プロになるにはNr.6
(プロの定義)
第二巻
前書き
演奏でプロになるためには、そのためのカリキュラムが必要となる。今からもう7年近くにもなるであろうか、コンクールを目指す生徒や高校から直接海外留学を目指す生徒達がいたのだが、体調を崩して2ヶ月ほど入院を余儀なくされることになってしまった。病院のベットの中で身動きもままならない状態で子供達のために「プロになるためには」というタイトルの小冊子を書いた。ソリストになるためにはそれ相応の演奏上の技術を必要とする。しかし、その技術はコンクールや海外留学の延長線上にはなかなか見出せない。どうしても、間違えた方向に進んでしまうことが多い。プロになるための正しい方向性(目標の設定)と勉強のためのアドバイスをしたためたつもりである。(しかし残念ながら諸事情でこの冊子は子供の手には渡らなかったが。)
今回は、よく人が誤って考えている「ソリストでなければ、演奏家ではない。」という誤った考え方を是正するところから、プロというものを考えていきたいと思う。
2006年12月1日第二稿改定
プロの定義(なにをもってプロと呼ぶか)
多い妄想・・・・
音大を卒業すればプロになれると思っている(思わされている)
今だに、音楽を学ぶ人達の間で、プロになる定型のコースとして、音楽大学を卒業して、海外に1、2年留学して帰ってくれば、日本ではプロになれるという昔からの夢のような考えを持ち続けている人達がいる事は驚きです。
私達の留学時代のように、1ドルが360円の時代、或いはもっとさかのぼって、音楽事始めの明治時代ですら、そのような現実はありませんでした。
留学した人の一部が有名になったり、成功(なにを持って成功というかは知らないけれど)したりした事はありますが、それでも数多くの留学を終えて帰朝した人の一部にしか過ぎません。本人達がそういった甘い考えに取り付かれているわけなのだから、ましてや親はもっともっと甘い考え方をしています。
それは、「音大に入学さえさせればプロになれる。」という考え方であります。
しかし、このプロという言葉がまず問題であります。
日本では「演奏活動をすればイコール、プロだ。」という考え方があります。そこで、音大を卒業したり、留学から帰ってきて、年に1〜2回の演奏会をする、そして言います。「私はプロです。演奏家です。」と。
本人がプロだというのだから、それはそれでよいでしょう。
しかし、私達のように、「プロ」という言葉をたつき(たずき)の糧として捉えるとすれば、「演奏=プロ」という考え方はなりたたない。それは高尚な趣味としかならないのです。
「でも音楽は芸術ではないの?」確かに音楽は芸術です。しかし、音楽家が芸術家であるかどうかの判断は、本人がするものではなく、周りの人や、後世の人にゆだねられるべきものです。つまり、言い換えると全ての音楽家は職人に過ぎません。そしてその職人技が芸術の域に達したとき、始めて周りの人から芸術家という呼称を貰えるのです。もしも、自分が芸術家だと思っている人がいたとしたら、よほどの自信のある人か、どうしようもないうぬぼれ屋の人か、大学の先生かでしょう。
プロという言葉を職業としてのプロと限定して考えるのであれば、演奏会をしてその演奏会の上がりが30万の赤字に押さえられたとしても、それが毎回赤字であるとすれば、それは職業としては成り立ちません。音楽大学の先生達のように、半ば強制的に生徒達にチケットを割り当てればある程度は枚数もさばけるかもしれません。でもそれだけでは会場を満席には出来ませんので、残った分は招待券にしたり、色々な人に頼み込んで少しでも空席を出さないようにしなければなりません。生徒も友達同士お互いチケットを売りあわなければならないので、そのうちに生徒は先生にチケットを返す分けにはいかないので、「ただでもいいから聞きに来て!」と自分でチケット代を被ってしまうことになります。(当世は、平気で返却してしまう生徒も増えているようですが)
自分自身で演奏会を企画したとしても、お父さんが会社の社長か役員かで、チケットを社員に強制的に売りつけた(某有名建設会社の社長令嬢のように)としても、それが2年、3年と続けば、いくら社長という立場だとしても「またよろしく頼むよ」とはだんだん言いづらくなるし、先行きが尻すぼまり(尻すぼみ)になる事は目に見えています。
現に、大学を卒業した(あるいは留学を終えて帰国してきた)熱心なピアニストやヴァイオリニストの卵たちが「年に1〜2回のペースで演奏会を続けていきたい。」と、希望を述べるのに対して(一回の演奏会を準備するのに半年や一年もかけることが前提とされているように気がして)、私はその演奏活動が果たして「3年間続くだろうか?」と疑問を感じざるを得ません。
音楽社会以外の一般社会でも3年の壁という言い方をよくしますが、その職種に慣れて、一人で働けるようになるまでに、殆どの職業は最低3年間を必要とします。また、一般の場合には、その研修期間の活動でも、充分にお金を稼ぐことができますが、音楽の場合には、年間1〜2回のペースということで、そのためにピアノにしがみついて、働くことも無く、1年間必死に練習をし続ける、というのもおおよそ現実的ではないでしょう。1年2年間なら、私もモラトリアム期間ということで社会から隔絶することがよくあります。しかし、それが20年30年続くとしたら、これは変ですね?
また別の問題もあります。学生の頃、鮨屋のカウンターに座っていたときに、テレビからベートーベンの第9交響曲が流れてきて、それを見ていた鮨屋の板前さんに質問されたことがあります。「俺は1日だいたい100人分にぎらないと採算取れないんだけど、あれで採算取れるのかね・・・?」確かに第9交響曲ともなるとフルオーケストラの他に合唱を入れて総勢500名くらいの人数と成ります。
大ホールが満員で仮に3000名入ったとしても、出演者は500人いるのだから、一人当たりの売上は、僅か6名分にしか過ぎません。仮にチケットが5000円だとしても、一人当たりの売上は3万円にしかすぎないのです。しかし反対に必要経費の方はホール代だけでも100万円を超します。それにポスターやプログラム代、練習費や会場費、宣伝広告費を載せれば、絶対的に赤字にしか成らないでしょう。しかも必要経費はそういったハードの面ばかりではありません。裏で作業をするスタッフも必要です。大きいプロジェクトになるとそれを企画運営するプロダクションの役割も大切です。プロダクションやスタッフに払う費用も必要となります。いったいどこから団員の給料を捻出しているのか、一度音楽プロダクションに務めている弟子にゆっくり聞いてみたいものです。
そういった事は、どんな職業でもかわりません。話しは横道に逸れましたが、演奏活動のみで生活費を稼いでいるという例はクラッシックではほとんどありません。(ポピュラーではその逆で音大を卒業したばかりのスタジオミュージシャンやアレンジャーなどは20代でマンションや1戸立ての家が買えるほど稼げます。ヴァイオリンなどが大して上手くなくとも、ちょっと可愛ければ(顔やスタイルがよければ)テレビや各種イベントで引っ張りだこになります。(それで自分がうまいんだと勘違いしている人もいますが)
一般にはあまりよく知られていないことですが、アイドル歌手よりも(テレビでアップされない)バックで弾いているミュージシャンのほうがはるかに高給取りです。クラシックでは、名前がでてきてそこそこ人に知られるようになったとしても、テレビやラジオの出演料はすずめの涙にしかなりません。そういった悪条件にもめげずに、30歳を越しても一生懸命頑張って地道に演奏会を続けているまじめな人達も、数多くいて、たまにそういう人の演奏会を聴きにいくこともあります。
しかし、200席〜300席の小ホールよりもはるかに小さなホールでやっているのも係わらず、
殆どの場合、客席はがらがらです。つい先日も私が見にいってきた演奏会はお客の人数より出演者のほうが多かったようです。
不思議なことに集客力と演奏家の腕前はかならずしも比例しているわけではありません。時には客席に立ち見がでるほど満員なのに演奏の方はからきしで「金返せ」というような演奏会もあります。まあ、そういった例外はともかくとして、一般的には、学生に強引にチケットを交わせている大学教授や卒業した手の音大生、ご祝儀まがいの留学帰りの卵たちを除いたら、大半のクラシックの演奏会はがらがらの赤字で続けられているのが現状でしょう。赤字覚悟で、クラシックで演奏活動を続けることは至難のわざと言わざるを得ません。経済的問題、集客数の問題、技術の維持の問題が解決出来れば永続的に演奏活動を続けることができます。と言う訳で、私達はいわゆるコンサートのような形式での演奏会は、あまりしておりません。
教室の父兄の方々によく「コンサート・ホールでの演奏会をやらないのか?」とか「チケットを売りさばくのは任せてほしい。」とか申し出があって感謝しております。
でもやるとなるとある程度、永続的にやらなければ意味がありません。
年に一回のコンサートでは、単なる自己満足的なセレモニーとなってしまうからです。
職業とするには永続的に年間何回のコンサートでいくらの収益を上げる、というペースが必要だからです。
音楽大学を卒業したり、留学から帰ってきたとしても、そこに演奏活動の場が待っているわけではありません。という事で、会場やチケットを自分で持たなければならないのです。
最初の1,2回は自分で何とか工面したり、親が折角、勉強を続けてきたわけだから、と言って費用を出してくれます。しかし、そんな演奏会が何回も開けるわけはありません。非常に裕福な家庭に恵まれて、金銭的にどうにかはなったとしても、お客が集まらなければ、演奏会は開けないのですよ。
お客のいない、お金を払ってまでやる演奏会は、プロのする演奏会ではないのです。
そういったわけで、私達の演奏活動はほとんどがクライアントからの招待か、さもなくば間に入ってくれた人達の紹介によるボランティア活動に、今、現在は限っています。
つまり、顎、足を含めても、一円も持ち出しの演奏会はやらないのです。
何故なら、全く演奏会の費用がタダだとしても、最低でも、ステージ衣装の洗濯代や(ステージ衣装の洗濯代は一着につきウン万円がかかります。)
Fiori musicali baroque ensembleのmemberが六人で、ステージに立つと、その時に着た衣装の洗濯代だけでも10万近くいく事があります。
だから、お呼ばれで、演奏活動をすると、交通費は相手側から保証されているし、集客数も多いときには500人くらいにはなりますし、少なくともお客様の人数が演奏者より少ないと言う事はありません。
そういった演奏会を年に何回か定期的におこなったとすると、結果的には集客数の上でも、大きなコンサート会場の年、一、二回の500名や1千名の集客数よりも、総合的には、遙かに多い人数を集めることができるのです。
でも、そういったコンサートを定期的に開くためには、その条件としては、ステージが決まってから、練習を積み重ねて演奏に望むのではなく、いつでもどこでも注文された時間、内容(曲目、編成など)に応える事が出来なければならないのです。
ということで、お嬢様達のように、演奏会場が決まってから、曲目を決めて、練習を始めるのではなく、私達のアンサンブルは、常日頃から練習を重ね、演奏時間は(近現代の曲やロマン派や古典派の曲を除いて)、バロックのトリオ・ソナタだけでも、6、7時間程度のレパートリを常時所有しています。
一つのコンサートのprogramが2時間とアンコールを加えたものですから、常時、3programのレパートリーを持っている事になります。
また、ボランティアなどの出演の場合、かなり厳しい金銭的条件がはいってくることもあるので、(例えば、自治会のような所で仮に500円ずつを100名から集めたとしても、5万円にしかなりません。
そこからパンフレット代や会場費等等を払っていったとして、幾ら演奏者に捻出できるでしょうか?)そういった事情も鑑みてご期待に沿えるようにするために、チェンバロの移動やチューニングなども出演者達自らやっています。(ちなみに、業者に頼んだ場合には、東京近郊という事でも、Cembaloのtuningや移動にかかる費用は最低でも7万円ぐらいを見積もらなければなりません。)
一般に音大あがりの人達は、プライドが高いためにボランティア活動のようなものを極端に嫌がる傾向があります。
職業として演奏活動をしている人は、最初に「ギャラはいくらか?」と聞いてくる人が多いようです。
それを真似して音大卒業したての人が経験も浅いのに同じようにギャラを優先に聞いてくることは残念なことです。
「私は、お金にならない仕事はしないの!」
経験をつむことはとても大切です。自主上演で身内ばかり聴きに来ている所では、お世辞ばかりで本当の批評を聞く機会はありません。
それなのに音大を卒業した若い演奏家の卵たちが「クラシックでは演奏する場がない。」とか「仕事がない。」とか嘆いているのは私にとってはただのわがままのようにしか思われないのです。
少なくとも私達の仲間のプロ活動を10年以上続けている演奏家の人達で、最初に、お金の事を聞いてきた人は誰もいません。
結構、名の売れた人達ですらです。
それは演奏活動で、既に生活が立っているからなのです。
場所や客数さえも聞いては来ません。だって、お客が5人、10人いればそれは演奏活動の舞台足りえるからです。Pianoの演奏会でPianoがアップライトだった事もあります。しかし、清水和音さんや中村弘子さんでも、一度も文句をいった事はないと記憶しています。それがプロのプライド(意地)なのですよ。
若い演奏家の卵達は「演奏する場所がない。」と言う割には、そういった金銭関係を含めて色々な条件をやたら気にするし、「あなた達に弾いてあげるのよ。」とか「聞かせてあげるのよ。」とか結構高飛車な態度をとる子もいます。
そういう態度では折角一度演奏させてもらったとしても、2度目の注文(オファー)は無いと思います。
留学帰りの女の子達と私が演奏活動についての話をしていたとき、「ボランティアで演奏活動をする事自体は嫌ではないけれども、クラシックでは演奏する場所がほとんどない。」と言っていました。
私が「私達のグループはクラシックしか演奏しないと決めているのにも拘らず、演奏する場所について困ったことはない。」と言ったら、信じられないような顔をしていました。その彼女は海外留学にはCDなどを沢山出している日本でも大変有名な演奏家に師事し、彼の元で研鑽を積んで日本に帰ってきて既に三、四年経つにもかかわらず、未だに演奏会を開くことはおろか、ボランティア活動ですら自分の演奏を披露する場所は見出す事は出来ないと嘆いて言っていました。
私の友人にも、いまだにCD売上No.1を誇るような先生にめぐり合い師事することの出来た人がたくさんいます。
しかし、現在は、せいぜい大学で後進の指導をするぐらいで、今でも、演奏活動をつづけている人は殆んどいません。どうしてなのでしょうか?
彼女と話をしていて、なんとなく演奏活動の場所がない理由が分かりそうな気がしてきました。それは彼女の音楽に対してのプライドの持ち方に拠るような気がします。
そしてそれがとりもなおさず、一般的な音楽家達が持っている音楽に対する意識のように思われてならないのです。
音楽に対するプライドとクライアントに対しての意識は、(私に言わせれば)関係の無いものです。沢山の人達にこんなにも素晴らしい音楽を聴いて貰う・・そして一人でも多くの人に音楽を通じてメッセージを送り届ける、・・・・それが音楽家のあるべき姿ではないでしょうかね。
私はこの十年以上人の前でピアノなど演奏することはなくなりました。持病のリューマチが悪化して年々指が動かなくなっているのです。ですからたまにパーティなどで酔っ払った勢いで弟子のバイオリンの伴奏をしたり、発表会で子供のオーケストラのビオラやチェロのパートを当日気分が乗ったら、助っ人に入って子供達のじゃましたりするぐらいです。ですからいろいろな場所に演奏に出かけても、逆に演奏を聞く側の立場で会場の皆様と話が出来ます。
難病の患者のいる大病院や高級な老人マンションのようなところではボランティア活動が集中して行われており、有名オーケストラの団員や有名タレントなども一種のステータスとしてボランティア活動に積極的に参加しているし、逆に可愛いといえば近所の幼稚園や保育園なども地域のボランティア活動として参加しています。そしてそれが必ずしもボランティア活動を受けている人達にとって、手放しで喜ばれているわけではないのです。有難迷惑という感情をもろに出される方もいます。
私達は教室で子供たちを教えることがメインですから、決して積極的にボランティア活動をしているわけではないので、こちらからボランティア活動の場所を探すというより、逆にいろいろな団体の関係者の方から依頼を受けて演奏をすることが殆どです。
それでも始めて団体の方とお話をするときには、ご多分に漏れず、私たちも「またか!」という顔をされます。これは、紹介をしてくださる人と、主催者は往々にして違うので。
しかし、本番で演奏の途中当たりから、演奏を聞いてくださっているお客さんやスタッフの人たちの表情が和んできます。
演奏が終わって私達が帰る頃には、下にも置かない様な丁寧な態度で感謝されて、逆に私たちの方がすっかり恐縮してしまいます。
私達がそんなことを言うと「そんなに素晴らしい演奏なのかな?」と思われるかもしれませんが、実際にはボランティア活動に参加する子供達は、四歳児五歳児や小学低学年生、中高生まで希望参加の児童、生徒達までが参加していますし、演奏する先生たちもあくまで教育活動の合間の対外出演であり、「本来の教育活動に支障が出るような演奏活動はしない。」という教室の基本原則があります。
ですから、技術的に言えば常時練習や演奏活動を続けているプロのオケマンや、放課後の時間をうんと有効に活用出来る中高生の部活の方がより高度な技術を持って演奏が出来るはずなのです。
先日などは教室と事務所の連絡の手違いで、2週間前に演奏の日が変更になり、半年前からボランティア活動に参加を募って、練習を積み上げてきていた生徒達が突然出演できなくなり(曜日がかみ合わなくなり)、急遽新しいメンバーで〔メンバーに合わせた新しい曲〕を演奏しなければなりませんでした。
勿論、先生方はそういった色々な状況に対応できますが、5,6才の児童や小中学生では納得のいく演奏など望むべくもありません。
2週間の間に練習の時間が取れたのは4回に過ぎませんでしたが、精一杯真剣に取り組んでまいりました。
結果は暖かい賛美の声を沢山戴くことができたのです。
そういった反応を見ることでも、一般の方が望んでいる演奏とは、上手な演奏ではないのだということが分かります。
私達の江古田の事務所の近くに行きつけの喫茶店があります。そこでも年に何回かはいろいろなグループがミニコンサートをします。コーヒー屋の店長さんが「どんな曲でもいいよ。」と言ってくれるので、年に一回、思い切りマイナーなトリオソナタのコンサートや、バロック・オンリーの超マニアックプログラムをしかもバロック奏法、バロック楽器で演奏します。殆どの曲が、日本初演であろう様な、そんな超マニアックプログラムにかかわらず、演奏会の日にちが決まった次の日にはもうチケットは予約で満席で、私達が招待しようかと思っていた人達のための席すらありません。チラシやプログラムの方が後に出来上がる始末であります。
ほかの日ですが別のグループが、誰もが知っているような曲を集めた名曲アルバムのような演奏会をやっていました。私たちもよく演奏するような曲目です。でも見ると、三十席に満たないのに、結構空き席が出来ていました。
演奏活動をしたい人に繰り返し言いますが、「完ぺきな演奏と評価は必ずしも結びつかない。」ということなのです。私達が演奏したあるところではチェンバロはおろか、「ヴァイオリンやチェロをはじめて見た。」という人ばかりでした。
しかしその次に行った所の人達は、「若い頃「往年の名演奏家○○の生の演奏を生で聴いた。」という人や、今活躍している有名な演奏家たちの若かりし頃の演奏も知っているし、中には有名な演奏家のお母さんも居たりします。また、若いころはリユウトを著名な演奏家たちと共演していたという人もいました。
そういった人たちも「とても楽しかった。」と言ってくれました。それはなぜでしょうか?
その答えは、もしもあなたの演奏が自分に向かっているのだったとしたら、その演奏がどんなに完璧だったとしても、だれも感激しないだろうということなのです。私はよく「完ぺきな演奏を望むんだったら、コンピューターにやらせればよい。」といいます。私はコンピューターで演奏したショパンのゴドフスキー版を持っています。なかなか面白いですよ。
音の間違いが何カ所かありますが当然それはコンピューターのせいではありません。
私自身も3声のインベンションや平均律の模範演奏のテープを作るのにコンピューターに演奏させて作ったことがあります。細かいディナミークや強弱など人間の演奏では不可能に近い超絶難度もこなしてしまうので、勉強の為の参考にはなります。
今のコンピューターは微妙なテンポの揺れや強弱なども、表現することが出来ます。
私が子供たちに要求している演奏は、聞いている人が涙を流してくれる演奏であります。
ボランティアのときだけでなく、いつもの発表会のときにも子供の演奏を聴いて涙を流している人を見受けます。子供の下手な演奏でも涙を流してくれる人がいるのですよ。
しかし、心を込めて演奏することは、感情過多なオーバーな表現のことを指すわけではありません。
技術をひけらかす演奏では、どんなに完璧に弾いた演奏だとしても、涙を流す演奏に繋がることはないのです。
子供自身が自分に対しても音楽に対しても誠実に取り組むことによって初めて人を感動させる演奏というものができるのです。
演奏活動している先生方にしても同じであるべきです。
完ぺきな演奏を望むとすれば練習時間がたっぷりある音大生の方がより完ぺきな演奏が出来るかもしれない。
しかし、人を感動させるものは見せかけの表現ではありません。
自分をひけらかすことでもないのです。音楽に仕える僕(しもべ)としての誠実さであります。
他人に対する安っぽい同情などくそくらえです。