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本棚の逆側の写真です。


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8.[精神的な状態:filing]

近頃よくテレビ等で話題になっている話に、「片付けられない女」の話があります。

但し、「片付けられない女」と一言で言いますが、実はその例は二種類あります。

「片付けられない・・・」と言うと、一般的には単に怠け癖で「片付けられない」ように思われがちですが、実はその一部の人達は、実は精神的な病で片付けられないのです。

ADHDとかADD症候群などで、医学的に脳のスキャンをすると脳に異常が見られるのです。

ですから、本当に自分が片付けられないと悩んでいる人でしたら、一度病院で見て貰うと、薬を処方して貰うだけで、かなりの改善が見うけられます。

このお話には専門的な知識が必要なのでここでは触れない事にします。
但し、ついでのついでという事ですが、本当は「片付けられない女」よりも「片付けられない男」のほうが多いと言う事は知っておいてください。
精神障害には、男女差はありませんし、大人子供の差も殆どないのです。

 

それ以外の心的な要因の場合には、まず「片付けよう」と言う気力が起こらない・・と言う事に原因があるようです。
気力の場合は、ホルモンバランスの崩れや精神的、或いは肉体的、病気による鬱という原因もありますが、それも、病の話になりますので、ここでは問題にしないことにします。

 

つまりここで問題にしたいのは、「片付けられない・・」と言う事が単なる「怠け癖」の場合のお話です。

「片付ける気がない」と言う主な原因は、「めんどくさい」と言う事に尽きると思います。

例えば洗濯をしたら、必ず干さなければなりません。
だから、どんなめんどくさがりやの人でも、干す事はします。

しかし私は時々、この干すと言う簡単な作業すら出来なくって、洗濯機の中で洗濯物がくさくなって、洗濯のし直しをした事がよくあります。

じゃぁ、全自動の洗濯乾燥機を買えば良いではないか、と思われるかもしれませんが、私がこの洗濯機を買った頃は、まだ(ビックカメラ価格で)16万円以上出さなければ、全自動の洗濯乾燥機は買う事が出来なかったのです。
そんな高価な洗濯機を買う事は出来なかったので、私の洗濯機は10万以内の安物で、乾燥がちゃんと出来ないのです。一夜干し乾燥とか言う分けの分らない乾燥機です。(意味は、半乾きで、一晩干せばちゃんと乾く、と言う意味だそうです)

但し、私の場合には、「洗濯物を干さない」のは「めんどくさい」と言う理由ではありません。
病み上がりで体力がないので、洗濯物を干そうとすると、干す動作をするだけで、腰が痛んで、立っている事すらできなくなって、動く事すら出来なくなってしまい、洗濯物を干す事が体力的に満足に出来なかったのです。
ですから、洗濯物が出来上がると、腰が痛くなる寸前まで、何度かに分けて、干しました。
干したら、今度は畳んで片付けなければなりません。
これも同じように、腰の痛くなる作業でした。

しかし、畳まなかったとしても、洗濯機から出せば、洗濯物は臭くなる事はありません。
それなら、無理をして、畳んだり、片付ける必要もないのです。
そこは、私の部屋は誰も来ない、誰もいない一人暮らしですからね。

また、同じように、食事やお茶をすると洗物が出ます。
食器を洗うと言う作業も洗濯物を干すという作業以上に腰を痛める作業なのです。
先ほどもお話したように、私は一人暮らしですから、台所の流しの中が汚くても、私だけの問題です。
だから、流しの荒い桶に洗い物をためる事にしました。
何せ食器類ですから、洗わないでそのままにしておくと言う事には、最初の間はかなり意識的に抵抗があったのですが、如何せん自分の体力の衰えはどうする事もできません。
そのうちに慣れてしまいました。そして、体の調子が良いときに、まとめて洗ってしまうことにしました。

そう言う風に、何かが駄目なら、無理をしようとしないで、「自分流」を創ってみると良いのです。

 

例えば、先ほどのお話の、片付けるのが苦手の人は、「何でも箱」を作っておいて、まずそこに放り込むと言う癖を付けていって、やる気が起こったら、その「箱の中」を片付ければよいのです。
つまり、必要最低限自分が出来る範囲でやっていけば良いのです。しかし、病的に片付けられない人はもっと深刻な例の方が多いと思います。

そう言う風に、何でも箱のようなものを作ったとしても、それですら、面倒臭がって、身近な所に放りなげてしまう−という傾向があります。
つまり、10センチ横にゴミ箱があったとしても、そこに捨てようという気が起こらないのです。
手元にゴミがあっても、それをとる事すらしないのです。

そこまで行くと、問題はむしろ精神的なような気がします。

以前、掃除が嫌いな人がいました。

布団を畳むのに、パタパタすると部屋の空気が汚れるからとか部屋にゴミが落ちるからと言って、布団のゴミを落とさないように丁寧に折りたたんで、押入れにしまっていました。
犬と一緒に寝ていたので、シーツなどは犬の散歩のときの砂粒や犬の食べ残しなどでざらざらしていたのですが、気持ち悪くないようでした。
不思議な衛生感覚ですね。私はそんな布団だったら気持ち悪くって、とっても眠る気にはなれないのですがね。
部屋に埃が舞うのなら、窓を開けて布団をパタパタすれば良いのにね。

その人達にとっては、部屋が(布団が)汚い事は気にならない事なのです。

「片付けられない症候群(シンドローム)」という病気で悩んでいる人の殆どが、片付けられない事を、自殺を考えるほど、悩んでいるのです。

しかしながら、同時に片付けられない事が気にならないことも事実なのです。
では、「片付けられないと言う事で、自殺を考える」とはどう言う事なのかな?

矛盾していますよね。否、それが病気のもたらす所なのです。

 

余談の余談として、モンスターペアレントの話があります。
話がこれ以上長くならないように、要点だけを纏めますと、最初のきっかけは文句を言う事が、子供のためにだったとしても、それを繰り返すごとに子供のためではなく、自分の為になっていくのです。

最後には文句を言う事がi dentityになってしまいます。
ですから、非常に強く強烈に逆襲されると、子供の事は放って於いて逃げ出してしまいます。
つまり、自分の事「私は子供の為にこれだけしているのだぞ!」と言うアピールをしているのに過ぎないからです。
つまり先ほどの「自殺を考える」と言う事は、自分が人からどう思われているかに原因があるからなのです。
「片付けられない事を夫に注意された。」「回りの人に馬鹿にされた。」等々です。

その人が、(もし私のように一人暮らしで、)片付けられないのなら、自殺を考える必要もないのです。
私の場合には片付けられないシンドロームが起こって来たら、片付けられない部屋を一箇所作ります。
そこに全てを放り込むのです。
そして体調の良い時に、何ヶ月掛かろうと気長に片付けていきます。
(そう言う風に言うと、私は大変気の長い性格だと思われるかもしれませんが、若い頃から短気で喧嘩っ早くて有名な性格でした。
一見、気の長い人が上手そうに見える釣りは、本当は短気な人の方が向いているのだそうですよ!)

 

「片付けられない女」の例は、ただの余談としての話でしかありませんが、仕事をしている上で実際上部屋が散らかって来たり、資料が散乱(したり)して来ると、自分だけではなくまわりの人にもパニックが移ってしまいます。

「片付けられない・・・」は仕事の上では、新型インフルエンザのように、結構回りの人にも伝染します。

仕事をしていると、教室でも「後で作業をするから・・」とか、反対に「今は時間がないから、後で纏めて片付けるから・・」と言って、事務所に資料が出しっぱなしになっています。

私はそういったことが大嫌いだし、また資料の楽譜は私の個人財産で若い頃からなけなしのお金を使って集めてきたものだから、共有するのはかまわないのですが、それ相応に大切に扱って欲しいのです。

それがどうしても、「時間がないから、後でコピーするから・・」とか、「しまう時間がないから」と言って出しっぱなしにしておいて、「部屋は散らかってくる」、「大切な楽譜は紛失する」、となって、結果的には探すための膨大な時間や、失われた楽譜を補充するために、新たに買うための莫大な経費が無駄となって出費されていきます。

でも殆どの人は、そのときの1分、2分の時間の方が貴重なので、それを探す時の膨大な時間の事は考えようとはしないのです。だって、今、仕舞う場所は分かっているのですからね・・!!
でも、探す時には、それは「今」ではないのですがね。もう、何処にしまったか、忘れたので、探すのでしょう??
それを説明しても、「今は分かっているし、覚えているから・・」と言って私の言うことを聞こうとはしません。
女性には、今しかないのかね???

しかし、それを感情論はさておいて、損益と言う事で考えるのなら、後で、その資料が必要な時に膨大な時間をかけて探して、やっぱり見つからなくって、海外発注させられて、2,3ヶ月も保留になる方が教室としては莫大な時間と金銭の浪費になってしまうのですが、そこのところがみんなにはどうしても分らないらしい。

この事は教室を創ってから、延々と30年間以上言い続けているのだが、やはりいまだに直らない。

確かに、私もその場では、疲れてしまって、後片付けまで手が回らない事もよくある。
ただ、他の人と私が違うのは、「次の日の作業が、まず昨日片付けられなかった所を片付ける所からその日の作業を始める。」と言う事だけなのだ。
そこが私と他の人の違う所かもね。

後は、教室に行くと、さすがにlesson室はちゃんと綺麗に片付けてある。
しかし違うんだよね。
私が弾いているセカンドピアノの前に片付けたものがしまわれているので、私がlessonをしようとすると、それをどかす所から始めなければならない。その先生はセカンドピアノを弾かなかった、としても、私はそのピアノを弾くのだからね。

私はとても太っているので、グランドを弾くときにも、両足のスタンスが大きい。
だからピアノの足の周りに物を置かれるとピアノを弾けなくなってしまう。
しかし、いつも子供の足台がピアノの足の所に置いてある。
本人達は片付けたつもりになっていても、他の人にとっては、ちっとも片付いていないのだ。

「片付ける」と言う事と、「機能性を考える」と言う事は両立できるはずである。
その片付け方を見ていると片付けらない原因が分る。
きちんと整理整頓されていたとしても、それが、仕事をする上で、機能的とは限らないのだ。

それならば片付ける事は無意味である。

疲れて片付けられなくなる気持ちがよく分る。
次の日を時短しているわけではなく、今を素早く終わらせたいからだ。
私は仕事を片付ける時には、次に仕事を始める時にどうすれば、直ぐにその仕事を始められるかと言う事を常に考える。

 

本を書く仕事には、締め切りに追われて、書かなければならない仕事と、自分でやっている期限のない仕事や、情報が溜まってある程度形になった時に初めて終了する仕事がある。

Beethoven等も、ゲーテなども20年、30年と一つの作品を書き続けるわけである。
私もある程度仕事をしていて、行き詰まってきたり、飽きたりすると、その仕事を無期限に凍結する。
資料や楽譜、五線紙や鉛筆、定規までを反故の用紙と一緒に洋服の箱に放り込む。

全音の編集長が私の部屋に来て「芦塚先生のあの資料は・・」と言うと、私が天袋を開けて、そこに積み上げられた洋服ケースの中から、「これですね。」と言って出してくると、「先生の所では、一瞬で資料が出てくるのですよね。」と、笑っていた。
正に凍結状態である。

そのうち、お菓子とか、食べかけのパンも、ゴキブリと一緒に出てくるかもしれないよ!・・・それは、高校生の時の私の友人の下宿の話か???
ハッ、ハッ、ハッ!






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9.[ミスをしないための手順]

この文章は、Titleと内容が、著しくズレていたので、補足して新しい文章と追加しておく。
という事で、以下の文章は、「メモの取り方」とは、少し内容がズレてしまうかもしれないのだが・・・。

ミスには、自分が犯すミスと、外注で人様が犯すミスがあります。
昨日(16年の6月7日のオケ練習の時に)(小学低学年の)子供達に注意をしていたのですが、「自分の仕事を人に代わって貰う時には、その仕事が『終わったのか否か?出来たのか否か』をcheckする所のまでの責任は、自分にある」という話をしました。
大学生ではなく、小学生の子供達にですよ!!

人に仕事を委託する時には、相手の力量を見る所は、やはり自分の責任になります。
頼んだ人が、ミスを犯した時に、相手の力量が足りない場合には、そのミスは、その人の技術が劣っている・・という事で引き起こされるので、それは、ミスを犯して当然、と言うか、ミスが必然になるので、それは頼んだ人のミスとなってしまいます。
相手の人のミスは、当然、引き起こされたミスなので、ミスとは言えなくなるので、あくまで、発注者側のミスになり、ミスをしないための手順には当てはまらないのですよ。

という事で、以下の話は、当然、与えられた仕事をこなすだけの能力を持った人の起こすミスという条件で、話を進めて行きます。

ハインリッヒの法則
車の運転でもそうなのだが、幾ら、運転がベテランになったとしても、事故を起こす人は、しょっちゅう事故を起こすし、運転の初心者であったとしても、事故を起こさない人は全く起こさない。

私も、事故を起こした経験はないのだが、・・・・だからと言って・・「それは単なる性格の問題である」・・等とは言わないし、思いもしない。

事故を起こさない人達は、事故に対しての思い入れが強く、事故を起こす人達は「絶対に自分は事故を起こさない!」と、思い込んでいるのだ。

よく勘違いされる事は、必ずしも、法律を守っているから、事故が防げるという分けではない・・という事なのだ。
無事故無違反の人達が、本当に無事故であったとしても、無違反である・・とは、警察の人達自身が思ってはいない。
警察の人が、無違反の人達を前に「あなた達が無違反なのは、単に運が良かっただけなのですよ。」と、暗に車を走らせる事が、無違反では不可能な事を認めている。
首都高や、京葉道路は、時速60キロの制限速度である。もし、その速度を守る車がいたとしたら、首都高は大渋滞になるだろうよ。
首都高を車を走らせていると、「今日は遅い日だな?」とか「今日は早い日だな?」とか、日によって車の流れが違う。
だから、私もいつも定速で走っている分けではないのだよ。

私の場合を例に挙げると、私が常日頃から注意している事は、三つある。
その一つは、「怖い=ひやりとした」・・という運転をしない事である。

それを「ハインリッヒの法則」という。

事故を起こすことを、「カタストロフィ=取り返しの付かない事故、事件」とするならば、「危ない」という確率と、「ヒヤリとする」という確率があって、その比は1:29:300の比になる、という確率論である。

つまり、「ヒヤリとする」事を減らすならば、「事故にあう」確率は、不可抗力の案件だけになる、という事でその確率を極端に減らす事が出来るからだ。

また、その日のコンディションは、その日に犯した「ヒヤリ」で判断する事が出来る。
横道からの子供の飛び出しに「ヒヤリ」としたのなら、その日一日の運転で、飛び出しに注意をする・・という事である。

第二番目の注意は、危ない車の後ろには、絶対につかない、近づかないという事だ。
フラフラしている車がいたら、それは居眠りか、酔っぱらい運転か、さもなくば、運転未熟である。その後ろで走っていたら、事故を起こさなかったとしても、疲れる。
疲れは事故の大敵である。集中力が衰えるからである。

第三番目の注意は、イライラとしている時には、車を運転しない事である。
近親縁者が死んだ時や、家族が病気で病院に急行しなければならない時にはタクシーを呼ぶべきだし、医者でもその原則は守っている。大病の時には医者は家族を診断はしない。当たり前の話である。

たった、この三点だけを注意して、しっかりと守るだけで、事故は防げる。
さて、この三点は、どうして編み出したのか??
車を運転しようとする人で、教習所で貰う安全運転の栞という本以外に、安全運転の本を自分で買って迄、読んだ人は少ないだろう。
私は、免許を取る前に、そういった本を片っ端から買い込んで、教習所で教える知識以外に、そういった勉強をペーパー上でやった。
その中のadviceで、「これだけは??」と、思えたのが上の三点である。

要は、車の免許を取る時に、事故を起こさないようにするには、・・・という事に意識があるかどうか・・という事である。
殆どの人達が、免許さえ取れれば、事故は起こさないのでは?と、思っているのではないかな??

仕事上でも、ミスを犯す人は、「自分はミスをしない。」と、思い込んでいる人が、圧倒的に多い。
勿論、ミスを犯す人達は、自分の犯したミスに対して、寛容であるし、ミスを犯さない人達は、自分の犯したミスを、自分自身に対して、許さない。そういった人達は自分のミスに対して、非常にstoicである。

それ以上に、二番目の注意である、貰い事故は、本人がどんなに注意をしていても、体のコンディションに気を付けていても、防ぎようが無いのだよ。
私は車間を忠実に守るのだが、そうすると、車間が空いているから・・と、割り込んで来る車が多い。そういった車が追突事故を起こし、毎日のように、玉突き事故のニュースがある。
急ブレーキを踏む時には、ポンピングブレーキを踏んで、後続の車に合図を送り、後続の車がブレーキを踏んだのを確認してから車を停止させる。急ブレーキには、それだけのゆとりが必用なのだよ。

此処までの話は、当たり前の事ではないか??・・・なんで、そんな当たり前の事を、今更・・・・と、思われるかもしれない。若し、あなたが、そう思われるのなら、あなたは、ミスを犯すタイプの人である。
何故ならば、当たり前のはずなのに、現実的には、毎日死亡事故が起こっている・・。死亡事故とは、カタストロフィの事なのだよ。その日の1回の死亡事故に対して、300回のヒヤリ運転と、29回の事故が起こっているのだよ。
一日の死亡事故の平均は12人だそうだから、毎日、348の事故と3,600のヒヤリ運転が起こっている計算になるのだよ。


ミスを犯す人に対して批判をする人は、よく「詰が甘いのだよ!」と、咎める事が多い。
人が言う事は、「もう一歩、或いは別の視点でcheckをすれば、ミスは防げたのに」という事である。
しかし、その一歩がないから、ミスを犯してしまうのである。

とすれば、このミスの話は堂々巡りをしてしまう事になる。
つまり、ミスを犯す人に対して、幾ら、注意をしても、そのミスが治らないのは、そのミスを再び犯さないように努力をするだけで、意識を変えようとも、治そうともしないからなのだよ。

私は子供達をlessonする時に、このミスを治すために、ミスを大きく二つに分類して、「ポロミス」と「ポニョミス」と名づけた。

ポロミスは、本人が気がついていないだけで、原因があるミスなので、指導者がそのミスの原因と修正方法を指摘指導してやれば治るミスの事に定義をした。

ポニョミスは、必然性がなく、突然ミスをする事を名づけて、これは性格や意識の問題であるから、音楽の指導そのもので治す事は出来ない。

音楽を好きになって、チョッとしたミスも許せない性格(意識)になれば、理想的なのだが、巷の音楽教室では、そういう事は望めそうもない。

本人がポニョミスに悩むようになれば、ポニョミスは犯さなくなるのだがね。

本人がポニョミスに悩むようになって、その相談を受けた時には、私は次のようにadviceをする。
日常の些細な動作の中で、「しまった!」と、思うような事を、常に正して行くように注意すれば、ポニョミスは防げるようになるのだ。これはハインリッヒの法則の応用である。

また、この文章を打っている時にも、キーボードの感知ミスがよくある。
勿論、Keyboardを買い直せば、それで良いのだろうが、そうでなくても、それを修正する事が出来るのだよ。
そこが芦塚メトードだなや??

Keyboardの感知ミスは、「する」と打っても、「sる」と入力されてしまうという、キーボードの特性のミスである。
(勿論、新しいキーボードに買いなおせば良いだけなのだが、このキーボードは気にいっているので、今はその気はない。)という事で、私は「sる」を「する」に変換するように単語登録をしてしまった。

後も、同様に、「mす。」とか、誤変換が起こるので、「mす。」を「ます。」に単語登録をしている。
機械的なミスであれば、ミスをそのように正しく入力指せる事も出来るのだよ。

教室で、斉藤先生が、小さな子供の伴奏をする上級生の生徒に、soloをする子供が本番の演奏の時に犯すであろうミスの対処を指導していたら、それを見学していた先生が「子供がミスを犯すという想定で、練習をするのは、相手の子供に対して失礼でしょう!」と、烈火の如く怒って来た。
斉藤先生は、「ミスを犯す場所が分かっているのなら、ちゃんとそのミスに対処出来るように指導すべきでしょう?」と、説明したのだが、その先生は、soloを演奏する小さな子供にちゃんと指導するべきと、思い込んで、納得しようとはしなかった。
そのpassageでその子供がミスを犯すのは分かっているのだから、そこの所をちゃんと指導するのは当たり前の、コンコンチキだよ!!
それを放り投げて、上級生に指導をしている・・と思ったら、先生に対して、大変失礼な話だよな!!

小さな子供達の場合、幾ら、噛んで含んで、手を取って、ちゃんと指導したとしても、舞台で何が起こるか分からないのだよ。

それは、athleteを見れば分かるのではないのかな??
athleteは、舞台でミスをしないように、それこそ血の出るような努力を、産まれた時からやって来ている。
それでも、本番にはミスをする時にはするのだよ。

athleteがproになった時には、舞台でミスをする事はない。
上手くなったから??・・・そんな事ある分けないじゃん。
ミスしないように、pro仕様の演舞をするのだよ。
危なげのないように・・・・。
そういったtechnicは、実際には受験指導の場合や、コンクールに出場する場合には、私もそういった危機回避の指導する事が、よくある。
所謂、pro仕様の危機回避のtechnicなのだよ。

でも、それは、学習者には教えない。
easy goingな勉強なのだから、やはりちゃんと正しい基本は、学んだ方が良いに決まっているからね。

実際に、子供が舞台でミスをした時に、何の対処も出来ない方が、よっぽど子供に対してかわいそうだとは、思わないのかね??
また、これは、リスク管理として、とても大切な事なのだが、人間はミスを犯さないとでも思っているのかね??
そういった人達の特性では、「出来る範囲で、精一杯の努力を・・」何て言い出す。

「出来る範囲で、一生懸命にやりました。」
何て事があるのかよ??
「出来る範囲」とは、それを「一生懸命」とは、言わないのだよ。
最初から自分を限定していたら、成長はないと思うがね。
そういった生き方をする限り、proにはなれないのだよ。
当たり前の事だがね!!!

こういったミスの話は、そのまま時短の話にも、繋がって行くのだ。
時短が出来ない人には、大きく二つの理由がある。

routine作業
その一つは、「時短のための手間暇を掛けるよりも、作業した方が早い」と、思い込む事なのだ。
時短のroutineを覚えるには、そのroutineを熟せるようになるための努力が必要で、一旦、そのroutine作業を、覚えてしまうと、非常に早く熟せるようになるのだ。

しかし、そのroutine作業を、覚え込む迄には、逆に時間や手間が掛かるので・・・覚えてしまおうとはしないからである。

routine作業が一番必用で、時短が求められる時は、忙しい時なので、時短のroutineの手順を覚えるための時間はない。

しかし、暇な時は、時短そのものが必要ないので、そこで時短のroutineを覚えようとはしないのだよ。
必要に、迫られてはいないのだからね。
だから、暇な時に努力をする・・という発想がない。
暇で、時間がある時に、弟子にroutine作業を指導すると、routine作業が覚えられるよ!!


並行作業
仕事を効率的にこなす(時短の作業のため)には複数の仕事を平行してやっていくとよい。

これは器用さや勤勉さに著しく劣る私が、他の人と同じ程度の仕事を出来るようにするための私なりの方法論でもあった。(とても分かりやすく、そのもっとも単純な形が買い物メモである。普段から思いついた池袋の買い物を「池袋の買い物memo」に書き溜めておいて、池袋に行く用事が出来た時に、一緒に済ませてしまうと言う事である。[3]

しかし、あるタイプの人達は、次の日に仕事を残すと言う事が出来ない。
私も大学時代は2日、3日徹夜しても、その時に仕事を片付けなければ気が済まないタイプであった。

そういったタイプの人は、面白い事に、池袋に行くのにも、当所の目的の用事しかしない。
「ついでに・・・」と言う事が許せないのである。

しかし、現実的には学校の勉強と違って社会の仕事はその仕事が終わるまでに、何年もかかる仕事のほうが多いのである。
そういった長大な仕事をこなすには、幾つもの仕事を同時にこなしていけなければならない。(先程の池袋の買い物の例でも、私のように病気で、すっかり体力がなくなってしまえば、一回池袋に行く事で、何処まで一緒に他の仕事が出来るか?効率よく動けるか、の方が大切になってしまうのだ。)

Beethovenであっても、40年間、たった1曲の「運命シンフォニー」だけを作曲していた分けではないでしょうが??
同時進行で、無数の曲を作曲していたのです。
しかし、いくつも課題を同時に進行させていくという仕事術、方法論を、学校で学ぶ事は、まずないと言っても良いでしょうね。

(勿論、学校では色々な教科を平行して勉強していくわけなのだが、一つの研究課題をそれぞれに平行して研究すると言う事とは根本的に意味が異なる。)

先程の例のように、世の中には不思議な事に、一つの事ならば与えられた仕事をちゃんとこなす人が、その仕事が二つ、三つにまたがってくると、突然、作業が出来なくなるというtypeの人達がいる。

一つ事なら一生懸命できるのに、二つ、三つとなると、その内の一つにしか目が行かなくなって、他の事を無視してしまうのだ。

そういったタイプの人が自分自身を「仕事の中で・・・」直していくのは難しい。

もし本当に、そういった自分の性格を直したければ、もっと簡単な日常的な生活の中で自分を直していけばよいのである。

 

例えばそういったタイプの人の話として、一例を挙げる。

ある人がメールで私に対して色々と質問をして来た。

しかし、突然、自分の生徒が「こういう風だから、どう指導したらよいのか?」と聞いてくる。
しかし、私はその生徒の学年も知らなければ、どのlevelの曲を勉強していて、今まで何を学んできたのか?どういう性格か?将来の目的、(趣味なのか、或る程度音楽を目指しているのかすら・・・分からない。

だから当然、「回答するのに情報が足りないから、その生徒の情報を教えてください。」と逆に質問を返すと、その話はそれっきりになってしまって、全く別の質問をしてきたり、仮に質問の内の一つだけ(例えば学年だけ)は答えが返って来たとしても、それ以外の質問に対しては、それ以降は何回も同じ質問を繰返しても、その返事はない。

そういった質問をする人の事を、「自己完結型人間」という。

質問した事で、・・・或いは、それに対して、たった一つの答えだけが返ってきたことで、安心してしまって、問題が解決した気になってしまうのだ。

問題を提示しただけで、もう解決した気分になってしまうのである。
このタイプの人は結構多く見受けられる。

しかし、質問をされた側は「それなら最初から質問なんかするなよ!」と怒り出したくなる。

一つだけ回答をしたとしても、本人は、当面自分が回答できる事だけを回答したと思っているのだろうが、それは相手に対して大変失礼な事だ。

自分が質問した事の一つ一つに対して、してもらった回答の一つ一つに、実際にそれを応用したらどのように問題点が改善されたのか?或いは上手くいかなかったのか?一つ一つに対してしっかりと感想を述べていくべきである。
そこのキャッチボールはしっかりとやるべきである。

答えをもらったら、それよしとして、すべて終わりにする事は大人としてはやるべきことではない。
その結果は、どうなったのかの返信はちゃんとするのが礼儀だろうよ!

 

私の場合には、相手から質問をされた事に対して、「回答のし忘れ」がないように、そういったミスをしないように、或いは思い違いがないように、私は「相手の質問を返信で返す」ようにしている。

(勿論、携帯やパソコンのメールの設定は相手の文章をそのまま残す設定にしている。)

通常のメールのやり取りの時に、相手のメールを残して返信をする場合には、相手のメールが自分が書いたメールの後に表記されるようだが、私の場合には、まず不要なアドレス等のデータ部分や、相手のメッセージ中の不要な部分を全て消去する。

そして、回答が必要な部分だけをメールに残して、その案件をひとつずつ、事項にあわせて、丸付き数字で箇条書きにしてしまう。そして相手の質問のそのまま後に、私のコメントを書きます。

(そういった文章を私は割り込み回答と勝手に呼んでいます。)

その回答があまりに長期に渡ったり(回答を書く時間がなくってしばらく保留されてしまったり、回答が複雑で込み入っていて、文章がとても長文になる場合には、(例えば、一つのメールに5つの質問があって、回答をすると非常に長文になる場合には、)そのメールの回答を、二つ、三つのメールに分けて、それぞれに前半部の質問@AB、後半部の質問CDとか分けて、回答していきます。

一つのメールを複数のメールに分けて、それぞれに回答していくのも、幾つもの複数の質問に対して、答えを忘れないようにするためにです。

実は、一つの文章の中に、二つも三つも問題点を見つけ出す事があるのです。ですから、その場合には、「あなたの質問はこの問題とこの問題を含んでいるのです。」と複合的に回答していかなければなりません。つまり、相手が自分自身に問題を抱えている場合には、一つの問題を解くだけでは、問題は解決しない事が多いのです。

実際上は、先程書いた「池袋の買い物」等も、一つの事しか出来ないtypeの人の自分を直していく方法なのですが、そういった単純な事でさえ、結局はmemoを集めると言う作業をめんどくさがって、やらなくなってしまいます。

そうして、仕事がだんだんたまってきて、もう自分ひとりで解決できないところまで来ると、パニックが起こります。そのパニックは、その人の態度や服装などいろいろなところに表れます。

そういったその人の心の乱れを感じ取って、その人と話ししている時に、私が「貴女の部屋は、今は片付けられない症候群になっているでしょう?(散らかっているでしょう?)」とか言うと、相手はどぎまぎして「そうなんです!」と驚きます。(えっ、どうしてばれたの?おしゃれも気をつけていたし、態度も結構気をつけていたのに・・・???)

本人が仕事などでパニックになっているときや、鬱状態になっている時には、その人の住んでいる環境も必ずといっていいほど精神状態そのままです。(それはその人の住んでいる部屋が、他の人から見られることがないから、その人の内面の状態を表してしまうからです。勿論当たり前の事ですが、しょっちゅう誰かが訪ねてくる部屋はその人の内面を反映する事はあっても、それほど極端ではありません。)

一端、そういった混沌とした状態に部屋がなってしまった時には、そういった状態の部屋の中で考えても良い答えは勿論、見つかりません。

そういったときは、まずその部屋から出て、気分転換を図る事が大切です。

欝の状態の人は、自分の部屋から外に出ること自体が難しいからです。

兎に角、混沌とした自分の部屋を出て、“こじゃれた”雰囲気の良い喫茶店などにでも行って、まず座って落ち着いてみて、何が「片付けられない」原因かを見つけ出して、その原因をどのように作業すれば、簡潔に、易しく、片付ける事が出来るかを、珈琲でも飲みながら「楽しみながら」考えればよいのです。

つまり「かたづけよう」とするから、プレッシャーになるわけなので、「もっとおしゃれに出来ないだろうか?」とかいう風に考えてみればよいのです。 

「片付ける」というマイナーな要因を、「部屋を自分の好きにアレンジする」という趣味の楽しい世界に変えていくと良いのです。

これを私は「付加価値をつける」と言っています。

退屈なめんどくさい単純な嫌な仕事でも、それを若い先生に指導すると言う事になると、その仕事は別の意味を持ってきます。
何でもよいから、自分の好きな仕事に置き換えてしまえば良いのです。

もっとも、私の場合には、若い子に教えるのが好きではないのですがね。
何故??って??
だって、若い子の場合には、私の言った事の都合の良い部分しか理解しようとはしないし、自分流にしか解釈しないでしょう??
だから、同じ話を100回もしなければならない。
何度聞き直しても、あなた流にあなたに合わせて答えを言う事は(私に限っては)絶対にないのだから・・・!!
答えは、私が中学生、高校生の時から同じ答えをしているのだよ。
私は私なのだから、未だに何も変わらないのだよ!!!





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