Vivaldi violin concerto  L,Estro Armonico Op.3Nr.6 a moll 

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まえがき

ritornello形式について

tuttiの部分の比較譜

soloの部分の比較譜

出版社について
改訂版芦塚version制作にあたって

Cembaloについて

baroque時代のorchestraの並び方と演奏者の人数

この曲を演奏するのに必要な最低人数

VivaldiのLebenslauf(生涯)




まえがき

「日本のVivaldiに対してのimageについて」

日本では,とある大手のviolin教室のviolinのthirdpositionのgradeの導入の教材として取り入れられたために、このVivaldiの著名な曲は、その大手の音楽教室の教材として、だけではなく、他のviolin教則本の教材にも、このVivaldiのviolinconcertoのOp.VNr6のa mollのこの曲が、広く.初心者用の教育教材として使われるようになったために、すっかり、日本の音楽愛好家(Libhaber好事家、音楽愛好家)にとっては、この曲のimageが、violinのお稽古を始めたばかりの初心者の子供達の弾く子供用の曲として、曲のimageが定着してしまいました。

Vivaldiのこの曲は、一般の音楽教室の発表会等で、母親、父親や、祖母、祖父達が、自分の家族である子供・・・・つまり、頑是無い幼い子供が、拙い手で、一生懸命、キー、キーと演奏している姿を見て、その懸命さ、一途さに、子供可愛さ、孫可愛さに、堪らなくなって、涙している光景を、よく目にする事があります。
この曲を演奏するという事が、近親演者達をそれだけ感動させるという事は、この曲の位置付けが、子供達がviolinを勉強し始めて、始めの本格的な大曲であり、concertoだという価値なのでしょうね。
「凄い!こんな曲が弾けるようになったんだ!??」との子供への成長に対しての、驚きと感動なのですよ。

発表会についての注意は、よく子供達や父兄に対してお話をする事があります。
発表会での子供達への評価は、
「子供達がその曲をどれだけ、より完全に仕上げたのか?」という事ではなく、寧ろ、子供の成長への感動であり、評価なので、それは「音楽そのものへの評価にはならない」という事なのです。

私自身は、その感涙をしているジジババ(所謂、祖母祖父)の世代に属するのか、それよりも更に上の世代に属する分けなのだが、私にとっては、私自身に子供や孫がいるわけではないので、子供が幾ら、一生懸命に、ひたむきに一途に練習して、その成果を演奏していたとしても、その事自体に対するsymbthyはないので、その事で感動する事はあまりありません。

この曲を演奏する幼い子供達を見て、少なからぬ感動を覚えるとしたら、それは、ジジババが、自分の孫に対して感動をするとか、親が、幼い子供がひたむきさに何かに向かっている姿に対して覚える感動であって、子供の演奏する音楽そのものに対しての感動では無い・・という事なのである。(つまり、子供達の演奏そのものを聞いて・・・という意味ではない・・・という事なのだよ!!)

つまり、音楽の教育者である前に、音楽家としての立場のある私達にとっては、・・・若し、子供が一づな努力やひたむきさを見せたとしても、その姿が、間違えた奏法で、間違えた音楽の解釈で演奏するのなら、幾ら幼い子供達が、幾らひたむきに一途に演奏していたとしても、その子供の身内の爺婆でない私達にとっては、子供達の姿を見て、可愛いとは思ったとしても、子供の演奏するその音楽そのものに対して感動を抱く事はないのだ。

親や肉親縁者という立場の評価ではなく、真摯に芸術を追求するという姿勢そのものの、「幼い子供達のひたむきな努力」という事だけに言及するとすれば、劇団東俳で舞台のための練習を見ると良いのです。
よくNHKや民放で、そういった演劇集団やアスリートの子供達の成長・・、つまり、研鑽を積んで行く子供達の姿をドキュメントしている。そういった場所では、それが3歳の子供であろうと、就学前の5歳の子供であろうと、容赦はありません。
全く大人の俳優と同じ・・・否、それ以上に完璧を求めて、厳しい揺るぎない指導がなされています。

文科省の指導の元に、学校等で、よく催ようされるように、子供達は、大人とは違って大人のやる事は出来ないという前提の元に、子供が出来る可能性のある事だけを抽出して、子供向けにarrangeされた、体験学習のための大人社会のように、あたかも学校教育の現場でしか見る事の出来ない教育楽器や簡易楽器のように、cheapで子供達を小馬鹿にした教育はないのだよ。
子供の音楽教育や合唱の部活のような、或いは、絵画の学習のように、本当の一般的な社会的な現場とは掛け離れた教育は、日本の教育だけに見られる日本人の持つ甘えの姿なのだ。


現役で俳優をやっている大人達が劇団東俳で勉強、研鑽をしている就学年次未満の子供達の姿を、テレビのドキュメントとして見て、「俺、ここで勉強するのは無理みたい!!」と震え上がっていたよ。

学校教育のように、頭から
「所詮は、子供であるから・・」と、(よく言えば、甘やかした・・) (悪く言えば、子供を「子供だから出来なくて当たり前!!」と、「子供を最初から小馬鹿にした・・」教育ではなく、子供の内から、大人と(プロとして)対等に、指導し教育するのは、私も全く同感であり、その中でひたむきに頑張っている子供達の姿を見ると、本当に素直に、感動を覚える。
その感動は、ジジババのそれとは違って、そういった教育の中では、頑是無い子供達であったとしても、本当のプロを求めての姿であるからだ。

でも、もし、親達が、自分の子供にそういった教育を望むとして、そういった子供達を見る事、或いはそういった教育の場所は、そんなに珍しいことではないのだよ。

プロを目指す子供達を見たいと思うのなら、ありとあらゆるgenreのathlete達を見るとよい。
浅田真央ちゃん達のようなアスリート達の幼年時代は、学校教育の現場と、自分の目標への努力の対立の狭間、周囲の無理解で、皆一様に苦しんで来ているのだ。

音楽でも、小学生の低学年から、学生コンクールに参加している子供達は、非常に多い。
しかし、それが子供達を育成して行くのではなく、ホンのひと握りの成功者を除いたら、殆どの子供達を挫折させてしまう日本のコンクールの在り方には賛同出来ない。

コンクールに限らず、日本の教育は、儒教時代の科挙の制度のままであり、競争社会そのものである。
子供を平等に競争させるには、共通の土台に乗せる事が大切である。
そのために、学校教育では、人と違う勉強をする事を極端に忌み嫌う。
教育者が指導、判断の対象にならないからである。
そして、何が何でも、文部省が指定した教育の道筋に生徒達を押し込めようとする。
子供達の夢に向かって、その夢を叶えられるように、協力をするのではなく、学校が線を引いた将来の路線に何が何でも、詰め込もうとするのだ。
何時から、学校教育は子供達の夢に向かう姿勢を、back・upするのではなく、否定するようになって来たのだろうか??
少なくとも、私達が未だ、子供であった時代は、学校も、学校の先生達も、私達の将来の夢をback・upしてくれた、と思えるのだが・・・・???
実際には、音楽に無理解な学年主任の先生を、担任の先生と音楽の先生が無視をして、勝手にやるようにadviceされただけで、backupしてくれた分けではないのだが、それでも、違った道に進む事を許してくれたし、認めてくれたのだよな。
我々にはそれで、充分だったのだが、今の学校ではそれも許されないのだよな。
音楽に進もうと思った子供達には、先ず最初に学校が立ちふさがるのだよ。

学校教育においては、その前提として、「子供は子供に過ぎなく、大人の仕事は、絶対に出来ない」という想定で、その教育が組み立てられている。
だから、体験学習でも、汚い所や、危ない所は、全く省いて、周りの大人達に認めて貰える所だけを学ぶ。
つまり、美味しい所取りのお客様用の体験学習である。

音楽大学を卒業して、大手の企業の音楽教室に就職した若い先生が、大手の音楽教室で、発表会等の雑用を、会社のスタッフがやってくれるのを、
「さすがは、大手の音楽教室は先生を大切にして、雑用をさせないのだから良いわ!!」と感心している。
個人の音楽教室の発表会にも、楽器店等が協賛をして、発表会の雑用のお手伝いをしてくれる。

でも、企業サイドの考え方や、楽器店の、本当の本音は違う。
雑用を指導する先生にさせない事で、その先生が独立出来ないように、するのだよ。
今の、ママ達や、パパ達が子供達の社会人になるための、体験を全くさせないようにする事も同じなのだな。
それで、
「子供が引き籠もりになって・・・」とか、「いつまでもニートで・・・・」と悩まれてもねぇ??

結構、そういう親達は、一途に一芸を求めているathlete達や、劇団系の子供達や、音楽に邁進している子供達を哀れみの目で見る。
「親の見栄のために子供をぎせいにして・・」という。
しかし、もしそれが本当に親の見栄であったとしても、子供に
「手に職」は残るのだよ。
NHKで、60歳を過ぎた年齢の引き籠もりを取材していた時に、その両親が役所の人達に対して、
「子供をこういう風に育てたのは親の責任だから、私達が最後迄、面倒をちゃんと見ていかないと・・」と言っていたのだけど、「おいおい、あんた達が先に死ぬんだよ。その後は誰が面倒を見るんだよ??」と絶句してしまったね。
この期に及んでも、自分の事しか考えないのかね???

教室でも、教室の行事としての発表会とは、全く違ったスタンスで、子供達に夢の現実化としての教育の現場として、音楽を真摯に捉えて、ひたむきにアプローチする子供達のために、対外出演を企画している。

その姿勢は、子供を子供として教育するのではなく、一人前のプロを育てる教育とは、どんなものか?という事を、子供達本人や、保護者に対して体験させるために、企画したのだよ。

しかし、発表会と対外出演は、客層が全く違うという事が、中々、一般の人達には理解しては貰えない!!
発表会は、根本的には、
「生徒の身内が観客である。」という事で、失敗等もすこぶる好意的に解釈して貰える。

八千代のコンサートは市の企画である。

だから、少しは子供達や生涯学習としての教育の現場の立場もあって、教室に対してもかなり好意的である。
マスコミの子供達への対応とは、根本的に違うのだよ。

それでも、聴衆は、一般の子供達とは無関係の人達が多い。
幾ら、主催者が教室の子供達に好意的であったとしても、当然、
「出来てなんぼの世界」である事は変わらないのだよ。
ましてや、大崎は完全なマスコミの企画である。
考え方も営業本位のものだ。
そこには、
「子供だから・・!」という甘えは、絶対に存在しない。

そういった、学校教育の延長線上であるお稽古事の音楽と、仕事としての音楽の違い、社会で仕事として捉えた場合の勉強の厳しさを学んで欲しかったのだが、結果は、すこぶる、残念な限りである。

将来的に、音楽に進むという事ではなかったとしても、将来は大人になって働かなければならないのだから、甘ったれたニートや引き籠もりにならないためにも、私としては、社会の厳しさを子供の内から学んでおく事は、絶対に必要な事だと思ったのだがね。

それに、対外出演の難しさは、大人の社会では、子供が仕事として、参入出来る機会は非常に希なのだよ。

そこも、文科省主催の体験学習的な簡易versionの大人社会とは全く違う。
子供達に対しても、姿勢や厳しさが全く違って、別物と言っていいのだよ。
極々、稀に、大崎や八千代のように、子供を参加させてもよい、という所があるのだが、必ず付いてくる条件がある。

それは、
「大人と対等に、プロとして、やれるのなら・・・」という条件である。
だから、Niveau(水準)が保てなければ、そこで演奏する事は許されないのだよ。

それが、プロになるための学習なのだから。
文科省の体験学習的な教育の現場には、そういったNiveauはないのだよ。
そこで、子供達が学んで制作したものは、あくまでも子供達の持ち帰りの記念品であり、実際に売れるものでは無いからだ。
そこが、浅田真央ちゃん達が勉強しているプロの世界との大きな違いになるのだよ。




つまり日本の音楽教育でも、所詮は「子供達は、プロの人達と同じsystemでは教育は出来ない」という前提に立っているからなのだよ。

教育の最高学府と言われている音楽大学でも、プロになる事を前提として教育している分けではない。

私が有名な音楽大学の院生に、コンサートやコンクールの話をする時に、
「あなたは音楽大学で、職業の訓練として音楽の勉強をしているのでしょう??」と訊ねたら、「え〜っ??音楽が職業であると先生から習った事は一度もありませんでした!!」という驚きが返って来た!
生活を伴わない、芸術のための芸術ということなのだが、これ程、独りよがりで、自惚れの強いものはない。
academismの権化という事が出来る。

私も、ついつい、
「音楽の勉強の目的が職業として・・・でないとしたら、音楽学校で君は、何を目的に何を習っているの??」と思わず聞き返してしまいました。
兎に角、音大生には、生活感がないのですよ。
演奏出来れば、演奏の場所さえあれば、それで良いのです。
確かに、その言葉だけを取ると、私達もそうなのです。
でも、それは生活出来てからの話ですよね。
じゃあ、何で、生活を立てるというの??
それに応えてくれる日本人の音楽家はいません。
日本人の音楽家達は、音楽を演奏することに対しても、指導する事に対しても、金持ちの道楽に過ぎなくって、生活感がないのですよ。
ここまでのお話は、学生の勉強する側のお話ですが、これは指導する側にも大きな責任があります。
指導する側が、芸術至上主義で、仕事としての意識が全くないのです。
99.9999%まで、solisteとしては、その能力がないのに、その生徒達が生きて行く術を教えないのです。
それは、不思議な事です。


「この話とVivaldiのviolinconcertoのa mollとどういう風に結びつくのか??」って??

小学校や中学校等の学校教育では当然なのでしょうが、職業学校であるべき音楽大学でもプロの世界とはかけ離れた、教育のための教育が行われているのですよ。

最初から、プロになるのを前提とした、プロになるためのcurriculumとして、プロになるための教育を受ける分けではない。
それがこの哀れな教育のための、Vivaldiのa mollなのですよ。

という事で、この哀れなVivaldiの名曲を、本来のVivaldiのstyleに戻して、私達の教室のVivaldiーmethodeのcurriculumの必須教材として導入するにあたって、教室の周りの先生達から猛反対された経緯があるのですよ。

つまり、日本人の音楽家にとっては、子供達が弾くVivaldi教材の課題では、子供達の演奏するviolinの音、所謂、ノコギリの目立てのキーキーという音が耐えられないということなのだな・・・??

ヨーロッパでは、よく初心者のviolinの音の事を猫の髭を擦る音と表現する。
猫の驚きとその悲鳴が聞こえてくるようだ!!
と言う事は、ヨーロッパでも、事violinに関しては、初心者のviolinの音は聞くに耐え得ないものとして捉えられている。

ギャァ〜!!ぎゃあ〜あ〜あ〜あ〜あ〜!!  \(◎o◎)/!

日本ではヽそれに対して一般的には 
 (`Д´)ノ キー!キー!とノコギリの目立ての音と例えられる。

いずれにしても、violinを学ぶ初心者の奏く音は、お義理にでも、美しいという表現はなく、聞くに堪えない音、というのが一般論なのですよね!

よく一般的には、近所の先生の所で、音楽の初歩を勉強して、もしも才能があるようだったら、その時に音大の先生等を探して師事する・・という事が言われていますよね。

でも、それは大きな間違いです。
初心100まで、で、初歩の段階で間違えた癖がついてしまうと、それこそ、二度とその癖が抜けなくなってしまうのです。
もし、音楽に興味を持って、音楽に進もうと思っても、間違えた癖がついていては、そこでprofessionalの道に進めることはありません。
一生を趣味のままで良いということなら、それでも良いのでしょうが、子供が音楽が好きなら、音楽に進ませても良いというきもちが100分の1でもあるのなら、最初からちゃんとした先生の下で音楽の勉強を始めた方が、お金も無駄にはなりません。

教室では、子供達が色々な楽器を複数にまたがって勉強していますが、そこで非常に面白い、悲劇があります。
Pianoの生徒等がKontrabassでオケに参加をしていますが、初歩の段階から、後輩達の練習やlessonを見ているので、一度も習った事のないviolin等も結構中級クラスの曲を初見でサラサラ演奏します。

教室の先生、所謂、インストラクターになりたい生徒はPianoから始まって、Kontrabassに至る迄の全ての楽器を演奏出来なければなりません。
演奏出来る・・・という意味は、発表会や対外出演、営業活動の時に演奏出来る水準であるという意味です。

所がですよ!??
・・・・ところが困った事に、他の教室で既に5年、10年と習って来た楽器は、教室で学び直したとしても、全く上手くならないのですよ。

Pianoを10年以上勉強した生徒が、全くPianoを弾いた経験のない生徒に一瞬で、追い抜かれて行くのです。
それは、悲惨です。
だから、教室では、
「この楽器は他所で習っていたから・・」という言葉は、「全く弾けない」という事を意味するのです。

中村紘子さんも、コンクールに一位で入賞して、
「いざ、演奏活動をしよう」としたら、日本流の悪い弾き方を外国の超、一流の演奏家に指摘されて、反省して、1から勉強し直すために、アメリカのジュリアード音楽院に再入学しました。

でも、結局、Pianoを弾く上での根本である、手を脱力して構えるという事が出来なくって、手に力が入ってしまう・・という悪い癖は、取れなかったのですよ。
そういう、中村さんの苦労話を知らなかったので、NHKのPianoのお稽古を中村紘子さんがやるという話を聞いた時には、彼女の悪い癖ばかり印象にあって、その彼女が子供達を指導するという事で、
「こりゃあ、てえへんだ!!」と驚きました。

でも、或時、人に勧められて、嫌々ながら、NHKの「Pianoのお稽古」のテレビを見たのよね。
それで驚いたのは、中村さんはともかくも、生徒達はチャンとまともな手の形で演奏していたのですよ!!
「私は小さな子供の時から、変な癖がついてしまって、どんなに努力しても、この手の形は治らなかったのよね。」「あなたは、変な間違えた癖がつかないように気をつけてね!」と話ながら、指導していました。
その姿には、謙虚さが見えて、とても感服しました。
徹子の部屋でも、同じ話を黒柳さんにしていたのは、とても印象的でした。

私が音楽大学で4年間生徒を指導しても、間違えて身に付いた癖を正すのに、4年間を費やしてしまいます。
生徒達が音楽大学に入る迄に、勉強して来た年数と、同じ年数が、幾ら頑張って、自分の癖を、勉強し直して取り除こうとしても、その修正に掛かる年数は、Pianoを学び始めた年数と全く同じ年数が掛かるのですよ。

それなら、全く習っていないサラの生徒を教えた方が、間違えた癖がない分、生徒の伸びは早いのですよ。

つまり、幾ら音楽大学で、選び抜かれた生徒達を厳しく指導したとしても、全くやる気のない近所の子供達を指導した方が、プロに近い教育が出来るのです。
ハッ、ハッ、ハッ!

という事で、早々と音楽大学のような学校を辞して、私が30代の後半に差し掛かって、自分の教室を開設したばかりの頃、未だviolinの上級者のPiano伴奏が出来る先生や生徒が育成出来ていなかったので、止むなくプロのピアニスト(ピアニストというのは、男性系なので、その人は女性なので、ピアニスティンと言わなければならないのですが・・・)を、先生達や上級者の伴奏に雇った。
勿論、その頃は未だ私もリュウマチが、未だそんなに酷くは無かったので、上級生classの伴奏は私も率先してやっていたのですが、何せ人数が人数なので、キャパがね・・・・!
或程度は、分担しないとね。

violinやcelloの初心者の伴奏は、もう同じ楽器を勉強している上級生が、副科Pianoとして、伴奏の勉強をするので、(・・・・とは言っても、教室を作ったばかりなので、上級生とは言っても、未だ、小学3,4年生ぐらいの生徒達) で・・、経験も技術も足りなかったので、初歩のlevelの生徒や中級迄の生徒達の伴奏を分担して、担当させたのだよ。

友人はプロなので、上級生の伴奏を2,3曲お願いしただけだから、当然、
「午後から、来てくれれば良い」と、言っていたのだが、音大生とは違って、プロは、意識が基本的に違っていて、発表会の最初からチャンと、会場の隅で、スタンバっているのだよね。
そこの所は、プロはプロで、amateurとは何かが、チョッと違う!!

で、彼女が後日曰く、
「violinは上級生になると、何とか聞けるけれど、初心者の弦楽器は堪らないのよね。だから、その時間、どうしようか??と悩んでいたのよ。でも、ここの教室の生徒達は、小さな子供達でも、音がとても綺麗で、ビックリしたわ!!どうしてなの??」と、質問をされた。
彼女は、伴奏ピアニストも仕事として、やっているので、或程度はviolin等も弾けるので、少し詳し目に答えて、
「楽器の持ち方、構え方、弓の持ち方、等々あるけれども、そういった事はさておいて、根本的には、最初からプロの弾き方を指導するのだよ!」と言ったら、「ホントにそうよね!!」と自答していた。

「子供だから、子供として指導する」 「子供だから出来なくて当たり前だから、子供versionで指導しなければならない。」と言う人達は、実際には、所詮、大人に対しても、チャンとした指導が出来る分けではない。

子供に出来ない物を、大人に出来る分けがないからだ。

子供の教育教材用に歪められた音楽、哀号、可哀想なVivaldiのa moll・・・!!!!

そういった、Vivaldiの曲の誤ったimageを払拭するために、baroqueの優れた演奏団体の演奏を繰り返し聴かせる事で、やっと日本人の持つVivaldiのa mollに対する誤解された曲のimageを何とか、払拭し、正す事が出来て、教室のcurriculumに持って来る事が出来た。

教室を作ったばかりの頃は、前述の私の友人の女性の他にも、CD等を多数出しているプロのピアニストにも、発表会の手伝いを頼んだ。

その人も、彼女と全く同じ様に、
「violinの発表会では上級者の演奏は兎も角としても、初心者の演奏を聞かされるのは堪らない!どうやって逃げようか??」と彼女と全く同じ様に悩んでいた、・・・という事を聞かされた。
私達の教室の初心者の演奏を聞いた後の感想も、全く彼女と同じで、
「どうして、小さい子供や初心者の音が、こんなにも綺麗なのかしら??」と驚いていた。
「勿論、弓の持ち方等のmethodeの問題もあるけれど、それ以上に子供に汚い音を出さないように、violinを持たせたその日に、美しい音と嫌な汚い音の違いを指導するからなのだよ。」と説明したら、彼女と同じように、全く、分かったような、分からないような、反応だった。
この話を繰り返したのは、それ以降も、同じような話が、度々あったからだ。



日本人の持つviolinの初心者の出す音に対しての偏見は、・・・・というか、音楽を愛する人達に嫌悪感を与えた、その日本独自のVivaldiの奏法は、弓の持ち方や、弓の「彈き止め」のtechnicに対しての誤った知識(認識??)による間違った奏法によってもたらされた
「これが初心者のviolinの音だ!!」と思い込まれている、汚い音によってimageづけられた演奏によるものである。参照:2013年の冬の合宿のbowの講座

伝統的な物が常に正しいとは限らない。
必要悪というものもある。

人が勘違いをしている事は、
「歴史は常に進歩していくものだ」、という誤った考え方にある。音楽においても然りで、音楽が限られた王侯貴族や教会の司祭達のものであった時代から、民衆、大衆のものになった時点で、音楽の大衆化や、より多くの聴衆にアピールさせるために、violinやPiano等も、より大きな音量を出せるように、改修された。

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