99%の意識は、その意識が弱ければ、ポニョミスを引き起こします。
自分が、意識を持って日常をおくる事が出来た・・と、思っても、その行動が本当に99%の意識で行動出来たかは、無意識に色々な箇所に、現れてしまいます。それが、ポニョミスなのです。ポニョミスは、無意識のミスなので、場所が特定出来ません。ポニョミスをした所を、もう一度抜き出し練習すると、ちゃんと弾けるのです。
ポロミスは、ちゃんとした原因があるのですが、生徒がそれを理解出来ていないミスなのです。だから生徒にその原因(理由)をちゃんと説明して、それに対応した練習をさせると、ミスをしなくなります。表れ方は全く同じようなミスなのですが、その原因と対処法は全く違います。それが分からないと、適切な指導は出来ないのですよ。
(「ポロミスとポニョミス」の定義については、homepage上で何処かに詳しく書いたハズなのですが、見当たりません。見つけた方は、ハイツに連絡をください。)⇒(見当たりました。芦塚先生の教育論文のPageの中にありました。)
音楽や芸術でもっとも大切な事は、「一生懸命」という言葉が、自分の日常を犠牲にした上の「一生懸命」であるとしたら、それは大変な間違いであり、人生の無駄になります。
好きで、好きでたまらないから・・・、それが自分の生きがいであるから・・と、思える人だけが「一生懸命」一途に、ひた向きに、という言葉を許されるのです。
99%の意識は、「好きで好きで・・」の延長上に、存在します。耐えた人生の上には存在しないのです。
教室の先生になるために、面接を申し込んで来た女の子がいました。
芦塚先生がその学生に「音楽教室では、子供を上手にするのが、目的ではありません。子供達に音楽の楽しさを教えて貰って、音楽を好きにさせて貰いたいのです。」とその女の子に言うと、その女の子が、何を思ったのか、烈火の如く怒り出して、「私は音楽は好き!ではありません。音楽が好きという人達は、所詮、amateurの人達だけです。」と言い返して来ました。
芦塚先生は、「ああ、そうですか?でも、私達の教室はただの巷の音楽教室なので・・・」と、言って、講師募集の面接を受けに来た女の子に丁重にお帰り願いました。
音楽を苦行の場として捉えているのならば、私達の教室に、そういった人達は必要ないのですからね。
一般ではPiano等のお稽古事は、親に引っ張られながら、無理矢理に教室に連れて来られるのが普通だそうですし、練習なんかも言われても、逃げて練習しないのが普通なのだそうですよね。
教室では、練習していかなくても、先生に怒られる事もないし、「練習しなさい。」と、先生に注意される事もありません。
それでも、普通に上手くなるのだから不思議・・ですが、先生達にとっては、当たり前の事なのですよ。
正しい練習の仕方を先生と一緒に勉強すると、それだけでも、上手くなるし、練習の仕方が飲み込めて来ると、練習その物が楽しくなる分けなので、「練習しなさい。」と、言われなくても、練習するようになるのですよ。
音楽は宗教ではないのですからね。
苦行からは何も産み出さないのですよ。
スジャータさんの話にもあるでしょう??
お釈迦様は長年の苦行を経験して、その苦行の無駄を知って、苦行の森から出て、初めて悟りに達したのですよ。
アハッ!横井先生ごめんなさい!!不祥の弟子です。
(横井先生って、芦塚先生の座禅の師匠で、ローマ法王にも謁見した事のある人だそうですよ??)
本当に勉強をしたければ、日常の総てが勉強になります。
テレビのドラマを見ていても、漫画を見ていても、その中から多くの勉強の素材を見つけ出して、取り出す事が出来ます。
小さな子供達の会話からですらも、多くを学ぶ事が出来るのですよ。
でも、そこに意識がなければ、幾ら良い言葉を聞いても、良い演奏を聴いても、そこで学ぶ事はないでしょう。
何時間、そこに居たとしても、それは無駄な努力に過ぎないのですよ。
つまり、猫に小判、豚に真珠・・なのですよ。
lessonを受ける事は、その場で忠実に師匠のお話を聴く事でもなく、忠実に守る事でもありません。
師匠の心を、学び受け取る事が出来て、初めて学ぶ事が出来るのですよ。
だから、学校教育で学べる事は何もないのですよ。
だって、最初から、何も学び取ろうとはしていないでしょう??
そこにGedult(渇望)という考え方の必要性が出て来るのです。
以下、芦塚先生のessayより
「Durst(渇き)するとGedult(渇望)」
求めよ!さらば与えられん!という言葉がある。
求めよ!という言葉であるが、私の解釈では、決して、「望むならば・・・」とか「要求するならば・・」と、いう意味には捉えない。
ドイツ語には、Durst渇くという言葉と、RとLの違いなのだが、Gedult渇望という言葉がある。
人間が砂漠の中で、一滴の水を求めるように、渇望するのなら、その願いは叶えられるという意味である。
高校受験で塾に行って、高校生になったから、音楽に進むというような都合の良い話は何処にもない。
芸大に行く事が目的ならば、芸大に入った途端に、目的は果たした分けなので、その目的は達成出来た分けなので、Durstはなくなってしまう。Gedultが無くなれば、当然、Niveauも下がってしまうのだから、proの演奏家になれることはない。
また、proの演奏家と言えども、proとしての音楽活動の合間に結婚してしまえば、その人の意識の中心は家庭になってしまう。家庭を中心にしなくても、子供が出来て、子育てに煩わされれば、当然だが、Niveauは下がる。意識の中心が変わったのだから致し方のない事実である。
しかし、勿論、audienceの皆が皆、音楽にその水準を求めている分けではないし、その程度の華やかさだけの音楽を求める人達は多いので、それでも、それなりにneedsはあるのかもしれないのだが、本当にstoicに音楽を求める人達からは、もう認めては貰えないのだが、ただ困った事に、本人の意識が下がって、Niveauが下がる分けなので、本人が自分のNiveauが下がった事に気付く事はないし、本人が気付く程、Niveauが下がってしまった時には、もうそのNiveauを取り返そうと努力しても、既に手遅れなのだよ。
意識を持った人だけが、それを見る事が出来ます。聴く事が出来るのです。
そして、99%の意識で練習をするのなら、1%の練習で、充分なのです。
オセロでも、漢字を覚える技術でも、それに時間を掛ける必要は全くないのです。
必要なものは、集中だけなのです。
その集中力を産み出すのは、意識なのですからね。
当たり前のコンコンチキでしょう??
意識が逃げていると、集中力が出る分けはないでしょう??
人生はそんな当たり前の事の上に構築されているのですよ。
無理難題の世界の上に、素晴らしい成功の人生がある分けはないのです。
道に至るは易く、道より出(いず)るは難し