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それから、ある事情で急遽、日本に帰ることになった私は、飛行機の中でそのリンゴを大切に手に持って見つめていました。イタリアの天才少女と出会う機会を得たことが、子供の音楽教育に興味をいだきはじめたきっかけではないかとおもっています。
「帰国当初の子供との出会い」
日本に帰って、私は日本の音楽教育の最高の水準というものを知りたくなって、学生コンクールを聞きに行きました。コンクールに出た子供達に、「どの位練習するの?」と聞くと、どの子も「最低4,5時間はやっています。」と礼儀正しく答えていました。「小学校一年生の時から毎日4,5時間の練習を欠かさずして、この程度のレベルなのはなぜなのかな」と懐疑的になったりしたものです。
『私だったら、子供達が、そんなに一生懸命練習してくれるのなら、イタリアのRobertaちゃんよりも、もっと上手に演奏出来る様にしてあげられるのに!」と考え込んでしまいました。
帰国後私は、教育大学と音楽学校に(後は専門学校にも)勤めることになりました。
音楽学校では、子供科というのがあって、大変力を入れていたので、学院長から 「主任待遇の給料を払うから、子供科の中で色々難しい問題をかかえている子供達を預かってくれないか。」 という相談を受けました。
その子供達とは、ピアノに嫌気がさして練習を全くしてこない生徒や、1小節として同じテンポで弾けない生徒、家庭内の問題をかかえている子供、譜面の全く読めない子、等々、他の先生が扱いかねて、学院長に先生達から苦情が出ている子供達が大半でした。
主任待遇という甘言につられて二つ返事でひきうけた私は、最初の給料日に給料袋を手にして腰をぬかさんばかりに驚いてしまいます。「えっ!これだけ。!」こっそりと、主任の先生に給料を聞くと主任の先生より確かに3千円も給料が多かったのです。「だまされた、だまされた。」と言い続けながらその学校に一年間も通うこととなります。
なぜ子供達が伸びなやんでいるかということで、子供科のcurriculumを調べて見ると、スケールの試験や、バッハの試験、エチュードの試験、曲の試験と、殆ど一月に一回試験が行われている為に、先生達が試験に追われてしまい子供達の基礎をつくるゆとりがないということにまず気がつきました。
それで、批判を覚悟で子供達には試験の課題曲は、まったく練習させないで、基礎だけを教えることにしました。
ですから私の生徒は「試験会場で試験の課題曲すら知らない生徒がいたりする。」 ということが、半年に渡って続きました。
その為に試験の後の先生達の反省会の会議の度に 「芦塚先生はめちゃめちゃな指導をする。」ということで、先生達のやり玉にあがって、手厳しい批判を受ける事になりましたが、ひたすら、弁解もしないで、小さくなっていました。
しかし、私が指導し始めて、五ヶ月目の9月頃には、辛抱したかいがあって子供達にだいぶ基礎が身についてくるようになりました。
そしてちょうどその頃のことですが「先生、あと一週間で試験だよ。」「じゃあ適当に自分で課題曲の中から選んで弾けば。?」相変わらずそういう調子で試験を受けさせていたのですが、それでも私が教えていた生徒の半数以上までもが、それぞれの年齢での試験で、1位、2位の上位を独占するようになってしまいました。
その後では、その先生自分自身がその生徒を「自分達はこんな生徒を教えるのは嫌だ!」 と言って放出した生徒であるにもかかわらず、「芦塚先生だけが特別に学長から優秀な生徒をもらったんだ。」と周りの先生方とうわさをするようになってしまいました。
以前は、その先生自身が、彼女達を指導していたことすら覚えていませんでした。
それからしぱらくして、私が指導している大半の生徒達が、他の先生方の生徒から群を抜いてうまくなり始めたとき、学院長の先生がやって来て「他の先生方の生徒達とレベルの差がつきすぎると、学校としては、何かと問題がおこるので、他の先生と同じような教え方をしてほしい」 ということを相談されたので、「私の『問題児を何とかしてほしい』という役割は終わったと思うので、これで学校をやめさせてほしい。」 ということを申し出て、一年でその学校は、めでたくやめる事が出来ました。
「ヴァイオリンの子供達との出会い」
私がまだ音楽大学の学生の時に、音楽大学の受験生として教えていた生徒が、もう音大を卒業して、現場で生徒の指導をしていたのですが、その先生が、有名なバイオリンの先生の所から、二人の生徒がその先生の元ではコンクールに出しても、予選すら突破出来ず、「この子達は、コンクール向きの生徒ではないから。」という理由で、私の教え子の先生の所にまわされてきました。
父兄は、自分たちがその先生の元を放出されたと感じた両親とその二人の子供達は、「どうしてもコンクールに出場したいから」というので、私の教え子の先生から、私の所に相談があって、夏休みとか、色々な休みなどの時に、不定期ではありますが、その子達のレッスンをみることとなりました。
その子供達は、その年から、私がレッスンを始めて一年半位で学生コンクールの2,3位を、姉妹でとることが出来ました。
放出した有名な先生は、「え〜!、こんなに弾けるのなら、放出するのではなかったな!」と、残念がっていました。
「教育大学の講師として」
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