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ですよね。


私が音楽教室を立ち上げる前には、多くの音楽大学の学生や卒業生が、proを目指して私の門下になって、研鑽を積んでいました。
勿論、その多くの生徒達は、現在も音楽界のproとして活躍しています。

lacherlichなのは、私が音楽教室を開設してからの事なのですが、それからは、教室で育った優秀な生徒達が、中学生、高校生になった途端に、周りの一般の人達からの
、然り!ごもっともなお話で、「音楽に進むの?じゃあ、巷の音楽教室の先生についていてはダメよ!!proになるのなら芸大の先生じゃあないとダメよ!!」と、言われて、「そりゃあ、そうか??」と芸大の先生の所に弟子入りしてしまうようになってしまったのですよ。

音楽でproとして活動して行くためには、芸大に行って、コンクールに入って、留学をして・・・という、courseを歩まないと、proには成れない・・というような、誤った考え方が、一般には流布しているのですよ。
「それは違うよ!」と、私が繰り返し言っても、「巷の音楽教室の先生が何を言うの?」としてしか、その話を聞いてはくれません。
そして、殆どの音楽を目指す人達が、全く同じ道を必死に歩いて行くのです。
その道はproになるための道ではないのにも関わらず・・・ですよ。

どうせ、また、私が音楽教室をやめて、自宅で限られた生徒だけを指導するようになったら、それは巷の音楽教室にはならないので、また、音大生が戻って来るとは思いますが、今更、音大生を指導する気力はもう、すっかり失せてしまったのでね。


実際に、
「多くの人達がその道を歩むから、その道が一番確実で安全な道だ!」と、考えるのは儒教教育の最たるもので、日本は、その誤った考えのために、第一次大戦を始めとして、原発の事故や、その他の多くの歴史的な失敗を繰り返しています。
日本の国が、未だに大人の社会としては、世界の国から、未だに認められないという現実がある事を、殆どの日本人は知りません。
その理由の多くは、日本人が形としてしか、自分達を認めてくれないし、援助してもくれないからです。つまり、血が通っていないのですよ。

という事で、日本人の演奏家の音楽は、とても、素晴らしい演奏を聞かせてくれるけれど、所詮は、コピーにしか過ぎないのですよ。音楽には、血が通っていないのです。
しかし、それを聴くaudienceもやはり、コピーで育ってきた人達なのだから、日本人にとっては、音楽は、それで良いのかも知れませんよね??
自分で、芸術を判断する事の出来ない、brand志向の経済国家の国民なのだからね。
brandとは、マスコミが作り上げた虚像の世界なのだから、それが本当の価値と信じるのなら、それでも良いのでしょうね。100人の内の90人までが、それを認めるのなら、残りの2人は、例外か間違いなのでしょうからね!!
(ハインリッヒの法則に習って、私もヨージーの法則というのを、作っています。100人の人がいて、その内の90人が、8人が間違えていて、残りの2人が正しい答えを出したとしても、日本の大衆は、90人の多数決で評価をする事を正しい事だと思うのだよ。
BoschやBruegelの画家達や、Mahlerのような大作曲家が皮肉交じりに言い続けていたとしても、誰もそれを意に介さないし、その絵で表現されているように、聴こうとはしない。

芦塚メトードで育って来た人達が、極々一般的な奏法に変わってしまうのは、極めてホンの一瞬である。
音楽に進むのをやめる・・と決めた途端に、(朝にproになる事をやめる決心をして、午後の演奏会では、もうamateurの演奏をしていた)演奏法が全く日本流の普通の演奏に変わってしまった人もいるし、教室をやめている分けでもないのに、恋人が出来た途端に、芦塚メトードでは指導出来なくなった人もいる。勿論、恋人は音楽家でもなんでもない一般人なのだが、それが原因なのだよ。
塾の教育は、日本社会では一般の考え方であり、常識でもある。
芦塚メトードは、反社会的とは言わないが、塾教育の真逆の理論なのだ。
だから、塾の厳しさは、無駄な厳しさにしか思えないし、成績を上げるための、勉強を正しい、その子供達の一生を支える土台になる教育だとは思わない。
という事なのだが、人は思考しないでただ努力をする方が、無駄を省いて効率を上げて勉強する事よりも、遥かに楽なのだよ。
芦塚メトードをやめて、塾型の勉強法にチェンジする事は、極めて楽で、ホンの一瞬である。
しかし、一度その方法で勉強をしてしまうと、芦塚メトードに帰って来るのは、初めて芦塚メトードを学ぶ時の何倍も難しいし、大変な努力が必要になってしまう。
人間は、一度誤った手軽な方法論を学んでしまうと、正しい道に戻るのは殆ど不可能と言って良いのであるよ。
芦塚メトードから、芸大に進んだ人で、芦塚メトードに戻って来た人は皆無だし、芦塚メトードがなんたるかを知っている人も皆無である。

何故、そういう悲劇が起こるのか?
それは、簡単である。
芦塚メトードで育った人達にとっては、絶対音感であろうと、初見力であろうと、その総ての能力を、「
いつの間にか、自然に身に着けた分けなのだから、それは、自分個人の能力ではなく、音楽を学ぶ人達全てに、平等に与えられた音楽を学ぶ者の能力である」と勘違いをしてしまう事にある。

だから、芦塚メトードを指導する我々が、
「教室では、そんな事が出来るのは、当たり前の事だけど、それは芦塚メトードで学んでいるからであって、一般の音楽界で、普通に誰でも出来る事ではないのだよ!」と、幾ら口を酸っぱくして言っても、親も子供達も、誰もそれを信じようとはしない。

音楽大学なのだから、教室の延長線上のもっと上の位置にあって、入学さえすれば、色々な高度な技術が身に付くと思い込んで疑わない。
ましてや、音楽で、他の音楽を目指す生徒達が羨むばかりに、技術や能力を身に付けているのにも関わらず、その価値を知る事もなく、一般のlevelの低い学校教育の受験勉強や、塾教育で、芦塚メトードと真逆の勉強法を学ぶ事で、これまで培って来た、技術や能力を失っても、何も感じないのは、私の教育理論が、たったそれだけの事だったのか??と、人生の悲哀をひしひしと感じるこの頃であるよ。
八千代や、近頃の発表会の鬱々programは、その現れであろうか・・・
でも、それは、子供達の音楽教育を依頼された時から、分かっていた現実であり、それを悩む事は、「何を今更・・??」の世界なのだが、やはり、自分の残された人生を考えると、今やらなければならない事の多さに、この無駄が虚しくなるのだよ。
たった、一人でも良いから、私の心を受け継いでくれる生徒がいたら、音楽の指導ももっと楽しい物になるだろうに・・・
アハッ!
己を知る・・・、つまり、芦塚メトードを知る人間が、一般の音楽教育や音楽技術をしれば、芦塚メトードの真の価値を知る事が出来るのだがね??
他の教室から来た生徒達は、芦塚メトードの素晴らしさを知っていても、芦塚メトードで演奏する事は出来ないし、芦塚メトードで育った生徒は、芦塚メトードから出ない限り、芦塚メトード以外の音楽の世界を知る事はないのだよ。
これが、dilemmaなのだよ。
それは、尊敬の念に掛かっているのだがね。
己を知り、敵を知るならば、百戦危うからず 孫子 ・・・だがね

参考までに:
Wikipediaより一部引用
「孫子の兵法の書」の全文はこうである。
「敵を知り、己れを知れば、百戦あやうからず。
敵を知らずして、己れを知れば、一勝一負す。
敵を知らず、己れを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし。」
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」

和訳をすると
「相手の事を知り、自分の事を知ることで決して負けることは無い。
相手の事を知らなくても自分の事を知れば引き分けることが出来る。
しかし、相手の事も自分の事も知らなければ必ず敗れる。」
「戦わずして人の兵を屈するは善の善なるものなり。」(孫子の兵法書より引用)
「勝つということが最良ではない。戦わずして勝利することが最良なのだ」
「戦う前に勝負をつける事が、何より良い」ということになります。

芦塚メトードを、孫子の兵法の書で少し説明してみましょう。

「敵を知り、己れを知れば、百戦あやうからず。
芦塚メトードでは、他の教室から、挫折をして、変わって来る生徒達のために、その生徒が属していた教室のmethodeで教室に慣れて来るまでの間は、暫く、前の教室のままのmethodeで指導をします。いきなり、芦塚メトードを指導してしまうと、あまりのギャップに、挫折してしまうからです。
長いスタンスを掛けて、徐々に芦塚メトードに移行させるのです。そのために、指導者は芦塚メトードの勉強だけではなく、色々な教室の指導法を学びます。
子供達が
「出来て当たり前から、出来ないのが、普通なのだ!」と理解する糸口にもなります。こういった事を保護者の方達が理解してくれると良いのですがね・・・。
他の教室の指導の仕方を学ぶだけで、芦塚メトードの真の価値が理解出来ます。
それだけでも、自分に自信が着きます。

敵を知らずして、己れを知れば、一勝一負す。
このお話が、今この節のthemaになっている、お話です。
周りが塾に行くから・・とか、良い高校に行かせたいから・・とか、ヨーロッパやアメリカの子供達には理解出来ない、日本と韓国だけの、不可思議な教育に対する考え方です。勿論、両方の国が儒教の国です。本来の儒教の国であるべき中国は、共産圏の国家なので、儒教思想とは関係ありません。儒教は資本主義の考え方なのですからね。
仮に、芦塚メトードの事を認めていたとしても、それがお山の大将では、常に不安に苛まれてしまいます。本当に芦塚メトードで良いのだろうか?・・・とかで、音楽大学の卒業生に対して、妙に、気後れをして、自分を卑下したり、反対に
「音楽大学を卒業しているのだから、これぐらいは出来るだろう!」と、過大評価をしたりします。これも「敵知らずして・・」の結果なのです。

敵を知らず、己れを知らざれば、戦うごとに必ずあやうし。」
殆どの保護者の方達は、私達の教室の芦塚メトードという指導方針に共感をして、教室に入会した分けではありません。
近所の、
「良い教室があるよ!」という何気ない噂話の延長で、入会した人ばかりです。
そういったcaseの場合には、一般的には、音楽大学に進学出来る程に、技術が上達する事はありません。
家庭での学習の合間の、チョッとした息抜きとして、Pianoのお稽古や、violinの練習をするに過ぎないのです。
音楽を目指す人達の、日常は、全く別の世界です。
朝早くから、夜遅くになるまで、どっぷりと音楽の練習のために日常の総ての時間を使うのです。
勿論、塾に通ったりしたら、即、先生から破門を言い渡されます。
音楽大学の受験を目指す生徒が、冬休みに家族で苗場のスキー場に出かけたり、学校のお友達とディズニーランドにおデートに行くような楽しい時間は全くないのですよ。
そういった非日常の世界、人生の中で初めて、音楽への道があるとされているのです。
正に、昭和30年から、40年代のスポコンの世界です。

子供達の勉強の成果を判断するのに、塾型で勉強を捉えている人達は、そういった根性で音楽のlevelを察しようとします。
教室の生徒達は、呑気に遊んでいて日常もそんなに練習しないから、levelが低く、とても音大生のlevelではない・・と、解釈します。
周りの人達も、
「音楽大学に行くつもりなら、もっと厳しい芸大の教授について、泣きながら勉強しないと・・・」と、知りもしない、proの世界について素人のadviceを平気でするのですよ。
私は、そういったadviceは、好意ではなく、その相手の人生を潰してしまう、犯罪行為としか思わないのですがね。
でも、不思議な事に、音楽のproであり指導のproである先生の言う事は信じられないで、音楽に全く関係のない主婦に過ぎない人達や、音楽大学を卒業はした事はあるのかもしれませんが、一度もproとしての活動をした事のない主婦に、相談をして、まるで、ネズミの集団自殺のような、風評に過ぎない一般論のadviceを後生大事に信じて有り難がって、子供の将来を委ねてしまうのには、困ってしまいます。
「音大に行く事が、proになる道ではなく、それは、寧ろ、一番遠回りの道だよ!」と私は言い続けているのですが、誰も巷の音楽教室の先生の言う事なんか、聞いてくれないのですよ。

かと思うと、塾と学校の生活を中心にして、高校まで音楽は、趣味路線で来ていたのに、突然、高3になって、
「芸大を受験したい!」と、言い出す親もいたりして、今更、そんな事を言われてもね~ぇ??
そんなの、有りですか??
「そりゃ聞こえませぬ、伝兵衛様!!」・・・・でやんすよ!!

たった、一人でも良いから、
Von Herzen-Moge es wieder-Zu Herzen gehn!・・・・・哀号!!
Beethovenのミサ・ソレムニスの冒頭に書かれていた言葉です。「心より出づ、心に至らん事を・・!」という、祈りにも似たBeethovenの言葉です。
日本人の演奏家の意識とは、ヤッパ、違うのよね。何かしらが・・・????

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主婦と労働の考え方

一般の人の中には、働き手が直接お金を稼ぐ仕事に携わっていないと、労働としての価値が見えてこない人も多いように思われます。
一般の仕事では、実際にいくらのものをいくら売った、誰がいくらの売上を出したなどの具体的な金額が明確なため、対価が分かりやすいといえます。
しかし、企画の仕事や事務の仕事、研究などの分野の仕事は、具体的な実勢の対価が出るものではないので、価値が分かりにくいのです。

特に日本や中国のようにソフトに対して価値を持たないソフト後進国では、どんなにすばらしいアドバイスを受けたとしても、目に見えないものに対して、金銭の対価として見ることができません。日本では、ソフトや発明、研究などの報酬に対しての裁判が、いまだに数多く行われているのが現状です。先進国での笑話には、こんなお話があります。弁護士とその友人が飲みながら奥さんの悪口なんかを言い合っています。
弁護士は話の途中で「ここからは有料になるけどどうする・・・・・?」

教室でも、以前、少子化の影響で、教室の収支が追い込まれた事がありました。
その時の経理担当の先生が、教室の事務を担当している先生や(教室なので、本当は事務が専門ではなく、生徒の指導よりも事務を中心にお願いしている先生や)、未だ音楽大学在学中で、教室には研修生として来ている学生の首を切って、教室の経営を何とかしようと宣言をしましたが、私が「人は財産だ」という祖母の言葉を持ち出して、断固として反対して、その先生は教室の残ったわずかなお金や経理の帳簿やハンコも一切合切、発表会の経費と一緒に全部持ち逃げしてしまいました。
銀行や、税理士の先生達からも、父兄からも「警察に届けるように!」と、かなり強くadviceされたのですが、20年近くも一緒に音楽教室をやって来た分けなので、私からの「最後の思いやり」という事で、銀行は紛失という事で、税理士は、前年度の同じ時期の経理から架空の経理を作成して、事を荒立てないで、処理しました。

私の個人的な投資で、何とか発表会を済ませて、その後、先生達に「教室をこのまま閉鎖してしまうか、それとも、教室を存続させたいのか?」という質問をしたら、(・・・教室は私が作りたくって、作った分けではありません。私の指導のメトードが実践として可能か、を証明すれば良かったので、当初の5年でその目的は果たしているのですからね。その時に、指導した生徒達が、「このまま、この教室に残りたい」と言ったので、教室を法人(会社)にしたのです。)先生達が、「教室を存続させたい。」という話だったので、資本金をもう一度、私が捻出して、教室を存続させたのです。

教室の経営の失敗は、よく、中、小の企業が陥る丼勘定と、公私混同から起こる経営の基本を知らない事による失敗です。
だから、相手の人が、「もう、無理!」と言う時にも、何度も、私は「経理を変わってあげようか?」と、言ったのですが、何度、言っても「大丈夫!」と断られてしまいました。
そこは、個人から会社にしたので、体制と意識が、いつまでも、全く個人のままで、それが教室のネックでした。

話は横道に少しそれてしまいましたが、「お金を稼いでいない」・・という事が、時給に換算されないという事は、経営をしらない人達には、よくある事実なのです。

しかし、実際の企業や会社では、全く金銭に携わらない部署で働いている人の方が、より専門職であったり、責任のある高い地位であったりすることの方が多いのです。

一般のサラリーマンの方達も、実際にお金を稼いでくる外回りの仕事がだんだん認められて来ると、今度はデスクワークが中心の課長に昇進して、それから部長になって、と実際にお金を稼ぐ現場とはだんだん遠くなって行きますよね。

どんな会社でもその会社を支える企画とか事務とか、経理とか、直接的にはお金を稼がない部署が必要なのです。

それはそれで、大切な仕事ですよね。
つまり社会で一般的に『金を稼ぐ』と言う言葉の意味は、『具体的に(直接的に)金を稼ぐ』と言う意味ではないのです。
言い方を変えれば、主婦の家事も立派な仕事なのです。
ましてや、共稼ぎともなると、儒教型の家庭では、女性にとっては、Doubleの負担になります。
共稼ぎなら、当然、子育てや家事も男女が平等に共同して負担するのが、当たり前のように思えるのですが如何でしょうか?

日本でもやっと、女性の家事がちゃんとした労働であるということが認められて、ご主人の稼ぎの半分が奥さんの取り分であると言う事が、【なっ、なっ、なんと、今年から!】社会的に認められました。

 

しかしそれはあくまで表向きの話ですよね。
今でも日本社会はdouble standard(二重基準)の世界なのです。

double standardは、一般的な日本人にとっては、日本古来の封建制度の名残ということをわからないままに、子供のころからの慣習としてごく当たり前のことだと受け取っていたとしても、global standardの世界の先進諸国からは、日本が世界の先進国の仲間入りするためには、残してはいけない社会慣習として、再三再四、注意を受けています。

しかしいまだに日本の社会では(仮に共稼ぎだとしても)奥さんが子育てや食事を作るのが当たり前で、男性が食事の後片付けの手伝いをしただけで、女性に対してすごい理解のある男性だと評価されます。これがいわゆるdouble standardの考え方です。
男性の当たり前と、女性の当たり前の二重構造の社会です。

先ほどの、共稼ぎの家庭の例でも、例え夫と妻の収入が同じ額であったとしても、やはり家に帰ってからは食事を作ったり、掃除洗濯、子育てなどは、結局の所、女である妻に任されています。
「女なんだからそれが当たり前だろう!」

男の言い分は昔からちっとも変わりません。
結局の所、仕事を自分のi dentityと考えている女性は、離婚を考えざるを得なくなるのです。
日本政府としても熟年離婚は何とか避けたいことなのでしょうが、政府自体は(女性が増えたとはいえ、考え方自体は)やはり男性集団で「女性は生む機械で子育てだけやっていれば良いのだ」としか考えない日本型の男達の集まりですから、女性の離婚の理由がいまだに全く理解できないのです。
「女性にi dentityなんかあるわけが無い。」それが、「女人之体、幼則従父母少則従夫、老則従子」女人たるもの、幼くしては父母に従い・・・・」まあ、平たく言えば、「常に男に従え。」という言葉になります。

それならそれで、昔のように、女性の参政権や、女学校を廃止すればよいのにね。
明治時代の頃から、先進的な女性達が後輩のために必死になって勝ち取ってきた女性の権利だけど、勿論貴女が、外で仕事をすることを考えた事もなく、夫唱婦随で子育てだけが夢であるという女性なら、自分のi dentityなんて、そんなかったるいものは必要ないでしょうがね。
でも、未だに、夫唱婦随が理想な女性も多いのは、事実ですよね。
教育にしても、男女の関係にしても、江戸時代から、何も変わっていないのですよね。

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不思議な日本人の家庭(double standardの話)

日本型の父親は家事や子育ては女の仕事として一切興味を示さないし、ましてや家事手伝いの手の字すら無く、又、自分の子供が一生懸命に勉強しているお稽古事の発表会等を一回でも見に来た事すら無いのに、ひとたび子供が中学受験や高校受験の時期になったり、大学受験を目指す年齢になったり、大人になって社会人としての仕事の話になると(前提が長かったけれど、要するに人生の節目、節目にと言う事です。)自分の方が、社会人であるから常識や情報を持っているとばかりに、似非知識をひけらかして強権で子供の教育の方針などを、母親や子供の話を聞こうとはせずに、一方的に決定します。
それまでの子供や母親達の努力と勉強の蓄積を全て無視して、赤提灯の友人との語らいで得た風説の知識で自分の望むように子供の方針を変更したりするのです。

つい先程、赤提灯で仕入れてきたばかりの一般的な知識をひけらかし、『一般はこうなのだから』と言って、子供や母親が、子供が幼い頃から今の今まで、ひたすら、努力して、勉強して、一生懸命学んできた事を、赤ちょうちんでの素人集団のいい加減なエセ知識と、無責任な一般論でしか、認めようとはしません。

たまには、子供や母親の言う事を聞く振りをする、父親もいます。
しかし、何処まで分かったのか(理解出来たのかを質問すると)やはり、そこで、プッツンと切れてしまいます。
「せっかく、無理をして、自分を押し殺して、良い父親の振りをしているのに・・・!」と。

 

「何故、父親は子供達の話を聞かないの?」という質問をよく受けますが、それは当たり前のことです。

儒教社会では、目下の者の意見を認めれば、「自分が無知である」・・という事を認める事になってしまうからね。

最初から子供や母親の意見を聞くことが無ければ、或いは逆に、母親や子供が父親に質問することが許されないという環境を作っていれば、父親の知識不足、勉強不足が奥さんや子供にばれる事は絶対無いし、家庭での権威の失墜などと言う事も絶対に無いからです。
(本当は父親の無知なんていうのは、とっくに子供達には、ばればれなのに、それを認めようとしないのです。)
それは、会社も全く同じなので、チョッと冷静になれば、分かる事なのですがね。

 

封建社会においては、指導者がどんなに無知蒙昧で馬鹿そのものであったとしても、中央集権的な制度の中では、下からの意見は絶対的に上には届かないので自分が如何に無能でどうしようもない人間であるかという『ボロ』が出る事はまれなのです。(中央集権的な構造は、上から下へは、すごく正確にすばやく為政者の情報が伝達されるのですが、下からの情報が上に上がるには全く不向きに出来ています。それはツリー構造の持つ、本来的な欠点です。

「ハインリッヒの事故の法則」はそういったツリー構造が持っている構造上の問題によって引き起こされる、事故の確率をいっているに過ぎません。構造上で、一つのミスが隣には絶対に上層部には届かないようになっていて(途中の段階でもみ消されてしまいます。)幾つもの同様のミスが重なっても(上層部に話が行かないので、現場ですら問題意識や危機に対しての恐怖心が働きません。)それから何かを学ぶ事はなく(ツリー構造では同じランクのところに情報が伝わるためには、一度トップまで情報が伝わってから、トップダウンとして始めて一番下の階層に情報が伝わってきます。)それではあまりにも事故の対処(対応)が遅すぎてしまい、決定的な重大な事故が起こって社会的に騒がれるようになって始めて、上層部のみならず、下層部までもが、事の重大さを察知(理解)する事になるのです。

これは、瀕死の状態にある日本の大企業が良い見本です。その制度の中で、制度を維持していく上では、ゆるぎないものがあるのですが、競争社会である外国などの対外的なものに向かっては非常にもろいのです。しかしこの文章は経営学の勉強ではないし、封建社会の中央集権的な構造のもろさを指摘しているのではないので、この話は此処いらで終わりにします。

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日本の音楽教育社会の中央主権的な構造

封建的な中央集権的構造と言えば、日本の音楽教育は正にそのものずばりであります。

なぜなら日本の音楽教育の世界は、江戸時代からの家元制に根ざしているからです。家元制の頂点は必ずしも、技術的に優れている必要はないのです。何故なら、その技術を革新していくことではなく、踏襲する事が一義であるからです。一子相伝の世界であります。

だから音楽大学の先生が日本の音楽社会でその道の第一人者である必要は全く無いのです。大学の先生として有名であればそれで良いのです。大学の先生に対して疑問を持つことはおろか、何一つ質問する事すら許されていないのです。だから生徒も指導される事に、何の疑問も持たないばかりか、何一つ質問すら出来ません。音楽大学の先生は殆どの先生が、生徒に楽器を自分で弾いて指導します。その場合言えることは、(これは私の弟子が、音楽大学の先生について言っていた言葉なのですが)その先生が自分の思う(感じている)事と先生の演奏が一致して表現されていれば問題は無いのですが、一生懸命説明しながらその通り出来ない(弾けない)先生や、もっと悲惨なのは、その先生が言っている事と、実際に弾いている事が全く矛盾しているケースがあります。しかも、この最後のケースが一番多いそうな。そこで、先生の弾いている様に、弾けば弾くほど先生が烈火のように怒り出して「違う、違う、もっと私の弾いているのをよく聞いて!」と怒り出してしまうのです。

勿論私達もよく弾いて教えます。表現を伝えるためには先生がちゃんとその通りに弾ける事も必要な事なのです。しかし、基本的には演奏を伝達するのではなく、なるべく言葉で教えるようにしています。その代わりといっては何ですが、自分の下手な演奏の代わりに世紀の名演奏家達の良い演奏のCDを何枚も聞かせます。特にBachなどの生涯勉強しなければならない曲に関しては、CDだけでなく、譜面も出版されているだけ買わせるようにしています。版によって指使いは勿論、フレーズや(ひどいときには)音さえも違うことが多いからです。

音楽を生業とする人は、楽譜に盲従する人が多いようです。作曲者に対しての尊敬であれば、私がそれを否定する理由は全く無いのですが、出版された版をそのまま信じる事には参ってしまいます。音楽大学の先生が、古い100年も前の間違えた解釈のまま出版されている楽譜を猛進している事は、勉強不足だけでは済まされない根本的な問題だと思われます。

しかも、私は作曲者が犯している間違いを見つけるのが趣味でもあります。
バッハだってショパンだってよくあるんですよ。
モーツァルトにいたっては繰り返しの部分(再現部)は『45小節省略』なんて直筆楽譜に書いているもんだから、転調楽節の部分の#や♭が判断できかねるような楽譜も多々あります。
そういった記譜上で起こる問題は出版社泣かせで、いろいろな解釈の起こる元ともなります。
又、校訂者が勉強不足で、作曲者が正しく書いているのに、間違えた解釈をしてしまい、わざわざ訂正してしまっている楽譜すらあるのです。
ショパンのバラードだって、校訂者が勝手にショパンの楽譜にいっぱいに和音を書き足して出版しています。
それが世界のstandardになっているのです。
20世紀になってポーランド政府が校訂者の勝手な変更はショパンに対しての許されざる冒涜行為だということで、新しくショパンの原譜に忠実に印刷された版を出版しました(その版は前半がファクシミリになっていて、後半はそれを忠実に再現した楽譜です。政府による発行なので、ファクシミリにしては非常に廉価に値段が設定されています。)が、そういった話すら、日本の大学の先生方はご存じないし、ましてやその版を使って指導している日本人の大学教授はいるのかなぁ?まあ、その版でコンクールなんかに出て弾いたところには、
「なんて変な演奏をするのか!」と烈火のごとく怒られて、失格になるのが落ちだろうね。
ヘンレ版や(まさかペーター版?)に、全ての権威を感じて疑わない先生は多いですモンね。
ピアノの場合にはまだ良い方で、弦楽器のヴァイオリンやチェロなどの楽譜にはボウスラーなどが書かれているので、もっとややこしくなっているけれど、ボウスラーなんかを書いていた作曲者は殆どいないんだよね。
もっと言うと、モーツァルトなんかは強弱すらあまり書いていないのに、出版されている楽譜には実に細かく書いてあって、不思議な事に別の版でもそれが殆ど同じなんだよね。
どうなってるのかな?

モーツァルトの直筆楽譜にはそんな事は書いていないのに・・・。

 

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2.芦塚メトードの教育概念

芦塚メトードでは、年齢やレベルに応じて教育を行います。

最初に年齢別の教育概念について説明します。

 

1.幼年期から小学校の3年生ぐらいまでの時期

躾としての教育期・・・・体に染み付くと言う事

この時期は勿論年齢が低いので理論的に理解するのは困難ですが、その反面、より直感的なセンスが優れている時期なのです。コピー・エージと言われるようにコピーをする感性が非常に優れている時期でもあり、又単純な機械的な練習に対しても集中することが容易に出来る時期でもあります。機械的なトレーニングの持久力を育てたり、集中する時間を伸ばしたりすることが出来る貴重な時期でもあります。勉強で言えば単純な作業である計算問題などを嫌がらないで出来るようになる時期でもあります。

その為に、まず芦塚メトードで子供に達成させなければならない基本的な教育は、「時間の躾」です。

 

①習慣と罪悪感

NHKの「試して合点!」と言う番組で分別のゴミ捨ての話をしていました。

一般の主婦に「分別しないでゴミを捨ててください。」と言うと、「えっ、分別しちゃだめなの?」と主婦達がうろたえていました。

つまり、いったん分別する事がその人の癖になってしまうと、逆に分別しないというその人に対して罪悪感を生み出してしまうのです。不思議ですよね。

毎日、お風呂に入って、或いは朝髪を洗う癖のある人は、それが出来ない環境にいると、そこで暮らす事が耐えられない事になります。
しかし、毎日風呂に入ったり、髪を洗ったりと言う慣習は、戦後になって日本社会が高度成長で豊かになった結果、そういった贅沢が出来るようになったのです。
でも今の日本の人達はそれが贅沢とは思わないのですよね。

 

②時間の躾

●勤勉性を身につけるには・・・

練習や勉強の習慣が身に付いたからと言って、それで直ぐに勤勉性が身に付く(勤勉な性格になる)わけではありません。勤勉性を身につけるには「時間の躾」が最も大切な要素です。それは、体内時計を身につけるということで、「この時間にこれをしなければ気持ちが悪い。」と思うくらいに、子供の体に染みついた「時間の習慣」です。
私達は父兄の皆さんに、
「お金は使ってしまえば無くなりますが、勤勉性は、親が与える事が出来る、一度身についたら一生失う事のない、究極の財産です。」と言う事をお話します。

時間の躾は幼児期から小学校の低学年までにはごく自然に身につきますが、絶対音感と同じ時期で、(それ以降も勤勉さは身に付くことはありますが、「自然に、ごく当たり前に・・・」という意味では)幼児期に身に付いた時間の躾にはかないません。

勤勉性・・・これはどんな親でも与えることが出来る、かけがえのない財産であり、子供にたいしての貴重なプレゼントなのです。

 

●練習の躾をつけるには・・・・

子供を育てる事(勉強の躾、練習の躾等を子供に身に付けさせる事)に不安を感じているお母さん方に、私はよく逆にこう質問をします。

「でも、歯磨きの癖は子供さんに付けたのですよね?」「それじゃ、トイレのしつけは?」「じゃあ、躾を子供に付けさせる事は出来る筈ですよね。」

難しく考えないで、こう考えてみてください。

歯磨きを子供に教えるときに、歯磨きは別にいつでもよかったわけではないですよね。

では何時したらよかったのですか?

じゃあ、トイレは?・・どのタイミングで?

 

でも練習や勉強をさせようとして、子供にその躾が身に付かないとしたら、それは子供との条件の出し方に問題があるんですよね。
例えば練習を自分でやるように躾をしたいとして、それが身に付かないということは、子供のベストな練習の時間は何時なのかを見出せないだけでしょう?

それにはいくつかの条件がありますよね。

まず、親にとっていつが練習にとって都合が良いかではなくって、子供にとって練習をするための、ベストな時間を見つける事です。親が食事の用意や家事等の雑用をこなして、落ち着いて子供と一緒に練習を見てあげようと思ったとき、もう8時になっていました。
子供はもうすっかり眠たくなってしまったので、練習が苦痛でしかありません。
ですから親がせっかく子供の大切なスキンシップの時間だと思って一緒に勉強しようと思ったのに、親の期待に反して、練習=眠たいと言う条件反射が出来てしまいました。

同様に、「学校から帰って直ぐに練習させようとしましたが、子供が全く集中出来ません。」という話がありました。
私が子供によく話を聞いてみたら
「学校から家に帰ったら、直ぐに皆で遊びに行く約束をしていて、自分のピアノの練習が終わるのを、皆が公園で待っているので、自分を置いたままでお友達皆でどこかに遊びに行ってしまうのではないか、と思って、練習していても気が気ではなかった。」なのだそうです。
そりゃそうだろうね!
お友達を待たせていてはね。

練習の躾というよりも集中力の持続時間がまだ出来ていないのに親と練習の時間を30分と決めてしまって、親と約束した30分の練習時間を集中できなくって、時間をもてあましている子供もいました。
練習の躾が出来ていないのに、いきなり30分の練習では、それは集中が出来るわけがありません。
ですから先生と、お母さんと、子供とで話し合って
「何分なら集中出来るかな?」と子供に聞くと、その子が「10分は絶対に大丈夫。」と子供が言いました。
お母さんが
「でも、毎日30分は練習をするって約束したじゃないの?」と言うので、私が「じゃあ、お母さんと一日30分と約束したのだから、10分ずつ一日3回に分けて練習しようか?朝起きて10分、学校から帰って10分、後は何処に入れる?」と切り出すと、お母さんが「えっ!練習を分けてしても良いのですか?」と、驚いていました。

「大切なのは、集中力が持続している間だけ勉強すれば良いのです。」
「逆にだらだらと集中しないままに、時間で切っていく勉強の仕方は、子供の能力を落としていくことになるので、絶対に止めてください。」

「但し、大切な注意は、一日3回とか5回とか、回数は何回でも良いのですが、開始時間は必ず決められた時間に始めるようにしてください。」「でも体調が悪かったりで、10分間の集中力が持続出来ない時には、絶対に無理をして『10分の約束だから』とか言って、だらだら決められた時間までやらせることはしないでください。則、切り上げるようにして、お母さんとお茶菓子タイムにでもして、集中の出来ない原因は、疲れているからか、或いは学校で何かあったのかなど親子で会話をして、子供の状況をつかむようにしてください。練習=集中と言う図式が出来上がると、良いのです。」

 

いったん時間が子供の身に付いてくると、練習をしないことが、歯を磨かないことと同じように気持ち悪くなってしまうのです。先ほどのNHKのお話のように、いったんゴミを分別する癖が付いてしまうと、ゴミを分別しないと言う事ですら、罪悪感がついて気持ちの悪いものですからね。

先ほどのお母様にも、そういう話をしました。
母親が子供と練習にベストの時間を探し出して、10分ずつの練習を一日3回やるようになってから、子供が30分の通し練習が出来るようになるまでには、半年もかかりませんでした。
急がば、回れと言う事かな?

 

③お子様と一緒に

幼いお子様を持たれるお母様にとって、「子供をどう育てればよいのか」という事は、常に大問題であります。

幼い子供がお稽古事を始めるときに、親と子供が一緒に練習をするという時間を取れると言う事は、教育的にも大変理想的で親にとっても子供にとっても望ましいことだと言えます。それで頑張って、時間のしつけをしようとしたけれど、今度は内容的に自信をなくされる方が多いのです。
「子供がいつまで経っても、ちっとも行ったとおりに出来ない。」「出来ないだけじゃなくって、だんだん反抗的になる」などなど・・・。

この段階では子供の教育に熱心であればある程、逆に『自分に自信を持てない。』と私達におっしゃられる方も多いようです。

この話は「啐啄の話」でも書いていますので、あまり詳しくはしませんが、私達のアドバイスとしては、「頑張って」、とか「一生懸命」とか「教育する」と言う言葉はちょっと捨てておいて、それどころではなくって「親子で一緒に練習をする(楽しむ)」と言う言い方もちょっと捨てて、「親子で同じ時間を共有して楽しむ。」と言う考え方に徹する方が良いように思います。
親子で楽しい時間を共有する、その材料に練習を使うのです。

④適正な教育

親が教育に熱心であればあるほど、子供の能力を超えて高望みをして、子供をつぶしてしまう傾向があります。

思い道理に子供が言う事を聞いてくれないので、ヒステリックになってしまい、症状的には今よく社会問題的になっているネグレクトと全く同じ状態になったります。
勿論、その結果は子供の反応自体もネグレクトの場合と同じような心身症の症状を惹き起こしてしまいます。

状態の現れ方とその結果が同じであるということから、一般の心理学では十把一絡げに払ってしまうので困ります。
なぜなら問題を解決するための、親に対しての対処は全く異なるからであります。
ネグレクトの場合には、ほとんどの場合が幼児体験などに基づく親の側の心身的な問題であり、親の心療内科などでの病院での治療が必要であるからです。
それに対して、親が厳しすぎる場合には、年齢に応じての教育(意思の交換)、啐啄のテクニックなどの教育のテクニックを学べば良いだけであるからです。

子供が何か一つが出来るようになるためには、学ばねばならないずいぶんたくさんの数多くの段階があることを親が知って、理解出来る様になれば,子供に対してのヒステリックな接し方は自然に治ります。

しかし、啐啄の難しさは、受け手と送り手が同じ段階(レベル)のものを交換(communicate)しなければなりません。レベルが違ってしまえばタイミングが合っても何にもならないのです。

必要な時期に必要なことを必要なだけ行う。
これがあせらない自然体の教育です。(ホームページ上の参考文献:「啐啄の話」・「親の過剰期待」・「過保護と過疎護」のページ参照)

又、子供を自然に褒めることが出来るようになって、子育てを子供自信と一緒に味あい、ひととき、ひとときを、楽しんでともに勉強するという姿勢を持つことが出来れば、正しい適生な教育が出来ていると言えます。

 

大学で書かれた教育論文はともかくとしても、音楽教室の父兄向けに配布するためにかかれた、20年以上も前のワープロで書かれた教育論文を、パソコンでOCRしてホームページの方に転載し始めました。

ワープロのフロッピーの文章はパソコンで読み取る事は出来ません。互換性がないのです。
オアシスのワープロ文章をワードに直すソフトを試してみましたが、一文章ごとに大変な手間がかかることが分かりました。
というわけで、いろいろ試した挙句一番手っ取り早いものがOCRだったわけです。

但し私の論文は教育に関するものだけではないので、仕事の合間、合間に多種多様にわたる論文をコンピューターに写しながらなので、いったいいつ終わるのかよく分かりませんが、暫時、OCR出来た論文からホームページ上でリンクを張っていきたいと思っております。


 

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2.小学校の上級生(5,6年生ぐらい)~中学生

「見守る」ということの大切さ

①要注意のギャング・エイジ

子供達の意識が友達や異性、社会などの外面に向かう5,6年生から中学生にかけての時期は、教育心理学的にはギャン・グエイジという言葉でも表される時期であります。しかし、この時期は子供の巣立ちのためのトレーニングの時期であります。

何事も自分で勝手にやって、親の言う事を聞かないなと思ったら、突然、甘えてきて子供(赤ちゃん)に還ったり、とても払いにくい時期でもあります。

親も親で、「あなたは、大人なのだから自分で判断なさい。」と言ったかと思うと、「子供のくせに、親の言う事はちゃんと聞くものよ。」と言ったり、大人になったのだから、と言って自分で子育てを一方的に卒業させてしまって、外に働きに行ったり・・・。

父親も、子供が幼い時には、自分がどう子供と接していけば良いのか分からなかったので、全部を母親任せにしてきたのに、子供が自分の話が理解できるようになったから突然、父親として、(今までの子供の育ってきた道筋は無視したまま、)突然父権を主張しだしたりして、子供を困らせます。

大体この時期は、夫婦間もなんとなく疎遠になりやすい時期でもあります。つまり、夫婦の共通話題だったはずの子供の問題も、子供がある程度自立するようになると共通の話題にもならなくなって、子供の話題自体も家庭から消えてしまったりします。親が子供のことをかまわなくなると、子供は直ぐに暴走を始めます。

親の言う事を聞かなくなったり、思春期症候群が起こったり、せっかく育てた練習の躾を、悪い友達なんかの影響で全くなくしてしまったり、特に女の子の場合には彼氏ができてsexの問題が絡んだりすると、勉強や夢の達成のための努力に二度と意識が戻ってくる事はありません。

逆にこの時期に親が何とか子供に自分達の夢を押し付けようとして、独立心の強い子供(例え長女であったとしても)に、勉強や練習に強引に介入するケースがままあります。これは望ましい状態とはいえません。

 

例外:

「例え長女・・・」と言う事については、これは特殊な例外の話なので本当はお話すべきかどうかは疑問なのですが、長女タイプの子供は母親と二人三脚で努力していく子供が多いからなのです。長女タイプの子供は基本的には独立を望みません。母親が子供を自立させようとすると逆に「見捨てられた。」と感じてしまうのです。

 

勿論、長女タイプの例で、仮に親と子供の関係がうまく行っていたとしても、親が介入してくる内容が、先生の指導内容といちぢるしく異なる時には、子供は混乱し、学習の伸びが止まってしまいます。それだけではなく、やがては音楽嫌いにもなって、音楽を学ぶことをやめてしまう結果を引き起こします。

 

タイプ別の子育て方は、あくまで参考にと言う事なので、この文章には載せていません。

全文を載せると大変なことになるので、タイプのある程度の分類だけを載せておきます。

A:兄弟がいるケース

Ⓐ男の子だけの兄弟 の中の○番目

Ⓑ女の子だけの姉妹 の中の○番目

Ⓒお姉さんが最年長での混合兄弟 の中の○番目

Ⓓお兄さんが最年長での混合兄弟 の中の○番目

B:一人っ子

Ⓐ男の子

Ⓑ女の子

これだけざっと書いただけでも、大変な分類になることはお分かりと思います。

基本的にはアドラーの心理学の中に兄弟別の分類はありますが、当時はまだ一人っ子という存在自体が、一般的ではなかったので、一人っ子についての問題提起はなされていません。日本型の女性の自立で一番難しいのは、B-Ⓑの一人っ子の女の子のケースなのですが。

 

②この時期の理想的な親の姿勢(全てにわたって矛盾した年齢)

子供たちは(例え親の介入を極端に嫌がる自立心の強い子供であったとしても)、親が自分のことを見なくなってしまうと、極端に不安になって挫折を惹き起こしてしまいます。それは必ずしも、精神的な弱さから来るだけでなく、成長期の肉体のアンバランスからも来るものなのです。ですから、それまで年齢に対してはとてもしっかりしていた子供が突然幼くなって、甘えてきたりします。

勿論、この時期は自立の時期である事には変わりないのですから、子供は自分のやる事を、親からは口出しはして欲しくはないと言う事を望んでいる事には変わらないのですが、それでも、親が自分のことを見守って、見つめていてくれることを(しかも自分を信じていて)、いつも強く望んでいます。

 

この年齢の時期は、大人になるための準備の時期なのです。本当は全てを一人でやりたい、そして出来る事を親に見せたいのだけれども、一人で未知の所に踏み出すには怖いのです。失敗もします。失敗したときにはもう一度子供に戻って親に甘えたい。でも直ぐに立ち直ってもう一度自分でやりたいので、口出しはして欲しくない。そういった矛盾に満ちた時期でもあります。

 

親と言う字は木の上に立って見ている人と書きますね。曰く見守る人‥という意味なのです。

距離をおいて自分の子供をとてもよく見守れる場所(木の上)から見守っている、それが親の理想的な立場です。見守られていると言う安心感を子供が抱く事が出来れば、いじめや非行の問題は、最初から起こりません。

 

それなのに日本型の父親は、「自分が一生懸命に仕事さえしていれば、子供は自分の背中を見て育つ。」などと本当に思っているから怖いですね。

本当の、「親の背中を見る」という事は、父親が自分の背中を通して、子供を見ているという事なんですがね。

昔の不器用な父親は子供を直接見るという事が、恥ずかしくって出来なかったから、「自分の背中に目を作って」背中にある目で子供を見ていたのですよ。
くどいようですが、見ているのは親であって、子供ではないのですよ。まず、そこが違いますよね。
そして子供は親が背中を通して自分を見ていることを肌で感じる。
そういった意味なのですがね。

 

同様に、子供が自主的に練習をすると言う事は、「子供に勝手に練習させる。」あるいは「子供が勝手に練習する。」と言う事とは全く違うということなのです。
ちゃんと先生が(親が)自主的に練習している所を見守って、チェックしておいて、後で子供が行き詰ってアドバイスを求めてきたら、それとなく指導するから、いつのまにか自主的に出来るようになるのです。

自主性は年齢が来たからと言ってもほって置いて身に付くというものではありません。
ちゃんと教育しなければ、いくらその年齢に達しても、いきなり身につくものではありません。

いずれにせよ、子供が始めて自立しようという人生の中で一番不安定な思春期の時期に、子供をほったらかしにしてしまい、子育てを失敗する親を今まで何人見て来た事か・・・・・。

例えば、生まれたばかりの赤ちゃんが立とうとする時には、親は一生懸命手を差し伸べます。子供がずっと親と一緒だったのに、始めて一人で歩もうとするときに、「一番見守っていて欲しい年齢の時期」に、「子育ては終わった。」なんて勘違いをしてしまって、子供を失ってしまう親が結構いるのですよ。

確かに親にとっては子育ては初めての経験ですから、なかなかそういったことがわからないのかもしれませんが、私たち教育のプロから見たら「またか・・!!」という事ばかりなのですが。

 

③先生と親の違い(信用と信頼)

教室の生徒の場合には、お母様の職業が、学校の先生やピアノの先生ということが思いのほか多いようです。ですから、教育に熱心になるとついつい、自宅でも子供が練習していると、ついつい子供に対してピアノの先生になろうとしてしまう事があります。

 

医者でも同じですが、医者は基本的には身内は診ません。どうしても感情的になってしまい、厳しく見なければならないところを見逃して、どうでもいいところを大騒ぎするからです。

 

あるときに、私の養父が母のレントゲン写真の重篤な影を見逃してしまい、養父の医者仲間の友人たちから吊るし上げをくっていました。「お前、何でこんな影を見落としたんだよ。」養父も首をかしげて、「何故気がつかなかったんだろう。」と不思議がっていました。
でも、ちゃんと友人達に見せて判断を仰ぐという事は、さすがだなと思いました。
・・と言う事で母も大事には至らなかったのです。

 

又、一般の父兄の方達の場合ですが、「子供が先生の言う事はよく聞いても、親の言う事は聞かないから。」と言って、先生に対してジェラシーを抱かれる父兄の方もいます。

私はそこでよくお話しします。

「先生と親は違うのですよ。」・・・・

(「教育者の両親が子供に対してよく犯す過ち」のページ参照)

とても子供好きなピアノの先生がいます。でも、困ったことに、レッスンで、ついつい母親になってしまうのです。先ほどの医者と同じで、困ったことに、客観的に子供を見てくれないのです。

 

お母様がピアノの先生で、小学校の4年生の女の子が教室に来ました。
ピアノはとても上手なのですが、譜読みが全く出来ないのです。
お母様に
「譜読みの練習のカリキュラムをやりましょう。」というと、「この子は譜読みは得意です。」という返事でした。
親が弾いたのを、耳で本当に一回か二回で覚えてしまうのです。
しかし、難しい曲はぱらぱら弾けても、バイエル程度の曲すら、譜読みが出来ないのです。
困ったことは親が、ピアノの先生であるから、それを認めようとしない、・・という事でした。
譜面が読めなければ読めないなりに指導は出来ます。
しかし、音楽の方に進むのなら、必ず何時かは譜読みで行き詰るのだから、早い時期に本当に直さなければならない所は、少しずつでも直していかなければなりません。
早ければ早いほど子供にとっても楽です。
しかし、お母様のピアノの先生の立場としては、娘が譜読みが出来ないという事は、先生としてのプライド的に認めることができなかったのでしょう。
「譜読みが・・・」という事を、指摘された途端に、教室をやめてしまいました。

 

よく「音楽教室をやっている」ということを言うと、「子供をお好きなのですね。」といわれる事があります。
しかし、本当は子供を指導するピアノの先生であるために、別に子供が好きである必要はないのです。
「音楽を」、あるいは「ピアノを」好きであれば、それで充分なのです。

子供が好きで音楽が嫌いな先生と、子供が嫌いで音楽が好きな先生だったらどちらの方が良い先生だと思いますか?

藪だけど、患者思いの医者と、名医だけれど、患者の事はあまり考えてくれない医者だったら、どちらに診て貰いますか?

 

冗談はさておき、「子供を見守れるように」親がなるためには、必要な大切な言葉があります。この話はそのまま先ほどの、親と先生の愛情の与え方の違いにもなります。

 

それは『信用』と『信頼』と言う言葉であります。

 

この言葉の意味の違いを正しく理解することは、とても大切です。

『信用』と言う言葉は、「結果」を見てその結果についてのみで判断するということです。

『信頼』とは、その「結果」がどうあろうとその子供自身を信じるということです。

先ほどの話で、親が教育者である場合に犯す最も多い間違いの原因は取りも直さずこの言葉に由来します。

先生は子供と信用関係であった方がベストであり、親と子供は絶対に信用関係にあってはならないのです。

親は必ず子供を信頼しなければなりません。それが親の愛であります。

先生の役割は子供がちゃんと育つように教育するとく事です。

親の愛情と、私達指導者との大きな違いは、『親は子供を信頼することが出来る。』と言う事です。仮に社会の誰もが自分の子供の事を信じなかったとしても、親の貴女は子供を信じ認めてあげなければなりません。

例え、子供がもしそれをのぞむのなら、それが今出来なかったとしても、必ずいつかは出来るようになると言う事を信じてやらなければならないのです。

「私の子供だから、出来るわけが無い。」なんて地球が逆さになっても、考えてはいけません。

「必ず出来る。」と信じてあげなければなりません。

それが木の上に立って、子供を見守るということなのです。

 

それに対して、先生は『子供が何処までは出来て、何処から出来なくなるか』を正しく判断出来なければなりません。先生の愛情というのは、愛情は愛情ではあるかもしれませんが、常に冷静に、感情を交えずに、子供の成長を見て、何が足りないか、何を指導すべきかを判断して、教え導かなければならないのです。

 親が子供を『行動の結果』で愛するとしたら、子供は普段の日常生活の中で親を信じることが出来なくなってしまいます。
常に自分に「100%を要求される」としたら、子供はどうなると思いますか?

日常生活の中で、子供は追い詰められて行き、逃げ場がなくなってしまうのです。
そこである地点で爆発をしてしまう。
それをSNBP(負の転換点)と呼びます。(後述)

 

 

④思春期の女の子の教育

思春期の女の子の問題は、教育界と医学界、心理学の世界の狭間に合って、なかなか研究が進まなかった分野でもあり、芦塚音楽研究所では教室の創設時からその研究に取り組んでまいりました。と言う事で父兄の研究会等でかなり早い時期からその対処の仕方を説明してまいりました。(ホームページ思春期シンドローム参照)思春期の問題はよく女の子の生理の問題と勘違いされる事があります。生理の時期とは殆ど無関係に思春期シンドロームは起こります。また、日常を普通に過ごしている女の子には思春期の問題はそんなに強くは起こりませんが、勉強や練習などを一生懸命やっている子供になればなるほど、現れ方は劇的になり、問題は深刻になります。またその時期が中学受験の時期や遅い子供にとっては高校受験の時期に重なったりするので、問題をより大きくする事があります。いずれにしても、このお話だけで大きな一冊の文章になってしまいますので、ホームページの文章を読んでください。

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3.高校生以上

本当の意味で、「音楽に進みたい。」とか、女の子が将来を決定して言ってくるのは、高校1年生の夏休みから2年生の夏休みにかけてです。
その年齢にならなければ本当の意味での社会の一員としての自分の未来が見えてこないのです。
その為に私達の教室では、その生徒が、せめてレッスンに通って来てくれていれば、その時期にもし音楽大学進学を子供が望んだとしても、何とか対処出来るように通常のレッスンの中で、ある程度の音楽大学の受験のためのカリキュラムがこなせるように指導をしています。
勿論、何とか・・・程度ではありますが。
しかし、よその教室から、その時期に
「音楽大学に進学したいので何とかして欲しい。」と頼み込まれても、それは不可能です。
それはそこまでの基礎の勉強が出来ていないからです。
ピアノやヴァイオリンだけでなく音楽大学受験のためのいろいろな教科(ソルフェージュや聴音などの)に対する基礎の勉強が問題です。(以下ホームページ参照)

 

高校2年と言うのは、女の子だけではなく、男の子の成長にとっても重要な時期であります。
男の子と女の子を同じ年齢という枠で指導すると、必ず、女のこの方が先に成長します。小中学生での男の子は女の子に比べて幼いのです。しかし、高校の2年生頃にはやっとあらゆるところで女の子に追いつきます。身長も女の子を抜いていきますし、肉体的なことばかりではなく、成績なども女の子に追いつきます。やっと、この時期で、プチ・大人の仲間入りをします。と同時に、今まで親や学校などに自分と言うものを押さえつけられていた子供達は思い切ったプロテストをしたりする事もあります。これが家庭内暴力や学校の校内暴力となって現れます。また抑圧された感情が極端にゆがめられて表れる場合には殺人などの事件を起こす事もあります。しかし、これらの親や学校の判断は、一応に
「今までは、とても良い子だったのに、理解できない。」と言います。
私達に言わせれば、
「理解できないのではなく、自分のエゴで(子供を自分が望むように)見る以外には、子供を(ストレートに)理解しようとは思わなかったのでしょう。」としか思えません。
子供の心の叫びはいつも出ています。
本当に子供の心を聴こうとする人達には、子供の叫びは届いています。
しかし、学校や親達は、その忠告を聞こうとしないだけなのです。

親が強すぎて(子供が親に対して)反発できない場合や、子供の精神的な成長が未熟な時期(心が成長し切れていない時期)にsnbp(負の転換点)の時期を迎えると、ひきこもりやリストカット(自傷)になります。それが進行して、もっと悪い状態になると、心身症から分裂症に、或いは直接的に自殺をすることになります。

これらの症状を引き起こしたときには、治療として子育てのやり直し、(simulation)をする事になります。そこで正しい愛情表現の模擬的な勉強をします。

なんともやりきれないことなのですが、それでも本当の親の愛情よりも勝っているのですからいたし方ありません。親の価値観が狂ってしまっているわけなのですからね。

 

「通常の子育て」は普通は大学に進学させる所ぐらいで終わります。通常の・・・・はね!

 

以上が、年齢に関する芦塚メトードの教育概念についてです。

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3.年齢によらない教育論

また、子供の年齢によるものとは直接関係はありませんが

芦塚先生のいろいろな教育論のお話を簡単にご紹介しておきます。

 

子供が質問するということ

芦塚音楽研究所の見学に来た音楽家達がまず驚くことは、子供達が先生に対してごく自然に質問をすることでしょうか。(一般の社会では質問をされると自分を否定されたように勘違いして怒り出す先生が多い。それで普通は子供や親が先生に対して質問をする事はまずないのです。)

私達の教室では、先生達は子供達の質問に対して子供に分かるように易しく、楽しく説明しています。語彙の少ない子供達に音楽上の色々な事を説明をするのは結構難しいのです。
例えば、ブルグミュラーの練習曲集の中に「優美」という曲がありますが、子供に
「優美ってどんな意味か知っている?」と聞くと「知らない」というので、国語辞典を引いてみましたが、「雅やかな様子」などともっと難しい言葉で説明してあり、逆に子供はもっと???????が増えてしまいました。
芦塚メトードでは子供に言葉を教える事の重要性を常に説いています。

まずそれを、見学に来た先生達が驚嘆されます。
子供を教えた経験のある先生は子供に説明をすることが如何に難しいかはよく理解できているわけですが、音楽大学等を卒業したての若い先生達には、自分等が実際に子供の質問に対して、どれだけ説明が出来るのであろうかということを理解させ自覚させるために、教室の先生の代わりに、子供の質問を受けさせてみました。

結果は惨憺たるものでありました。

子供の質問に対して、その回答を若い先生本人自身が知らないのです。

論外と言わざるをえません。

ごくまれに回答を本人自身は分かっている先生がいたとしても、それを子供に伝達するだけの、子供との会話する上での語彙が無いのです。

ましてごく普通の先生は、自分が育ってきた過程で、音楽に対して疑問を持ったり、先生に質問をぶつけてみたりした経験を、(音楽の勉強だけではなく、)塾やはたまた学校でさえ、してきたことが無いからです。

それで、そのまま大人になって、先生として現場に立ったとしても、自分の過去の生き様の中にそういった経験がないということは、自分自身が勉強する上でもネックになってしまいます。「何事に対しても疑問を持たない」と言う事は「成長をする」と言う事すら無いからです。
子供に何を質問されても
「知らない。」「分からない。」と答えます。
困ったことです。

しかし、プロの世界では無知は恥となるのですがね。

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子供に対する尊敬語の教育について

芦塚先生は、あまり小学生ぐらいの子供が尊敬語を使ってしゃべってくるのを好きではありません。
親は
「先生に対して、なんて口の聴き方をするの!」とかよく先生の前で子供を叱ったりします。
芦塚先生は親に
「とってつけた(心の伴っていない)尊敬語は気持ちが悪いから。」と言うのですが、躾を考える親にとってはたまらなく、許せないようですね。しかし芦塚先生が子供に敬語をあまり使わせない本当の理由は、子供の本音が聞けなくなるからなのです。
子供は敬語では、まだ自分を表現する技術は持っていないからです。
しかし、子供達が中学生以上になって尊敬語を使いこなせるようになったときには、芦塚先生に対して溜め口でしゃべっている生徒は一人もいません。
いつの間にか、不思議に尊敬語に代わっています。

教室では、生徒が上級生になるとインストラクターの勉強を始めて、それからいつの間にか先生になります。
外から雇われてくるのではないので、生徒から先生への移り変わりがよく分かりません。
ですから、最初は親も、生徒も
「**ちゃん」と先生のことを読んでいます。しかし、いつの間にか先生がベテランになって来ると、親も生徒も自然に「**先生」と呼ぶようになります。

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兄弟で同じ楽器を習う事の問題点

兄弟が同じ楽器を始める場合には、年下の子供は上の子供が先生に怒られたりするのを見ることで、学習してしまうので、よく親は、「下の子の方が、上の子供よりも才能があるのでは・・」などと勘違いをします。
しかし、それはあくまで上の子供のお稽古措観察して学んでいるからで、当然上の子供がお稽古事を止めると下の子供は学習する事が出来ないので、当然一人でやっていた頃の上の子供と同じ状態になります。

これは次女、三女等もまったく同じで、長女タイプ、次女タイプ、でも子育ての仕方は基本的には違うのです。長男、長女は常に新しい事を開拓しなければならないので、常に親の手助けが要ります。それに対して、次女、三女は長女を見て学ぶので、長女7割次女2割三女1割の比率でかまっていけば、均等にかまった事と同じになるのです。これを芦塚メトードの7対3の理論といいます。(ホームページへリンク)

又、長男は同じ楽器をやっていると弟から一瞬で抜かれてしまいます。音楽の場合、勉強の仕方はある程度共通でもやむをえませんが、不必要に長男にコンプレックスを与えないように、一般の教室ではお兄ちゃんよりも教材を先に進ませないようにするところが多いのですが、私達の教室では楽器を変えて、子供に不必要な競争をさせないようにしています。
楽器を変えれば、どちらがどれぐらい技術的に伸びたかは関係ありませんからね。

 

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SNBP負の転換点

此処のところ、テレビなどで大きな事件を起こした子供の話を毎日のようにやっています。

小学生や中学生の子供が問題を起こすたびに、テレビではどんな教育がなされたのであろうかという話になり追跡調査されます。

テレビではコメンテーターがいつも同じ事を言います。
「本当に親の言う事を聞いて、勉強も出来て、学校でもリーダー的な存在で、どうして、そんな子が何で親殺しとかするんだろう?」というお話です。

そしてそんなおとなしい、良い子供が何故、どうして・・・・?と言う話で終わります。

私に言わせれば、その子供は親の前で良い子になりすぎたのです。

そういった親の過剰期待は、子供の夢を伴いません。
いい学校に入って、いい大学に入ってそれからどうするのよ?あなた自身が中学校や高校生のときにそれで悩んだはずでしょう?
それなのにどうして同じ悩みを子供に与えるの?

つまり、良い成績をとるとか、良い大学にいくためにより難しい塾に通わせると言う事が、子供自身の価値観と結びつかなかったのです。
それを学ぶ事が子供にとってのi dentityとなりえなかったのです。
塾で勉強をする、良い成績を取る、と言う事が、子供自身が抱いている夢とつながったときに、始めて価値を持ち意味を成すのです。

貴女が子供であったときに、良い大学に行くと言う事がどれだけの夢があったのでしょうか?
成績を上げて良い高校に言って、良い大学に入って、それからどこに就職するのかな?
それが子供の夢になるのかな?
それは子供の夢ではなくって、貴方の夢ではないのですか?
子供の本当の夢は将来何になりたかったのかな?

そういった子供の心を押しつぶして、
お前は良い社会人になるのだから良い大学に行かなければ・・・!それは理不尽でしょうかね?
良い大学を出ても就職する事すら出来ないで、引きこもりをしている、あるいはニートをしている、あるいはネットカフェで毎日プチホームレスをしている若者達・・・等等、が現在社会現象となって政治の世界にまで問題となってしまっています。
一言で教育の崩壊とは言い切れません。むしろ人格の崩壊になってしまっているのです。

ネットカフェやホームレス、などは大人になってからの話ですが、むしろ問題は子供達の生活にあります。
大人になるまでも、耐え切れなかった子供達は「負の転換点」を渉ってしまいます。

張り詰めた風船が如何に脆いか?・・・敢えて言うまでもありますまい?

張り詰めた子供の精神の風船が破れる瞬間の事を、心理学的には負の転換点(SNBP)と言います。

厳しい親の躾に耐えきらなくなったとても従順で素直で、心の優しい子供達に当然のごとく「負の転換点」は起こります。

違うんだよな~!

そういう子供だからこそ、そうなるんだよね。

それをSNBPって言うんだよ。

負の転換点は、その子供の心が弱く優しい場合には、その結果は、自分を痛めつける方向に起こります。そして、心身症という結果を生み出します。

比較的初期の状態では、風邪のような症状(発熱や頭痛など)虚食症や腹痛、慢性化してくると小児喘息などの症状が現れます。引きこもりやリストカットなどの自傷などもこの段階で起こるのです。

さらに重症になってくると、緘黙児(引きこもりとは違います。)となり、さらに悪化すると、心神喪失や分裂症を引き起こします。一度、分裂症になると、二度と直りません。一生薬を飲み続けなければなりません。

子供は無意識に、本能的に(心身症や分裂症の)病気になるのを、逃げようとします。それで、周りの社会にhelpの信号を出します。それがリストカットや引きこもりなどです。いろいろなhelpを見逃さないで子供に救いの手を差し伸べる、それも先生の役目です。

 

特に分裂症を引き起こすケースとしては、父親の家族に対しての威厳が強く、しかも父親自身が理想主義的で在り過ぎて、果たせず、子供たちに要求している言葉が現実とくい違いすぎるばあいであります。親自身が自分が望んで果たせなかった夢を子供に託そうとして、よくこのケースになってしまうことがあります。

父母が与えている夢が親のものか、子供自身のものか、現実を正しく認識する事は子供を教育する上で最も大切な事なのです。

 

上記の例は父親が自分の夢を達成出来なくて、子供にそれを託そうとして犯す誤りですが、反対にある程度満足がいくコースを歩いている父親が犯しやすいケースがあります。

 

 父親(や母親)が自分の到達した学歴や、社会的地位を子供に自慢して、その上で子供に自分を乗り越えるように命令し要求する事です。

何故、それが子供をだめにする事になるのか?それは潜在意識的には、親が自分のすごさを子供に認めさせたいという理由であることが多いからなのです。

 私はこれを『潜在的命令』と呼んでいますが、これには子供に対して次のような潜在的命令が含まれています。

 

Step1.父親(母親)は、    **大学の出身だから偉い。(学歴)

                **会社の**だから偉い。(地位)

Step2.私は父親なのだから、  子供は従順でなければならない。

Step3.おまえは子供だから、  父親を越えてはいけない。

        (父親は絶対であり、乗り越えてはいけない存在。)

 

もし子供が、父親に対して「従順で良い子供であろう」とした場合、子供が(父親に対して)良い子であろうとすればするほど、父親の満足度と反比例して子供の苦痛が始まります。

このケースの場合、親が満足すればするほど、子供の苦しみが増すわけなので、これ程子供にとって不幸せで悲劇的な事はありません。

他人から見ると実に痛々しい事なのですが、当の家族はそれを気付いているケースは少ないのです。親の言う事を素直に聞くとても良い子供と、教育熱心な両親、傍から見ても、とても理想的な幸せな家族にしか見えません。ねぇ、どっかで聞いた怖~い話じゃ無いですか?

何でも親のゆうことを素直に聞く良い子、両親にとって自慢の子供は、しかし本当は「親にとって都合の良い子」でしかありません。子供自身は、破裂寸前の風船の状態なのです。

 

ここで父親はいよいよstep3.の潜在意識的な要求を発動します。

革新的な能率的な方法では子供が一瞬の間に自分を追い越してしまい、父親の権限が失墜してしまいます。
ですから、いくら努力しても伸びない旧態前とした儒教的な勉強法、又の名を、闇雲勉強法とも呼んでいますが、で勉強をさせます。

そうして父親と子供が、ループする一番能率の上がらないやり方で無駄な努力を始めます。
その結果、子供は父親の要求通り、一生懸命努力している(ポーズを)しますが、成績は上がりません。父親は、失望しながら満足します。
「やっぱり自分は子供より優れた親なのだ。子供が自分を越える事はないのだ。」と。

 

こういった直接的な日本型の父親の話とは別に、私がずいぶん以前に書いた論文では、非常にクレバーに、妻や子供に対して接する「隠れ日本型」の父親の例を報告しました。
日常的、外面的にはヨーロッパ型の父親のように、妻や子供に対して上手に接する事が出来るのですが、本質的には隠れ日本型とでも言うのですか、独善的で支配的な性格を持っている人がいます。
建前と本音の使い分けが非常に上手く、妻や子供との話し合いや家族会議などで、言いたいだけ妻や子供に意見を言わせて、それを説伏していって、
「私はお前達の意見は充分よく聞いてやったのだから・・。」とか言って自分の意見を最終的には全て認めさせてしまいます。
母親や子供は一応父親が自分達の話を聞いてくれたのですから、それで充分に満足をして、父親に対しての信頼は絶対的なものがあります。
しかし、それは、人を丸め込むための、ディベートのテクニックにしか過ぎないのです。
そのタイプの父親はよく子供に条件を出します。
「これが出来たらお前の言う事を認めてあげよう。私もお前の言う事を聞いてあげるのだから、お前も私の条件をクリヤーしなさい。」
一見物分かりの良い父親のような話ですが、その条件はとてもかなえられそうではありません。
それでも、死に物狂いに頑張って、父親の条件をかなえたら、今度はもっと不可能な条件を出します。
そして等々条件をクリヤーできなくなったときに、父親は勝ち誇って言います。
「ほら見たことか。お前は何も出来ないのだ。俺の傍でおとなしく、私のいうことを聞いていればそれで良いのだ。」結果的には、儒教的な絶対君主的な父親なのですが、それをわからないままに育っている子供も多いのです。

そのタイプの父親は子供の巣立ちを絶対に認めません。
子供の恋愛などは、以ての外です。
子供の仕事から結婚までも自分が決めないと気がすまないのです。

 

多かれ少なかれ、親は子供が実現不可能な条件を子供に与えて、「それを出来たら、自分のやりたい事をやって良い。」という事を言います。

例えば、「音楽の勉強を続けたければ、塾のテストを平均で何点以上取らなければならない。それ以下だったら止めさせる。」とかです。

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