音楽家の日本版に対しての不信感(改訂版)

Beethovenのcellosonateの原典版について

原典版と校訂版の違いについて

Subject: ベートーヴェン

こないだお話したチェロソナタの初稿版というものは、調べてみたらば(というか楽譜を取り寄せようとネットで検索したら)、ボンのベートヴェンハウスに唯一保管されていて一般には出版されていないというものだそうです・・・。

てんてんてん・・・一体どういうのなんでしょうか・・・

ちなみに私が昔アカデミアニュースで見かけたのは、「校訂批判版」でした。

校訂を批判してるってことですか??

批判して校訂してるってこと??

どういう意味でしょうか?

 

Subject: RE: ベートーヴェン 原典版の説明

批判というのは 、昔々、どこかの国の誰かが、Ariaというイタリア語を英語のairと間違えて読んで、「G線上の空気」と訳したように、 kritik ausgabeを「kritik」(批評する)「ausbage」( 出版) と言葉通りに訳したという事で、お脳の良さが反映されて良いですね。

つまりariaという単語は、英語やフランス語に訳すときには、airとスペルが代わるのです。

勿論、語源的な話もありますがね。(確かに、アリアは空気っぽいかな?)

訳の間違いついでに、日本でヴァイオリンを学んでいる子供達のよく弾く曲の名前が日本版では「Aia Varié」(エア・バリエ)となっていますが、その読み方もおかしいですよね。

本当ならば、全音や音楽の友社等の日本版の楽譜にカタカナで読みが書いてあるように、「エア・バリエ」とは読みませんよ。

イタリア語ならばvariato(ヴァリアート)、楽譜通りに読むとしたら、フランス語なのでエール・ヴァリエと読みます。

ここでも英語とフランス語の混同が見られます。

そういった風に、楽譜には間違いがつき物なのです。

日本語で言う「校訂」という言葉は、異本が色々あるときにそれを比較対照して、べストを選び出す事を言いますが、外国ではむしろ「校訂」よりも「Urtext」(原典)を読む事を大切にします。

 

そういった、出版社側の間違いのほかに、昨日のオケ練習の時に子供達にお話をしたように、作曲家は色々と横着をして楽譜を書いている事が多いのです。

MozartのPianosonateで B Durの1楽章で再現部に入るところで、♮か♭かの表記が異なる版が数多くあります。その原因はMozartが再現部のthemaの繰り返しを書く事を横着して、何も書かない小節の上に同じpassageは15とか書いて、同じpassageを繰り返し書かないのです。

そのために転調の楽節があるとその場所が♮なのか♭なのか、判断に苦しむ事になります。

 

右の楽譜はMozartの手書きの楽譜です。

勿論、出版はされていません。

「出版されていないのなら、何故、持っているのか?」って??

・・それは聞かない事!!

 

MozartのPianoQuartett  g mollのⅡ楽章で、どうしても調べたいところがあるのですが、facsimile版がアカデミア楽譜(東京の輸入楽譜専門店)に2万5千円ぐらいで売ってあるのですが、財布の底は見えているのに、楽譜代もキリがないのでネ!?

 

世界中のChopinの楽譜の定本になっているのは、不思議な事にペーター版だそうです。

ところが、困った事にペーター版の楽譜では、Chopinが書いていない和音を補強してあったり、またその逆もあって、徹底的にChopinの作曲をkritikしています。(本当は改ざんという言葉を使うところでしょうがね。)

楽譜の記譜上の誤りを修正するのではなく、Chopin自身の作曲を修正しているのです。(平たく言えば、勝手に書き換えたってことですね。)

世界中の出版されたChopinの楽譜は、今日でもそのペーター版の(何処の誰だか知らない校訂者の)修正された楽譜を定本として使っています。

つまり、最初にChopinの曲を出版した初版本だから権威があるのですよ。(誰かが勝手に書き換えたとしてもね!)

 

それに怒ったポーランド政府は、昭和60年代に、ポーランド政府監修(!)の原典版に、しかもfacsimile(写真)を添えて、facsimile版としては、非常に安い値段で世界に配信しました。

世界のChopinの楽譜の、間違いを正すためです。

おかげで、苦学生であった私もChopinのたくさんのfacsimileを非常に安く購入する事が出来ました。

しかし、それから、40年以上経った今日でも、世界のChopinの楽譜は何一つ変更されてはいません。

相変わらず、ペーター定本のままです。

もしも、facsimile通りにコンクールや音楽大学の入学試験で弾こうものなら、即、失格です。

ハッ、ハッ、ハッ!

てな事を書くと、即音大生から今はどの音大の先生もパデレフスキー版を一番権威のある版として使っているよ。と、お叱りを受けそうです。でも、それも、パデレフスキー版であって原典版ではないんだな~、困った事に!!

 

 

Bachの場合も、短調の導音の#を書かない癖があります。

それで下降の時の♮も書かないんだよ。

だからインベンションのような超popularな曲でさえ、めちゃめちゃ、版によって音が違ってきます。

てっきり、子供が間違えて弾いたと思ったら、版が違ったりしていて、しっかりと子供に怒られたりして、lessonが混乱してしまいます。

アハッ??

 

そこで、Urtext、所謂、原典版というのが登場します。

しかし、困ったことに、Urtext(原典)は誰が見ても同じ本になりそうなのですが、今書いたような楽典的な理由の他にも、作曲者自身がうっかり書き間違えている場合などもあって、そういった意味でkritikが必要になってくるのですよ。

Kritikという言葉には、批判、批評、異議、論評のほかに、実は判断という意味もあるんですな!実は・・・!?

 

だから、同じ原典版を底本にしていながらkritikerが変わると解釈が変わってしまうのですよ。

そこで、不思議な事に「誰それのkritik Ausgabe」 というのが、色々な出版社によって出てきてしまう。

同じ手書きの楽譜でも、見る人が違うと音やその他の色々な所が変わってしまうのだな。

通常はこれだけの話になるのでしょうが、問題はもっと複雑になります。作曲家が初版や第2刷等の校訂に立ち会った場合、作曲家が自分の作品を出版の段階で訂正する事がままあるのです。

その場合には大元の原稿(所謂、facsimile)は訂正されないままになってしまいます。

又出版された曲が何度も刷り直され、その都度作曲家が立ち会った場合には第1刷ではこう書いてあるのに、第2刷ではこういう風に訂正されている、という事もあるのです。

しかも、作曲家の死後も、校訂者によって、勝手に書き加えられた譜面も数多く存在します。そこで、原典版(UrtextAusgabe)というのが、必要になってきます。

しかし、気をつけなければいけないのは、多くのpedalの記号や指使い等は作曲者は記入していません。(Chopin等はMazurka等の曲で一部だけpedalを記入しています。しかし、それはほんの一部にしか過ぎません。)

Mozartにいたってはpedalを書かない事は当然ですが、forte、Pianoすら書いていない事のほうが多いのです。

それどころか、Mozartの場合には前述のように、reprise(再現部)や単純な繰り返しは、書かない場合の方が多いのです。そのpassageに中に転調楽節等が含まれていたら大変です。

又、Mozartの場合には、その転調楽節の変化する音が入っているpassageが、省略されたpassageの中によく含まれているのだな。これが・・・!

そこで、色々な校訂者やkritikerの出版した、kritik Ausgabeの出版社別によって異なる部分を、そこの部分だけを集めて、「何々の定本によると何になって、だれそれの校訂だったらこうなる。」 と纏めるだけで、一冊の論文が出来る。

 

一般のlevelとすれば、大学の卒論程度のlevelかな?

うちの教室だったら、中学2,3年生の夏休みの楽典の宿題の課題程度のlevelだけれど・・・。

って話ですよ~!!

 

RE: ベートーヴェン

ちなみに、出版されていない楽譜は、ハイツに大量にあります。

世界中でMüchenの図書館に1冊しかないはずの超貴重書のコピーや、記念に一回だけファクシミリとして出された楽譜、100年以上前のもう誰も知らない楽譜等々、武蔵野の音大の図書館が虎視眈々と狙っていた私の貴重書がハイツに誇りまみれになっているんだな~!これが・・・!!

 

教室が井口版を使用していることへ のクレーム

井口版に対する不信感

芦塚先生⇒I先生へ

春秋社版の愛の夢のミスプリって何処ですか?

ページ段数小節の順でお願いします。

 

春秋社の件で

おつかれさまです、あいにく今「春秋社版」を持っておらず、ページ、段がわかりません。

申し訳ありませんが小節数だけお知らせさせていただきます。

64小節目(冒頭のアウフタクトから数えはじめ、後半に戻る手前、高音から半音階で両手で下ってくる装飾音の始まる一小節前になります)

左手の「ミ♭-ソ-レ♭-ソ-シ♭-レ♭-ソ・・・・・」の二番目の八分音符の「ソ」の音です。

これは絶対に「シ♭」です。春秋社がミスプリのつもりでなくとも、マイナーすぎて明らかにおかしいので直した方が良いと思われます。

因みに、世界の主要な版を確認してみたのですが、一社だけ「Klvierwerke社」リスト全集第六巻が「ソ」になってます。確認できた限り他の全ての版はシ♭でした。

 

愛の夢の音の違いについての説明

ご指摘のミスプリの話ですが、「愛の夢」は教室では常設曲の一曲で、今までにも数十名の生徒達が発表会やコンサート等で演奏しています。

私も以前は、今程は目も悪くなかったので、生徒が持ってきた楽譜を使用して、そのまま指導していました。

殆どの日本版はご指摘のようにソではなくシ♭で書かれています。

全音版のピースですら、シ♭なのです。

ですから、その事を井口先生がご存じなかった分けは無いのです。

 

つまり、異なる定本があると言う事でミスプリではないのです。

という訳で、私もどちらでもよいという立場をとっていました。

シ♭である根拠はロマン派の時代にはピアノの音域が広がって、またpedalの性能も上がったために、一番その音響が最大に生かせる(倍音率に従った)開離体で書かれるようになったという事がその理由です。

 

しかし、Lisztはピアノの性能と効率を最大限に引き出す才能を持った作曲家なのです。

その特性は同じ愛の夢の中のpassageでも、例えば、ハ長調に転調したダブルバーから数えて6小節目の4拍目のレ#が8beatで書かれているのに対して、12小節目の4拍目のレ♭は単音の2分音符であり(8beatでもoctaveでもありません)、「愛の夢」も例に漏れず、至る所にこういったLisztならではの、Pianoの音の響に対しての素晴らしい配慮が見受けられます。 

 

Lisztは曲の中で爆発的なimageが欲しい箇所では、非常に低音域でも密集体の和音を使用します。

例えばあの美しい「ため息」の突然に爆発的にfortissimoが来る14小節目からのpassageがそのよい見本であるといえます。

 

つまりこれ以降にはfortissimoは使用されていないのです。

同様に、「愛の夢」の58小節目の和音はこの曲の全体のクライマックスの部分になります。

しかし、右手の和音があまりにも高音域にあるために、appassionato assai・・・affrettandoと盛り上げていったとしても、幾ら右手の和音にaccentを付けてfortissimoを強調しても58小節目ではクライマックスの「鶴の一声」を表現する事ができません。

 

又、当時のピアノはforte-pianoから、発展の最中で、当然、現代のフルコンほどの音量はありません。

そういった当時のピアノの音響の脆弱性も考えて、Lisztの作曲法を見ていかなければなりません。

また、Lisztという作曲家はそういった事に、十分配慮している作曲家なのです。

決して、現代のconcertoPianoの音量を考えてはならないのです。

 

そのために左手は分散和音ではありますが、密集体を使用して音量を補強します。

この音が最高音量でなければならないからなのです。

それが低音域に密集体を使用する理由なのです。

 

そのために井口先生は敢えてソの音の版を使用したのです。

決して音を間違えたり、ミスプリを見逃したのではありません。











ソの音が正しいか、シ♭の音が正しいかは出版されている版の数で決定してはいけません。

世界的な権威であるヘンレ版ですら、既に幾つかの誤りが既に指摘されています。

本当に正しい版はfacsimile版です。

例:Mozart rondo a moll 167小節目のslur

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