愚痴とぼやきとため息と
(Lisztの)
私はPianoを学び始めたのが非常に遅い。しかし、私自身が音楽を学びたかったのは、小学校の低学年の時からであった。映画の「この道」を見て、和波君のヴァイオリンを弾く姿に憧れたりした。小学5,6年生の時には、小学校の音楽の先生の所に「ピアノを教えてくれ。」とか言いに行って先生を困らせたりした。当時はグランド・ピアノはおろか、アップライト・ピアノですら、人口5万人の市に小学校と中学校等の体育館に1台ずつしかなかったのだよ。その音楽の先生が個人でピアノを持っていたかどうかは知らないが、音楽の授業でも、音楽室で先生がぶかぶかの足踏みオルガンで音楽の授業をしていた頃の話なのだから。
私の小年時代は江戸時代からそのままの本家のある祖母の家の諫早市で育った。
と言う事で、戦後の日本では音楽等を男子がやることは、許されない事が常識の時代であった。「音楽なんて川原乞食がやるもんだ。」それが九州の田舎の常識であった。当然、「私が音楽を勉強したい。」と、言い出したら、近親縁者も含めて「芦塚家の男の子が情けない。」と愁嘆場が展開したものである。
私の実父の原爆による死から、母親は私が物心ついた時から、疎開先の本家から長崎に働きに行って、長崎市に間借りをして住んでいた。
と言う事で、私は母親の元と祖母のもとを転々と住むことになる。
教育上の理由から、最終的には中学生になった時から、長崎の母親のもとで暮らすことになる。(その後、母親は再婚して養父のもとに行ったので、私が長崎で住んでいた部屋にはいなかったけれどね。)
当時非常に高価であったぶかぶか(足踏み)オルガン
長崎の県営のアパートで
不思議なことに兄貴は、中学生の時には、当時住んでいた長崎の県営アパートの近所のピアノの先生についてBeyerをぶかぶかオルガンで習っていたはずなのだが(勿論、あくまで長男の教養としてではあるが)、勿論、次男である私にはそういう贅沢は、ただの贅沢でしかなかったのだ。昔は、長男、長女と次男次女の差は大きかったのだよ。それに、養父も長男で母親も長女だったしね。
私がピアノを習うことを許されるのは、高校生の時に病気で入院して、腎臓を摘出する大手術をして、その後リハビリのために1年間の休学を余儀なくされて、その結果、周りの近親縁者が私の医学進学を周りが諦めてからである。
(私の年は浪人は例外の時期になる。私の大学受験の年に、に文部省の指導要領が全面改訂される事になって、それまで学んできたcurriculumが全く役に立たなくなってしまったのだ。
と言う事で、次の年からは、例外措置として、一浪生は、現役の受験生とは全く別の受験問題で入試を受けなければならなくなったのだ。
ということで、事実上医学部の進学は、(私にとっては有難い事に)望むと望まないと、にも拘らず、医学部の受験は諦めざるを得なかった。祖母は、音楽に進むという孫の希望を、「学者になる」と思い換える事によって、周りの中で一番最初に許してくれた。そして、祖先からの畑を1反売って、当時は天文学的に高価だったピアノを買ってくれた。それが現在、花園教室でレッスンで使用している黒のアップライト・ピアノである。そのピアノがいかに当時高価だったかは、ホームページに記載されているが象牙の鍵盤、レスローの弦、レンナー・アクション、宇和島の7回塗りと言えばその価値が分かる人には分かるだろう。
そういった経緯を経て、晴れて、周りの承諾を得てPianoを習うことが出来た分けだから、年齢的に言えば、18歳、他の生徒の高3の時の時にPianoを始めた事になる。
高校生という男子の一番情熱的な時期には、毎日Pianoの練習を12時間続けることが出来た。ということで、1年間でBeyerからCzernyの50番をクリヤーするまでなんとか、ひた向きさだけで、そのlevelに辿り着く事が出来た。
それは、ただの弁解で兎に角、私は指先が不器用である。まだ幼稚園の時代でも、周りの人が私の体が硬いのを呆れていた。しかし、小学校の時代、中高生になっても、それが私のコンプレックスを惹き起こす事はなかった。ただ、なんとなく自分は不器用なのだなと感じていただけである。不器用という事を本当に身を持って感じたのは、音楽大学に入学してからである。音大時代によく図書館を利用する人達だけで図書館の分類の作業を手伝った事があるが、他の先輩の諸氏が2回り目を分類している時に、私はまだ一巡目を終わりきれていない。周りの先輩諸氏が「芦塚さんって、本当はぶきっちょだったのね!?」と、つくづく驚き同情してくれたものだ。挙句の果てには、「ちょっと、どけて!」と仕事の邪魔になると追っ払われたものである。
高校生迄には感じた事がなかった「自分が不器用である」というコンプレックスが、大学生になってから以降は、色々な場面で自分を苦しませる事になる。そのコンプレックスが、後日、「時短のメトード」を作るきっかけとなるのだ。
しかし、「時短のメトード」は、あくまで仕事の効率を上げるメトードであり、指先を器用にするためのメトードではない。指先の器用さがある程度必要なピアノを幾ら練習しても、「指が回らない」というコンプレックスはその後も改善されることはなかった。
音楽の中で演奏家になるためには、フィギアー・スケートの浅田真央ちゃん達のようなアスリート達やクラシック・バレーを学ぶ生徒達同様に、「体を作っていかなければならない分野」を目標とするのであれば、やはり早期教育とは言わなくても、少なくとも小学校の低学年迄には、ある程度は勉強を始めておかなければならない教育の分野である。勿論、年齢だけではなく、指先の器用さやわらかさにも非常に大きな個人差が出て来る事も事実である。つまり、指先のストレッチでやわらかくなる範囲は、ストレッチをしていない人との比較は比べるべくもないが、同じ音楽家同士では如何ともしがたい個人差が出てしまう。
個人差については、こればっかりはどうしようもないことだから、ここでは述べない。
しかし、一旦大学に入学してからは、憧れの音大に入学できて安心したのか、それとも、音大生達のあまりの現実感の無さ(仕事としてのリアリティの無さ)に呆れてしまったのか、生来の(自分本来の)怠け癖に悩むことになる。
つまり、毎日規則正しく時計のように練習する事が出来ないのだよ。儒教的に自分の怠け癖を悩みコンプレックスを抱えて、自分自身をさいなみながら、青春をおくる事になる。
勤勉性は親が子供に身につけさせる事の出来る唯一の財産である。しかし、生きていく事、その日その日の食べ物を得る事が目的であった戦後の時代には親がそういった「生きるという事に直接関与しない分野の教育が出来る」 という事は余程運のよい家庭であったのだよ。
だから、人生の大半をもう過ごして来てしまった今現在でも、勤勉な弟子に対しては未だにコンプレックスを抱いてしまうのだな。
音楽大学時代から、自分なりに研究し始めた、自分の怠け癖を生かした、「怠け者の勉強法」を確立するのは30を過ぎてからである。(怠け癖を生かした・・・という事で、怠け癖を克服する・・・という事ではないよ。)そこが凄いんだなぁ〜!
「怠け者の話」はまた別の機会に譲ることとして、そういった分けで、私にとってPianoの演奏は得意とするところではなく、むしろ遅く始めた事に、コンプレックスを持っている分野であった。
時々、プロのピアニストである私の友人達に「芦塚さんって、よく聴くとPiano、上手いのよねぇ??」と、褒め言葉ともけなし言葉とも取れる、よく分からない評価を受ける事があった。
しかし、伴奏に関してだけは、ピアノの演奏とは別物らしく、私の音楽大学の学生時代から、私に「伴奏をしてもらいたい。」という学生が多かったので、(但し、試験の時だけ・・・)伴奏は上手かったのかもしれない。
30歳を過ぎて、就職した音大や自分のプライベートの生徒のピアノの指導をするようになって、生徒の前で模範演奏が出来るように、生徒に出した課題の曲だけはちゃんと事前に練習するようにした。特にドイツ留学から帰国してきて、Pianoをどなたかに師事をして学ぶ事がなくなってしまってからは、「自分に縛りを作らないと」 生来の怠け癖で、練習しなくなると思ったからである。
教室を立ち上げたりして、生徒数が増えてきてからは、生徒の曲を全て模範演奏するのは、技術的にも体力的にも、それにもまして時間的にも困難になってきた。
教室を作ったのは37歳の時で、私が指導し始めた頃にBeyerやBurgmullerのlevelで弟子になった生徒が、私の演奏上の技術levelを凌駕して、LisztやRakhmaninovの曲を弾き捲くるのには4年も掛からないからである。
それにも増して、半年毎に発表会で演奏される生徒の一人の持ち曲は、専科生では20数曲にもなる。
その生徒が10人も居れば、私が事前に準備しておかなければならない曲数は、優に200曲を超える事になる。
勿論、全ての曲を学習する必要はないので、その半分か、少なく見積もって4分の1としても、それでも50曲近くになる。それを毎週、毎日練習するのは(私は生徒を指導するのだけが商売ではないので、)不可能である。
それでも、レッスンの時に生徒の前で模範演奏はしなければならない、ということで、生徒のひっかかるpassageだけを抜き出し練習して、お茶を濁す事になる。
まあそれで、普段のレッスンは何とか持ち堪えた。
音楽教室を立ち上げた30代の後半から40代後半までは、生来のリューマチに耐えて、指をいたわりながら、何とかレッスンをやってきたのだが、50歳の時に、ついにストレスと慢性疲労という事で2ヶ月程入院する。それをきっかけとして、体調不良や心臓の手術とか何やらで、10年間以上全くPianoに触れる事が出来なくなってしまう。
勿論、生徒を指導する教育の現場からも、身を引いて、自宅での原稿書きをメインの仕事にすることになる。
現在、齢60代の後半を過ぎて、10数年のブランクを経て、再び自分の指回しのために、ピアノやヴァイオリンを再び練習するとなると、自分の体力や気力との勝負になってしまう。
しかしまあ、ヴァイオリンやチェロのレッスン等の弦楽器の場合には、私が育てたサブの先生達が代わりに代弾きしてくれるから何とかなる。
しかし、PianoやCembaloの楽器となると、代弾きをしてくれる先生達は結婚や子育てで、すっかり教室からは居なくなってしまったので、自分で演奏しなければならない。
病との10年間のブランクのために、その間の弟子の育成が出来なかったのだよ。私の指導したその間の年齢の生徒が抜け落ちてしまったということだ。
65歳を迎えて、体調を気にしながら、少しずつ現場に出てPianoの指導をしようと思ったのだが、全く指が動かないのだよね。指先の油も老人性のぱさぱさ、つるつるで、指が鍵盤を滑ってしまって、misstouchを連発する。抜き出し練習をしても、昔のようにすぐに表現出来るようにならない。気持ちと指が結びつかないのだよ!幾ら、歌いながら弾いても、指は別になってしまうのだな!?
私の弟子達でもう実際に生徒を指導している先生達が私のレッスンを聴講している。
基本、先生達の時間がある限り自分の生徒をone lessonで私にレッスンをしてもらうときは、当然として、それ以外の場合にも出来る限り聴講をするように進めている。
だから、自分の生徒が私に見てもらっているときには、先生が傍で聴講している。それなのに、その先生達が私の代わりにピアノを弾かないのだな、これが!!
「そこの所をちょっと弾いてあげて!」と言っても弾けないんだな・・・?というよりも、弾こうとしないんだな!
先生が生徒にピアノを弾いてコピーさせる教育はよくないという私の理論を局解して、(というか自分達に都合よく解釈して)生徒の曲を、練習しようとしないのだよ。
「人間、『昔は・・・』と言うようになったら、もう終わりだ!」とよく言うが、私が教室を立ち上げた時の生徒達は自分のlessonだけではなく、他の生徒の聴講も義務付けられていた。そしてその時に私から「そこをちょっと弾いて!」と言われると、すかさず弾いたものだ。今の子供達は学校や塾が(曰く、学校の勉強が)忙しいらしく、lessonにも急いで駆けつけるし、lessonが終わったら、挨拶もそこそこに教室を後にする。
先生とのcommunication等あったものではない。音楽の真髄の話などする時間すらないのだよ。そんなに急いで勉強をして、・・・それが、生徒本人に何のメリットをもたらすのかねぇ〜??
怠け者の先生と忙しすぎる生徒・・・、
ということで、失われてしまった体力と気力を振り絞って、生徒のために、自分自身でピアノが弾けるように予習をする。
体調不良で鬱が酷い時や、起きている事すら辛い時には、ピアノに向かおうとする気持ちを引き出すことすら、ちょっとした悲劇である。ましてや意識混濁や朦朧状態の時に「ピアノの練習をしなければならない。」 という事は、自分自身にトラウマを惹き起こす。そういった状態の中ではユンケルの瓶の蓋すら開けられないのだな。指先に力が入らないのだよ。元気ならば老人用の蓋開け器をシンクの引き出しの中から探し出す事も出来るのだが、それを探す元気がないから・・・と、堂々巡りのdilemmaに落ち込むのだな?
大きな「ため息」である。
と言う事で「愚痴」と「ぼやき」と「ため息」と・・・、となる。
Liszt 「ため息」
Lessonmanual
このmanualでは、生徒を指導をする場合に、実際に演奏して見せた方がよい箇所を中心にして、その留意点などの解説をする。
演奏をして見せる時には、その指導が初期の段階では分かりやすくパフォーマンスをよりオーバーにしなければならない。上級になるにしたがって、見かけのパフォーマンスは抑えて、実際の演奏に必要なmotion、というよりも必要最小限なmotionを表現するとよい。
この有名なLisztの「ため息」であるが、まず理論だけの指導ではなく、模範演奏をして生徒のimage作りを手助けしなければならないpassageは、冒頭のイントロの膨らましである。
その模範演奏のpointは3つある。
一つは全passageを支えるベースのDesの音の出し方で、「お尻のtouch」の指導である。一番冒頭の左手のDesのベース音は、その一つの音が8小節目までを支える。つまり、Desの音は毎回際立たせて弾くわけではない。冒頭の音がStollenの前半部の終わりのphraseまでを支えなければならない。これはimpressionの問題である。間違えた弾き方としては、最初の2小節の繰り返されるDesの音で膨らましを作る演奏家がいる。音の響きとして膨らまされるわけではなく、単音で強弱が繰り返されるのだから、しつこくてうるさい。華麗とは言い難い演奏である。
という分けで、arpeggioの膨らましのスタートはベースのDesの音を省いて、次のAsの音から始められる。
膨らましの前半の1小節のcrescendoはpedalの踏みっぱなしでよいのだが、後半の2小節目のdecrescendoではpedalをハーフーの踏み換えで何度も踏み変えなければならない。
しかし、小型のグランド・ピアノと大型のフルコンサートピアノでは響きの残量の関係でpedalの踏み換えの回数が異なって来るので、残念ながらpedalの踏み換えの位置を楽譜に正確に書き表すことは出来ない。
それは残響をしっかりと聞いてその音量と足のpedalingの感覚で覚えなければならないからである。
次に、イントロのfiguration・・というか、こういった割れない粒粒のrhythmを弾く時には、一般的にはベースの音と一番高い音だけを聴いて、後は指先でなんとなく音の響きを聞くだけで弾き捲くるという、無茶弾きをしている人が多い。(それは典型的な誤魔化し弾きである。)
armonicoなのだから、大きな和音の呻りの様に粒粒をよく聴いて、和音の響きが近づいて来て、また遠ざかって行く様に弾かなければならない。
私は子供にこの和音の弾き方を指導する時には、子供が粒粒をしっかりと意識出来るように、冒頭の7連音を「きれいなおとで、ピアノをひこう。」と言葉で言わせながら、弾かせている。
このStollenの間の繋ぎの「膨らまし」がもっと難しくなるのは、次の(5小節目)最初のStollenと次のStollenの間の間奏の1小節のpassageである。