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さて先ほどお話をしていた「音楽大学」ではなく、もう一つの大学である「教育大学」の方に話を 戻すとして、大学の方では、初任給ということではなく、前任者の引継ぎということで7年間の実績を頂いたのと、私の著作出版数が多いということで、文部省には「助教授のB」という査定で登録されることとなり、その為に非常勤講師でありながら、教授と同等の、非常に高額の給料をもらうことになりましたので(専任の教授のCランクを頂きました。)、そのため5年間もその大学に居続けることになりました。
そしてその大学に勤務中には、「創作音楽劇の作り方」とか「バイエル研究」など、色々な本を出版する下地をつくりました。
「創作音楽劇の作り方」の本が出版されると、大学の卒業生達が、就職している小学校や幼稚園などで実際にそのテキストを使って音楽劇を子供達と一緒に上演しました。










そこで実際に現場で働いている教え子達と、ディスカッションをしたり、あるいは上演に招待される機会も数多くもつことができました。又、卒業生たちは、都内や関東各都県に就職したので、その子達が各学校で若い先生方のリーダとなって、カリキュラムの立て方の実際や、教育、指導について研究をし、その結果出てきた諸問題を、私を招いて定期的に色々相談をするという会が出来上がりました。そして実際に見聞きした学校教育における色々な問題点は、新聞や本で語られている以上にもっと根深いものがあり、自分が大学で教鞭をとっていた時に危惧していたことが、実際にはよりもっと深い問題となっていたことをあらあためて知らされました。
学校の先生達のための教育相談は、私が大学をやめたあともしぱらくの間続けられました。しかし、教育界から身を引いて著作活動に専念したいという私個人の希望で、それも2年後位には完全に手を引いてしまう形となります。


「大学の生徒の個人教室の生徒の指導」

さて音楽教育の方に話しをもどすとして、その教育大学を教えていた時の生徒でピアノの生徒を70数名教えている学生がいて、在学中からもその生徒から「自分で教えられなくなった生徒を教えてくださいませんか。?」と頼まれていました。
「私は絶対子供は教えない主義なんだ。」と断り続けたにもかかわらず、その生徒は卒業後2年間も、めげずに私に説得し続けていたので、その熱意に負けて、またその学生の教室が大学から車で帰る道すがらの所にあるということもあって、「じゃあ、その為にわざわざ行くということでなくて、大学に通う途中で寄り道することで良ければ、ついでに寄ってレッスンをしてあげよう。」ということで、その学生の生徒を4名ほど教えることになりました。
ほんの2,3年でその4名の生徒達がみちがえるほど上手になりました。が、その時に、逆にその先生の兄弟や妹夫婦やお母さん達まで、「教え方が違うと、生徒の伸びがこんなに違うものかしらね。」とその先生が批判されるようになってしまったのです。そういうこともあって、その4人の生徒を教えることを4年間でやめることになります。


「教室開設の切っ掛け」

さて話しを先に進めることにしますと、教育大学に勤めた事で、現場の学校教育に触れる機会を数多く持つことができ、その結果として学校教育に対し、かなり批判的にならざるを得ませんでした。その頃はまだ登校拒否、いじめ、心身症などという言葉は口にされておらず、過保護などという言葉すら文献を調べても出ていない時代でしたが「多分これからは、5年ないしは10年後にそういうことが社会的に問題になってくるに違いない」という仮説を立てて論文を書いていました。私的な研究なので、それを大学等公的に発表することはまったくなかったのですが、その論文はかつての同級生であった大阪在住の友人の目にとまることとなったようです。私個人としては大学をやめて全く再就職をしないでフリーで著作活動に専念していた時でありますし、又教育関係の論文については誰にも見せたことが無いので、友人から「君の教育関係の論文を読ませてほしい。」と電話があった時にはまったくの驚きでした。東京の渋谷で友人と会うことになりました。彼は、大阪の教育委員会や文部省関係の仕事をしていることと、それから私が書いていた、いじめの問題、校内暴力の問題、その他危惧していた諸問題がすでに現実に新聞沙汰になりつつあるし、又それら諸問題に対しいかに対処すべきかということに対してなすすべを知らないということどもを滔々と述べて、教育こそが今日一番必要とされているものではなかろうか、ということを私に説き、私の教育論こそが現代の教育上の諸問題を解きうる最良の方法論だとした上で、その私の教育理論が論文だけであれば「『それはあまり
に夢物語りにしかすぎない』とか或いはrそういう教育は現実には有り得ない』とか『
机上の空論である』とか批判されるのが落ちであるから、是非それを実行し、証明してみせてほしい。そういう教育の現場を見ない限り、一般には理解されないのだから。」と、私に対して熱っぼく説得をしました。
彼の教育に対する情熱に私は心を動かされ、その一ヶ月後に千葉の花園教室をスタートすることにしました。

花園教室は、数人の弟子達と、毎週、夜遅くや時間が出来た時に車でかけつけて、手作りで半年もかけて教室づくりをしました。
つまり半年間は、殆ど生徒もいないままの材木だらけの教室だったわけです。
教室を開催した後も、教室自体は先生がたに任せて、私自身はその後2年程は(教室で実際に子供の指導にあたることはなく、)著作活動に専念しておりましたが、実際に教育というものは理論だけでなく身をもって指導しなければ各先生方につたわらない部分も多いということを痛感して、開設3年後から数名の生徒を私自身も教えることにしました。
その後は、教室で育った生徒が複数名 「そのまま私の教室に残って、先生として指導して行きたい。」という申し出があって、父兄の了解も得れたので、私の個人の教室であった「芦塚音楽研究室」を、「芦塚音楽研究所」と改名し「笈ー塚音楽研究所」として、現在に至っております。

そういったことから芦塚音楽教室の開設の切っ掛けとは、私個人の一つの教育の理想というものに対しての試みであり、実践の場であったわけです。

私自身が先生方に指導している研究室の内容は、音楽教育のみにかかわらず教育全般に渡っての膨大なものであり、これをある程度マスターする為には数年の勉強が必要となりますので、内容的なことの説明については又、次の機会にゆずって、私が 「音楽教室を作るにいたったまでの昔語」 を、ここまでで終わりにさせて頂きます。


1989年5月23日
江古田の寓居にて
一静庵座主芦塚陽二拝記