、は、は!!」
道の上ならドイツ人もいっぱいいるし、ドイツ語をしゃべる機会も沢山あるってわけ。
私は、Munchenに住んでいた時に、都心に住んだ事は一度もありません。
郊外の村に住んで、生活をインジョイしていたのだよ。
だから、困った事に、私のドイツ語は、Bayerischが混じっているので、ちょっと訛っているのだよね。Bayernは、結構訛りの酷い国だからね。
しかし、殆どの日本人は、折角外国に行っても、日本人としか、会話しないし、友達も作らないのだよ。
だから、いつまでも、globalstandardが分からない。
日本人はいつまでも、島国なのだよね。
先生がドイツにいる時にはね、毎日、自分が住んでいた下宿の掃除をしていた。
「掃除をしてくれる係の人がいるのになんで掃除を自分でやってるの?」って、他の音大生に尋ねられたんだけど、掃除をしながら、実は、作曲の構想を練っていたんだよ。
掃除のために掃除をしているのではなくって、作曲の勉強の為に掃除をしていたんだよ。
部屋がだんだん綺麗になって、片づいて行くと、頭の中もすっきりと片づいて来るしね。
人間はね何かしているとき、体を動かしているときに一番いいアイディアが浮かぶんだよ。
ベートーベンもね、作曲をするときは散歩しながらしていたんだよ。
「ず−つと曲のことを考えながら歩いていたら、ふと気づいたら隣の町までいつのまにか来てしまっていた。」っていう話もある。
だからね、勉強はみんな机にむかってやるもんだと思っているかもしれないけど、それは大きな間違い。
勉強で、覚えたり、理解したり、するのは、歩きながらするのが一番いい。
よく「ちゃんと机に向かって勉強しなさい」って言うけど、大抵の人は机に向かっている時間の半分はボーツとして別のことを考えているんじゃないかな?
それでも親というのは子供が机の前に座っていると勉強していると思って安心する。
型を見ているだけで、本当に集中しているのかは、見ようとしないのだよね。
でも、これはとても変な事だと、僕は思うよ。
日本の型だけを真似れば、それでよしとする風潮は、勉強の中にも入り込んでいるのだよ。
日本人の子供達は、問題を解くことが出来ても、その意味は理解出来ていないのだよ。
だから、「それはどうして、そうなるの?」という質問に答えられる子供は非常に少ないのだよ。
日本の役所のように、「時間を掛けて、何もしないのが、一番良い」・・という風潮は、私には許しがたいのだがね。
社会では、波風を立てない事が、一番の理想なので、何もしない事が、最良の策になるのだよ。
しかし、それを、机の前で、座っている事が、自分の勉強なのなら、そんな無駄な時間なら、遊んだ方がもっと、良いに決まっているんじゃないのかな??
私だって、今だって、鬱が酷くて、仕事がはかどらない時には、部屋の整理整頓をしているよ。
だって、いつかは、しなければならない事なのだから、何も出来ない時にそれをやる事が、最大の効率になるでしょう??
頭が使えない時には、体を使えば良いのだよ。
当たり前でしょう???
「子供の能力を育てる」という事と、「学校の成績を上げる」と、言う事は、全く別の次元のお話です。もし、親の目標が学校の成績を上げるだけの事で良いのだとすれば、それはとても簡単な事です。
それには、前文に記したように勉強の仕方や方法論について工夫するだけで十分なのですから。
「塾は企業だ」という事を私は繰り返して、お話しています。
企業であるからには、営業成績を上げなければなりません。塾の営業は勿論生徒を増やす事ですが、それには生徒達が学校で良い成績を上げるという事が絶対条件です。成績を上げるには、子供達がちゃんと問題を解けるようにすれば良いのですが、学校で出題される問題を、本当に理解して、回答させるには、先生もそれだけのテクニックが必要だし、生徒もちゃんと理解するだけの、時間と能力が必要になります。それは、大変難しい事なのです。
塾に出来ない事はないのですが、そこが外国の考え方と日本の教育に対する考え方の違いです。
日本の場合には、子供が兎に角、一日も早く学校の成績が上がれば良いのです。
つまり、そこでも、机に向かって、姿勢を正しているのか、と同じ考えが判断の基準になります。
「あそこの塾は、通って半年経って、やっと成績が上がった。」「でも、こっちの教室は一月で、成績が上がった。」・・・・そんな事は、判断の材料にはならないはずですが、そんな事が塾の善し悪しを決める判断材料になります。
もっと、酷い判断材料は、有名塾は生徒数が多いので、落ちこぼしをします。ある塾では、その月の成績が悪いとクラスを落として行きます。成績が良いと上のクラスに入る事が出来ます。そして、全くダメならば、退学させます。毎月、何人かが退学させられると、「あの塾はすごい!!」という事になって、保護者も子供達もこぞって、その塾を目指すのです。つまり、塾に入学するための入塾試験があるのですよ。
これは教育でもなんでもありません。
ただ成績が上がった。試験に合格した・・に過ぎないのです。
しかし、それは、大学に入学するまでの話です。つまり、社会人になってしまうと、そんなエセ知識ではなんの役にも立たないのです。社会で必要なものは、本当の知識なのでから。
そんな、本当の知識を与えてくれるような、塾はあるのでしょうか?
これがあるのですよ。但し、全て、時流に流されない正道の塾なので、小さな個人の塾です。
本当は、学校の教育に落ちこぼれた生徒達を集めて、本当の勉強とは何か?・・という事を指導するために開設された塾が殆どなのですが、集まって来る生徒は、落ちこぼれの生徒は一人もいません。
全て、開成高校とか日比谷高校の生徒達になってしまったのですよ。
何故??って??
だって、勉強を根本から見直して、ちゃんと理解しよう・・というような生徒達は、そういった超優秀な生徒達だけで、本当にそういった勉強が必要なはずの落ちこぼれの生徒達は、もっと安易に簡単に、成績を上げよう・・と、しかしないからね・・!!
困ったものですよ。
東京にも、そういった優れた塾が幾つかあります。
そこでは、例えば数学の公式が、何の為にどういう方法で導かれたかということを子供たちに理解させるように指導しています。
円周率が3.1415・・・・という数字は誰でもご存じと思います。
でも、これが何と何の比であるかということを(小学校のときに習ったにも係わらず)覚えている人は多分少ないと思います。
歴史に於いても同じようなことが言えますし、漢字一つにしてもどうしてそういう漢字になったのか、ということを教わる機会は少ないでしょう。
分析力や判断力を身につけることができれば、或いは理解力や構成力をマスターすることができれば、生きていく上で一生役に立ちます。
一人一人の子供たちの能力の開発とは、そういうものでなければなりません。
本当の本物の教育を受ける事は、その教育だけでなく、全ての分野に渡って、その恩恵が身に付いて行きます。
又、音楽の勉強では一般社会で必要欠くべからざる、忍耐力や持久力、継続力等も身につけることができます。
ひいては、体の免疫力さえも付いて、健康な身体になる事が出来るのです。
嘘のような話で、にわかには信じられないかもしれませんが、人間の健康は、嫌な努力を続けていると、精神力が落ちて、体の動きや血流の全てが衰えて行くのです。
「嫌だ〜っ!」という気が、負の力を増大させて、「病は気から・・」という事になるのです。
好きな勉強を一生懸命、努力して、頑張ってやっている子供達はハツラツとして、アレルギーさえ近づいては来ません。
親のエゴで無理やりやらされている子供達は、常に不健康です。
勿論、ただ「音楽を学んだから」と言ってそういった、色々な能力が身に付くわけではありません。
それは、学ぶ側の姿勢の他に、指導する側のカリキュラムにもその要素が含まれているからです。
という事で、当然、芦塚メトードのカリキュラムの中にも、そういった色々な重要なmethodeを、一つの指導の中に、含ませて構成しています。
又、生徒の将来の目標は、生徒一人一人さまざまです。ですから、私のカリキュラムは、ありとあらゆる目的を持った生徒たちを対象にして組み上げられているのです。
プロになる為にはプロになる為の、生涯教育としては生涯教育の為の、といったように、それぞれの生徒達の目標、目的に応じていくつものカリキュラムが複雑に構成されています。
それぞれがこの記憶法のように、ひとつひとつのマニュアルを持って作られています。
ただ、こういった論文の紙面上では、技術的な内容や指導マニュアルについて詳しく記述してしまうと、一般の方にとっては理解不能な非常に難しい領域となってしまい、おもしろくない論文になってしまいます。
ですからどうしても共通の接点である「教育」を話題の中心とせざるを得ません。
ですが、音楽を専門に勉強したい方や、インストラクターをめざす方、音楽の指導の勉強をしたい方には、専門的なレクチャーをしています。
ソフトの流出を恐れて閉鎖的に当教室だけのマニュアルに留めようとしているわけではないのです。ですから、レッスンの聴講はいっでもできますし、色々な相談に応じたり、公開レッスンなども行っています。
芦塚メトードの記憶法は大手の業者などの専門家の間では有名で、音楽とは関係のない大手の学習塾などが、記憶法のソフトを買いたいということで引き合いにきます。
皆さんもよくご存じの***式の**さんも見えられて、「ぜひソフトを買いたい。」というお話しもありました。
ただし、当方としては、「芦塚メトード」の名前でソフトを売りたいという、どうしても譲れない条件がありました。
そのことで話しがまとまらず、結局**式は、記憶のmethodeとして、将棋の記憶メトードを取り入れることにしました。
別のソフトの話しですが、NHKからも「ぜひソフトを売ってほしい、金額はいくらでも出しますから」、という有難いお話しがありましたが、同じように「NHKのマニュアルとして使いたいので、芦塚メトードという名前を残すことはできない」、という条件でした。
私は、別にお金が入ればそれでも良かったのですが、間に入った人達が、「芦塚メトード」の名前を残す事が、絶対条件だったので、そのままになっています。