1.摩訶不思議な日本の教育
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1.摩訶不思議な日本の教育
学校と塾
塾が儲かる仕組み
儒教的な考え方
芦塚メトードと塾教育のせめぎ合い
主婦と労働の考え方
不思議な日本人の家庭
日本の音楽教育社会の中央集権的な構造
2.芦塚メトードの教育概念
1.幼年期から小学校の3年生ぐらいまでの時期
2.小学校の上級生(5.6年生ぐらい)~中学生
3.高校生以上
3.年齢によらない教育論
子供が質問するということ
子供に対する尊敬語の教育について
兄弟で同じ楽器を習うことの問題点
SNBP負の転換点
日本の音楽教育
曲を弾いて指導する先生
日本流の日本でしか通用しないメトード
夢をかなえるには
夢の正しい把握
夢までの正しい道
音楽大学と高校受験
留学したいのなら音楽大学に進学するのは無駄!
あとがきに代えて(愚痴タイム・・・・・)
2011年の8月の大村湾
「子供がまだ幼い頃にはうんと遊ばせてあげて、年齢が上がって小学校の上級生位になったら学校の勉強や塾に専念させて・・・。」と言う話をよく聞きます。
親の心情から思い見ると、子供のことをよく考えていて、とても微笑ましいし、それなりに一理あるとは思うような気もするのですが、・・・子供を大学を卒業するまで、伸び伸びと子供の自由に育てるのなら、そういう教育もありなのですが、現実的には、小学校で上級生になった途端に、或いは、中学生になったら、「塾だ!」「受験だ!」と、踵を返して、教育ママゴンになる予定なら、実は子育ての事から考えると、本当には、子供の体や心の発達と、その考え方とは全く一致しないのです。
子供が、健康に無理なく健やかに育つためには、子供の精神の発達と、体の機能的な発達とは整合性を持たせて、育てなければなりません。
私は、よく父兄に、「音楽家に育てる事だけを考えている」と、勘違いされているのですが、全くそういうことはありません。
私がadviceするとして、先ほどの、小学校に入学するまでは、うんと伸び伸びと遊ばせて、という教育も、中、高生になった将来も、のびのびと子供自身の将来を、子供に任せるのなら、それはとても良い教育だと思います。
子供に対しての余程の信頼があるのか?それとも、全くの子供への無関心か?そのどちらかなのでしょうが、そういう風に、全く無干渉で育てられた、私としては、当世風な過保護で過干渉な教育で崩壊寸前になった子供達や、家庭崩壊寸前の家族を見る度に、私の教育に対して、全く無関心であった母親に対して、(皮肉ではなく、本当に真面目に)感謝しています。
過保護で過干渉な教育は、社会性の欠如した現代の若者を生み出してしまいます。
ニートや引き籠もりや、親の頭に金属バットを振り回すようなSNBP(負の転換点)の一線を超えてしまった子供達は、教育の歪みから来るのですが、佐世保の事件でも、その他の事件でも、必ず言われる事は「あんなに、良い子がどうして・・・??」と、世間の人達や、世の教育者達を不思議がらせます。
しかし、それは誤った教育による、必然の結果なのです。
私のこの論文を読み進める上では、そこのところを、よくご理解しておいて欲しいのです。
子供期の体の発達を考えると、特に幼児期から思春期にかけて等、男の子と女の子では、心身の発育のメカニズムと段階と過程が、性差によって大きな違いがありますので、現在の学校教育ように、「年齢という括り」で男女を一緒に教育すると言う事は、本当は少し無理があります。
『男女7歳にして、席を同じうせず』という江戸時代の教育も(本来は、女性は女性らしく、男性は男性らしく・・・という考え方という意味での性差であって、年齢と言う事だけについて言うなれば)、それは、あながち古めかしい間違えた考え方と言う事ばかりではありません。
但し、このお話の中で、私が取り上げているお話は、「男女の性差」といっても、そういった男性と女性という意味での性差ではなく、あくまで、男の子と女の子の「心や体の成長の速度」の差のお話です。
小学の1年生ぐらいからその落差が始まって、女の子は、男の子よりも、体も心も(一言で言うと、所謂、心身の発達という意味ですが・・・)高校生の1年、2年生になるぐらいまでは、早く成長をするので、色々と一緒に教育するのは、無理があるというお話なのです。
私のホームページ上の「碎啄同期」のお話にも、その事が詳しく書いてありますが、教育とはタイミングです。
それを受け入れる受け皿を育てる事が、教育の基本なのです。
幾ら、年齢が上がったからといって、「*年生になったから、これ、自分で出来るでしょう?」という考え方は有り得ないのですよ。
一つ、一つ、ちゃんと、子供の受け皿を作り上げてから、技術や勉強の指導をしないと、幾ら先生が一生懸命に子供のために心血を注いで、指導しても何の成果も上げることは出来ません。
成績だけを上げるだけなら、何とかなるかもしれませんが、それでは、「**校門を出ず」の諺通りに、教わった事が、本当にその子供の身に付く事はありません。
心身の発達と年齢の男の子と女の子の成長の速度の差は、周知の事実なのですからね。
又、学習しなければならない内容には、その内容如何で、明らかに段階(step)を踏まなければならないものもあるのです。
教育内容のcurriculum、若しくは、protocolとでもいうのでしょうか??
どの年齢でどのような教育をするべきか、といったことは、内容が専門的(子供自身の将来の目標で、育て方が変わってしまいますので)で細かくなってしまいますので、「啐啄の話」等のほかの論文にゆだねる事にします。
つまり、『この段階の課題をマスター出来なければ、次のレベルの学習は無理』と言う事が結構たくさんあるのです。
また、日本人は「マスターをする」という意味を、もう達成出来たのだから、その勉強は二度とやる必要はない、と思い込む傾向があります。
これも大変な勘違いです。
マスターした技術は、次の過程でそのまま応用して行かなければならないので、その技術の勉強は永遠に続けなければならない、その技術の上に新しい技術を作り上げて行かなければならない・・という事を、知っておかなければなりません。
現実的に、教室の生徒でも、小さな子供の間は音楽に熱中していたとしても、小学校の5,6年生の時から塾に行って、学業に専念していた生徒達が、「無事に高校に入学出来たから・・」と、再び音楽の勉強を始めたりした時や、或いは、高校生になって、「どうしても音楽大学に進学したい。」との夢を持ったとして、・・・・
(このお話もよくするのですが、子供が自分で将来の夢を現実として、見れるようになる年齢は、女の子の場合には、高校の1年生の夏休み頃から、2年生の夏に掛けての時期なのです。それ以前は、寧ろ、現実の事から夢を見るのではなく、夢の中の夢に過ぎません。高校生になって、やっと、大人として、「将来」という未来の自分の生活として、見る事が出来るような年齢に成長出来た・・という事なのです。)
・・・勿論、自分の夢を再発見する事は、喜ぶべき事なのでしょうが、しかし、致命的な事が一つあります。
つまり、音楽の勉強は、athleteと同じで、毎日、一日も休まずに、その技術を積み上げて行かなければならないのです。
また、それ以上に、職業としての意識は、学生としての塾教育では学ぶ事が出来ないのです。
ですから、小学生の時に、幾ら、音楽に熱中して、習得した技術や意識を、お勉強型の塾の教育で、全く失ってしまうのです。
音楽を頓挫した生徒の場合には、全く楽器を演奏しない時期があったとしても、他の先生に学ばない限り、その音楽技術が衰える事はありません。
確かに、常日頃の日常の訓練が必要な「指の動き」等は、鈍いかもしれませんが、それは練習を再開するとほんの一瞬で戻りますからね。
では、塾の場合には、どうして、折角身に付いた技術が失われてしまうのでしょうか?
それは、塾の指導方針にその原因があるのです。
要するに、問題の解き方を指導するだけで、本当にそれを理解させ、納得させる教育ではないから、子供達もその教育に慣れると、内容よりもその場の回答力を身に着けようとしてしまうからです。
そのために、子供達は「積み上げ」という最も大切な教育の意味を失ってしまいます。
私達が音楽の初歩で教えた基礎的な技術を、「初歩の技術だから」、・・と言って、馬鹿にして、勉強し直そうとはしません。
他の所の先生に師事した生徒の場合に於いても、その先生のメトードを(有るのか、無いのか、知りませんが・・)覚えるためには、子供時代に習ってきた古い知識と技術は捨てなければなりません。
だから、折角、教室で身に付いた基礎力を失ってしまうのです。
「落ちこぼれの教育と落ちこぼしの教育について」
学校などの集団教育の場合によくある問題は、一人の子供が何らかの理由で、その段階で立ち遅れてしまった場合に、学校としてはグループ全体のカリキュラムを一人の生徒のために遅らせる事は出来ないので、その子供を見捨てて、次の段階へカリキュラムを優先にして、進めてしまう・・・という問題があります。
その為に小学校の上級生ぐらいになると、多くの子供達が、学業に追いつかなくなってしまい、その学科だけではなく、勉強そのものや、学校自体が嫌いになって、自らを子供の集団社会の中からスポイルしてしまうということが頻繁に起こってしまいます。
その落ちこぼれの教育が、子供のアウトロー化の主な原因の一つになっています。
勿論、何らかの理由というのは必ずしもその子供の外的な要因(自宅学習を全くしない等の、勉強不足)ばかりではなく、ただ単に私のように、「スローな性格である。」などの要因で勉強のカリキュラムの速度に間に合わなかった、というような子供の性格と、学校のcurriculumの進度が噛み合わない事に起因することも起こりえます。
「進度が噛み合わない・・」と言ったのは、逆に子供がのみ込みが早すぎて、他の生徒とシンクロしない場合にも、同様の問題が起こりうるからです。
戦前の学校教育や、ドイツの学校のように、飛び級を認めている場合や、アメリカのように、そういった優秀な生徒だけを、集めて教育するような学校を持っている国もあります。
日本では基本的には飛び級の制度は未だ認められてはいません。(現在はある程度は、飛び級を認めているようですが)
じっくり型(のんびり型)の子供は学校教育には、適合しにくい傾向にあり、落ちこぼれとされた子供でもスローペースでじっくり勉強させると、素晴らしい成績を上げる子供も多いのです。
実は、この私も、超スロータイプな性格(日常の行動がスローだ、という意味ではありません。物事を自分に取り込むのに時間が掛かるのです。 日常の行動自体は、寧ろ同世代の人達よりも速いかもしれません。)で、小学生の時には、授業の時間内でこなさなければならない勉強は、何時もついて行かなくって、学力不足、勉強不足と思われていました。
事実、全く勉強はしていなかったのですがね。
宿題もやっていった事は、自慢じゃないけれど、小学校の時から高校を卒業するまで、たったの一度もありません。
学校嫌いの原因を作ったのは、小学校の時代のそういった短時間の中で、与えられた課題を果たさなければならないという学校教育のcurriculumに対するトラウマだと思います。
その鈍くさい性格は、小、中、高校生の時だけでなく、大学生になっても、その不器用な性格に悩まされていました。
音楽の場合には、音楽大学は一応、職業の訓練なので、鈍臭さは致命的になります。
音大生に鈍臭い学生は一人もいないのですよ。 Σ(゚д゚lll)
職業訓練のcurriculumには、指先の器用さを調べる検査もありますが、音楽大学時代に図書館の作業を手伝っていた時に、たくさんの音大生達の中で私がやっている作業だけが異常に遅く、周りとの連携がうまく行かず、先輩の女性が、「芦塚さんって、器用だ、と思っていたのだけど、本当は、不器用なのね??!」と率直に、驚いていました。
但し、音楽力、勉強力については、私は1年生の時から、先生の代わりに授業を代講したりしていたし、図書館でも特別待遇で、資料とかも、特別に閲覧出来ていたので、先輩からも、「鈍臭い!!」と馬鹿にされる事は、ありませんでした。そこは、助かったかもね???
ですから、このホームページにも掲載している、「時短のメトード」は、その「鈍臭」コンプレックスの克服のために、この時代・・・つまり、大学生の時から、音楽教室を立ち上げた後までも、20年、30年どころではなく、それこそ40年以上も、延々と工夫を続けているのですよ。
一度、原稿を立ち上げると(今風に言うとprojectを立ち上げるとなるのでしょうが・・・・)、ゲーテやダ・ヴィンチのように、生涯を通じて、何度となく、延々と、咀嚼していくのですよ。
行き詰ったら、1年間、2年間放置して、・・気が向いたら、また原稿を引っ張り出して・・・・、またまた、書き始めるのです。
実は、この論文も、10年以上も放ったらかされているのですが、だからと言っても、それで、御終いにしている分けではないのです。
パソコン時代の前も、原稿は背広の仕立て屋で大量に買って来た、背広を入れる箱に、原稿は勿論、資料や鉛筆、定規に至る迄、一緒くたに入れて、freezeさせます。
冷凍保存です。
保存場所は、冷暗所の押入れの中です。
文房具の箱を使わないのは、大きさが規格サイズで、ギチギチで、雑多な資料が入らないからです。
勿論、箱にはindexカードが入っているので、求める原稿と資料を、パッと一瞬で取り出せて、すぐに書き始められます。
パソコンに移行してからは、原稿をしまうのはもっと楽になりました。
外付けのハードディスクと、back・upのCDに入れておくので、一瞬で探し出すことが出来るからです。
そこも一工夫なのですよ。
しかし、学校は、国民皆教育制度の方針から、全国民の子供達に指導教育をします。
子供達の学校に対する目的はそれぞれです。
そのために、どうしても一般的な教育に偏る事になってしまいます。
それは、広く、浅く、という結果を生み出します。
それに、学校教育にはあくまで時間のノルマがありますので一人一人の子供のペースに合わせることは出来ないのが現状です。
そこで、どうしても学校教育について行けなくなる子供が出てきます。
本来ならば、高いお金を払って行く、私立の学校がそういった専門的な教育をすれば良いのですが、実際には、文部省の縛りがあって、指導内容はある程度は自由なのですが、教育内容(所謂、curriculum)に関しては、かなり厳しい縛りがあって、そういった専門的な教育は出来ない事になっています。(それは、教育に於ける誤った平等の考え方から来ています。親のえこ贔屓の勘違いと同じ種類の勘違いです。)
それが、現代では、諸外国との教育のlevel差を作る原因ともなっているので、政府も慌てて改善を試みている所ですが立ち遅れは如何ともし難いようです。
話は少し、外れてしまいますが、学校教育で困った問題は、一つの課題を終わると、次の課題になって、前に勉強した事が、そのまま使われる事はありません。
子供達は、その単元が終わって、次の単元に入った途端に、今まで習った事を忘れてしまうのです。
それ以上の、中学生や高校生の時に、私が疑問に感じたのは、例えば数学等の授業で勉強している内容が、どこで使用されるのかを、先生に質問しても答えて貰えなかった事です。
つまり、指導している先生でも、虚数を何処でどのように使用するのか、生徒の質問にパッと答える事が出来る先生はいなかったのですよ。
ましてや、私が生徒を指導する上での基本としている、絡め合わせの指導法は、学校教育ではなされる事はありません。
丁度、SNSのお友達の関係のように、ある一人の人が、お友達を100人持っていたとして、そのお友達が更に100人のお友達を持っているとすると、それだけで、100×100で1万人になるのですよ。
それがSNSの恐ろしさでもあるのですが、逆に学校の勉強等に応用すると、学力を極めつけに上げる事が出来るのです。
ところが、この勉強法の難しさは、この勉強法では一瞬でgenre(分野)を越してしまいます。
指導する先生の専門の領域を一瞬で越してしまうのです。
私が何時も提唱している、ヨージーの法則の二兎の法則です。
「二兎を追う者は一兎をも得ず」は周知の諺ですが、「一兎を追う者は、三兎も四兎も得る事が出来る」という理論です。
私の理論は、富士山の裾野の考え方なのですが、学校教育では、「広く浅く・・」が基本です。
だから、「何故、その公式を使うのか?」とか、その公式がどういうgenreのどういう所に応用されているのか・・という説明や、紹介はありません。
つまり、知識として知る事、そのものが目的なので、その理由や成り立ちを知ること迄は追求する事はありません。
広く、浅くの方針とは違うからです。
でも、「あまり深く子供達に指導、追求すると、子供の理解の範囲を越すのでは?」という、意見もありますが、それは日本の「子供だから理解出来る分けはない。」、所謂、「子供だから・・・、出来ないのが当たり前」という、子供の理解力を否定する所にその教育の前提を見出す事が出来ます。
しかし、世界の教育を見ると、その思い込みは誤りであることはすぐに分かります。
ユネスコで教育のlevelが高いと認められた国の教育は全て、子供は適正な指導と指導者の力量さえあれば、出来て当たり前・・・という前提の元に、そういった総合教育がなされているからです。
それは指導者を育てる側の日本の教育界の質の問題もありますし、政治の問題もあります。
その話は、多方面に渡るので、別の機会にお話しましょう。
そこで親は、対応策として子供が学校の勉強に落ちこぼれないように、より良い学校に進学できるように、校区の学校の教育内容よりもlevelの高い、有名塾に子供達を通わせる事にします。
不思議な事ですが、あれほど学校に対しては、えこひいきや差別を、反対していた親達が、塾になると、成績別のクラス分けや、よりレベルの高い塾に入塾する事に対して、極めて熱心になります。
いずれにしても、塾に行って、学校の成績が少しでも上がると親はそれで満足します。
しかし、その塾が次の問題を生んでしまうのです。
よく親が勘違いをしているところですが、塾は学校ではありません。
ましてや子供の心を育てるための教育機関でもないのです。
それに、学校との大きな違いは、塾は企業なのだから、当然、落ちこぼしを作る(する)事が公認されている事です。
そういう学校もありますが、基本的には、学校では落ちこぼしは認められていません。
塾の場合には、落ちこぼしの生徒を作れば作る程、その塾は「凄い!」という評価になって、有名塾の看板がより評価される事になります。
教える側も勉強をする生徒、飲み込みの良い生徒が残って行くので、指導はより楽になります。
これを私達は『落ちこぼれ』(という受動的な言葉)では無く『落ちこぼし』(という、より積極的な、能動的な意味で)と、言っています。
塾は経営のサイドの考え方で物を考えますから、ノルマとして取り敢えず学校の成績を上げることが売りの商品になります。だから、成績を上げる事を塾の指導の最優先の課題にします。
一般の商売の『売り上げ』と同じ考えです。
売り上げるものが『成績』に代わっただけなのです。
その為には、なまじ子供に物事を理解させ、判断出来るようにするとなると、その指導は殆どマンツーマンになってしまいますので、膨大な人件費と時間がかかってしまい、経営的には割が合いません。それでは、塾としての経営は成り立ちませんので、当然それより、「こういう問題はこう答えればよい。」と言う風に、子供達が条件反射的に問題を解けるようにします。
それなら少ない時間内に、一度に大量の生徒を指導する事が可能となります。
ですから、仮に子供達が問題を正しく解いたとしても、私達がその後で、子供に「で、どうしてそうなるの?」と質問すると、殆どの子供は何故その答えで良いのかということは答えることが出来ません。
本当は、何も分かってはいないのですから。
ただ問題を、速く、条件反射的に解いただけなのです。
しかし、「塾に行かせたからには早く結果を出したい。」
「次の日からでも成績に変化が現れて欲しい。」と思うのも、親心なのです。
そこの所の親の期待と大量生産型的な塾の考え方が、うまく噛み合ってしまうのです。
ですから塾に行きだした子供は、勉強に全く関係のない、私達が指導している音楽のレッスンに関しても、極端に記憶力や判断力が低下し、暗譜なども苦手になり、演奏の仕方や練習の仕方をいくら説明しても、自分で物事を考えようとはせずに先生の言う通りに丸のまま覚えようとしますので、逆に勉強の能率が非常に悪くなって、音楽の進歩が極端に落ちて行きます。
演奏自体も出来ていた技術や表現が出来なくなったり、緻密な表現、どころではなく、音の粒つぶを聞き取るとか言った、基本中の基本的な事も出来なくなって、伸びなくなるのなら、まだしも、折角身に付いたはずの技術も、どんどん衰えて行ってしまいます。
初めて、Pianoを学び始めた頃の基本的なtechnicすら、出来なくなってしまうのです。
音大生がよく勘違いをしているような、「初歩の技術は、高度なlevelの教育を受けている我々には必要ない。」という致命的な思い違いと、奢り(うぬぼれ)をしてくるのです。
こう言うことを書いたとしても、勿論、私達が塾その物を否定している分けではありません。
基礎をしっかり指導して、勉強の本当の意味を指導する良い塾も、数は少ないのですがあるにはあるのです。
先生の知識力やなぜ子供が理解できないのかを判断する、教師力が必要になるので、そこいらの学習塾の先生ではとても勤まりませんので、そういった学習塾はとても絶対数が少ないのです。
東京の郊外に女性の方がやっている小さな50名程度の塾があります。
そこの塾長である女の先生は、本当は、小、中高校の落ちこぼれの生徒を基礎から教えるつもりで、その(基礎塾とでも言ったらよいのか・・・)の塾を作りました。
ところが1年も経たないうちに、その塾は麻布の生徒や都立西の非常に優秀な生徒で占められるようになってしまいました。
「基礎を理解する事の大切さが、ただ単に成績を上げる事よりも重要だ。」と言う事が分かる連中は、結局のところ、それぐらい優秀な連中だけだ・・・と言う事ですかね。
まっ、そんなモンですか!?
どのような時代や社会においても、為政者は自分の体制を孫子の代まで維持するために苦労します。そのための、最も効果的な方法が思想統一であります。そのなかでも最も成功した一例が徳川家康の例です。家康が世襲制度を敷こうと思ったときに、思想統一のために採用した思想が中国の孔子を中心にした儒教の考え方です。家康は儒学者を優遇し、全国の武士達の子供達に儒学者による教育を要求しました。それは全国の外様大名を含んだ全ての城主の子供でも例外ではありませんでした。そこで江戸時代は、文字を読むためには「し(師)、のたまわく(曰はく)・・・」の言葉を復唱する声があちらこちらから聞こえてきた(それが勉強であった)というわけです。
私自身は団塊の世代の、もう一つ上の世代で、所謂夕日ヶ丘(昭和20年代から30年代にかけて幼年期、少年期を過ごした)の世代であります。ですから、むしろ日本古来の貞淑な女性像に憧れを持つ世代でもありますし、ましてや友達夫婦などというものは、全く理解できない世代でもあります。
ですから逆に言うと、儒教的な社会の持つメリットも非常によく理解出来るのです。
封建制は何も変わらないし、変化しない社会では、或いは、大家族の共同生活の上ではすこぶる都合がよく出来ています。それからさらに何も変わらないことへの安心感(安堵感)。
それは人間の一つの理想的な生活でもあるのですから。
例えそのうちのたった一つでも、誰かが何かを変えようとすると、この儒教的な構造社会では大きな抵抗にあってしまいます。
それだけ安定性がしっかりしているという事でもあるのです。
いずれにしても封建社会では、上からの命令を絶対的なものとし、ひたすら忠実に守り従って聞くだけで、疑問を持つことは勿論の事、(それ以上に)質問することすら、絶対的に許されなかったのです。
これは江戸時代の話ではなく、日本を敗戦に導いた旧日本軍の軍隊の話でもなくって、さらにはお城が企業に代わったままの終身雇用制を継承する大企業と言われる日本の会社組織の話だけではなく、しかも学校教育の現場などの公的な機関によるものでもなく、極々普通に、日本型の父親などに現されるように、一般家庭に今でも何の疑問もなくそのままに残っているのです。勿論、あなたの家庭にも・・・。
例えば、日本型の父親の夕食にはビールと一品多いおかずです。
「だって、お父さんは外で大変な思いをして金を稼いでくるから・・。」
そういった日本型の父親は妻に必ずこういいます。
「だってお前は一日中子育てと家事だけで、何の仕事もしていないではないか。」
主婦が家事労働の合間に仮に、パートなどの仕事で家計を支えていたとしても、「お前の稼いでくる、金額は子供の教育費にもならないじゃないか?!」と。
不思議な事に多くの日本女性はそれでなんとなく納得してしまい、先ほどの一品多い夕飯に親子共々何の疑問も感じなくなってしまいます。
まあ、家庭の考え方はそれぞれなので、それで幸せなのなら、それを否定する気は全くありませんが、これも儒教的な教育の結果であり、今の若い人達の結婚へのネックとなって、コンビニ等で、男性でも生活をする事が、困難ではなくなって来ていて、しかも、人とcommunicationが下手な世代では、異性と同居する事を、面倒臭いとかかったるい、とか感じてしまって、寧ろ、バーチャル世代なので、SNS等を通じてnetで人とcommunication出来るので、特別に、「子供が欲しい。」という願望がない限り、若い人達は、結婚に対しての必要性を感じない若者たちが増えてきて、それも、少子化問題に拍車を掛けてしまっています。
女性も、今までのように、「働きたくないから、結婚をする」・・とかいう態度では、世の男性にとって、女性との共同生活を続ける必要は感じないかもしれないし、若者達には、結婚を前提としない、sexfriendと言った考え方が、主流になりつつなって来ているようですが、この考え方の落差は、お互いに、理解出来ない考え方なのかもしれませんよ。
・・で、あなたはどちらのタイプ???