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夢を100%叶えるコツは「夢」を「夢として」でなく正確に、具体的に見つめることが必要だからなのです。

私の人生の中では、多くの大学出の若い人達との出会いがありましたが、そのうちの人達の中には音楽の夢を挫折させた人達も数多く見受けられました。

そういった挫折を味わった人達が、「夢をもう一度」という事で、再チャレンジをした時に、私が彼らに、お話をしたほんのちょっとのアドバイスで、彼らは人生を変え、夢を叶えることが出来ました。

今、彼らは幸せに音楽と関わった人生を送っています。
そんな些細な(アドバイスですむような)事が、日本の音楽教育界を取り巻いているacademismの虚構の世界の中で、もがき苦しんで、「何が本当の勉強か?」「何をどう考えれば、人生の目的に辿り着く事が出来るのか?」という事を見つけ出すことが出来ないままに、夢を諦めて行く人が如何に多いのか?・・・という事を長年目の当たりにしてこの文章を書いています。

若者が「現実を見極めることが出来ない。」という甘さのほかに、私の著書である「プロの定義」で繰り返し述べている事は「夢はその人が本当に望んだ通りにしかかなえられない。」という一つの普遍的法則があります。
「本当に・・・・」という言葉を、何度も繰り返しお話しているように、「潜在意識的に、」とか「心の底から」(実際にはその人が何を望んでいるのか?)という意味が、「本当に・・」という言葉の中には伴います。

現実社会の中の話では、音楽大学に在学しているピアニストになりたい女の子の大半は、別に音楽が好きな分けではなく、「自分を認めてもらいたいから音楽を勉強している」という、それだけの話なのです。
彼(彼女)等の音楽を聞くと、彼女らの心の内の言葉が、こう言っているように聞こえてきます。

「こんな難しい曲を弾けるのよ!かっこいいでしょう?」
「これだけ遊びたいのを堪えて、練習してきたんだから偉いでしょう。だから、もっと、もっと、私を認めてよ!」
その言葉は、発表会のときに小さな子が親に言っている言葉そのままではありませんか?
それなりに、可愛いよね!

ということで、私が音楽大学生からプロになるための相談を受ける時には、その生徒が持っている問題点(潜在意識)を一つ一つ浮き彫りにさせていきます。
考古学者が泥や砂を刷毛のようなもので丹念に掃き落として、石器や仏像などを当時の姿に再現させることに似ています。
ごちゃごちゃに絡んだ糸を一つ一つ解きほぐしていきます。
そうすると幾つかの矛盾するパターンが見えてきます。

これが、指導者側からすると、ありとあらゆる教育の指導上の障害になっているし、学ぶ側も、幾ら努力しても、成果が上がらない原点となります。

つまり、私が何時も主張している「人がそれを望むのなら、夢は必ず、叶う。」という、原理を見ることになります。
「夢はこうなりたい!」と主張しながら、潜在意識的にはその反対の事を無意識に望んでいるのです。

夢を分析する事で、その人の無意識下の願望が出てきます。
人はそれを認めようとは中々出来ないのです。以下、本当にあった怖い実例をお話しましょう。


例えば以下の例はどうなるのでしょうか?

@     ピアニストを夢見る音大の卒業生の女の子がいました。
あるとき私に相談に来ました。(何故、私に????)
恋人が2人居て、一人は優しくて家庭的で(浮気もしないし)何をしても許してくれる人、もう一人は、とても自分にも他人にも厳しい人で自分を最大限引っ張ってくれる人(もてすぎるから浮気は当たり前)。
私が教室を作る前の時代のお話なので、私の立場としては、教室の先生として面接する為に会ってお話しているわけでもないし、ただの雑談の延長の相談なので、「ピアニストを続けるつもりだったら、厳しい人の方がいいと思うよ。
でも、家庭的な幸せを求めるのなら、ピアノは趣味とか、子供を教えるぐらいにして、演奏活動はやめたほうがよいと思うよ。」とアドバイスはしました。
しかし、彼女は私のアドバイスとは、反対の、理解のある優しいタイプの人を選び、結婚して、しかも(!!!!)、演奏活動も続けました。
その結果は、結婚から半年後に開いた演奏会では、彼女の凋落がもう既に客の目にも、明らかに見え始めました。
事実、彼女は演奏会の一月前から、プレッシャーで何も食べられなくなり、コンサートも、医者から点滴を受けて、意識朦朧のふらふら状態でのコンサートでした。
勿論、結婚するまでのコンサートではそんなになった事はありません。しかも、練習量も、準備期間も、以前と全く同じか、結婚後の1回目という事で、寧ろ万全の準備をしたはずなのですがね。
どうして、そんなになったのか?って??つまり、彼女の意識が、proからamateurに代わってしまったのですよ。
つまり、彼女にとっての、一番大切な物が、Pianoから旦那様や産まれてくる子供に対しての愛情に代わった分けです。
それは、普通の一般人にとっては、とても幸せなことですよね。

でも、コンサートを聞きに行くaudienceにとっては、音楽を聞きに行くのであって、幸せな彼女を見に行くのではありませんからね。

音楽は感動です。domesticな日常を見て(聞いて)感動を覚える人は、相当な宗教的な高僧か、人生の艱難辛苦を舐め尽くしている人でしょうね。でも、そういう人が、domesticな日常で感動するのは上から目線ですよね。
私は、彼女の演奏を聞き、見るにつけて、悲劇的でとても耐えなかったのですが、同門下の仲間は決して批判やアドバイスはしないもので、私達の仲間達の「二度と彼女のコンサートには、可哀想で来たくは無い。」という評価が彼女の耳に届くことはありませんでした。

その演奏会の後には、彼女は流産しました。
私には彼女の声が聞こえてきます。
「私は流産というリスクを掛けても、これだけ音楽を一生懸命やっているのよ。」「私なりに、命を賭けてやっているのよ。」


でも音楽は戦争じゃないのですよ。
別に命をかける必要はないのです。

楽しく気楽にやっても良いのです。
しかし、ある意味での厳しさは必要なのです。
自分を磨いていくわけですから、こつこつと、しかし自分の欠点をしっかり見据えて正していかねばなりません。

人に認められると言う事は、自分がどうしたか?・・・ということではないのです。
人に何をするか?・・・ということなのです。
縁故があれば、苦労した音楽にお義理で切符を買うかもしれません。
しかし、音楽を聞くことで、聞いた人達が、楽しい気分になれるのなら(ハッピーになれるのなら)、誰だって喜んで、お金を払って切符を買うでしょう?

それが音楽を学ぶ人達には、どうして分からないのですか。
あなたが幾ら苦労したって、それで恋人が出来なかったとしても、それはあなたが好きでやっていることに過ぎないんじゃあありませんか?


私がまだ学生時代に女の子が私にプロポーズして来ました。
「私は貴女のことを命がけで愛しています。あなたの言われることだったら何でもやります。」
僕は彼女に言いました。
「分かった。そんな大変な事は何も、しなくってもいいから、一週間でいいから、私の前に居る時だけでいいから、ニコニコしていて!」
でも、お気づきのように、彼女は一週間ニコニコと楽しく生活を続けることは出来なかったのです。
勿論、彼女は暗い性格の人ではありません。
寧ろ、普通の穏やかな性格の持ち主だといえます。
しかし、極普通の日常生活の中ですら、自分の心を一定にすると言う事は大変難しいことなのです。


しかし演奏家にとってもっと大変なことは、演奏会の当日は、本人の気分とは無関係にやってくるということなのです。
演奏会の日を決めるのは、半年前、否、1年前、或いは、2日、3日前かもしれません。
私は私の弟子達に対して、自分の演奏会が次の日にあろうと無かろうとレッスンを休むことはおろか、ローテーションを変えることすら認めてはいません。
よく、私が、弟子の演奏会の前日に酒を飲むのを徹夜でつきあわせたりして、よく文句を言われました。
でも、弟子達は演奏会の前日だからといって、私への付き合いを断る事は決してありません。
私がそれを許さないからです。
演奏会の前日に皆で飲み会なんて当たり前のことです。
つまり、演奏家にとっては、演奏会は日常の一駒に過ぎないからなのです。
よく生徒に私は言います。
西武線の改札では、切符きりの人は一日1万人の切符を切るんだってよ!
改札員が、舞い上がってしまって、一人一人の切符を切るのに時間が掛かったら、西武線は大渋滞してしまうよ。
「でも、演奏会と切符切りでは・・・??」
仕事は仕事!皆、同じだろう!

つまり、そういった、演奏会が日常の生活の中の一部で無ければ、これから10年、20年と演奏会を続けていくことは出来ないでしょう?

毎日、一人でコツコツと練習を続けて行くのが日常生活で、演奏会がその中にホイホイと割り込まれて来るという感覚ですよ。
それが演奏家の日常で、それが普通の生活でなければなりません。
当たり前の話なのです。


しかし、この話はに次の話があります。

毎日毎日を練習だけに明け暮れる、それはピアニストにとって憧れの生活でしょう。
「それなら、私も出来るわ!」そんな声が聞こえてきます。
そう、音大生には、そういうストイックな生活は当たり前だからです。

しかし、ちょっと待ってください。
あなたの日常の生活は、誰が面倒見るのですか?
音楽大学を卒業した後も親に面倒を見てもらうのですか?
それは芸術家として評価してもらう前に大人の社会人として認めてはもらえないと言う事ですね。
引き篭りのニート達と大して変わらない立場ですよね。


音楽大学の学生さん達はプロという考え方でもう一つ大きな勘違いをしています。
ヨーロッパの音楽学校では1年生に入学したとき100曲の課題が与えられます。
勿論、平均率は1巻全曲で一曲と数えますし、ショパンのエテュードも0p.10で一曲と数えます。
これを何年間かかってもいいからマスターしなければならないのです。
年齢制限はありますが、殆ど関係ないでしょう。
ドイツでは4年で卒業するということはありません。卒業するという発想自体が無いのだから。
あくまでその先生の下での終了にしかすぎないのです。
次に別の先生の下でさらに勉強を続けたいと思ったらその先生のクラスに入ればよいだけなのです。
私の行っていたミュンヘンの音楽大学などは国立なのでどの大学にでも転入できます。
国を越しても可能なのです。
それからドイツではピアニストという職業は国家試験に合格しなければなりません。
まずアウスビルデュングクラスで師匠から卒業の証明を貰わねばなりません。
それから、それまでの一般教科の成績が全てオール A(5段階で)でなければなりません。
但し、専門科目、例えばピアノ科ならばピアノの成績だけはA.5まで許されます。

一科目でもBやCの成績があるとマスタークラスにはいけません。
日本で言う大学院みたいなものでしょうか?
マスタークラスを卒業出来るとマスターを名のる事が出来ます。

日本人でドイツのマスタークラスを卒業した人は聞いたことがありません。
幾らピアノが上手くとも音楽の全ての教科がプンクトAでなければならないからです。
そしてマスターを取った人達が、ドイツ政府の公認をするピアニストの国家試験を受けることが出来ます。
ですから日本人で留学してドイツの国家試験でピアニストとして認められた人は僕は知りません。
日本のように自称ピアニストでは、ドイツでは、ピアニストと言う事は出来ないのです。
ドイツ人に向かって「私、ピアニストなの。」といったら多分大変驚かれて、尊敬されるでしょう。

かなり専門的なことを質問されるかもしれませんね。
僕の友人でドイツ人のピアニストがいます。
勿論自称ではなくドイツ国家の認定のピアニストです。

日本に演奏会に来る時にはA4用紙に10ページぐらいぎっしり印刷したレパートリー表を送ってきます。
日本のエージェントはその曲の中からAプロ、Bプロ、・・・と幾つか(通常、4,5パターン)のプログラムを作って各地のプロモーターの所へ送ります。
日本に来る場合といっても、日本だけに来るわけではないので、途中でインドや中国韓国などアジアツアーの場合はアジア諸国を歴訪します。
長い場合にはツアーは半年に及びます。(これは演奏家なら、誰でも普通の事でしょう。)日本だけの場合でも一月はツアーを続けます。
日本で4パターンにしか過ぎなかったレパートリーも、次の国にいくとお国柄で全く新しい選曲になります。
ということで演奏旅行を続けていると、その曲のレパートリーは膨大なものになります。
それ以外にもスポンサーから曲の希望がでる場合があります。
お客様は神様です。「**曲以内は希望の曲を入れることが可能です。」という条項は必ずどの人にも入っているようです。




A人生には「一つのことを得るためには、別のことを捨てなければならない。」ということが良くあります。
私達が20数年間生徒達を指導した経験でも「何を捨てなければならないか?」という決断を迫られる時、躊躇無く捨てられる人は数えるほど少なかったのです。

ある音楽大学生の女の子のお話ですが、憧れの音楽大学に入ることが出来ました。
そこで彼女の夢を聞いてみると
「彼氏が欲しい。」
「学生生活を友達とインジョイしたい。」
「プロのピアニストになりたい。」
「教員になるのは嫌。」
「子供を教えるのもいや。」
「ピアノで生活をしていきたい。」
「ポピューラーも嫌。」
「大学を卒業したら音楽を仕事として生きて行きたい。」
ということでした。

この話を聞いた時に、彼女の夢の中の、幾つかの条件が絶対的に矛盾している事に気付きました。

これがその条件の中からの選択の問題だったら、彼女の夢はどの目標であったとしても、その夢を問題無くかなえる事が出来たでしょうが、彼女はこの条件を全て、叶えたかったのです。

この夢はお互いに対立関係にあります。
所謂、3すくみの状態にあるのです。

でも、欲張りな彼女はどれ一つ捨てられなかったのです。
つまり、その夢の中から何一つ選択をすることが出来なかったのです。
そのために大学生活をインジョイすることも出来ず、何をしても反対のことで悩まなければならなかったのです。
うんとお腹を空かさせたロバを食料倉庫の中に入れると、ロバはどれから食べてよいのか分からなくなって餓死してしまう、という有名なお話しがあります。(嘘か本当か知らないけれど。)

結論的に言うと、彼女は音楽大学を卒業すると同時に、音楽大学時代に持っていた夢の全てを失ってしまいました。
まあ、当たり前の話だけどね。



今までの例は本人の考え方に原因がある場合の例ですが、原因が本人ではなく親の考え方の場合の例も非常に多く見受けられます。

B親は自分達が家族と一緒に遊びたい。
それ自体はとても良い事なのだが、子供のローテーションについては全く考えない。全く親の都合である。
発表会があろうと、コンクールがあろうと親の都合で子供を引っ張りまわす。「親や兄弟が遊んでいる時に一人で練習させるのは可哀相だから。」という理由である。
しかしそれなら親が遊びに行く日にちを子供のローテーションに合わせるということは思いもつかない。必ず、子供が親に合せるのが筋なのです。
それで発表会やコンクール、果ては入試までもが上手く行かなかったとしても、自分たちのせいではなく先生のせいだとする。
何故なら、自分達が子供を引っ張りまわしたのは、あくまで子供のためであって、子供のためにしたことが悪いわけではあるはずが無いからなのだ。
発表会の責任は全て先生にあるのは、当たり前なのだよ。だって、お金を払っているからさ!

勿論、このお話は、子供がproを目指す場合の話でって、最初から趣味として音楽と交わっている生徒には、家族のローテーションが最優先するのは当たり前であろうよ。
コンクール直前の追い込みの1週間前に親が来て、「家族全員で、別荘に避暑に行くので、**ちゃんも一緒に連れて行って良いですか?」と聞いてきた。私は呆気に取られて、「でも、コンクールの1週間前ですよね。」「仕事の都合で、家族で別荘に行けるのは、今週しかないもので・・・。」「では、コンクールは保証しかねますね。」「彼女一人だけ、家に残して家族が避暑に行くのはかわいそうだと思いましたので。」
結論は、彼女が一人で家に残って自炊をしながら、最後の1週間、コンクールの勉強をしたよ。
・・・で、結果は・・・???
そりゃ、無理に決まっているだろう!!
コンクール何て、そんな甘いもんじゃないよ。皆、proになりたい人達だけが集まっているのだからね。




C
特に母親が(同じ音楽家同士でなかったとしても)キャリアウーマンとして色々な仕事をしてきた場合に見受けられるのだが、子供がコンクールなどを受けるぐらいに上達してくると、「この子は他に才能があるかもしれない。」とか「もっと色々な人生を経験させたい。」とか言って、子供の勉強にストップをかける、とか(レベルダウンをさせるとか)いった事がよくある。子供に対してのジェラシーなのか、自分を越えられることへの恐怖なのか、(親としての尊厳が否定されることで。)しかしこれも、子供のことを考えてレベルダウンさせたわけだから親は正しい事をやったわけである。当然親が自分のことを反省することはない。


D特に、女の子の場合の男親や、男の子の場合の女親に見受けられる現象なのだが、子供が中学生、ぐらいになってきて、若い大人の香りを醸し出すようになると、突然、「子供は普通でいい。」と言い出す事が非常に多く見受けられる。

これは、子供に「自立して欲しくない!」「いつまでも自分の傍に居て欲しい。」という願望がなせる事である。
この話は教育論文の領域なので、ここでは深く追求しない。しかし、子供にとっては、その方が毎日の生活は楽なので、所謂、心理学上のウエンディー症候群(シンドローム)となって、急速にその子供の技術の衰退を引き起こす。勿論、そういったトラブルの中で、「proになりたい」等という願望はおこがましい。

教室として一番困るのは、母親はproになって、自立をして、さっさと家を出てくれれば、娘に対して、「父親を取り合ってのjealousy」を引き起こすことはないので、さっさと自立して家を出て欲しいので、一生懸命娘がproを目指せるようにback・upをする。
しかし、反対に、父親は娘に巣立って欲しくないので、「音楽の勉強よりも、学校の勉強の方が大切でしょうが!」とか何とか、普通の子供になるように、あれや、これやと画策する。
で、教室はその板挟みで、途方に暮れてしまうのだよ。
中学生も、後半になると、子供の社会人としての意識や、父親を手玉に取る、手練手管を身に付けている。
子供本人が強く、親からの自立や、自分という人間に対してのi dentityを持って、仕事としての「proを目指す気持ち」を持っているのなら、母親と結託して、父親を手玉に取ることはそんなに難しくはない。

でも、殆どの女の子が、自分が音楽に専念できない理由を、自分の家庭環境の性にして、父親を批判するだけなのは、所詮、ウェンディ症候群(私は平たく大人になりたくない症候群と言っているけれどね。)なのだよ!!
やっぱり、その生活の方がしょうに合っているのさ!!