rsちゃんが弾いたa moll の rondoも 春秋社版等の楽譜では幾つかのphrasierungの誤り、(解釈の違い)が見受けられ、私はfacsimile版で、Mozart自身の手書きのphrasierungを確認して、演奏させています。
春秋社版のslurとTie(167小節目)
しかし、残念ながら、「愛の夢」のfacsimile版は、現在は手に入りません。
ですから、Lisztがどちらの音符で書いたかを知る方法はありません。
しかし、作曲学的に言うとどちらも間違いにはならないのです。
ですから、二種類の版が出版されているのです。
Chopinは、こういった低音域を密集体で固めるような作曲法は殆ど使用しません。
それはChopinが響きに対してよりピュアーであったからだと思います。
それに対してLisztは、よく、低音域に密集体を使用します。
よりピアニスティックな演奏効果を狙った作曲をしています。
演奏効果、それはLisztの専売特許かもしれませんね。
という訳で、私が春秋社版を使用するようになって以降は、I先生ご指摘のシ♭の音は、私は生徒達には逆にソの音に訂正するようにさせています。
子供達の演奏では、ミ♭、シ♭ レ♭では美しすぎてどうしても音量や迫力に欠けるからです。
経緯(I先生のM君のBeethovenのsonateのレッスンでI先生がM君に言ったこと)
(lessonvideoからのtape起こし)
M:春秋社版の脚注を読み上げて・・・・
え~なになに、右手の変ロ音は変二音になっている版もあるが、・・・・(云々)
I:昭和の名ピアニスト井口さんという人、 奥さんは愛子さんといって名教師だった。
基成さんは演奏もするけど分析もする人
音にこだわりがあってね、わざとドイツ版じゃない音を使ってる。
これはちょっとすごく(困る!)・・・
これはこれで綺麗なんだけど。
勉強する時は君が将来大人になって これは基成先生がこれが好きでこうしてるんだけど(?)
勉強するときは楽譜通りオリジナル版の♭で弾こう
これを♮で弾く人はまずいない
それぐらい古い古典的な(解釈)だからね(?)
I:演奏(2通り弾く)
M:(聴いて・弾いてみて)う~ん レ・♭のほうだよなあ
I:本番でも、これ(♮)はしない
今でこそこの春秋社版は世界一正確な楽譜って言われているんだけど それは今は基成さんでない人が編集しているからなんだよね。
今の版は信頼出来るんだけど、この時代はいろいろ議論する箇所が多いんだ!
ドイツ版だとこれはレ・♭
注)ドイツ版というのはHenle版のことらしい!
A.まず最初に版による音の違いについて
I先生は楽譜の版についてのこだわりがあるようで、それはとても良い事だと思います。
M君に指摘されていた、春秋社版についてのお話ですが、私は春秋社版について、特に思い入れがあるわけではありません。
以前もお話したように、春秋社版は印刷が綺麗で目に優しいから、使用しているにすぎません。
と言うか、言わせて貰うと、世界的な権威のHenle版を含めて、私が信用している版はないのです。
しかし、では常にファクシミリが正しいかというと、そうでもありません。
Chopinでも、バッハやベートーベンに関しても、人間である限り作曲上の間違いはあるからなのです。
また、作曲家の技術が至らなくって、明らかにミスであるという場合もあります。
ChopinのEtudeにすら、そういった作曲上のミスは見受けられるのです。
ということで、教室には例を挙げるとすればBachのインベンションに関しては、10数冊の版がありますし、平均律やベートーベンに関しても、数十冊のいろいろな版が揃えてあります。
当然、その中にはHenle版やSchnabel版もありますが、Schnabelがその箇所(62小節目)で注意書きとして書いているのは、左の文章を読んでいただくとお分かりと思いますが、「殆どの版がこの音をレ・♮で書いているが、私はレ・♭が正しいと思う。」と書いてあります。
ドイツの版はレ♭といわれましたが、いちばん古く出版されたドイツの一番古く出版されたドイツの出版社の譜面はペーター版だと思いますが、その版もレ・♮で書かれています。
ちなみに、日本で出版されていて、殆どのピアノの先生たちやピアノを学習する子供達が使用している全音版や音楽の友版のソナタアルバムも定本はペーター版になりますので、当然、レ・♮で書かれています。
つまり、日本版、ヨーロッパ版を問わず、レ・♮ の方が一般的なのです。
でも、私自身がレ♮ を支持しているわけではありません。
私、個人的には、I先生の言われている レ・♭の方でもレ・♮の方でも、音楽的には「どっちでも良い」かな??・・と思います。
で、「本当はベートーベンはどう書いたのか?」・・・は前回でもお話をしましたように、ファクシミリ版を見ない限り、ベートーベンの意図はわかりかねます。
但し、私が「facsimile版でも信用しない。」 と言っているのには、ちゃんとした理由があります。
それは原点版(Urtext Ausgabe)やkritik Ausgabeでも、初版やその他の権威のある版を参考にする場合が多いからです。
その必然的な理由の一つは、作曲者が自ら出版に携わるときに、自分の作品をその場で校訂、加筆、訂正する事が良くあるからです。
ですから、facsimile版よりも初版の方が作曲家の意図にそぐうものが多々あります。
明らかに初版に作曲家の手が入っている場合には、そういった点を加味してfacsimileよりも初版を優先して校訂します。
又、今回のご指摘の箇所は、Henle版では、この音の違いを示唆していません。
しかし、他の版では全ての版が、脚注として、その音の違いについて触れています。
という事で、井口版が、Henle版同様に、そこの音の違いを指摘をしないまま、レ♮ としていたのなら、I先生の言うように、井口先生が思い違いや大きなmissをしていたのかもしれません。
でも、脚注で書いてある事は、「こういう版もあるけれど、私はこう思う」 という事を、校訂者が主張しているのだから、それに対して他の人が「この版は間違いである。」 と言ってはいけないのです。
それは「自分の解釈のみが全て正しく、他は全て間違いである。」 と主張している偏見と自惚れに満ちた人達の言い方だからです。
「何故他の人はそう書いたのか?」と言う事が、理解できるようになれば、「・・こうでなければならない!」というような独断的な言い方は自然にしなくなります。
だから、「・・・こうでなければならない!」という言い方は、自分の無知をひけらかす事になるのです。
私は子供達には 「何故、そういう考え方の違いが出てきたのか?」 という事を、それぞれの主張を分かりやすく説明する事にしています。
そういった、幾つもの解釈を学ぶ事、それこそが本来の楽典の授業だからです。
主任の先生やS先生達も、そういった異なった解釈がある所は、必ず、私に「どうしてここの所は、こうなっているのですか??」 と、聞いてきます。
私達の教室では先生の主観で「こういう風に弾かなければならない!」 と、生徒に押し付ける事は絶対にしません。
それは生徒の可能性を否定する事にすら・・・、なるからなのです。
今のコンクールでも、そういった版による違いは、評価する上で、審査基準の対象にはなりません。さもなければ、主催者が最初からコンクールで使用する版を指定してきます。
B.本題に戻って、「では、何故その二つの解釈があるのか?」・・・というお話をします。
でも、多くの版がレ・♮になっている理由は、作曲学的なSequenzの理論から来ています。
当時の時代の音楽では、3度が減3度になるという事、つまり、減3度という音程は一般的ではなく(非常に珍しく)、むしろレ・♮は教会旋法ということで、現代の調性が確立するまでは、珍しくはなかったのです。
しかし、Beethovenのその62小節目は現代人には不自然に響いてしまいます。むしろ、減3度の音程の方が自然に響きます。
レ・♮の方が正しいという説にはもう一つの(現代的な解釈になる)理由があります。
それは次の小節の和音がc mollのdominante(ソシレ)の和音であり、その前の和音はdoppeldominanteの和音でなければならないからです。
その場合にはレの音はc mollの属音であり、レの音は属音の属音の根音で、絶対的に変異の許されない音であるから、という和性的な理由からなのです。
では、どうしてそういった解釈の違いが生まれるのか?
それはb mollからc mollへの転調楽節の共通和音の部分だからなのです。
つまり、Beethovenは共通和音を設定しないままに突然、c mollへ転調してしまったのです。
そういったセオリーを無視した箇所は同じこのOp.2 Nr.1の作品には随所に見受けられます。
1例を挙げると、27~28小節目とrepriseの126~127小節目ですが、右手左手と同音を打鍵するという和声上の禁則を使用しています。
現代のピアノではペダルの残響で音がやせた一瞬がほとんど分かりませんが、ペダルを使用しないで一個一個の音を確かめながら演奏してみると、突然、レ、♭ラ、レ、♭ミで、音が突然痩せるのが分かります。
「Beethovenは理論より感情を優先する作曲家だから!」 といった、Beethoven擁護の声も聞こえてきそうですが、実はBeethovenはこれ以降の作品ではそういった作曲理論上のmissと思われるpassageは2度と書いていないのです。
同じBeethoven擁護の声としては 「Haydn時代とは楽器の性能が上がって、ペダルの能力も良くなったから」 という意見もあるようですが、その当時Beethovenが使用していたピアノも、晩年のピアノとは違って(まだピアノの性能が未発達だったので) HaydnやMozartと同じ(single actionの)forte-pianoで演奏しています。
この最初のPianosonateの問題点
この当時のBeethovenは、まだ自分の作品のcheckを、いろいろなHaydnやその他の作曲家や音楽理論家に見てもらって勉強している最中の時代の作品です。
初めての作品であるこのOp.2Nr.1は大変人気のある作品ですが、作曲技術的には同じOp.の作品でも、Nr.2や3の方が完成度は高いのです。
作曲学的な見地と人気は常に一致しません。それが常です。
Beethovenは推敲を積み重ねるタイプの作曲家です。
一つの作品を書き上げるのに、何十年もかけて作曲する作曲家なのです。
彼の性格で、作品も同じように感情的であると誤解して捉える方も多いようなのですが、20年も30年も同じ感情的でいられる人間はいないと思いますよ。
私が音大生の時には、ピアノの先生からはそういう風に習った覚えがあります。
「Beethovenは粗野な人だから、そういう風に(少し感情的に・・と言う意味かな?)弾かなければならない」 と・・・。
ですから、そういった時代様式の解釈の違いや和声学上の解釈の違い、あるいは感性の問題で、現在ではその二つの版が並行して存在してしまっているのです。
それに、歴史に残るような作曲家で感情の赴くままに作曲する作曲家なんて一人もいませんよ。
そういう作曲家の作品は歴史には残らないからです。
そういった意味でも演奏家と作曲家では基本的に違います。
本題に戻って・・・!
ですから、今回問題になっている音の違いは、前回のLisztの「愛の夢」の時にもお話しましたように、解釈の問題であって、「どちらが正しいか?」という問題ではありません。
私個人的には、音楽的な、Sequenz優先のSchnabel版のレ・♭でも、和声の理論上のレ・♮ でもどちらでも構わないと思いますが、気をつけなければいけないのは、井口版と言うのは井口先生の独断と偏見ではないと言う事なのです。
それまでにも、(昔々から)そういった二つの解釈があって、井口先生はSchnabel版の減3度の解釈よりも、和声の原理を優先したレ・♮ の解釈の方を採用したということにすぎません。
だから、その解釈を井口版のせいだけにして、「井口版は古い」 と言うのは音楽大学の先生方の常識のようですが、それは「日本版は悪書である」と言っている、音大特有の頑迷な偏見や欺瞞に満ちた、しかも勉強不足の教授たちの話です。
笑い話としては、「日本版は悪いので、ペーター版を買いなさい。」と生徒に怒って言っている教授がいました。
それこそ、私がまだ音楽学校の学生の頃でしたが、私達は笑いころげてしまいました。
つまり、日本版はペーター版のコピーなのです。
ですから、ペーター版を買ったところで、それはドイツの版ではなく、まったく日本版と同じ版なのです。
それと井口先生の版が古い誤った解釈であるとするならば、その新しい解釈とされている版が井口先生の出版年次より後に出版された版でなければなりません。
殆どの出版物は、初版が出版されて以降は、全面的な変更はなされません。私たちが差し替えと呼んでいる1、2ページの入れ替えぐらいしか、なされないのです。
ですから、初版本で間違いが見つかった場合でも、30年、あるいは50年経ったとしても殆どのケースの場合には訂正されることはありません。
ですから、I先生が正しいと思われている版の原本がいつ出版されたのかを、知ることが、井口版が古い版であるか否かを判断する材料になるのでは、と思います。
井口版は出版されて、せいぜい50年ぐらいにしかすぎませんが、ヨーロッパの版でいちばん権威のある版でも、100年以上は経っているので、井口版よりは古いかもしれませんよ?
不思議な事に、私は初版本の井口版のChopinの楽譜を持っています。
その本によると、その本の初版の出版は昭和16年です。
戦争にまっしぐらの時に、敵国であるフランスの作曲家であるChopinの作品を出版するのですから、春秋社も井口先生もたいしたものです。
そういった社会情勢の時に音楽ではあっても、敵国の作曲家の作品を出版する事はとても勇気と信念のいる事ですよね。
現代に出版されている版では、(私達が普段使用ているVivaldiのリコルディ版等のイタリアの版を除いては、)世界中で出版されている版で、音の間違いを見つける事は、よほどの例外を除きまれです。
音楽面白話(覚書)
"イタリアのorchestraの譜面などは、結構いい加減で、小節を数えていて何度数えても合わない。
よくよく見てみると、全部の段が最後の小節が半分になっているにもかかわらず従線が書いてあったりする。
リコルディのような権威のある有名な出版社ですら、誤植はおろかミス・プリは勿論の事、何と1~2小節多かったりするから、困ったものである
実際には、音楽大学などのアカデミックな世界に所属する人に限らず、一般の音楽を勉強する人達の間においても、「出版された楽譜は絶対である。」とする、風潮がある。
しかし、本当は作曲家の意図がどれだけ出版された楽譜に反映されているかは、必ずしも定かではない。
たとえば強弱やphrase、或いは弦楽器のbowslurに至るまで、実際には誰の手によるものか、定かでないものも多く見受けられます。権威のある版と言えども、一度は疑って見る必要があります。
極端な場合には、作曲家が自ら第一稿、第二稿、第三稿と書き直しし、手直ししたのに係わらず、ほとんどの出版社は第一稿を定本として出版しています。
勿論、評論家の第一稿擁護の論文を掲載して、自己弁護をしたりしていますが。
日本版などでも、結構音の間違いはあるものですが、何度注意しても、何年経っても直さないのは世界中何処の出版社も同じ事です。
版を直すには版下を作り直さなければならないからとても大変な作業である事は分かりますが、楽譜が間違えて印刷されたままで、音楽大学などで生徒に教えられてもねえ・・。
リコルディ版では、それそこ丸々1Pageも間違っているという箇所も、よく見受けられます。
また、それを100年経っても直さないのだよね。イタリア人の気質かね??
今回、sかちゃんの弾いたVivaldiのh mollのcelloconcertoですが、音の間違いが、何Pageにも渡ってあるので、発表会では、既存の版を使用するのではなく、全曲を新しく私が校訂をし直した版で演奏しています。
それには、それなりの理由があるのですが、その話はとても長くなるので、後日にします。
日本版と言われる楽譜も、私が高校、大学時代(所謂、昭和30年代の後半まで)は、missプリントが多かったのですが、1980年代、後半以降は、日本の出版物もきちんとcheckされ、訂正されて、以前のようなmissと言えるmissは殆どなくなりました。
当時は、日本版のミス・プリントを見つけると、3000円ぐらい、お礼が貰えるという事で、中学生の時や高校生時代の私も、何度かミス・プリントを見つけては、出版社に送ったのですが、一回もお礼は貰えませんでした。
はっきり言って、ベストチョイスの楽譜を、楽譜の音のmissの有り無しで選ぶ事は、全く意味がありません。
現代では、校訂者のしっかりしている楽譜では、音符のmissのある版を探す事の方が難しいからなのです。
繰り返し言いますが、I先生が指摘しているのは、彼が思っているような井口先生の校訂missではなくって、解釈の相違なのです。
しかも、井口先生はちゃんと、「Schnabel版ではこう書いてあるが、私はこう思う」と書いています。
だから、書いてある事をして、それを「間違いだ!」と決め付けるのは、同じ音楽家としては絶対にやってはいけないことです。
それに、私達の教室では世界的な権威であるHenle版(と一般には言われている)を、教室として持っているのに、敢えて子供達へ使用していません。
それはHenle版は(教室の子供達にとっては)指使いが非常によろしくないからなのです。
Henle版の指使いは、論理性や整合性が全く無く、子供達に使用するには無理があります。
具体的に例を挙げると、黒鍵を1の指で弾かせたり、4→5という難しい指使いをそれほど必然的でなく使用したり、同じphraseを2回目には別の指使いをしてみたり、等々です。
致命的な事はドイツ人の身長が180センチ以上もある男性の大きな指を想定した指使いなので、小さな手の子供達にはその指使いを守って演奏する事は不可能なpassageがしょっちゅう出てきます。
勿論、大人と言うか、音大生のような大学生になったとしても、体の小さい、或いは手の小さな女性であれば、Henle版の指使いをそのまま使用する事は無理です。
という事で、Henle版を子供達の練習用の譜面として使用すること、それこそ権威主義的で、使用するべき根拠はありません。
前回のrsちゃんのMozartのa mollのrondoには、春秋社版には、解釈上の誤りと思われるものがありました。
Czerny達のロマン派の時代の解釈と、現代の最先端の解釈、所謂、古典派の様式による、当時のarticulationを再現した解釈の差です。
勿論、私はMozartの直筆によるfacsimile版でcheckし、当時のMozartの書いたままのarticulationでrsちゃんに演奏させています。
その時にはHenle版は、Mozartの書いている正しいarticulationで書かれていました。
但し、その演奏を楽譜通りに忠実に演奏していくと、現代の人達にはブツ切れのエキセントリックな表現に聞こえます。
それは、Mozartのピアノの曲はまだforte-pianoのために書かれていて、しかも弦楽器の表現方法(bowslurと言います)のスタイルで演奏をしていたからです。
当時のピアノや弦楽器は、細かい表現が楽器の性能的に無理でした。
だから、articulationでそういった細やかなnuanceを表現したのです。
それを忠実に演奏すると、一つ一つの表現がぶつぶつに聞こえてしまう。
だから現代のdouble actionのPianoで演奏するときには、melodieの流れを優先して、それをおーざっぱに翻訳して演奏します。
そうすると、現代で一般に演奏されるようなMozartになるのです。
で、どちらが正しい演奏か?
当時の様式で演奏するのか、近現代的なdouble actionのPianoのための、昔のままのarticulationで演奏するのか、二つの解釈の是非は、演奏する人が決める事です。
それは、ドイツ語でDas ist Geschmackssache!(それは趣味の問題だ!)だからです。
ちなみに、今、私達の教室では、子供達のorchestraの年長のクラスでは、HaydnやMozartを古典派の様式で演奏するようにレッスンしています。
まずは、早い時期に、baroqueや古典派の時代の様式を学ぶ事、それが正しい勉強の仕方です。
その上で、ロマン派の解釈が好きならば、その時に自分の解釈を作ればよいのです。
基本を知った上で、ロマン派の解釈をするピアニストと最初からロマン派の演奏をする人では、月とすっぽんぐらいの演奏の差があるからです。
以上、ご参考までに
RE: 徒然なるままに・・・
もう少し追記すると、楽譜のインクは基本的に皆黒ですが、古くなるとインクの劣化で青みがかって来たり、薄くなって見えづらくなるインクがあります。
東ドイツや共産圏のペーター版にも昔は良く見受けられました。
それに紙も茶色く変色してきたり、薄黒くパリパリになってくる紙もあります。
当時は、インクや紙の質が悪かったからなのです。
また、印刷の事になりますが、楽譜の音符(玉や棒線)の大きさと、5線の間隔の比率は初見の時には、致命的になります。
五線紙に対して、音符が大きすぎても、小さくても見にくいのです。
フランス版に多い五線紙と音符の玉の比率は、バランスが非常によろしくありません。
それよりももっと、目を疲れさせる一番大機な要因は紙の色です。
楽譜に使用される紙は(本に使用される紙の色は)、絶対に白色ではないのです。
白い色は光の反射や、インクとのコントラストが強すぎて、目を疲れさせます。だから、世界中の本は白い色は基本的には使いません。
乳白色が目を疲れさせない反射を防ぐ色です。
しかし、殆どの版が反射を防ぐために、黒っぽい灰色の紙を使っています。
それは廉価な紙で決して良い紙ではありません。
楽譜をきれいに見せるために、わざと白っぽく印刷された楽譜は、長時間見ると目が疲れてしまいます。だから出版用の紙は結構特殊な紙なのです。
(出版されている日本版の楽譜で、白色の紙はさすがにありません。)
乳白色が一番目が疲れないのです。
それに紙の表面のでこぼこによる反射もあります。
しかし、どんなに良い楽譜でも、一度コピーしてしまえば、全部白になってしまうから、何版でも関係ないのだけれどね。
コピー用紙は目には最悪です。
それは紙が使い捨てのための紙だからです。
[再び春秋社版の話に戻って]
rsちゃんが「春秋社版のMozartのsonateを買ってきた。」と、言っていたので、「同じ春秋社版を・・」と言う事で、教室の春秋社版をコピーさせたのだが、rsちゃんが買ってきた新しい春秋社版は教室の春秋社版の改訂版になっていてPage番号や譜面のarticulation等が違っていた!!
lessonでrsちゃんがMozartを弾く度に、楽譜のarticulationが違っていて、lessonにならなくって、困ってしまった!
椎名町の春秋社版の楽譜は、確かに古い版ですし、書き込みのある曲もあり、lesson用にコピーするには向かないです
先生の自宅の春秋社版は、rsちゃんと同じ版ですか?
・・・ではなくて、教室にある春秋社版の方が井口先生の意図が感じられて、解釈がbesser(より良い)です。
新しい版は、ただのPeters版と同じになっています。
あれまー校訂者が変わっちゃったんですかねえ