この僅か1小節で膨らましを完結しなければならないのだが、1、2拍のcrescendoは兎も角も、3、4拍目の、このdecrescendoを表現するのは、音量のtouchのみならず、pedalingの技術的にも至難の業である。
先生としても、生徒にこのdecrescendoがはっきりと分かるように模範演奏するのは楽ではない。
8小節目はA,Aのphraseの終わりになるので、当然膨らましはない。静かに終わるのである。
9小節目から12小節目迄は、新しいStollenになる。
曲想も全く新しく、突然、(subitoで)激情的に演奏しなければならない。
と言う事で、ベースのCはしっかりとお尻のtouchで芯のある音で演奏されなければならない。
ここの4小節間のpassageはrubatoの原則が入ってくる。
当然9、10小節目が「急」で、11、12小節目がそのrubatoの返しの「緩」になる。
と言う事で、9小節目はsubitoで、激情的に演奏する。そのpassageの頂点は10小節目の3、4拍目のAs、Gesの音に来る。しかしそのsostenutoは、次に来る11小節目の「緩」のpassageの邪魔にならないように、sostenutoがrubatoのrit.の揺らしの範囲を超してはいけない。
(揺らしよりも遅いテンポになってはいけない。)
9小節目がdecrescendoで始まるのは、subitoのforteで激情的に9小節目が始められたから当然のdecrescendoである。
滑らかなdecrescendoに従って、音量を少し落としてから、(10小節目から)次の頂点のAsの音に向かってcrescendoを掛けて行くのだが、次の11小節目は、9小節目からのrubatoの収めのpassageになるので、10小節目のAs、Gesのsostenutoを、必要以上に、やりすぎてはいけない。繰り返し同じ事を注意するのは、逆にAs、Gesで流れを止めて、11小節目をあっさりとまとめて仕舞う演奏家が意外と多いからである。楽譜を注意してみても何処にもそのような演奏はLisztは求めていない。演奏家が作曲家の意図に沿わない表現を勝手してはいけない。
2小節間の爆発を僅か11小節目の1小節で収めをしなければならないので、11小節目の1、2拍の膨らましは、後半の3,4拍目の収めのpassageのためと共にとても大切な要素になる。この揺らしは言葉で説明するよりも、ピアノで演奏して教えるほうが分かりやすい。
溜めのpoco rit.の後のa tempo(12小節目)は次のStollenの前奏(イントロ)にもなっているので、当然膨らましが入ってくる。
13小節目から17小節目までは18小節目のkleinigkeitを除いて全く同じmelodieである。
ただmelodieが3連音になったに過ぎない。
melodieをつかさどる3連音のoctaveはaccent気味のstaccatoとして演奏されていることが多い。
しかし、このpassageはmezzostaccatoで、しかもsempre dolce graziosoで演奏しなければならないのである。(少なくともLisztはそう書いている。)
と言う事で、このmezzostaccatoはportatoで後半のoctaveは手首の抜きで、透徹した早いtouchのpianissimoとして演奏しなければならない。
手首のしなやかな動きの見せ所である。
しかし、残念な事に、その3連音は、実際には乱暴に(Lisztの指示を無視して)forteでしかも、accent気味に演奏されることが多い。
Mezzostaccatoとして書かれているのにもかかわらず、あたかもaccent staccatissimoのように乱暴に演奏される。悩ましい「ため息」ではなくって、現代風の「切れまくった」演奏である。勿論、原因は「portato奏法のtouchと、staccatoをしながら手首を抜く。」というピアノの奏法を知らないという事がその原因である。
しかし、現実的に見ると、まあ、このpassageの問題点は、portamentoの手首の抜きの奏法のような高度なlevelの話ではない。
むしろ、低次元の単なる技術的な問題に殆どの人が引っかかってしまっている。
殆どの人がこの3連音を早く16分音符のように弾いてしまっている。
手の移動が怖いからである。