61小節目の4拍目の右手はmelodieのFの音が、和音の中に隠れてしまっている。
印のように和音の中のF→Esと浮かび上がらせて演奏しなければならない。右手和音のGes,C,Asの和音がmelodieのFを邪魔することがあってはならないのである。
しかも、62小節目の丸で囲った場所のように、あるべきDesの終止音がなく、その余韻を残したままトリスタン・コードを思わせるfinaleのpassageに入っていく。なんともおしゃれで天才的な、或いは悪魔的とも言えるLisztの作曲技法を垣間見る事が出来る。
62小節目から始まったfinaleのpassageは、68小節目から70小節目に向かってpoco a poco rallentandoでだんだん幅広くしていく。
70小節目ではarpeggioの中にthemaが隠されているのだが、melodieを浮かび上がらせるために、arpeggioのbeatが不自然になったり、arpeggioのbeatを丁寧に出そうとして、melodieの流れがなくなってしまう、という難しさがある。
arpeggioのbeatの粒粒をしっかりと出してしかもmelodieが歌うように弾くのは理屈ではなく演奏の技術である。
70小節目の左手のベース音はT度、Y度、W度の3度サークルである。(青鉛筆で印をしている。)
71小節目の裏からは突然melodieが3octaveになるのだが、70小節目から単音で持って来たmelodieの音の比重が突然変わってはいけない。
つまり、71小節目の2拍目の裏からも左手のmelodieのラインと比重を崩さないで右手のoctaveは影の裏melodieとして弾かなければならない。
75小節目(終わりから3小節目)の4拍目でpedalの踏み替えをする時に、四分音符が単音としてだけが残らないように、finger pedalを使用して和音の量感を保持すること。
76小節目の4拍目も同様である。
後書きにかえて
音楽を指導する先生達の多くはピアノを演奏して、それを生徒に真似をさせてレッスンをする先生が多い。生徒は必然的に先生のコピーの演奏しか出来なくなる。
日本人の留学生の指導をされた外国のピアノの先生達がいつも言うことであるが、「日本人はその生徒がどの大学を出ていようが、どの先生に師事していようが、全く同じ音(音色)で同じ解釈で、同じように弾く。」と感想をもらす。
つまりピアノを弾く生徒の個性はおろか、先生の違いすらないのだ。それほど日本人の演奏は画一的で面白くない。というよりも、日本人の音楽大学の先生達は個性的である事を忌み嫌う。
「個性的に演奏すると言う事は100年早いのよ!」「まず基礎をちゃんとやってからでしょう!」
しかし、歴史に名を残す名ピアニストであればあるほど、基礎の無さに嘆くものである。ハッ、ハッ、ハッ!
私が言っている個性とは、自分勝手な演奏を意味するのではない。
私は全ての生徒に同じtouchの仕方、同じ曲の分析、同じ歌い回しを指導する。
しかし、私の弟子の演奏を聴いた人は全てが別の先生に師事している生徒のように、独自の演奏に聞こえるという。守らなければならない原則論をちゃんと守れば、後は自分の感じるままを演奏すればよいのだからである。
そこがコピーと理論の違いである。
私の場合には生徒が先生のコピーとなる事を避けるためと、理論として音楽を理解させるために、生徒が成長するにしたがって、演奏して指導するのを少なくする。猿真似を防ぐためである。
しかし、それが指導を学ぶ先生が生徒に指導する曲を演奏出来なくてもよいという意味ではない。
事前に生徒の曲を予習してくる事無しに、生徒の前で何度もピアノを弾きなおしてその場で練習している先生もいるが、それは先生としては最低の先生である。
生徒の信頼をなくすだけでなく、父兄の信頼も失ってしまう。
生徒の曲を決めた段階で指導する先生はちゃんと生徒の曲を演奏出来るようにしなければならない。
私はone lessonで生徒を見るわけなので、「私が指導する生徒の曲を事前に知らせて欲しい。」と常に言っている。
また、その楽譜を必ず事前に準備して、私が予習できるようにと、いつも言っている。
私の生徒ではないわけなので、曲決めも私がするわけではないし、私自身が事前にその曲を練習している分けでも、準備出来ている分けではないからである。
それなのに、one lessonの時に、始めて楽譜を見せられたり、果てはその楽譜すら準備出来てないことすらある。
私自身はそういった、場当たりのレッスンをすることはない。
生徒に曲を渡す時から、曲を熟考して、研究してから選曲をする。場当たりの思いつきで選曲をする事は、私のポリシーがそれを許さないからである。私はそれを自分の恥と思っている。
そのポリシーが分からないと、生徒に対しての誠実なレッスンは出来ない。